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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「ニトウ塚(入道塚・尼僧塚)」

「ニトウ塚(入道塚・尼僧塚)」

 大田区仲六郷4丁目に所在したといわれているのが「ニトウ塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号218番の「時代不明の墳墓」として登録されています。

 この塚については多くの言い伝えが残されているようです。
 この周辺は坂になっており、川崎方面から来ると見え難くなっているために坂を上りきらないうちに馬力馬がよくはねられたそうで、この塚のところに馬を埋めたといわれています。また、この塚は別名「尼僧塚」とも呼ばれており、尼僧を埋めたところだともいわれています。
 また、この近くにあった踏切では事故が多く、因縁話も残されているようです。大田区教育委員会より発行された『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』には「六郷土手(駅)で下りて、グリコ(工場)の方へ行く踏切になっている、この辺が尼僧塚。ここの道が、高畑と八幡塚の境、それでここにね、昔、何者を埋けたか知らないけど、尼僧っていうから尼さんうを埋けたんでしょうな。国鉄が明治五年にひかれるでしょう。その時に、この塚を崩して、ここに(踏切のところ)土持ちしたわけです。それで、(尼僧塚の)ここいらにね、榎の木が一本残ってたんですよ。ここを通う人がね、時間に追われて急いで通るでしょう。電車がひんぱんに通るところで轢かれちゃうんですよ。それで、これをなくしちゃったんです。いまは、踏切の位置が変わってる。尼僧塚の土を持ってきて工事をしたせいか、よく交通事故があったんだねぇ。祟りですかねぇ。」と、この塚の祟りの伝説についての古老の口伝が書かれています。

 『考古学から見た大田区』にはこの塚の所在地について「仲六郷4丁目7番と12番の間の西側(JR軌道内)」と書かれています。画像の「大田区立仲四児童公園」のあたりが跡地にあたると思われますが、正確な位置はわからなくなっているようで塚の痕跡を見ることは出来ません。また、現在の東海道線は高架となり、踏切もなくなっているようです。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』

  1. 2015/07/29(水) 23:53:02|
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「雑色・天神山遺跡(お塚様)」

「雑色・天神山遺跡(お塚様)」

 大田区南六郷2丁目に所在したといわれているのが「雑色・天神山遺跡」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号221番の「時代不明の墳墓」として登録されています。

 「雑色・天神山遺跡」については江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載があり、「村の西北、百姓八郎右衛門か構への内にあり、昔この地へ天神を勧請せしことあり、今はその宮居もなし、されど此名のこれり、纔に一畝半ばかりの間にわだかまれり、山と云ほどのことにはあらじ、」と、当時のようすについて書かれています。高さ約3mほどの土饅頭形の塚であったといわれ、昭和10年頃までは存在していたようですが、その後の開発により消滅しています。

 大田区教育委員会より発行された『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』には「下雑色にお塚様って山みたいになった塚があった。ここは、昔、日本武尊が奥州征伐に行くときにね、チャンバラやって、死人をそこへ寄せたんだと、その辺の人のいい伝えになってますね。こんもりした木が茂って、塚があった。その南側に六郷用水が流れていて。」と、この塚の言い伝えについての古老の口伝が書かれています。

 この塚の跡地については正確な場所が把握されており、画像の道路の左側の工場の場所が塚の所在地にあたるようですが、残念ながら塚の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』

  1. 2015/07/27(月) 03:38:22|
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「森入道塚」

「森入道塚」

 大田区南六郷2丁目に所在したといわれているのが「森入道塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号222番の「中世の墳墓」として登録されています。

 「森入道塚」は、かつては高さ約九尺、周囲約五間の塚であったといわれていますが、昭和初年に宅地化されて消滅しています。画像のスーパーの周辺が跡地にあたると思われますが、正確な位置はわからなくなっているようです。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、この塚について次のように書かれています。

