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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「下石原1号古墳」+「下石原2号古墳」

「下石原1号古墳」+「下石原2号古墳」

「下石原遺跡」は、多摩川中流域左岸の立川段丘面、府中崖線上に所在する遺跡です。調布市の西南域、調布市下石原3丁目に所在するこの遺跡の舌状台地の先端部から発見されているのが「下石原1号古墳」と「同2号古墳」の2基の古墳です。『東京都遺跡地図』には「下石原1号古墳」が52-1番、「下石原2号古墳」が52-2番の古墳として登録されています。

 画像が、2基の古墳が検出された「下石原遺跡第3地点」を南から見たところです。どちらも周溝は検出されず、主体部と考えられる石室の床部分が確認されたのみで、古墳の規模はわからないようです。石室の周辺には小礫が多く散乱していたことから、この小礫が構築する河原石積の石室であったと推定されています。出土品等が存在しないため築造年代はわからないようですが、石室の形態から後期古墳である可能性が高いようです。
 
 現在この場所は調布市の「地域福祉センター」となっており、古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
調布市教育委員会・調布市遺跡調査会『調布市下石原遺跡』1987


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  1. 2015/11/24(火) 01:12:21|
  2. 調布市/下石原古墳群
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「下石原3号墳」

「下石原3号墳」

 調布市内の古墳の多くは多摩川左岸、立川段丘の崖線上に存在しており、主に5世紀前半から7世紀にかけて築造された円墳により、古墳が密集する群集墳として形成されています。これらの古墳群は遺跡名から名称が付けられており、東から国領南古墳群、下布田古墳群、上布田古墳群、下石原古墳群、飛田給古墳群と呼称されています。このうち、国領南古墳群から下布田古墳群、上布田古墳群までは古墳は連続して存在しており、また飛田給古墳群も府中市の白糸台古墳群まで連続性が見られるものの、この中間に位置する下石原古墳群は古墳群の連続性が途切れるかのように、確認された古墳が非常に少ない地域です。

 「下石原3号墳」は、すでに消滅して墳丘が存在しない古墳です。『東京都遺跡地図』にはなぜかこの古墳は登録されていないようです。画像の、調布市下石原3丁目の「調布市下石原集会所」のあたりが古墳の跡地で、平成13年(2001)の発掘調査により周溝とブリッジ部が検出されています。
 下石原古墳群は、それまでの分布調査や聞き取り調査により古墳の存在が全く予測されていなかった地域ですが、昭和60年(1985)に埋葬施設が検出された「下石原1号墳」と「同2号墳」の2基の古墳に続き、この「3号墳」が発見されたことにより、下石原古墳群が上布田古墳群や飛田給古墳群と離れて存在していたのではなく、連続性を持って古墳群が形成されていた可能性も考えられているようです。


調布市 未登録 下石原3号墳 2

 画像の坂道を登り切ったあたりが下石原3号墳の跡地です。この古墳が立川段丘の崖線上の縁辺部に所在したようすがわかります。今後の調査により、新たな古墳が発見される日も近いかもしれませんね。。。

<参考文献>
調布市遺跡調査会『下石原遺跡』2003


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  1. 2015/11/22(日) 23:00:23|
  2. 調布市/下石原古墳群
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「光明寺荒塚古墳1号墳」

光明寺荒塚古墳1号墳

 大田区鵜の木1丁目、光明寺本堂右手に残る上墓(ウワンバカ)地区に残存するのが「光明寺荒塚古墳1号墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号90-2番に登録されている古墳です。

 この周辺地域には、新田義興の墳墓であるとされる「新田義興塚」、義興公とともに矢口の渡しで討死した従者が祀られているとされる「十騎明神塚」や「妙蓮塚」、義興公を荼毘にふした灰で築いたとの伝承がある「灰塚」のほか、「大桜大塚」や「女塚古墳」など、新田義興公にまつわる伝説に関係する古墳や塚が数多く残されており、これまでにも紹介してきましたが、この古墳と、古墳の所在する光明寺にも新田義興伝説が残されています。
 このお寺の敷地内にある「光明寺池」は昔の多摩川の名残で、新田義興が死んだのは矢口とこの池のあたりであるといわれており、また新田義興が切腹したときにほうり投げた内蔵が引っかかったのが光明寺の一番高い木で、そこにはよく雷が落ちるのだともいわれています。また、学生社より発行された『大田区史跡散歩』には、光明寺にある「十一面観世音菩薩立像(雷留観音)」について、「新田義興が謀殺された後の延文4年(1359)頃、その怨霊の雷火がしばしば起こり、人びとをおびやかしたので、鵜ノ木村の浄心という者がこの観音に”かみなりどめ”の祈願をしたところ、それ以来おさまったので、世に雷留観音とよぶようになったとも伝える。また、この観音が安置されていたお堂が、義興の怨霊に追われて江戸遠江守が逃げこんだ辻堂であるとする伝説もある。」とも書かれています。
 また、「荒塚」と呼ばれる古墳にも新田義興にまつわる伝説があり、義興公を謀殺した江戸遠江守は義興にたたられて雷にうたれ落馬、もがき苦しんだ末に死んだとされていますが、その江戸遠江守や、義興をあざむいた竹沢右京亮の墓がこの塚であるという説や、江戸氏一族の墳墓であるという説も残されているようです。

 画像は「光明寺荒塚古墳1号墳」を東から見たところです。この古墳は、平成5年2月から翌6年8月にかけて都道環状8号線の建設工事に関連した発掘調査により古墳であることが確認されています。規模は直径23.4m、高さ4mの円墳で、墳丘に円筒埴輪が並べられていたと考えられています。


「光明寺荒塚古墳1号墳」

 画像は、「光明寺荒塚古墳1号墳」の墳頂部のようすです。石碑が建てられています。

 私が上京したころの環八はこの光明寺の一帯のみが未開通で、横っちょの細い道を迂回したものですが、まさか当時発掘調査が行われていて、保存された古墳を見学に来ることになるとは思いもしませんでした。これも時の流れですね。  当日は、お寺の方に声をかけて見学と撮影の許可をいただけました。ありがとうございました。。。

<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
東京都大田区「鵜の木光明寺の発掘調査」『大田区史研究 史誌』
環8光明寺地区遺跡調査会『環8光明寺地区遺跡調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2015/11/18(水) 01:59:29|
  2. 大田区/鵜の木・久が原古墳群
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「光明寺荒塚古墳2号墳」

「光明寺荒塚古墳2号墳」

 画像は大田区鵜の木1丁目、光明寺境内上墓(ウワンバカ)地区の「光明寺荒塚古墳2号墳」跡地を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号90-3番に登録されている古墳です。

 この光明寺の墓地からは古くから大量の板碑が発見されており、中世の遺跡の存在が想定されていたそうです。平成5年2月から翌6年8月にかけて行われた都道環状8号線の建設工事に関連した調査により、旧石器時代の生活跡、縄文時代の遺物の出土、弥生時代の方形周溝墓の発見に加えて、「荒塚」が古墳として確認され、またその後の近世にわたる火葬墓や集石墓も大量に発見されており、現代までの2千年にわたる日本の墓制をたどる貴重な遺跡であることがわかっています。

 「光明寺荒塚古墳2号墳」は墳丘はすでに消滅していましたが、発掘調査により「1号墳」の西側から周溝が検出され、直径16.5mの円墳であったことがわかっています。画像の左側に見えるのが「荒塚(光明寺荒塚古墳1号墳)」で、その右奥あたりが2号墳の跡地にあたるようですが、古墳の痕跡は何も残されていないようです。

 文化6年(1809)にこの地を訪れた大田南畝が境内に散乱していた板碑を整理した際、銘文の読めない断碑を一括して塚を築き、そこに埋めて記念碑を建てたと『調布日記』に記されているそうですが、この塚の場所はわからなくなっており、ほかにこの上墓地区には「上人塚」と呼ばれる地点があり、そこからは板碑片のほか火葬墓2か所と埋設された蔵骨器一か所が発見されています。ひょっとしてこの周辺には他にも多くの古墳があり、後世に塚として再利用されていたものも存在するのかもしれませんね。

