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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「稲付瀞勝寺前古墳」

「稲付瀞勝寺前古墳」

 画像は、北区赤羽西1丁目にある「静勝寺」を南西から見たところです。この静勝寺から南へかけての丘陵一帯が、室町時代の武将、太田道灌が築造したといわれている「稲付(いねつけ)城」の跡地で、後年、道灌の子孫である資宗が城址を含めた地を同寺に寄進して、道灌とその父道真の法号により自得山静勝寺と改めました。稲付城跡は北区の遺跡番号15番の遺跡として登録されており、昭和36年1月31日に東京都の旧跡に指定されています。


「稲付瀞勝寺前古墳」

 この「静勝寺」の付近にも古墳らしき塚があったと云われています。『岩淵町郷土誌』にはこの塚について「同字番場543、瀞勝寺前にも面積七歩の塚があった、これも跡も判らない。」との記述が見られます。また『新修 北区史』には『新編武蔵風土記稿』に掲載されている塚として「稲付瀞勝寺前古墳」の名称で「面積七歩といわれる古墳があった。」と紹介しています。この「稲付瀞勝寺前古墳」の跡地である番場543番地とは「静勝寺」のすぐ門前の画像の周辺であると思われますが、残念ながら何の痕跡も残されていないようです。 


「稲付瀞勝寺前古墳」

 静勝寺の敷地内には東京都教育委員会による2種類の説明板が建てられていますが、どちらも「稲付城跡」についての記述が中心で、古墳についてはふれられていないようです。説明板には次のように書かれていました。

東京都指定旧跡
稲付城跡

所在地 北区赤羽西1–21–17
    静勝寺
指 定 昭和36年1月31日
 稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。
 現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約12m、深さ約6mの空堀の跡等が検出され、その際に16世紀前半頃の遺物が出土しました。
 静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築造した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を全面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。

 平成25年3月 建設
 東京都教育委員会


「稲付瀞勝寺前古墳」

東京都指定文化財(旧跡)
稲付城跡

北区赤羽西1-21-17

 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558–1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城は孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(1655)に道灌の子孫資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
 平成13年3月
 東京都北区教育委員会


「稲付瀞勝寺前古墳」

 静勝寺の敷地内、石段を登った右側には、昭和62年(1987)に行われた発掘調査によって出土した遺跡が保存されています。

<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
歴史図書社『岩淵町郷土誌』
名著出版『北区の歴史』
現地説明版

  1. 2014/04/28(月) 02:05:57|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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「伊勢塚」

「伊勢塚」

 画像は、北区西が丘2丁目にある「北区立梅木小学校」を西から見たところです。

 この敷地は、明治38年に火薬や火気類の爆破や射撃の練習場として設けられた「旧陸軍火工廠稲付射場」の跡地で、現在は北区立梅木小学校、西が丘保育園、うめのき幼稚園となっています。この旧陸軍射撃場の敷地内に所在したとされているのが「伊勢塚」で、古墳ではなかったかと考えられています。ちょうど梅木小学校の校舎のあたりに築山があり、その上に射撃の標的が置かれていたそうですが、この築山が古墳だったのかそれともほかの場所に古墳があったのか、正確な推定地はわかりません。
 昭和5年(1930)に発行された『岩淵町郷土誌』にはこの「伊勢塚」について、「稲付字梅の木1073、今陸軍射撃場の一角にその面影を見せているもので、明治10年代の書上には「塚一畝十八歩、官有地」と誌されているのがこれであろう。」と書かれており、また「火工廠稲付射場の裏手の柵の際にも稍小さい圓形墳が辛じて残つてゐる。」とも書かれています。

 赤羽西5丁目には戦後まで「大塚古墳』が残されていました。周囲にはこの「大塚古墳』を中心に13基の古墳が所在しており、「十三坊塚」と呼ばれていたそうです。この「伊勢塚」もこのうちの1基であった可能性もあるかもしれませんね。