森入道塚 村の巽、堤の外陸田の内にあり、高九尺ばかり、径り地の上にて五間余、雑木おひしげりたる古塚なり、入道の事実を記せしものは村内宝泉寺にありしかど、丙丁の災にかかりて鳥有せり、今村内及び高畑村に森一党と号して、森氏の百姓蔓延するときは、彼入道はそれらが祖先の内にてやあるらんと云り、然るに昔より此塚を人おそれうやまひて敢て近づくことなく、草木のおひ茂りたるも其ままにしてかりとることなかりしが、近き頃森一党の内喜左衛門といふ者、この地の主なりけるに、或時おもへり、入道は若我先祖などにや、或はしからんには自からあばきたればとて子細あるべからずと、誠にあばき見んとせしとき、忽祟ありて其事は果さず、是高貴の人の墓などにやあらんと、いよいよ土人おそれあへりけるとぞ、按ずるに森入道と号せし人は、季光入道西阿の外は所見なし、西阿は宝治の頃の人なること【東鑑】【百練抄】等の書に載て、毛利入道とも、又は通じて森入道とも記せり、然るにかの入道は著名の人なれば、其塚のかくまで世にうづもれてあるべきいわれなし、されど入道五代の孫備中守師親は、多摩郡山田村広園寺を建立せしこと、見に寺伝あり、かかることを以て考ふるに、先祖季光入道の頃より此ほとりに采地ありしか、もし然らんには村民其人を追慕のあまり、遺器などのありしを埋て、私にいとなみし塚なるにや、この事付会に出んか、又百姓等に今も森氏を名のるものあるは、彼入道か家人の後にてわたくしにかかる名のりをせしも知べからず、戦国のならひにかかることもままあれば、いささか事の似たるにより、のちの捜索のために爰に記せり、(『大田区史(資料編)地誌類抄録』52ページ)

 森入道とは、村内の森一族の先祖であるといわれており、ある時森喜左衛門という人が先祖の墓か否か確かめる為に塚をあばこうとしたそうですが、祟りのために果たせず、村の人はこれを見ていよいよ恐れたといわれています。また、行方弾正がこの地に乱入した武田信玄と戦い、戦没者の屍を埋めたところであるともいわれています。『新編武蔵風土記稿』に記載があることからも、この塚が古くから知られた存在であったと考えられますが、残念ながら塚の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』

  1. 2015/07/25(土) 23:03:47|
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「六郷神社八幡塚(神輿塚)」

「六郷神社八幡塚(神輿塚)」

 画像は、大田区東六郷3丁目にある「六郷神社」を西から見たところです。この地域の郷社で「八幡神社」とも呼ばれるこの神社の境内に「六郷神社八幡塚」が所在しています。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号107番の”中世の塚”として登録されています。


「六郷神社八幡塚(神輿塚)」

 六郷神社の境内のようすです。画像の奥、社殿の東側に「六郷神社八幡塚」が所在します。「神輿塚」とも呼ばれたこの塚は源義家が奥州征伐の際に武器を納めて埋めた塚であるという説。また、昔祀られていた三座の神体のうちの一体が荒神でたびたび村人を祟ったので、相談の上神体を壊して埋めた塚であるという説。また、神体三座あったのがいつの頃か三座の神輿が水底に沈み、神体は壊して埋め、三つの神輿が洪水で流されてその内の一体が上総に流れ着いて祀られている、等々多くの言い伝えが残されているようです。近年でも塚に入ると足が曲がってしまうとか登ると罰が当たるといわれていて、周辺の住人は気味悪がって近づく者はいなかったといわれています。現在は整備されて祀られており、囲いがされていて敷地内に入ることは出来ません。


「六郷神社八幡塚(神輿塚)」

 この「六郷神社八幡塚」は、古くは江戸時代の地誌類にも記述を見ることが出来ます。『新編武蔵風土記稿』にはこの塚について「本社に向て右の方林の中にあり、前にいへる荒神の神体を埋めたるしるしの塚なり、村名もこの塚により起りしことは已に前に見えたり、」と、村名についてはこの塚が起こりであることが書かれています。同書によると、永禄2年(1559)の『小田原分限帳』にはこの場所は「六郷」、また天正19年(1591)の八幡社領の事を記す分にも「荏原郡六郷」とあり、正保の頃(1644〜1647)の国図には六郷八幡塚町とあることから、この頃に八幡塚の地名が唱えられたとされています。また、『武蔵演路』には「往古八幡太郎義家公奥州征伐の頃、武器を納め埋めし塚あり、是を八幡に祭る処也。」と、この塚に残る伝承についても書かれています。
 画像は『江戸名所図会』に描かれた「八幡塚」です。社殿の奥の竹林に囲まれた中にひときわ目立つ八幡塚が描かれています。


「六郷神社八幡塚(神輿塚)」

 画像が現在の「六郷神社八幡塚」を東から見たところです。この塚は以前は古墳ではないかとも考えられていましたが、昭和45年(1970)に中世陶器(壺)と土器(かわらけ)が発見され、その後の調査により壺の年代は12世紀末に遡るものであり、また八幡塚の低い形状と古墳の主体部らしき大きな落ち込みがないことから、古墳ではなく墳墓としての塚か祭祀遺跡としての塚か、どちらかではないかと考えられるようになりました。
 その後、平成5年に地中レーダー調査が行われています。現状で径13m、高さ1.2mの円墳状のこの塚は、盛り土3段の基本構造で、塚の完成時には少なくとも高さ1.5m以上はあったと推定されています。出土した壺形土器は12世紀末の渥美産と考えられることから、八幡塚の築造は平安時代末から鎌倉時代初期であると推定されています。また、壺形土器に埋納されたものは紙経本や柿経(こけらきょう)などの写経類と考えられる事ことから、八幡塚は壺形土器を経筒として築造された「経塚」であると考えられています。
 
