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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「腰掛塚」

「腰掛塚」

 画像は、狛江市中和泉3丁目にある「伊豆美神社」を北から見たところです。この敷地内に所在したとされるのが「腰掛塚」です。

 「腰掛塚」は昭和35年(1960)の分布調査時には把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている当時の『狛江古墳群地名表』には、No.12番の円墳として取り上げられています。同書には「周囲よりわずかに起状 径10~15m 台地東側縁辺」とあり、当時古墳がまだ残されている様子が書かれています。その後の昭和51年の調査の際には墳丘は削平されて消滅していたようですが、「1976年調査時点で現存していないが、その存在が確認できるのも」として紹介されており、「伊豆美神社の南に位置し、現在は畑地となっている」と書かれています。『狛江市史』の「狛江古墳群一覧表」ではこの古墳について葺石が存在したことが記されているのですが、古墳が消滅した現在ではこれを確認することは出来ません。平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には消滅した古墳として取り上げられていますが、『東京都遺跡地図』には未登録となっています。


「腰掛塚」

 画像の中央に見えるのが、伊豆美神社の敷地内にある「御霊神社」です。かつてこの地が「腰掛塚」であったとも言われており、また「伊豆美神社の南に位置し、現在は畑地となっている」という説が正しいのであれば、手前の畑地のあたりが跡地となるかもしれません。残念ながら正確な所在地はわかりませんでした。
 以前、北区滝野川3丁目の「四本木稲荷神社」が、古墳から古墳へと移った世にも珍しい神社であると紹介したことがありますが、この伊豆美神社も「大塚山古墳」から「腰掛塚古墳」へと渡り歩いた神社ということになります。さらには、東和泉1丁目に所在したとされる熊野塚の墳頂に祀られていたといわれる熊野神社がこの伊豆美神社境内の神明社に、また諏訪塚の墳頂部に祀られていた諏訪神社が稲荷社に合祀されており、古墳とのかかわりの深い神社であると言えるかもしれませんね。


「腰掛塚」

 画像が「御霊神社」を北から見たところです。
 「腰掛塚」とは名前に由来があり、六所宮還宮の際に宮が腰掛けたという伝承によりこの塚名があるそうです。
 塚跡の畑地から円筒埴輪片が採集されており、また石棺があったという伝承も残されているそうですが、この石棺の所在はわかりません。埴輪片の特徴から、6世紀前半から中葉の築造と推定されています。


「腰掛塚」

 この敷地内に立てられている「御霊神社碑」にも腰掛塚について記されています。


御霊神社碑
 此の地は、古くから腰掛塚と称し、伊豆美神社の御祭神を多摩川の洪水により旧社地である大塚山(現在の水神社付近)から現社地に遷宮した際、仮宮を奉安した所とされる意義深い所である。
 1960年頃までに残存した形は、径15メートル程の起状があり塚の形態を残していた。又、此の地は往古御霊大神を鎮斎した、御霊神社跡地とも記されている。此の由緒に基づきここに御霊神社を再建する事にした。
 尚、参道の両端に配置した二十一個の石は、山王二十一社(山王一実神道)を祭った事から始まり、毎年七月二十一日は「御石祭り」と称し古式に則り祭典が行われていたと言う。この日は大変賑わったと伝えられている。
 参詣の人々等はこれらの御石をなで、その手で病におかされた所を撫で癒したと伝えられている。此の様に様々な歴史を辿り今に至っている。
今ここに其の形態は変わったが往古を甦らせ神霊を奉斎し鎮座す。
   平成九年七月二十一日    伊豆美神社


<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明版

  1. 2014/12/31(水) 04:17:54|
  2. 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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「大塚山」

「大塚山」

 画像は、狛江市元和泉2丁目に所在する「水神社」を西から見たところです。この周辺には「大塚山」と呼ばれる古墳が所在したといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の古墳です。

