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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「七ツ塚古墳群 1号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 1号墳」

 「七ツ塚古墳群」は、日野台地の北端、北の多摩川と北西の谷地川に区切られた舌状台地に所在します。明治27年(1895)の時点で7基の古墳が存在しており、これが「七ツ塚」の地名の由来となっています。平成14年度(2002)の調査では8番目の古墳が検出されており、9基以上の古墳が包蔵されている可能性が高いと考えられています。この七ツ塚古墳群は日野市の遺跡番号2番の古墳として登録されており、昭和36年(1961)10月1日に日野市の史跡に指定されています。

 画像は、日野市新町5丁目に所在する「七ツ塚古墳群 1号墳」を東から見たところです。この1号墳は、明治27年(1895)に発掘されたとされる7号墳の残土を残存する1号墳に盛土したものであるといわれており、その際に墳頂部に金刀比羅神社が祀られています。ただし、日野市の関係者にお聞きしたところによると、近年の調査によりこの1号墳は古墳ではなかったことがわかっているそうですが、私はまだ発掘調査報告書を確認していませんので詳細はわかりません。また、7号墳の発掘の際に出土した直刀5本がこの金刀比羅神社に収められたとされていますが、この直刀は所在がわからなくなっているようです。


「七ツ塚古墳群 1号墳」

 画像は、南東から見た1号墳です。最近行なわれていた七ツ塚公園の整備の際に盛土されており、大きく改変されています。今月初めに訪れたときはちょうど桜が満開で、また植えられたばかりの芝生も青々としており、きれいな写真が撮れました。
 日野市教育委員会により立てられた説明板には次のように書かれています。

日野市指定史跡
  七ツ塚古墳群
 古墳群は、日野台地の北西部、西に谷地川を望む
七ツ塚遺跡に所在する。現在、五基ほど墳丘が削ら
れて残っているが、当時は七基にとどまらなかった
と考えられる。
 昭和二九年(一九五四年)に行なわれた発掘調査
では、横穴式石室を主体部とした古墳が発見され、
直刀一口、刀子二本、鉄鏃四本の副葬品が出土した。
また、古墳の周辺からは、戦前に女性埴輪・円筒埴
輪・管玉・勾玉等が発見された。
 古墳群の造営年代は六~七世紀頃と推定されてい
る。
          昭和三六年(一九六一)十月一日指定
               日野市教育委員会


「七ツ塚古墳群 1号墳」(日野市指定史跡)

「七ツ塚古墳群 1号墳」(日野市指定史跡)

 画像は冬の七ツ塚古墳群1号墳です。以前は細長い形状のマウンドでしたが、かなり印象が変わったようです。


「七ツ塚古墳群 1号墳」(日野市指定史跡)

 画像は、最初に訪れた際に撮影した、秋の七ツ塚古墳群1号墳です。夕焼けに赤く染まった落ち葉が墳丘を覆っています。季節によって色々な表情を見せてくれるのも古墳探訪の醍醐味かもしれません。

「七ツ塚古墳群 1号墳」

 七ツ塚公園に立てられていた説明板です。公園が整備されたことにより撤去されてしまったのか、現在は見られなくなっているようです。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市東光寺上第一土地区画整理組合整理組合『七ツ塚遺跡14』
現地説明版


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  1. 2016/04/27(水) 00:43:44|
  2. 日野市/七ッ塚古墳群
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「今井物見塚」

「今井物見塚」

 画像は、青梅市今井4丁目、首都圏中央連絡自動車道(通称圏央道)青梅インター入口付近の岩蔵街道沿いに所在する「今井物見塚」を南西から見たところです。

 もう何年も前の話ですが、青梅市内を車で走行中にまるで古墳かのような塚が視界に入りました。圏央道の青梅インターに向かって高速道路に入る直前の交差点の角で、道路と道路の間にきちんと保存されているようでしたし「××塚」という標識のようなものも見えましたので、間違いなく史跡として整備されている塚(古墳?)だと思い、次のわき道を曲がって引き返そうと身構えました。しかし、残念ながらその道はすでに青梅インターの入口に入っていて引き返すこともできず、後ろ髪を引かれる思いで青梅を後にしました。
 その後、図書館などで調べてみたのですが、なぜかこの塚について書かれている書物を発見できず、築造された時期や塚の性格についてなどはまったくわかりませんでした。名称からして少なくともこの塚は古墳ではないようですが、周囲に説明板が立てられているようすもなく、「今井物見塚」という木造の看板が立てられているのみです。


「今井物見塚」

 画像のように、この周辺ではバスの停留所にこの塚の名称が使われているほか、「物見塚通り」という市道や「物見塚牧場」という牧場も存在しており、地元ではかなり名の知れた塚であるようです。


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  1. 2016/04/25(月) 04:02:38|
  2. 青梅市の古墳・塚
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「丸山の塚」

「丸山の塚」

 青梅市藤橋1丁目周辺に所在する「丸山遺跡」は、北方を流れる霞川と平行に東西に広がる加治丘陵から南に突き出した舌状台地に位置しています。この周辺は青梅市内でも有数の遺跡集中地区で、旧石器時代から中世に至る遺跡が点在しています。丸山遺跡の地名は、周囲に所在する城跡と関係する施設があったことによるという説があり、またこの地に所在した塚に起因するのではないかとも考えられていますが、確かなことはわからないようです。

 『東京都遺跡地図』には、青梅市の遺跡番号157番の”時代不明の塚”として「丸山の塚」という2基の塚が登録されています。『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』にはこの塚について「丘陵、塚群、径5m、高1.5m」とあるのですが、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「2基、残存、径2m、高1.5m」と書かれており、塚の規模について若干の違いが見られます。
 実は3年ほど前に、プリントアウトした東京都遺跡地図の分布図だけを頼りにこの周辺を歩いてみたことがあるのですが、山の尾根上に記されている2基の塚はどこにあるのかまったく見つからず、確認出来たのは山の麓のあたりに残存する小さな塚1基のみでした。この塚の位置は、東京都遺跡地図の分布図に記された位置とは若干のズレがあるのですが、『丸山遺跡 -Ⅰ~Ⅳ次調査概要-』には「昭和25年頃まで高さ約5m、直径約10mの塚が存在した(中略)台地の奥部に高さ約1m程の小さな塚が1基残っています。」と書かれていますので、おそらくは山の尾根上に存在した大きな塚は消滅して、現在の「丸山の塚」はこの小さな塚1基、ということになるようです。

 というわけで、画像は「丸山の塚」を南東から見たところです。まだ自然が多く残る青梅の住宅街の片隅に、塚はひっそりと残されています。。。

<参考文献>
青梅市教育委員会『丸山遺跡 -Ⅰ~Ⅳ次調査概要-』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』


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  1. 2016/04/24(日) 04:52:59|
  2. 青梅市の古墳・塚
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「比丘尼塚」

「比丘尼塚」

 画像は、青梅市富岡に所在する「比丘尼塚」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録であるものの多くの言い伝えの残る伝説の塚で、今も「万貴山常福寺」の敷地内に残されています。