<参考文献>
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
現地説明版

  1. 2015/07/24(金) 01:36:17|
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「成宗富士(泥富士)」

「成宗富士(泥富士)」

 画像は、杉並区成田東5丁目にある「成宗弁財天社」を南東から見たところです。ここにかつて「成宗富士」と呼ばれる富士塚が存在したそうです。塚は大正7年頃に取り壊されて消滅しており、現在その姿を見ることは出来ませんが、当時「泥富士」とも呼ばれた塚は高さ12メートル程もある大きな富士塚であったようです。


「成宗富士(泥富士)」

 画像は、「成宗弁財天社」の境内のようすです。敷地内には杉並区教育委員会による説明板が設置されており、この「成宗富士」についての記述も見ることが出来ます。


成宗弁財天社
 当社は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが、詳細は不明です。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある、素焼きの曼陀羅像です。
 近世の当社は、近在の村々の水信仰の中心地で、日照りが続くと人々は雨乞いのため、弁天社にお詣りし、弁天池の水を持ち帰る習慣であったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士登山・榛名詣り・大山詣り等の際には、弁天池で水ごりをして、道中の安全を願ったということです。
 この弁天池は天保11年(1840)、馬橋村等が開さくした新堀用水の中継地として利用されましたが、その際池を掘り上げた土で、富士講のための築山をつくりました。成宗富士と呼ばれた富士塚がそれです。この富士塚は、大正七年頃にとりこわされましたが、境内の大日如来像・惣同行の碑・浅間神社・手水鉢などは、かつての成宗富士のおもかげを伝えています。
 また、鳥居前に残る石橋・水路跡は天保用水の名残りで、板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。
 当社は、弁天講中の人々により手厚く守られて来ましたが、現在は隣接する須賀神社役員により引きつがれ、維持管理されています。
昭和60年3月
杉並区教育委員会



「成宗富士(泥富士)」

 杉並区内に高さ12メートルもの富士塚が存在したとはまったく知りませんでしたが、その姿を見ることが出来ないことは残念に思います。この周辺には「儀右衛門塚」や「お釈迦塚」といった伝承に残る塚が存在したといわれており、この「成宗富士」が元々あった古墳か塚を流用して築造した可能性も考えましたが、詳細はわかりませんでした。。。

<参考文献>
杉並区立郷土博物館『炉辺閑話 杉並区立郷土博物館だより No.49』
現地説明版

  1. 2015/07/21(火) 01:09:58|
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「富士塚」

「富士塚」

 画像は、杉並区善福寺1丁目にある「富士塚」を南西から見たところです。杉並区内に現存する富士塚としては唯一のもので、『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 この富士塚は、「井草八幡宮」の北側、参拝者用の駐車場の横に浅間神社の祠とともに祀られています。かつては「井草八幡宮」の現社務所の西側にあったそうですが、昭和50年(1975)に現在地に移築されているそうです。従って、古墳を流用したような可能性はないようですが、杉並区内では唯一残された貴重なマウンドの残る塚ということで今回紹介してみました。


「富士塚」

 画像は、富士塚を北から見たところです。
 敷地内には井草民族資料館により立てられた説明板が設置されており、富士塚についての解説が次のように書かれています。


富士塚
こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。
浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので、富士信仰とも言われました。富士信仰は、集団になって資金を集め、代表者が登拝する体参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。
富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創初され、十八世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く、井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いた。
富士塚は、実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすにうに造られ、現在も都内に約五十ヵ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。
以前は本殿西南側にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。
旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています。
平成十六年正月吉日
井草民族資料館


「富士塚」

 画像は、富士塚を北東から見たところです。手前に見えるのが浅間神社の小祠で奥に見えるのが富士塚です。周囲は道路と駐車場に囲まれているので基本的にどの角度からも見学することは出来ますが、駐車場は閉じられていることが多いようです。
 実はこの塚については以前より存在は知っていたのですが、杉並区内には古墳は存在しないと思い込んでいましたし、富士塚は「ボク石」で固められて石造物が立ち並んでいるという固定観念があったためにまさか富士塚であるとも思わず、一体何の塚だろうと思いながらも長い間スルーしてしまっていました。その後、散策中に偶然立ち寄った杉並区成田東5丁目の「成宗弁財天社」にかつて富士塚があったことを知り、杉並区内の富士塚について調べてみたところ、この井草八幡宮内の塚も富士塚であることを知り、あらためて見学に訪れました。


