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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「神明様」

「神明様」

 現在の立川市柴崎町2丁目付近には「神明木」と呼ばれる場所がありました。寛文7年(1667)、弘化5年(1848)、慶応3年(1867)の『検地帳』に記されており、寛文7年の『検地帳』には「神明木原」と「神明木」とあります。立川市教育委員会より発行された『立川の地名-立川編-』によると、もともと「神明木原」とよばれた原野があって、次第に耕地化してきて、「神明木」という畑地が生まれたものと考えられているようです。旧番地で2682、2683番地には「神明様」と呼ばれる塚があり、塚の上には小祠が祀られていたといわれており、この「神明様」と地名の「神明木」は関連があったと考えられているそうです。

 画像は「神明様」の推定地を北から見たところです。周辺は開発が進んでビルが立ち並び、すでに塚の痕跡はなく、神明様の祠も残されていないようです。
 立川市内には残存する古墳は皆無に近い状況ですが、古墳である可能性が考えられる塚の言い伝えは数多く残されています。この「神明様」がどういう性格の塚であったのか詳細はわからなかったのですが、周辺には多くの塚が所在したともいわれており、この塚が古墳である可能性も考えて紹介してみました。

<参考文献>
立川市教育委員会『立川の地名-立川編-』

  1. 2015/06/30(火) 10:34:41|
  2. 立川市の古墳・塚
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「こうべ塚」

「こうべ塚」

 現在の立川市錦町1丁目付近には「こうべ塚」と呼ばれる塚があったといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが古墳であった可能性も考えられており、立川市史編纂委員会より昭和43年(1968)に発行された『立川市史研究』にはこの塚について次のように紹介されています。

(五) こうべ塚、現在の錦町一丁目三十九番地の付近にあったらしい。
 小川氏の話によると、白骨化した人骨、特に頭部の白骨が多数散乱していたそうである。恐らく、昭和の初期までこの塚は存在していたらしいが、現在は家屋が密集しており、正確な存在場所は不明である。
 塚の頂きには、男松があったといっている。(管見では、立川氏の居館の跡の普済寺よりは鬼門にあたる位置に当り、永正元年の扇谷上杉の立川河原の合戦に関係のあるものか?そうすればこれは首塚で、古墳とは言えないかも知れない。)(『立川市史研究 第九冊』60ページ)

 旧番地の錦町1丁目39番地は画像の東京都下水道局の建物の周辺であると思われますが、塚の痕跡は何も残されていないようです。『立川市史研究』の記事を信用するならば古墳ではなく塚だったのではないかとも考えられますが、真相を知ることはできません。JR立川駅から10分程のこの場所に人骨が散乱する塚が存在したとは、開発の進んだ現在では想像もつきませんが、昭和初期から現代まで100年も経っていないことを考えると、戦後いかに急速に開発が進んだかを物語るエピソードではないかと思います。
 果たして「こうべ塚」は古墳だったののでしょうか。それとも後世の首塚だったのでしょうか。。。

<参考文献>
立川市史編纂委員会「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』
立川市『立川市史 上巻』

  1. 2015/06/28(日) 08:47:26|
  2. 立川市の古墳・塚
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「正身塚」

「正身塚」

 現在の立川市富士見町1丁目付近には「正身塚」と呼ばれる塚があったといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚で、古老の言い伝えにのみ残されている伝説の塚です。

 立川市教育委員会より発行された『立川の地名-立川編-』によると、元禄12年(1700)の『名寄帳』には「正身」と「正身塚」とあることから、正身という地域があり、そこに正身塚があったと考えられています。古老の言い伝えによると、塚は高さ約1メートル、広さ7平方メートル程の規模で、戦前までは残されていたようですが終戦後に崩されてしまったといわれています。塚の所在地については旧番地で2254番地付近に所在したとされているようですが、それよりさらに北側の、青梅線と五日市線の中間あたりに所在したとする説もあるようで、正確な跡地はわからなくなっているようです。

 画像は、旧2254番地付近を南東から見たところです。跡地と推定した一角の空き地となっている場所を撮影したものですが、開発が進んで宅地化が進んだ周辺地域も含めて塚の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
立川市教育委員会『立川の地名-立川編-』