「伊勢塚」

 梅木小学校の正門脇の塀沿いには、今でも陸軍用地の標識が残されています。。。

<参考文献>
名著出版『北区の歴史』
歴史図書社『岩淵町郷土誌』

  1. 2014/04/26(土) 23:31:26|
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「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

「稲荷公園」

 画像は、北区十条台1丁目にある「稲荷公園」を南西から見たところです。この「稲荷公園」は、東京工廠の構内社の「四本木稲荷神社」が所在したとされるところで、この四本木稲荷神社は古墳の上に祀られていたといわれています。

 この周辺はかつて江戸時代には「七軒町」と呼ばれる集落で、七軒の農家があったことから七軒町と呼ばれていたそうです。四本木稲荷神社はこの七軒町持ちの無名の神社だったそうで、この神社は4本の大木に囲まれていたため、村の人々からは「四本木(しほんぎ)稲荷」と呼ばれていたそうです(当時の数字の読み方で四本は”よんほん”ではなく”しほん”と数えていた)。その後、日露戦争が始まった翌年の明治38年(1905)に小石川からこの王子町十条に陸軍造兵廠が移転することとなり、この造兵廠建設の際に、それまで七軒町持ちの小祠であった四本木稲荷を構内社として引き続き祀るようになったそうです。
 このあたりのいきさつについて、『北区史 民俗編1』には次のように書かれています。
 
…四本木稲荷神社が十条の工場で祀られるようになった理由として、当時の陸軍造兵廠に勤務していた根岸新一氏の「北区における旧軍の施設」(『東京都北区立郷土資料館調査報告』第一号、昭和58年3月)によれば、十条台地の十万坪を買収して十条兵器製造所を建設後、災禍が続発し、
  原野を整地するに当って、処々に散在していた幾つもの古墳を用捨なく取り壊した祟りかもしれない、という噂が流れたりしたので、塚の霊を用地の東北隅に祀って祭神を稲荷大明神とあがめ、その後は、終戦までも工廠の守護神として四本木稲荷と称していた。
という。
 十条兵器廠の工場建設後、災害が頻発した。工場建設工事の際に、従来存在していた塚を破壊したための祟りだとみなされ、慰霊のために四本木稲荷神社が十条の兵器廠で祀られるようになり、ついで滝野川にも分霊され、祀られるようになったわけである。(『北区史 民俗編1』310ページ)


「稲荷公園」

 昭和3年(1928)に発行された『王子町史』によると、かつて王子周辺に残されていた7基の塚を総称して「七曜塚」と呼ばれる塚があり、「亀井塚」と呼ばれる4基の塚のほかに「供養塚」、「妙観塚」と、「王子新道の無名の塚」があったとしていますが、この「四本木稲荷神社」が鎮座していた塚が「王子新道の無名の塚」出会った可能性もあるかもしれません。
 「四本木稲荷神社」は滝野川に移されており、現在この地は「稲荷公園」として整地されているため古墳の痕跡を見ることは出来ませんが、公園内に招魂碑が1基残されています。


「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

 さて、画像は北区滝野川3丁目にある「四本木稲荷神社」を南から見たところです。この神社の本殿は、終戦後に十条の四本木稲荷神社から移されたもので、滝野川のもとの本殿は境内摂社になっています。この滝野川の四本木稲荷神社も古墳の上に建てられているといわれており、「東京都遺跡地図」のインターネット公開版には北区の遺跡番号24番の古墳として登録されています。”径29m、高さ1mの円墳”とされていますが、発掘調査はされていないため詳細は不明です。


「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

 画像が「四本木稲荷神社」の社殿です。『北区史 通史編 原始古代』によれば、積極的に古墳であるという根拠には乏しいと考えられているようですが、もしこの塚が古墳であるということになれば、「四本木稲荷神社」は古墳から古墳へと移った世にも珍しい神社ということになりますが、今後の調査が待たれるところですね。