 この古墳は、昭和35年(1960)に行われた狛江古墳群の分布調査時に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている、当時の『狛江古墳群地名表』には、83番の「円墳」として紹介されています。同書にはこの古墳について「周辺よりわずかに起状する 台地南側の縁辺」とのみ書かれており、当時すでに古墳は削平を受けてかなり小さくなっていたようすが記されています。
 その後、昭和51年(1976)に行われた調査の際にも、この古墳は痕跡が確認されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』には、「現存しない古墳」の「1976年の調査時点で現存していないが、存在の可能性の高い古墳」の項に、「1976年調査時、周辺よりわずかに起状していたらしいが、今回の調査ではその起状が基壇状になっているのが認められた。」と書かれています。この時点でも、わずかな古墳の痕跡は残されていたようです。
 その後、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの古墳は取り上げられていません。


「大塚山」

 「水神社」の境内のようすです。敷地内に古墳に関係するような痕跡は残されていないようです。

 この大塚山には、かつて六所明神(現在の伊豆美神社)が鎮座していたといわれています。『狛江市史』にはこの六所明神に関するもっとも信憑性の高い古い伝承として「往古は玉川府字大塚山ト申に鎮座御座候処、天文十九年稀之洪水ニ而山内大半流出致、依之当社地江移遷奉」と書かれており、また伊豆美神社の敷地内にある『御霊神社碑』にも「伊豆美神社の御祭神を多摩川の洪水により旧社地である大塚山(現在の水神社付近)から現社地に遷宮した」と刻まれています。


「大塚山」

 水神社傍にはお堂が建てられており、庚申塔が祀られています。このお堂の横にある、説明板らしき立て札は朽ち果てているようですが、お堂の内部に説明板が設置されており、古墳についても書かれています。説明板には、「…ちなみに当庚申塚は古代の古墳後にして小高き丘あり六郷用水開設工事の際にその形を失う…」とあり、この庚申塔はかつて古墳を背にして立てられており、古墳は江戸時代の六郷用水開設工事により削平を受けてしまったようです。


「大塚山」

 『狛江市史』の「狛江古墳群一覧表」では、この古墳の所在地は元和泉2丁目35番地とされています。現在の健康福祉会館(左手前)から西河原公民館(右奥)にかけてが35番地にあたるようです。この多摩川左岸の崖線上のどこかに古墳が存在したものと考えられます。「大塚山」という名称からしてかなり大きな古墳だったのではないかと考えられますが、残念ながら古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明版


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  1. 2014/12/30(火) 05:34:04|
  2. 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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「殿山塚」

「殿山塚」

 「殿山塚」は、狛江市元和泉2丁目に所在したとされる古墳です。現在すでに墳丘は消滅しており、『東京都遺跡地図』には未登録の古墳です。

 この殿山塚は、昭和35年(1960)に行われた狛江古墳群の分布調査の際にその存在は把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、82番の円墳として紹介されています。同書にはこの古墳について「周辺よりわずかに起状する 台地南側の縁辺」とあり、当時はまだわずかに古墳の痕跡は残されていたようです。
 その後、昭和51年(1976)の調査の際には「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、存在の可能性の高い古墳」として取り上げられており、「1976年調査時、周辺よりわずかに起状していたらしい。」とのみ書かれています。
 その後、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの古墳は取り上げられなかったようです。

 『狛江市史』の「狛江古墳群一覧表」には、この古墳の所在地は「元和泉2丁目34番地」と書かれており、現在のこの場所は「西河原自然公園」として整備されています。画像は、公園内の築山のようすです。
 ちょっと古墳跡っぽく見えることからこの写真を使用してみましたが、おそらくは古墳とは無関係の築山であると思われます。公園内には、古墳についての説明板等も特になく、痕跡も見当たらないようです。


「狛江市 むいから民家園」

 この周辺の見所はむしろ古墳ではなく、「むいから民家園」かもしれませんね。平成14年(2002)に開園した古民家園で、古民家園の愛称となっている「むいから」とは屋根に使う麦わらのことなのだそうです。敷地内には「旧荒井家住宅主屋」と「旧髙木家長屋門」が移築、復元されています。

