
武蔵村山市に所在する「三本榎」は、乙幡榎(榎3丁目)、加藤榎(学園1丁目)、奥住榎(学園1丁目)の三本の榎の総称です。『東京都遺跡地図』には、「三本榎塚」の名称で武蔵村山市の遺跡番号37番の”近世の塚”として登録されています。昭和50年(1975)には市の木に榎が制定され、これはこの三本榎が由来となっているなど、武蔵村山市のシンボルとして親しまれているようです。昭和51年(1976)には武蔵村山市の史跡として指定されています。
画像は、武蔵村山市学園1丁目に所在する「奥住榎塚」を南西から見たところです。こと奥住榎は水道局敷地内に所在しているため、路上からの見学となります。

この三本榎にはある伝説が残されています。この地には昔、乙幡、加藤、奥住という3人の若者がおり、遠矢の競争をしたそうです。この矢を打った場所は、赤堀の三王様とも行人塚ともいわれているようですが、遠矢の競争をして自分の矢が落ちたところに榎を植えていったと伝えられています。上の榎が乙幡、中の榎のが加藤榎、下の榎が奥住榎、三本揃って三本榎と呼ばれています。この地域では、榎の葉の出具合によりその年の桑の葉の出来を占ったともいわれています。
ちなみにこの三本榎の近隣に「行人塚」が存在したとは驚きなのですが、この行人塚の所在地については情報が見つからず、詳細はわかりませんでした。。。
画像は、奥住榎の塚のようすです。「三本榎(奥住榎)」と刻まれた石柱が立てられています。
<参考文献>
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第48号』
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- 2016/05/31(火) 00:32:52|
- 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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武蔵村山市に所在する「三本榎」は、乙幡榎(榎3丁目)、加藤榎(学園1丁目)、奥住榎(学園1丁目)の3本の榎の総称です。『東京都遺跡地図』には、「三本榎塚」の名称で武蔵村山市の遺跡番号37番の”近世の塚”として登録されています。昭和50年(1975)には市の木に榎が制定され、これはこの三本榎が由来となっているなど、武蔵村山市のシンボルとして親しまれているようです。昭和51年(1976)には武蔵村山市の史跡として指定されています。
画像は「乙幡榎」を南西から見たところです。この乙幡榎と加藤榎は、昭和60年代以降の病虫害と思われる症状や雪害による太枝の損傷などにより衰えが見えたようですが、活性剤の注入や腐朽部分の切除などの樹勢回復手術が行われ、その結果、乙幡榎は回復したようです。
それにしても、23区内ではこんな風景はなかなか見ることができませんし、都心部ではもはや見上げないと青空すら見ることができませんから、心洗われるような光景です。古くは広大な畑地の中に3本榎は存在しており、塚ももっと大きなものだったようですが、この当時の雄姿を見てみたいものです。

