
「下谷保5号墳」はすでに削平されて墳丘の存在しない古墳で、下谷保遺跡第2地点の調査により周溝が検出されています。残存する「下谷保1号墳」の北東部に隣接して造られており、規模は推定墳丘径約16.5m、外径は20.5mと、下谷保1号墳よりもわずかに小型の円墳です。石室はすでに破壊されて存在せず、周溝から須恵器片が出土しています。
この5号墳は円形周溝墓である可能性も考えられているようですが、下谷保古墳群中に位置することや須恵器が出土していることから古墳時代後期の築造と推定されています。
画像は、残存する下谷保1号墳の墳丘上から見た下谷保5号墳の跡地のようすです。残念ながら古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
国立市遺跡調査会・国立市教育委員会『下谷保遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2016/05/17(火) 01:05:12|
- 国立市/下谷保古墳群
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画像は、「下谷保4号墳」が所在したとされる国立市谷保周辺を東から見たところです。『東京都遺跡地図』には国立市の遺跡番号23-4番に登録されているもののすでに墳丘は削平されて消滅しており、また発掘調査等も行われていないために詳細も不明で、地元の伝承にのみ残されている古墳です。
甲州街道沿いに存在したと伝わるこの4号墳は河原石積みの主体部を持つとされ、また直刀が出土したという伝承も残されているようですが、古墳の正確な跡地はわからなくなっているようです。残念ながら地上に古墳の痕跡を見ることはできませんが、近年この周辺地区の調査は進んでいますので、将来古墳の所在地が特定される可能性を期待したいところですね。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
国立市教育委員会『市内遺跡緊急調査報告5』
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- 2016/05/16(月) 00:23:46|
- 国立市/下谷保古墳群
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画像は、「下谷保3号墳」が所在したとされる国立市谷保周辺を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には国立市の遺跡番号23-4番の古墳として登録されています。この3号墳は、中央高速道路の国立府中インターチェンジ進入道路建設の際に破壊されたと伝えられており、当時は学術的な調査等が行われずに消滅したために詳細不明とされていました。しかし、平成23年度の調査により周溝の東側が検出され、墳丘径約24.5mの円墳であると推定されています。
この場所は道路の切り通しとなって台地ごと削られているため、当然ながら地上に古墳の痕跡は残されていません。径24.5mという下谷保古墳群中最大の円墳が、学術的な調査も行われずに消滅してしまったことは残念ですが、保存された1号墳とともに残存する2号墳が、今後も壊されずに残されることを祈りたいところです。。。
<参考文献>
東京都国立市遺跡調査会・東京都国立市教育委員会『下谷保1号墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
国立市教育委員会『市内遺跡緊急調査報告5』
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- 2016/05/15(日) 00:22:05|
- 国立市/下谷保古墳群
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「下谷保古墳群」は、立川段丘縁辺に位置しており、東西700m、南北150mに分布する古墳群です。この周辺地域にはかつては多数の古墳が存在していたといわれており、『町勢要覧』沿革Ⅰには「谷保天満宮の東方台上に古墳群がある。以前相当多数あったらしいが、開墾されてしまって現在では少し残っているばかりである。」と書かれています。古墳群は梅林遺跡や下谷保遺跡、谷保東方遺跡にまたがっており、現在までに下谷保Ⅰ~10号墳と谷保古墳の11基の古墳が確認されています。
「下谷保2号墳」は、国立市谷保に所在する、国立市の遺跡番号23-2番に登録されている古墳です。この古墳は、昭和60年(1985)8月から11月にかけて行われた調査により測量が行われています。当時の2号墳は耕作により墳丘裾の北側から南側にかけて切断、削平されており、裾部は東側を残すのみで、残存状態は極めて良くない状況にあり、この調査当時の規模は東西12m、南北7mほどで、復元規模は推定径16mほどの円墳であると考えられています。また墳頂部も平坦で後世の盗掘と見られる攪乱も認められ、調査当時の高さ1.5mであるものの、築造当時は2m以上あったのではないかと推定されています。周溝等の外部施設は確認されず、主体部も再三の盗掘により破壊湮滅しているとされており、詳細は不明です。

