
画像は、大田区山王にある「山王塚」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号170番の”中世の塚”として登録されています。
「山王塚」は、品川区西大井方面から南下した二本の舌状台地の西側舌状台地の一角の平坦地突端に所在しています。周辺には縄文時代から戦国時代までの多くの遺跡が分布しており、塚の南斜面には一群の横穴墓群が確認されています。また、山王遺跡と山王三丁目遺跡のある台地の斜面全体に「新井宿横穴墓群」が造営されています。
山王塚は昭和62年から63年にかけて調査が行われています。規模は東西14m、南北13mの長方形で、高さ2.5mのマウンドであることがわかっています。調査の結果、この塚は古墳ではなく中世に築造された修法遺跡に類する塚ではないかと考えられているようです。

現地に設置されている説明板には次のように書かれています。
古塚
塚は、地面を60cm彫り込み、高さ2.5m余り赤土を方形に二段築き上げ、その内部には、一辺1.3m厚さ20cmの凝灰岩質砂岩の切石が石壇として安置されていた。塚の南面は、東西15m深さ50cmの溝が「コ」の字型に掘られていた。このことから、築造当時は、赤々とした人工の山が周囲の黒土から際立った存在として人々に仰ぎ見られたことであろう。
塚は、内部に石壇があることと築造方法が古墳と異なることから、祭祀に用いられたと考えられ、その年代は、かわらけ系の土器が溝から出土したことにより平安時代末期から鎌倉時代にかけてと推定される。
また、塚は、築造方法とその特異な内部構造から区内に類例がなく、非常に貴重である。
昭和六十三年 大森まちなみ維持課
この「山王塚」は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の荏原郡品川領大井村の項に「大塚」として記載されており、近世にはすでに存在していたことがわかっているものの、その由来についての記述はなく詳細はわかりません。山王台地の大井氏と関係のある修法遺跡ではないかとも考えられているようですが、塚の築造目的、性格や年代については性格には把握されていないようです。