 この塚については江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「墳墓 塚 村の南にありて道の傍にあり、五六間四方、高三間松杉桧四五本有、土人呼比丘尼塚と云、来由詳ならず」と記されています。ただし、現在の比丘尼塚は小高い山の頂部に存在しているのに対して「道の傍にあり」と書かれていることや、「村の南」とされる塚の位置についても微妙で、この当時には違う塚を比丘尼塚と呼んでいた可能性も感じるところですが、少なくとも江戸時代には知られた存在であったことは間違いないようです。
 常福寺の縁起には「当山の開基は鎌倉末期の万貴姫なり、姫は高貴の御方にして、当時関東権勢のため下向を余儀なくされしも、にはかに大勢一変せるため危く戦禍を逃れて当地に侍女五名を具して潜入、尼となり草庵を結びて忍ぶ。かくては姫は潜行隠伏中の飢餓に鑑み、ひたすら人天に供養する祈願を以て日々托鉢の余糧を物相飯(人ごとに分けて与えるめし)となし、旅行者および四辺の飢荒に施す。このあたりの字名を木狐入と称する起源にして、また当寺を施餓飢寺と称する由因なり。姫の本意なき帰真にあふや侍女等はその遺骸、遺品等を沢池に埋葬するに忍びずとなし、当寺西方三丁の山上に壙埋し、なほその上に托鉢の帰途必ず塩船観音霊域の清浄土を応量器(鉢)に一杯づつ持帰り堆積し 、つひに一聖塚を築けりと、これ現に存する比丘尼塚なり。」と、この塚の由来について記されており、また明治16年(1883)に地元の人が塚を掘り起こしたところ、金銀造りの小刀一口、べっこうの櫛、こうがい、ようらく、首かざり等が出土したといわれていますので、この常福寺の縁起に書かれている由来はかなり史実に近いものがあるかもしれません。ちなみにこの出土品は、村の戸長である富岡家で保管していた後、祟りを恐れて奥庭に埋め、その上に鎮石を据えて祀られているそうです。


「比丘尼塚」

「比丘尼塚」

 画像は「万貴山常福寺」に向かう小曽木街道からの入口の様子です。この山門脇には「旧蹟 比丘尼塚」の石碑が建てられています。

「比丘尼塚」

 比丘尼塚はわかりにくい場所にあり、また山の頂部に存在するため見学は大変です。行き方はこの石碑のある山門をくぐって進み、常福寺の本堂や墓地を右に見ながら通り過ぎて、道路が舗装されていないあたりまで進むと左側に一軒の民家が見えます。この右側に山の中に入っていく1本のけもの道があり、このけもの道をまっすぐ進んだところが比丘尼塚の所在地であるわけですが、粘土質の地面は踏み固められて滑りやすくなっていますし、急な山道を4~500メートルほど登っていかなければなりませんのでちょっとした登山という感じです。この場所にこれだけ大きな塚を築くのは大変な労力が必要だったのではないでしょうか。。。


「比丘尼塚」

 山の頂上まで登り切るとようやく塚が見えてきます。
 見学の時期に冬を選んだのは正解で、夏に訪れると雑草やクモの巣が行く手を阻み、スズメバチや蛇の恐怖とも戦わなければならなかったかもしれません。冬でも息が切れてバテバテになりました。。。


「比丘尼塚」

 塚の前には石段が設けられており、この石段を登ると石碑とともに石の祠が祀られています。


「比丘尼塚」

 明治16年に掘り起こされたとされる場所には卵塔が立てられています。墳丘はこの卵塔の背後が大きくえぐられたような形状となっていますので、この場所が発掘場所で間違いなさそうです。
 削られて変形した塚を離れたところから見ると、まるで前方後円墳のような形状にも見えますが、やはりこの塚は古墳ではないようです。高さ2メートル、直径約15メートルという規模の塚ですが、山頂部に存在する塚を見上げることにより更に大きく感じられます。


「比丘尼塚」

 比丘尼塚は現在も常福寺により大切に祀られており、毎年11月23日には供養が行われているそうです。。。

<参考文献>
青梅市教育委員会『文化財コラム集』
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』


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  1. 2016/04/22(金) 02:57:46|
  2. 青梅市の古墳・塚
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「日野市№19遺跡(吹上古墳)」

「日野市№19遺跡」

 「日野市№19遺跡」は、日野市 東豊田2丁目に所在する、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号19番に登録されている古墳です。
 この古墳の存在する「豊田寺坂遺跡」は昭和51年(1976)1月から2月にかけて発掘調査が行われています。古墳は調査区のほぼ中央から発見されており、墳丘は完全に削平されて遺存していなかったものの、周溝が検出されたことにより存在が確認されています。規模は、内径12m、外径18mを測る円墳で、主体部は攪乱による破壊で痕跡がなく、詳細不明とされていますが、周溝内からは坏が2点出土しています。

