FC2ブログ

古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「板橋区№155遺跡(一夜塚)」

「一夜塚」
 
 「一夜塚」は、板橋区前野町5丁目に所在したとされる塚です。大永四年に志村城を攻め寄せた北条氏の軍勢が一夜のうちにこの塚を築き、城を攻め落としたことにより「一夜塚」と呼ばれるようになったという言い伝えがあり、この周辺では有名な塚であったようです。『板橋区史』には「大正五年に大部分が掘崩して畑になった。その際に何も出たことを伝えないが、或囲は古墳であったかと思われる。」と書かれており、古墳であった可能性も記されています。

 『東京都遺跡地図』のインターネット公開版では、板橋区の遺跡番号155番に登録されている名称のない塚がこの「一夜塚」で、この塚の跡地であるとされている前野町5丁目10番周辺は現在野球のグラウンドとなっています。この地点が推定地で間違いないのであれば、遺跡地図に記されている一夜塚の位置はかなりズレがあることになりますが、塚が消滅してしまった現在、正確な跡地はわからなくなっているようです。

 この塚については多くの文献に記述が見られ、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「村ノ中程ニアリ。二間四方。往昔志村ノ城ヲ攻ントテ。寄手一夜ノ内ニ此塚ヲ築キ。遂ニ城ヲ攻落セシ故ノ名ナリ。」と、また『江戸名所図会』には「同じ所、西南の畑の中にあり。この地を前野と号す。相云ふ、小田原北条家の時、千葉家の城を攻め落とさんとして、寄手の軍兵この地に於て一夜の間に炮坐を築き、城へ向けてこの塚上より大発炮を放ち、遂いに城兵を焼き討ちにせしといふ。」と、また大正7年(1918)に発行された『北豊島郡誌』には「大字前野にありたり。面積175坪、直立24尺、新編武蔵風土記稿には二間四方とす。古老相云ふ、千葉家の志村城を攻め落とさんがため寄手の軍勢一夜に此塚を築き、塚上より大砲を放ち遂に城を攻落せしと云ふ、但大正5年春頃之を毀しるちて畑地となし今其形跡なし。」と書かれています。


 この「一夜塚」について調べてみたところ、なかなか興味深い記事を見つけました。まず、板橋区史編さん調査会から平成10年に発行された『板橋区史 通史編 上巻』の「一夜塚」の項には次のように書かれています。

 …さらに戦国期の北条氏については、大永四年(1524)北条氏綱による江戸城攻めに際して、志村城が攻略されたという伝承が前野西熊野神社に残っている。
 このとき、当社の旧地一夜塚には、対面の舌状台地にある志村城に向け砲台が造られたという。これはまた『異本小田原記』(『資料編2』史料405)の記事にみられるような上杉方と氏綱方との板橋攻防戦の記述内容との関連性がみられ、まことに興味深い。このような伝承は、支配者と当地域とのかかわりを知る手がかりとして、見逃すことはできないのである。(『板橋区史 通史編 上巻』292ページ)

  
 この記述に対して『板橋史談 第193号』には木村博氏により次のように書かれていました。

 …ところで、私が面白かったのは、いわずと知れたことだが、「一夜塚」が「対面の舌状台地にある志村城に向け砲台が造られたという」とある部分である。それは大永四年の合戦に「砲台」があったとは到底思えないからである。
 わが国における「鉄砲の伝来」は、天文12年(1543)に、ポルトガル人が種子島に漂着した際に伝えられたとされているからである。
 この程度の歴史は、小学校の教科書にも出ていたかと思うが、私が「面白かった」のは、「伝承」というものの一面を考える上で「考えさせられた」からであった。
 伝説が少しずつ「ふくらんで」ゆく(オーバーになってゆく)類である。それを証明するような話だと思った。
 私どもが従来聞いていた「一夜塚」の伝説というのは「志村城を攻めたとき、寄せ手が「塚」(砦のようなもの)を造った」といった話であった。だが、まさかここに「砲台が築かれた」という話は初めてであった。私が「驚いた」理由である。(『板橋史談 第193号』2ページ)

 『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』といった江戸時代の文献に書かれている内容が誤りであるのか、それとも天文12年(1543)以前に既に「鉄砲の伝来」があったのか真相はわかりませんが、「言い伝え」というのは尾ひれが付いていくもので「伝説」がイコール「史実」ではないということは理解できるところで、なかなか興味深い話だなと思います。
 何よりも、これだけの伝説が残されている「一夜塚」がこわされて消滅してしまったのは残念なことですね。。。


