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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「圦上峡塚(いりうえきょうづか)古墳」

「圦上峡(いりうえきょうづか)古墳」

 「圦上峡塚古墳」は、狛江市中和泉4丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には遺跡番号66番の古墳(円墳)として登録されています。

 この古墳は、和泉字圦上の旧川田男爵邸内に所在しており、大正の中頃には整地工事によりほとんど削平されたといわれています。その後、昭和35年(1960)の分布調査時には把握されており、当時の『狛江古墳群地名表』には、No.9番の「峡塚」という名称の円墳として取り上げられています。当時の現状については「畑・宅地 平夷」とあるものの、「規模・その他」の項には「わずかに形状の起状あり 附近土器出土 台地東側縁辺」とあり、この時点ではなんらかの痕跡が残されていたようです。さらに昭和46年(1971)にはこの周辺が発掘調査されており、高さ1mのマウンドが測量されているものの周溝等の遺構は検出されず、直径10m以内の小規模な円墳だったのではないかと考えられているようです。
 昭和51年(1976)の調査の際には「圦上峡塚(いりうえはざまづか)古墳」と名称が変わり、「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、その存在が確認できるもの」とされています。この時点で古墳は完全に削平され、宅地化されていたようです。平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には消滅した古墳として掲載されています。

 画像は「圦上峡塚古墳」の跡地と推定される周辺を南から見たところです。
 この地点は最近まで発掘調査されており、画像は調査が終わった後のようすです。古墳の周溝が検出される可能性も期待されていたようですが、結果はやはり何も見つからなかったそうです。
 『狛江百塚』には埴輪、石剣、石棒、蔟、管玉、勾玉が出土したとされる記録が紹介されており、また『狛江市史』にも「整地時発見の石井千城所蔵品中には峡塚出土とされる勾玉(碧玉製)管玉(碧玉製)土師器高杯(鬼高式)がある。峡塚跡の宅地内で泥岩塊を実見しているので、切石積の横穴式石室があった可能性が強い。圦上峡塚の年代は六世紀後半から七世紀前半と推定される」とあり、古墳であることはほぼ間違いないようですが、跡地は特定されていないようです。
 『東京都遺跡地図』では、径10mの円墳として掲載されています。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『狛江市圦上遺跡』


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  1. 2015/01/31(土) 05:07:42|
  2. 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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「揚辻塚」

狛江市 未登録 揚辻塚

 「揚辻塚」は、狛江市東和泉1丁目に所在したとされる古墳です。昭和35年(1960)に、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査時に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、49番の円墳として取り上げられています。古墳の詳細については「宅地 平夷」とのみ書かれており、当時すでに古墳は削平され、伝承のみが残る存在となっていたようです。
 その後、昭和51年(1976)の調査の記録では、「1960年と1976年の分布調査を総合的に判断した結果、存在のきわめて高い古墳である」とされていたようですが、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には未掲載で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。

 画像は、揚辻塚の所在地と考えられる地点の現在のようすです。マンションの奥のあたりがこの揚辻塚の所在地となるようです。残念ながら、古墳の痕跡はまったく見ることが出来ません。。。


狛江市 未登録 揚辻塚
出典:国土地理院ウェブサイト( http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=193508&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年(1948)3月29日に米軍により撮影された揚辻塚とその周辺が写されている空中写真です。わかりやすいように古墳の所在地周辺を切り取っています。
 この古墳の所在地については、昭和35年の「狛江古墳群地名表」では「和泉2298番地」、昭和51年の「古墳分布図地名表」では「和泉2347番地」、『狛江市史』では「東和泉1丁目28番地」と資料によって記述に違いが見られることから、正確な跡地を特定することは困難ではないかと思われたのですが、この空中写真で揚辻塚らしき存在を確認することが出来ます。揚辻稲荷を水源としていた小川と清水川が並行して流れる南側に、揚辻塚とおぼしき影を見ることが出来ます。
 昭和32年の写真では、まだ揚辻塚らしき影を見ることが出来るのですが、昭和36年の写真では影は消えてしまっているように見えます。おそらくは、昭和35年の古墳の分布調査の直前まで塚は残されていたのではないかと考えられます。分布調査で把握されなかったのは残念なところですね。。。