画像は南西から見た「下谷保2号墳」です。当時の調査報告所には「残存状態は極めて良くない状況」と書かれていますが、破壊の進んだ東京都内の古墳にあってはかなり良い状況で残されているようにも感じます。周辺は開発が進んでいるようですが、いずれは宅地化によリ消滅してしまう運命なのでしょうか。。。
<参考文献>
東京都国立市遺跡調査会・東京都国立市教育委員会『下谷保1号墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
国立市教育委員会『市内遺跡緊急調査報告5』
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- 2016/05/14(土) 01:18:40|
- 国立市/下谷保古墳群
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「下谷保古墳群」は立川段丘縁辺に位置する、東西700m、南北150mの範囲に分布する古墳群です。この周辺地域にはかつては多数の古墳が存在していたといわれており、『町勢要覧』沿革Ⅰには「谷保天満宮の東方台上に古墳群がある。以前相当多数あったらしいが、開墾されてしまって現在では少し残っているばかりである。」と書かれています。古墳群は梅林遺跡や下谷保遺跡、谷保東方遺跡にまたがっており、現在までに下谷保Ⅰ~10号墳と谷保古墳の11基の古墳が確認されています。
画像は、国立市谷保に所在する「下谷保1号墳」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には国立市の遺跡番号23-1番として登録されている古墳です。平成18年には国立市の文化財・史跡に指定されており、現在は史跡公園として整備、保存されています。
敷地内には国立市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
下谷保古墳(1号墳)
この古墳は立川段丘上に位置し、ここから南東四
十メートルに現存する二号墳などと共に古墳群を形
成していたと思われます。
昭和六十年秋、測量と発掘調査を行い、その結果、
周溝が確認され、周溝縁からの東西軸長二十三メー
トル、高さ二メートルの円墳であることがわかりま
した。また主体部の埋葬施設は河原石乱石積みによ
る横穴式石室で、長さ四メートル五十センチ、幅一
メートル八十センチ、高さ一メートル六十センチで
した。
石室は土の圧力により、右側壁と天井が崩落して
いましたが、奥壁と左側壁はほぼ完全に残っていま
した。
遺物は、直刀と鉄製の矢じり数本などが出土して
おります。
以上のことから、この古墳は、古墳時代後期、六
世紀末~七世紀初頭の築造と推定されます。
平成20年3月
国立市教育委員会

この1号墳の墳丘周囲にはかつては屋敷墓があり、このため地元では「骨塚」と呼ばれていたそうです。このため、墳丘の大きな破壊はなく、盗掘を受けることもなかったといわれています。また、墳丘頂部にはかつて稲荷社が祀られていたそうで、画像の墳丘右側に河原石を積んだ階段が残されているのはこの名残であるようです。

墳頂部から見下ろしてみたところ。下から見ると平坦に見えるのですが、墳丘に登ってみると意外と高さがあるように感じます。

古墳の北東側には、かつて墳丘上に祀られていたという稲荷社が祀られています。。。
<参考文献>
東京都国立市遺跡調査会・東京都国立市教育委員会『下谷保一号墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
現地説明版
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- 2016/05/13(金) 02:21:50|
- 国立市/下谷保古墳群
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「七ツ塚古墳群 8号墳」は、平成14年(2002)6月から9月にかけて行われた発掘調査により確認された古墳です。調査当時、墳丘はすでに削平されて消滅していたものの、周溝の約2分の1が検出されており、内径約13.5mの周囲に幅1.5~1.5mの周溝が巡る円墳であると推定されています。主体部は完全に削平されていて詳細は不明で、遺物も出土しなかったようです。古墳は6世紀後半から7世紀代の築造と推定されています。
周溝から落下した葺石や埴輪が出土していないことから外表施設は存在しなかったのではないかと考えられているようですが、周溝西側を切っている溝の覆土から円筒埴輪片が採集されており、また周溝覆土から他の古墳を築造した残土を投棄したと考えられる層が検出されたことから、この8号墳に極めて近い位置に未確認の古墳が存在する可能性が考えられているようです。
画像は8号墳の跡地を南西から見たところです。当然ながら古墳の痕跡は何も残されていません。
「七ツ塚」の地名は古くから知られていた7基の塚の存在が由来であるといわれていますが、この調査結果により少なくとも8基以上の古墳から成る古墳群である可能性が高くなっているようです。
<参考文献>
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡13』
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- 2016/05/11(水) 09:19:32|
- 日野市/七ッ塚古墳群
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「七ツ塚古墳群 7号墳」は明治27年(1895)に発掘が行なわれたとされる古墳です。『西党事蹟考』の挿図等から旧谷戸北側の崖線上、現在の日野自動車総合運動場入口付近が跡地ではないかと推定されているようですが、古墳は消滅しており、正確な場所は判らなくなっているようです。画像の、空き地の周辺から、奥の宅地のあたりが古墳の跡地であると思われますが、古墳の痕跡を地上に見ることはできません。
周辺地域は開発が進んでおり、この空き地も宅地化が予定されているようですので、いずれは風化して存在が忘れられてしまう古墳なのかもしれません。。。

画像は現在の1号墳のようすです。発掘された7号墳の残土は、当時残存する1号墳に盛土したものであるといわれていましたが、この1号墳は調査により古墳ではなかったことがわかっています。この際に墳頂部に金刀比羅神社が祀られており、7号墳から出土した直刀5本がこの祠に収められたといわれていますが、この直刀の所在はわからなくなっているようです。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』
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- 2016/05/10(火) 00:45:56|
- 日野市/七ッ塚古墳群
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画像は、「七ツ塚古墳群 6号墳」を南から見たところです。
この6号墳は発掘調査が行われていないため、本来の規模や築造された時期については不明とされています。現状の規模は南北約6m、東西約3.5m、高さ約0.6mが残存しており、墳丘上には3cm~10cm大の小礫を中心に20~30cm大の小礫が混在しています。3~6号墳の4基の古墳の周辺からは、メノウの勾玉・水晶の切子玉・ヒスイの勾玉等が採集されているそうです。

画像の中央に見えるのが6号墳、左奥に5号墳、右奥が4号墳です。。。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』
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- 2016/05/09(月) 00:09:56|
- 日野市/七ッ塚古墳群
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画像は、「七ツ塚古墳群5号墳」を西から見たところです。現状規模は、南北約7m、東西約4m、高さ約1.2mの墳丘が残存しているようですが、発掘調査が行われていないため、築造当時の規模は不明です。実際に見学したところでは墳丘はかなり長細い印象で、東西の規模は4mもないように思いますが、時間の経過による風化でさらに小さくなっているのかもしれません。
報告書には「表面には、30cm~50cm大の小礫を主に、5cm大の小礫が混在している」と書かれていますが、この状況には大きな変化はないようで、石室の石材を連想させる河原石を見ることが出来ます。

江見水蔭は明治から大正にかけて活躍した小説家です。彼は執筆活動の傍ら、遺跡を訪ね歩いて収集した遺物を、自宅に設けた「太古遺物陳列所」で公開していたそうで、その数は28,000点以上にもなっていたそうです。日野市史編さん委員会より発行された『日野市史 別巻 市史余話』にはこの江見水蔭のコレクションについての記述を見ることが出来ます。
七ツ塚古墳の鏃 これらの水蔭のコレクションの中に、市内の七ツ塚古墳(新町5丁目)から採集したと思われる2つの鏃も含まれていた。
1906年水蔭は、秩父の汲古館(現長瀞総合博物館)へ胴鏃を、さらに1916年には京都大学へ「武蔵国日野在クヨウ出土」とされる石鏃を寄贈している。いずれも七ツ塚古墳から採集した可能性の強いもので、現在も両所に保存されている。
東光寺の郷土史家立川民蔵が著した『西党事蹟考』(1927年)には1927年6月8日、稲村坦元(東京府史蹟係)・後藤守一(帝国博物館鑑査官)の2人が七ツ塚古墳の調査に訪れた時、「江見水蔭氏が日野七ツ塚より出た胴鏃を持っているが、どのあたりから出たものか」との質問を受けた事が記載されているので、これらが一時水蔭の手元にあったことは確かであろう。
(『日野市史 別巻 市史余話』21ページ) 現在では文化財保護法などの法律も整備され、遺跡から出土した遺物は教育委員会や遺蹟調査会などによって管理、保存されて研究の為に役立っていますが、当時は発見者や土地所有者などの手元に置かれた後、所在がわからなくなってしまった遺物も多かったようですし、こうした一部の収集家の功績も大きかったのではないかと思います。
<参考文献>
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
日野市史編さん委員会『日野市史 別巻 市史余話』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』
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- 2016/05/08(日) 09:22:26|
- 日野市/七ッ塚古墳群
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画像は、日野市新町5丁目に所在する「七ツ塚古墳群 4号墳」を南西から見たところです。
「七ツ塚古墳群」からはかつて女性埴輪が出土しており、この埴輪について、鳥居龍蔵氏により明治27年(1894)に「島田髷に似たる古代の結髪」として報告され、これによって「七ツ塚古墳群」の名が知られるようになったといわれています。その後、昭和2年(1927)発行の『武蔵野』に掲載された鳥居龍蔵著「日野台発見島田髷の埴輪」では、八丈島で明治20年前後まで行われていた女性の結髪との比較により、この埴輪の結髪は島田髷であり、上代(原始時代)に島田髷が既に行なわれていたとの結論を報告しています。この女性埴輪が出土したとされているのが、画像の七ツ塚古墳群4号墳です。
この4号墳は2003年度の確認調査で周溝の一部が検出されているようなので、古墳本来の規模が判明しているのかもしれませんが、地元の図書館では発掘調査報告書が見当たらず、詳細はわかりませんでした。
画像の4号墳の奥に小さく見えるのが5号墳、左端に見えるのが6号墳です。狭い範囲に、群集する複数の古墳が残存する古墳群は、少なくとも東京都内ではかなり稀少名存在ですので、なんとかこのまま保存されることを期待したいところですが、いずれは宅地化により消滅してしまうのでしょうか。

残存規模は、南北約11m、東西約5m、高さ約1.4mで、形状は4半球状となっています。

画像は墳丘上のようすです。表面には約50cm大の礫が露出しています。恐らくは石室を構築する石材の一部ではないかと思われますが、この古墳はすでに発掘されている可能性が大きいとされているものの調査記録はなく、詳細はわかりません。
<参考文献>
鳥居龍蔵「日野台発見島田髷の埴輪」『武蔵野』第十巻 第五号
日野市史編さん委員会『日野市史 史料集 考古資料編』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
日野市遺跡調査会『七ツ塚遺跡14』
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- 2016/05/07(土) 00:25:08|
- 日野市/七ッ塚古墳群
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