<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区「鵜の木光明寺の発掘調査」『大田区史研究 史誌』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2015/11/17(火) 01:16:56|
  2. 大田区/鵜の木・久が原古墳群
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「弁天山」

「弁天山」

 画像は、大田区鵜の木1丁目の光明寺境内に所在する「弁天山」を南東から見たところです。

 この「弁天山」は、光明寺の山門を入ってすぐの参道の左側にひっそりと存在します。同じ敷地内には「荒塚古墳1号墳」が残存しており、また近年の発掘調査により「荒塚2号墳」の存在も確認されていることからこの弁天山が古墳である可能性も充分に考えられると思われますが、発掘調査等は行われていないようなので、埋葬施設や出土品等についてなどの詳細はまったくわかりません。調査が行われた「荒塚古墳」に関する発掘調査報告書等の資料にもこの弁天山に関する記述はほとんどなく、『東京都遺跡地図』にも登録されていないという不思議な存在です。


「弁天山」

 画像のように墳頂部には弁天様が祀られており、塚は「弁天山」と呼ばれているそうです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「弁天社 中門を入て左にあり…」と弁天社についての記述が見られるものの、塚の上に祀られていたのかどうかは特に記されていません。この塚が古墳であるならばその名称は「弁天山古墳」、もしくは「荒塚3号墳」といったところかと思われますが、鵜の木の古墳群が存在する舌状台地の先端に位置するこの「弁天山」が古墳であるかどうか、真相はわかりませんでした。。。

<参考文献>
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』


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  1. 2015/11/14(土) 22:40:01|
  2. 大田区/鵜の木・久が原古墳群
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「府中愛宕山古墳(舟塚山古墳群第6号墳)」茨城県指定史跡

「府中愛宕山古墳(舟塚山古墳群第6号墳)」茨城県指定史跡

 「府中愛宕山古墳」は、茨城県石岡市北根本に所在する、茨城県の史跡に指定されている前方後円墳です。画像はこの府中愛宕山古墳を西から見たところです。

 この古墳について、現地に立てられている説明板には次のように書かれています。

 県指定史跡 府中愛宕山古墳
         所 在 地 石岡市北根本六九四番地外
         指定年月日 昭和四十六年十二月二日

 府中愛宕山古墳は、舟塚山古墳の北東約300メートルに
位置する前方後円墳である。霞ヶ浦に舟を乗り出す形なので
出舟といわれ、舟塚山古墳は入舟と呼ばれる。明治三十年東
京大学の坪井正五郎が発掘調査し、無文素焼の壺七個を発見
したといわれる。
 昭和五十四年の周溝確認発掘調査により、全長九六・六メ
ートル、後円部径五七メートル、前方部幅五七メートル、後
円部高八・五メートル、前方部高七・五メートルの規模を持
つことが明らかにされた。その墳形は応神天皇陵(大阪府)に
類似している。かつて、墳丘から形象埴輪が出土したといわ
れるが、詳細については不明である。
 この古墳は、舟塚山古墳群の中でも規模が大きく、築造年
代は、六世紀初め頃に位置づけられる。
          平成二十六年三月 石岡市教育委員会



「府中愛宕山古墳(舟塚山古墳群第6号墳)」茨城県指定史跡

 後円部周辺のようすです。周溝の形状に沿うようにあぜ道がカーブしています。


「府中愛宕山古墳(舟塚山古墳群第6号墳)」茨城県指定史跡

 前方部から後円部を見たところ。「舟塚山古墳」を見学した後にこの古墳を見学すると小さく感じてしまいますが、全長96.6メートルと決して小さくない古墳です。


茨城県 府中愛宕山古墳 4

 後円部から前方部を見たところです。前方部の南西側が削られているようすが確認できます。

 この日は暗くなってきてしまったのでこの古墳で探訪は終了。他にもいくつか見学した古墳はあるのですが、それは後ほどということにして、次回からはまた本編である東京編に戻ります。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2015/11/12(木) 00:07:40|
  2. 茨城県の古墳
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「舟塚山古墳(舟塚山古墳群16号墳)」国指定史跡

