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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「山吹塚」

「山吹塚」

 画像は、京成町屋駅の東側、荒川区荒川7丁目にある「泊船軒」を東から見たところです。この寺内に「山吹塚」の碑があり、太田道灌の言い伝えが残されています。

 『新修荒川区史 上』にはこの道灌の伝説について、次のように書かれています。


 三河島七丁目の泊船軒の寺内に山吹塚という塚がある。太田道灌一日放鷹に興じていると、急雨頻りに降り来つたので、路傍の農家に入つて蓑を借ろうとした時、内から一人の少女が出できて、無言の儘に山吹の花を捧げた。道灌は少女の意を悟り得ず、憤り帰つて近臣にことの由を告げた。家臣の一人に「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑にかけた)一つだになきぞ悲しき」の歌の心をもつて答えたものがあって、道灌はこれから和歌の道を学ぶようになつたという。少女は「後拾遺集」に中務卿兼明親王の詠として、

  小倉の家にすみはべりける頃、雨のふりける日、蓑かる人のはべりければ、山吹の枝を折てとらせはべりけり。心もえでまかりすぎて、またの日山吹のこころもえざりしよしいひおこせてはべりける返事にいひつかはしける。

と出ている先の歌の心をもつて答えたのであつた。文武の嗜深かった道灌が、その歌の心を解き得なかつたというのはおかしいが、この伝説は不思議と人気があつて、諸所にその遺跡と称する場所がある。三河島町の花の木の地もその一つで、当時この付近に居住していた土豪高畑三左衛門の娘が、山吹の花を太田道灌に捧げたと伝えられている。今も荒川沿岸に三左衛門河岸の名が残つており、小字に高畠の名が残つているところから見て、その昔この地の豪家に高畠三左衛門という人の居つたこと事実であろう。そのまな娘に纏る伝説として、優雅な佳話の語り伝えられたことをゆかしいと思う。(『新修荒川区史 上』687〜688ページ)

 豊島寛彰著『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』では、この説話は作り話であり以前の住職が名所作りをして寺名の宣伝に資したのであるとしていますので、どうやらこのお話は史実ではないのかもしれませんが、不思議と良い話だなあと思えてしまいますね。


「山吹塚」

 このお寺の山門を入った左手にあるのが、画像の「山吹塚」です。元あった塚は完全に消滅しており、周囲の開発により現在の場所に移動しているようですので、この地点が塚の跡地というわけではないようです。

<参考文献>
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』
学生社『荒川区史跡散歩』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
現地説明版

  1. 2014/06/27(金) 01:36:40|
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「蛇塚」

「蛇塚」

 画像は、荒川区西日暮里1丁目にある「蛇塚」を南から見たところです。

 往時は周囲に広がる田畑の中に存在していたといわれる「蛇塚」ですが、現在は開発により塚は削平され、住宅街の一角に石碑のみがひっそりと残されています。敷地内には荒川区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。


   蛇塚

 新堀村字蛇塚と呼ばれたこの地は、江戸時代は
新堀村と谷中本村との入会地で、塚は両村の境に
位置していた。蛇塚という字名は、この塚に由来
する。
 文政十一年(一八二八)年成立の江戸時代の地誌
『新編武蔵風土記稿』には「蛇塚 陸田の内にあ
り」と記されており、昔は田畑の中に祀られてい
たことが分かる。
 現在の碑は、大正の初めに折田長次郎氏によっ
て再建されたもの。蛇塚の名称を後世に残すため
に建てられたという。「蛇塚弁財天」として祀ら
れている。
              荒川区教育委員会


「蛇塚」

<参考文献>
東京都荒川区教育委員会『日暮里の民俗』
現地説明版

  1. 2014/06/25(水) 00:59:42|
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「無名塚」

「無名塚」

 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』には、旧三河島村と町屋村における当時所在のわかる16ヶ所(21基)の塚が記載されています。同書によると旧大字町屋字荒川附にも1基、名称のない塚が所在したとされており、その所在地は荒川附1590番地であると書かれています。
 この周辺は当時と比べて大きく地形が変わっているため塚の正確な所在地は推定することは難しく、あまり深追いはしなかったのですが、大雑把に大体このあたりかなと思われるのが画像の荒川区町屋7丁目、「荒木田東」交差点の辺りです。周囲を散策しましたが特に塚の痕跡らしいものも見当たらず、残念ながら塚は完全に消滅しているようです。


