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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「日室塚」

「日室塚」

 「日室塚」は、あきる野市野辺に所在したといわれている『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 昭和58年に秋川市教育委員会より発行された『秋川市地名考』にこの日室塚についての詳しい記述が見られ、次のように書かれていました。


(8) 日室塚(ヒムロヅカ)  一〇〇九番地〜一〇八一番地
 「大六天の西に隣していて、雨間の一丁目に続いている。 バス停に日室塚がある。 野辺の西隅である。
 日室塚の地名は、この地域の南隅に日室塚があったことによる。 日室塚は五日市街道を南に入った野辺一〇五〇番地付近にあった。 大六天社のすぐそばにあたる。
 聞書では日室塚は五尺ぐらい(約一・五メートル)の塚であって、その上に太い白檀の木(おにしばのような葉で、長生するが育ちの悪い木)が二本あり、大岳山の一の鳥居となっていた。 私有地の中にあったので、塚をじゃまにして平らにしてしまった。塚をこわしたのは、戦後昭和二十五年(一九五〇)頃であったが、塚の中からは何も出て来なかったという。
 塚の上にあった二本の白檀の木は、神とかかわりのある木であった。 それはヒモロギとよばれ、塚はヒモロギヅカであったのであろう。ヒモロギは、古くは神を祭る時、清浄の地をえらんで、周囲に常磐木を植えて神座としたもの、後世になると、室内や庭上に常磐木を立てて、これを神の宿る所として、ヒモロギとよんだ。ヒモロギは古くはヒモロキといった。ヒモロギのギが脱落してヒモロとなり、それがヒムロになったものと思われる。
 二本の白檀が大岳神社の一の鳥居といわれたということは、ここから大岳山の神域になることを意味している。ちょうど西北に大岳山が大きくみえる。二本の白檀は光明山とか、御岳山の鳥居ともいわれているが、山容からみると大岳山が一番妥当のようである。
 ただ植えられていた木はビャクダンだということがすこし気になる。ビャクダンはビャクダン科の植物で、日本では二種しか自生していない。「つくばね」と「かなびきそう」で、『牧野新日本植物図鑑』には、この二種類しか掲げていない。ビャクダンは載っていない。『万有百科大事典』(植物)には、ビャクダンの写真と説明があるが、東南アジアに自生する 半寄生的な植物とある。こうした特殊な樹木が果して日室塚に植えられていただろうかということである。(『秋川市地名考』161〜162ページ)


 画像の台地の上が、かつて塚が存在したといわれている場所です。所在地は野辺1050番地付近ということですから、画像中央の送電線の鉄塔が建てられているあたりが塚の跡地と思われます。立地的には古墳である可能性も感じますが、遺物は何も出土しなかったようですから古墳ではなく塚だったのかもしれませんが、ちなみに『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌にはこの日室塚は記載されていないので、当時はそれほど有名な塚ではなかったのかもしれません。

「日室塚」

 かつてはこの周辺の地名として使われていた「日室塚」の名称は、現在では西東京バスのバス停に残るのみです。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会『秋川市地名考』

  1. 2015/03/31(火) 01:08:36|
  2. あきる野市/その他の古墳・塚
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「すってくりょう塚」

「すってくりょう塚」

 画像は、あきる野市菅生‎に所在する「すってくりょう塚」を南東から見たところです。東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 ここは賀治沢といわれる場所で、2つの塚が並んで残されています。別名「ホトトギス塚」とも呼ばれるこの塚は伝説が残されています。現地に立てられた説明板には次のように書かれています。