「舟塚山古墳」

 「舟塚山古墳」は、茨城県石岡市北根本に所在する前方後円墳です。茨城県内で最大、東日本でも2番目の規模を誇るこの古墳は、墳丘の長さが186m、前方部幅100m、後円部径90m、前方部高10m、後円部高11mという巨大前方後円墳です。この地域の大豪族の墳墓と考えられており、昭和47年の周溝確認発掘調査で円筒埴輪が出土していることから、5世紀前半に築造された古墳であると推定されています。

 前回紹介した「虎塚古墳」の彩色壁画を見学した後、どうしても見学したくて車を飛ばして訪れた古墳ですが、印象はとにかくデカイ!まるで畑の中にぽっかりと戦艦が浮かんでいるような感じで、「舟塚山古墳」の名称も納得です。


「舟塚山古墳」

 画像は北西から見たところです。右手前が前方部、左奥が後円部です。
 東日本最大とされる群馬県太田市の「天神山古墳」は墳丘一面を木が覆っていて形状が把握し難い印象でしたが、この「舟塚山古墳」は見通しが良く、墳丘全体を観察することが出来ます。また、「天神山古墳」の表面には葺石がゴロゴロと転がっていて、埴輪片も観察できた記憶があるのですが、この「舟塚山古墳」には葺石は存在しないようです。


「舟塚山古墳」

 後円部から前方部を見るとこんな感じ。
 芝生が植えられて整備されており、三段に構築された墳丘の形状がはっきり見て取れます。


「舟塚山古墳」

 前方部から後円部を見たところ。後円部径よりも前方部が長いことは仁徳仁徳天皇陵(大仙陵古墳)などに共通する特徴であるそうです。


「舟塚山古墳」

 後円部西側に建立されている鹿島神社です。この神社の造営のために墳丘西側がが削平されています。


「舟塚山古墳」

 現地説明版に掲載されていた舟塚山古墳の空中写真です。やっぱりデカイ!という印象ですね。舟塚山古墳の陪墳と見られる付近の円墳からは木棺が発見され、短甲、直刀、盾などの副葬品が出土しているそうです。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2015/11/10(火) 02:47:45|
  2. 茨城県の古墳
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「十五郎穴横穴墓群」

「十五郎穴横穴墓群」

 那珂川の支流、本郷川左岸の崖面に幅1.5kmにわたって築かれているのが「十五郎穴横穴墓群」です。その存在はすでに江戸時代から知られており、文化4年(18,7)に刊行された地誌『水府志料』などにも紹介されているそうです。
 昭和51年から55年にかけて行われた発掘調査では115基の横穴が検出されましたが、残念ながらそのほとんどは盗掘を受けていたそうです。未発掘のものも含めると、その広がりから判断して300基を超えるものと考えられています。
 画像は「指渋支群」を南東から見たところです。発掘調査が実施されている場所はテントにより被覆して保護されているとのことですが、かなり劣化して横穴が露出しています。。。


「十五郎穴横穴墓群」

 画像は「館出支群」を南東から見たところです。この場所には、茨城県教育委員会とひたちなか市教育委員会による標柱と説明板が設置されています。説明板には次のように書かれています。

茨城県指定史跡 十五郎穴
            指定年月日  昭和十五年三月十一日
            所 在 地  ひたちなか市中根三四九〇−イ
            所 有 者  西野茂行

 十五郎穴横穴墓群は奈良時代(今から千二•三百年前)に作られたお墓です。
十五郎穴横穴墓群のように台地の崖の所に横から穴を掘り、つくられているも
のを横穴墓といい、群集していることが多くあります。
 横穴墓は玄室・玄門・羨道・前庭部などから構成されており、古墳の横穴式
石室と類似した構造になっています。
 十五郎穴横穴墓群は、館出・指渋地区などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれ
て分布していますが、このうち館出に群集している三十四基が茨城県の史跡に
指定されています。横穴墓からは須恵器・直刀・装飾品など多くの副葬品が出
土しています。
 虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖では、約百二十基が発掘調査で確認
されています。十五郎穴横穴墓群全体では数百基の横穴墓が存在していると考
えられ、わが国を代表する貴重な史跡です。
 十五郎穴の名称の由来は、この地に十郎、五郎なる人物が住んでいたという
伝承から生まれたということです。
    平成十七年三月
                         茨城県教育委員会
                      ひたちなか市教育委員会