狛江市 未登録 揚辻塚

 画像は、狛江市東和泉1丁目にある「揚辻稲荷」です。
 地元では「谷田部稲荷」とも呼ばれているこの神社はなんと個人所有の神社で、現在でも毎年初午の日に一家の当主が集まり、宮司を呼んで祭事を行っているのだそうです。


狛江市 未登録 揚辻塚

 社殿の裏側には石垣に囲まれた湧水池が残されています。ここを水源とする小川が、揚辻塚の横を西から東に向かって流れていたと思われます。

 現在この池の水は涸れ果ててしまっていますが、1960年代までは水が溢れていて子どもたちが水浴びをして遊んでいたそうです。池に降りる階段も残されていますが、現代でいうプールのような役割だったのでしょうか。なぜか懐かしいような気持ちになる風景です。
 
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2015/01/30(金) 02:10:07|
  2. 狛江市/狛江古墳群(猪方)
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「東和泉1号墳~9号墳」

「東和泉1号墳~9号墳」

 狛江市に多くの古墳が存在することは、古くは江戸時代から知られていたようで、『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌にも数多くの古墳が知られていたことが記されています。
 狛江古墳群が「狛江百塚」と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからのことで、鳥居龍蔵氏の「武蔵野会」に属していた郷土史家の石井正義氏が『狛江百塚の記』を著したことに始まります。その後、子息の石井千城氏が昭和33年(1958)頃に『狛江百塚』を補訂しており、戦前、戦後の狛江の古墳の言い伝えや旧状を記したこの記録は、後の狛江古墳群の調査に大きな影響を与えます。同書では「狛江百塚は墳陵の一にして、此地国造国司の墳墓なり。九十九塚とも車塚とも云う、其の数多く故に百塚と呼称す」とされており、同書の分布図には77基の古墳が記されています。
 その後、昭和35年(1960)には狛江市全域に分布する実測調査が行われます。この調査は、「現存する古墳、それは破壊が進んでいるものであろうと、なかろうとできるかぎり墳丘実測調査を行なうということ、それと同時に壊滅古墳についても記録を取る」という意図して行われ、この調査により作成された「狛江古墳群地名表」には137基もの古墳が記載され、現存が確認された18基の古墳のうち16基の測量図が作成されています。さらにその後、昭和51年(1976)に狛江市教育委員会による古墳と遺跡の分布調査が行われ、この際の「古墳分布図地名表」には50基が記載されています。

 さて、その後の昭和62年(1987)、小田急線の高架化工事に伴う発掘調査により、それまでの分布調査で把握されていなかった未知なる9基の古墳が発見されます。いずれも墳丘は削平され、周溝が検出されたもので、そのうちの1基からは主体部が検出されているそうです。画像の道路左側あたりが「東和泉5号墳、同2号墳が検出された地点です。


「東和泉1号墳~9号墳」

 画像の手前から、1号墳、4号墳、9号墳、8号墳、6号墳、7号墳、3号墳が検出されています。規模が判明する最小の古墳は、周溝外径10m、内径7m、最大のものは外径19.4m、内径14.6mで、6号墳からは主体部が検出されているようです。
 古墳の面影を偲ぶことはできませんが、まだ地面の下には周溝が残されているのかもしれませんね。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『猪方小川塚古墳と狛江古墳群』


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  1. 2015/01/29(木) 09:36:14|
  2. 狛江市/狛江古墳群(猪方)
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「摺鉢山古墳」

台東区003 摺鉢山古墳

 画像は、台東区上野公園5丁目にある「摺鉢山古墳」を南東から見たところです。台東区の遺跡番号3番の古墳で、東京都台東区から発行された『台東区史 通史編Ⅰ』では、上野台の古墳群の「第1号墳」としています。画像の向かって左奥が前方部、右手前が後円部です。

 この上野台の古墳については、在京の考古学者の間では古くから知られていました。日本の古墳について最初に編集された地名表であるとされる明治33年(1900)発行の『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』には「東京市下谷区上野公園内摺鉢山古墳?」と摺鉢山古墳の名前が紹介されています。その後、大野雲外氏により『人類學雑誌』第三十巻第一号(大正四年)の雑報欄に「櫻雲臺に於ける埴輪」というタイトルで、上野公園内で採集した埴輪片についてや、東京帝室博物館奉献美術館(現東京国立博物館表慶館)の建設工事により多くの遺物が出土したことについて記述されています。この大野雲外氏の埴輪採集に同行していたした鳥居龍蔵氏は、その後の大正5年(1916)に野中完一氏などとともに東京市内の古墳の調査をしており、『上代の東京と其周囲』に次のように記述しています。