「富士塚」

 築造当時の富士塚は井草八幡宮の境内に所在していました。画像がその「井草八幡宮」です。青梅街道に面する朱塗の大鳥居をくぐり参道を進むと、10,000坪もある広い敷地内には今なお多くの文化財が残されています。ちなみにこの青梅街道の南端にはかつては幅六尺ほどの千川用水が流れており、用水の橋を渡って鳥居をくぐったのだそうです。


「富士塚」

 画像右側の社務所の西側にあたる、中央の巨木の立つ場所がかつての富士塚の所在地です。こうして見ると、こんなに広い敷地がありながら境内の外の駐車場の片隅に追いやられてしまった富士塚がちょっと可哀想な気もしてきますが、どうして移築されることになってしまったのでしょうか。。。


「富士塚」

 画像が、現在の社務所の西側にあたるかつての富士塚の所在地のようすです。まだわずかながら盛土が残されており、通常富士塚の五合目に置かれている「小御岳大権現の石塔」や「庚申塔」に富士塚の面影を見ることが出来ます。
 この移築する以前の旧地が、古墳など元々あった塚を流用して富士塚を築造した可能性はあるのではないかと考えたのですが、これはよくわかりませんでした。


「富士塚」

 敷地内には、富士講中により奉納された燈籠も残されています。この燈籠は丸を講資料とともに平成23年2月9日に杉並区の有形民俗文化財に指定されています。杉並区教育委員会により設置された説明板が立てられており、次のように書かれています。


井草八幡宮富士講燈籠並びに丸を講資料 二一点
 この石燈籠二基は、江戸時代後期、「丸を講」という富士講が井草八幡宮と浅間神社に奉納したものです。ここからみて左側の燈籠には、上・下井草のほか、上荻窪村(杉並区)、上・下石神井村(練馬区)、保谷村、田無村(西東京市)、成子町、内藤新宿(新宿区)など広範囲にわたる寄進者101名の名が刻まれ、右側の燈籠は上井草先達の「登山三拾三年大願成就」の記念となっています。「丸を講資料」は、講員の方が井草八幡宮に寄贈した富士山を登拝する際の装束や登拝記録です。現在は消滅してしまった区内の富士講の実態を示す貴重な資料です。


「富士塚」

 古地名を冠して遅野井八幡宮とも称されるこの「井草八幡宮」の御祭神は八幡大神だそうです。寛文四年(1664)に今川氏?により改修が行われたというこの井草八幡宮の本殿は、杉並区内最古の木造建築なのだそうです。境内地付近から発見された数千年以前の住居趾からは縄文時代の土器が出土しており、「井草式土器」は広く知られています。この地域の長い歴史を感じますね。。。


「富士塚」

 境内には、源頼朝公お手植えの松があります。鎌倉時代初頭の文治5年(1189)、源頼朝公は奥州藤原氏の討伐に向かう途中、この井草八幡宮に立ち寄り戦勝を祈願しています。その後、奥州藤原氏討伐に成功した頼朝公は、建久4年(1193)に雌雄二本の松を奉献しています。その後、に雌松(赤松)は明治時代初頭に枯れてしまいますが、雄松(黒松)は東京都の天然記念物に指定されて偉容を誇っていたそうです。その後の昭和47年1月、残された雌松の二股に分かれた大幹の一方が強風により折れてしまい、それ以来急速に衰えて枯れてしまったそうです。
 現在の松は末流にあたり、二代目の「頼朝公御手植の松」として大切に育てられています。神門の内側には初代の松が輪切りにされ、衝立として保存されています。

<参考文献>
杉並区立郷土博物館『炉辺閑話 杉並区立郷土博物館だより No.49』
学生社『杉並区史跡散歩』
現地説明版

  1. 2015/07/16(木) 23:45:59|
  2. 杉並区の古墳・塚
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「松ノ木の大塚」

「松ノ木の大塚」

 杉並区梅里2丁目に所在したとされるのが「松ノ木の大塚」です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、数多くの言い伝えが残されており、古墳であった可能性も高いと考えられる伝説の塚です。