 この「館出支群」の崖の直上には「虎塚古墳群第2号墳」のマウンドが残存しています。この古墳には埋葬施設が存在せず、墳丘や周溝の形状や立地から、十五郎穴横穴墓群「館出支群の象徴としての墳丘」ではないかと考えられているそうです。

<参考文献>
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター『ひたちなか埋文だより 第33号』


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  1. 2015/11/09(月) 01:38:20|
  2. 茨城県の古墳
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「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 「虎塚古墳群」は、茨城県ひたちなか市の東中根台地の縁辺部に存在しています。「虎塚古墳(第1号墳)」を盟主墳として、現在は第6号墳までが確認されているようですが、本来の古墳群の構成数については明確には把握されていないようです。画像は虎塚古墳群第1号墳である「虎塚古墳」を西から見たところです。石碑の奥に見えるのが虎塚古墳で、左手前が前方部、右奥が後円部です。埴輪や葺石は存在せず、前方部墳頂からは須恵器の大甕の破片が出土しているそうです。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 「第2号墳」は、「十五郎穴横穴墓群」の館出支群が存在する崖面の直上の台地の縁辺に残存します。この古墳は平成19年(2007)に調査が行われており、規模は南北約15.5m、東西約14m、高さ1.6mで、周溝が検出されています。埋葬施設がまったく存在せず、墳丘や周溝の形状や立地から、この第2号墳は「館出支群の象徴としての墳丘」ではないかと考えられているようです。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 画像は「第3号墳」です。墳形は方墳で、埋葬施設は凝灰岩の切石を用いて構築した横穴式石室であるそうです。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 「第4号墳」は畑地の中に石室のみが残存しています。昭和61年(1986)から翌年にかけて調査が行われており、一片約22mの方墳であることがわかっています。埋葬施設は半地下式の単室構造の横穴式石室で、奥壁、左右側壁、天井石、床石すべてが一枚石で箱形に構築されています。玄門部は、一枚石の板石の中央が幅50cm、長さ1mに刳り抜かれているそうですが、石室は土砂に埋まって確認出来ませんでした。
 近所で農作業をしていたおばあちゃんに聞いたのですが、子どもの頃はまだ大木の立つ大きな墳丘が残されていたそうです。おそらく戦後ぐらいまでは残されていたのではないでしょうか。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 画像は「第5号墳」の跡地のようすです。畑地の中に石室の残骸のようなものが残されるのみで、墳丘を見ることは出来ません。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

仕事柄、古墳の探訪は日帰りで行ける範囲に限られてしまうのですが、この日は高速を飛ばしてひたちなかを訪れました。装飾古墳を生で見学できる機会はなかなかありませんので楽しい一日でした。茨城県は古墳の多い場所ですので、今後も足を運ぼうと思っています。。。

<参考文献>
茨城県ひたちなか市教育委員会『史跡 虎塚古墳 -発掘調査の概要-』
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター『ひたちなか埋文だより 第42号』


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  1. 2015/11/07(土) 04:39:12|
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「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 装飾古墳として有名な国指定史跡「虎塚古墳」は茨城県ひたちなか市に所在する前方後円墳です。この古墳は、昭和48年(1973)に開始された発掘調査により良好な状態の彩色壁画が発見されて話題になりました、古墳は常時無料で見学ができますが石室内は通常非公開となっており、毎年春と秋に一般公開されています。今回は、平成27年の秋季一般公開ということで、この「虎塚古墳」の見学に行ってきました。

 画像は、整備された虎塚古墳へ向かう入口のあたりのようすです。年に2回の一般公開とあって入口には幟や看板が立てられていて華やかな感じです。大勢のボランティアとみられる学生たちの姿も見られましたが、「虎塚古墳入口→」の看板は学生たちの手作りなのでしょうか。。。
 この奥に、虎塚古墳群1号墳である「虎塚古墳」が保存されています。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 画像は後円部を南西から見たところです。石室は午前9時に公開というところで、私が現地についたのは10時近かったと思います。整理番号はちょうど40番でした。1番乗りしようと張り切って出掛けたのですが、高速の出口のあたりで「十五郎穴(横穴墓群)」が視界に入って、ついついこの横穴墓に先に向かってしまいました。笑。お天気も快晴でしたので、綺麗な写真が撮れました。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」

