
画像は、世田谷区喜多見7丁目にあるを東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号260番の「塚(円墳)」として登録されています。
「かなくそやま」という衝撃的なネーミングに魅かれて見学に行ってみたわけですが、まずこの「かなくそ」とはなにか調べてみたところ、金属を製錬する際に、溶融した金属から分離して出てきたカスのことを指すようです。実際にこの土地の祖先は鍛治を何代もやり、江戸時代の初め頃には喜多見藩の下で刀鍛治をやっていたという伝承もあるそうで、そのかなくそを穴を掘っては積み、塚になったそうです。
この「かなくそやま」は、1980年の「喜多見古墳群」の調査準備中に発見されました。表面観察や実測調査、聞取調査の結果、下記のように報告されています。
「かなくそやまは、①近世の鉄滓の集積した塚で、鍛治師の信仰の場でもあった。②古墳を利用してかなくそも積まれた。の2つの可能性が考えられるが古墳の積極的な証拠のない点では、②の可能性が強い。
喜多見氏の鍛治に伴う遺構として地域史の上でも重要であり、また区内唯一の鉄滓遺跡である。(『喜多見古墳群Ⅰ』19ページ)
墳頂部には祠があり、豊川稲荷の内宮と明治神宮の内宮が収められているそうです。『東京都遺跡地図』のインターネット公開版では、”径6m、高さ1.5mの近世の塚(円墳)”とされています。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『喜多見古墳群Ⅰ』
- 2015/02/28(土) 01:17:03|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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画像は、世田谷区喜多見4丁目に所在したとされる「宮之原1号墳」の推定地を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号315番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳も、前回紹介した陣屋支群に属する古墳同様に墳丘がすでに失われており、土地区画整理事業に伴う発掘調査により発見された古墳です。外径は32.8m、墳丘規模は26.2mで、埋葬施設は横穴式石室が推定されています。
古墳の周辺はすでに宅地化されており、痕跡は何も残されていないようです。
南東には慶元寺古墳群や陣屋古墳群のほか、「稲荷塚古墳(世田谷区指定史跡)」や「第六天塚古墳(世田谷区指定史跡)」、「天神塚古墳」等、多くの古墳が存在していますが、この「宮之原1号墳」は北西に少し離れたところにポツリと存在します。この古墳の存在が明らかになったことにより、広い地域に古墳群が形成されていたのではないかと考えられています。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・喜多見陣屋遺跡第20次調査会『喜多見古墳群Ⅴ 慶元寺3号墳』
世田谷区教育委員会『1998年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
- 2015/02/27(金) 02:05:50|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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世田谷区喜多見地区は、野川の南岸に広がる立川段丘の先端部にあたります。この周辺は古くから稲荷塚、第六天塚といった後期古墳が群集することで知られていましたが、近年の発掘調査により先土器時代から弥生、古墳時代の集落跡のほか、それまで伝承のみで実態がわからなかった喜多見氏陣屋跡なども確認されるなど、世田谷区内でも最も遺跡密度の高い地域となっています。
喜多見古墳群はこれまでの調査で、陣屋支群で13基、慶元寺支群で7基、他に「稲荷塚」、「天神塚」、「第六天塚」、「宮之原1号墳」と、合わせて24基の古墳が確認されています。このうち、陣屋支群はその多くは墳丘が削平されていたために存在が知られていなかったものの、発掘調査により周溝が検出されたことで確認された古墳です。現在1~16号墳が報告されていますが、(ただし、1、8、10号墳は存在しないことがわかっています)ほとんどは宅地化され、古墳の痕跡を見ることは出来ません。

画像は、狛江市から世田谷区に抜ける「水道道路」の喜多見3丁目周辺を東から見たところです。
画像の左奥あたりに所在したのが「陣屋2号墳」で、発掘調査により周溝が検出されています。外周径約22.4m、内周径約17mのブリッジ付円墳で、周溝全域からかなり多くの埴輪片と土器片が出土しており、この円筒埴輪からこの古墳の築造は6世紀後半と考えられています。
また、画像の左手前あたりに所在したのが「陣屋16号墳」です。外周径約13.5m、墳丘径約11mの円墳で、埋葬施設やブリッジの有無は不明ですが、この古墳からも埴輪片が出土しています。