塚が残存する「蘇峰公園」は徳富蘇峰の居宅跡(山王草堂)を公園にしたもので、公園内は庭園として整備されており、また馬込文士村の「尾崎士郎記念館」とも隣接しています。公園内にある「山王草堂記念館」は徳富蘇峰の居宅地跡に建てられており、まつわる品々が展示してあります。入館も無料でなかなか見どころがありますが、開演時間が午前9時から午後5時までと限られていますので注意が必要ですね。
<参考文献>
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
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- 2015/08/31(月) 01:29:16|
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画像は、大田区山王にある山王小学校を南から見たところです。この小学校の階段裏からは横穴墓が1基発見されています。『東京都遺跡地図』には「山王横穴墓」という名称で、大田区の遺跡番号132番の横穴墓群として登録されています。
正門前には大田区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
山王小学校内発見の横穴墓
この横穴墓は、平成12年9月、校舎改築中に校舎西側台地、地下約2mの赤土(関東ローム層)の中から発見されました。
横穴墓は、台地斜面の中に横穴を掘り、死者を葬ったお墓です。その構造は、死者を葬るための通路と葬礼の場所(墓道)、入口から奥に続く道(羨道)、その奥に死者を安置する部屋(玄室)の順になっています。
玄室は、広さ1.4㎡で、羨道より一段高い台形をしています。天井はアーチ形で、高さは羨道(70cm)から奥壁(1.12m)へと徐々に高くなっています。横穴墓としては比較的小型です。
玄室から二体分の人骨が出土しました。一体分の骨は玄室の右奥に集められ、もう一体は、頭を北西にして玉石の上に安置されていました。このことから、この横穴墓では二度の埋葬が行われたことが考えられます。埋葬後、入口(羨門)は板状のもので閉じられていたと推定されます。
横穴墓は、古墳時代の終わり頃(七世紀中頃)に造られたもので、当時この地域を支配した首長とその一族のお墓と考えられます。
この台地の南斜面には、多くの横穴墓が造られています。今回発見の横穴墓は、この台地斜面に造られた山王横穴墓群の一つで、当時の墓制を知る上で貴重な遺跡です。
なお、この遺跡は、発掘調査後保存のため埋め戻されていますので、現在は見ることができません。
平成13年3月 大田区教育委員会
大田区内は大正から昭和初期より行われた宅地化や国道の敷設等、比較的早期に開発が進んだことにより旧地形は失われています。この際に相当な数の横穴墓が湮滅したといわれています。山王1~4丁目に展開する横穴墓群は「山王・新井宿横穴墓群」と総称されていて、地点不明も含めると横穴墓の基数は40基以上にのぼるそうです。
最近では、世田谷区大蔵で新たに2基の横穴墓が発見されています。大田区内でも今後、未発見の横穴墓が発見される可能性もあるでしょう。今後の調査を楽しみにしたいところですね。
<参考文献>
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
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- 2015/08/29(土) 01:50:50|
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画像は、大田区南千束にある「洗足池」を東から見たところです。この池の周辺に「行人塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。
昭和14年(1939)に東京市大森區役所より発行された『大森區史』には、「行人塚 馬込の南千束に饅頭形に土を盛つた塚(鈴木太吉氏邸内)がある。昔は廣い野原の眞中であつたらうが今は畑の眞中に殘つて耕作の妨げにもなるので、畠の持主が人を雇ひ、自分が眞先となつて山を削り土を運んで塚を移し初めた。まだ半分もある、移し終らないうちに、一夜眼を病み失明しようとした。家族の驚き一方でない。何の爲だらうか、不思議といつてもまだ足りないと思つて近所の筮者に占はせたら、鎭魂の土を移したためにその祟りであるといふのである。そこで直ちに運んだ土を元の場所に移したら一眼は辛うじて治つたが、一眼は遂に永久に明を失ふこととなつた。それより塚の上に梅やつつじを植ゑ折々物を供へて祭ることにした。これが行人塚である。」と、この塚の祟りの言い伝えについて記述されています。
『大森區史』にある「行人塚」の跡地について、大田区教育委員会より発行された『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』では”南千束2-3 洗足池付近”と推定していますが、ここは現在「洗足池公園」として整備されており、塚の痕跡を見ることは出来ません。また、同書には地元の古老の口伝として「行人塚 洗足池のまわりに行人塚といわれる塚が二つあった。昔、池で修行をしていた行者が死んで塚に祀ったという。その一つは現在道路になってなくなってしまった。」とあり、「行人塚」と呼ばれる塚は2基存在したとしています。この記述からすると、2基あるうちのもう1基は残存しているとも解釈できるのですが、この周辺を散策した限りでは見つけることは出来ませんでした。

「行人塚」が所在したとされる南千束2丁目3番地には「勝海舟夫妻墓所」があります。向って右が海舟、左が妻のたみのお墓です。昭和49年に大田区の文化財に指定されています。

同じ敷地内には「西郷隆盛留魂祠」が建てられています。この留魂祠は元々は葛飾区の薬妙寺境内に建立されたものですが、大正2年に石碑とともに現在地に移設されたそうです。
<参考文献>
東京市大森區役所『大森区史』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田の史跡めぐり』
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- 2015/08/27(木) 01:28:58|
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大田区東雪谷2丁目付近に所在したとされるのが「雪ケ谷行人塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号49番の”奈良時代から平安時代の墳墓”として登録されています。
「雪ケ谷行人塚」は旧鎌倉街道沿い、小名・石川(現在の東雪谷2丁目23番地あたり)に所在したといわれています。江戸時代に地誌、『新編武蔵風土記稿』にも記述が見られ、「行人塚 小名石川にあり、名義を伝へず、」と書かれています。
東急池上線の軌道敷地にあたっているといわれており、『東京都遺跡地図』に登録された位置を参考にすると、画像のあたりが塚の推定地ではないかと思われますが、正確な跡地はわかりません。前回紹介した「雪ケ谷笹丸大塚」と近距離にあり、笹丸大塚の跡地が切り通しとなって台地ごと削り取られているのに対して、この「雪ケ谷行人塚」の跡地は土が盛られて線路が敷かれているのでひょっとして何か痕跡が残されているのではないかと期待しましたが、残念ながら塚の面影を見ることは出来ません。。。
<参考文献>
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/08/25(火) 09:36:45|
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大田区東雪谷1丁目付近に所在したとされるのが「雪ケ谷笹丸大塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号82番の”奈良時代から平安時代の墳墓”として登録されています。
昭和7年(1932)に池上町史編纂會より発行された『池上町史』にはこの雪ケ谷笹丸大塚について「元當町大字雪ヶ谷字笹丸にあり面積三拾坪、小丘をなし雑木を以て覆はれたるものにして里人呼んで大塚と云傳ふるも、事蹟に付ては詳ならず、池上電鐵軌道敷地に當るも今其の影を認めず。」とあり、その後昭和14年(1939)に東京市大森區役所より発行された『大森区史』には、「雪谷町笹丸に、面積三十坪ばかりの小丘雑木に覆はれたものを、人々呼んで大塚と云ひ傳へてゐるが、事蹟については詳かでない。現在は池上電鐵軌道敷地に當り跡方もない。」と書かれています。
中央に見える「笹丸橋」の向こう側が塚の跡地とされる場所です。雑木林に存在したといわれる「雪ケ谷笹丸大塚」は台地の一番高い位置に所在したようですが、東急池上線の軌道敷地は切り通しとなって台地ごと削り取られており、塚も含めて埋蔵文化財は何も残されていないと思われます。。。