兄弟塚の伝説

今から凡そ六百八十年前鎌倉に幕府がおかれたその頃この地方に武蔵七党があり、その中の一党横山に菅生太郎経孝と云ふ武士がおり三人の子供「有孝」「経久」「有孝」と云った。長男有孝は父の後を継いで菅生太郎有孝と名乗り経久は分家として五日市宿の小倉に住み小倉次郎経久と云い参男も分家して大貫馬之亮有経と云った。
或る時有孝は北条氏に召され鎌倉に行って不在となった留守に福泉寺より田耕の為に乗馬を借りに来たが主人が不在の為断ったが遇々弟経久が来たので家来が話すと経久は軽く引受けてしまった。
数日後帰ってきた有孝は馬の様子がおかしいので家来に尋ねると田耕に貸した事がわかり愛馬を農耕馬に使用したと経久と口論となり兄弟喧嘩となり家来達がとめても双方ともきき込れず有孝は「経久お前は俺を侮辱したな」と大刀を抜き放ってしまった。弟も負けてはいません二人は激しく戦い乍ら鯉川淵の不動尊から「すめり坂」にかかったその時弟の打下した大刀の先が兄有孝の左耳から首筋深く切り込まれ其の場に倒れ息絶えた。兄思いの弟経久は「兄を殺してしまっては生甲斐なし」とこの大刀で自分の喉を突いて兄の後を追ったのである。
報を受けた菅生家では寺僧と相談の上、兄弟の倒れた「すめり坂」の上の道ばたにある福泉寺の山林に剃髪せず枕を並べ葬ったのがこの兄弟塚であります。
当時は昼間でも暗い森林でここを通ると剃ってくれ剃ってくれと云ふ悲壮声が聞こえたと云う。
又一説にはこの所を南刀地ホトトギスの墓と云ってホトトギスが「おとのどつつきつちよ」と鳴いたとも云はれている。
 平成二十四年六月吉日      福泉寺


「すってくりょう塚」
                                     
 「すってくりょう」というのは「剃ってくれよ」という意味であるようですが、その後この場所は兄弟2人の怨霊が出るという噂が広まったそうで、幽霊の声は時鳥が啼く声に似ているといわれています。私は昼間に訪れましたが、夜に訪れるとかなり怖い場所かもしれません。地元では有名な心霊スポットにもなっているようです。
 画像は左側の塚です。こちらには「すってくりょう」の石標と説明板が立てられています。

「すってくりょう塚」
 
 画像は右側の塚で、「兄弟塚」の石標が立てられています。
 この2つの塚は兄が弟を殺したことから「不如帰の塚」とも呼ばれており、『秋川市・多西郷土精史』には「二つの塚は確実に墳墓であり、この附近には多くの古墳があります」と書かれています。果たしてこの塚は兄弟の墳墓なのでしょうか。それとも古墳なのでしょうか。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会『秋川市・多西郷土精史(原著題名 多西村に於ける沿革と史跡)』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』
現地説明版

  1. 2015/03/30(月) 03:07:44|
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「法教上人塚」

「法教上人塚跡」

 画像は、世田谷区用賀2丁目にある「法教上人塚」の跡地を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 この塚に関しては発掘調査等の記録は見当たらず、多くの情報は入手できなかったのですが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「上人塚 村ノ南、畑中ニアリ。由来ヲ伝ヘズ。」との記載があり、古くから存在は知られていたようです。この地点が正確な塚の跡地であるかは確認出来なかったのですが、現在「世田谷区立 用賀2丁目西広場」という公園の敷地内に「法教上人塚跡」という石標が建てられています。

 玉川石標を守る会より発行された『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 用賀・馬事公苑コース』には次のように書かれています。

 ここは、今から300年以上も昔、寛文4年(1664)に亡くなった『お上人様』のお墓(塚)があった所です。このお上人様は人々の信望がとても厚かったようですが、不思議なことに、その名前も出身地も伝わっていません。いい伝えでは、その塚にお参りすると百日咳が治るとの事で、村人は治った時には、お礼に甘酒を供えました。そして、近所の子ども達は、その甘酒が温かいうちに、こっそり飲んでしまう事もあったようです。
今、その塚もなくなってしまい、お上人様を伝える石碑などは真福寺境内に移されて建っています。


「法教上人塚跡」

 巨大な虫が木にたかっているのかと思ってビックリしました。。。笑。


「法教上人塚跡」

 画像は、真福寺境内にある現在の「上人塚」です。耕地整理の関係で昭和の初め頃に現在地に移されたそうです。
 『新編武蔵風土記稿』には「ヒジリ塚 村ノ北ニアリ。是モ由来ヲ伝ヘズ。」とあり、この上人塚以外にも塚が存在したことを記していますが、この塚に関しての詳細はわからなくなっているようです。

<参考文献>
玉川石標を守る会『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 用賀・馬事公苑コース』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
世田谷区教育委員会『用賀 世田谷区民俗調査第9次報告』

  1. 2015/03/26(木) 02:47:10|
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「蟹ヶ谷古墳群」

「蟹ヶ谷古墳群」

 さて、この『古墳なう』は、「東京の失われた古墳を求めて」をテーマに(運動不足解消とダイエットも兼ねて)古墳探訪を行っていますが、たまに東京都外の古墳を見学に訪れることもあります。平成27年3月7日には川崎市高津区の「蟹ヶ谷古墳群」の現地見学会が行われ、見学に訪れました。小雨の降る残念な天候ではありましたが十分に楽しむことが出来ました。今回は番外編ということで紹介してみたいと思います。