  1. 2015/06/26(金) 02:43:34|
  2. 立川市の古墳・塚
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「はたしげ塚」

「はたしげ塚」

 現在の立川市富士見町7丁目付近には「はたしげ塚」と呼ばれる塚があったといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚で、古老の言い伝えにのみ残されている伝説の塚です。

 この周辺は、かつて上杉氏と北条氏が戦を行った際に、そのうちのどちらかがここを出先の陣地としてのぼりや旗をたてたのでここを「はたしげ」と呼ぶようになったといわれおり、『立川の地名-立川編-』によると、寛文7年(1667)の田方の『検地帳』には機足木、はた足木と、また慶応3年(1867)の『検地帳』には機足木、明治44年(1911)の『立川村沿革史』には旗足木と記されています。『公私日記』によるとこの土地は水冠りにならなかったといわれており、少し高い場所であったと考えられているようですから、立地条件からしても古墳が存在した可能性も充分に考えられるのではないでしょうか。
 また、お隣の富士見町6丁目には、田園地帯にいくつもの塚があったという古老の言い伝えが残されています。慶応3年(1867)の『検地帳』をみると、塚田東、塚田下、台前塚前、台下塚前、台下塚裏といった塚にまつわる地名が見られます。「塚田」とは塚の近くの田をいったものであるようですので、台の前方に塚があったらしいことが想定されていますが、残念ながら全ての塚は消滅しており、真相を知る手がかりは残されていません。

 多摩川中流域左岸の立川市の下流域には、国立市の「青柳古墳群」、「下谷保古墳群」から府中市の「御嶽塚古墳群」、「白糸台古墳群」から調布市の「飛田給古墳群」、「下布田、上布田古墳群」から狛江市の「狛江古墳群」と、多くの古墳が多摩川の沖積低地を見下ろす段丘崖に存在しており、また立川市の上流域でも、昭島市内に「浄土古墳群」のほか、多摩川左岸の拝島段丘上から古墳が発見されています。『東京都遺跡地図』に登録されている立川市内の古墳は「№12遺跡」、「№13遺跡」、「№16遺跡」の3基のみでいずれも学術的な調査は行われていないものばかりですが、かつて存在したとされる古墳や塚の伝承はかなり多く残されており、私は立川市内にも何基もの古墳が存在したのではないかと考えています(あくまで素人考えですが)。今後の調査により新たな古墳が発見される事を期待したいところですね。

 画像は、立川市富士見町6丁目周辺の現在のようすです。「はたしげ塚」は消滅して正確な所在地はわからなくなっており、「はたしげ」と呼ばれた地域は現在は公社富士見町住宅となっています。

<参考文献>
立川市教育委員会『立川の地名-立川編-』

  1. 2015/06/24(水) 03:45:53|
  2. 立川市の古墳・塚
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「妙見塚」

「妙見塚」

 画像は、立川市富士見町7丁目にある「富士見七南公園」を南西から見たところです。この場所にはかつて三角畑があり、その畑の中に小さな塚があったそうです。この塚の上には妙見様を祀った妙見堂があり、塚は「妙見塚」と呼ばれていました。
 妙見堂に祀られる妙見菩薩は北斗七星を神格化したものであるといわれており、国土を擁護し、災難を覗き、人の福寿を増してくれる菩薩であるとされており、特に眼病治全治に霊験ありといわれ、中世以降は広く信仰されたのだそうです。(立川の地名174ページ)
 この場所は多摩川中流域左岸の立川段丘上にあり、古墳が存在する可能性としては十分な立地であると考えて散策してみましたが、残念ながら妙見堂はすでに存在せず、塚も跡形もなく消滅しています。この周辺には多くの塚の言い伝えが残されており、かなりの数の古墳が存在したのではないかとも考えられるのですが、詳細はわかりませんでした。


「妙見塚」

 富士見町7丁目にはもう1箇所、公園が存在します。画像が「富士見七北公園」を南東から見たところです。なぜかここは公園とは名ばかりで、周囲を道路や建物により削られているもののこの場所のみ塚状に盛り上がっており、頂部にはベンチが3つ置かれているのみという状況なのですが、何かの跡地なのでしょうか。単なる築山かもしれませんし、古墳跡などではないとも思うのですが、妙見塚の跡地といわれる富士見七南公園よりもこの富士見七北公園の方が気になる存在です。。。