現在の乙幡塚は「三本榎史跡公園」という史跡公園内に保存されており、敷地内には武蔵村山市教育委員会による説明板が設置されています。
市指定史跡 三 本 榎
昭和五十一年四月五日指定
三本榎は、東から奥住榎(水道局用地内)加藤
榎(都道東)と、この乙幡榎をあわせて呼んだも
のです。
大正時代末期(約六〇年前)に植えかえられた
奥住榎を除いて、樹齢は二百余年と推定されてお
り、その見事な枝ぶりは広く市民に親しまれてい
ます。
昔、腕自慢の若者三人が遠矢(弓)の競争をし、
北に見える赤堀の山から放った矢が落ちた場所に
榎が植えられ、それぞれの名をつけたという伝説
があります。
三本榎の南を東西に走る道路は、引又街道(市
街道)と呼ばれていました。この道路は、江戸時
代から明治時代にかけて重要な生活道路であった
ため、三本榎はここを往来する人々の休憩所とな
っていました。
この乙幡榎の塚にある庚申塔は、寛政十一年
(一七九九)に造立されたものです。
昭和五十六年七月
武蔵村山市教育委員会
乙幡榎の塚上には庚申塔が立てられています。高さ90cm、幅36cm、厚さ21cmの角柱状のもので、正面には「庚申塔」と大きく刻まれており、下部には三猿が配されています。右側面には「寛政十一己未年五月吉日」とあり、左側面には「多摩郡上中藤村赤堀講中 世話人高橋権八郎」と刻まれています。
<参考文献>
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第6号』
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第11号』
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第48号』
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- 2016/05/29(日) 00:58:20|
- 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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狭山丘陵周辺地域の古墳時代のようすは、この地域の開発が進まなかったこともあり、近年まであまり知られていなかったようです。埼玉県側の所沢市内ではいくつかの高塚古墳や横穴墓の発見例があるようですが、東京都側の東村山市、東大和市、武蔵村山市や瑞穂町といった多摩川から距離のある地域での古墳の発見例はなく、『東京都遺跡地図』にも登録されている古墳が存在しないという古墳の空白地帯となっています。果たしてこの地域に古墳はただの1基も存在しないのか、「塚」と名のつく痕跡の残されたものをいくつか廻ってみましたので紹介したいと思います。
武蔵村山市に所在する「三本榎」は、乙幡榎(榎3丁目)、加藤榎(学園1丁目)、奥住榎(学園1丁目)の三本の榎の総称です。『東京都遺跡地図』には、「三本榎塚」の名称で武蔵村山市の遺跡番号37番の”近世の塚”として登録されています。昭和50年(1975)には市の木に榎が制定され、これはこの三本榎が由来となっているなど、武蔵村山市のシンボルとして親しまれているようです。昭和51年(1976)には武蔵村山市の史跡として指定されています。
画像は「加藤榎」を西から見たところです。この加藤榎と乙幡榎は、昭和60年代以降の病虫害と思われる症状や雪害による太枝の損傷などがあり、樹勢回復手術が行われてきました。この結果、乙幡榎は回復の兆しを見せたものの、加藤榎は衰えが著しくなったことから、加藤榎の実から育った樹を移植して、現在は2代目加藤榎となっているようです。
また、加藤榎は都道拡張工事に伴い、塚部分の埋蔵文化財の調査が行われています。残存当時の規模は、径9m.高さ0.9mの楕円形をしており、塚上には天保4年(1840)銘の馬頭観音が立てられていました。調査の結果、塚状の地形は榎の育成とともに周囲の土を盛り上げるように生成されたものであることが確認されています。
この三本榎の南側には、現在の東京都青梅市を埼玉県志木市とを結ぶ引又街道の名残が残されています。三本榎はこの街道の道脇に存在することから、近世以降の主要道路に築かれていた一里塚の役割を果たしていたのではないかと考えられていましたが、少なくともこの加藤榎の根元の塚状地形は、塚として築かれたものではなかった可能性が高いと考えられ、またやはり古代に築造された古墳でもなかったようです。。。

画像は、現在の加藤榎の根元のようすです。都道拡張工事の際の移植により塚状の盛り土は取り除かれ、小公園として整備されています。敷地には「三本榎史跡公園」の石碑が立てられています。
<参考文献>
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第48号』
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- 2016/05/28(土) 00:55:31|
- 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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画像は、青梅市新町1丁目に所在する「稲荷塚」を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には青梅市の遺跡番号152番の遺跡として登録されている、”時代不明”とされる塚です。
稲荷塚は「大山公園」という街区公園内に保存されています。青梅市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。
大山(稲荷塚)の由来
新町の開拓は、下師岡村(現師岡一丁目地内)の名主吉野織部之助が、慶長十五年(一六一〇年)幕府の新田開発の奨励をうけて、この地に村をつくったことに始まる。
武蔵野の原野に村づくりを始めた織部之助は、協力の農民と屋敷を整え、元和二年(一六一六年)村を完成した。吉野氏は出身が大和国吉野郷であることから、その地の蔵王権現を勧誘して、同家の鬼門に御岳神社を祀ったのが、この稲荷塚のいわれである。今でも九月二十九日の御岳神社の例大祭の際は、まず稲荷社をお祀りしてから始めるしきたりがあるほど密接なつながりがある。境域は樹木に覆われ、武蔵野の山林を象徴する森となっており、地元の人々はこれを大山と呼んで親しんでいる。
平成元年一月九日 青梅市教育委員会 この説明板からは、稲荷社を祀るために築造された稲荷塚であったのか、それとも元々あった塚を流用して稲荷社を祀ったのかはわからないのですが、少なくともこの塚は古墳ではないようです。。。

