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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「庚申塚(町屋の一本松)」

「庚申塚(町屋の一本松)」

 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』によると、旧三河島村と町屋村における、当時所在のわかる庚申塚として4ヶ所を紹介しています。画像はこのうちの一つ、荒川区町屋1丁目にある通称「町屋の一本松」と呼ばれる「庚申塚」を南東から見たところです。

 この庚申塚について、『三河島町郷土史』には次のように書かれています。

 通称一本松と呼ぶ町屋の庚申塚は四坪ばかりの丸形の小丘をなし、雑草茂る中に寛文八年十二月とある庚申供養塔が一基建ち、傍らに古松が一本ある。此の松は元祿六年に植へ替へたもので其の以前には数百年を經た松の巨木が二本空高くそびへてゐたと云ふ。この巨木は貞享二年、同三年と相前後して共に枯死したと傅へられてゐる。此の附近の字名を二本木と呼ぶのは其の名殘りであらう。(『三河島町郷土史』334ページ)

「庚申塚(町屋の一本松)」

 かつては2本の松の巨木が空高くそびえており、その松は貞亨2年(1685)と同3年(1686)に枯死しています。その頃のこの周辺の小字名は一本松ではなく「二本木」と呼んでいたそうです。その後、松は寛文8年(1668)に植え替えられたものの、樹齢数三百数十年といわれた老松も戦災により枯死してしまったそうで、その後更に植えかえられた松が一本と、元禄6年(1668)12月の刻名のある庚申塔が1基、残されています。四坪ばかりあったとされる丸形の小丘は現在は道路により周囲を削平され、「一本松グリーンスポット」という小公園の一角に整備されて残されています。
 松の根元からは数百年を経た人骨や刀剣などが発掘されたと伝えられており、この塚が古墳であった可能性を伺わせます。古老の言い伝えによると、この松は「山吹の松」と呼んでいたそうです。


「庚申塚(町屋の一本松)」

 現地には荒川区教育委員会による説明板が設置されています。
 
 寛文八年九月銘庚申塔(町屋の一本松)

 この庚申塔は元禄六年(一六九三)に植樹され
たと伝えられる一本松の根元にあった。
 町屋の一本松は江戸時代、三河島村との境に位
置し、根元の庚申塔は四坪ほどで丸い小丘をなし
ていたという。今では寛文八年(一六六八)九月
吉日銘の庚申塔が残るのみで、松も戦災で枯死し
てしまった。ただ、『三河島八景』のなかに「庚
申の暮雪」として、庚申塔とかつての一本松が雪
景色を背景に描かれており、往時を偲ばせる。
 平成六年誕生した、この”一本松グリーンスポッ
ト”は、町屋の一本松に由来する。
              荒川区教育委員会


<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
荒川区教育委員会『あらかわの史跡・文化財マップ』
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』
学生社『荒川区史跡散歩』
現地説明版

  1. 2014/05/29(木) 01:44:37|
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「庚申塚(六地蔵)」

「庚申塚(六地蔵)」

 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』によると、旧三河島村と町屋村における、当時所在のわかる庚申塚として4ヶ所を紹介しています。画像はこのうちの一つ、荒川区荒川4丁目にある「六地蔵」を東から見たところです。

 この4ヶ所の庚申塚について『三河島町郷土史』には次のように書かれています。
 
之れ等の庚申塚と唱へる所は何れも地勢その他より推察すると元は妻夫塚、三つ塚と同種類の古塚であり、後に此所へ庚申供養塔を建立する様に成つてから、之れを庚申塚と呼ぶ様になつたものらしい。塚上に建つ庚申供養塔は別項の如く何れも徳川時代初期のものである。(『三河島町郷土史』333ページ)