画像の畑地のあたりが「陣屋3号墳」です。
この古墳は、規模や周溝については不明ですが、埋葬施設については玄室に川原石積、羨門部に泥岩切石を使用した、川原石・切石併用横穴式石室であるとされています。鉄蔟が出土しているようです。

画像の畑地のあたりが「陣屋4号墳」です。
この古墳は、外周径約22m、墳丘径約14mの規模で、埋葬施設やブリッジの有無、埴輪や葺石については不明です。須恵器が出土しているようです。

画像の畑地内に所在するのが「陣屋5号墳」と「同12号墳」です。
陣屋5号墳は、外周径約24m、墳丘径約18.5mの規模で、かつては前方後円墳ではないかと考えられていましたが、現在は円墳であることがわかっています。周溝からは円筒埴輪片、土師器片、須恵器片が出土しており、6世紀後半の築造と推定されています。また、陣屋12号墳は、切石積横穴式石室を持つ、墳丘径約8mの円墳とされています。
5号墳の所在地は集合住宅のあたりで痕跡は何も残されていませんが、12号墳に関しては畑地となっていることもあり、まだ地中に周溝が残されているのかもしれませんね。

画像が「陣屋6号墳」の所在地です。この古墳も周溝のみが検出されています。規模は、外周径約24m、墳丘径約18.5mの円墳で、埋葬施設やブリッジの有無は不明です。この6号墳の周溝の覆土からは埴輪棺が検出されています。6世紀前半の築造と推定されています。

この「稲荷大明神」が祀られている周辺が「陣屋7号墳」の所在地です。
画像の、鳥居と祠の後ろ側がうっすらと盛り上がっているように見えますので、墳丘がかろうじて残されているのかもしれませんが、この古墳は未発掘であるため詳細はわかりません。この土地を所有するご主人に聞いたところでは、周辺では陣屋遺跡の発掘が行われているもののこの古墳の発掘に関しては全く覚えがないそうで、古墳の存在すら知らないとのことでした。後日調べてみたところでは、どの古墳分布図を見ても7号墳の位置ははっきりと示されているものの発掘に関する記録は見つからず、比較的新しいと思われる『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳 2010』の「喜多見古墳群一覧表」でも7号墳の項には”円墳?”と書かれているのみで、規模や周溝、埋葬施設や遺物等すべて不明となっているようです。
土地の所有者に許可をいただき、撮影させていただきました。ありがとうございました。

画像の、道路の右手あたりが「陣屋9号墳」の所在地です。外周径約24.5m、墳丘径約18mの円墳とされています。この古墳に関しては周溝墓の可能性も指摘されているようで、3世紀後半の築造と推定されています。

画像が「陣屋11号墳」の所在地です。この古墳からは横穴式石室の玄室部分が検出されています。半地下に構築された玄室の奥壁と側壁は泥岩の切石が使用されており、床面には小礫が敷かれています。外周径約20,5m、墳丘径約15.5mの円墳で、石室の形態から7世紀初頭の築造と推定されています。

画像が「陣屋13号墳」の所在地です。外周径約18.9m、墳丘径約13.9mの円墳で、埋葬施設やブリッジの有無は不明です。覆土上層から土師器片、須恵器片が出土しており、この覆土の状況や出土土器から5世紀前半の築造と推定されています。

画像の、道路の左手あたりが「陣屋14号墳」の所在地です。外周径約44m、墳丘径約30mのブリッジ付円墳とされており、埋葬施設は切石積横穴式石室とされています。覆土から6~7世紀の築造と推定されています。