画像は「雪ケ谷笹丸大塚」の推定地を南西から見たところです。塚の跡地は”空中”ということになりますが、目を凝らして往時の姿を想像できるでしょうか。

なかなか面白いなと思ったのがこの「笹丸橋」の橋名板です。この橋は平成15年11月に補強工事が行われ、この際に橋名板が新設されており、画像はその新設された橋名板ですが…

その横には旧橋名板が設置されて公開されています。新しい橋名板は橋名板の字体を復元しているそうです。気が付かずに通り過ぎてしまいそうなところに設置されていて見落としてしまいそうですが、橋名板とは興味深いと思いました。。。
<参考文献>
池上町史編纂會『池上町史』
東京市大森區役所『大森区史』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/08/21(金) 01:40:51|
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大田区上池台1丁目付近に所在したとされるのが「池上・平塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号108番の”奈良時代から平安時代の墳墓”として登録されています。
昭和7年(1932)に池上町史編纂會より発行された『池上町史』にはこの塚について「平塚跡 元當町大字池上字平塚にあり、面積七十九坪、圓塔の塚にして周圍は雜木を以て覆はれ、其の形狀より塚たるを想像するのみなり、昔より平塚と云ひ傳へ又地名の平塚より推して古墳なるべしと云ふ。自跡に就ては何等古記の徴すべきものなく詳ならず。」とあり、その後昭和14年(1939)に東京市大森區役所より発行された『大森区史』にはこの塚について、「上池上町の舊字平塚に、面積七十九坪の圓塔の塚で周圍は雑木に覆はれてゐる小丘がある。昔より平塚といひ傳へ又地名の平塚より推して古墳と想像される以外、何等詳しい傳へもない。」と書かれています。どちらもこの「平塚」を古墳ではないかと推定していますが、特に出土した遺物等の記述もなく、古墳であると断定はされていないようです。
画像は、大田区上池台1丁目にある「小池稲荷神社」を北西から見たところです。塚はこの稲荷神社の所在する池上1丁目51番地付近に存在したといわれていますが、すでに周辺は宅地化され、塚の痕跡を見つけることは出来ませんでした。。。
<参考文献>
池上町史編纂會『池上町史』
東京市大森區役所『大森区史』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/08/20(木) 00:17:01|
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画像は、大田区大森北1丁目にある「鷲神社」を南から見たところです。この周辺に「祈念寺塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。『東京都遺跡地図』には、大田区の遺蹟番号182番の”中世の墳墓”として登録されています。
「祈念寺塚」は江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも記述が見られ、「新井宿村の境にあり、九尺に二間ばかり、廻りはみな水田なり、これ密厳院境内の名残なり、ゆへにかの寺号を今もよべりといふのみにて、別に来由ありやその詳なることは知ず、密厳院持、」と書かれています。この鷲神社の周辺に塚が存在したことは間違いないようですが、大森駅周辺は開発が進み、痕跡を見つけることは出来ませんでした。。。