「妙見塚」

<参考文献>
立川市教育委員会『立川の地名-立川編-』

  1. 2015/06/18(木) 02:48:40|
  2. 立川市の古墳・塚
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「儀右衛門塚」

「儀右衛門塚」

 「儀右衛門塚」は、杉並区成田東5丁目に所在したとされる『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。
 この塚は雑木林の中にあった高さ六尺(1.8m)ほどの高塚で、元禄三年の庚申塔、儀右衛門塚の石碑、寛文八年の庚申塔、宝暦九年のお地蔵さまが一列に並んで立てられていたそうです。その後、塚は昭和31年に宅地造成のために発掘調査は行われずに消滅しています。画像の左側あたりが塚の跡地となるようですが、周辺は開発が進み、塚の痕跡を見ることは出来ません。果たしてこの塚が宗教的な塚であったのか、それとも古墳であったのかは今となっては確認することは出来ませんが、2基の庚申塔は成田西の宝昌寺へ、その他の石物は成田東の共同墓地に移されており、現在も見ることが出来ます。


「儀右衛門塚」

 この塚には、土地の古老の言い伝えが多く残されています。昭和50年に杉並郷土史会より発行された『杉並歴史探訪』には次のように書かれています。


①「病気のため戦さに行けなかった儀右衛門は、穴を掘って中に入り、中で鐘をたたいて、この鐘の音が聞こえなくなったら、自分は死んだものと思ってくれと村人にいい残して、生埋めにしてもらい、数日後に亡くなったので、儀右衛門塚の名が生まれたという伝説がありました。」
②「儀右衛門塚」は、昔はうちの墓地でした。祖父三右衛門の話では、昔伊予(愛知県)から高津儀右衛門という武士が、うちを訪ねて来ましたが、うちではそんな人は知らないので家へ入れなかった。その武士はうちの墓地で切腹して死んだので、仕方なく墓地に葬ったのですが、そのたたりで私の姉三人が生後間もなく亡くなりました。私が生まれると祖父が儀右衛門さんの霊を慰めて、私が延命するようにと、儀右衛門塚の石碑を建立したということです。お蔭様で私は今日まで生き延びられたと思います。」
③「明治維新の際に、上野彰義隊の敗残兵と思われる、血だらけになった鎧を着た武士が、うちの近くで行き倒れになった。息のあるうちに名前を聞くと、高津儀右衛門と名乗って絶命した。気の毒に思いうちの墓地に葬った。その人の霊を弔うために、儀右衛門の石碑を建てたのだと聞きました。」(『杉並歴史探訪』92ページ)



 このうち①の伝承については、阿佐ヶ谷南2丁目に所在したとされる「かんかん塚」にまつわる「病のために自分の死期を悟った旅の行者が、村人に頼んで生き埋めにしてもらい、その後絶命した」という伝説がこの儀右衛門塚に付加したものではないかと考えられており、②と③を合わせたものが儀右衛門塚の由来であると推察されているようです。

 画像は、近くの共同墓地に移された「儀右衛門塚の碑」です。中央右側の先の尖った石碑が儀右衛門塚の碑で、左側には前回紹介した「お釈迦塚」に立てられていたという石柱型の墓碑も見ることが出来ます。この共同墓地は施錠されていて入ることが出来ませんので路上からの撮影です。


「儀右衛門塚」

 画像が、かつて儀右衛門塚に立てられていた庚申塔です。この2基の庚申塔は現在、成田西にある「宝昌寺」に祀られています。
 この儀右衛門塚は、『新編武蔵風土記稿』等の江戸時代の地誌には記載されていません。恐らくは、それまで無名であったこの塚が、儀右衛門の伝説により明治期以降に有名になったということなのでしょうか。
 杉並区内には残存する塚や古墳はほとんど残されていないのですが、ひょっとしたら周辺にはもっと多くの無名の古墳や塚が存在したのかもしれませんね。

<参考文献>
森泰樹『杉並風土記 上巻』
森泰樹『杉並歴史探訪』
森泰樹『杉並の伝説と方言』

  1. 2015/06/14(日) 01:52:11|
  2. 杉並区の古墳・塚
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「お釈迦塚」