 「本郷の高臺を去つてそれから上野の公園に向つた。上野公園では先づ最初に磨鉢山に行つた。これは非常に巨大なる古墳であるが、大分形は壊されて居る。或は瓢箪形の古墳が壊されたものではあるまいかと思はれる。それから尚ほ上野の停車揚を見下ろす方の崖に臨んだ所に、三、四の丸塚の上を削られたものが分布して居る。其の内一個は原形を存じて居る。私は甞つて此の附近で埴輪の破片を拾つたことがある。又た大野延太郎氏も此處に埴輪の破片を拾つたことがある。尚ほ此の附近に祝部土器の破片を拾つたこともある。斯ういふやうなことから考へて見ると、埴輪の破片を出す古墳を中心として、此處に古墳の多く存在して居つたことが知られる。而も埴輪の存在して居る工合から見ると、芝の公園にある古墳と時代が同じやうに思はれる。
 此處へ寛永寺が建てられない以前には、相當古墳があったものと思はれる。然るに今は惜いかな多くは亡くなり、更に寛永寺の建立に依つて此の土地が開拓せられて、猶更に無くなつてしまつたのである。(今回の震災後、此の土地が段々修理せられるに連れて、尚ほ一層それが亡くなつたのは更に惜むべきである)」(『上代の東京と其周囲』71~74ページ)


 鳥居龍蔵(1870~1953)とは、考古学のみならず人類学を研究した東京の古墳研究の先駆者で、その後の大正12年(1923)に起こった関東大震災で東京が廃墟と化した際、震災によって建物が焼けたり崩れたりして元々の地面の起伏が露出したことを鳥居龍蔵氏はチャンスと捉えて、カメラを携えて東京市中の古墳と思われる塚を調査したのだそうですからびっくりです!

 「摺鉢山古墳」は、昭和59年(1984)に東京都教育委員会によって正式に測量調査されており、次のように報告されています。


「古墳の規模は、前方後円墳とすれば現存長70メートル、後円部径43メートル、前方部幅は最大で23メートルを計る。後円部と道路との比高差は約5メートルである。主軸は北―70・5度―東で、前方部は西を向いている。前方部と後円部の比高差が大きく、くびれ部では後円部から前方部へ急に低くなり、6メートル×4メートルくらい現存長70メートル、後円部径43メートル高さ5m、前方部最大幅23メートルを計る。内部主体については不明である。葺石は確認できないが、埴輪片が採集されている。かつて本墳を中心として円墳群が存在していたが、現在は認められない」(『台東区史 通史編Ⅰ』73ページ)

台東区003 摺鉢山古墳

 画像は後円部を北から見たところです。階段の裾には台東区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。


  摺鉢山古墳
   台東区上野公園五番
 摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ていると
ころから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の
破片などが出土し、約千五百年前の前方後円形式の古
墳と考えられている。
 現存長七十m、後円部径四十三m、前方部幅は最大
部で二十三m、後円部の道路との比高は五mである。
 丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地で
あった。
 五條天神の創立年代は不明であるが堯恵法師は『北
国紀行』のなかで文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座
する五條天神を訪れた際、
 契りきて たれかは春の
  初草に 忍びの丘の 露の下萌絵
と、うたっている。現在、上野公園塩忍坂脇に鎮座。
 清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天
海僧正により建立されたが元禄年間(一六八八)~(一七
〇三)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移
転した。
 現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺
鉢の形を保っている。
 平成六年三月
             台東区教育委員会