「一夜塚」

 この「一夜塚」に建てられていたという三峯神社の石祠は、近くの「西熊野神社」に移されて残されています。他に庚申塔が3基と榛名神社の石祠も並んで立てられています。そして、境内には板橋区教育委員会による説明板が設置されていて、この「一夜塚」についての記述もみることができます。
 

「一夜塚」
 
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
板橋区史編さん調査会『板橋区史 通史編 上巻』
板橋史談会『板橋史談 第193号』
板橋史談会『改訂版 いたばし郷土史辞典』
いたばしまち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』
現地説明版

  1. 2014/08/30(土) 01:19:46|
  2. 板橋区/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「中里の富士塚(大泉富士)」

「中里の富士塚(大泉富士)」

 画像は、練馬区大泉町1丁目にある「八坂神社」の境内を南西から見たところです。社殿の向かって右手に築かれているのが「中里の富士塚(大泉富士)」です。

 富士塚は、この周辺の字名が「中里」であったため「中里富士」と呼ばれていますが、清瀬市中里にも同じ名前の富士塚があるため、「大泉富士」とも呼ばれているそうです。規模は、南側基部からの高さ約12メートル、径約30メートルあり、中里合目石に沿って頂上まで登ると36基の石造物が立てられています。中でも道祖神の碑は区内で唯一のものだそうです。
 石碑の最古のものは寛永7年(1854)造立の記念碑で、ついで古いものは慶応4年(1868)造立の記念碑で、丸吉講によって築造されたといわれる明治6年(1873)よりも古いものであり、富士塚が築造される以前にも、浅間社のような原型のようなものがあったあったのではないかと考えられています。


「中里の富士塚(大泉富士)」

 画像が、南から見た「中里の富士塚」です。塚の前面にはツツジが数多く植えられており、頂上付近のみがボク石で固められています。富士塚としては大型のものなのだそうで、とにかくデカイ!という印象ですね。この富士塚は開放されていますので、いつでも登拝することが出来ます。訪れた日には子供達が楽しそうに登って遊んでいたのが印象的でした。。。
 

「中里の富士塚(大泉富士)」
 
 塚の右裾のあたりに胎内と呼ばれる横穴がつくられており、入口に鉄柵が立てられています。


「中里の富士塚(大泉富士)」

 この中里の富士塚は、平成2年に練馬区の有形民俗文化財に指定されており、現在でも地元富士講によって毎年行事が行われているそうです。

<参考文献>
(財)日本常民文化研究所『日本常民文化研究所調査報告 第2集 富士講と富士塚―東京・神奈川』
現地説明版

  1. 2014/08/25(月) 02:21:50|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「清水山の行人塚」

「清水山の行人塚」

 画像は、練馬区大泉町1丁目にある「清水山憩いの森」を西から見たところです。この敷地内が禅海という僧が入定したという伝説の「行人塚」があったといわれている場所で、現在も小さな祠が残されています。

 画像が「清水山の行人塚」と呼ばれる祠を南から見たところです。この行人塚の伝説について、練馬区教育委員会から発行されている『練馬の伝説』には次のように書かれています。


 北大泉町に別荘橋という橋がある。その橋のたもとに、村人たちが行人塚と呼んでいるところがある。この塚は、教学院の過去帳に記されているところによれば、明暦3年8月に歿した禅海法師を葬ったものであることがわかる。この禅海法師にまつわる話が、次のようにいい伝えられている。
 別荘橋のたもと、白子川に面したところに一つの洞穴があった。この洞穴に、いつの頃か一人の僧がやってきて住つくようになった。やがて年老いた日々を送るようになった僧は、行脚にも出ず念仏に明けくれたのである。そして、ある日、里人に言うには、もし、愚僧の念仏の鐘の音が絶えてしまったときには、愚僧が臨終のときである。そのままにしておいてくれれば、墓になるであろうと。
 現在、清水谷公園の一隅に祠があるが、誰がいつ頃造ったものかわからない。
別荘橋というのは別の荘家があったという所から名づけられたという。(『練馬の伝説』139ページ)


 かつては塚の盛土があったのではないかとも思いますが残念ながらそれらしき痕跡は見当たらず、また僧が住みついたという洞穴が横穴墓である可能性も考えましたがこれも痕跡は見当たらず、平成22年(2010)年3月に刊行された『東京都遺跡地図』のインターネット公開版には、練馬区内の古墳は1基も登録されていないのですが、やはり練馬区に古墳は存在しなかったのでしょうか。。。