狛江市指定文化財(建造物)
    旧荒井家住宅主屋   
            指定年月日:平成3年11月12日

 この古民家は、かつて元和泉一丁目に所在し、江戸時代後
期頃に建築されたと考えられます。泉龍寺の山門の突き当た
りにあったことから、屋号を大門前(だいもんさき)と呼ば
れていた荒井家の主屋でした。
 荒井家は、江戸時代の後期、農業を家業とし、また、村方
の医師でもありました。
 建築当初の主屋は、直屋(すごや)で、桁行7間、梁行3
間、三ツ間取りヒロマ型でしたが、江戸時代末頃に、ヒロ
マの後方部を1間半拡張して、角屋(つのや)とし、整形四ツ
間取りに改修されました。また、養蚕のために屋根に煙出し
を設けるなどの工夫が見られます。
 明治時代以降には、チャノマを間仕切ってナカベヤや小部
屋を造ったり、内便所や縁側を付けています。
 この古民家は、小田急小田原線の立体交差及び複々線化事
業にともない解体保存され、平成14年に当地に移築されまし
た。再建にあたっては、角屋の時期の状態に復元し、使い勝
手のために縁側を設けました。土間境やザシキ、デイ
境の柱を切って差鴨居を入れたり、ザシキに京呂組の梁組が
使われていることなどに特徴がみられます。



「狛江市 むいから民家園」

狛江市指定文化財(建造物)
    旧髙木家長屋門 附 棟札1枚
             指定年月日:平成22年9月10日

 長屋門とは、主に武家の屋敷門として造られ、門の両脇に長
屋を設けたものです。農村でも、名主など、格式のある家に、
建てられることがありました。この長屋門を建てた高木家は、
江戸時代に覚東村(がくとうむら)の名主を務めていました。
 建築を請け負ったのは、和泉村の大工棟梁飯田栄八で、安政
6年(1859)に建てられました。栄八は、地元の大工として、泉
龍寺の鐘楼門や山門の建築にも携わっています。
 建築当初の門の構造は、両開きの門の南北両側に、ニ間四方
の部屋が設けられていました。南側の部屋は、床、壁、天井に
板を張りつめた穀倉でした。北側の部屋は土間の納屋でした。
屋根は、寄棟造の茅葺屋根でした。
 その後、北側の納屋が馬屋になるなど、部屋の用途が変わり、
改築がなされてきましたが、江戸時代に遡る貴重な建造物とし
て、保存に向けて取り組みがなされました。平成11年に解体さ
れ、部材を保管していたものを、平成21年に移築・復元がなさ
れました。
 現在、市内に残る唯一の長屋門です。



「狛江市 むいから民家園」

 敷地内には井戸が残されていて、子供達が楽しそうに遊んでいました。
 「井戸の水は飲まないでください」と書いてあるようですが、水は出るみたいです。


「狛江市 むいから民家園」

 昔ながらの郵便ポスト。
 子供の頃は、まだ街の中でよく見かけたような気がするのですけれどね、この形のポスト。
 いつの間にか「古き良き時代」になっちゃうんだよなあ。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明版


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  1. 2014/12/29(月) 06:10:36|
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「真刀自咩2号墳」

狛江市 眞刀自咩2号墳

 「真刀自咩2号墳」は、狛江市中和泉1丁目に所在したとされる古墳です。すでに消滅して墳丘の存在しない古墳ですが、『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号53番の古墳として登録されています。

 この古墳は、昭和35年(1960)に行われた狛江町全域の古墳の分布調査の際に実測調査されています。80メートルほど北方には「真刀自咩1号墳」、南方には「田中稲荷塚」、当方には「経塚古墳」が所在します。『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている調査当時の記録によると、当時すでに削平されて原形はまったくとどめていなかったものの古墳の痕跡は残されており、墳丘の規模は径約20m前後で、円墳であったと推定されているようです。そして、その後の昭和51年(1976)に行われた調査時には宅地造成により破壊され、完全に消滅していたようです。

 さて、この極めて近距離に隣接する「真刀自咩1号墳」と「同2号墳」の2基の古墳は、かつては「真刀自咩塚」と呼ばれており、ある物語が残されているようです。『続日本後紀』承和13年(846)5月の項に記されたものが『狛江市史』に紹介されており、次のように書かれています。