画像の、道路の右側あたりが「陣屋15号墳」の所在地です。周溝の一部のみの調査に限られているため埋葬施設やブリッジについては不明で、埴輪も出土していないようです。外周径約16.4m、墳丘径約11.2mの円墳とされており、覆土から6世紀前半の築造と推定されています。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1988』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1989』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1990』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1991』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1992』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1993』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 1994』
世田谷区教育委員会『世田谷区埋蔵文化財調査年報 2009』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅳ』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳 2010』
- 2015/02/25(水) 00:50:39|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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「喜多見古墳群」が所在する「喜多見陣屋遺跡」は、多摩川中流域左岸の立川段丘上の和泉面上に立地しています。北西役1.3kmには「狛江古墳群」の岩戸支群が、また武蔵野段丘面には「砧中学校古墳群」や「殿山古墳群」、「大蔵古墳群」が、またその段丘崖には大くの横穴墓も分布しています。
「慶元寺古墳群1号墳」は、世田谷区喜多見4丁目に所在したとされる、すでに消滅した古墳です。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号28-1番の古墳として登録されています。
この古墳からは、削平したといわれる大正年間に直刀が3口出土していましたが、その後、正確な位置はわからなくなっていました。周辺からは埴輪片が採集されていることからおおよその位置は推定されていたようですが、その後の発掘調査により周溝が検出され、把握されています。
規模は、外周で径約22m、内周で径約13mの円墳であると推定されていますが、墳丘の東側にくびれ部と思われる箇所が確認されており、造出し部の存在も考えられているようです。葺石には12×20cm程の河原石が使用されており、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪が検出されています。
画像の道路の左側、集合住宅のあたりが古墳の所在地ですが、痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『喜多見古墳群Ⅰ』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳』
世田谷区教育委員会 世田谷区遺跡調査会『慶元寺1号墳•陣屋前遺跡 奥沢台遺跡他』
- 2015/02/24(火) 01:30:54|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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「慶元寺古墳群2号墳」は、世田谷区喜多見4丁目に所在したとされる、言い伝えにのみ残されている古墳です。『東京都遺跡地図』には、消滅した古墳として世田谷区の遺跡番号28-2番に登録されています。
この古墳は、慶元寺墓地の北東角に位置していたとも伝えられており、墓地内からは埴輪片が採集されています。恐らく、画像の畑地と慶元寺の墓地との境のあたりが古墳の推定地とされているようなのですが、遠目に見る限りでは古墳の痕跡を見ることは出来ません。形状は円墳と推定されているようですが、正確な跡地はわからなくなっているようです。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『喜多見古墳群Ⅰ』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳』
- 2015/02/23(月) 00:59:47|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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画像は、世田谷区喜多見4丁目にある「慶元寺古墳群3号墳」を南西から見たところです。慶元寺の境内、本堂の南に位置する、世田谷区の遺跡番号28-3番にあたる古墳です。
この古墳は慶元寺の築山として利用されており、ツツジ、ツバキ、ウメなどの樹木が植えられています。墳丘の現状は北東にやや張り出した楕円形をしており、直径は15~17m、高さは1.2~1.3mを測ります。周溝が確認されており、本来の墳丘は13.5m前後の円墳と考えられています。周溝覆土からは埴輪、土師器、須恵器など、多くの遺物が出土しています。

墳頂東部には泥岩が露出しているとのことなのですが、これは確認できませんでした。
この3号墳の北東25mには4号墳、北29mに5号墳、北北西39mに6号墳が所在しています。墳丘が残存する古墳のうち、4号墳~6号墳は通常非公開となっている日本庭園内にあるために見学は困難ですが、この3号墳は慶元寺境内に所在しており、いつでも見学する事ができます。周辺には喜多見稲荷塚、第六天塚、天神塚のほか陣屋1~16号墳が報告されており、喜多見古墳群を形成しています。

画像のように、墳丘の南東側は一部、薬師堂により削平されています。埋葬施設の発掘調査はされていないようですが、1980年にボーリング探査が行われていて、西に入り口を向けた長さ4~5mの横穴式石室の存在が考えられているようです。このあたりは今後の調査が楽しみです。