「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

 画像は、西から見た「四本木稲荷古墳」です。
 この角度から見ると古墳らしく盛り上がっているのがわかります。


「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

 神社の北側の公園から見たところです。大きな石が置かれています。。。

<参考文献>
歴史図書社『王子町史』
北区史編纂調査会『北区史 民俗編1』
東京都北区『北区史 通史編 原始古代』
小野磐彦『北区の風土記』

  1. 2014/04/23(水) 00:11:14|
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「滝野川古墳」

「滝野川古墳」

「滝野川古墳」は北区滝野川3丁目の旧都立王子工業高校校庭に所在したとされる、北区の遺跡番号26番の古墳です。王子工業高校は2009年3月に閉校しており、現在は2011年4月に開校した王子総合高等学校の敷地となっています。画像はその王子総合高等学校を南西から見たところです。
 古墳は校庭の整地のため、昭和37年9月26日から10月6日にかけて王子工業考古学部により緊急調査されています。『日本考古学年報15』には発掘当時の記録が次のように書かれています。

東京都北区滝野川古墳

 調査概要 石神井川の第2段丘上にある円墳で、校庭整地のため、緊急調査をしたのであるが、大きさは南北の径約6.2m、東西の径約7.5mである。
 発掘は中央部に榎の根が残存していたため、その北部を巾メートル、長さ2メートルにわたってトレンチを入れたところ墳丘の中心より北に巾1.5メートル、厚さ10センチメートルの粘土の張り出しを認めた。南側の相対的位置に巾1.5メートル粘土の拡がりを僅かながら認めることが出来た。中心部は発掘しなかったため南北に認められた粘土のが拡がりが連続するものか否かは不明であった。北部に拡がる粘土層をはいだところ、下はローム粒をまじえた赤褐色土層で、この層から土師器の細片が散布した状態で発見された。表土は攪乱されており、黒土に交じって近世の陶器片が発見された。(『日本考古学年報15』153ページ)


 この『日本考古学年報15』には古墳時代の項に記載されていますので当時は古墳であると考えられていたようですが、現在では積極的に古墳であるという根拠に乏しく、塚ではないかと考えられているようです。

<参考文献>
日本考古学協会『日本考古学年報15 昭和37年度』
東京都北区教育委員会『文化財研究紀要 第14集』

  1. 2014/04/21(月) 03:49:43|
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「甲胄塚古墳」

「甲胄塚古墳」

 画像は、上中里一丁目にある「平塚神社」を南西から見たところです。この平塚神社の拝殿の裏手に「甲胄塚古墳」が所在しています。

 この平塚神社と甲胄塚古墳について、敷地内に設置されている説明板には次のように書かれています。


 平塚城伝承地
 平 塚 神 社
 平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあっ
た場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁
起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代
の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平
塚城という城館をつくります。
 平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の
逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っ
ていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は
義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋
め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作
り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本
殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の
起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この
地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文
明十年(一四七八)一月、泰経の時代に太田道灌によって
落城してしまいます。
 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった
山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈
願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずか
らの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買っ
た田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知
った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五
〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
平成四年三月             北区教育委員会


「甲胄塚古墳」

 「甲胄塚古墳」は北区の遺跡番号28番の古墳として登録されており、『東京都遺跡地図』のインターネット公開版によると、径40m、高さ3.5mの円墳であるとされています。塚の一番高いところに記念の石碑が建てられているそうですが、古墳の所在する平塚神社の拝殿の裏手は通常は非公開となっていて敷地内に立ち入ることは出来ません。『北区史』によると、「銀環」出土したといわれていることから古墳の可能性が考えられているそうで、塚の斜面には横穴らしいものが見えているそうですが、残念ながら柵の外からは観察することは出来ませんでした。。。

<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
現地説明版

  1. 2014/04/19(土) 01:29:01|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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「田端西台通遺跡」