画像は、鷲神社拝殿を南東から見たところです。土台の部分が一段高くなっているのが気になるところですね。。。
<参考文献>
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/08/19(水) 09:32:11|
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画像は、大田区大森西2丁目にある「金山神社」を南から見たところです。この神社の敷地内にかつて古墳ではないかとも考えられるマウンドが存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号164番の”中世の塚”として登録されています。
この塚については、東京都心部遺跡分布調査団により行われた昭和58年度の分布調査で存在が確認されています。この調査結果が掲載されている、昭和60年(0985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』には「金山神社古墳」という名称で古墳として取り上げられており、「一部遺存、30cm程度の高まりがあるのみ」と書かれています。また、大田区教育委員会より発行された『大田区の神社』にはこの神社の由緒について「古墳の上に金山彦大神を祀った小祠を建てたのがその始まりであるが、創建の年代はわからない。古墳も現在は跡形もない。」とも書かれています。
しかし、その後の『東京都遺跡地図』や『大田区遺跡地図』には「金山神社塚」と名称が変更されており、古墳ではなく中世の塚として考えられているようです。

画像は、金山神社の境内を南西から見たところです。社殿の土台の部分が一段高くなっているようすを見ることが出来ます。

南東から見たところ。境内の築山にしか見えないこの残存するマウンドは変な形に改変されており、古墳の面影はありませんが、『都心部の遺跡』にある「30cm程度の高まり」は確かに残されているようです。

敷地内には昭和8年に建立されたという「古墳由来碑」という石碑が建てられています。画像中央がこの「古墳由来碑」です。この碑文は次のように書かれているようです。
「抑々此地は北条氏以来數度の古戦場にして幾多の遺跡と共に附近諸處に大小古墳の散在せしも、いつの頃か崩壊して今は残存するもの殆ど稀なり。案ふに是等古墳の中には彼の上代民族に關はるものあるへきも或はまた當時の土民か知名戦歿将士の屍を葬り、塚を築きて以て其霊を祀りしもの尠からさるへきは蓋し推定に難からさるへし。此墳今猶原型を存して今日に至りしは種々なる神秘的傳説と共に古來小祠を設けて金山彦大神を齊き以て土民の信仰と結ひ、爲に幸ひにその崩壊を免れしものなるべし。今現に存する處の金山神社古碑は元祿年間のものたるを見ても瞭かなり。爾來幾星霜今や後墳上に雜木の繁茂するに委瀬、小祠も亦頽廢するに至りしか。偶々今次東京市域擴張に當り、本町の有志神社を中心とする諏訪会を発起し、その事業の一として墳域を整備し社祠を改築し、以て古跡を永遠に保存し敬神の實を學けんとす。仍て聊か其由來を録して後代に貽すと云爾」
諏訪神社車掌 上野信親謹誌(『大田区の文化財 第7集 大田区の神社』43ページ)
この塚がどういう性格の塚であったかはこの碑文からは読み取る事は出来ませんが、少なくとも何らかのマウンドの上に祠を祀ったことは間違いないようです。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財 第7集 大田区の神社』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
- 2015/08/17(月) 23:31:06|
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大田区大森東4丁目に所在したとされているのが「三輪厳島神社塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺蹟番号148番の”中世の墳墓”として登録されています。
この塚は、旧厳島神社(昔の弁天堂の場所であり、現在の社務所)の場所にあり、この境内は周囲の土地より高くなっていたことからこの弁天社は一名高塚神社とも呼ばれていました。石段を上りつめた頂部に拝殿と本殿が鎮座しており、塚の規模は、直径約8.5m、高さ約2mほどであったと考えられています。その後、昭和6年(1934)に旧社殿の境内地が道路改修のために道路を挟んだ西側に社殿を新築することになり、六尺以上も高かった旧社殿地は周囲と同じ高さにするために切り崩したところ、人骨や板碑のほか、多くの遺物が出土しています。
画像が、「三輪厳島神社塚」が所在したとされる現在の社務所です。すでに高さもなく、周囲の景観に馴染んでいるようにみえるこの社務所の場所に塚の痕跡を見ることは出来ません。