 敷地内にはこの小さな祠がひっそりと残されています。。。

<参考文献>
練馬区教育委員会『練馬の伝説』
現地説明版

  1. 2014/08/22(金) 03:15:37|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

「良辨塚」

「良辨塚」

 画像は、練馬区中村3丁目にある「良辨塚」を南から見たところです。
 塚は、西武池袋線中村橋駅から徒歩7~8分程の、住宅街の一角に整備されて残されています。敷地内には練馬区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。


    良 辨 塚

 良辨僧都は、南北朝時代の僧侶で、ここから五百メートルほど東にある南蔵院の中興一世です。良辨は、日本各地の霊場を巡拝し、数百部にのぼる法華経(妙法蓮華経)を書き写して奉納して廻りましたが、最後にたどり着いたこの中村の南蔵院に滞留し、周辺の人々を教化したと伝えられています。
 この塚は、碑文によると延文二年(1357)三月二十一日に建立されています。南蔵院は真言宗の寺院ですので、開祖である弘法大師(空海)が高野山で入定した承和二年(835)三月二十一日の月日に合わせて建てられたと考えられています。建立時に経筒(直径三センチ、高さ十センチで銅製の筒)が埋納され、江戸時代に塚を改修した後は南蔵院に保管されています。建立当時この場所は、鎌倉街道の一つに面しており、街道から南蔵院に入る角に経塚を築いて供養し、人々の幸せを願ったのでしょう。
 なお、『新編武蔵風土記稿』に良辨僧都を永正年間の人と記しているのは誤りです。また奈良時代に東大寺の大仏造立に尽力した別当良辨僧正とは別人です。
 敷地内にある庚申塔や道標などの石造物は、後にこの地に移されたものと考えられます。

  平成二十三年三月               練馬区教育委員会


「良辨塚」

 経筒が発掘されていることからこの良辨塚は「経塚」ということになると思いますが、残念ながら塚は削平されているようです。
 敷地内には庚申塔数基の他に、石憧七面六観音勢至道しるべが保存されています。

<参考文献>
練馬区立石神井公園ふるさと文化館『ふるさと練馬探訪』
現地説明版

  1. 2014/08/20(水) 00:36:39|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「圓淨法師塚(耳塚)」

「圓淨法師塚」

 画像は、練馬区春日町5丁目にある「圓淨法師塚 (えんじょうほうしづか)」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 この塚の形状は直径約10m、高さ約1.5mの円墳状の塚で、南西側の一部が道路により削平されています。墳頂部には祠が建てられており、「圓淨法師位」と刻まれた明治44年(1911)に立てられたとされる石碑が祀られています。この地点はかつての上練馬村中ノ宮と高松の境にあたるそうなので、道しるべや境塚などの意味もあったのかもしれませんね。

 この塚には入定塚の伝承が残されています。周辺の村に住んでいた信仰心の深い老婆が入定塚に入り、鐘をたたきながら往生したと云われており、その後、耳の悪い人が換気口の竹筒に耳をあてると耳が聞こえるようになったり、花立ての筒にたまった水で耳を洗うと耳の病気が良くなったりしたそうです。その後、たくさんの人が参詣に来るようになり、塚は「耳塚」と呼ばれるようになりました。

 塚は「練馬区立春日町かしのき緑地」という緑地公園として整備され、その一角に保存されています。今でもご近所の人に大切に供養されているようです。

<参考文献>
練馬区立石神井公園ふるさと文化館『ねりまの昔ばなし』
練馬区教育委員会『練馬の伝説』
練馬区公式ホームページ
現地説明版

  1. 2014/08/13(水) 01:33:50|
  2. 練馬区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「無名塚」

「無名塚」

 昭和7年 (1932)に発行された『三河島町郷土史』には、旧三河島村と町屋村における当時所在のわかる16ヶ所(21基)の塚が記載されています。同書には旧番地ながらも当時の所在地が記してあるので、おおよその跡地を推定する事が出来ます。

 『三河島町郷土史』によると、旧大字三河島千住南江川にも1基、名称のない塚が所在したとされており、この塚の所在地に当時の番地までは書かれていないものの「千住南板紙工場材料置場に編入されて取り潰された」と書かれています。古地図で確認すると画像の道路の右側の集合住宅のあたりが「板紙会社倉庫」となっているのですが、こちらは南足立群千住町字管谷にあたり、住所が違います。同書による三河島千住南江川とは画像の左右の道路の間の区画であるようですが、この区画はかなり広く、塚の正確な所在地を推定するには至りませんでした。

