
「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」には、板橋区徳丸6丁目に年代不詳とされる板橋区の遺跡番号144番の塚が1基、登録されています。遺跡地図を参考にすると、画像の道路の右側あたりが塚の跡地であるようでが、開発が進んだ現在は宅地となっており、塚の痕跡は残されていないようです。
板橋区役所より昭和29年に発行された『板橋区史』67ページの古墳表にはこの周辺の塚として2基が掲載されています。1基は徳丸本町1720番地に所在したとされる塚で「上に墓地あり」とされており、もう1基は同じ徳丸本町1723番地の「上に小祠あり」とされる塚です。かなりの近距離に2基の塚が存在したようですが、どちらがこの144番の塚であるかはよくわかりませんでした。

画像は、同じ板橋区徳丸6丁目にある「北野神社」を南西から見たところです。144番無名塚のすぐ西方にあり、この神社の地も古墳であるという言い伝えがあるようですが、これも詳細はわかりません。以前に紹介した、「姥塚」に立てられていたとされる出羽三山の石祠が移されて祀られているのがこの北野神社です。
板橋区内に存在したとされる塚のほとんどは発掘調査されることもなく消滅しており、果たして古墳であったのか後世の塚であったのかはわからないのが現状です。東京都遺跡地図に掲載されている塚の中ではっきりと古墳であるとされているのは、周溝が検出されている遺跡番号141番の古墳の他には、調査の結果、古墳であるとされながらも不明な点が多い158番の「お伊勢塚」と、埴輪が出土したと伝えられている151番の古墳くらいで、139番の「無名塚」や159番の熊野神社境内に所在する「無名塚」、163番の「小豆沢観音塚古墳」も未調査で、古墳であると断定はされていません。
ただし、「東京都遺跡地図」には未登録ながらも1935年に「志村古墳群1号墳」と「2号墳」が緊急発掘され、1号墳から切石積横穴式石室が発見されていますし、その後の発掘調査により「四葉地区遺跡」から5基、「菅原神社台地上遺跡」から2基の古墳の周溝が、また近年にも「西台後藤田遺跡」からも1基の古墳の周溝が検出されています。恐らく相当数の古墳がこの板橋区内に存在したのではないかと想像してしまいますが、見ることが出来ないのが残念です。

北野神社の境内には富士塚が残されています。。。
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
板橋まち博友の会『板橋の史跡を訪ねる』
- 2014/10/30(木) 02:33:57|
- 板橋区/その他の古墳・塚
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画像は、板橋区西台1丁目にある「東京都立志村学園」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、画像の周辺に「飛鳥塚」が登録されています。板橋区の遺跡番号145番の年代不詳の塚です。残念ながら塚は跡形もなく消滅しており痕跡すら見当たりません。名称のある塚ですから何か伝承や由来等が残されているのかもしれませんが、詳細はわかりませんでした。
『いたばし風土記』にはこの周辺地域の古墳の言い伝えについて次のように書かれています。
この付近の道路が今のように整備されない昭和25、6年頃、まだ若木町へ通じる道路もなく谷川の流れがちょろちょろ流れ落ち、野鳥の「こじっけい」の親子が道の真中で人影をみてもあわてるでもなくたわむれていました。通りがかりのお百姓さんと道ばたで、人なつかしさにならんで一休みした時、こう話してくれました。
「ほら、この谷川の左手の雑木林の下に、おれんちの荒地がある。畑にしようと思って掘ったところ沢山の土のがならんで出て来た。骨つぼかも知れない。気味がわるいのでそのまま埋めちもうた」
どうも、このお百姓さんの見たは古墳の土留の円筒埴輪だったらしいのですが、そのままわからずじまいになってしまいました。今になってみますと惜しまれます。(『いたばし風土記』56ページ)
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
板橋区教育委員会『いたばし風土記』
- 2014/10/26(日) 04:00:50|
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画像は板橋区西台2丁目、天祖神社境内にある「浅間塚」を東から見たところです。「天祖神社」の境内の奥に現存しており、板橋区の遺跡番号146番の名称のない塚(年代不詳)として登録されています。
塚は天祖神社境内の左奥、高くなった台地上に所在します。位置的にいかにも古墳らしい場所に存在しますし、何より東京都内で古墳巡りをしていると、こういう残骸っぽい感じがむしろ古墳らしく見えてしまいます。ちなみにこの塚の所在する天祖神社の起源は古墳の上に祀られていた祠であると言い伝えられており、また昔は神社の小高い丘の上に古墳があり、そこで信仰が行われていたとも言い伝えられているそうです。

