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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「下谷坂本の富士塚」(国指定 重要有形民俗文化財)

「小野照崎神社」

 画像は、台東区下谷2丁目にある「小野照崎神社」を南西から見たところです。この神社の境内には「下谷坂本の富士塚」が保存されており、社寺と塚が台東区の遺跡番号49番の遺跡として登録されています。
 

「下谷坂本の富士塚」(国指定 重要有形民俗文化財)
 
 鳥居龍蔵氏は著書『上代の東京と其周圍』の中で、この小野照崎神社付近は古墳群の跡であり、残されている土墳は矢張り古墳の一例であると紹介しています。富士塚の中にはすでに存在した古墳や塚を流用して造られたものが数多く存在するといわれていますが、この「下谷坂本の富士塚」も古墳の可能性があるのでしょうか。

 画像は、「下谷坂本の富士塚」を西から見たところです。この富士塚について、現地に立てられている説明板には次のように書かれています。


下谷坂本の富士塚
           台東区下谷二丁目十三番十四号
 この塚は模造の富士山で、文政十一年(一八二八)の
築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下
谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。
境内の「富士山建設之誌碑」によると、坂本の住人で
東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂
屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧
請したという。
 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富
士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常
に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこち
で結成された。それにともない、模造富士も多数築か
れ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至
った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
 ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メー
トル。塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損
しているものの、原形がよく保存されている。原形保
存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重
である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民
俗文化財に指定された。
 平成六年三月
               台東区教育委員会


「下谷坂本の富士塚」(国指定 重要有形民俗文化財)

 この「小野照崎神社」には、俳優の渥美清氏がまだ駆け出しだった頃、「タバコを一生吸いませんので仕事をください」と願掛けをしたところ、その直後に映画『男はつらいよ』の主役に抜擢されたのだそうで、その後、渥美氏は死ぬまでタバコを吸わなかったのだそうです。現在でもこの御利益にあやかろうと、若手の芸人さんが数多く参拝に訪れているそうです。訪れた時も多くの参拝客が列を作っていました。


「小野照崎神社の庚申塚」

 境内には「庚申塚」が保存されています。古くから有名な塚であるそうで、正保二年(1645)作の庚申塔の他、10基の塔が合祀されています。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版

  1. 2014/01/28(火) 01:02:15|
  2. 台東区/その他の古墳・塚
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「釆女塚」

「釆女塚」

 画像は、台東区清川1丁目の出山寺境内にある「釆女塚」を東から見たところです。
 
 鳥居龍蔵氏は『上代の東京と其周圍』の中でこの「釆女塚」を取り上げています。釆女塚のすぐ北東には「妙亀尼塚」があり、鏡ヶ池(この出山寺のある橋場一丁目の北部辺りにあったといわれる)を挟んで一方にこの「釆女塚」があることから、周辺には古墳群があったのではないかとしていますが(鏡ヶ池の周圍には他に首塚(蛇塚)という塚も存在していたそうです)、ほとんどは開発のために消滅しており、残念ながら塚の性格を知ることは出来ません。

 境内には台東区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。


采女塚

       台東区清川一丁目十三番十三号 出山寺
 石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下
に仮名混じりの文でその由来を刻んでいる。
 江戸時代の初期、寛文年間(1661-1672)新吉原
雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い焦慮が師から固
く制され、悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。
采女は悲しんで浅茅ヶ原の鏡が池に身を投げた。時に
十七才。翌朝、草刈りの人たちが
 「名をそれとしらずともしれさる沢の
   あとをかがみが池にしずめば」
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
 浅茅ヶ原は、現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目
のあたりを指し、『江戸名所図会』によると鏡が池の面
積は、文政(1818-29)の頃、約五百平方メートル、
橋場一丁目の北部あたりにあったという。
 碑は、文化元年(1804)大田南畝ら文人たちによ
って建立。第二次世界大戦で火をあびている。
 平成七年三月
             台東区教育委員会


「釆女塚」

 出山寺境内に残されている石碑には、正面上部に横書きで「釆女塚」、その下には「金之竟合 水也 相比綵之無絲 嬉而不喜 士可以封 言可以己 車之所指毎田 即是一人十口 潭辺無水」と刻まれているそうです。この石碑は、采女を哀れに思った蜀山人らの文人が仲間だけにわかる隠語を用いたのだそうで、「隠語の碑」とも呼ばれています。

