
飛田給古墳群は、調布市の最西端に位置しており、府中崖線上の立川段丘面縁辺部に所在する古墳群です。東には下石原古墳群が、西には府中市の白糸台古墳群が隣接しており、飛田給古墳群と府中市白糸台古墳群は主体部や墳丘の規模、構造等がほぼ共通しており、行政区分は異なるものの一連の古墳群であると考えられています。
「飛田給6号墳」は、飛田給2丁目において検出された方形周溝墓です。主体部は検出されておらず、幅約2~3m、一辺約16~17mの溝が方形に巡っており、周溝内から出土した土師器の壺が古墳時代の前期の4世紀代に比定されることから、”弥生時代の方形周溝墓の系譜として残った形態”であるとされています。この遺構は集合住宅の建設により消滅しており、残念ながら痕跡を見ることは出来ません。
<参考文献>
調布市教育委員会『調布市の遺跡調査 -第7集-』
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- 2015/12/30(水) 21:50:09|
- 調布市/飛田給古墳群
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飛田給古墳群は、調布市の最西端に位置しており、府中崖線上の立川段丘面縁辺部に所在する古墳群です。東には下石原古墳群が、西には府中市の白糸台古墳群が隣接しており、飛田給古墳群と府中市白糸台古墳群は主体部や墳丘の規模、構造等がほぼ共通しており、行政区分は異なるものの一連の古墳群であると考えられています。
明治初年の地租改正の際に作成された『地籍図』をみると、現在削平されてしまった古墳ではないかと思われる地割りが残されています。この周辺の地割りは長方形か方形の整然とした区画が基本であるようですが、この中に不規則に小さな区画を見ることができます。この地籍図が作成された時点では古墳の墳丘の高まりが残されていたのではないかと考えられています。
「飛田給5号墳」も地籍図の検討により古墳の存在が予想されていた地点です。方墳である可能性も考えられている古墳で、『東京都遺跡地図』には調布市の遺跡番号51-5番の古墳として登録されています。もしもこの古墳が方墳であれば、南北約28m、東西約25mの規模となるようですが、これまでの飛田給古墳群の調査に置いて確認された墳形は円形のみであることから、飛田給5号墳を取り巻く方形周溝状遺構が古墳の周溝であるとは断定されていないようです。埋葬施設は河原石積横穴式石室で、石室内からは鉄製品が出土しています。
画像は調布市飛田給2丁目、品川通りの飛田給2丁目西交差点付近を西から見たところです。道路から、右側の宅地にかけてが古墳の所在地となるようですが、残念ながら古墳の痕跡を見ることは出来ません。。。
<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
調布市教育委員会・調布市遺跡調査会『桜塚古墳』2000
調布市教育委員会『調布市の遺跡調査 -第7集-』
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- 2015/12/29(火) 13:26:04|
- 調布市/飛田給古墳群
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飛田給古墳群は、調布市の最西端に位置しており、府中崖線上の立川段丘面縁辺部に所在する古墳群です。東には下石原古墳群が、西には府中市の白糸台古墳群が隣接しており、飛田給古墳群と府中市白糸台古墳群は主体部や墳丘の規模、構造等がほぼ共通しており、行政区分は異なるものの一連の古墳群であると考えられています。
画像は、調布市飛田給2丁目の「飛田給4号墳」の跡地を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には51-4番の古墳として登録されています。この古墳は、昭和56年(1981)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の一部が検出されており、推定外径19mの、北西部に陸橋部が存在する円墳であることがわかっています。埋葬施設は検出されなかったようですが、土師器壺形土器や高杯、不明青銅製品が出土しています。
古墳の跡地であると思われる歩道の一部が不自然に三角形に区切られています。これが古墳の残存部分であるとは思えませんが、果たして遺構の保存が目的であるのか、それとも木を残すための植込みなのかはよくわかりません。ちょうどこの部分を周溝が巡っていると思うのですが、深読みしてしまう思わせぶりな場所です。。。
<参考文献>
調布市教育委員会・調布市遺跡調査会『調布市飛田給遺跡』1983
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2015/12/28(月) 09:15:42|
- 調布市/飛田給古墳群
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飛田給古墳群は、調布市の最西端に位置しており、府中崖線上の立川段丘面縁辺部に所在する古墳群です。東には下石原古墳群が、西には府中市の白糸台古墳群が隣接しており、飛田給古墳群と府中市白糸台古墳群は主体部や墳丘の規模、構造等がほぼ共通しており、行政区分は異なるものの一連の古墳群であると考えられています。