「お釈迦塚」

 「お釈迦塚」は、杉並区成田東5丁目に昭和22年頃まで存在したとされる、『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 文政3年(1820)に刊行された江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「於釈迦塚、成宗にあり、高さ一丈、廻り四間余り、何の塚なるといふこと不知」と記されており、古くから知られた塚であったことがわかります。往時には墳丘にくぬぎ丸太で土留めした十数段の階段が造られており、墳頂部にはお釈迦様の石仏が祀られた小さな祠と、「野口家大先祖時宗公之墓」と彫られた石柱型の墓碑が安置されていたそうです。
 この塚について昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』には、「お釈迦塚は成宗1丁目に存在したが、昭和27年破壊された。その際の状況を聞くと、封土は円形で、内に石室らしいものを蔵し、人骨の出土を見たというから、高塚としての可能性が充分に考えられる。但し副葬品は何等発見されていないので、年代等についての推定は出来ない」とあり、古墳であった可能性について記されています。ただし、昭和52年(1977)に発行された『杉並風土記 上巻』にはこの塚の旧所有者の談として「塚は、現在高くなっているところ(道路より約1メートル)まで削っただけで、深くは掘りませんでした。石室も人骨も出ません。出たのは小さい石のようなものだけでした。」とあり、また地元の古老の談として「昭和22年に塚を壊したとき、何か出るかと期待して見ていましたが、何も出ず、がっかりしたことをよく覚えています。」とも書かれており、地元の人の伝承はこの塚が古墳である可能性について否定的なようです。
 また、『杉並歴史探訪』にはこの塚の旧所有者の談として「私の家のいい伝えでは、御先祖様は成宗村を開かれた成宗様の弟の時宗様で、この地に土着して農民となり、野口姓を名乗られ、死後お釈迦塚に葬られたとのことです。大正の初め頃、うちにいろいろな災難が続いた時、父が御先祖時宗様のお墓をよく祠守りしないから、災難が起こるのだとの夢を見たので、大正六年に時宗様の御霊をお慰めするため、墓石を建て供養をしました。」とあり、著者の森泰樹氏は「お釈迦塚は鎌倉時代以前の古墳に、時宗を併葬したものであり、もしこの付近で合戦がおこなわれたことがあれば、時宗を含んだ戦死者を合葬した塚山だった」と書かれています。


「お釈迦塚」

 昭和22年にこの塚の土地を買った某氏は塚の西側に住宅を建てて塚を庭の築山にしたそうですが、この頃は大変景気がよく、家業は繁昌して美術骨董品を多く収集する資産家だったそうです。しかしその後、この美術品を収蔵するために塚を崩して土蔵を建ててからは工場に不祥事が続出し、その後二度の火事が起こるなど、破産して失意のうちに亡くなったそうです。また、その後この土地を入手した方は、道路より1メートル程の高さを残した塚跡にプレハブ式の物置を建てられましたが、この方もまもなく亡くなられたそうです。地元の人たちの間ではこれはお釈迦塚を粗末にした祟りではないかといわれ、お釈迦塚の霊を慰めるため石仏を祀ろうという話も立ち上がったそうですが、この塚の復元計画も立ち消えになったそうです。
 現在塚の跡地は完全に整地され、建物は建て替えられて塚の痕跡はまったく残されていません。塚の正確な跡地もわからなくなっているようです。多くの伝承から推察するに、このお釈迦塚は古墳ではなく後世の塚だったのではないかとも考えられますが、塚が消滅してしまった現在真相を知ることは出来ません。

 塚の上に立てられていたという石仏と石碑は、昭和22年の塚の削平の際に同じ成田東5丁目に所在した「儀右衛門塚」に移されましたが、その儀右衛門塚も昭和33年に消滅。現在は儀右衛門塚の石碑と共に近くの共同墓地に移されています。画像がかつてお釈迦塚に祀られていたお釈迦様で、高さ約70センチの舟型蓮台釈迦如来座像の浮彫であるこのお釈迦様が「お釈迦塚」の名の由来となっていたといわれています。


「お釈迦塚」

 画像は森泰樹著『杉並の伝説と方言』の61ページに掲載されている「お釈迦塚」の画です。残念ながら塚の写真等は残されていないようなのですが、この画をみると、塚の形状や階段が墳丘上に造られているようすを知ることが出来ます。