「田端西台通遺跡」

 「田端西台通遺跡」は、赤羽から上野へ続く本郷台の台地上のほぼ中央に存在しています。このうち、平成6年の発掘調査により1号墳から4号墳の4基の古墳が発見されています。4基ともに共通して墳丘はすでに削平されて存在せず、また主体部も検出されず、円形の周溝のみが検出されています。
 画像が北区田端3丁目にある調査地点で、手前のT字に交差する道路から右手の集合住宅にかけて4号墳が、その奥1.5mの近距離に道路から建物にかけて3号墳が、さらにその奥に10mほどのちょうど建物の中央付近に2号墳が、さらに5mほど奥に1号墳が検出されています。

 「田端西台通 1号墳」の推定規模は内径が13.0m、周溝を含めると16.4mになります。「田端西台通 2号墳」は1号墳よりやや小さく、内径7.5m、外径12.0mの西向きに開口する円墳です。「田端西台通 3号墳」は、内径7.4m、外径8.8mの2号墳よりさらに小さい円墳です。「田端西台通 4号墳」は、1号墳を上回る規模の円墳であると推定されています。遺物は、周溝内から土師器や須恵器が出土しており、これらの出土品の特徴から7世紀初頭の築造であると考えられています。


「上田端八幡神社」

 画像は、北区田端4丁目にある「上田端八幡神社」の拝殿を南西から見たとこです。古墳の探訪の際に周辺にある神社を見学することは比較的多く、これは本殿が古墳の盛土の上に建てられている可能性や境内に古墳が残存する期待もあったりしますが、この神社は「田端西台通遺跡」の4基の古墳群から北西にわずか数十メートルの同じ台地上本殿が所在しており、期待しましたが。残念ながらよくわからずです。。。


「上田端八幡神社」

 画像は、「上田端八幡神社」の本殿を南から見たところです。
 この角度から見ると多少古墳跡っぽい感じですよね。。。

<参考文献>
東京都北区『北区史 通史編 原始古代』
東京都北区教育委員会『田端西台通遺跡Ⅲ・田端不動坂遺跡Ⅲ』

  1. 2014/04/16(水) 23:57:44|
  2. 北区/田端西台通古墳群
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「十条台古墳群」

「十条台古墳群」

 「十条台古墳群」は、北区中十条2丁目に所在する3基の円墳と、付近に存在する「十条富士塚」からなる4基の古墳群です。十条2丁目に所在する3基の古墳は開発が進んでいるために墳丘は残されていませんが、平成2年(1990)に個人住宅建設にともなう発掘調査により周溝が検出され、1号墳、2号墳、3号墳と名称がつけられています。さらに平成9年(1997)には、別の地点の発掘調査にて1号墳の周溝の続きが、平成24年(2012)には2号墳が検出されています。
 画像の道路の突き当たりのあたりが3基の古墳の所在地ですが、周辺は開発が進み宅地が密集しているため、残念ながら古墳の痕跡を観察することは出来ません。

 「1号墳」は、規模直径約23m、周溝の幅は約3mの円墳であるとされています。周溝からは円筒埴輪、朝顔形埴輪のほか、須恵器や土師器も出土しています。「2号墳」は直径約13m、周溝の幅約1.8mの円墳で、覆土中より土師器杯や高杯などが出土しています。また、「3号墳」は周溝の検出範囲が狭いために規模は不明であるものの、円墳ではないかと考えられているようです。

 この3基の古墳から南に100mほど離れた地点に、有名な「十条富士塚」が所在します。この富士塚は発掘調査はされていないため詳細は不明ですが、古墳の上に盛土をして築かれたと考えられており、この富士塚を含めた直径100mほどの範囲が「十条台古墳群」とされているようです。今後の周辺調査次第では、更なる古墳群の広がりも十分に考えられるかもしれません。。。

<参考文献>
東京都北区『北区史 通史編 原始古代』
東京都北区教育委員会『文化財研究紀要 第13集』
東京都北区教育委員会『北区埋蔵文化財調査年報 –平成23年度-』

  1. 2014/04/15(火) 09:27:42|
  2. 北区/十条台古墳群
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「駒塚」

