
大田区東糀谷1丁目付近に所在したとされるのが「東糀谷薬師塚古墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号151番の”古墳”として登録されています。
この古墳について、大正時代にこの周辺地域を調査した大場磐雄氏が『武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡(歴史地理第47巻 第4号 65~66ページ)』の中で次のように記載しています。
薬師塚。
前記大塚より北東約五百米余、最も海岸に接近せる古墳にして、今は僅かに形骸と留むるに過ぎず。稲荷社を安置す。風土記稿によれば、「薬師免畑四十二歩、東厨子ニアリ。村民利右衛門ガ地ノ内ナリ。高サ一丈八尺バカリ。五間四方ノ間ニ盤マル。塚上ニ薬師堂ノ三字彫シ碑ヲタツ。昔所々ヨリ貝殻ヲ持來リテステタリシガ年ヲ積テ終ニ一丘トナリシ故一名ヲ貝塚トモイフ。今ニ至リテハ冢上ニ松杉雑木ナト繁茂セリ」と記す。審査及び土人の言はこれと一致し、この墳丘は全く貝殻のみを以て築きたるものなり。その附近の畑地にも貝殻夥しく散布せり。余は興味深く感じて、附近の農家に入りてきくに、今より數十年前この貝塚を發掘せり。それまでは現今の池上の森の如く鬱蒼たる樹木生ひ茂りて、海上よりよき目標となりしといふ。かつてその發掘の折、出土せるものは人骨、刀片、土器片等なれど皆何れも明かなる記憶なくその後外人屢石器の探究に來れりと。これ等の言を信ずれば、ここが確かに古墳として築かれたる事疑ひなく、ただ出土の遺物が、如何なるものなるや考古學的證據を得ざるは頗る遺憾なりとす。外人の探査は、蓋し貝塚を石器時代の貝塚と誤りて來れるものなるべし。(後略)
『東京都遺跡地図』の出土品の項に土師器と刀とあるのはこの大場氏の調査によるものであると思われます。
貝殻のみで築かれた古墳とはとても興味深いものですが、すでに周辺は開発が進み、古墳の痕跡は全く残されていません。この地に古墳が存在したことは間違いないようですが、正確な跡地まではわからなくなっているようです。。。
<参考文献>
東京都大田区役所『大田区史』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
- 2015/08/13(木) 04:55:17|
- 大田区/その他の古墳・塚
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画像は大田区西糀谷3丁目にある「浜竹天祖神社」を南から見たところです。この敷地内にかつて存在したといわれているのが「薬師塚古墳」で、『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号101番の古墳(円墳)として登録されています。
この「浜竹天祖神社」は以前は現在の「粷谷小学校」の敷地にあり、昭和12年の羽田第二小学校(粷谷小学校の旧名)拡張のために現在地に移転されています。この古墳について、昭和60年(1985)に東京都教育委員会により発行された『1985 都心部の遺跡』には「現在の天祖神社となっている地点に存在したらしい」とのみ書かれています。
さて、『東京都遺跡地図』を見ると、この大田区粷谷周辺には2基の「薬師塚古墳」が登録されています。1基はこの遺跡番号101番の「薬師塚古墳」で、もう1基は151番の「東糀谷薬師塚古墳」です。古い文献を調べると、151番の「東糀谷薬師塚古墳」に関するものは非常に多く、古くは江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に記述を見ることができ、大正時代には大場磐雄氏の調査の報告が『歴史地理第47巻 第4号』「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」に紹介されています。同書ではこの古墳を「薬師塚」の名称で紹介していますが、「西糀谷大塚」から北東に約500mの地点にあり、最も海岸に接近している古墳である、としていますので、この「薬師塚」は151番の「東糀谷薬師塚古墳」を指していることがわかります。
これに対して101番の「薬師塚古墳」の資料は非常に少なく、東京都教育委員会により昭和65年(1985)に発行された『都心部の遺跡』のみです。同書では、この「薬師塚古墳」についての記述がある”文献”として『郷土研究講座2』に掲載されている「村の考古学」と、『荏原地域文化財総合調査報告』の「荏原地区における考古学上の調査」とありますが、これはどちらも大場磐雄氏の調査報告であり、『郷土研究講座2』の論文の参考文献も、先にふれた『歴史地理第47巻 第4号』「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」であることから、やはりこれも「薬師塚古墳」ではなく「東糀谷薬師塚古墳」を指していることがわかります。
これはあくまで推測ですが、『都心部の遺跡』発行の際の分布調査において何らかの手違いがあり、現在の「東糀谷薬師塚古墳」を「薬師塚古墳」の名称で現在の「浜竹天祖神社」の位置に登録したものの、後の『東京都遺跡地図』では正しい地点に「東糀谷薬師塚古墳」の名称で登録したのではないか、という可能性を感じます。ちなみに『東京都遺跡地図』に記載されている出土品は、「東糀谷薬師塚古墳」と「薬師塚古墳」ともに「土師器、刀」と書かれています。