 川崎市は、多摩川流域遺跡群研究会(専修大学・日本大学)と連携して5年計画でこの「蟹ヶ谷古墳群」の調査研究を行い、平成26年度が3年目にあたります。これまでに3基の古墳の調査が進められており、このうち2基は円墳、1基は川崎市内で唯一現存する前方後円墳であることがわかっています。また、本年度の調査で新たに4号墳が発見されています。

 画像が「蟹ヶ谷古墳群1号墳」を西から見たところです。平成24年度の測量調査により前方後円墳であることが確認されたのがこの古墳で、右奥が前方部、左手前が後円部です。現存する墳丘長は約27mですが、後円部が削られており、実際には30m以上の墳丘だと考えられています。今回の発掘調査の目的のひとつとして1号墳の墳丘の形態と主体部の状態の確認があったそうですが、見学会の当日までには埋葬施設は検出されなかったようです。


「蟹ヶ谷古墳群」


 画像が1号墳の発掘のようすです。版築で築かれている断面をみることが出来ますね。

「蟹ヶ谷古墳群」
 
 画像が2号墳です。測量調査の結果から直径約13mの円墳であると確認されています。昨年度の発掘調査成果を勘案する と、墳丘の直径が約20mであった可能性がでてきているそうです。
 周溝のようすを見ることが出来ます。


「蟹ヶ谷古墳群」

 画像が3号墳です。3号墳は南北約9m、東西約11mの円墳であると確認されています。この古墳は墳丘の西半分の傾斜が急で、当初に作られた墳丘がかなり削られているとみられているそうです。墳丘の東側に設けられたトレンチからは幅3mの周溝が見つかっており、墳丘の裾から2m近く外側に墳裾があらわれたことになるため、2号墳と同じく、墳丘の直径がさらに大きくなる可能性がでています。


「蟹ヶ谷古墳群」

 古墳群の周辺を踏査した結果、4号墳が新たに確認されています。画像の手前の高まりが4号墳で、さらに4号墳の奥の高まりも古墳ではないかと考えられているそうです。


「蟹ヶ谷古墳群」

 画像は、新たに確認された4号墳から出土した須恵器片です。発掘調査は来年遺構も継続して行われるそうですので、進展が楽しみですね。。

  1. 2015/03/22(日) 00:28:28|
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「十三塚(和田塚)」

「十三塚(和田塚)」

 さて、前回は「十三塚」の1基であったといわれる世田谷区の「常盤塚」を紹介しましたが、この十三塚は杉並区にも存在したといわれています。今回は杉並区の十三塚を紹介しようと思います。

 画像の右側、杉並区和田1丁目41番から画像左側、和田2丁目31番にかけて所在したとされるのが「十三塚」です。別名「和田塚」とも呼ばれたこの塚は、往時には高さ0.6mから1.2mの高塚13基が横一列に並んでいたといわれており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の和田村寺院(十三塚)の項には「東円寺ノ北ノ方ニアリ。其ノ中、西ニヨリタルハ頗ル大ナリ。高サ四尺バカリ。余ハイズレモ高サ二尺余。其ノ来由ヲ詳ニセス」と記されており、古くからこの塚が有名であったことがわかります。
 東京23区内の十三塚といえば、旧上尾久村と下尾久村の村境(現在の荒川区東尾久7丁目あたり)にあたるところに所在したとされる「十三坊塚」や、北区赤羽西周辺に所在した「十三坊塚」が思い浮かびますが、これらはどちらも横一列に造られたいわゆる「十三塚」ではなく、古墳が点在した「群集墳」であるといわれています。しかし、この杉並区和田の十三塚に関しては、1213年の和田合戦の戦死者を葬った墓であるとか、文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた「江古田沼袋原の合戦」後に造られた「豊島塚」であるとか、また道祖神信仰や十三仏信仰から生まれた遺跡である等々諸説あるようですが、いずれも推定の域を出ず、何の為に造られた塚なのかはわからないようです。

 ただし、昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』に掲載されている古墳地名表には「所在:和田本町983附近 種別:高塚 遺物:刀・槍(?) 微高:東京市町名沿革史・群在という・今なし」とあり、この時点ですでに消滅していたものの言い伝えとして残る古墳群の存在についての記述がみられます。また、十三塚の地点から北西に数百メートルほどの「本村原遺跡」からはA地点とC地点の2箇所から埴輪片が出土しており、高塚古墳の存在の可能性を示唆しています。この十三塚が古墳であった可能性は考え難いものの、少なくともこの周辺に複数の古墳が存在していた可能性は高いようです。