<参考文献>
東京都杉並区役所『杉並区史』
森泰樹『杉並風土記 上巻』
森泰樹『杉並歴史探訪』
森泰樹『杉並の伝説と方言』

  1. 2015/06/12(金) 04:19:00|
  2. 杉並区の古墳・塚
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「八丁鎧塚古墳群」(長野県指定史跡)

「鎧塚第1号古墳」

 長野県の積石塚シリーズは今回が最終回。長野県須坂市に所在する「八丁鎧塚古墳群」を紹介します。
 上八町の南山麓を流れる鮎川の段丘上には40基ほどの積石塚が確認されており「鮎川古墳群」と総称されています。このうち「鎧塚古墳群」は6基の古墳からなり、1号墳と2号墳が長野県の史跡に指定されています。

 画像は「鎧塚第1号古墳」です。現地の説明板には次のように書かれています。


八丁鎧塚第1・2号古墳 HATCHO YOROIZUKA TOMB NO.1,NO.2

 鎧塚古墳群は、鮎川古墳群のほぼ最上流部に位置し、現在は6基で一群をなしています。
 1号古墳は直径25.5m、高さ2.5mでスイジガイ釧片ゴホウラガイ釧片碧玉製石釧片、勾玉、ガラス小玉等が出土、4世紀後半の古墳と推定されています。
 2号古墳は直径25.5m、高さ3.5mで南側に張り出した部分があり、この時代の積石塚としては全国で初めて《張出付円墳》と確認されました。また、《鍍銀銅製獅噛文銙板》と呼ばれる帯金具、家型埴輪片、朝顔形埴輪片、円筒埴輪片、人物埴輪片等が出土し、5世紀後半の古墳と推定されています。
 6号古墳は直径12.5mで6世紀中頃の葺石工法で造られた古墳と推定されます。
 日本の代表的積石塚として、また貝釧が東シナ海原産の貝であること、帯金具の文様が朝鮮半島出土のものに似ていることなど、大陸文化の影響を色濃く示しておりたいへん重要な意味を持っています。
 出土品は須坂市立博物館で保管、展示しています。




「鎧塚第2号古墳」

 画像は「鎧塚第2号古墳」です。積石塚の張出付円墳というのは初めて見ましたが、これはとても興味深いです。
 敷地内には展望台が造られているので、高い位置から良い角度で古墳を見学することが出来ます。
 

「鎧塚第6号古墳」

 画像は「鎧塚第6号古墳」です。
 現地に設置されている説明板には次のように書かれています。


鎧塚第6号古墳 HATCHO YOROIZUKA TOMB NO.6

 この古墳は、平成6年の1・2号古墳範囲確認調査で偶然確認されたもので、直径は約12mあります。
 古墳の一番裾、最下部の石積が発見され、一緒に円筒埴輪片、土師器片が古墳の外側に当たる部分からまとまって出土しました。
 この古墳は1・2号古墳とは異なり中心を土で盛り、その上に石を葺いた工法の古墳であることが特徴です。
 鎧塚1号古墳から約1世紀以上後の築造ですが、1・2号古墳の狭い場所に、しかも南北に並ぶように築造されていることは、埋葬された人を考える上で大変興味深いことです。
 この古墳の埋葬施設は失われていますが、明治時代にこの古墳の中心部と思われる部分から、”板石を運び出した”という言い伝えがあり、石室は板石で造られた”箱式石棺”だった可能性があります。




「箱式石棺」

 画像は「鎧塚第2号古墳」の南側張出部に存在する「箱式石棺」です。
 説明板には次のように書かれています。


箱式石棺 STONE COFFIN

 この石棺は、鎧塚第2号古墳の南側張出部に設けられたもので、長辺に板石6枚を短辺に各1枚で箱形に組み立てられ長さ2m50cm、幅約50cmの大きさです。
 石棺底にも西側では平らな川原石を2枚、東側では平らな板石を2枚敷いています。
 また、石棺の内部からは遺物は出土していません。
 築造当所はこの石棺の上に板石で蓋されていたと考えられます。
 古墳の周りに石棺を設け、埋葬する例はたくさんありますが、この石棺は2号古墳から南に延びる張出部分に東西に造られていて、2号古墳本体に埋葬された被葬者との関わりはたいへん深かったことがうかがわれます。
 また、この石棺の発見は、2号古墳の埋葬施設を知る手がかりになります。