 武蔵国多磨群狛江郷の戸主刑部直継の戸口(家族)に刑部真刀自メという女がいた。彼女は同じ郷の刑部広主の妻となり、四男三女を生んだ。21年経って、夫の死に遭い、真刀自メは喪に服したが、さながら生きている人に仕えているようだった。夫の墳墓の側に廬を結び、日夜悲しみ泣いた。幾月移り過ぎたが、その操と行いは終始変わらなかった。そこで節婦とたたえられ、朝廷では特に真刀自メに位二階を授け、合わせて生涯同戸の田租を、免税とした。(『狛江市史』209ページ)

 「夫の墳墓」という部分について狛江市史では、2基の「真刀自メ塚」は古墳時代のものと考えられ、また平安時代の墳墓が墳丘を持つことは考えられないことから、『続日本後紀』や伝承をもとに、後に地元で比定したものである、としています。ただし、狛江郷の代表的な氏族であったであろう刑部広主の妻、真刀自メを亡夫に貞節な女として律令国家が表彰したということは史実であったそうで、中々興味深い話ですね。。。

 主体部は六郷用水掘さく時に削平されたと考えられ、これを伝える記録も存在せず、副葬品も不明です。また、墳頂部に祀られていたとされる稲荷の祠の行方もわからず、古墳は完全に消滅して宅地となっています。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2014/12/28(日) 02:09:14|
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「真刀自咩1号墳」


 「真刀自咩1号墳」は、狛江市中和泉1丁目に所在したとされる古墳です。すでに消滅して墳丘の存在しない古墳ですが、『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号52番の古墳として登録されています。

 この古墳は、昭和35年(1960)に行われた狛江町全域の古墳の分布調査の際に実測調査されています。80メートルほど南方には「真刀自咩2号墳」、さらに六郷用水をはさんだ南方には「田中稲荷塚」が所在します。『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている当時の記録では、すでに削平されて原形はまったくとどめていなかったものの周辺より1.27mの高さが残されており、墳丘の規模は径約15m前後の円墳ではなかったかと考えられているようです。また、埋葬施設が露出してもおかしくないほど墳丘が削平されていたにもかかわらず、石材等は観察されなかったそうで、築造年代は不明とされています。
 その後、昭和51年(1976)の調査の際には、「現在、竹薮の中にわずかな起状が認められる程度である。以前墳丘を削って畑を作った際、墳丘は赤土であったという。」と書かれています。そして、平成4年(1992)の多摩地区所在古墳確認調査団による調査では、露出する凝灰岩の石材は確認されなかったようです。
 埋葬施設が確認されず、また墳丘が赤土だったという伝承からすると、真刀自咩1号墳は古墳ではなく塚だったのではないか?とも考えられるところですが、現在古墳は完全に消滅して宅地となっており、真相を確かめることはできません。

 画像が、1号墳が存在したとされる周辺のようすです。正確な古墳の所在地も特定できず、痕跡も何も残されていないようです。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2014/12/27(土) 10:52:48|
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「弁財天池古墳 1号墳~3号墳」

「弁財天池古墳 1号墳~3号墳」

 画像は狛江市東和泉3丁目、小田急小田原線狛江駅前のロータリーを南西から見たところです。ここから「弁財天池古墳 1号墳~3号墳」の3基の古墳が検出されています。狛江市の遺跡番号42-2番から42-4番として登録されている古墳です。

 「弁財天池古墳 1号墳~3号墳」は、昭和62年(1987)から始まった、狛江駅北口再開発事業による発掘調査で3基の円墳の周溝が検出され、その存在が明らかになっています。
 1号墳は、幅3~4mの周溝が最大径30.1mの規模で正円に巡る円墳で、ブリッジが存在しています。出土遺物から5世紀第2~3四半期築造されたと推定されています。2号墳は、幅3~2.6mほどの周溝が外径17.2~18mの規模で正円に巡る円墳で、やはりブリッジが存在しています。1号墳、2号墳ともに横穴式石室の痕跡は認められなかったため、竪穴系の埋葬施設であったと推定されています。3号墳は外縁最大径25mの周溝が巡る円墳で、7世紀末から8世紀初頭に築造されたと考えられています。