 この「松ノ木の大塚」は、明治維新の頃には墳丘に登るのが不可能なくらい一面に茨が生えていたそうですが、明治12年の地租改正の頃に土地の所有者が茨を伐り開いてくぬぎやかしの木を植え、お稲荷様の祠を祀りました。その後、墳丘に階段が設けられて登れるようになった祠は「大津賀いなり」と呼ばれて親しまれたそうです。塚は高さ6〜7メートル、底面積60坪くらいの小山で大正の頃までは存在していたようですが、その後の開発により削平されて消滅、また大津賀いなりも、どこかの神社に合祀されたのかそれとも移設されたのか、その後の詳細についてはまったくわかりませんでした。

 この塚について、杉並郷土史会より発行された『杉並区史探訪』には地元の古老の証言が掲載されています。


 小学生の頃は塚の周辺でよく遊びました。石鏃や石器の破片を見かけましたが、気にとめず、大正の末頃に塚を調査に来られた鳥居龍蔵先生から、鏃、石斧の破片だと教えられましたので、少しは拾い集めて置いたのですが、何時の間にか紛失してしまいました。鳥居先生から「塚は古墳だから保存して下さいよ」とお聞きしたのですが、急激に宅地の需要が増え、遊ばせて置くのは勿体ないので、昭和七年に父の久兵衛さんが取り崩し平坦にしました。塚は焼け土と灰土が何層にも重なっていて、土中から完全な杯状の素焼土器一個と、ボロボロに錆びついた馬具の鎖のような長さ一メートル位のものが出土しました。私は鳥居先生のお言葉通り円型古墳だったと思います。古墳を築く時、原野を焼き払って、穴を掘り遺骸を納め、周辺の土で盛土したので、焼土と灰土の層が重なって出来たのではないでしょうか?
 塚跡地は、現在弟の伝五郎さんの所有で、大部分は三井鉱山(株)の社宅の庭になり、南側の一部が道路になって居ります。四十六年に下水工事で道路を掘りましたので、何か出ないかと注意して度々見に行きましたが、何も出土しませんでしたけれど、地表から三メートル位の土は、地山(関東ローム層の赤土)と異質の土で、明かに掘り返された形跡が認められました。(『杉並区史探訪』28~29ページ)


 鳥居龍蔵氏が杉並区内の古墳を調査に訪れていたというのはこの記事により初めて知りビックリしましたが、この調査の記録は今のところ見つからず、詳細は分かりません。しかし、鳥居龍蔵氏がこの塚を古墳であると判断していたというあたりは興味深いところですし、塚の盛土が焼け土と灰土が何層にも重なっていたという古老の証言は、ちがった種類の土を交互に敷いてつき固めていく「版築」の手法を連想させます。「松ノ木の大塚」が古墳であった可能性は充分に考えられるのではないかと思いますがいかがでしょうか。。。


 さて、この「松ノ木の大塚」には、塚に棲みついていた動物についての昔話が多く残されているようです。杉並郷土史会より発行された『杉並区史探訪』には、地元の古老の体験談が書かれています。


 松ノ木の大塚には、ゴマ白の狐が棲んでいました。余程昔から棲んでいたらしく、村の人は”大塚の白狐様”と敬って居りました。堤粂次郎さんのおばあちゃんが、大塚の白狐様に鶏を盗られましたので、怒って古むしろを狐穴に差し込み穴をふさぎましたら、仇をされて残った鶏を皆盗られてしまいました。親から「大塚の白狐様にいたずらしてはいけないよ」と言われたものでございます。

 私が七、八才(大正二年)頃には、塚には狐と狸が棲んで居りました。馬橋や成宗、田端の年寄りが、狐に憑かれたと言って、赤飯と油揚げを持参して狐穴の傍に供えて拝んでいるのを何回も見ました。祖母と両親が「どこどこの誰々さんに、ウチの狐が又憑いたので、おこわ(赤飯)を持って来たよ」と話合いながら、私に「狐が食べるのだから、そばへ寄ったり、さわってはいけないよ」と、言い聞かしてくれました。

 大正七、八年頃の大塚の狐穴には、狸が棲んでいて、冬の暖かい日には狸の親子が、日向ぼっこをしているのをよく見かけました。植木屋の吉田辰五郎さんは、大塚のそばの植木畑に、深さ六尺位(約二メートル)の潅水用の井戸を掘り、フタ代りに「キビガラ」を覆せて置いたら、或る日狸が落ちて暴れているのを発見し、皆仕事を放っぽり出して大騒ぎの上生け捕りにしました。随分大きな狸だったので、皮が拾円で売れました。当時この辺の土地の値段が一坪二円五十銭位でしたから、大変な獲物だった訳です。早速一パイ飲もうと狸汁で盛大な酒盛りをしましたが、”人を化かす狸を化かした”と当時としては村の大ニュースでした。(『杉並区史探訪』26~29ページ)