 台東区清川には、恋に破れて鏡が池に身を投げた玉姫を祭ったといわれる「玉姫稲荷神社」があり、橋場1丁目の「妙亀塚」には、人さらいにさらわれた我が子を追って京から訪ねてきたものの、我が子がすでに死んでいた事を知った母の妙亀尼は池に身を投げてしまうという悲しい伝説が言い伝えられています。色々と調べてみると、この周辺には女の人の悲しい伝説が多く残されていているようです。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区『新版 史跡をたずねて』
現地説明版

  1. 2014/01/26(日) 03:55:35|
  2. 台東区/その他の古墳・塚
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「駿馬塚」

「駿馬塚」

 画像は、台東区東浅草2丁目にある「駿馬塚」を南から見たところです。住宅街の細い路地の奥にひっそりと祀られており、路地の前には台東区教育委員会による説明板が設置されています。


「駿馬塚」

「駿馬塚」

 この「駿馬塚」は、昭和2年に発行された鳥居龍蔵氏の著書『上代の東京と其周圍』の中で取り上げられており、かつてこの塚から陶棺が掘り出されたことが碑文に刻まれていることが紹介されています。この『上代の東京と其周圍』には関東大震災前後の塚の写真が掲載されていますが、これによると大正時代には既に塚は削平されており、わずかに残る盛土の上に石碑と五輪塔が立てられているようです。
 現在は碑文の刻まれたという石碑は残されてはいないようで、五輪塔のみが保存されていました。


「駿馬塚」

 現地に立てられている説明板には江戸時代の地誌『江戸名所図会』の挿絵が載せられており、この挿絵には「駿馬塚」の石碑の横に円墳のような大きな土饅頭型の盛土が描かれています。この駿馬塚が石棺を用いた古墳であったのか、中世の塚であったのかは現在では知ることは出来ませんが、少なくとも江戸時代には塚が残されていたことがわかります。

 説明板には次のように書かれています。


  駿馬塚
           台東区東浅草二丁目十六番一号

 駿馬塚は、平安時代の康平年間(一〇五八~一〇六四)源
義家が陸奥へ向かう際、この地で愛馬「青海原」が絶命し、
これを葬った所と伝えている。
 現存する塚は、明治二八年造立の石碑や石造層塔の一部
を遺すのみだが、天保七年(一八三六)刊行の『江戸名所図会』
には左の挿絵を載せており、江戸時代後期には土饅頭型の
塚や「駿馬塚」と書した石碑が建っていたようである。
 現在、付近の人々はこの塚を「馬頭観音」と呼び、覆屋等
を設けて大切に守っている。
   平成十年三月
                  台東区教育委員会


<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
現地説明版

  1. 2014/01/21(火) 23:56:48|
  2. 台東区/その他の古墳・塚
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「池袋富士塚」(豊島区指定文化財)

「池袋富士塚」(豊島区指定文化財)

 画像は、豊島区池袋本町3丁目の氷川神社の境内にある「池袋富士塚」を南東から見たところです。

 この富士塚は、同じ豊島区内の「豊島長崎の富士塚」が土山であるのに対して、石積み方という全山がセメントで固めてあるのが特徴です。
 この塚には言い伝えがあり、ある夜、この氷川神社の近くに住む池袋講七世先達篠力蔵の夢の中に木花咲耶姫があらわれ、我を世に出してくれと告げたのだそうです。篠先達は講員に相談して、氷川神社内に富士塚を造山することになりました。先達には予知能力を持つ人が多かったといわれていますが、とても不思議な話ですね。その後、池袋富士塚は明治45年(1912)年に着工され、大正12年(1923)年に完成したそうです。ちなみに豊島長崎の富士塚は古墳を富士塚に改装したものであるといわれていますが、この池袋富士塚はどうなんでしょうか。。。


「池袋富士塚」(豊島区指定文化財)