 現地には荒川区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
    
六 地 蔵
 ここには、地蔵・大日如来などとともに、寛文十二
年(一六七二)八月十八日銘をはじめとする青面金剛
を刻んだ庚申塔四基が立っている。庚申塔があったと
ころで本来は六地蔵ではないが、いつのまにか六地蔵
とよび慣わされるようになった。
 このあたりは、古くから集落が開けていたところで
ある。江戸の末期には、尾久・町屋から宮地を経て坂
本(現台東区)へと出る通称「江戸道」がこの前を通
っていた。道行く人に安らぎをあたえる道しるべにも
なっていたことだろう。
 蓮田の子育地蔵ともよばれ、毎月四の日が縁日で、
十月二十四日にはお十夜祭が行われている。
                荒川区教育委員会


 現在塚は削平されており、住宅街の一角にこの六地蔵が残されています。訪れた日に、参拝に来た古老の男性と立ち話をしました。若い頃に死産してしまった子供の供養のために毎日お参りをしているそうです。
 今でもこの「六地蔵」は地元の人に必要とされており、大切に祀られています。
 この地は昔から「宮地の六地蔵」として知られており、三河島字蓮田にあったことから「蓮田の子育地蔵」とも呼ばれているそうです。毎月4の日が縁日で、10月24日にはお十夜祭が行われているそうです。

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
学生社『荒川区史跡散歩』
現地説明版

  1. 2014/05/27(火) 09:15:38|
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「袈裟塚」

「袈裟塚」

 「袈裟塚」は、もとは仙光院の参道の西角、現在の荒川区荒川2丁目4番地附近にあったといわれている塚で、有名な「袈裟塚の耳無不動伝説」が今も伝承されています。昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』(入本英太郎氏著)にこの物語りが詳しく記載されていますが、これは旧漢字が難しいので、『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』に転写されているものを紹介してみたいと思います。