 この古墳は今年の5月に訪れたばかりで、撮りたてほやほやの写真です。周囲に広がる葡萄畑の中に史跡公園として整備保存されていますが、あまりに風景に溶け込んでいてすぐに場所が分からず、かなりウロウロしてしまいました。積石塚である鎧塚古墳がこんなに大規模なものだとは思わなかったのでビックリしました。とにかくデカイ!という印象ですね。
 長野県は私の大好きな場所ですが、昨年訪れた「大室古墳群」も含めて多くの積み石塚を見ることが出来たことは楽しかったです。

  1. 2015/06/07(日) 23:58:03|
  2. 長野県の古墳
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大室古墳群(大室谷支群)その5

 大室谷支群には241基の古墳が存在しますので、エントランスゾーンに整備された24基の古墳はほんの一部にすぎません。大室古墳館からさらに大室谷を奥に進むとこの地区も周遊路が整備されていて、多くの古墳を見学することが出来ます。この241基のうち、石を積み上げて墳丘を築造した「積石塚」が176基、埋葬施設の天井石を屋根形に組む合掌形石室が採用されている古墳が27基も存在しており、この特異な構造をもつ古墳が集中していることが、この大室古墳群の特徴です。

 大室古墳館から周遊路を10〜20分ほど進むと「ムジナゴーロ」と呼ばれる地域に到着します。この大室谷支群のすべての古墳を見学することは出来ませんでしたが、このムジナゴーロに所在する見学できた古墳のうち、主要な古墳を紹介したいと思います。

「195号墳」

 周遊路を入ってすぐのところにあるのが「195号墳」です。これも積石塚古墳で、大室古墳群では種類の少ない竪穴式石室が2つ造られているという珍しい古墳だそうです。平石を積み上げて四壁を作り、上部から棺を納める石室です。


「197号墳」

「197号墳」

 これも周遊路を入ってすぐのところにある「197号墳」です。横穴式石室が開口しています。


「189号墳」

 この古墳も周遊路を入ってすぐ、195号墳のとなりにあるのが「189号墳」です。画像の左側、墳丘の裾の一部が林道によって削平されています。板石を箱形に組み合わせた埋葬施設で、石棺の上には水平に設置された天井石が残されているそうです。積石塚古墳は盛土墳とは違って、墳丘に登っていくことはためらってしまいますね。。。


「187号墳」

 画像は「187号墳」です。大室古墳群の中でも横穴式石室は数多く見られますが、この中でも古い段階に造られたと考えられている古墳であるそうです。側壁の一番下の石材が縦方向に捉えられているのが特徴的です。


「186号墳」

 画像は「186号墳」です。かなり良い状態で残されているようで、造られた当時の姿が残っている古墳であるそうです。発掘調査により馬の頭骨が出土しており、被葬者と馬との関わりを示しているといわれる古墳です。


「176号墳」

 「176号墳」は大室古墳群の中ではとても規模の大きな積石塚で、多少崩れかかってはいるものの合掌形石室が上部に残されており、石室の位置から考えると別の埋葬施設が存在する可能性もあるのだそうです。


「168号墳(大平塚)」

 画像は「168号墳(大平塚)」です。大室谷支群の内、整備されたエントランスゾーン以外の古墳では珍しく説明板が設置されており、次のように書かれていました。

168号墳

この古墳は石だけを積み上げて造られた
5世紀代の積石塚です。埋葬施設は板状
の石材を屋根形に組み合わせた合掌形石
室と呼ばれる特殊な構造です。

平成5~7年に発掘調査が行われ、古墳
に供えられていたと考えられる土器類や、
馬をかたどった土製品が出土しました。

馬形の土製品は古墳に葬られた人と馬と
の関係を考える上で非常に重要です。

          長野市教育委員会





次回、長野の積石塚シリーズ最終回へ続く。。。

  1. 2015/06/03(水) 02:59:32|
  2. 長野県の古墳
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大室古墳群(大室谷支群)その4