画像は、大田区大森中2丁目にある密乗院内に建立されている「古墳各霊乃塚碑」を北から見たところです。「三輪厳島神社塚」の発掘の状況はこの石碑の裏面に刻まれた碑文により知ることができます。この碑文は、次のような内容であるようです。
昭和6年6月3日川端区の鎮守である厳島神社境内から、はからずも板碑と十体あまりの人骨を発掘した。そして、これらの板碑に誌されていた年号は、正和五年応永32年文明6年等の古くは600年前のものであった。これは、大森の郷土史上の研究に資することは、図り知れないことである。ここに、川端区は、古墳との縁が浅くないことから、これらの人骨を集めて密乗院に合葬して、その沿革を墓誌に誌して、長く各霊の冥福を弔うことにした。昭和6年7月建立 川端区(『大田区の文化財 第30集 考古学から見た大田区』147ページ)
その後の昭和61年、「古墳各霊乃塚碑」の土台の一部が崩れたための修理の際に、土台の内部の清掃中に板碑片や中世陶器、古瓦、北宋銭等が発見され、大田区教育委員会により当時の文献と検討しながら遺物整理を行った結果、遺物は間違いなく三輪厳島神社塚から発掘された出土品であることが確認されています。
発掘当時の文献や多くの出土品から、この塚は古墳ではなく中世の墳墓であることは断定されているようです。

画像は、現在の厳島神社を南東から見たところです。なんと、この「三輪厳島神社」はかつて大森地区の名産であった大森海苔の神様なのだそうです。境内に立てられている「厳島神社由来」には次のように書かれていました。
厳島神社由来
大森海苔の守護神として古来より伝わる
かしこくも、当社の祭神は素盞嗚尊の御女市杵嶋姫命にまします。謹みて創立の起源を神記口碑に因り案ずるに。安徳帝治承四年(紀元千壷百八拾年)源義経は武蔵坊弁慶・伊熱三郎・駿河治郎等の郎徒を具し、東海道玉川の渡しを過ぎけるが、頃しも二百十日の厄日にて南西の風吹き荒び、舟は見る見る押し流され大森下に漂えば一同安き心なく、波方を望むれば、小高き社見えしかわ、これ神のおはします処と其の方に向い海上平穏を念じければ、不思議や風やみ浪治まりぬ。義経霊に感じ、舟を瀬島につけ、葭をなぎ葦を分けて彼方の森を尋ぬれば、ささやかなる社の縁に白蛇顕われいたり。これ神の使ひなめならぬ。かしこし、厳島大神我等が運を守らせ給ひしことよと、里人に語らい改めて森を拓き、神殿を修理し、また船をとどめし処に注連竹を建て給う。是れ当社創立、起立の起源にして今を去ること八百年に及ぶ。
是れより里人等神徳を尊ぶこと愈々深く、海面守護の神として毎年正月十一日水神を祀りしが、ある年海面に建てし注連竹に黒き苔生じければ、人々怪しみてこれを採り嗜めけるに味あり。生酢干かにして食せば殊に風味よし翌年其の頃を計りて木枝多く建てけるに、またまた苔の生じければ種々製造法を考え遂に現今の如き乾海苔に製し年と共に製造するもの多し、海の苔即ち「のり」と称し鎌倉将軍に献上の栄を担い、江戸幕府開かるるに及び毎年将軍家に献上し、維新の際まで変わることなかりしは人の皆知る処なり。
嗚呼、大森の名産とし名誉海外にたかき海苔の濫觴たる如斯にして、如何に我が厳島大神の海面御守護の御神徳高きか、かしこくも尊きことにこそ。
三輪厳島神社

拝殿の北側にある「境内社銭洗弁財天社」です。この神社の西側には幹線道路である「産業道路」が通り、決して交通量は少なくないのですが、この弁財天の敷地内だけは異空間で静まり返っています。
ちなみに産業道路の三輪厳島神社前の信号の交差点名は「弁天神社前」なのです。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財 第7集 大田区の神社』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
- 2015/08/15(土) 00:11:52|
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大田区大森南1丁目付近に所在したとされるのが「大森南古墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号106番の”古墳?塚?”として登録されています。
昭和65年(1985)に東京都教育委員会により発行された『都心部の遺跡』にはこの古墳についての記載を見ることができます。所在地を「大田区大森南1-19付近」としながらも「聞き取り調査によると昭和初年頃にも墳丘はなかったとのこと。北糀谷1-18付近に高まりがあったとのことであるので、所在地番が混乱した可能性がある。」とも書かれており、正確な所在地を特定するには至っていないようです。
画像左奥の区画が古墳の跡地とされる「大森南1-19」ですが、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』ではこの古墳は画像中央の道路の箇所に登録されています。すでに古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
- 2015/08/14(金) 01:28:47|
- 大田区/その他の古墳・塚
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