 光三郎は藩中一の美男と称され、同藩江戸詰、御用人佐野五左衛門の娘きぬ(十七)とは、生前親が赦した許婚であった。当時おきぬは今小町と詠はれたが、其の美貌は少しもおきぬに幸ひず、早くよりお絹に縣想せし同藩都築伊賀の伜兵馬と云ふ放蕩者は或る夜、思ひが叶はぬを遺恨になし、多くの無頼漢を引連れ佐野の宅に押入り、寝込みを襲つてお絹の父母弟新次郎を斬殺しお絹を辣つし去つた。
 元文四年のことである。許婚たる光三郎が此の事件を国元柳川にて聞き驚愕し姑舅や義弟の仇敵を討ち、又お絹の在所を探さんものと江戸に下つたのは、元文四年の初秋であつた。己れは直に父が生前懇意にせる幕臣新庄伊織(布衣)方に寄食なし、浪人姿に身を包み江戸市中は勿論近在迄探索すること数年に及んだ。併し仇敵都築兵馬の行衛は颺として不明であつた。
 吉弘光三郎は今更ながら己れの不甲斐なき事を感じ当のない仇敵など探すより、一そう寺僧になり姑や義弟の無き霊を弔つた方がどんなにか……とさへ思つた。
 江戸下向より八年目、寛保三年光三郎の姿は上野東叡山某院に現れ、身に墨染の法衣を纏ひ、光慧法師となつた。光三郎事光慧和尚は翌々寛延二年の春、上野山内清水堂の前で花見帰りなる吉原遊女の一団中にお絹の姿を発見した。
 お絹の物語りに依ると某夜、兵馬は佐野の一家を斬殺すると直にお絹を引浚ひ、無頼の一味と共に東海道神奈川宿まで落延び、相変らず悪事ばかりしてゐたが金に窮するところから無理に同棲して間もなきお絹を新吉原の妓楼新上総屋七右衛門(一説に巴屋伝助と云ふ)方へ八十両で売飛ばし、そのまま姿を隠したと云ふ。
 薄幸なるお絹は源氏名を紅山と名乗り、苦界に身を沈めたが、生来の美貌と武士娘の気品は勿ち廓中でその全盛を謳はれた。
 光慧和尚は一日山内でお絹に会つてからは、元の浮世風が体に泌み込み、墨染の法衣を身に纏ひ仏に仕ふる出家の身であり、厳しい戒律も忘れ、頭を包み長羽織小脇差しの変装で隠し名を元の光三郎と呼ばせ、役僧の目をくらまし、蔵金を盗んでは吉原へ足繁く通ひ詰め恋と仏と仇討の三つが和尚の頭に渦巻ひた。併し運命は到る処で鉾を逆しまにして二人を虐げた。
 宝暦元年(一七五一)三月某日蔵金を盗みし事を役僧に発見され本山寛永寺執事より「僧形の身を以つて遊女の愛に溺れ、剰へ役僧の目をくらまし蔵金を使ひしは……」と云ふ折目正しき言葉と共に光慧和尚はその夜同寺の裏門からすごすご追ひ出された。(註、東叡山歴代主僧伝には宝暦二年五月光慧悪疾に依り退院とあり)そこへ通り合せた三河島村の植木屋久兵衛なる義侠家が、これを救ひ、連れ帰り、半ば荒廃して当時無住状態にあつた同村真言宗仙光院(同院は阿照山阿弥?密寺と称し明治初年廃絶せり)を中興し、同寺九世の住職にした。
仏罰はそれのみでは済まなかつた。其後光慧和尚は悪疾に罹り、腰が抜け耳が落ちるという始末。或夜のこと同寺の本尊不動明王が夢枕に立ちて曰く「汝御仏に仕ふる身でありながら、厳しき法戒を犯せしは仏罰の程甚だし、なれど大恩うけし里人の諸難を救はば其罪を許す可し……」和尚は今更ながら仏罰の恐しさを感じ、早速村人を救ふ一端として、翌日門前の往還に(今の町役場入口交番の付近)己れの法衣を埋め袈裟塚と称し、日夜、村内五穀成就、往来安全などの祈願をした。之れが今に伝はる袈裟塚の由来である。
 翌年三月には同塚上に石刻高さ六尺余の不動尊を安置し、台石に道しるべなどを刻り、請人参拝人に便利を与へた。併し和尚の悪疾は全快せず、遂に宝暦七年六月十二日「袈裟塚やかやりのはてや、もとの土」と云ふ辞世を残し、寂しく入滅した。時に光慧和尚は年四十二歳であったと云ふ。
 その後幾月かの後、何処ともなく現はれた一尼僧が同寺の門前に空高くそびへてゐた松の巨木で縊死を遂げたと云ふが、恐らく之れは紅山事お絹の後身であつたらうと云ふ。今も同女の墓標が残つてゐる。(『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』206〜207ページ)


「袈裟塚」

 「袈裟塚」は、明治29年に当時の3031番地、現在の荒川3丁目22番地にある庚申塚の上に移されており、同時に三峰神社も移されています。この不動尊は花柳病に霊験ありと花街の花街の人たちの参拝が多くみられたそうで、現在でも耳病に御利益があると今も信仰の対象になっています。
 「袈裟塚耳無不動」は、荒川区の文化財に指定されており、三峰神社の門前と境内には荒川区教育委員会による説明板が設置されています。


「袈裟塚」

 「袈裟塚」は、もとは仙光院の参道の西角、現在の荒川2丁目4番地附近に所在したとされており、画像はその荒川2丁目4番地を南から見たところです。手前に見える明治通りから北に進んだ荒川2丁目8番地のあたりが仙光院の跡地ですが、周辺には塚の痕跡は残されていないようです。


「袈裟塚」

 仙光院の跡地には荒川区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
   
仙光院と峡田小学校跡
 仙光院は真言宗の寺院で、山号は阿照山阿弥陀密寺。
慶長八年(一六〇三)創建で、阿弥陀を本尊としたが、
2度の火災の後、元禄二年(一六八九)鶴ヶ岡八幡の
荘厳院から不動明王を移し本尊としたという。
 九世は耳無不動(現三峰神社内)を建立した東叡山
の僧光慧。明治になり、廃寺となったが、同二年本堂
を修復し、尾口八郎が寺子屋とした。同十年名川蠖屈
がそれを継ぎ、同十六年峡田小学校がここに開校。同
三十四年、荒川三-七七-一(旧第一峡田小学校)の地
に移された。跡地は三河島村役場となり、昭和七年か
ら荒川区庁舎として使用された。
                荒川区教育委員会