「235号墳」

 信州で史跡公園や観光地を歩いていると、地元の人が「こんにちは」と声をかけてくれるのです。シャイだった少年時代は「あ、どうも…」という感じでなかなかなじめずにモジモジしていたものですが、大人になった今では、やっぱり長野は良いなあと思う理由のひとつです。

 さて、画像は「235号墳」です。規模は不明ながら発掘調査により6世紀後半の築造と推定される円墳です。墳丘の半分は崩されており、石室の裏側が露出しています。
 こちらから見ると円墳らしい景観が保たれているように見えますが…


「235号墳」

 実は無袖形の横穴式石室がこんな姿で保存公開されています。


「235号墳」

 近くでみるとこんな感じ。石室の裏側を観察できるようにあえて墳丘の半分が失われた状態で公開されているそうですが、大地震がきたら大丈夫かなと心配になってしまいますね。


「37号墳」

 ここからはエントランスゾーンの中でも「鳶岩単位支群」と呼ばれる支群で、画像の「第37号墳」はこの鳶岩単位支群に含まれる古墳です。なぜかこの古墳には説明板が設置されていなかったのですが、「鳶岩単位支群」に対する説明板が設置されていたので紹介しようと思います。

 大室古墳群 大室谷支群 鳶岩単位支群
 31・32・33号墳が分布するこの地区は、「大室古墳群 大室谷支群 鳶岩単位支群」と呼ばれています。史跡の入口周辺で整備を行った古墳は「大室古墳群 大室谷支群 村東単位支群」と別の単位支群(古墳のまとまり)に分けられ、互いに少し離れています。また、蔦岩単位支群には山袖部に古墳が造られるという立地や墳丘に土のみを用いた「盛土墳」があることなど、他地区ではみられない特徴があります。
 史跡整備事業では、史跡の入口となるこの一帯を「エントランスゾーン」と呼称し、「大室古墳群の野外ガイダンス」として、古墳に親しんでいただくことを目的に整備を行いました。古墳は整備以前の状況を踏まえて、前から、横から、上から、盗掘坑からなど、様々な位置から見学できるようにしました。また、ゾーン内の樹木は伐採し、後世に造られた石積みなどは解体して、古墳が造られた当時の地形を再現しています。
 この地区では、植林された杉林の中に、近代以後の果樹園や桑畑のために造成された段々畑と一体化した古墳の状況を整備しました。古墳が造られた後、様々な土地利用によって古墳の形態が変化していく様子を示しています。古墳時代の地形を再現したエントランスゾーンの他地区と景観が大きく異なりますが、この両者を比較してみることで、悠久の時の流れを感じることができるのではないでしょうか。
長野市教育委員会


「31号墳」

 画像は「31号墳」です。7世紀前半の築造と推定される、直径約14mの円墳です。整備前には露出した横穴式石室の上に小屋が建てられており、墳丘は後世の二次利用により大きく改変されていたそうです。こうしてみると、どこまでが元々の古墳でどこからが段々畑の石積みなのかわからなくなりますね。笑。
 なんとこの古墳は大室古墳群に多くみられる積石塚ではなく、土による盛土墳なのだそうです。


「32号墳」

 画像は「32号墳」です。この古墳も近代以降の開墾により大きく改変されています。発掘調査により7世紀前半の築造と推定される、直径約10mの円墳です。横穴式石室の奥壁に盗掘坑が開口しており、内部を見学することが出来ます。


「33号墳」

 画像は「33号墳」です。これも、近代以降の開墾により段々畑の石積みと一体化していた古墳で、横穴式石室が露出しています。7世紀前半に築造されたと推定されており、直径約10mの墳丘は石室の石の間に固まる特殊な土により補強されて復元されています。


「大室古墳館」

 敷地内には「大室古墳館」が建てられています。入場無料で、無人ながらも古墳についての解説がありパンフレットも置かれています。
 私が訪れたのは春先でしたが、ほとんど日陰のないエントランスゾーンのあまりの暑さにバテてしまい、この古墳館の自動販売機の飲み物に助けられました。笑。


 エントランスゾーンに公開されている古墳はこれですべてです。次回、「大室古墳群、大室谷支群」の最終回、大室古墳群 その5(ムジナゴーロ編)に続く。。。

  1. 2015/06/01(月) 01:08:01|
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