もちろん、『都心部の遺跡』にある「現在の天祖神社となっている地点に存在したらしい」という記述が、分布調査における聞き取り調査で古老の証言があった等の何らかの状況証拠に基づいている可能性もありますし、あくまで考古学について素人の推測ではありますが、果たしてこの浜竹天祖神社内に本当に古墳が存在したのでしょうか。

画像は、「浜竹天祖神社」の境内のようすです。社殿の土台が少し高くなっており、古墳のマウンドの上に社殿を建立したという可能性も考えられますが、古墳の痕跡は全く残されていないようです。。。

<参考文献>
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
東京都教育委員会「荏原地区における考古学上の調査」『荏原地域文化財総合調査報告』
大場磐雄「村の考古学」『郷土研究講座2』
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/08/12(水) 03:01:11|
- 大田区/その他の古墳・塚
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画像は大田区西糀谷3丁目にある「粷谷小学校」を南から見たところです。この敷地内にかつて存在したといわれているのが「西糀谷大塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号160番の古墳(円墳)として登録されています。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「高一丈三尺餘リ、九尺四方許ノ間ニ盤レリ。寶永四年富士山焚タリシトキ雨散セシ砂ヲカキヨセテ塚トセリト云傳フ。此説オホツカナシ。別ニ故アルベシ。除地一畝二十六歩ニ及ベリ」と、この塚の言い伝えについて記述を見ることが出来ます。また、昭和26年に東京都大田区役所より発行された『大田区史』にも、「これは宝永四年に富士山が噴火したときに降つた灰をかきよせて塚にしたものとの伝説があるが、「この説おぼつかなし、別に故あるべし」とある。火山灰を耕地の中に百年も留めて置く理由は考えられないから、貝塚と推定してよいと思う。」と書かれています。
大正時代にこの周辺地域を調査した大場磐雄氏は『武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡(歴史地理第47巻 第4号 65ページ)』の中で「往古は相當高き圓墳なりし事を推察し得るも、遺物の微すべきものなし。土人の説は風土記編纂者も疑ひたる如くおぼつかなきものなれども、余は武蔵國都築郡方面にてもこれと同様の説明ある古墳を見たり。されど今はその解釋に對して何等の知識も有せず。他と同様古墳の一としてここに掲げおく。附近の畑地に貝殻散布す。」と、この塚は古墳ではないかと推察しています。
この粷谷小学校の敷地は以前は「浜竹天祖神社」の境内地であり、校庭の中央あたりに位置していた本殿の西側に古墳が存在したといわれています。昭和12年に羽田第二小学校(粷谷小学校の旧名)拡張のために神社は同じ西糀谷3丁目の現在地に移転され、古墳は崩されて消滅しています。残念ながら学校の校庭となった跡地に古墳の面影を見ることは出来ませんでした。
ちなみに「浜竹天祖神社」の現在地は「薬師塚古墳」が所在したとされる場所でもあります。。。
<参考文献>
東京都大田区役所『大田区史』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
粷谷今昔記編集特別委員会『粷谷の今昔』
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
- 2015/08/11(火) 00:47:50|
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大田区新蒲田1丁目付近に所在したとされるのが「お伊勢塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号205番の「古墳(円墳)」として登録されています。
この古墳については詳しい情報はまったく入手できなかったのですが、『大田区遺跡地図』にあるこの古墳の所在地からすると画像の道路の左側手前あたりが推定地であるようです。また、かつてこの周辺には「神明社」が祀られていたようですが、『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』の「中世に所在した神社表」によると”この場所は「おいせづか」と呼ばれた”とあり、同書に掲載されている所在地からすると画像の道路の左奥あたりが神明社の推定地となりますが、この神明社がお伊勢塚と同じ場所にあったのかどうかも判明せず、古墳の正確な跡地はわかりません。周辺は開発により古墳の痕跡はなく、また神明社も残されていないようです。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