<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
現地説明版

  1. 2014/05/25(日) 00:37:49|
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「庚申塚」

「庚申塚」

 画像は、荒川区荒川3丁目にある「庚申塚」を北から見たところです。

 昭和7年(1932)に発行された『三河島町郷土史』には「宮地3031番地の庚申塚」として紹介されており、「三河島改正通り(之れは後に鎮座せしもの)境内の庚申塚は現に十坪程の一小丘をなし以前には十八坪程あったと云ひ。」と書かれています。かつては大きな塚が存在したものの、同所が書かれた昭和初期には削平されて小さくなっている様子がわかります。
 現在も3基の庚申塔が立てられています。慶安5年(1652)銘の庚申塔は荒川区内で確認されている庚申塔の中では3番目に古いもので、江戸の庚申塔における「青面金剛」を刻んだ所見として知られているそうです。


「庚申塚」

 明治29年に「耳なし不動尊」が現在のこの庚申塚の敷地に移され、同時に「三峰神社」も当地に移されて、庚申塚は三峰神社の境内となっています。祠のある辺りはやや小高くなっているようで、塚の面影が残されているのかもしれません。
 訪れた当日も複数の参拝人がお参りに来ていました。地元の人に大切に祀られているようです。。。

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
学生社『荒川区史跡散歩』

  1. 2014/05/22(木) 23:42:06|
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「三つ塚」

「三つ塚」

 「三つ塚」は、現在の町屋斎場の周辺に所在したとされる3基の塚の総称で、画像はその「三つ塚」が所在したと推定される周辺を南から見たところです。

 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』によると、「三つ塚」は明治9年(1876)に行われた地租改革により町屋村に編入された1ヶ所が当時の町屋842番地に所在した12坪程の円墳状の塚であり、残る2ヶ所はこの東隣、三河島1781番地と同1783番地に所在した同じく円墳状の4坪程の塚であるとしています。『東京府下三河島町日暮里町全図』という大正14年の地図で確認すると、この3つの塚はかなり狭い範囲に接近して存在していたことがわかります。『三河島町郷土史』にはさらに「明治の初年頃までは此の附近より今の火葬場裏の邊へかけて大きな塚が群をなしてゐたと云ふ」としていますので、周辺にはかなり多くの塚が残されていたようです。かつては古墳群が存在していた可能性もあるのかもしれませんね。

 文政7年(1824)にこの周辺を散策した松平定常により書かれた『三食一覧』という紀行文には「小塚原村のとなり行間、田畝のうちに三つ塚と稱せる有り、昔の一里塚にてはあらんか、古墓にてはなしや。ゆへある塚としつて土人これを犂く事なしとなり」と、この塚を一里塚の跡なのではないかと考えたようですが、正徳5年(1715)の名主調書には「三つ塚」が記されており、また江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「三つ塚」が記されているほか、後にこの塚から南北朝頃の板碑が多く発掘されていることから、『三河島町郷土史』では妻夫塚と同じく500〜600年以前よりあった、同一種類の塚ではないかとしています。

 その後「三つ塚」は京成電鉄の軌道区域内に編入されて消滅しています。画像の左側に12坪程の円墳状の塚が、また右側に円墳状の4坪程の2基の塚が並んでいたと推定されますが、残念ながら痕跡は残されていないようです。。。

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区『荒川区史 上巻』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』

  1. 2014/05/20(火) 00:19:15|
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「妻夫塚」