台東区003 摺鉢山古墳

 画像は、墳丘上のようすです。かなり削平されているようで広々としています。


台東区003 摺鉢山古墳

 墳丘上から前方部を眺めてみると、かなりの比高差があるのがわかります。築造当時はもっと大きな前方後円墳だったのかもしれませんね。。。


台東区003 摺鉢山古墳

 私が、上野公園内で一番面白いと思う場所がこの「上野大仏」です。
 この大仏はなんと、大正12年の関東大震災によって頭部が崩落してしまったそうで、その後は寛永寺に保管されていたものの、今度は第二次世界大戦時に金属供出により胴体が解体。昭和47年の春に尊顔がこの地に祀られて再建された、ということのようです。大仏様の巨大な顔面のみが祀られているこの風景はなかなか衝撃的だと思うのですがいかがでしょうか。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都台東区役所『台東区史 上』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都台東区『台東区史 通史編Ⅰ』
現地説明版

  1. 2015/01/28(水) 01:50:41|
  2. 台東区/上野台古墳群
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「東京国立博物館内のまるで古墳のような築山」

「東京国立博物館内のまるで古墳のような築山」

 画像は台東区上野公園、「東京国立博物館」の庭園内に存在する「築山」を南西から見たところです。

 さて、画像の築山を発見したのはもうずいぶん前になります。国立博物館の東側に所在するこの築山は大きな円形の塚で、南側には前方後円墳の前方部にあたるような方形の盛土も見られ、その姿はまるで世田谷区野毛にある「野毛大塚古墳」を小さくしたような感じです。上野公園内には「上野台古墳群」と呼ばれる古墳群が存在したとされており、前方後円墳ではないかと考えられている「摺鉢山古墳」が残存しているほか同じ東京国立博物館の敷地内には「表慶館古墳」が存在したといわれています。したがって、この築山も古墳である可能性はないのだろうかと期待が膨らみ、館内の女性スタッフにお伺いしたところ、そのうちの一人が「古墳だという話を聞いたことがある」というお返事。やっぱりと思い色々調べてみたのですが…


「東京国立博物館内のまるで古墳のような築山」

 その後、図書館等でいくら調べてもこの塚に関する記述はまったく発見できず、鳥居龍蔵氏により大正13年に発行された『武蔵野及其周囲』や、昭和2年に発行された『上代の東京と其周囲』などは購入してまで調べましたが、これまたなんの記述もなし、いくらなんでもあの鳥居龍蔵氏がこれだけの塚を見落とす筈はないし、おかしいな?と思いながらもしばらく放置していたのですが…


「東京国立博物館内のまるで古墳のような築山」

 昨年、再度東京国立博物館を訪れる機会があり、事情を知る男性スタッフにお話を聞くことができたのですが、これによると当時に勤続していた先輩スタッフからの口承として、「昭和44年(1969)の東洋館の建築の際、基礎工事のために地面を深く掘り下げており、その残土を"平らな地面"に盛ったものがこの築山である」とのことでした。鳥居竜蔵氏の調査は大正時代ですから、昭和44年に作った築山が把握されているわけはないし、結論としては「なーんだ、やっぱり古墳じゃなかったのか、ちゃん、ちゃん」ということのようです。(笑)
 ただし、博物館で配布されている『東京国立博物館 庭園散策マップ』には「庭園は何度も改修を重ねており、今ある茶室などものちに移築されたもので、当時の面影を残しているのは、東洋館北側のこんもりと高い築山、中央の池のごく一部分、そして庭の一角の古い墓石のみです。」などと書かれており、江戸時代には既にこの築山が存在していたとしています。このあたりは、正確な情報が記載されてほしいところですよね。。。

  1. 2015/01/27(火) 08:40:30|
  2. 台東区/上野台古墳群
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「瑞光石(南千住富士)」

「瑞光石(南千住富士)」

 画像は、南千住6丁目に所在する「素盞雄神社」を西から見たところです。この神社の敷地内に所在する富士塚には古墳の石室材だったのではないかといわれる「瑞光石」と呼ばれる奇岩が祀られてています。『東京都遺跡地図』には未登録の遺跡で、富士塚は荒川区の指定記念物・史跡となっています。

 同社の社伝によると延暦14年(795)、社司の遠祖の黒珍が、住居の東方小高いところの樹間から連夜、奇光を発する奇岩を見つけ、これを日夜礼拝するうちにある夜、二人の老翁が現れ、「我は素盞雄大神、飛鳥大臣なり。我を祀らば疫病を払い、永くこの郷土を栄えしめん」と告げたそうです。霊石が端光を発したのでこれを「神影面端光荊石」と称し、この古跡を小塚といいます。
 これがこの周辺の地名である「小塚原」の起源であるといわれていますが、他に円通寺にも同様の伝説が残されており、諸説あるようです。