「十三塚(和田塚)」

 明治維新の際、上野の戦いに敗れた彰義隊の敗走者がこの和田村へたどり着いたそうで、この時に亡くなった数名の遺体を十三塚の傍に埋葬したそうです。(和田村にたどり着いた時には息も絶え絶えであった侍が、村人の手当の甲斐もなく息を引き取ったとする説や、彰義隊の敗走者が和田村でトラブルを起こし、数名が処刑されたとする説もあるが、真相は不明)
 その後、大正時代になる頃にはこの周辺は鬱蒼と茂った山で、首吊り自殺者が出るなど、村の若者の肝試しの場所になった程の怖い場所であったようですが、大正10年頃、1基の塚の地主が土饅頭を取り崩したところ、人骨がリンゴ箱一杯に出土したそうです。当時の古老の中には彰義隊の遺体を埋葬したことを目撃した者が多数いたのでこの人骨が彰義隊の骨であることがわかり、この地主は別の残された塚に埋葬し、供養のため「石地蔵」と「十三塚之碑」を建てました。この塚は東円寺の所有地であったそうですが、その後、昭和10年頃になってこの土地を救世軍へ売り渡し、昭和37年頃には残されていた塚も取り崩されて宅地となり、人骨と石地蔵、石碑は東円寺へと移されたのだそうです。

 画像が、東円寺に残されている「十三塚之碑」です。案内していただいたお寺の方の話によると、この周辺で十三塚のことについて覚えているのはこの土地に長く暮らす古老だけではないかということで、地元の人の記憶からも忘れられてきているようです。。。

<参考文献>
東京都杉並区役所『杉並区史』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』
森泰樹『杉並郷土史業書4 杉並の伝説と方言』
森泰樹『杉並郷土史業書6 杉並風土記 下巻』

  1. 2015/03/18(水) 03:20:45|
  2. 杉並区の古墳・塚
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「常盤塚」(世田谷区指定史蹟)

「常盤塚」(世田谷区指定史蹟)

 画像は、世田谷区上馬5丁目に所在する「常盤塚」を北東から見たところです。塚は昭和58年(1983)に世田谷区の史蹟に指定されており、今も住宅街の一角に保存されています。

 この「常盤塚」には多くの伝説が語り継がれているようです。昭和37年(1962)に発行された『新修 世田谷区史』には次のように書かれています。

常盤塚と常盤の松 戦国時代のころ、世田谷城主吉良左兵衛佐頼康の愛妾常盤(奥沢城主大平出羽守の娘)が、頼康の寵も衰えて自害したのを埋めた所で、その墳墓の上に松を植え、これを常盤の松と称した。吉良頼康の愛妾十二人は、常盤が特に寵愛を受け、懐妊の身となったのをねたんで讒訴したが、やがて常盤の死により、その罪状が明らかとなり、若林の辺りへ引出され悉く死刑に処せられた。常盤の塚をはじめ、若林より駒留八幡社のほとりまで十三カ所の塚を築き、そこに死骸を埋めた。今もその辺を十三塚と云うが、その跡は明かではない。この塚より婦人の手道具類を掘出したと伝えている(「名残常盤記」参照)

 この言い伝えもさることながら、世田谷区に十三塚があったということが驚きですが、全国に分布する十三塚の形式が一直線上に並び築かれている同系列塚が主流を占めているのに対して、この世田谷の十三塚は点在していたと推測されているようです。


「常盤塚」(世田谷区指定史蹟)

 画像が現在の「常盤塚」です。規模は、長径約3.5m、短径約2.5m、高さ0.5mとされています。13基あったとされる塚はすべて消滅しており、国有地となっているこの敷地内に常盤塚だけがひっそりと残されています。

 この塚に関しては江戸時代の地誌にも多くの記述が見られ、『新編武蔵風土記稿』には「塚 コレモ上馬引沢ノ内、横沼氏ヲ称スル村境ニアリ。高五尺余ナリ。若林村及ビ当村ニテ十三塚アル其一ト云。コノ塚ハ始ニモシルセシ吉良頼康ノ妾、常磐ヲ封ジタルモノトイヘリ。事ハ若林村ノ条ニモ出タレバ照シミルベシ。」とあり、また『江戸名所図会』にも「按に、此はしより二十歩ばかり東の方、道より北側に松を植たる塚あり。是を常盤の墓と云。上に不動の石像あり。又同じ南の方にも塚あり。是なりともいへど、いづれか実ならん」と書かれています。