「妻夫塚」

 荒川区の古墳については昭和60年(1985)に刊行された『都心部の遺跡』に記載がなく、また平成22年(2010)年に刊行された「東京都遺跡地図」のインターネット公開版にも古墳の記載がないという状況です。しかし、荒川区内には古墳時代の集落の存在が想定されており、また多くが開発のため消滅してしまったものの多くの塚の言い伝えが残されており、古墳の可能性が考えられるものも少なくないようです。

 「妻夫塚」は、現「東京都下水道局三河島水再生センター」の敷地内に所在したとされる2基の塚の総称で、画像はその三河島水再生センターを南から見たところです。

 この「妻夫塚」と呼ばれる2基の塚は、1基は字八千代田1288番地乙号に所在したとされる6坪程の円形の塚、もう1基は次郎田前1522番地に所在した18坪程の円形の塚であるといわれています。文政7年の名主書上に『塚五ヶ所あり一つは妻夫塚と呼び二ヶ所』とあり、『新編武蔵風土記稿』などにも記述が見られることから、少なくとも江戸時代にはこの「妻夫塚」は存在していたようです。
 明治初年に塚が崩された際には延文、貞治から天文に至る数多くの板碑が発掘されているそうで、このことから塚は500年程前には存在していたと考えられています。一説には、正平7年の武蔵野合戦の戦死者を埋葬した塚であるという言い伝えも残されているようですので、この伝説通り戦国時代の戦死者を葬った塚であるかもしれませんし、あるいは古墳であった可能性もあるかもしれません。その後、明治43年に「東京市汚水処分所」の創立により塚の所在地はわからなくなっています。


「妻夫塚」

 画像は、都電荒川線の荒川2丁目駅から見た東京都下水道局三河島水再生センターです。ここに荒川区教育委員会による「下水処理発祥の地」の説明板が設置されており、「妻夫塚」についても記述が見られます。

   下水処理発祥の地 (妻夫塚)
 三河島字八千代田、字次郎田前と呼ばれていたこの地に二
つの塚があった。妻夫塚と呼ばれるもので、正平七年(一三
五二)武蔵野合戦における戦死者を葬った所と伝わるが、詳
細は不明である。明治四十三年に三河島処理場の敷地に編入
され、現在では正確な塚の位置を確認することができない。
 日本で最初の本格的な下水処理施設である「三河島処理
場」は大正三年、建設に着手した。同年から始まった第一次
世界大戦の影響による財政面の制約などの理由から、工事の
進行に打撃を受けたが、大正十一年(一九二二)完成した。
荒川区のみならず、台東区の全部、文京・豊島区の大部分と
千代田・新宿・北区の一部の下水処理を行う。赤煉瓦の処理
場施設は建設当時からのもの。 千住製絨所(日本羊毛工業)
などとともに荒川区の近代化の担い手であった。
                  荒川区教育委員会



<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
現地説明版

  1. 2014/05/17(土) 23:25:18|
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「大塚古墳」

「大塚古墳」

 画像は、赤羽西5丁目の「大塚古墳」が所在したとされる推定地を西から見たところです。北区の遺跡番号14番の古墳として登録されており、円墳であったとされています。

 この周辺には十三坊塚と呼ばれるほど、多くの古墳が存在したといわれています。中でも「大塚古墳」はこの古墳群の盟主墳ともいえるかなり大きな古墳で、終戦後までは残されていたようです。「東京都遺跡地図」のインターネット公開版では現存マークが付けられていますが、発掘調査等は行われず、現在は破壊されて消滅しています。