「瑞光石(南千住富士)」

「瑞光石(南千住富士)」

 画像が、素盞雄神社境内に所在する「南千住富士」です。通称「お富士様」と呼ばれるこの富士塚は、嘉永4年(1851)、小塚の周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)に浅間神社が祀られています。(財)日本常民文化研究所より発行されている『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』によると、「千住大橋の南側にある素盞雄神社の境内にある。刑場で有名な千住小原塚の小塚を母体としてつくられたもので、この小塚は『江戸名所図会』にも紹介されている古跡でる。慶応元年(1865)この小塚にボク石を積上げて富士塚としたようである。」とあり、元々あった塚を流用して富士塚が築かれたことが書かれています。


「瑞光石(南千住富士)」

 富士塚の中腹の祠に祀られている「瑞光石」です。画像を見ると、表面に小穴があいていますが、これは「房州石」と呼ばれる、千葉県鋸山の海岸で採取される凝灰質砂岩の表面に、貝が住み込むために穴を開けたもので、東京や埼玉周辺の古墳の石室材として多く使用されているものです。近隣では葛飾区の「柴又八幡神社古墳」でも同じように穴のあいた房州石を見ることができますし、さきたま古墳群にある「将軍山古墳」でもこの房州石が石室材に使われています。
 同じ荒川区内の東尾久6丁目にある「下尾久石尊」とこの「瑞光石」は面の下で繋がっているという言い伝えが残されており、この下尾久石尊とともに瑞光石も、現在では古墳の石室の石材の一部であると考えられています。
 この周辺の小名では「道久塚」があり、この塚も古墳の可能性が考えられているようですし、隅田川右岸には多くの塚の存在も指摘されています。この「瑞光石」が元々あった古墳の石材であったのか、他から持ち込まれたものなのかは謎ですが、このあたりは今後の調査を待ちたいところです。

<参考文献>
芳洲書院『隅田川とその両岸 補遺(上巻)』
学生社『荒川区史跡散歩』
(財)日本常民文化研究所『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』
東京都荒川区教育委員会『南千住の民俗』
現地説明版

  1. 2015/01/26(月) 09:12:28|
  2. 荒川区/南千住 微高地
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「大道法師の塚(稲荷塚)」

「大道法師の塚(稲荷塚)」

  北区豊島5丁目の周辺には隅田川(旧入間川)が蛇行しており、土地が天狗の鼻のように大きく突き出ている場所があります。この周辺は古くから「天狗の鼻」と呼ばれていました。この天狗の鼻の先のあたり、豊島のもとの渡船場の手前あたりに所在したといわれているのが「大道法師の塚」です。
 画像は、現在の「天狗の鼻」の先端あたりを南から見たところです。ただし、この周辺は河川工事が行われており、大きく地形が変わっています。北区の地図を見ると、北区と足立区の区境のラインが現在の天狗の鼻の先端よりも大きく北東に湾曲していますが、これがかつての旧荒川(隅田川)の川筋です。つまり、天狗の鼻の先端がここまで伸びていたということになります。したがって、大道法師の塚の所在地も画像より北東側ということになります。


「大道法師の塚(稲荷塚)」

 この塚には稲荷の祠が祀られていたことから「稲荷(とうかん)塚」とも呼ばれていたそうです。周囲には他に小さな塚も存在していたようで、この塚を壊した人が病気で寝込んでしまったことから、祟りを恐れて大道法師の塚には誰も手をつけなかったといわれています。明治の初め頃までは畑の中に残されていたそうですが、現在は開発が進み、塚は消滅しています。
 河川工事が行われる以前の北豊島郡の古地図を見ると、大道法師の塚の跡地ではないかと思われる場所を推測することができます。画像は、北区教育委員会により現地に立てられている説明板の地図ですが、「阿弥陀の渡船場」として矢印で示してある場所のすぐ南西に鳥居のマークが付けられているのを確認することが出来ます。おそらくここが「大道法師の塚」に祀られていたという稲荷の祠なのではないかと思われます。