塚の頂部には「新町開村三百八十年記念 武蔵野台地西端の地 平成八年三月吉日 青梅市」と刻まれた石碑が立てられています。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/05/26(木) 02:05:10|
- 青梅市の古墳・塚
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画像は、青梅市新町5丁目に所在する「富士塚」を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には青梅市の遺跡番号155番の”近世の塚”として登録されています。
この「富士塚」に関して『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』といった江戸時代の地誌類には記述が見られず、築造の時期については不明とされています。明治16年の『皇国地誌』には「富士塚 現標ヨリ卯ノ方、字富士塚九百五十九番ニアリ。高サ一丈五尺、回リ六十六間。蒙上ニ浅間大神ヲ祭ル。塚ノ名義及ヒ邊リノ小字ノ因テ起ルトコロナリ。」と書かれているため、この時期にはこの塚は存在していたようです。
青梅市教育委員会により現地に立てられた説明板には次のように書かれています。
富 士 塚
霊峰富士山を信仰の対象として朝な夕なに排していた私
たちの先祖は、やがて富士講をつくって富士山に登山した。
しかし、登山には多大の費用と健康な身体が必要で、誰し
もというわけにはいかなかった。そこで、講中では身近な
ところに富士山をかたどった塚山を築き、頂上には浅間社
を祀ってここに誰でも登拝できるようにした。
新町の富士塚もこのような信仰の対象として築かれ、長
く富士信仰の中心となっていた。現在では富士講も途絶え、
祠も御嶽神社に遷されてしまったが、塚は崩されることも
なく昔の姿を残している。この富士塚は、いつごろ造られ
たかなどという詳しいことは不明である。
平成二年六月二十九日 建設
青梅市教育委員会

かつては浅間社が祀られていたということですからこの塚が富士塚である可能性は高いように思いますが、財団法人たましん地域文化財団より発行された『多摩のあゆみ』に掲載されていた「山上茂樹ききがきノート」に次のような気になる記事を見つけました。
青梅街道が瑞穂町長岡をすぎて青梅市新町の街に入る手前、右手の畑中に大きな塚がみえる。高さ約6メートルほどで富士塚とよばれる塚である。昭和42年、都教育委員会発行の『東京都文化財調査報告19』には、富士塚をこう見る。
……フジ塚は中世から近世にかけて盛行した富士講に関する信仰上の塚(祭壇)としての可能性が強く、類例は各地に認められる。おうおう古墳を利用した場合もあるが、周囲の状態から推定すると、最初から信仰上の塚として築かれたものである蓋然性がが強い。
たしかにこの富士塚から北方の藤橋あたりでは富士浅間信仰が盛んで、前書のように祭壇としても利用されたのだろう。しかし、この富士塚の頂に、かつて長1.5メートル、短80センチほどの平らな石灰岩が露出していた。その石灰岩は私がみたときは、塚の東側に落とされた状態だった。これは秋川市瀬戸岡や草花にある古墳の石棺の蓋とまったく同一のものであった。(『多摩のあゆみ』第39号)
つまり、この塚は凝灰岩を石材とした埋葬施設が存在する古墳ではないのか、ということのようですが、地元の人には「以前は横穴が存在していた」という話もあり、元々あった古墳を流用して築造された富士塚である可能性も考えられていたようです。
その後、平成14年7月から8月にかけて発掘調査が行われ、また平成15年には内部施設の有無の確認のため地下レーダー探査が実施されています。この調査の結果が掲載されている青梅市教育委員会発行の『青梅市埋蔵文化財調査概要』には、「トレンチによるいわゆる掘削調査では、塚東側斜面部において版築は行なわれていないことが確認された。また、塚斜面裾部では上部に近代の攪乱が存在するものの、根切りと思われる溝の存在が確認された。一方、地下レーダー調査では頂上部直下2mまでに埋め戻された形跡のある軟弱な層が確認されたが、内部の堆積層からみて近現代による攪乱と判断された。さらに版築についても確認できず、単純な盛土によって構築された塚である可能性が高いと確認された。その他、古墳の施設である横穴や石室は、確認できなかった。」と書かれています。部分的な調査で詳細は不明であるものの、塚は古墳ではなく富士山信仰を目的として築造された可能性が高いと判断されているようです。