「十三坊塚」説明板

 西に1km程の「尾久の原」と呼ばれたあたりには古墳群ではなかったかと考えられている「十三坊塚」と呼ばれる塚があり、江戸時代には12基が、また大正時代に入っても8基が残されていたという記録が残されています。おなじ隅田川沿いに所在したこの無名の塚が古墳であった可能性もあるかもしれません。。。
 

「荒木田の原」説明板
 
 南に200m程進むと「荒木田の原」と呼ばれたあたりに、荒川区教育委員会による説明板が設置されています。荒川区内では史跡や文化財の説明板が数多く目についた気がしますが、思わぬところに立てられている説明板を発見するのも楽しみのひとつかもしれません。


「ハンノキ山」説明板

 更に南に進むと、「草履塚」が所在したとされる「榛の木(はんのき)山」があったところで、「荒川区立第五中学校」の校門前に説明板が設置されています。周辺には「三つ塚」と呼ばれる3基の塚が所在したともいわれています。

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』

  1. 2014/06/22(日) 02:56:19|
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「水塚」

「水塚」

 正保2年(1645)3月、村内の百姓である与次右衛門が一夜の霊夢により観音の像を鋳造して、「水塚」と称して小堂に安置したのが「清水観音堂」です。かつては江戸三十三観音の第三札所となり三河島の名所として知られていたそうで、多くの参拝人で賑わったといわれています(清水観音堂とは開創の清水の姓をとったからで、「きよみず」ではなく「しみず」と呼ぶのだそうです)。その後、この清水観音堂は次第に荒廃して、昭和60年頃に境内が整理されたことによりお堂もなくなり、現在は残された敷地の一部に清水家の墓塔と庚申塔が建立されているそうです。

 画像が、その水塚が所在したとされる、荒川区荒川2丁目にある清水観音堂の跡地を東から見たところです。昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』によると、当時所在が判明する19ヶ所の塚のうちの1基として「水塚」を記載しており、「水塚は今の役場北隣、観音堂の地がそれである。」と紹介しています。すでに周囲は開発により宅地化され、残念ながら塚も削平されているようです。。。

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』

  1. 2014/06/18(水) 01:59:09|
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「三山塚」

「三山塚」
 
 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』には、旧三河島村と町屋村における当時所在のわかる16ヶ所(21基)の塚が記載されています。同書には旧番地ながらも当時の所在地が記してあるので、おおよその跡地を推定する事が出来ます。
 画像は、荒川区荒川3丁目にある「浄正寺」を西から見たところです。『三河島町郷土史』にはこの周辺に所在したとされる「三山塚」について、「三山塚は法界寺と浄正寺の間に突起する三つの小丘がそれである」と書かれており、周辺に多くの塚が存在したことを伺うことが出来ますが、その所在地はわからなくなっているようです。
 かつては法界寺の裏あたりを「三山」と称していたそうで、昭和11年の町会名にも「三山会」とあり、また明治通りに面したところに戦前まで「三山倶楽部」という演芸場が所在したそうです。現在この周辺は宅地化されており、塚の痕跡は残されていないようです。


「三山塚」

 「浄正寺」の敷地内には「茶筌塚」と刻まれた石碑が立てられていました。


「三山塚」

 画像は、浄正寺の敷地内にある「三河島観音(三河島事故慰霊碑)」です。

 昭和37年5月3日、ゴールデンウィークの連休の真っ只中に事故は起こりました。多くの行楽客を乗せた上野発取手行き六両連結の電車に、信号を無視した田端発45両編成の貨物列車が車止めに乗り右に傾いて接触、国電2両と貨物列車、機関車も脱線します。乗客は暗闇の中、避難しようと先をあらそって土手に降りましたがその1分後、この事故に気がつかない取手発上野行きの列車がこの下り列車に突っ込んでしまいます。死者166名、重軽傷者151名という「国電三河島事故」はこのようにして起こったそうです。事故による死傷者は真土小学校に収容され、遺体はこの浄正寺に運ばれたそうで、その後の事故直後の現地での慰霊祭、そして一周忌の追悼式も浄正寺で行われています。
 本堂前のこの慰霊碑は、事故の一周忌に建てられているそうです。。。
 
<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』

  1. 2014/06/15(日) 03:47:15|
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「雉子塚」