「大道法師の塚(稲荷塚)」

 画像が、大道法師の塚の推定地と思われる周辺です。現在は荒川と隅田川に挟まれた、北区の飛地となっている地点です。当然ながら塚の痕跡を見ることはできません。

 この「大道法師の塚」について、『北豊島郡誌』には次のように書かれていました。


 【大道法師の塚】 武州豊島郡沼田村へわたり越さんといふ、豊島の渡しの手前西側畑の中に大道法師の塚あり、世上の流布語に大道法師と稱する是なり、土人の説に大道法師の草鞋につきて土砂落たりしが塚になりしといひ傳ふ、里俗はこれを稲荷塚とも稱し或は此あたりを小名に呼で代田ともいへり是昔のかよふを以て土人認め傳へしにや、又此側に小さき塚一つ中古までありしを畑主破壇し圃に引ならしけるに馬骨とも覺しき物夥しく出しが、その祟りにや畑主は年久しく煩ひければ恐れて大道法師の塚へは鎌さへ入ずとなん、大道法師といふものいかなる人にや怪しき巷談ながら見聞せしままを記す、周圍凡三間餘りあらん。文化十一年の記(『北豊島郡誌』359ページ)


「大道法師の塚(稲荷塚)」

 画像は、荒川と隅田川の間の飛地にある「宮城ゆうゆう公園」に所在する謎の塚です。特に説明板が設置されているわけでもなく、由来等はわからないのですが、大道法師の塚の跡地と考えられる地点にあまりにも近いのでビックリしてしまいます。
 北区から荒川区にかけての隅田川沿いの低地には多くの塚が存在したといわれており、その中には古墳だったのではないかと考えられているものも少なくないようです。この大道法師の塚の周囲には無名の塚も何基かあったようですが、天狗の鼻にも古墳群が存在していたのかもしれませんね。


「大道法師の塚(稲荷塚)」

 だいだらぼっちの伝説の残る塚というと、東京都内では立川市富士見町の「富士塚」や、あきる野市雨間にある「大塚古墳」といった方形の塚を思い出しますが、この「大道法師の塚」はどんな性質の塚だったのでしょうか。。。

<参考文献>
北豊島郡農会『北豊島郡誌』
東京都北区役所『新修 北区史』
東京都北区教育委員会『北区の昔がたり』
現地説明版

  1. 2015/01/25(日) 09:54:13|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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「八幡神社周辺の塚」

「八幡神社周辺の塚」

 画像は旧上尾久村、現在の荒川区西尾久3丁目にある「八幡神社」を???から見たところです。この神社の周辺にも「第六天塚」「高木塚」「池田塚」「ダイダラボッチ塚」といった数多くの塚があり、明治、大正の頃までは残されていたといわれています。

  「ダイダラボッチ」という巨人の伝説は九州地方に広く残されている伝説なのだそうですが、近いところでは同じ隅田川沿いの隣区である北区豊島の「天狗の鼻」と呼ばれる辺りに「大道法師の塚」という塚があったといわれており、大道法師という巨人の草鞋についた土砂が落ちて塚になったという伝説が残されています。下尾久の「ダイダラボッチ塚」については『東京府志料』にその存在について記されているものの、塚の言い伝えなどは残されていないようですが、『新修荒川区史 上』には、「下尾久の塚にも昔は何かの伝えがあったことと思われる」と書かれています。
 「高木塚」と「池田塚」については『荒川区史 上巻』に「旧下尾久村にあった円墳、今日隠滅」と書かれており、古墳であったのではないかと考えられているようですが、所在地はわからなくなっているようです。

 他に、東方の八幡神社領内には「庚申塚」、「庄左衛門塚」があり、船方村境と八幡神社参道の前にも塚があったとされています。『上尾久村村絵図』によると、船方村境と八幡神社参道の前の塚は「此塚元禄頃犬養生場尾久二ヶ所」とあり、これは生類憐みの令により設けられた塚であるようですが、元々あった古墳を流用した塚である可能性はないのでしょうか。。。

 このように、旧下尾久村には八幡神社の周辺に相当数の塚が存在したようで、『荒川史談』に掲載されている土地の古老の話の中には、広がる田んぼの真ん中に丸いポッチのような塚が残っていた、というような記述も見られるのですが、いかんせん情報が少なく、推定地を特定できるような塚は見当たりませんでした。