大田区教育委員会『大田区遺跡地図』
- 2015/08/10(月) 00:23:50|
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大田区西六郷1丁目付近に所在したとされるのが「天王木古墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号209番の「古墳(円墳)」として登録されています。
大田区六郷地区周辺は、旧石器時代から弥生時代までの遺跡が発見されていないことからこの時代の詳細は不明とされていますが、古墳時代末期にはこの地域を開発した人たちの家長クラスの古墳が築造されています。「天王木古墳」もこのうちの1基であると考えられている古墳です。
昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』ではこの古墳は”遺存”していると書かれています。これは、東京都心部遺跡分布調査団により行われた昭和58年度の分布調査によるものですから、少なくとも昭和58年にはこの古墳は残存していたようです。また、「墳丘の土はほとんど黒色土である。昭和40年代後半に頂部から出土した陶磁器は中世の蔵骨器と考えられ、塚の可能性も推定される。」とも書かれており、古墳であると断定はされていないようです。『東京都遺跡地図』には須恵器の出土が伝えられています。
画像は、「天王木古墳」が所在したと推定されている西六郷1丁目45番地周辺を西から見たところです。昭和58年までは存在していたというこの古墳について何か痕跡が残されているのではないかと期待したのですが、古墳は宅地化により消滅。墳丘上に祀られていたといわれる天王社も見つけることは出来ませんでした。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
- 2015/08/09(日) 01:07:13|
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大田区西六郷1丁目付近に所在したとされるのが「小鳥塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号207番の「古墳(円墳)」として登録されています。
この古墳については古くからその存在が知られており、多くの文献に記述を見ることが出来ます。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「村ノ東南ノ方用水堀ノ涯ニアリ。或ハ獨鈷塚トモ呼ブ。二三歩ノ間ニワタカマリタル僅カノ塚ナリ。土人此塚ニ觸ルルモノアレバ、必祟アリトテ敢テ近ヅク者ナシ。」と、祟りの言い伝えにより塚に近寄る者はいないことが書かれています。また、その後大正時代にこの周辺地域を調査した大場磐雄氏は『武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡(歴史地理第47巻 第4号 67ページ)』の中で「タブーされたる古墳なり。余の調査には遂に発見せざりき。」とあり、大正の終り頃には古墳はすでに消滅していた可能性を指摘しています。
また、別名「子取り塚」ともあり、雨の降る真夜中に赤子の声が聞こえるという言い伝えも残されていたようです。
この周辺の地名は、村内を通る鎌倉街道の近くにこの小鳥塚があったことにより「道塚」と呼ばれるようになったといわれています。画像の、道路の右側あたりが古墳の推定地であると思われますが、正確な跡地は特定できず、古墳の痕跡を見つけることはできませんでした。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
- 2015/08/08(土) 00:49:33|
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大田区西六郷2丁目付近に所在したとされるのが「高畑・神明塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号210番の「時代不明の墳墓」として登録されています。
画像は西六郷2丁目にある「宝幢院」を東から見たところです。この宝幢院の門前(上知耕地)に神明社があり、塚はその神明社のそばにあったといわれています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「神明社 見捨地三畝二十二歩、村の方にあり、わづかなる祠なり、祭礼年々九月十六日神楽を奏す、村内泉蔵院のもちなり、」とのみ書かれており、特に塚のようすについてはふれられていません。高さ約2mほどの丸い塚であったといわれていますが、すでに神明社もなく、塚は消滅して痕跡は残されていないようです。。。
<参考文献>
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
- 2015/08/07(金) 00:27:19|
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大田区仲六郷1丁目付近に所在したとされるのが「町屋稲荷塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号214番の「時代不明の墳墓」として登録されています。
