
「桜雲台古墳」は「摺鉢山古墳」の東方、現東京文化会館の敷地内に所在したと考えられている古墳です。「摺鉢山古墳」とともに埴輪片が採集されていることから、築造年代は6世紀代であると推定されており、円墳であると推定されています。人類学者の鳥居龍蔵氏(1870~1953)は、『上代の東京と其周囲』に「上野の停車揚を見下ろす方の崖に臨んだ所に、三・四の丸塚の上を削られたものが分布している。」と記述していることから、この桜雲台古墳以外にも幾つかの古墳が存在した可能性も考えられています。
画像は、台東区上野公園内の、「桜雲台古墳」があったと推定される「東京文化会館」を南東から見たところです。台東区の遺跡番号14番の古墳で、東京都台東区から発行された『台東区史 通史編Ⅰ』では、上野台の古墳群の「第2号墳」としています。

昭和57年(1982)から昭和59年(1984)にかけて、東京都教育委員会により「都心部遺跡分布調査」が実施されています。「桜雲台古墳」については『都心部の遺跡 1985』に、「明治17年頃の五千分の一東京図に墳丘が認められる」としておおよその推定地を記しています。これによると「東京文化会館」の裏側にあたる、画像の周辺を古墳の跡地としているようです。
偶然にも、東京国立博物館に公開予定の「キトラ古墳壁画」の説明板が立てられていました!
<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
- 2014/04/06(日) 03:21:53|
- 台東区/上野台古墳群
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「飛鳥山古墳群」は、武蔵野台地の東端部をなす本郷台、JR京浜東北線の王子駅を眼下に臨む崖線上に立地する、北区の遺跡番号46番の古墳群です。
この古墳群の所在する飛鳥山公園は「飛鳥山遺跡」と呼ばれており、昭和11年以来の発掘調査により遺跡が発見されています。しかし、古墳に関しては古くは江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』等にも記述は見当たらず、明治42年の旧帝国陸地測量部作成の地図にも存在は記されず、昭和60年に東京都教育委員会により発行された『都心部の遺跡』にも飛鳥山古墳群の記載はありませんでした。これは、残されていた古墳が旧渋沢庭園の築山として認識されていたためと考えられているようです。その後、平成元年に行われた発掘調査によりようやく「飛鳥山1号墳」の存在が明らかになりました。
画像は、北区王子1丁目にある「飛鳥山1号墳」を南西から見たところです。飛鳥山古墳群中唯一墳丘が残されているこの古墳は、飛鳥山公園内に現状保存されており、いつでも見学することが出来ます。

現地に設置された説明版には次のように書かれています。
飛鳥山1号墳
古墳時代後期の直径31mの円墳。平成元年の調査で周圍には幅3.8mの周溝が廻ること
が確認された。また、平成5年の埋葬施設の調査で、切石を使用した横穴式石室が確認され
ている。石室は玄室の左側壁の最下段と床石の一部が原位置を留めている他は、大きく壊さ
れていた。石室の形態は残された側壁から「胴張型横穴式石室」と判断できた。石室内から
は大刀や刀子の破片、鉄蔟•耳環•管玉•切小玉•ガラス小玉が出土している。公園内では他
にも古墳の周溝が確認されており、古墳群が形成されていたようである。
<参考文献>
東京都北区『北区史 通史編 原始古代』
東京都北区教育委員会『文化財研究紀要 第4集』
現地説明版
- 2014/04/04(金) 00:32:16|
- 北区/飛鳥山古墳群
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「飛鳥山古墳群」は、武蔵野台地の東端部をなす本郷台、JR京浜東北線の王子駅を眼下に臨む崖線上に立地する飛鳥山公園内に所在する、北区の遺跡番号46番の古墳群です。
画像は、飛鳥山公園内にある「飛鳥山2号墳」が検出された地点を南から見たところです。墳丘や主体部は検出されず円形の周溝のみが検出されており、規模は推定で内径20.30m、外径26.40mとされています。築造時期は、6世紀後半と考えられています。
この飛鳥山公園は、江戸時代中期に八代将軍徳川吉宗が桜を植樹して以来、桜の名所として知られています。明治6年(1873)に公園となった飛鳥山公園は当時の東京市で公園として定められた5つの公園のうちの1つで、日本で初の公園なのだそうです。いつも大勢の人で賑わっている素敵な公園です。
飛鳥山2号墳の前には「飛鳥山の歴史」という大きな石碑が立てられており、次のように書かれています。
飛鳥山公園の歴史
飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。
この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。
このあたりは、古くから人が住んでいたらしく先土器時代(日本で最も古い時代)縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。
ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。
江戸時代の中ごろ元文二年(1737)徳川八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し、荒地を整備して、たくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり付近に茶屋などもできました。その説明は、右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。
飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語にでてくるような、仇討の趣向や、変装などのためにたいへんな賑わいでした、又、東側の崖からは、カワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって、危険防止のため禁止されました。
この山は、東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のにためにせばめられ、さきに中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。
昭和五十五年二月吉日
東京王子ロータリークラブ

この2号墳にも盛土が存在しますが、これは古墳とは無関係で公園を造成したときの築山です。この下に古墳の周溝が眠っています。恐らく、この歩道の縁石を取り囲むように周溝が存在しているのではないかと思われます。。。
<参考文献>
東京都北区教育委員会『飛鳥山遺跡Ⅱ』
東京都北区教育委員会『未知しるべ道しるべ 北区文化財ガイドブック』
- 2014/04/01(火) 00:38:39|
- 北区/飛鳥山古墳群
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