「常盤塚」(世田谷区指定史蹟)

 敷地内には「伝承史跡常盤塚」なる石碑が建てられており、塚の由来が書かれています。。。

<参考文献>
東京都世田谷区『新修 世田谷区史 上巻』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』

  1. 2015/03/15(日) 03:14:45|
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「葦毛塚」

「葦毛塚」

 画像は、世田谷区下馬5丁目に所在する「葦毛塚」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 この葦毛塚の由来については諸説あるようで、古くは江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「葦毛塚 下馬引沢ノ内、上目黒村ノ境ニアリ。凡二間四方ノ塚ナリ。土人ノ説ニ、昔頼朝卿葦毛ノ馬ニ乗テ此塚ヲスギ給フ時、馬驚キテ沢中ニ陥リ、忽チ死シタリシヲ埋メシ所ト云。コノ塚目黒村ノ境ナルユへ、カノ村民アヤマリテ己ガ村内トオモヒ、コノ塚ヲ半ウガチシニヨリ、当村ヨリ来由ヲ語リテトドメシトゾ。今モ塚ノ形半面ハ損セリ。又此側ニ葦毛田ト云所アリ。コレハ馬ノ陥リシ沢ヲ新墾シテ水田トナセシガ、後水モカレタレバ、今ノゴトク陸田トナレリト。」とあり、また昭和37年(1962)に東京都世田谷区より発行された『新修 世田谷区史 上巻』には、「葦毛塚 文治の昔源頼朝が奥州征伐に向った時、葦毛の馬に乗って此の地を通った時、騎馬何者かに驚いてあばれ、遂に沼沢に深く陥った。近侍の武士がようやく其の馬を引上げたが、まもなく死んでしまった。今の葦毛塚は、其の馬を埋めた所であるといっている。また葦毛田の小字は其の故事に因んだ名であると伝えられ、それから馬引沢の名が起ったという」と書かれています。

「葦毛塚」

 これら多くの伝説が残されている場所であるために、下馬と地区画整理組合施工の際に史蹟として残されたのだそうです。この地点は世田谷区と目黒区の境の道路上にありますが、現在は世田谷区の公園課で管理されています。
 私も若い頃に何度かここを車で通った記憶がありますが、きっとこういう場所は祟りの言い伝えなどが残っているのだと恐れていましたが、こういうことだったのですね(笑)。

 敷地内には、昭和44年に下馬史蹟保存会により記念碑が建てられており、世田谷区教育委員会により説明板が設置されています。

<参考文献>
東京都世田谷区『新修 世田谷区史 上巻』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
現地説明版

  1. 2015/03/13(金) 02:05:39|
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「カネ塚」

「カネ塚」

 画像は、世田谷区南烏山2丁目にある「カネ塚」を東から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の239番の「中世、近世の塚」として登録されています。

 「カネ塚」は、昭和55年(1980)の分布調査の略測では、径11m、高さ1.3mの塚と認められており、この数値が『東京都遺跡地図』にも掲載されています。その後の測量調査では、塚の本来の規模は少なくとも径約12m、高さ1.7m以上はあったと考えられていますが、この周辺は工場建設の際に薄く盛土されており、正確な規模はわからないようです。塚の周囲には幅1m強、深さ10~30cmの浅い周溝が検出されていますが、盛土は黒土のみで築造されているということなので、どうやらこの塚は古墳ではないようです。


「カネ塚」

 この周辺は、かつて烏山城(砦)が築かれた場所と伝えられており、『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号230番の「烏山城(砦)跡」の名称で登録されています。覆土中には宝永の火山灰が認められるそうで、塚は少なくとも宝永以前に築造されたものであり、砦と関連を持つ可能性が考えられています。


「カネ塚」

 塚の頂上には天保10年(1839)の「庚申之碑」が建てられています。この碑石の台石には、半肉彫りの三猿がみられ、砦を築いた由来が記されています。この碑石は形や刻字、石質から江戸時代のものであると鑑定されているそうです。。。

 周囲はかなり開発が進んでいるようですが、カネ塚はしっかりと整備されたうえで保存されており、いつでも見学することが出来ます。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区遺跡調査会『烏山城跡 烏山南原遺跡 予備調査報告所』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』

  1. 2015/03/11(水) 00:48:51|
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「半田塚」