 画像の道路の左側あたりがこの「松ノ木の大塚」の推定地であると思われます。正確な場所まではわからなかったのですが、少し道路がクランク気味に曲がっているのが怪しい!と思って撮って置いた写真です。
 それにしても、55万人もの人々が暮らすこの杉並区内に野生の狐や狸が棲息していたとは、開発の進んだ現在では全く想像ができませんが、杉並にも牧歌的な時代があったんだなあと、なぜか懐かしい気持ちになるお話ですね。。。

<参考文献>
杉並郷土史会『杉並区史探訪』

  1. 2015/07/14(火) 08:51:23|
  2. 杉並区の古墳・塚
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「大塚」

「大塚」

 杉並区成田西2丁目には「大塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録で、伝承にのみ残されている塚です。

 この場所は旧田端村と高井戸村との境にあたり、かつては牛馬が棄てられる三叉路で馬頭観音の石碑が建つ寂しい場所であったそうです。画像の左側あたりが塚の推定地であると思われますが、開発が進んだ現在では宅地化されて塚の面影はなく、また馬頭観音の石碑も残されていないようです。
 画像の背後に三叉路があり、画像中央の道路をまっすぐ進むと大宮八幡宮があります。高井戸からこの場所を通って大宮八幡宮に抜けるこの道は「大塚道」と呼ばれ、明治初年ころまではこの周辺は「大塚」という地名で呼ばれていたそうです。この道の突き当たりの大宮八幡宮の周辺には『杉並区史』によると30基もの古墳が存在していたとの記述があり、現在も高千穂大学構内に古墳であると思われる塚が残されています。また、北西に数百メートルの地点には「銭塚」と「金塚」の跡地があります。
 「大塚」という名称からしてかなり大きな塚だったのではないかと想像しますが、果たして古墳であったのか後世の塚であったのか、興味深いところですね。。。

<参考文献>
杉並区教育委員会『杉並の通称地名』

  1. 2015/07/13(月) 01:36:59|
  2. 杉並区の古墳・塚
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「銭塚と金塚」

「銭塚と金塚」

 「銭塚」と「金塚」は、杉並区南荻窪1丁目に所在したとされる、『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。画像はこの2基の塚の跡地を西から見たところで、左手前あたりに銭塚が、左奥に金塚があったといわれています。

 『井荻町史』にはこの銭塚について、「銭塚は荻窪川南宇田川権左衛門氏の地所内入口西方に高さ数尺の塚がある。何時の頃何人が築いたものか判らないが、土俗之を銭塚と稱えて、これに手を觸れることを嫌っている。先年道路拡張工事の際、その一部を削り取ったけれども、大部分は今尚存して宇田川氏方で厳重に保存に努めている。古老の言う所に依れば、昔此の地に百万長者があって、その貯えた金銀財宝の散乱せんことを懼れ、此処に埋めたものであると伝えられている」と、この地に残されている塚の言い伝えについて書かれています。
 この百万長者は金銀財宝を地中に埋めた目印と盗掘を防ぐために塚をお墓の形に仕上げたといわれ、塚をあばくと祟りが起こると言い伝えられていました。明治の半ば頃には、博打に負けて一文無しになった三人の遊び人達がこの伝説を真に受けて財宝を掘り出そうとかね塚を掘り始めたそうです。村人達は「祟りが起こるだけだからよしなさい』と忠告したものの遊び人達は忠告を聞かず、いっそう張り切って掘り続けました。その後、日が暮れて一休みしようとたき火を囲み、酒を飲み始めた遊び人達は、原因不明の高熱を出して倒れてしまいました。ようすを見に来たよろず屋の主人は苦しむ三人を見つけ、村中に知らせて皆で介抱したそうですが、遊び人達は「あついよぉ、あついよぉ」「悪かった、勘弁してくれ」などとうわ言を言いながらその夜のうちに亡くなってしまったそうです。これを見た村人達はこの激しい祟りに恐れて塚を埋め戻しましたが、この際に塚の高さは以前の半分位になったそうです。