 この地点を掲載する画像に選んだのは、人文社より発行されている明治40年の『北豊島郡 日暮里村•三河島村•尾久村 全図』の復刻版のちょうど画像の地点に鳥居のマークが描かれていたからですが、墳丘上に神社が祀られていたかどうかは定かではありません。。。

<参考文献>
荒川区立荒川ふるさと文化館『三河島町郷土史』

  1. 2014/08/06(水) 01:38:35|
  2. 荒川区/町屋-三河島 微高地
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

カテゴリ

足立区/伊興古墳群 (4)
足立区/その他の古墳・塚 (9)
葛飾区/立石古墳群 (3)
葛飾区/その他の古墳・塚 (10)
江戸川区の古墳・塚 (0)
板橋区/志村古墳群 (10)
板橋区/その他の古墳・塚 (36)
北区/赤羽台古墳群 (2)
北区/十条台古墳群 (2)
北区/飛鳥山古墳群 (8)
北区/田端西台通古墳群 (1)
北区/その他の古墳・塚 (14)
荒川区/尾久 微高地 (4)
荒川区/町屋-三河島 微高地 (19)
荒川区/南千住 微高地 (3)
荒川区/日暮里 台地上 (2)
台東区/上野台古墳群 (5)
台東区/その他の古墳・塚 (7)
墨田区の古墳・塚 (4)
練馬区の古墳・塚 (16)
豊島区の古墳・塚 (3)
文京区の古墳・塚 (8)
杉並区の古墳・塚 (18)
中野区の古墳・塚 (17)
新宿区の古墳・塚 (19)
千代田区の古墳・塚 (7)
目黒区の古墳・塚 (9)
渋谷区の古墳・塚 (19)
港区の古墳・塚 (8)
品川区/品川大井古墳群 (7)
品川区/その他の塚 (15)
大田区/田園調布古墳群 (34)
大田区/鵜の木・久が原古墳群 (8)
大田区/その他の古墳・塚 (52)
世田谷区/野毛古墳群 (24)
世田谷区/殿山古墳群 (9)
世田谷区/大蔵古墳群 (0)
世田谷区/砧中学校古墳群 (2)
世田谷区/喜多見古墳群 (13)
世田谷区/砧古墳群その他 (8)
世田谷区/その他の古墳・塚 (18)
武蔵野市の古墳・塚 (3)
三鷹市の古墳・塚 (7)
狛江市/狛江古墳群(和泉) (34)
狛江市/狛江古墳群(岩戸) (13)
狛江市/狛江古墳群(猪方) (29)
狛江市/その他の古墳・塚 (1)
調布市/国領南古墳群 (2)
調布市/下布田古墳群 (16)
調布市/上布田古墳群 (7)
調布市/下石原古墳群 (2)
調布市/飛田給古墳群 (17)
調布市/その他の古墳・塚 (13)
府中市/武蔵府中熊野神社古墳 (2)
府中市/白糸台古墳群 (14)
府中市/高倉古墳群 (32)
府中市/御嶽塚古墳群 (19)
府中市/その他の古墳・塚 (15)
国立市/下谷保古墳群 (12)
国立市/青柳古墳群 (3)
国立市/その他の古墳・塚 (9)
立川市の古墳・塚 (14)
稲城市の古墳・塚 (12)
多摩市/和田古墳群 (15)
多摩市/その他の古墳・塚 (8)
日野市/平山古墳群 (7)
日野市/西平山古墳群 (5)
日野市/七ッ塚古墳群 (9)
日野市/万蔵院台古墳群 (4)
日野市/その他の古墳・塚 (12)
町田市/能ケ谷香山古墳群 (0)
町田市/その他の古墳・塚 (21)
八王子市の古墳・塚 (33)
昭島市の古墳・塚 (12)
あきる野市/森山古墳群 (3)
あきる野市/草花古墳群 (14)
あきる野市/御堂上古墳群 (4)
あきる野市/瀬戸岡古墳群 (7)
あきる野市/牛沼古墳群 (3)
あきる野市/その他の古墳・塚 (16)
日の出町の古墳・塚 (2)
青梅市の古墳・塚 (16)
西東京市•東久留米市の塚 (5)
小金井市•国分寺市の塚 (4)
東村山市•東大和市の塚 (9)
武蔵村山市•瑞穂町の塚 (17)
川崎市の古墳・塚 (47)
横浜市の古墳・塚 (0)
相模原市の古墳・塚 (7)
栃木県の古墳 (13)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
壬生町•上三川町 (5)
長野県の古墳 (6)
群馬県の古墳 (8)
茨城県の古墳 (5)
埼玉県の古墳 (2)
千葉県の古墳 (1)
未分類 (9)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR