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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「堤方権現台古墳」

「堤方権現台古墳」

 画像は、大田区池上1丁目にある「堤方権現台古墳」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号112番の古墳として登録されています。

 この「堤方権現台古墳」は、呑川の左岸南東に張り出す標高約25m前後の舌状台地上にある「不変山永寿院」の敷地内に所在します。古墳は北東に位置する「万両塚」の修復調査と、周辺で確認されていた弥生時代の集落の広がりの確認を目的として行われた調査の際、周溝が検出されたことによりその存在が確認されており、そこで須恵器や埴輪片が発見されたことから2005年から2009年にかけて発掘調査が行われています。調査の結果、円筒埴輪のほか古墳の中心部からは馬具、鉄製直刀、鉄鏃を取り付けた矢が数十本出土しています。特に馬を装飾する馬具に関してはかなり良好な状態で発掘されているようですが、面白いのは、この棺から発見された馬具には欠損部を修復した跡が残されており、これは副 葬品の儀仗的な意味は保ちつつも被葬者が実際に使用した品が埋葬されていると推定されています。これはとても興味深い事例であると思います。

 江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「堤方村」の「熊野社」の項にこの古墳の存在を思わせる記述を見ることが出来ます。


熊野社 除地六畝二十歩、村の北方本門寺境内に続きてあり、此地の鎮守なり、社九尺四面、南向前に鳥居を建つ柱間一間、毎年正月二十八日をもて祭礼をなせり、
村民の持この社の後に小高くして塚の如くなるものあり、権現台と云、何れの頃か塚上の古松大風に吹おられし故、その根をほりしに古刀古器を得たり、されど異日祟りあらんことを畏れて、元の所へ埋めたりと村老の伝へなり、


 同書には、熊野社の位置は堤方村の北方の本門寺の境内に続く場所であり、この社の後ろに古墳が存在していたと書かれていますが、熊野社は明治維新後の神仏分離により正確な跡地はわからなくなっていました。この古墳の存在が確認されたことにより、熊野社は墳丘上かその周辺に存在したのではないかと推定されており、「堤方権現台古墳」は『新編武蔵風土記稿』に記載されている”小高い塚”とほぼ同一のものであると考えられているようです。ちなみにこの古墳の南方、本門寺境内からは「長栄古墳」も発見されていることからかつて古墳群が形成されていた可能性も考えられ、今後周辺から新たな古墳が発見される可能性もあるかもしれません。。。


「堤方権現台古墳」

 古墳は調査の結果、直径約40mの円墳であるとされていますが、周囲が宅地であることから復元された墳丘は約10m程に縮小されています。古墳の周囲に造られた個人墓は、古墳の形状に添うように弧を描いており、この円形の外側が古墳の周溝ということになるようです。古墳の周囲には復元された円筒埴輪が置かれており、説明板が設置されています。

 発掘調査以前の古墳の位置には昭和7年建築の古民家が建てられており、墳丘は削平されていました。『新編武蔵風土記稿』の記述からすると江戸時代にはまだ墳丘は残存していたようですが、この古墳を所有する「不変山 永寿院」の住職さんのお話では、古民家が建てられる以前までは少なくとも痕跡が確認出来る程度には残存していたのではないかということです。ちなみに古墳の位置に建てられていた古民家は「天国に一番近い島」等で知られる小説家の故森村桂さんの邸宅であったそうです!!!


「堤方権現台古墳」

 同じ敷地内には弥生時代の住居跡のレプリカが復元されています。このレプリカは発掘された住居跡を型取り、土の住居跡は砂で埋め戻した上で樹脂モルタルで形成したレプリカを遺跡の元の位置に設置する、「原位置再生」という手法で復元されています。


「堤方権現台古墳」

 「万両塚」横の周溝から検出された埴輪片も再現されています。


「堤方権現台古墳」

 画像が「万両塚」です。この塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」とは、徳川家康と側室お万の方の孫にあたる人で、宝塔内からは、法華経巻子本八巻や火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されているそうです。このお墓を築くために江戸時代に1万両はかかっただろうと言い伝えられていることから「万両塚」と呼ばれているのだそうですが、300年前にこれだけのお墓を造ったとは、さすがは徳川家康!偉大さを感じてしまいますね。
弥生時代の遺跡の上に古墳が築造され、また江戸時代の万両塚が建ち、更には現代のお墓も造られているわけですから、長い歴史の重みを感じます。。。


「堤方権現台古墳」

 本堂には、弥生時代から江戸時代のまでの、発掘調査により出土した遺物がずらりと展示されています。もちろん「堤方権現台古墳」の副葬品である須恵器や埴輪のほか、馬具、鉄製直刀、鉄鏃を取り付けた矢など、多くの出土品が保存、公開されています。特筆すべきは、これまで行われた調査や遺物に関する現地説明会や地元の小学校の見学会も行われているそうです。


「堤方権現台古墳」

 画像は、「堤方権現台古墳」から出土した馬具です(レプリカではなくホンモノです)。東京都内でこれだけ良好な状態で残されている馬具を見ることはなかなかありませんので、貴重な体験です。


「堤方権現台古墳」

 古墳の周囲から出土した円筒埴輪です。中には形象埴輪ではないかと考えられる破片もあるようです。


「堤方権現台古墳」

 当日は、お寺の住職さんに許可をいただいて見学させていただきました。詳しく説明までしていただき、楽しい時間でした。ありがとうございました。

<参考文献>
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
日蓮宗 不変山 永寿院『武蔵 堤方権現台遺跡』
現地説明版


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  1. 2015/09/28(月) 07:52:52|
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「北蒲田古墳」

「北蒲田古墳」

 大田区蒲田2丁目付近に所在したとされるのが「北蒲田古墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号200番の「古墳(円墳)」として登録されています。

 昭和5年にこの周辺を調査した松下胤信氏は『蒲田町附近の原始時代遺跡(武蔵野 第16巻 第6号 30~31ページ)』の中で「前二者の北西方約三百米、北蒲田三七七番地に本墳は、人家の密在した中に占地して居る。今破壊甚しく其大部分を人家の敷地に蠶食されて居るが、墳形は正しく圓形を保ち、頂きに小祠を祀つる。精査の結果、封土中より埴瓮片一個の頂き近き所より小高坏部一個を採出した。前者は黄褐色、後者は赤褐色、兩者とも製作頗る脆弱である。」と、当時まだ存在していた「北蒲田古墳」のようすと遺物について記述しています。
 その後、昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』ではこの古墳について「湮滅」とされていますので、この間に開発により宅地化されて消滅したようです。

 画像が、「北蒲田古墳」が所在したとされる蒲田2丁目付近です。道路から少し奥に入ったあたりが古墳の跡地ではないかと思われますが、痕跡は何も残されていないようすで、所在地はわからなくなっているようです。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
松下胤信「蒲田町附近の原始時代遺跡」『武蔵野 第16巻 第6号』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』


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  1. 2015/09/26(土) 23:31:51|
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「薭田神社境内古墳」

「薭田神社境内古墳」

 画像は、大田区蒲田3丁目にある「薭田神社」を東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、この神社の境内に大田区の遺跡番号97番にあたる「薭田神社境内古墳」という名称の古墳(円墳)が登録されています。

 「薭田神社」は、『延喜式』の神明帳に記載される武蔵国荏原郡の古社二座のうちの一座といわれている神社です。この神社の境内には小円墳が所在したといわれており、境内からは埴瓮の破片が出土したという戦前の報告が残されています。
 大田区教育委員会により敷地内に設置されている説明板には次のように書かれています。


  大田区文化財
      薭田神社
 式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社であ
る。平安時代(十世紀)に編纂された『延喜
式』の神明帳に記載され、また『三代実録』
に貞観六年(八六四)「武蔵国従五位下蒲田
神を以て並びに官社に列す」とあるのが、こ
の神社であろうといわれる。
 社伝によれば、和銅二年(七〇九)僧行基
が天照、八幡、春日の三神体を刻んで安置し、
鎌倉時代(十三世紀後半)に日蓮が村民の請
いをいれて開眼したと伝えられる。江戸時代
(十七~十九世紀後半)には隣接の栄林寺が
別当であったが、明治初年(十九世紀後半)
の神仏分離により独立し、旧社格は郷社に定
められた。
  昭和四十九年二月二日指定
            大田区教育委員会


 江戸時代の地誌『江戸名所図会』には、この薭田神社の境内に塚状のマウンドが描かれており、古墳の存在が想定されています。その後、大正時代にこの神社の敷地内を調査した大場磐雄氏は『武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡(歴史地理第47巻 第4号 67ページ)』の中で「余の調査によれば、本社境内に於て埴瓮の破片十一個を得たり。その中底部破片二個、口縁部破片一個、他は胴部破片にして、多くは赤褐色なれど二個の黒褐色刷毛目を有するやや古き埴生式に類するものあり。」と、出土した遺物について伝えており、また昭和5年にこの神社の敷地内を調査した松下胤信氏は『蒲田町附近の原始時代遺跡(武蔵野 第16巻 第6号 29~30ページ)』の中で「遺物の出土する地は、主として拝殿前方に當る生垣を以つて廻らされた地である。今採拾された埴瓮は三十數片存するが、大體無文黄赤褐色黒灰褐色燒成軟性を帶び、少數ながら刷毛目を施文してある。」と、遺物の出土した場所についても記しています。


「薭田神社境内古墳」

 画像は薭田神社境内のようすです。古墳は残念ながら完全に消滅しており、痕跡を見つけることは出来ません。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
松下胤信「蒲田町附近の原始時代遺跡」『武蔵野 第16巻 第6号』
学生社『大田区史跡散歩』
現地説明版


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  1. 2015/09/25(金) 00:18:16|
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「蒲田八幡神社境内古墳」

「蒲田八幡神社境内古墳」

 画像は、大田区蒲田4丁目にある「蒲田八幡神社」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、この神社の境内に大田区の遺跡番号98番にあたる「蒲田八幡神社境内古墳」という名称の古墳(円墳)が登録されています。

 旧蒲田新宿村の村社で、旧別当は妙安寺、祭神は誉田別命であるこの「蒲田八幡神社」は、かつて敷地内に古墳が存在したという伝承が残されており、境内に立てられている「蒲田八幡神社由緒」にも記述を見ることができます。


蒲田八幡神社由緒
祭神 譽田別命
例祭 八月八日
抑當社は、宇佐八幡宮を勸請せる由緒深き神社にし
て、其の年暦を傳へざるも更に古社なることは、境
内小圓墳傳説等史實の明示するところなり。
案ずるに、當地旣に新石器時代より住民の生活する
ところとなり、縄文式文化とともに原始信仰の發祥
をきたし、農耕の興りし彌生式文化時代を經て、
齋場の形作られし聖地なり。
慶長年間、新宿分村に際し、行基作の神體三座の
中春日の像一體を薭田神社より分ち、鎮守神體
とせしに神霊あらたかなりしと傳ふ。
明治維新となり、神佛分離により春日の像を別當
妙安寺に安置す。     昭和二十年四月十五日
戰災に遭遇せるも忽ち再建の氣運勃興せり。
戰後、復興し行く蒲田の中心なるを以て、昭和二十
四年八月新宿八幡神社を改め蒲田八幡神社と稱へ、
氏子祟敬者の奉賛に依り昭和三十三年八月八日御社
殿復興遷宮祭を執行す。
 昭和三十九年八月八日
              宮司 上野喜信


 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「古塚 社地に入て右の方にあり、塚上に老松四根ありて、廻りに注連をはり置けり、土人に問に昔何者かが神霊あるものを埋めし印の塚なりといひ伝へて、塚の辺を蘆毛の馬に乗て過るときは、必落馬すといへども其故をしらずといへり、隣村北蒲田栄林寺の言伝へによれば、彼村八幡宮神体三座の中、春日の像一軀を分ちここに移して当村の鎮守とせしに、神霊あらたにして、土人の信仰なきものにはまま祟りありしにより、恐れて此地に埋みしといふ、此説うけがたけれども、しばらくしるせしなり。」とあり、この塚の言い伝えについて記されています。また、『江戸名所図会』にはこの薭田神社の境内に塚状のマウンドが描かれています。
 大場磐雄氏は『武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡(歴史地理 第47巻 第4号)』の中で「境内社殿に向つて右手に小祠を安置する丘壟あり。(中略)今は高さ一間余の小圓墳なり。勿論何等の遺物を發見せず。ただこの所説に若干の價値を認むるのみ。葦毛の馬に關する研究は、柳田國男氏の甞て研究せらるるあり。民屬學上には一資料を供すべきも、余はただこれが諸國に共通する古墳に對する Jaboo(禁忌)の一現象として解しおかむ。」と記述しており、古墳の存在が想定されています。
 確かに、古墳や塚を守る為に後世に作られた禁忌(タブー)の言い伝えは多く存在するようですが、それにしても葦毛の馬でここを通ると必ず落馬するというのは興味深い事例です。


「蒲田八幡神社境内古墳」

 鳥居をくぐって右側には神輿庫が建てられています。『新編武蔵風土記稿』にある「社地に入て右の方にあり」という記述からすると、この神輿庫のあたりが古墳の跡地とも考えられますが、古墳の痕跡を見ることはできません。


「蒲田八幡神社境内古墳」

 画像は、蒲田八幡神社境内にある「天祖神社」を南から見たところです。大場磐雄氏の「境内社殿に向つて右手に小祠を安置する丘壟あり」という記述からすると、古墳が存在したのはこの天祖神社のあたりである可能性が高いように思いますが、祠の場所にマウンドを見ることは出来ません。

<参考文献>
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
関俊彦「大田区の遺跡―吞川のほとりに住みし人たち―」『史誌 第10号』
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  1. 2015/09/24(木) 00:20:15|
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「長栄古墳」

「長栄古墳」

 東京都大田区池上1丁目1番地1号に所在するのが「池上本門寺」です。このお寺は呑川の左岸南東に張り出す標高約25m前後の舌状台地上に所在しており、この台地上には縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡が存在しています。大田区内には、「田園調布古墳群」や「鵜の木・久が原古墳群」等、多摩川左岸の河岸段丘上に多くの古墳が分布しており、さらに下流の沖積低地にも多くの古墳を含む遺跡が分布していますが、少し離れたこの本門寺丘陵上からも2基の古墳が確認されています。

 画像は、池上本門寺境内の南東に存在する五重塔を南から見たところです。この五重塔の北東側の墓所から発見されたのが「長栄古墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号234番の古墳として登録されている遺跡です。


「長栄古墳」

 「長栄古墳」は、平成13年度に行われた清高院及び高正院殿墓所の調査の際に古墳の周溝が確認され、掘削に伴って須恵器が検出されています。画像は古墳の跡地を西から見たところですが、左側の墓所の地点から周溝が検出されており、中央の通路から右側の墓地のあたりにかけてが古墳の跡地となるようです。


力道山の墓

 池上本門寺にはあの「力道山の墓」があります。力道山が活躍したのは昭和30年代ですから私はタイムリーに見たことがないのですが、当時は日本中を熱狂させてプロレスブームを生み出した伝説のプロレスラーです。境内には「力道山の墓所はあちらです」と立て札がたくさん立っていて、すぐに見つけることが出来ます。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
日蓮宗大本山 池上本門寺『近世大名家墓所の調査』


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  1. 2015/09/21(月) 23:45:55|
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「夢告観音塚」

「夢告観音塚」

 大田区西馬込2丁目付近に所在したとされるのが「夢告観音塚」です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、地元の郷土史には塚の伝承が残されています。

 画像は、現在の「夢告観音塚」です。都営浅草線西馬込駅を下車、第二京浜の「西馬込」交差点から路地を東に入った、西馬込5丁目30番のマンションの一角に所在します。お堂が建てられた中に観音像が祀られており、このお堂の内部にはこの夢告観音の由来について次のように書かれていました。


夢告觀音由来
馬込(馬篭)牛洗戸(西一丁目)北向稲荷辺から塚越
(西二丁目)に至る中間に河原栄蔵氏の所有地に昔
無名塚があった。村人それを觀音塚と呼んだ然し
今は跡方も認められない程変わって道路となって
しまった。更に附近……………奉納されていた、
(将監谷)現在の…………田小学校辺に居住した
岡田将翠なる………………………元禄時代の作と
言はれ、此の…………………れていたが明治年間
取り締まって来た河原氏堂に流客すると
一夜河原源蔵氏の……………に立ち元の処へ位置
せよと告げ…………………………………………の
だと、然し。今………………………………………
れて此処に?…………………其の者………………
の信者二十八人が……………………………………
したらしく、その……………………………………
此の堂宇の南一丁程先に古井戸がある俗に
将軍鷹狩の際諸国の餅当の水に………………する
ので村民等が計って掘ったものと伝えられてゐる
又、西二丁目の合同トラック前徳川時代に村民
幕命を布達掲示する高札場の跡も森市郎
氏宅地つ…………に備いて米穀を貯蔵する………
御倉の坂があった。
 馬込西二丁目町会有志編之
          編之集補佐 小林草路



「夢告観音塚」

 この説明文には欠落があるために詳細がわかり難いのですが、昭和14年(1939)に発行された『大森區史』にはこの塚についての記述があり、「西一丁目から塚越に至る中間に昔無名塚があつた。村人はそれを觀音塚と呼んだ。然し現在は跡方も認められない程變つて道路となつてしまった。更に附近に石の觀音像が奉安されてゐる。(將監谷に居住した岡田將監なる行者の建立といふ)元祿前後の作でもあらうか、古いこの石像は塚上に置かれてゐたが、明治年間取り拂つて河原氏一門の墓地へ收容すると、一夜河原源六氏の夢枕に立ち、元の處に安置せよと告げたので、村民畏怖して現在の地に移したものだと。然し今は道路に當つたので、十數間北東に寄せられて嚴かに祀られてゐる。」と書かれています。


「夢告観音塚」

 同書によると、「西一丁目から塚越に至中間」に観音像が祀られていたという「観音塚」と呼ばれる塚が存在したとしています。恐らくは、「興正山善照寺」や「出世稲荷神社(北向稲荷)」の所在する台地上から第二京浜に向かう周辺あたりが怪しいのではないかと考えましたが、ピンポイントで跡地を特定するには至らず、塚の痕跡を見つけることは出来ませんでした。大田区教育委員会より発行された『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』ではこの塚の跡地を「西馬込2丁目1番の南側」と推定しており、画像はその西馬込2丁目1番を南から見たところです。

 塚の推定地や、転々と移転を繰り返すことになる観音像の安置場所については、『馬込と大田区の歴史を保存する会』ホームページ上にてかなり深い考察の上で推定場所が特定されています。私もこの馬込周辺地域を探訪するにあたってかなり参考にしましたが、詳しく知りたい方には一見の価値ありです。是非見てみると良いと思います。

『馬込と大田区の歴史を保存する会 ホームページ』
http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_yumetuge.html

<参考文献>
東京市大森區役所『大森區史』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
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  1. 2015/09/20(日) 22:12:48|
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「1ツ目小僧山(金山小僧山)」

「1ツ目小僧山(金山小僧山)」

 大田区西馬込2丁目付近に所在したとされるのが「1ツ目小僧山(金山小僧山)」です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、地元の郷土史に塚の伝承が残されているようです。

 この塚の名称にある「一ツ目小僧」とはいったい何なのか気になるところですが、『大田区史(資料編)民俗』にこの馬込地域の古老の伝承として次のような言い伝えが記載されています。

【一つ目小僧】曾祖父さんは桶屋だったが、あるとき、仕事の帰りに道具を担いで歩いてくると、八景坂の辺で人に出あった。見ると一つ目小僧なので、もうびっくりして、とっととっと走って行くと、すぐ先を人が歩いている。「出た、出たっ」と、いま見た一つ目小僧のことを話したら「こんなふうだったか」って、顔をヌウーと出した。その顔が、さっきの一つ目小僧だったので、目をまわしてしまったという。一つ目小僧というのは、狸かムジナが化けたものだそうだ。」

 私が子供の頃にはこういった「怖い話」をよく聞いたものですが、最近は余り聞かなくなったような気がするのは時代でしょうか。怖いというよりはなぜか懐かしい気持ちになるお話です。
 この「一つ目小僧」の伝承は明治34年生まれの馬込の古老により語られたものですが、本文中にある「八景坂」とはJR大森駅山王口前の池上通り付近の坂のことで、「1ツ目小僧山」が所在したとされる西馬込からはかなり離れた場所であり、塚の名称とは関係がないようにも思いますが、昭和14年(1939)に発行された『大森區史』にはこの塚について「塚越の閻魔堂の裏に、一つ目小僧山といふ俗稱が殘つてゐるが圓墳の跡であらうと。昔幸藏といふ人の所有地であつたので村民が揶揄して幸藏と小僧、さうして一つ目が冠されたに過ぎない。今はその塚上に小祠が置かれてゐる。尚境内には財物を藏すと傳へられてゐる。」とあり、「幸蔵」という土地の所有者の名前が「小僧」へと変わり、そこに「一つ目」が冠されたのではないかと推測しています。

 「1ツ目小僧山」は、西馬込2丁目の「閻魔堂」の裏手に所在したといわれていますが、塚はすでに消滅して跡地は墓地となっており、その姿を見ることは出来ません。この墓地には、この周辺地域の開発により破壊された横穴墓の霊を祀る「無縁霊位」と「由緒」の石碑が立てられており、古墳に縁の深い場所でもありますが、この「1ツ目小僧山」がどういう性格の塚であったのかについてはわからず、『大田区の文化財第30集』では鍛冶神に関係のある戦国時代の塚ではないかと推定していますが、真相はわかりません。。。

<参考文献>
東京市大森區役所『大森區史』
東京都大田区『大田区史(資料編)民俗』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』


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  1. 2015/09/17(木) 03:14:53|
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「塚越横穴墓群」

「塚越横穴墓群」

 大田区の西馬込周辺では、大正末から昭和初期にかけて都市化に伴う耕地整理や私鉄の建設工事が進むと共に、横穴墓の発見例が急増しました。しかし、これに伴って多くの遺跡が破壊されたものと推測されています。特に昭和11年(1936)以降、東京オリンピック開催のための第二京浜国道建設(昭和15年に東京で開催される予定だったが、日華事変のため中止。幻の東京オリンピックと言われている)による工事は、丘陵のいくつかが完全に消滅してしまう程の凄まじい破壊を伴う工事だったそうで、横穴墓等の遺跡の発見イコール即破壊という歴史であったといわれています。

 都営浅草線西馬込駅近く第二京浜国道から少し入った大田区西馬込2丁目の「閻魔堂」の裏手の墓地には「無縁霊位」という石碑が立てられており、この石碑には「耕地整理工事発掘・昭和九年四月」と刻まれています。画像はその無縁霊位を西から見たところです。