「銭塚と金塚」

 その後のかね塚にも不思議な話が多く残されています。この周辺は大正15年(1926)に区画整理が始まりましたが、村人の多くはかね塚を掘り起こそうとしてなくなった遊び人達の話を見たり聞いたりしているので、祟りを恐れて塚の場所だけは手を付けずに残ってしまっていました。昭和8年(1933)にいよいよ塚が取り崩されることになり、お坊さんを招いて関係者が参列のうえ盛大に塚の供養がしてから、工事が行われたそうです。
 かね塚は、何も知らない人夫が簡単に地ならしをしたので何も起こらなかったそうですが、区画整理後にかね塚の隣接地の建築工事中にお骨が四斗樽一杯に出土したそうです。この報せを受けた地主さんがバケツを持って拾いにいきましたが、その晩、この地主さんの長男が高熱を出して苦しみ、地主さんは夜通し看病しました。これが不思議なことに、夜が明けると熱か下がって治るのですが、次の晩にはまた高熱が出て苦しみ、また夜が明けるとけろりと治ってしまうのだそうです。かね塚の祟りかもしれないと考えた地主さんのご主人は、骨が出た場所とバケツのお骨にお線香を上げて拝んだところ、その晩から熱を出さなくなったそうです。
 また、かね塚の跡地にはその後住宅が建てられたそうですが、非常に景気の良かった会社の社長さんが入居したところ、2、3年後には倒産してしまうなど持ち主がたびたび変わり、この頃から周辺の住人の間では幽霊が出るなどと噂されるようになりました。杉並郷土史会より発行された『杉並区史探訪』には、この当時に入居していた人の不思議な話が掲載されています。


 あの家の入手経路は分かりませんが、当時は公団の社宅でした。私が入居する時、「お化けが出るから止しなさい」と皆から忠告されましたが、仏像収集等の古典趣味家の私は「お化けが出たらお茶でも出して語り合うよ」と、冗談を言い、また真実そう思って居りました。入居後地元の方から、集団で幽霊が出る話を聞いたことがありましたが、余り気にしてはいませんでした。私達夫婦は二階を寝室に使っていました。十二月の或る晩二時頃、ふと目を覚まし何気なく廊下の方を見ると、雨戸の辺りがボーッと明るいのです。よく見ると坊主頭の人影がペコペコ頭を下げているではありませんか、背筋がゾット寒く、肝っ玉がちじみ、下腹が締めつけられる思いがしました。間もなくスーッと消えて暗くなりました。本当に幽霊だったのか、幻覚だったのかはっきりしませんが、家内達が気味悪るがるので、急いで移転しました。その後入居希望者がない為家屋は取壊し、土地を売りに出しましたが、売買の話がいつも最後の詰めで壊われ、仕方なく公団自営の高層住宅の計画を立てましたが、これも計画段階で難しいとのことで、放置してあるのです。世の中には科学で割り切れない何物かがあるのではないでしょうか」(『杉並区史探訪』89ページ)

 また、「ぜに塚」も、昭和8年(1933)の区画整理により取り崩されています。『杉並区史探訪』には、土地の所有者により語られた削平の際のようすが次のように書かれています。


 (前略)直径二・三間、高さ五・六尺位の盛土でしたが、昭和八年区画整理の時に、現在地に移転したのです。父権左衛門は、明治の中頃、銭塚の隣りに有った金塚を発掘した時、三人の方が即日亡くなった事件を見たと言って、移転には随分気を使い、中道寺のお坊さんにお経を上げて貰ってから発掘致しました。盛土を取り除きましたところ、下の地山(赤土の層)に掘り下げた様子はなく、盛土の中から鉄の部分(小刀または穂という)がボロボロに腐った赤銅作りの小柄(こずか)が一個発見された外は何も有りませんでした。盛土を庭へ運び、小柄を埋めて現在のように保存したのです。(中略)伝説では、金銀財宝を埋めたといわれていますが、金塚銭塚に、昔の戦死者か、疫病で亡くなった方を集団埋葬した古墳だったのではないでしょうか。
『註』同家の最古の位牌は元禄四年没権左衛門氏また小柄が初めて制作されたのは、室町時代(1400年代)ですから、それ以後の築造と推定されます。(『杉並区史探訪』87ページ)


 これら多くの情報から判断すると、ぜに塚とかね塚は古墳ではなく後世の塚だったのではないかとも考えられますが、塚が消滅してしまった現在では残念ながら真相を知ることは出来ません。

 画像は、杉並郷土史会より発行された『杉並の伝説と方言』152〜153ページに掲載されている往時のぜに塚とかね塚です。並んで存在する二つの塚の間には祠が祀られているようすがわかります。銭塚の墳丘には遊び人達に掘り返された跡が残されています。


「銭塚と金塚」

 現在の「ぜに塚」は住宅街の中にひっそりと残されています。。。

<参考文献>
杉並郷土史会『杉並風土記 上巻』
杉並郷土史会『杉並の伝説と方言』
杉並郷土史会『杉並区史探訪』
杉並区教育委員会『杉並の地名』

  1. 2015/07/08(水) 02:40:09|
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「お屋敷山古墳」