 画像は、豊田寺坂遺跡の所在地を南東から見たところです。中央の切り通しとなった道路を上がった、右上に見える台地上が豊田寺坂遺跡で、古墳が検出された場所となるようです。現在は集合住宅となり、残念ながら古墳の痕跡を見ることはできませんでした。。。

<参考文献>
日野市遺跡調査会・日野市教育委員会『豊田寺坂遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2016/04/21(木) 09:35:26|
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「日野市№45遺跡(平山古墳)」

「日野市№45遺跡(平山古墳)」

 「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。

 昭和29年(1954)に西郊文化研究会より発行された『西郊文化 第10号』には、この平山古墳群の1基と見られる古墳の発掘時のようすについて書かれています。

 中央線豊田駅、又は京王線平山駅を下車し多摩川に至ると、千鳥ケ淵と呼ばれる地点がある。ここには積石塚が数基あるが殆ど知られていない。数年前この一基が発掘され、遺物は直刀十七本、鉄鏃約三〇〇本、刀子若干、馬具、装飾品として勾玉が発見された。石は多摩川の直径二十?位の河原石を用いたもので、内部構造は竪穴式石室が南北に軸をとっている。当地方では数少ない特殊な部類に属する。この例は、近くには神奈川、埼玉両県に存在しわが国からは、十数ケ所より発見されているが、一方大陸に多く存在しており、この影響を受けたものと思われる。

 当時、地名から「平山古墳」と仮称されたこの古墳は八王子在住の某氏と有志により昭和24年(1949)に発掘が行なわれたとされていますが、報告書が未発表であるために正確な所在地は不明で、『西郊文化 第10号』に書かれている以外の詳細はわかりません。平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団より発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では、日野市東平山3丁目に残存する遺跡番号45番の古墳をこの「平山古墳」としながらも「平山古墳群のいずれかは不明」であると記しています。

 画像はその「日野市№45遺跡(仮称平山古墳)」を北から見たところです。


「日野市№45遺跡(平山古墳)」

 その後の発掘調査により確認された6基の円墳により形成される「平山古墳群」の中で、墳丘が残されていたのは2号墳1基のみであったとされていますが、この2号墳からは多くの遺物が出土していることから、平山古墳が2号墳である可能性は低いように思われます。やはり、画像の「№45遺跡」が平山古墳であったのか、それとも当時、2号墳以外の5基の古墳の中に墳丘の残されていた古墳が存在したのか、まったく未知なる古墳が存在したのか真相はわかりませんが、№45遺跡が平山古墳であった可能性は十分に考えられるところかもしれません。


「日野市№45遺跡(平山古墳)」

 この古墳は平成5年度の多摩地区所在古墳確認調査により把握されており、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「大部分は削平されているが、4×2mの範囲で高さ0.5m程の高まりが残存しており、高まりの上には祠が祀られている。」と書かれています。この状況は、現在も大きな変化はないようです。画像は残存する現在の墳頂部のようすですが、小さな祠が祀られており、周囲には石室を構築したと思われる河原石を見ることができます。

 小さな祠ですが、通りがかりのお婆さんが拝んでいく姿も見られました。地元の人々に大切にされているようです。

<参考文献>
今井隆敬「八王子近郊の考古学資料」『西郊文化 第10号』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2016/04/20(水) 00:25:25|
  2. 日野市/その他の古墳・塚
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「平山古墳群6号墳」

「平山古墳群6号墳」

 「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
 「平山古墳群6号墳」は、平山古墳群中最も西端に位置する古墳です。昭和57年(1982)7月~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-5番の古墳として登録されています。墳丘はすでに削平されて存在しなかったものの西側部分の若干のみ検出されています。推定される古墳の規模は周溝外径11.5mほどで、周溝幅1mほどの円墳ですが、遺物の出土もなく、また主体部も検出されていないため、詳細は分かりません。この周溝を覆う覆土のみは他の古墳の周溝の覆土と異なる粗粒なものであり、この6号墳のみ築造時期が異なるものと考えられているようです。