 「虎塚古墳」は、本郷川右岸の東中根台地上に築造された古墳です。周辺地域では古くから知られていたといわれており、江戸時代の地誌『水府志料』には「とらが塚」という名称で紹介されているそうです。古墳の規模は、全長56.5m,後円部直径32.5m,高さ5.5m,前方部幅38.5m,高さ5mで、発達した前方部は後円部より大きく開き、前方部と後円部の高さの差があまりない、典型的な古墳時代後期の特徴を持っています。築造は7世紀後半と推定されています。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 画像はくびれ部を南西から見たところです。画像の左側が前方部、右側が後円部です。今回は古墳の大きさを感じられるように人が写っている画像を選んでみました。高さがある古墳であるのがわかると思います。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 画像は、墳丘南側の周溝のようすです。この古墳の周溝は左右対称ではないのが特徴で、墳丘の北側はほぼ一直線になっているのに対して南側はくびれ部あたりで墳丘に沿う形となっています。画像を見ると周溝がくの時に曲がっているようすがわかります。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 後円部から前方部を見たところです。
 石室内部には、頭部を北向きにした人骨一体があり、遺骸の左側には青銅製責金具を装着した刀子1口が1本添えてあったそうです。人骨は身長160cm前後の成人男性であったそうですが、ほとんど腐朽しており、人の形に骨粉の分布が認められる状態であったようです。一体どんな人物が埋葬されていたのでしょうか。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 前方部から後円部を見たところ。
 この古墳の第一次調査は昭和48年8月16日から行われたそうです。9月11日に石室閉塞部の礫がすべて取り除かれ、翌12日に多くの見学者や報道関係者の見守る中、現門の扉が開かれた際に先頭の調査員より「壁画だ!」という第一声がおこったそうです。あの奈良県明日香村の「高松塚古墳」が発掘された翌年の出来事ですから、最初に発見した調査員はさぞかし驚いたことでしょうね。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 さて、残念ながら石室の撮影はNGだったのですが、併設されている埋蔵文化財調査センター内に公開されている原寸大のレプリカを見学することが出来ました。画像はこのレプリカのようすです。
 石室内部の壁画は、玄門部と玄室内に描かれた幾何学文と玄室の奥壁、東壁、西壁にある具象的な図文から構成されています。凝灰岩の表面に白色粘土を塗り、ベンガラ(酸化第二鉄)で描かれたというこの壁画は、呪術的な性格を有した魔除のためのものであると考えられているようですが、東国において類例が殆ど見られない連続三角文などの図柄は九州の装飾古墳壁画には多く見られるようです。当時、遠く離れたこの地に移住して来た人がいたのでしょうか?それとも古墳を作る技術者が移住して来たのでしょうか。とてもとても興味深いと思います。。。


「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」

 昭和55年に公開保存施設が完成し公開施設は鉄筋コンクリートで作られていて内部は三部屋に別れています。施設内部の天井や壁は防水、断熱材が使用されており、断熱材を使用したステンレス製の扉に区切られています。画像はその、入口の部分の扉です。ここから奥は撮影は出来ませんでしたが、見学者の出入りや外気の影響を軽減するための仕組みになっているそうです。
 この入口をくぐって一番奥の部屋に入るとそこには閉塞石が置かれていて、この閉塞石は生で見ることが出来ます。その右側に観察窓が設置されていて、その窓越しに壁画を見学するようになっています。関東で暮らしていると装飾古墳を見学する機会は限られていますので、なかなか貴重な体験でした。

 次回、「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」へ続く。。。

<参考文献>
茨城県ひたちなか市教育委員会『史跡 虎塚古墳 −発掘調査の概要−』


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  1. 2015/11/04(水) 23:59:42|
  2. 茨城県の古墳
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