「半田塚」

 画像は、世田谷区松原にある「半田塚」を西から見たところです。世田谷区の遺跡番号244番にあたる塚です。

 半田塚はかなり古くから知られていたようで、江戸時代の地誌『新編武蔵国風土記稿』の松原村の項には「小名スナハチ半田ト云。コノ塚アルユヘニ地名モ起レリト云。高サ四五尺、敷ノ径一間許。何人ノ墳ナリヤソノ来由ヲ伝ヘザレバ、詳ナルコトヲ知ラズ。」とあり、赤堤村の項にも「小名、半田塚、村の巽ノアタリヲ云。東隣松原村ニ半田ト呼ベル塚アリ。(後略)」との記述が見られます。また、この塚には新田氏が鎌倉を攻めた際の残党を葬ったという話や、日露戦争から帰ってきた軍人が軍刀を納めたという話など、いくつかの言い伝えが残されているようです。地元の古老の話では、かつては「大塚さま」と呼ばれており、小さな祠が建てられていたそうです。


「半田塚」

 「東京都遺跡地図」のインターネット公開版ではこの半田塚は径3m、高さ0.5mの近世の塚とされています。四方を宅地と道路により削られているため本来の規模はわかりませんが、「大塚さま」との名称から考えてもかなり大きな塚だったのかもしれません。元々は古墳(円墳)であると考えられているようですが、塚上に立てられている石碑にも「古墳 半田塚」と刻まれています。

 半田塚の入口は施錠されているため敷地内に入ることは出来ませんが、路上からいつでも見学することが出来ます。敷地内には、世田谷区教育委員会による説明板が設置されています。

<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区民俗調査団『世田谷区民俗調査第12次報告』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版

  1. 2015/03/09(月) 01:22:59|
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「殿山古墳群 1号墳」

「殿山古墳群 1号墳」

 「殿山古墳群」は、多摩川と仙川により舌状に突出した武蔵野台地の先端、世田谷区大蔵5〜6丁目に所在する古墳群で、『東京都遺跡地図』には現在9基の古墳が登録されています。

 この古墳群については江戸時代の地誌に記述を見ることができ、『新編武蔵風土記稿』には「丸山塚 字本村にあり、百姓宗右衛門と云ものの地内にして小さき塚なり、近き頃こぼちし土中より石棺の如き物を得たり、其内に太刀短刀などのくさりたるあり、又壷一を得たり、口の径り六寸、高さも九寸許にして、今云ふ焼の類なり」、また「塚 三ケ所 一ハ岡本村境ニアリ。村民持山ノ内ニテ二間四方許。一ハ愛宕社ノ傍ニアリ。又一モ此辺ニアリ。耕作ノ障ニナリトシトテ近キ頃崩シタレバ、古瓦ノ如キ損タルモノ出シトイヘリ。」と書かれており、『武蔵名勝図会』には「塚 五ケ所あり。この辺は前にも出せし如く大なる塚数ケ所あり。中古以来の事にあらず。上古何人の住居せし跡なるか。字愛宕山と称すは周径廿間程、高さ一丈許。又江戸道の北裏に三ケ所、各同断の高さなり。この内一ケ所は畑のさわりになりけるゆえ土人掘り崩したるとき古瓦など出けりと。又、一ケ所は本村百姓地内にあり。これも先年掘り穿ちしとき甕一個、或は古瓦、刀剱の類を出したり。甕はいま名主石井氏が家にあり。」と書かれています。
 『新編武蔵風土記稿』には「丸山塚」という名称のある古墳が存在したようですが、何号墳がこの丸山塚であるかはわからなくなっているようです。

 「殿山古墳群 1号墳」は、世田谷区大蔵6丁目に所在したとされる古墳で、世田谷区の遺跡番号39-1番の遺跡として登録されています。この古墳は昭和41年(1966)7月に発掘調査が行われています。当時すでに畑地として開墾が進み墳丘は削平されていたようなのですが、土地所有者が耕作中に耕運機に岩が当たって作業が困難な地点があり、この周辺約5m四方に泥岩が散乱していたことから発掘調査が行われたということのようです。地中からは、半地下式の両袖を有する凝灰岩切石使用の横穴式石室が発見され、玄室内からは直刀や刀子、鉄環、鉄鏃などが出土しています。

 画像の道路の右側あたりがこの1号墳の跡地であると思われますが、周辺は開発が進み、古墳の痕跡は残されていないようです。。。

<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』

  1. 2015/03/07(土) 00:39:59|
  2. 世田谷区/殿山古墳群
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