「お屋敷山古墳」

 杉並区下高井戸3丁目には「お屋敷山古墳」と呼ばれる古墳が存在したといわれています。現在は杉並区立向陽中学校の敷地となっているこのお屋敷山古墳は『東京都遺跡地図』には未登録となっていますが、巨大な前方後円墳であったという伝承も残されており、昭和初期の郷土誌に記述を見ることが出来ます。

 昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』の「区内発見古墳地名表」には「下高中学校敷地 高塚 前方後円墳? 湮滅」とあり、また「お屋敷山古墳 下高中学校敷地に存在したといわれる前方後円墳(?)は周湟を持つたものといわれる。この古墳上に嘗つて家屋が建てられたことがあつたと伝えられ、俗にお屋敷山と称された。その後、大正年間に石槨が掘り出され、埋蔵品は悉く散逸したと語られている。東京附近には、珍しく立派な古墳であつたので、府で史蹟に指定する予定であつたとも聞く。(『杉並区史』139ページ)」と書かれています。これは恐らく、昭和28年(1953)に杉並区史編纂委員会より発行された『西郊文化』の第3号に掲載された下高井戸の回顧録の記事が元になっていると思われますが、この記事について、平成元年(1989)に杉並郷土史会より発行された『杉並風土記下巻』にさらに詳しく取り上げられています。


お屋敷山古墳
 『旧杉並区史』の区史編纂委員会が、昭和28年に発行した『西郊文化』第三輯に、元東京府史蹟調査員、宗源寺住職・富田啓温氏が「大正初期の高井戸」と題して書かれた回顧録が掲載してあります。その文中に
「比較的に近くはあったが、今の下高中学(下高井戸3丁目24番、向陽中学校)の場所に前方後円墳があり、後円の部に桃等が植えられ、小さな丘を処女の乳房のように盛り上げていた。この古墳は、私が東京府の史蹟係時代に調査した事があったが、環溝を囲らせた見事な物で、惜しむらくは全面的に耕作され、後円の部分が低くなっており、何かの折りに(この上に家を立てたと伝えられる。俗にお屋敷山という)石槨部が発掘されて埋蔵品は悉く取り出され、散逸して終ったと、話して呉れた古老があったので、史蹟指定を延していたのだったが、次に気が付いた時にはこの土は全部平められ、田に置土されて終っていた。まだ工事は終ってはいなかったけれ共既に如何とする事が出来ず、その内にグランドになり、中学の敷地になった。だからここに前方後円墳があったことだけ記して置く」の記述があります。
 地元には、「江戸時代の初め、甲州街道道沿い(下高井戸2丁目10番?)に、一町余りの拝領地を持った幕府御馬預役、二百俵扶持の御家人・加藤(初代権左衛門重勝)さんが、古墳?の南側に別荘を建てて風流を楽しまれたので、其処を加藤屋敷、古墳?をお屋敷山、通路の橋を加藤橋と呼んだ」という伝承があります。
 『新編武蔵風土記稿』に、この古墳の記述がありません。なぜか?古墳はなかった。あったが村役人は知らなかった。それとも知っていても、幕府御家人の邸内にあったから、自分等の権限外と考え、郡代屋敷に提出した村明細帳に記載しなかった、の何れかでしょう。(『杉並風土記 下巻』366~368ページ)




「お屋敷山古墳」

「お屋敷山古墳」

 当時、史蹟指定される可能性もあったといわれるこの「お屋敷山古墳」ですが、この『杉並区史』と『杉並風土記 下巻』以外に詳しい記録は見つからず、当時の写真や遺物の記録を見つけることはできませんでした。ただし、古地図によりこの周辺の地形を確認すると、古墳の痕跡ではないかとも思われる形状を見ることが出来ます。明治末年製の『東京府豊多摩郡高井戸村全図』にはまるで前方後円墳の周溝に沿うかのような形状の水路(道路?)が描かれていますし、昭和12年の『1万分の1地形図』にも前方後円形の塚状地形が描かれています。しかし、昭和22年の米軍撮影の空中写真で確認すると、すでに盛土は削平されているのか、古墳らしき形状を見ることは出来ません。
 これが古墳であるならば所在地は恐らく現校舎のあたりで、『東京府豊多摩郡高井戸村全図』に描かれている水路が周溝と考えると、100mには満たない、恐らく70〜90mくらいの前方後円墳であったのではないかと想像しますが、もちろんこれは素人考えで確証はありません。
 果たして本当にこの地に前方後円墳が存在したのか、とても気になるところですね。

<参考文献>
杉並区市編纂委員会『西郊文化 第三号』
東京都杉並区役所『杉並区史』
森泰樹『杉並風土記 下巻』

  1. 2015/07/06(月) 03:36:03|
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