 この「大塚古墳」について、『岩淵町郷土誌』には次のように書かれています。

[大塚古墳]
 赤羽の臺地陸軍用地となってゐる原の中に一つの古墳がある。形式は所謂圓形墳に属するもので、周圍約百七十尺、高さ約十五尺程あり、この近郊では大きな部に入る方である。(明治初年の測圖によると百坪餘あった)元はこれを中心として十三の古墳が點在してゐて十三坊塚と呼んだものだと云ふ。想像すれば之はこの地方の豪族の葬られた所で、小墳は陪塚ではなかつたかと考へられる。
 附近の地は大塚と云ふが、勿論この古墳から起つたものであらう。小石川の大塚・王子町上十條の大塚等も古墳から来た地名である。尚此處から南方七町程、今火工廠稲付射場の裏手の柵の際にも稍小さい圓形墳が辛じて残つてゐる。又被服廠の構内となつた所にも以前は餘程古墳があつたし、附近には庚塚と云ふ小字名もあるので、この一帯に古墳群の在つたことが考へられる。昔の人はこの多い古墳を見て、此處に何時か大戦争があつて、その戦死者を埋めたのだと云ふ戦争傅説を生み出したが、元より古墳は其のやうなものではない。第三章に記したやうに上代文化所産の貴重な遺跡であつて、その中に包藏されてゐる種々の副葬品によつて、記録以外の史實を探究することが出来るのである。(『岩淵町郷土誌』359~360ページ)


 また、『北区史 通史編 原始古代』には次のように書かれています。

 赤羽地区には、赤羽台古墳群の他にかつて古墳があったことが伝えられている。昭和5年(1930)に刊行された『岩淵町郷土誌』には赤羽台の当時の陸軍用地内に大きな塚があったことを記している。古墳のあった場所は、現在の赤羽5丁目のあたりである。編者の平野実・桜井泰仁はこれを古墳であるとし、「大塚古墳」の名で紹介している。『岩淵町郷土誌』によればこの「大塚古墳」は、「周囲約百七十尺、高さ十五尺程」であったようである。つまり、高さ4.5メートル、直径約20メートルにもなり、高さに比べて径が小さいがかなり大きなものであったことがわかる。墳頂部には「明治天皇駐蹕之跡」の碑が建っている。先の平野・桜井はこの碑が建立されたおかげでこの「大塚古墳」が保存されることになったことを記しているが、残念ながらその後に壊されてしまい、現在ではまったくその面影もない。果たしてこの「大塚古墳」がいつごろのものなのかは不明であるが、その規模からして単なる塚でないことは明白であろう。(『北区史 通史編 原始古代』201ページ)


「大塚古墳」

 画像は、『岩淵町郷土誌(364ページ)』に掲載されている大塚古墳です。かなり大きな墳丘を見ることができ、墳頂部には立派な記念碑が建てられています。この「明治天皇駐蹕之跡」の碑について『岩淵町郷土誌』によると、明治7年9月および12月の2回にわたって行われた陸軍創始以来最初の機動演習が岩淵町を中心に行われ、このようすを明治天皇が「大塚古墳」の墳丘上に立たれて御覽遊されたそうで、これを記念して建てられたのがこの「明治天皇駐蹕之跡の碑」であるそうです。四国特産の御影石造りの礎石の台上に青銅製の砲身を4個の砲弾で囲む、かなり立派な記念碑であったようです。
 さて、明治天皇の記念碑まで建てられていたこの地域の盟主墳ともいえる大塚古墳がなぜ忽然と消滅してしまったのか、あまりにも情報が少ないことを不思議に思ったので調べてみたところ、少しだけわかってきました。
 昭和20年の終戦までは古墳は残されていたようで、米軍が撮影した昭和22年(1947)の航空写真にはこの「大塚古墳」ははっきりと写っています。しかし、戦後すぐに米進駐軍により記念碑の砲身が切り落とされ、墳頂部には御影石の礎石だけが残されていたそうです。その後、大蔵省印刷局赤羽宿舎(戦災者や海外引き揚げ者の簡易住宅という説もある)建設のため、周囲に高い塀を張り巡らしての工事が始まり、完成した時には塚は跡形もなく消滅して記念碑もなくなっていたそうです。更にはその工事の際、記念碑の土台となっていた御影石を密かに搬出して庭石にしていたという町の住人がおり、この行為を許せない人により訴訟にまで発展したそうですが、「払い下げ」という判決で終わっているそうです。このあたりの経緯が「大塚古墳」についての情報の少なさに繋がっているのかもしれません。。。
 残念なのは、埋葬施設や周溝の有無、出土遺物等についての記録はまったく見つからず、この塚が果たして本当に古墳であったかどうかはまったくわかりませんでした。