青梅市内の史跡は整備された公園の名称にそのまま使われているパターンが多く、例えば「青梅新町の大井戸」は「大井戸公園」、「稲荷塚」は「大山公園」という感じで、この富士塚もその名の通り、「富士塚公園」内に残されています。
それにしても、この富士塚を遠目に見ると角度によっては二段築成の円墳に見えなくもないのですが、やはり古墳ではなかったようですね。。。

頂上部に建てられていたという浅間大神は大正2年(1913)に御嶽神社に合祀されているそうです。画像はその御嶽神社を南から見たところです。

再訪したのは今年のちょうど桜の時期だったのですが、境内には満開の桜が咲き乱れて夢のような光景でした。

御嶽神社の社殿のようすです。
この近辺は「旧吉野家住宅」や「青梅新町の大井戸」等々かなり見どころ満載ですので、ゆっくり廻りたいところですね。桜の咲く初春も悪くないですが、東京文化財ウィークが行われる秋もお薦めです。

<参考文献>
山上茂樹「山上茂樹ききがきノート」『多摩のあゆみ 第39号』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
青梅市教育委員会『平成14年度 青梅市埋蔵文化財調査概要』
現地説明版
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- 2016/05/24(火) 02:25:40|
- 青梅市の古墳・塚
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「下谷保古墳群」は、立川段丘縁辺に位置しており、東西700m、南北150mに分布する古墳群です。この周辺地域にはかつては多数の古墳が存在していたといわれており、『町勢要覧』沿革Ⅰには「谷保天満宮の東方台上に古墳群がある。以前相当多数あったらしいが、開墾されてしまって現在では少し残っているばかりである。」と書かれています。古墳群は梅林遺跡や下谷保遺跡、谷保東方遺跡にまたがっており、現在までに下谷保Ⅰ~10号墳と谷保古墳の11基の古墳が確認されています。
「下谷保10号墳」は平成23年12月に行われた共同住宅建設における試掘調査により埋葬施設と周溝が検出され、その後の平成24年に本調査が行われています。
この古墳の周溝は北側半分が検出されていますが、その形状から細長い不正円形(楕円形?)をしていたようです。通常、古墳の周溝は墳丘と共に円形を描きますから、この10号墳は個性的な古墳です。また、特筆すべきは埋葬施設に凝灰質砂岩と推測される切石切組積み石室が採用されていることです。10号墳に見られるような切石切組積石室は、多摩川中流域ではこれまで5例しか発見されていないそうですから、かなり希少な古墳であるといえます。一体どんな被葬者が埋葬されていたのでしょうか。
石室内からは人骨歯牙2体分が検出されたものの人口遺物はなく、周溝内より須恵器坏蓋・平瓶が1点ずつ出土しています。
下谷保10号墳の跡地には、すでに古墳の痕跡は何も残されていません。現地説明会が行われたら見逃さずに見学に行こうと思っていたのですが、行われなかったようです(行われたのかもしれませんが)。
<参考文献>
国立市教育委員会『東京都国立市 市内遺跡緊急調査報告5 平成21~23年度』
くにたち郷土文化館『くにたち発掘 ~最近の発掘から~』
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- 2016/05/23(月) 01:26:58|
- 国立市/下谷保古墳群
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「下谷保9号墳」は平成21年6月に行われた道路改良工事における試掘調査により、立川段丘面が南に向かう暖傾斜面と急斜面との境で横穴式石室が検出されています。墳丘や石室天井部は削平されていたものの、玄室床面は保存状態がよく、直刀1振の他、鉄鏃10点、刀子2点などが出土しています。
この古墳の規模は周溝が未確認のために明確ではないものの、墳丘径約8mほどの円墳ではないかと推定されています。築造は出土した遺物により6世紀末から7世紀前葉と推定され、下谷保古墳群の時期の判明している古墳の中では最も古い段階に位置付けられると考えられています。
画像の周辺が下谷保9号墳の所在地であると思われますが、地上には古墳の痕跡は残されていないようです。。。
<参考文献>
国立市教育委員会『東京都国立市 市内遺跡緊急調査報告5 平成21~23年度』
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- 2016/05/22(日) 02:39:49|
- 国立市/下谷保古墳群
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「下谷保8号墳」は平成18年(2006)3月に行われた個人住宅建設における試掘調査により、周溝が検出されています。推定墳丘径約10m、外周径約12mという小形の円墳で、ボウリング調査により河原石積横穴式石室が残存していると推測されていますが詳細は不明です。
画像は下谷保8号墳の所在地を南東から見たところです。墳丘はすでに削平されているようですが、未調査の部分が多く残されており、将来の調査が期待されています。