「雉子塚」

 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』には、旧三河島村と町屋村における当時所在のわかる16ヶ所(21基)の塚が記載されています。同書には旧番地ながらも当時の所在地が記してあるので、おおよその跡地を推定する事が出来ます。
 画像は、荒川区町屋2丁目にある「第四峡田小学校」を南から見たところです。この敷地内に所在したとされる「雉子塚」も同書に紹介されている塚のうちの1基で、「往古、塚の上に雉子が多く棲んでゐたる爲、里人之れを雉子山と唱へたのであると云ふ。此の雉子山は最近までその痕跡が残つていたが、大正十四年第四小學校創立の祭に敷地内に編入され、取り潰された。」と書かれています。残念ながらこの雉子塚も削平されて残されていないようです。


「雉子塚」

 敷地内には大きな築山が築かれています。これは雉子塚ではなく後に造られた築山であるようですが、見かけた時にはビックリしました!

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』

  1. 2014/06/12(木) 01:49:51|
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「草履塚」

「草履塚」

 尾久と千住の間、町屋8丁目と同1丁目の一帯はかつては荒木田の原といわれ、江戸時代後期のころは郊外の散策地として知られていたそうです。特にスミレやレンゲ草などが一面に咲き誇る絶景であったそうで、文政10年(1827)に刊行された『江戸名所花暦』にも紹介されています。この荒木田の原の南側、現在の荒川区立第五中学校の敷地から隅田川にわたったあたりに「榛の木(はんのき)山」があり、そこに「草履塚」と呼ばれる塚があったとされています。

 画像は荒川区町屋1丁目にある「区立第五中学校」を西から見たところです。この五中の校門の前には荒川区教育委員会による説明板が設置されており、「榛の木山」について次のように書かれています。

   ハンノキ山
 区立第五中学校(町屋1-37)から都下水道局
の町屋ポンプ所にいたる、隅田川に沿った一帯は
かつて「ハンノキ山」と呼ばれた。
 ハンノキとはハリキリの変化した語、元来山野
の湿地に生息する落葉高木で、高さ15メートルほ
どになる。
 隅田川沿岸のハンノキの林は、護岸を目的に江
戸時代に植えられたともいわれる。
 昭和の初めころまでこの付近には、数十本のハ
ンノキが残っていた。小川や水溜まりには小魚や
カニ、蛙といった生き物がたくさんおり、子供た
ちにとっての格好の遊び場だった。
              荒川区教育委員会


 この説明板には塚についてはふれられていないようですが、『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』に町の古老の話として「榛の木山付近は一面の葦の原で、加賀千代の伝えがある草履塚と呼ぶ塚があり、博徒が博打をうっていたこともある。榛の木山はかなりの森で木は二千本から二千五百本位あり、根が張り、天保持代に護岸のために植えたといわれている」と書かれており、また別の古老の話として「子供のころ脱いだ着物を草履塚の上に置いて隅田川で水遊びをよくした。塚の上の碑に俳句がきざんであって、何でも加賀千代の死体が流れ着いた所との言い伝えである」とも書かれています。


「草履塚」

 同じ隅田川沿いでは、尾久の「十三坊塚」が古墳であった可能性が指摘されており、また千住の素盞雄神社に所在する「瑞光石」も古墳の石材ではないかといわれており、この「草履塚」を含めた町屋や三河島に存在した多くの塚が古墳であった可能性も考えられるかもしれませんが、現在は開発が進み、榛の木山も草履塚もその位置すらわからなくなっています。

<参考文献>
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』
学生社『荒川区史跡散歩』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』
現地説明版

  1. 2014/06/07(土) 02:18:52|
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「石地蔵塚」

「石地蔵塚」

 画像は、荒川区荒川1丁目にある「サンパール荒川」を南から見たところです。この附近にかつて「石地蔵塚」と呼ばれる塚があったとされており、古墳であった可能性も考えられているようです。