 富士塚には豊島区教育委員会による説明板が立てられていて、次のように書かれています。
   
池 袋 富 士 塚

 富士塚は、さまざまな理由から富士登山ができない人たち
も、これに登れば富士山に登ったのと同じ霊験が得られる
として、江戸時代後期以降、現東京都域および近隣地域に
各富士講集団を単位として築造されたものである。高さ約
五メートル、東西幅約一三メートル、南北幅約一八メートル
を測り、全山がボク石で覆われている。登山道は正面部分に
電光形に設けられており、その道筋ははっきり確認できる。
 この池袋富士塚は、明治四五年(1912)六月に池袋
月三十七夜元講によって築かれたものである。塚内に造立
された講碑から、歴代先達の名前や近隣の富士講集団との
つきあいの様子が知られる。一般に、富士塚の石造物は、
頂上に奥宮、中腹向かって右には小御嶽社をあらわす石祠、
中腹向かって左には烏帽子岩を配置するのを基本としてい
る。池袋富士塚の石造物は、こうした特徴を備えているほ
か、経ヶ岳(日蓮ゆかりの霊地)を示す題目碑、合目石、
講碑、教祖角行像、一対の天狗像、さらには胎内が配置さ
れており、充実した石造物群を構成している。
 豊島区に残された数少ない富士塚のひとつとして、また
池袋本町地区に展開した民間信仰を考えていくうえでも貴
重なことから、平成十年(一九九八)六月に東京都豊島区
指定史跡となり、保存がはかられている。
 平成十一年三月
               東京都豊島区教育委員会


<参考文献>
豊島区立郷土資料館『生活と文化 研究紀要 第1号』
現地説明版

  1. 2014/01/18(土) 03:07:39|
  2. 豊島区の古墳・塚
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「豊島長崎の富士塚」(国指定 重要有形民俗文化財) 

「豊島長崎の富士塚」(国指定 重要有形民俗文化財) 

 画像は、豊島区高松2丁目にある「豊島長崎の富士塚」を南から見たところです。

 この豊島長崎の富士塚は、周辺にある江古田富士塚(練馬区小竹町)、落合の富士塚(新宿区上落合、現存せず)とともに、元々は古墳であるといわれています。豊島区立郷土資料館が発行した『鬼生活と文化 研究紀要 第1号』では、古墳の言い伝えについて次のように紹介しています。


この富士塚は現存する七つの江戸期築造の塚の中で旧態の良く保たれているものである。創建は文久二(1862)年四月。伝承によると本橋源蔵先達の父万五郎が、古塚のある地域を開墾しようと掘りはじめると、鍬先に銅鏡がひっかかって出てきた。円鏡の直径十五センチ、柄の長さ九センチ、裏に南天の模様が鋳てある。南天は難転に通ずるので鏡にはよく描かれたという。作者銘として「天下一藤原作」と鋳込んである。藤原は個人の名前ではない。金工、大工棟梁などの技術者はみな藤原姓を許し名として名乗っていた。天下一は和鏡作者のほとんどがそう自負して用いているものである。
 要するに逸品というほどの代物ではなかったが、出た場所を考えると万五郎は何か新甥的なものを感じ、この古墳を富士塚に改装することを講と相談したのだと伝える。(『生活と文化 研究紀要 第1号』31ページ)

 この伝承からすると、元々存在した塚に盛土をして富士塚を築造したことは間違いないようですが、塚は古墳というよりはもっと後世の塚である可能性もあるかもしれません。

 富士塚は、開発の進んだ住宅街にあって良好な状態で保存されています。塚は柵で囲われていて立ち入ることは出来ませんが、隣接する児童遊園から見学することが出来ます。豊島区教育委員会による説明板には、次のように書かれていました。


国指定重要有形民俗文化財
  豊島長崎の富士塚
                    所在地 豊島区高松二―九―三

 富士塚は、富士山を神の宿る地として信仰する人々の集まりである富士講
によって、江戸時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江
戸とその周辺地域に築かれたものです。
 この富士講は、角行を開祖とし、江戸時代中期には身禄によって広められ、
最盛期には、八百八講と称されるほどの講が結成されて代表的な庶民信仰の
一つとなりました。
 豊島長崎の富士塚は、文久二年(一八六二)に富士講の一つである豊島郡
長崎村の月三講(講祖は三平忠兵衛)の椎名町元講の人々によって築造され
ました。高さ約八メートル、直径二十一メートルで、表面は富士山の黒ボク
石(溶岩)でおおわれています。
 塚内には、頂上に大日如来坐像、小御岳石尊大権現碑、烏帽子岩奉献碑が
あるほか、合目石、講碑、石仏、天狗像、御胎内などが配置され、約五十基
の充実した石造物群で構成されています。浅間神社では、かつてお焚き上げ
が行われており、奉献された数多くの講碑からは長崎村の人々の富士信仰の
強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができます。
 この富士塚は、東京都内にある江戸時代に築造された富士塚の中でもよく
原型をとどめていることから、昭和五十四年五月二十一日に国の重要有形民
俗文化財に指定されました。その美観と偉容を永く後世に伝えるため、昭和
六十二年には昭和大修復が行われ、以後浅間神社豊島長崎富士塚保存会によ
って山掃除や保存修復事業が定期的に実施されています。