この塚は、以前は「バンタ塚」という名称で登録されていましたが、平成21年に発行された『大田区遺跡地図』や最新の『東京都遺跡地図』では「町屋稲荷塚」という名称に変更されています。一名「オタチ塚」とも呼ばれたこの塚は径約6~7m、高さ約1.5mほどで墳丘上には稲荷社が祀られており、戦後までは残存していたといわれています。
バンタとは、端、境目の意味が古語にあるそうですが、その名の通りこの塚は六郷用水小沼掘の東側、旧八幡塚村飛地と旧町屋村耕地の境に存在したそうです。画像の左側あたりが塚の所在地であると思われますが、正確な跡地まではわかりません。

この塚の推定地には教会と幼稚園の敷地となっていて、ひょっとして敷地内にお稲荷さんが残されて祀られているのではないかとも思いますが確認できず、画像のようにすぐ隣りの区画には屋敷稲荷が祀られている邸宅も見られるのですが、残念ながらこの「町屋稲荷塚」との関係はわかりませんでした。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
- 2015/08/05(水) 23:33:59|
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大田区仲六郷1丁目付近に所在したとされるのが「装束塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号215番の「時代不明の墳墓」として登録されています。
この塚について、古くは江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載があり、「里人相傅フ。昔八幡ノ神體一座ヲコボチシトキ、其裝束ヲ埋ミシ印シノ塚ナリト。サレドオボツカナキ傅ヘナリ。別ニ故有ベシ。除地四畝ナリ。」と書かれています。この、八幡の装束を埋めたと言い伝えられている「装束塚」ですが、その後、大正時代にこの周辺地域を調査した大場磐雄氏は『武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡(歴史地理第47巻 第4号 67ページ)』の中で「何等の考古学的資料を発見する事能はず。蓋し如上の古墳と同型なるべきか」と、古墳であった可能性を指摘しています。
この「装束塚」は八幡塚村の飛地と雑色村の飛地、町屋村の塚ノ宮耕地と、三ヵ村の耕地が相接する角地に築かれた境塚であったと考えられており、江戸時代には塚の上に八幡宮が祀られていたといわれています。恐らく画像中央の道路の左側あたりが「装束塚」の推定地であると思われます。昭和22年に米軍により撮影された空中写真にそれらしき痕跡を見ることが出来ますので、恐らく戦後までは残されていたのではないかと思われますが、宅地化が進み塚は消滅しており、痕跡を見つけることはできません。。。
<参考文献>
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
- 2015/08/02(日) 23:59:02|
- 大田区/その他の古墳・塚
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大田区仲六郷1-50丁目付近に所在したとされるのが「出村・明神山遺跡」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号216番の「時代不明の墳墓」として登録されています。
この塚について、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「畑明神社 雑色村の内にある飛地、字出村と云ふ所にあり、昔新田義興の家人畑某矢口にて敗軍し、此地まで遁れ来りて自害せり、土人これを神に祝ふと云つたふ、今百姓彦右衛門宅地の内にあり、」とのみ書かれており、特に塚のようすについてはふれられていないようです、。この畑明神社のあったところが塚の場所で、『大田区教育委員会より発行された『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区』によると、「大正11年(1922)の地形図には鳥居のマークが記入されている。京浜急行の軌道敷地に当たり崩された。」と書かれています。
画像の、京浜急行の高架となっている右奥あたりが塚の推定地であると思われます。昭和22年の空中写真で確認すると、畑地らしき真ん中にの中にこの塚ではないかと思われる痕跡があり、『東京都遺跡地図』に記されている地点とぴったり符合しています。現在の東京トヨペットのあたりが塚の推定地であると思われるのですが、残念ながら塚の痕跡を見つけることは出来ません。。。
<参考文献>
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
- 2015/08/01(土) 23:33:23|
- 大田区/その他の古墳・塚
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