「弁財天池古墳 1号墳~3号墳」

 昭和35年(1960)の分布調査をもとに作成された『狛江古墳群地名表』には、校地に一部残存する43番の古墳として「大六天塚」が記載されています。同書には「第1小学校敷地 台地の北側縁辺に近い位置」と書かれており、当時まだ古墳が残されていたことを知ることができます。その後の昭和51年(1976)の調査の際には破壊されて消滅していたようですが、「1960年と1976年の分布調査を総合的に判断した結果、存在の可能性のきわめて高い古墳である。」とされています。
 この弁財天池遺跡の調査区こそが旧狛江第一小学校の敷地であり、「大六天塚」が「弁財天池古墳 1号墳~3号墳」のいずれかの古墳と同一である可能性も考えられるのではないかと思うのですが、狛江市教育委員会より発行された最新の文化財ブックレット、『猪方小川塚古墳と狛江古墳群』には「この地に古墳があることは知られていなかったが…」と書かれています。このあたりは気になるところではあったのですが、この両古墳の関係について記述のある文献は他に見つからず、詳細はわかりませんでした。

 狛江駅前のロータリーには、この地に第1小学校があったことを記す石碑が置かれています。
 
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅱ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『猪方小川塚古墳と狛江古墳群』


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  1. 2014/12/26(金) 00:13:15|
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「供養塚」

狛江市「供養塚」

 「供養塚」は、狛江市駒井3丁目に所在したとされる古墳です。昭和35年(1960)に行われた当時の狛江町全域で行われた分布調査時において把握されており、狛江市教育委員会より発行された『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、86番の「円墳?」として取り上げられています。同書には「堤防用地 平夷」とのみ書かれており、調査当時にはすでに古墳は消滅していたようです。その後、昭和51年(1976)に行われた分布調査の際にはこの古墳は取り上げられず、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようです。

 画像は、狛江市駒井3丁目の「供養塚公園」を南から見たところです。塚の名前が公園の名称に残されており、数少ない塚の痕跡といえるかもしれません。地元では通称ボロ公園と呼ばれているそうです。
 かつて多摩川の堤防が新しく造られた際に、昔川だった低地を埋めるためにこの供養塚の土が使われて、平地になったといわれています。この供養塚公園が塚の跡地であるかどうかを特定することはできなかったのですが、この周辺に存在したことは間違いないようです。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市中央公民館『平成13年度 郷土のむかし講座』


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  1. 2014/12/25(木) 03:05:24|
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「清水塚2号古墳+3号古墳」

狛江市「清水塚2号古墳+3号古墳」

 画像は、狛江市猪方1丁目の「清水塚2号古墳」と「清水塚3号古墳」が所在したとされる周辺を南から見たところです。

 「清水塚2号古墳」は昭和35年(1960)の分布調査時には残存しており、「ハンツウォルシュケ第1号古墳」という名称で取り上げられています。測量調査も行われており、東西径15m、南北径11mで、推定径14m前後とされています。また、高さは墳丘東側裾部で2.27m、西南側裾部で2.65mであり、墳頂部径は3mであったそうです。埋葬施設については不明で、葺石や埴輪類は存在しなかったと考えられています。昭和35年当時の古墳はハンツウォルシュケ家の庭の築山として利用されており、墳丘南側の約3分の2が残存していたようですが、その後の昭和51年(1976)の調査の際には墳丘は完全に削平されて消滅しており、現在は宅地化されて痕跡は残されていません。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号34番の古墳として登録されています。

 「清水塚3号古墳」は、昭和35年(1960)の分布調査時にはすでに削平されていたようですが「ハンツウォルシュケ第2号古墳」という名称で取り上げられており、当時の古墳表には102番の古墳として「昭和30年頃平夷する 径10m~15mという 台地東北縁辺の地」と書かれています。当時のハンツウォルシュケ1号墳の記録の中の「東方25mの台地縁辺に高さ1.88mの起状があるが、古墳と断定できるまでにはいたらなかった。」とされているのがこの「清水塚3号古墳」であるようです。その後の昭和51年(1976)の調査の際には墳丘は完全に削平されて消滅していたようですが、「現存していないが、その存在が確認できる古墳」として取り上げられています。現在の『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号35番の古墳として登録されています。
 この2基の古墳の周辺には「大塚古墳」や「石塚古墳」等、多くの古墳が密集して分布していたようですが、ほとんどの古墳は未調査のまま消滅してしまったことは残念です。ただし、この周辺には広い庭を持つ邸宅も多いようですし、将来古墳の痕跡が発見されるような事もあるかもしれませんね。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2014/12/24(水) 01:33:38|
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「猪方649番地古墳」