「駒塚」

 画像は、北区堀船3丁目の「駒塚」が所在したとされる推定地周辺を西から見たところです。

 『復刻版 堀船郷土史』によると、荒川河岸にある佐藤製衡所の敷地内に女体権現の小祠が祀られており、これが「駒塚」であるとされています。祠はかつては3、4本の樹の下に石碑と共に鎮まっていたそうですが、昭和20年4月の爆撃で跡形もなく消滅、その後は小田原の道了尊が祀られていたそうです。
 画像の中央に流れているのが石神井川の終点にあたる地点で、奥を流れているのが隅田川です。むかしの石神井川はこの地点より北側(画像の左側)を蛇行して流れており、画像左に見える集合住宅から現在の石神井川にかけての一帯が、佐藤製衡所の敷地であったようです。恐らくこの周辺のどこかに「駒塚」が所在したのではないかと思われますが、塚は消滅して痕跡は残されていないようです。『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』には、「駒塚と伝え残して来た地点は石神井川の河口と梶原の渡し場とのちょうど中間の旧陸軍ドック(後の陸軍専用地)への掘割の河中である。」と書かれており、これによれば画像の石神井川の右側辺りが推定地となるように思います。

 昭和3年(1928)に発行された『王子町誌』にはこの「駒塚」について、「往昔豊島清光の子、刑部大夫清泰が、馬術の練習中に、誤って荒川の奔流に馬を乗入れて水死したので、その馬を埋めたのが此の塚だといふことである。」と書かれていますが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「其亡骨を川端へ葬り、馬をも爰へ埋みし故名づくと云。」とも書かれています。これに対して『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』では「故意かどうか清康を清泰とかえ、その「亡骨を川端へ葬り」との表現といい「馬をもここへ」という表現などは少なくとも武蔵権守豊島清光の長子に対する言ではない。豊島氏宗家を継ぐべき清康を川場に葬りというのさえおかしい」としており、また「この場所は昔浅間ヶ淵と呼んだところで、水流がゆるやかで水が淀んだ場所であり、地形的にいっても溺れ死ぬような場所では決してない」とも書かれています。
 この言い伝えが史実でないようであれば、「駒塚」が古墳であった可能性も考えられると思いますが、検証出来ないのが残念なところです。。。

 ちなみにこの「駒塚」の遺物についての言い伝えを見つけることは出来ませんでしたが、「駒塚」ではなく、堀船3丁目に所在したとされる「梶原塚」や豊島5丁目の「大道法師の塚」の傍にあったとされる小さな塚から馬の骨のような物が出土したと云われているところが興味深いところです。


「駒塚」
 
 画像は、北区豊島2丁目にある「若宮八幡神社」です。この豊島若宮八幡社について『新編武蔵風土記稿』には「若宮八幡社、豊島清光ノ子清泰ヲ祀レリト云、村民持」と記されていますが、これも豊島清康の霊を祀るところということになるようです。『王子町誌』には、この若宮八幡神社から260mほど南に駒塚がある、と書かれています。


「駒塚」

 『王子町誌』に書かれていた「若宮八幡神社から260mほど南」周辺を散策していて見かけたのが、画像の祠です。堀船3丁目のタバコ屋さんの敷地内に残されています。場所的に気になる祠なのですが、この祠が「駒塚」に祀られていたものと同一のものかはわかりません。。。
 
<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
東京都北区教育委員会『北区の昔がたり』
名著出版『北区の歴史』
芳洲書院『補遺 隅田川とその両岸(下巻)』
真言宗豊山派 福性寺『復刻版 堀船郷土史』

  1. 2014/04/13(日) 23:58:35|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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「表慶館古墳」

「表慶館古墳」

 「表慶館古墳」は、現在の「東京国立博物館表慶館」の敷地に所在したと考えられている古墳です。画像は、台東区上野公園にある「表慶館」を南から見たところで、東京都台東区から発行された『台東区史 通史編Ⅰ』では画像の中央あたりが推定地とされています。台東区の遺跡番号5番の古墳で、『台東区史 通史編Ⅰ』では上野台の古墳群の「第4号墳」とされています。