 昭和五十五年三月
                        豊島区教育委員会


<参考文献>
豊島区立郷土資料館『生活と文化 研究紀要 第1号』
現地説明版

  1. 2014/01/15(水) 03:39:07|
  2. 豊島区の古墳・塚
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「立石様」(葛飾区指定史跡)

「立石様」(葛飾区指定史跡)

 画像は、葛飾区立石8丁目にある「立石祠」を東から見たところです。
 葛飾区の遺跡番号11番として登録されている「立石様」は、画像の鳥居の奥、「立石児童遊園」内に所在しており、昭和51年3月6日に葛飾区の史跡に指定されています。


「立石様」(葛飾区指定史跡)

 この立石様を最初に学術的に紹介したのは鳥居龍蔵氏で、鳥居氏はこの立石様を「古代メンヒル説」、つまり宗教上のシンボルとして古くから住民に深く信仰され、現在にいたったものであるとしました。
 立石様の石質は凝灰岩という堆積岩で、表面に孔が存在するのが特徴です。この石はこの周辺には存在しないもので、「房州石」と呼ばれる房総半島から運び込まれたことがわかっています。これは、「柴又八幡神社古墳」の石室に使われた石と同じものであるそうで、古墳時代後期に古墳の石室の石材として使用されていました。このため、永峯光一氏は「古墳石室か石棺説」を唱えていました。
 また、立石様は「立石」の地名の起こりにもなっていますが、この地名は官道の分岐点などに道しるべとして設置することがあり、この場所を「立石」と呼んだそうです。木下良氏は「官道の標識的なもの説」を唱えていました。本来、古墳の築造のために持ち込まれた房州石が、後に古代東海道の道しるべに転用された可能性も考えられているそうです。


「立石様」(葛飾区指定史跡)

 立石様は古くから奇石として名が知れていたそうで、江戸時代の多くの書籍類に紹介されています。掘っても掘っても石の根っこが出てこないという伝承から「根有り石」、また寒い時期に収縮して暑い時期にもとに戻ることから「活蘇石」とも呼ばれていたそうです。
 『新編武蔵風土記稿』などではこの立石様の高さを一尺(約30cm)、大きさを二尺(約60cm)としており、『江戸名所図会』に描かれている挿絵には地上に大きく露出している立石様が描かれています。しかし現在は、南北約65cm、東西約27cmの大きさで、高さ僅かに2~3cm程が露出しているに過ぎません。これについて鳥居龍蔵氏は「立石の石はだんだん減少して行くのは、固より名所図会に書いて居る如く石質の柔弱も関係しますが、實は或種の病気を直さんとして、此の石を少しづづ缺いて行くのです。」と、また大場磐雄氏は「戦争中に―日清・日露戦争ですが―この石を欠いてお守りに持っていくと弾に当たらないという。妙な信仰なのですが、そういう関係で皆欠いて持っていったというのです。」と記述しています。これは『葛西志』にも同様の記述があり、近世以降に立石様を打ち欠いてお守りのように所持する信仰があったようです。
 また、立石様の石は寒い時期に石に含まれる湿気が氷結し、それが繰り返されることにより表面が剥離するという減少が確認されています。これが、寒い時期に収縮して暑い時期にもとに戻る「活蘇石」と呼ばれるようになった要因であるとともに、現在のように露出する部分が小さくなってしまった一因でもあると考えられているようです。


「立石様」(葛飾区指定史跡)