狛江市 「猪方649番地墳」

 「猪方649番地古墳」は最も正体のわからなかった古墳です。現在の『東京都遺跡地図』に未登録なのはもちろんのこと、昭和35年(1960)の分布調査時に作成された「狛江古墳群地名表」や昭和51年(1976)の調査の際に作られた「古墳分布図地名表」、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも、この古墳の存在は記載されていません。唯一、昭和60年に発行された『狛江市史』に掲載されている「狛江古墳群一覧表」にのみ取り上げられており、この古墳の現状について「大部分破壊」と記されているのみです。

 画像は、この「猪方649番地古墳」の所在地と思われる地点を南東から見たところです。かなり広い個人の敷地となっています。実はこの土地の所有者のお宅を訪ねてみましたが、長年住まわれている旦那さんも古墳の存在は全く知らないということで、正確な推定地はわかりませんでした。
 同じ狛江古墳群の猪方支群には、平成23~24年に発掘調査された「猪方小川塚古墳」が存在しており、この古墳も個人の宅地の奥まった所に所在したために、これまで何度か行われた分布調査でその存在を見落とされてきた歴史があります。そういう意味では、この「猪方649番地古墳」も大穴といえる存在かも知れませんね。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』


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  1. 2014/12/23(火) 10:51:05|
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「中村石塚」

狛江市 「中村石塚」

 「中村石塚」は、狛江市猪方に所在したといわれる古墳です。

 『東京都遺跡地図』には未登録の古墳ですが、昭和35年(1960)に行われた分布調査により把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、50番の「石塚」という名称で円墳として取り上げられています。同書には「径10m前後を推定 台地の南側に近い地」と、当時の古墳の規模について書かれていますが、その後の昭和51年の調査の際には墳丘は削平されて消滅してしまったようです。『狛江市の古墳(Ⅰ)』では「1960年と1976年の分布調査を総合的に判断した結果、存在のきわめて高い古墳である」と書かれています。
 『狛江市史』の「狛江古墳群一覧表」ではこの古墳について葺石が存在したことが記されているのですが、古墳が消滅した現在ではこれを確認することは出来ません。平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの古墳は取り上げられていませんでした。


狛江市 「中村石塚」
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194248&isDetail=true)

 この「中村石塚」の所在地については、昭和35年の狛江古墳群地名表では和泉2354番地、昭和51年の古墳分布図地名表では和泉2346番地、狛江市史の狛江古墳群一覧表では東和泉2丁目13番地とされており、古墳の正確な所在地を特定するのはなかなか困難なのですが、昭和22年(1947)の航空写真と現代の地図を比較すると、広い畑地の中の道路沿いにポツリと浮ぶ中村石塚らしき円形の塚状地形を見ることが出来ます。これを現在の地図と重ね合わせると、ちょうど画像の道路の突き当たりあたりが推定地であると思われます。
 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年に米軍により撮影された中村石塚の空中写真です。わかりやすいように塚の周辺を切り取っています。まだ戦後のこの時期には塚状のマウンドが残されており、広い畑地の中にぽつりと古墳を思わせる円形の影を見ることが出来ます。
 現地に古墳の痕跡らしき形状は全く残されていないようです。発掘調査による古墳の痕跡も検出されていないことから、塚の性格を知ることは難しいようですが、果たしてこの塚は古墳だったのでしょうか。。。

 狛江市内の古墳は、諸和の中頃まで農地の中に残されていたものも少なくないようです。空中写真や古地図を検討することによって跡地を特定できる古墳もあり、これも一つの楽しみだったりします。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』

  1. 2014/12/22(月) 02:00:44|
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