「塚越横穴墓群」

 「無縁霊位」と同じ墓地内には「由緒」の石碑が立てられており、この石碑には「當靈域ニ埋葬セル百八十有餘ノ精靈ハ昭和九年四月馬込第三耕地整理組合道路工事並ニ昭和十一年十月内務省起工東京新京濱國道開鑿中発掘セラレタルモノニテ今ヲ去ル千三百年以前ノ横穴式古墳ナリ茲ニ有志相謀リ英魂ヲ慰メンタメニ無縁塔ヲ建設ス 昭和十五年九月」と刻まれています。ちなみに『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』によると、この地域にある「塚越横穴墓群」からこれまでに37基の横穴が発見され、142~3体程の人骨が発掘されているそうですから、「180人有余の精霊……」との記述からいかに多くの横穴が破壊されていったかを伺い知ることが出来ます。

 画像はその「由緒」の石碑を東から見たところです。これらの横穴墓の破壊は残念なことですが、今後の遺跡の保存や活用に繋がっていけば良いなと思います。

<参考文献>
大田区史編さん室「古墳関連碑文考」『史誌 第28号』
大田区史編さん委員会『大田の史話 その2』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』


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  1. 2015/09/15(火) 09:45:13|
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「馬込仲井遺跡」

「馬込仲井遺跡」

 大田区南馬込4丁目に所在したとされているのが「馬込仲井遺跡」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号147番の”平安時代の墳墓”として登録されています。

 この塚については発掘調査が行われていないために調査報告書等は刊行されていないものの、『東京都遺跡地図』では蔵骨器が出土しているとあり、”平安時代の墳墓”であるとされています。画像の左側あたりが塚の跡地であると思われますが、塚の痕跡は何も残されていないようです。

 馬込の台地上には多くの塚が存在したようですが、かつて古墳ではないかとも考えられていた「三本松塚」は調査の結果、中世の塚であると推定されており、また経塚か庚申塚ではないかとも考えられている「梶原塚」やカワラケのかけらと桐の箱の腐ったものがでてきたという「稲荷塚」のほか、鐘を埋めた塚であるという伝承のある「鐘塚」や源頼朝乗用の名馬磨墨を葬ったといわれる「磨墨塚」等、ほとんどが中世以降の塚であると考えられいるようです。果たしてこの馬込の台地上には古墳は存在しなかったのでしょうか。。。

<参考文献>
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2015/09/13(日) 03:59:27|
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「馬込北久保遺跡(鐘塚)」

「馬込北久保遺跡(鐘塚)」

 画像は、大田区南馬込1丁目にある「万福寺」を南から見たところです。この万福寺の墓地の北側、現在の大田区南馬込1丁目41~50番あたりに所在したといわれているのが「馬込鐘塚」です。『東京都遺跡地図』には「馬込北久保遺跡」という名称で、大田区の遺跡番号141番の 平安時代の墳墓”として登録されています。

 東京都大田区より発行された『大田区史(資料編)民俗』ではこの「鐘塚」について「鐘を埋めた塚」とあり、また昭和14年(1939)に東京市大森區役所より発行された『大森區史』にはこの塚の所在地について「たちうど 馬込町西一丁目森氏代々の居所を『たちうど』と稱してゐたが、その昔將軍家鷹狩の折にはこの地に見張人を立たしたことから起つたと。」、「鐘塚 ここ西一丁目右『たちうど』の附近から小徑を塚越に行く道があり、左方の墓地附近を俗に鐘越と稱してゐる。往古萬福寺の梵鐘を鑄造した場所である處からこの俗稱が起つた。」と書かれています。

 これまでも何度か取り上げた「万福寺」の墓地の北側が塚の跡地であるといわれており、画像の左側あたりがこの場所にあたるのですが、残念ながら塚の痕跡を見ることは出来ません。『大森區史』には「万福寺の梵鐘を鑄造した場所である」とあり、その万福寺は1320年頃に現在地に移転していることからそれ以降に築造された塚であるとも考えられますが、真相はわかりません。

<参考文献>
東京市大森區役所『大森區史』
東京都大田区『大田区史(資料編)民俗』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』


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  1. 2015/09/12(土) 01:58:35|
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