北側には「慈光観音菩薩像」が立てられています。参道の方から向かってくるとこの地点が墳丘であると勘違いしてしまいそうですが、墳丘の高まりが拡張されているそうなので、注意が必要ですね。
ちなみに第二次大戦中にはこの下には防空壕が掘られていたそうです。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『喜多見古墳群Ⅰ』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳』
- 2015/02/20(金) 01:06:46|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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画像は、世田谷区喜多見4丁目にある「慶元寺古墳群4号墳」を北から見たところです。慶元寺の境内、本堂裏の東に位置する、世田谷区の遺跡番号28-4番にあたる古墳です。
この古墳は日本庭園の一部となっているので、墳頂部周辺には木々が植えられているほか北側にも大木が立っています。庭園を造る以前は6号墳と繋がっていたのを飛び石と道を造る際に削平したそうなので、かなり改変されているのではないかと思われます。現状は北辺7m、南北7m、高さ1mの不整形な三角形を呈していて、規模10mの円墳と推定されています。墳丘の封土が流された際に露出した小刀が採集されたことがあるそうで、またそれ以前に円筒埴輪片も採集されています。
4号墳~6号墳の3基は日本庭園内に残されていますが、この庭園は通常非公開で見学することは出来ません。お正月の三ヶ日と彼岸中日にのみ公開されているようです。
一昨年には「喜多見古墳物語」なるイベントで公開していたそうですが、その後は行われていないようです。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『喜多見古墳群Ⅰ 1981』
世田谷区教育委員会『喜多見陣屋遺跡Ⅴ 慶元寺3号墳 2010』
- 2015/02/19(木) 01:02:30|
- 世田谷区/喜多見古墳群
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「殿山古墳群 5号墳」は世田谷区大蔵6丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-5番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳は、丘陵の南傾斜肩部に位置しています。周辺は開発が進み、宅地化されているものの、古墳の周囲には古木が繁る山林が残されています。同じ台地上の縁辺には北西に6号墳が、東には4号墳が所在したとされていますが、この2基については残念ながら墳丘は残されていません。残存する5号墳は、画像の長い石段の奥に所在します。

画像が、「殿山古墳群 5号墳」を南西から見たところです。石段を登りきったところに鳥居が立てられており、墳丘と思われる上には屋敷稲荷の祠が祀られています。素人目に見たところでは、墳丘の中央から西側にかけてざっくりと抉るように削られており、祠は墳丘西側の裾のあたりに建てられているようです。『東京都遺跡地図』には横穴式石室の存在を記していますが、特に露出する石室の有無は確認出来ませんでした。

角度を変えて見ると、円形の古墳の形状がまだ残されていることがわかります。『東京都遺跡地図』には径20mの円墳と記載されています。
土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。また、自動車屋の「変なおじさん」さまには土地の所有者を紹介していただきました。ありがとうございました!
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/17(火) 00:12:14|
- 世田谷区/殿山古墳群
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この「殿山古墳群」は、昭和41年(1966)に行われた、日本道路公団の東名高速道路建設に伴う分布調査により8基の古墳が確認されており、「1号墳」と「2号墳」の2基の古墳の発掘調査が行われています。「殿山古墳群 6号墳」はこの調査当時には残存しており、個人の屋敷内に築山として存在していたようです。雑竹林の中にあり、墳丘はあまり明瞭ではなかったようですが、墳頂部には松の独立樹があったといわれています。
画像が世田谷区大蔵6丁目、6号墳の推定地を東から見たところです。台地縁辺の、いかにも古墳が存在しそうな立地条件の箇所であり、同じ台地縁辺に5号墳、4号墳も並ぶように存在しています。。発掘調査の予定もあったようですが、結局行われないまま東名高速道路建設により消滅しています。
この地点は東京外かく環状道路と東名高速道路が接続する東名ジャンクションの用地となっているので、今後景観も大きく変わってくるものと思われます。周溝の一部でも検出される可能性はあるように思うのですが、発掘調査等はおこなわれているのでしょうか。。。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/16(月) 00:22:17|
- 世田谷区/殿山古墳群
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画像は、世田谷区大蔵6丁目に所在したとされる「殿山古墳群 7号墳」の推定地を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-7番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳からはかつて直刀が出土しており、古墳の存在は間違いないようですが、殿山古墳群の調査が行われた昭和41年(1966)にはすでに開墾により湮滅しています。第六天の祠の東方に所在したとされており、画像の畑地のあたりが推定地であると思われますが確証はありません。特に古墳の痕跡は残されていないようです。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/14(土) 23:19:12|
- 世田谷区/殿山古墳群
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