<参考文献>
荒川区役所『新修 荒川区史 上』
東京都荒川区『荒川区史 上巻』
学生社『荒川区史跡散歩』
東京都荒川区教育委員会『尾久の民俗』

  1. 2015/01/24(土) 04:37:45|
  2. 荒川区/尾久 微高地
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「物見塚」

「物見塚」

 荒川区内にはかつては数多くの塚が存在したといわれており、特に尾久、町屋、三河島あたりの自然堤防上に分布が顕著に見られます。すべての塚はすでに開発により消滅しており、これらの塚が古墳であるか中世以降の塚であるかは確認する術はありませんが、南千住の素盞雄神社境内の瑞光石や東尾久の下尾久石尊は古墳に関係する遺跡であるとされています。
 画像はJR山手線日暮里駅西口を出た右側、荒川区西日暮里3丁目にある「本行寺」を南東から見たところです。
 この本行寺は、太田道灌の孫にあたる太田資高の開基であり、「月見寺」の名で知られています。この敷地内は太田道灌の斥候台があったところで、太田家の菩堤寺である本行寺がこの地に移転してきたのはこのためであるといわれています。斥候台を築いたところは「物見塚」と呼ばれており、周辺にはこの物見塚を合わせて7つの塚があったと伝えられていますが、残念ながら塚はすべて消滅しています。この塚について『新修荒川区史 上巻』では「史跡と名所」の項で、「恐らくは古代豪族を葬つた円墳であったのであろう」としており、また『荒川区史 上巻』でも「すべてが古墳ではないにしろ、道灌山遺跡や延命院貝塚遺跡の延長の古墳時代の遺跡の一画を形づくっていた可能性は極めて高いといえるのであろう」とされています。


「物見塚」

 画像が現在の物見塚です。「荒川区指定文化財 道灌丘碑」の標が立てられており、次のように書かれています。

 太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩主太田氏などが道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。このあたりの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶も当地で「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。


「物見塚」

 画像が、築山の上に残されている「道灌丘碑」です。
 この物見塚については多くの文献に記録が残されており、東京都荒川区教育委員会により発刊された『日暮里の民俗』に次のように掲載されています。

・此城山(道灌山)に道灌塚とてありと聞く、行てみれば不知(天和三年、『紫一本』巻上)
・塚は境内にあり、渡り二間斗、高一丈ほど、丸き見事成山なり、此類此辺に七ヶ所ありしと也(享保十七年、『江戸砂子温故名跡誌』巻三)
・里には日暮といひ、寺には本行といふ。東都の郭北に在り、道灌山といふ。なんすれぞ道灌太田氏の号を名づけたるや、里人太田氏を思へばなり。里人なんすれば太田氏を思ふや、其の恵みを忘るることなければなり。寺の西北に山あり、?道灌といふ。盞し山は、則ち太田氏保障の遺にして、丘はすなはち其の斥候台の址なり。故に丘なく唯址のみ。これ有るは、里人の太田氏を思ふて、自ら丘あるにはじまり、今に二百有余年なり。相伝ふ、昔、太田氏既に亡び里人その墟を過ぎ、尽く禾黍(かしょ)となり、塁(とりで)は壊れ、台はやぶれたるをかんがみ、彷徨去るに忍びずして、其の址を丘にす。故に丘と山と皆其の号を用ひて名とすと(後略、寛延三年建立、道灌丘碑、原漢文)
・道灌斥候(ものみづか)台丘という本行寺境内にあり其傍に筑波先生碑銘あり此邊此類ひ七ヶ所の其一也といふ(寛政五年成立、『江戸往古図説』下巻)
・周囲五間、高さ七尺、頂に一株の松を植えて十かえりのみどりとこしなえ也。塚のもとの断崖三五丈、東南北の眺望は須弥の金輪を、かぎりとす(文化八年刊、『物見塚記』)。
(『日暮里の民俗』243~244ページ)



「物見塚」

 現地説明版には 本行寺境内に立てられている一茶の石碑です。


「物見塚」

 画像は、「物見塚」の跡地を南東から見たところです。台地ごと削りとられてJRの線路が敷かれており、塚は痕跡すら残されていません。もはや元の地形は想像できませんね。

<参考文献>
東京都荒川区教育委員会『日暮里の民俗』
高田隆成•荒川史談会『荒川区史跡散歩』

  1. 2015/01/23(金) 00:14:15|
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「矢崎山(大塚古墳)」