 立石様は、その後の調査により周辺の地下に古墳の石室や石棺の痕跡はなく、この地点が古墳ではないことがわかっているそうです。また、この周辺の表層は弥生時代頃に陸化しており、縄文文化が営まれることはなかったため、鳥居龍蔵氏の唱える「古代メンヒル説」も成り立たないことも判明しています。ただし、この石が古墳築造を目的として房総の鋸山の海岸部から運ばれた房州石であることはほぼ間違いないそうで、これを古代東海道の道標として再利用されたものであると考えられているそうです。
 葛飾区郷土と天文の博物館が発行した『立石遺跡 Ⅳ』では、「かつて立石様の近くに所在していた南蔵院裏古墳は埴輪を伴う6世紀後半の古墳で、柴又八幡神社古墳よりも古く位置づけられる。鳥居氏は南蔵院裏古墳の主体部を粘土槨と想定されているが、時期的には房州石を用いた石室を備えていてもおかしくはない。おそらく南蔵院裏古墳の石室の構築石材が立石様の正体である可能性が高いと思われる。…」としています。

 今後も立石様が地元の人々の信仰の対象として大切に祀られていってほしいと思います。。。

<参考文献>
東京都葛飾区役所『葛飾区史 上巻』
葛飾区郷土と天文の博物館『立石遺跡 Ⅳ』
現地説明版

  1. 2014/01/12(日) 01:55:16|
  2. 葛飾区/立石古墳群
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「南蔵院裏古墳」

「南蔵院裏古墳」

  画像は、葛飾区立石8丁目の「南蔵院裏古墳」があったとされる推定地を北東から見たところです。葛飾区の遺跡番号12番の古墳です。

 明治31年、この土地の所有者が墳丘を切り崩したところ、円筒埴輪の破片など数多くの出土品があったそうです。(当時はなんと、そのほとんどが投げ捨てられていたと云われています。)その後、大正12年以来の鳥居龍蔵氏の調査により、この塚が丸塚と呼ばれる古墳であると確認されています。唯一保存されていた人物埴輪の頭部が鳥居博士により東京大学の人類学教室に寄付されており、これは現在でも東京大学に収蔵されているそうです。また土器破片の一部が、同地にある南蔵院に保存されています。

 残されている写真などの資料により、少なくとも明治年間までは墳丘が残されていたことがわかっていますが、その後の開発により古墳の正確な位置や規模はわからなくなっていました。しかし、昭和63年以来の発掘調査によりおおよその位置は推定されるようになったのだそうです。この推定地に散布する埴輪片により、古墳は6世紀後半の築造と推定されています。


「南蔵院裏古墳」

 画像の右手に見えるのが南蔵院で、左手に見える集合住宅の向こう側にこの南蔵院裏古墳の推定地があります。同じ立石8丁目には「熊野神社古墳」の周溝が検出されており、この周辺に古墳群が形成されていたことがわかっています。周辺に散布する埴輪片の形態から複数の古墳が存在していた可能性も考えられているそうですので、今後の調査による新たな発見が楽しみですね。。。

<参考文献>
東京都葛飾区役所『葛飾区史 上巻』
葛飾区遺跡調査会1993『立石遺跡Ⅲ』
葛飾区郷土と天文の博物館『葛飾遺跡探訪』

  1. 2014/01/10(金) 04:38:57|
  2. 葛飾区/立石古墳群
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「熊野神社古墳」

「熊野神社古墳」

 画像は、葛飾区立石8丁目にある「熊野神社」を南から見たところです。平成4年の調査により古墳の周溝が発見され、隣接する「熊野神社」に因んで「熊野神社古墳」と命名されています。画像の左側のビルのあたりが古墳の所在地です。葛飾区の遺跡番号13番の古墳です。

 熊野神社古墳は墳丘がすでに削平され、また埋葬施設も破壊されていましたが、検出された周溝からは土師器、須恵器などの遺物が出土しており、これらの遺物から7世紀後半の築造と推定されています。同じ遺跡内の西側100mの地点には既に「南蔵院裏古墳」が確認されており、この熊野神社古墳の発見によりこの周辺に古墳群が形成されていたことが明確になっています。


「熊野神社の富士塚」

 画像は、熊野神社の境内にある富士塚です。都内には古墳を流用した富士塚も存在しますがこの富士塚はどうなんでしょうか。「熊野神社古墳」から数十メートルの地点にあり、怪しい!と思い撮っておいた写真です。。。

<参考文献>
葛飾区遺跡調査会1993『立石遺跡Ⅲ』
葛飾区郷土と天文の博物館『葛飾遺跡探訪』

  1. 2014/01/06(月) 01:39:15|
  2. 葛飾区/立石古墳群
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