「大塚古墳」

 近くの歩道橋の上から敷地内を見ることが出来ましたが、現在は更地となっており、古墳の痕跡は残されていないようです。画像の右下辺りに古墳が存在していたと思われます。


「大塚古墳」

 大塚古墳の跡地の向かいに所在する「善徳寺」の門前には「富士見坂」についての案内碑が立てられており、大塚古墳についての記述が見られます。案内碑には次のように書かれています。
  
富 士 見 坂
 この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には、「左右只渺茫たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、此景望又いうべき様なし」と記されている。
 かつてこの近くに周囲五〇〇余メートルといわれる大塚古墳(円墳)があったが、いまはみられない。
昭和五十九年三月
東京都


「大塚古墳」

 案内碑では、大塚古墳の在りし日のスケッチを見ることが出来ます。

<参考文献>
歴史図書社『岩淵町郷土誌』
東京都北区『北区史 通史編 原始古代』
北区史を考える会『会報 第8号』
北区史を考える会『会報 第24号』
現地説明版

  1. 2014/05/10(土) 23:52:09|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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「庚塚」

「庚塚」

 画像は、北区赤羽西5丁目にある「赤羽スポーツの森公園」を西から見たところです。この周辺に所在したとされているのが「庚塚」です。
 昭和5年(1930)に発行された『岩淵町郷土誌』にはこの「庚塚」について次のように書かれています。
 
庚 塚 同字庚塚1435にあったものは、同書に「一畝六歩、官有地」と見えているが、今はその形跡も残っていない。(『岩淵町郷土誌』361ページ)

 また、同じ『岩淵町郷土誌』の「大塚古墳」の項にもこの「庚塚」についての記述が見られます。


[大塚古墳]
 赤羽の臺地陸軍用地となってゐる原の中に一つの古墳がある。形式は所謂圓形墳に属するもので、周圍約百七十尺、高さ約十五尺程あり、この近郊では大きな部に入る方である。(明治初年の測圖によると百坪餘あった)元はこれを中心として十三の古墳が點在してゐて十三坊塚と呼んだものだと云ふ。想像すれば之はこの地方の豪族の葬られた所で、小墳は陪塚ではなかつたかと考へられる。
 附近の地は大塚と云ふが、勿論この古墳から起つたものであらう。小石川の大塚・王子町上十條の大塚等も古墳から来た地名である。尚此處から南方七町程、今火工廠稲付射場の裏手の柵の際にも稍小さい圓形墳が辛じて残つてゐる。又被服廠の構内となつた所にも以前は餘程古墳があつたし、附近には庚塚と云ふ小字名もあるので、この一帯に古墳群の在つたことが考へられる。昔の人はこの多い古墳を見て、此處に何時か大戦争があつて、その戦死者を埋めたのだと云ふ戦争傅説を生み出したが、元より古墳は其のやうなものではない。第三章に記したやうに上代文化所産の貴重な遺跡であつて、その中に包藏されてゐる種々の副葬品によつて、記録以外の史實を探究することが出来るのである。(『岩淵町郷土誌』359〜360ページ)


「庚塚」

 「大塚古墳」のすぐ南側に所在したこの「庚塚」は、「十三坊塚」と呼ばれた古墳群のうちの1基ではないかと考えられます。塚は残念ながら消滅しており、痕跡は見当たりませんでした。
 稲付字庚塚1435という番地は現在の「赤羽スポーツの森公園」の周辺にあたりますが、正確な所在地はわからず、また「庚塚」という小字名も町名の改称により消滅しています。。。

<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
歴史図書社『岩淵町郷土誌』

  1. 2014/05/01(木) 22:18:53|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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