狛江市「大塚(矢崎山)」

 「大塚古墳(矢崎山)」は、狛江市猪方1丁目に所在したとされる古墳です。

 昭和35年(1960)の、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査により把握されていた古墳で、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、104番に名称のない古墳として取り上げられています。ただし、古墳はこの時点ですでに削平されていたと考えられ、『狛江市の古墳(Ⅰ)』には、「付近には数基の古墳ありという 台地の先端に近い地」とのみ書かれています。
 その後、昭和51年(1976)の分布調査の資料にも記述か見られ、「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、その存在が確認できる古墳」として取り上げられており、「1955年5月、附近から円筒埴輪片が出土し、1956年には第3小学校建設のために地ならしを行ない、その際土器片多数が出土したという。」と、興味深い記述がみられます。
 さらには、『狛江市史』の「狛江古墳群一覧表」には石棺の存在についても記されており、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも「矢崎山」という名称で取り上げられていますが、現在の『東京都遺跡地図』には登録はされていないようです。

 矢崎山古墳の正確な跡地はわからなくなっているようですが、狛江市中央公民館から発行された『郷土のむかし講座』には、古老の話として、「「矢崎山」があってそこに第3小学校ができました。小さな山でした。」と書かれているように、この学校の敷地に矢崎山が存在したとする文献は少なくないようです。
 画像は、狛江市猪方1丁目の狛江第3小学校敷地内にある「矢崎花壇」を南から見たところです。この場所が矢崎山の跡地であるという説もあるようですが、学術的な調査が行われていないことから真相は不明です。


狛江市「大塚(矢崎山)」

 矢崎花壇の周囲の道路は、この場所を取り巻くように弧を描いており、確かに、いかにもここに古墳が存在したかのような形状となっています(ちなみに狛江市元和泉1丁目にある「亀塚古墳」にも同様に、かつて存在した古墳の周囲を巡る道路が現在も残されています)。この矢崎花壇に、第三小学校PTAにより立てられている説明板にも、「以前よりこの地が矢崎山と呼ばれていた」と書かれており、この場所が古墳の跡地である可能性は高そうです。
 「大塚」という名称からしても、少なくともそれほど小さな古墳ではなかったでしょうから、この矢崎花壇の地点が古墳の跡地としてはサイズ的にぴったりな印象がありますが、確証を得るには至りませんでした。


狛江市「大塚(矢崎山)」
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194247&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年に米軍により撮影された矢崎山古墳周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っていますが、画像の中央あたりに円形の古墳らしき形状の木立を確認することが出来るようです。現代の地図と見比べるとわかるのですが、これは第三小学校の矢崎花壇の位置とは微妙なズレが見られれ、円形の木立からは、東南東に100メートルほどの地点が「矢崎山」という状況です。その後に第3小学校が建てられて花壇となる場所には畑地が広がるのみで、古墳らしき痕跡を確認することはできません。
 もちろんこの円形の木立が塚状に盛り上がっていたのか、それともただの円形の林で古墳ではなかったのかは航空写真では判断することができませんし、平らな畑に見える矢崎花壇の場所も塚状に盛り上がっているという可能性も考えられます。円形の木立も矢崎花壇の地点も、両方とも古墳、ということも考えられるわけですが、とても興味深い写真です。
 『狛江市の古墳(Ⅰ)』にあるように、学校建設のための整地の際に敷地内から出土したのはあくまで土器片であり、円筒埴輪片が出土したという伝承はあくまで「附近から」ということですから、円形の木立が古墳の所在地である可能性は十分に考えられるかもしれません。
 

狛江市「大塚(矢崎山)」

 円形の木立の跡地と思われる周辺のようすです。
 矢崎山の付近には何かいわれのある祠があったそうですが、残念ながらこれも所在不明で、発見することはできませんでした。
 何十年か前までに存在したはずの古墳でも、現代に痕跡を探し当てるのはなかなか難しいですね。。。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市中央公民館『平成13年度 郷土のむかし講座』


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  1. 2015/01/22(木) 01:58:44|
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