画像は、にある「天祖神社」を東から見たところです。 現地には板橋区教育委員会による説明板が立てられており、次のように紹介されています。
天祖神社
御祭神大孁貴命、大日孁貴命。
創建年代は不詳であるが、口碑によると当社は円墳の上に営まれた小祠に始まると伝えられ、西台村の鎮守であった。江戸時代には神明社と称したが、明治六年三月に社号を天祖神社と改称した。
当社の奥の山には御嶽山が祀られている。本殿左脇には、明治七年に京徳観音付近で発掘された石棒(石神―農耕子孫繁昌の神、長さ70cm、太さ20cm)を安置する。また本殿左奥の石祠は、「天王さま」とも呼ばれる八雲神社で、京徳地区(当社の西方)から明治四十年に現在地に移された。その石祠の三面には、中国の故事(鯉の滝のぼり、韓信の股くぐり、カメ割りの唐絵)がそれぞれ彫られている。
当社の大鳥居には寛政八(一七九六)年の刻銘があるが、これは神明造りの鳥居としては区内最古のものである。
平成六年三月 板橋区教育委員会
<参考文献>
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野)』
株式会社 学生社『板橋区 史跡散歩』
現地説明版
- 2014/10/23(木) 02:31:52|
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画像は、板橋区西台2丁目の天祖神社境内にある「御岳塚」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、板橋区の遺跡番号147番の名称のない塚(年代不詳)として登録されています。
西台の「一山元講」では、かつて12月の冬至に火渡りの神事が行われていたそうです。火渡りとは、薪を井桁に積んで燃やして、おき火になったところで青竹で分けて平らにして、その上を渡るのだそうです。この火渡りの火にあたると風邪をひかないといわれていたので、近隣の人たちも大勢集まったそうです。火渡りは大正初期に始まったといわれていて、昭和12年まで行われていた後途絶えてしまっていましたが、天祖神社の建て替えの際に境内で復活して行われたそうです。
この御岳塚が古墳を流用して造られているのかどうかは調査が行われないとわかりませんが、少なくともこの周辺地域に多くの古墳の言い伝えが残されており、この御岳塚が所在する「天祖神社」も円墳の上に営まれた小祠に始まると伝えられています。周辺に古墳が存在した可能性は高いのではないかと思われ、なかなか興味深い場所だと思います。

御岳塚の頂部のようすです。御岳祠が祀られています。
<参考文献>
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野)』
板橋区史編さん調査会『いたばし区史研究 第5号』
現地説明版
- 2014/10/16(木) 00:51:16|
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『東京都遺跡地図』によると、板橋区西台2丁目の天祖神社の敷地内に、板橋区の遺跡番号148番の名称のない塚(年代不詳)が登録されています。画像は、その推定地を西から見たところです。
天祖神社の敷地内には板橋区の遺跡番号146、147、148番の3つの塚が登録されています。146番の塚は「浅間塚」、147番の塚は「御嶽塚」として現存するようですが、この148番の塚は残念ながら消滅しているようすで、『東京都遺跡地図』に記されている地点は住宅か駐車場となっています。

天祖神社の境内には「おしわぶきさま」なる石神様が祀られています。現地の説明板には次のように書かれていました。それにしても立派なお姿。。。
おしわぶきさま(しゃぶきさま)
ご由来
「おしわぶきさま」は、男根の形をした石神様で、築造は古く天神の天降る頃(天孫降臨)と云われております。以前は、近くの京徳(神社南方の地域)に祀られておりましたが、明治初期に当社に移されてまいりました。
昔は、田畑の辻や村の境、橋のたもと等に「道祖神」として祀られて、道路の往来の安全を守り、疫病や悪神を追い祓い、五穀豊穣を願う農村の信仰として親しまれてまいりました。
また、御神体が石で作られていることから、「石神」が「せき神」、「しゃく神」と呼ばれ、それがいつしか「石(せき)」が「咳」に、「しゃく神」が「杓子」となり「しゃもじ」を奉納する風習がいまれたとされています。
<参考文献>
板橋区教育委員会『まち博ガイドブック(志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野)』
現地説明版
- 2014/10/10(金) 02:58:59|
- 板橋区/その他の古墳・塚
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『東京都遺跡地図』のインターネット公開版によると、板橋区若木2丁目の画像の地点に板橋区の遺跡番号149番の年代不詳の無名の塚が登録されています。
この塚に関する由緒や言い伝え等まったくわからず、古墳であったのか塚であったのか不明です。板橋区の場合、遺跡地図に残存マークが記されていながら、訪れてみると跡形もないというパターンは多いようです。
この周辺には古墳の言い伝えも残されており、また地形的にもいかにも古墳が存在しそうな台地上にあたるのですが、すでに塚は消滅しており宅地となっているようです。。。
- 2014/10/05(日) 23:46:20|
- 板橋区/その他の古墳・塚
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