 かつてのこの「石地蔵塚」の前には一本の道があり、この道は奥州街道箕輪の里から中仙道板橋宿まで抜ける主要道路だったそうです。村人が旅に出る際には、三河島村の東のはずれにあるこの石地蔵塚の前まで見送って旅の安全を祈り、また出迎えの際には旅の無事を喜び合う場所にもなっていたそうで、村人の目印のような場所になっていたようです。
 この地蔵塚の前には、現在の明治通りを横切るように「地蔵堀」と呼ばれる用水堀が流れていたそうですが、この地蔵堀は現在は道路となっています。また、周囲に広がっていた田園や雑木林は開発により宅地となっています。周辺にはかつては数多くの沼が存在しており、鮒やメダカ、ドジョウなどが名物だったようでが、開発の進んだ今では想像もつきませんね。


「石地蔵塚」

 この「石地蔵塚」について、昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』には次のように書かれています。

 「石地蔵塚」今三河島警察署西隣に安置する石地蔵を指して、世人石地蔵塚と稱してゐる。此の石地蔵は大正十四年道路改正の際に同所の前に位する字大豆田一一九〇番地世俗大ドブと呼ぶ用水堀の傍らより現在の場所へ移したものである。地勢上から見ると之れも往古よりあつた古墳の跡であつたらしい。元文五年浄正寺十三世寛譽和尚が願主となり、今の石地蔵を建立し、村の老若男女が村内安穏、家内安全、五穀成就の願望をなした所であると云ふ。(『三河島町郷土史』335ページ)

「石地蔵塚」

 画像が現在の「石地蔵塚」です。敷地内には荒川区教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。
 
地蔵堀の石地蔵
 この石地蔵は、地蔵堀と呼ばれた用水堀の傍ら
(現、サンパール荒川)に南向きに立っていた。
大正十四年、現在位置へ移され北向きになった。
地蔵堀は今は道路になっている。
 石の台には元文五年(一七四〇)に浄正寺十三
世、寛誉が願主となり、三河島村の村人の尽力で
再建されたことが刻まれている。当時、ここは三
河島村の集落のはずれで、付近のよい目じるしに
なっていたばかりでなく、村人が旅立つ際に道中
の安全を祈願したといわれる。今も交通安全祈願
の地蔵として祀られている。
              荒川区教育委員会


<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』
学生社『荒川区史跡散歩』
現地説明版

  1. 2014/06/05(木) 01:48:10|
  2. 荒川区/町屋-三河島 微高地
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「おかめ塚」

「おかめ塚」

 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』には、旧三河島村と町屋村における当時所在のわかる16ヶ所(21基)の塚が記載されています。同書には旧番地ながらも当時の所在地が記してあるので、おおよその跡地を推定する事が出来ます。三河島に所在したとされる「おかめ塚」については同書の334~335ページに「おかめ塚と稱するのは今の前沼三〇六六番先が其跡であると云ふ。坪數にして二坪ばかりあり往古より、おかめ塚と呼ばれ其の由緒は不明である。所在地も今人家稠密して判然としない。」と書かれています。

 荒川区の教育委員会から発行された『荒川(旧三河島)の民俗』にはこの「おかめ塚」の推定地について「現在の荒川3丁目60番地附近か」としていますが、旧番地の前沼三〇六六番を調べてみると画像の右側あたりが推定地ではないかと思います。『三河島町郷土史』と『荒川(旧三河島)の民俗』にかかれている住所のどちらが正しいのか、それとも同じ地点を指しているのか、周辺は宅地となり塚は消滅しているため、詳細はわかりません。。。

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』

  1. 2014/06/03(火) 00:41:18|
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「庚申塚」

「庚申塚」

 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』には、旧三河島村と町屋村における、当時所在のわかる16ヶ所(21基)の塚が記載されており、このうち「庚申塚」として4ヶ所が紹介されています。この『三河島町郷土史』には旧番地ながらも当時の所在地が記してあるので、おおよその跡地を推定する事が出来ます。
 画像はこの4ヶ所のうちの1基、三河島243番地の「庚申塚」は、荒川区荒川5丁目の画像の周辺に所在したのではないかと思われます。画像の、車の止まっている右側あたりが塚の推定地かなと思いますが、確証はありません。
 同書の334ページには「二四三番地に所在せしと云ふ庚申塚は高さ、二丈五尺餘坪數にして二十坪餘もあつたと云ふ。」と書かれており、当時まだ塚の言い伝えが残されていたようですが、塚は残念ながら消滅しており、庚申塔などの塚の痕跡も残されていないようです。。。

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』
東京都荒川区教育委員会『荒川(旧三河島)の民俗』

  1. 2014/06/01(日) 00:35:54|
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