画像は、調布市飛田給2丁目の「飛田給3号墳」の跡地を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には51-3番の古墳として登録されています。この古墳は、昭和56年(1981)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝が検出され、北西部に陸橋部が存在する外径19mの円墳であることが確認されています。
以前、桜塚1号墳を見学させていただいた際に土地の所有者の方が「子供のころは他にもいくつか古墳が残されていたが、品川道の下敷きになって消滅してしまった…」というようなことをおっしゃっていました。恐らくこれは飛田給1号墳から4号墳あたりの古墳を指しているのではないかと思うのですが、残念ながら痕跡が残されている古墳は存在しないようです。。。
<参考文献>
調布市教育委員会・調布市遺跡調査会『調布市飛田給遺跡』1983
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2015/12/27(日) 01:35:10|
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飛田給古墳群は、調布市の最西端に位置しており、府中崖線上の立川段丘面縁辺部に所在する古墳群です。東には下石原古墳群が、西には府中市の白糸台古墳群が隣接しており、飛田給古墳群と府中市白糸台古墳群は主体部や墳丘の規模、構造等がほぼ共通しており、行政区分は異なるものの一連の古墳群であると考えられています。
画像は、調布市飛田給2丁目の「飛田給2号墳」の跡地を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には51-2番の古墳として登録されています。この古墳は、昭和56年(1981)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の一部が検出されており、その後の平成7年(1995)の調査により未調査部分の周溝が検出され、直径18mの円墳であることが確認されています。
画像の、コンビニエンスストアの駐車場のあたりが古墳の跡地であると思われますが、古墳の痕跡は何も残されていないようです。
<参考文献>
調布市教育委員会・調布市遺跡調査会『調布市飛田給遺跡』1983
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
調布市教育委員会『埋蔵文化財年報 -平成7年度-』
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- 2015/12/26(土) 01:30:35|
- 調布市/飛田給古墳群
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飛田給古墳群は、調布市の最西端に位置しており、府中崖線上の立川段丘面縁辺部に所在する古墳群です。東には下石原古墳群が、西には府中市の白糸台古墳群が隣接しており、飛田給古墳群と府中市白糸台古墳群は主体部や墳丘の規模、構造等がほぼ共通しており、行政区分は異なるものの一連の古墳群であると考えられています。
画像は、調布市飛田給2丁目の「飛田給1号墳」の跡地を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には51-1番の古墳として登録されています。この古墳は、昭和56年(1981)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の3分の1が検出されており、北西部に陸橋部を持つ推定外径約21mの円墳であるとされています。土師器壺形土器と小形広口壺が完形で出土しています。
未調査の3分の2の部分は塀の向こう側ということでひょっとして何か痕跡が残されているのではないかとも思ったのですが、この日は桜塚1号墳を見学できたことと、桜塚10号墳が保存されて残されていることを確認したところで情熱が終ってしまっていて、訪ねてみることなく帰宅してしまいました。笑。
飛田給古墳群はかなり古墳が密集している地域ですので、まだなにか痕跡が残されている古墳もあるかもしれません。今後の調査における新たな発見が楽しみですね。。。
<参考文献>
調布市教育委員会・調布市遺跡調査会『調布市飛田給遺跡』1983
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2015/12/25(金) 01:16:11|
- 調布市/飛田給古墳群
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多摩川中流域左岸に立地するこの一帯は「下布田遺跡」と呼ばれており、縄文時代から古墳時代、奈良・平安時代の集落、太平洋戦争に関連する遺構などが発見されています。遺跡東部の約5000㎡の区域が、縄文時代晩期の数少ない遺跡として昭和62年に国史跡として指定されており、その北側に、古墳が帯状に集中して造られた下布田古墳群が所在します。これまでに14基の古墳が確認されており、これらの古墳は5世紀前半に造られ始め、7世紀前半まで続いたことがわかっています。
画像は、調布市布田6丁目にある「下布田14号墳」の跡地を北から見たところです。この14号墳のみ、古墳であると断定はされていないようですが、トレンチ内から検出された溝が古墳の周溝ではないかと考えられているようです。この古墳も、立川段丘上の府中崖線縁辺部に存在したようすがわかると思います。規模は、推定外径約25m、内径は約18mで、土師器坩3点が出土しています。5世紀前半の築造と考えられているようです。