 東京都台東区より発行された『台東区史 通史編Ⅰ』には次のように書かれています。
 
第四号墳(表慶館古墳)
 寛永寺「中堂」の西北方、東京帝室博物館奉献美術館(現、東京国立博物館表慶館)の敷地より、明治35年(1902)に4月25日に古墳の副葬品と考えられる遺物が出土し、その地に古墳が存在していたことが明らかになった。出土遺物は、杯残片1、直刀1括(3)、鍔残片3、鉄蔟1、同残片3、辻金具残片1であった。
 杯は、土師器の口縁部片で歴史時代のものとされている。直刀は、鉄蔟(1)現存長10.3センチの切先部残片、(2)現存長31.6センチの刀身片、(3)現存長48.4センチの刀身片である。鍔は、鉄製で3点あり、現存長径3.5~7.0センチ、六透鍔である。鉄蔟は、現存長5.6センチの箆被部の破片であるが、ほかに残片が3点あると言う。辻金具は、鉄地金銅張で、鉢部に四状の凹線がみられ、現存高2.7センチである。このほか、大野雲外が和田千吉より「刀剣玉類」の出土を聞いているので、玉類の出土も考えられるが現存していない。なお、以上の遺物出土地を第4号墳としてきたが、複数古墳の副葬品として捉えることも出来るであろう。(『台東区史 通史編Ⅰ』76~77ページ)


 残念ながらこの「表慶館古墳」も跡形もなく消滅しており、痕跡を見ることはできません。。。

<参考文献>
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
現地説明版

  1. 2014/04/11(金) 01:41:22|
  2. 台東区/上野台古墳群
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「蛇塚古墳」

「蛇塚古墳」

 「蛇塚古墳」は、現在の「東京都美術館」の敷地内に所在したと考えられている古墳です。画像は、台東区上野公園にある「東京都美術館」を北東から見たところで、東京都台東区から発行された『台東区史 通史編Ⅰ』では画像の中央あたりが推定地とされています。台東区の遺跡番号13番の古墳で、『台東区史 通史編Ⅰ』では上野台の古墳群の「第3号墳」とされています。

 この「蛇塚古墳」については、古くは江戸時代の地誌、『江戸名所図会』に塚状の地形が描かれており、これが「蛇塚古墳」の位置であると考えられています。『都心部の遺跡 1985』には、昭和57年(1982)から昭和59年(1984)にかけて東京都教育委員会により実施された「都心部遺跡分布調査」により、明治17年頃の五千分の一東京図に墳丘が認められる、としておおよその推定地を記されています。

 東京都台東区より発行された『台東区史 通史編Ⅰ』には次のように書かれています。


 第三号墳(蛇塚古墳)
 『江戸名所図会』「寛永寺」の図中の「二本杉」の前方「弁天」社などをのせている高まりが本墳の位置と推定され、現在は東京都美術館となっている。都立美術館の前身、東京府美術館の南に接して「二本杉原運動場」があったが、その運動場と美術館の中間に「蛇塚」と俗称されていたところがあった。そこには複数の大石がおかれ、周囲より一段と高まりを見せていた。大石が古墳の主体部用材か判断することができなかったが、付近より内面に青海波文のみられる須恵器片が採集されていた。現都立美術館の建築に伴って「蛇塚」はとり壊され、大石の所在は不明になった。本墳の北側には第四号墳の所在地である東京国立博物館があるので同一グループの古墳と推定される。なお、明治時代の地形図にその位置が記録されている。(『台東区史 通史編Ⅰ』74〜76ページ)


 現在この「蛇塚古墳」は消滅しており痕跡を見ることはできませんが、副葬品と考えられる遺物が出土していることから主体部の存在は明らかであり、出土した遺物により6世紀代の所産であるとされています。

<参考文献>
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』

  1. 2014/04/08(火) 02:27:02|
  2. 台東区/上野台古墳群
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