 画像は6号墳の跡地とされる地点です。まだ調査の行われていない周溝の大部分は地中に埋もれていると思われますが、周囲に新築された建物もあり、発掘調査が行われたのか、新たな古墳の発見はあったのか気になるところです。
 この平山6号墳も、残念ながら地上痕跡を見ることはできません。。。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2016/04/18(月) 23:37:29|
  2. 日野市/平山古墳群
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「平山古墳群5号墳」

「平山古墳群5号墳」

 「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。
 「平山古墳群5号墳」は4号墳の北西5mほどに位置する古墳です。昭和57年(1982)7月~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-5番の古墳として登録されています。墳丘はすでに削平されて存在しなかったものの周溝のほぼ全容が確認されており、古墳の規模は周溝幅1.5~3mほど、周溝外径18mほどの円墳です。主体部も検出されなかったようですが、主体部に関係すると考えられる多数の礫が土層中に含まれていたとされており、河原石積横穴式石室の存在も想定されているようです。また、築造年代を明示する遺物も出土していないようです。

 平山古墳群に残存する古墳が存在しないことはわかっていたのですが、周辺にはまだ宅地化されていない場所も多く、ひょっとして古墳の残骸が残されているのではないかという期待もありました。折り畳み自転車で走り回ってみたのですが、結局それらしき存在を見つけることはなく、やはりこの周辺で見学できる古墳は遺跡番号45番の無名古墳1基のみであるようです。
 画像はこの5号墳の跡地とされる地点です。古墳は手前の道路から奥の高くなったあたりにかけて存在したようですが、手前半分は平山通りと呼ばれる切り通しの道路となっており、この古墳も完全に消滅しているようです。。。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2016/04/16(土) 11:36:01|
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「平山古墳群4号墳」

「平山古墳群4号墳」

 「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。

 「平山古墳群4号墳」は3号墳の北側25mほどの台地東斜面で確認された古墳です。昭和53年(1978)7月~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-4番の古墳として登録されています。調査当時墳丘はすでに削平されて存在せず、周溝のみが検出されています。周溝東側の大半は攪乱により失われており、西側の一部が検出されています。周溝幅は2mほどで、外径11.5mの円墳と推定されており、主体部は不明、築造年代を明示する遺物も出土していないようです。

 画像はこの4号墳の跡地とされる地点です。現在この場所は平山通りと呼ばれる切り通しの道路となっていますので、恐らく古墳は地中も含めて完全に消滅していると思われます。。。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2016/04/15(金) 00:36:17|
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「平山古墳群3号墳」

「平山古墳群3号墳」

 「平山古墳群」は浅川沿岸に分布する古墳群で、多摩川との合流点より約5kmほど上流の平山橋北岸周辺の段丘上に位置しています。平山遺跡第2・4・9次調査により平山橋北西側の調査が行われ、これまでに6基の古墳が検出されています。

 「平山古墳群3号墳」は2号墳の北東22mほどの台地東斜面上位に位置する古墳です。昭和53年(1978)7月~12月にかけて日野市遺跡調査会により行われた調査により確認されており、『東京都遺跡地図』には日野市の遺跡番号23-3番に登録されています。調査当時、墳丘はすでに削平されて存在せず、また周溝も東半部は削平されて欠損して板というこの古墳は周溝の西半部のみが検出されています。この周溝には陸橋部が検出されており、規模は周溝外径15mほどのブリッジ付きの円墳であると考えられています。

 画像は3号墳の跡地と思われる周辺のようすです。平山橋交差点の角の台地上にある「大名渕公園」か、その奥の民家となっているあたりが古墳の跡地であると思われるのですが、この場所は平山橋交差点を中心に切り通しだらけという状況で、調査当時と地形が変わっているので、古墳の正確な跡地はよくわかりませんでした。やはり痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2016/04/14(木) 00:16:25|
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