この土師器坏は、府中市小島町の調布市郷土博物館に展示、公開されています。
<参考文献>
調布市郷土博物館『下布田古墳群の調査』2003
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- 2015/12/24(木) 00:02:52|
- 調布市/下布田古墳群
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多摩川中流域左岸に立地するこの一帯は「下布田遺跡」と呼ばれており、縄文時代から古墳時代、奈良・平安時代の集落、太平洋戦争に関連する遺構などが発見されています。遺跡東部の約5000㎡の区域が、縄文時代晩期の数少ない遺跡として昭和62年に国史跡として指定されており、その北側に、古墳が帯状に集中して造られた下布田古墳群が所在します。これまでに14基の古墳が確認されており、これらの古墳は5世紀前半に造られ始め、7世紀前半まで続いたことがわかっています。
画像は、調布市布田6丁目にある「下布田14号墳」の跡地を北から見たところです。この古墳も墳丘はすでに存在しない古墳で、埋葬施設は確認されず、発掘調査により周溝の約3分の1が調査されています。規模は内径18,2m、外径27,2m、周溝の幅は3.4~4.9mの円墳で、周溝から須恵器甕が出土しています。この出土遺物により、古墳は6世紀前半以前に築造されたと推定されています。
この12号墳は「狐塚」と呼ばれた下布田6号墳の西側に重なるように存在しており、現在も畑地となっていますので恐らくは地中に周溝が残されているものと思われますが、残念ながら古墳の痕跡を見ることは出来ません。。。
<参考文献>
調布市郷土博物館『下布田古墳群の調査』2003
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- 2015/12/23(水) 00:32:17|
- 調布市/下布田古墳群
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多摩川中流域左岸に立地するこの一帯は「下布田遺跡」と呼ばれており、縄文時代から古墳時代、奈良・平安時代の集落、太平洋戦争に関連する遺構などが発見されています。遺跡東部の約5000㎡の区域が、縄文時代晩期の数少ない遺跡として昭和62年に国史跡として指定されており、その北側に、古墳が帯状に集中して造られた下布田古墳群が所在します。これまでに14基の古墳が確認されており、これらの古墳は5世紀前半に造られ始め、7世紀前半まで続いたことがわかっています。
画像は、調布市布田6丁目にある「下布田14号墳」の跡地を北から見たところです。この古墳も墳丘はすでに存在しない古墳で、埋葬施設は確認されず、発掘調査により周溝の約3分の1が調査されています。規模は内径14,2~15m、外径18,5~19m、周溝の幅は約2.2mのブリッジ付円墳で、周溝から土師器坩が出土しています。この古墳は、埋葬施設が検出されなかったことや、出土した土師器坩により、5世紀前半以前に築造されたと推定されています。
この11号墳は画像の道路のちょうど中央あたりに存在したようですが、残念ながら古墳の痕跡を見ることは出来ません。。。
<参考文献>
調布市郷土博物館『下布田古墳群の調査』2003
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- 2015/12/22(火) 00:42:25|
- 調布市/下布田古墳群
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多摩川中流域左岸に立地するこの一帯は「下布田遺跡」と呼ばれており、縄文時代から古墳時代、奈良・平安時代の集落、太平洋戦争に関連する遺構などが発見されています。遺跡東部の約5000㎡の区域が、縄文時代晩期の数少ない遺跡として昭和62年に国史跡として指定されており、その北側に、古墳が帯状に集中して造られた下布田古墳群が所在します。これまでに14基の古墳が確認されており、これらの古墳は5世紀前半に造られ始め、7世紀前半まで続いたことがわかっています。
画像の道路の中央、ちょうど突き当たり辺りが「下布田10号墳」の跡地です。この古墳も墳丘がすでに存在しない古墳で、埋葬施設である河原石積横穴式石室が調査されています。埋葬施設は撹乱を受けており、側壁の一部と礫床が確認されたのみですが、石室内からは鉄製の柄頭と思われる刀飾りが出土しています。推定規模は内径14m、外径22.4m、周溝の幅4約mほどで、古墳の築造は6世紀後半以降と推定されています。
また、画像の道路の左側辺りが「下布田13号墳」の跡地です。やはりこの古墳も墳丘はすでに存在せず、発掘調査により周溝の一部が検出されています。推定規模は内径13.1m、外径20mのブリッジ付円墳で、陸橋部付近から土師器埦が出土しています。この出土遺物により、古墳の築造は6世紀前半頃と推定されています。2基の古墳ともに現在は宅地や道路となっており、古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
調布市郷土博物館『下布田古墳群の調査』2003
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- 2015/12/21(月) 00:28:17|
- 調布市/下布田古墳群
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