画像は下谷保8号墳の北西側に隣接する祠です。8号墳との関係は不明ですが、この周辺は畑地が多く残されており、またこうした祠が祀られている場所も多く(もちろんこうした祠のすべてが古墳上に建てられたとは限りませんが)、今後の調査により新たな古墳が更に発見される可能性も残されているのではないでしょうか。。。
<参考文献>
国立市教育委員会『東京都国立市 市内遺跡緊急調査報告4 平成16~20年度』
国立市教育委員会『東京都国立市 市内遺跡緊急調査報告5 平成21~23年度』
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- 2016/05/20(金) 10:30:13|
- 国立市/下谷保古墳群
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「下谷保7号墳」は平成16年(2004)4月から5月にかけて行われた個人住宅建設のための試掘調査により確認された古墳です。周溝が未確認のため古墳の規模は不明ですが円墳と推定されており、検出された河原石積横穴式石室からは鉄製刀子の茎尻部が1点出土しています。石室の形状などから7世紀代の築造と推定されています。
画像は下谷保7号墳の跡地を南から見たところです。駐車場となっているあたりが古墳の跡地であると思われますが、やはり痕跡は何も残されていないようです。
<参考文献>
国立市教育委員会『東京都国立市 市内遺跡緊急調査報告4 平成16~20年度』
国立市教育委員会『東京都国立市 市内遺跡緊急調査報告5 平成21~23年度』
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- 2016/05/19(木) 05:42:38|
- 国立市/下谷保古墳群
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「下谷保6号墳」はすでに削平されて墳丘の存在しない古墳です。円墳の周溝ではないかと推測される溝状遺構が一部検出されたのみで、規模や築造年代、石室の構造等はいっさい不明の古墳です。
東京都内の古墳は、周溝が検出されるなど発掘調査により確認されたものが多く、墳丘が残存する古墳は希少な存在となっています。この「下谷保古墳群」も、史跡公園として保存された1号墳と近距離に現存する2号墳、個人の民家内に残されている「谷保古墳」以外には痕跡の残る古墳はなさそうです。古墳探訪にあたり、まだ未確認ながらも痕跡の残る古墳が存在するのではないかという期待もあったりするのですが、なかなか都内では簡単ではないようです。。。
<参考文献>
国立市教育委員会『市内遺跡緊急調査報告5』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
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- 2016/05/18(水) 08:59:57|
- 国立市/下谷保古墳群
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