FC2ブログ

古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「神明塚古墳」

「神明塚古墳」

 画像は、国立市谷保栗原にある「神明宮」を南から見たところです。
 この神社は段丘縁辺に所在しており、周辺にはかつて古墳ではないかと考えられる塚が存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には「神明塚古墳」の名称で、国立市の遺跡番号16番の”古墳時代の円墳(?)”として登録されています。学術的な調査は行われていないために詳細は不明で正確な所在地もわからないようですが、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』に記述があることからこの古墳の存在が知られているようです。


「神明塚古墳」

 画像は神明宮境内のようすです。少なくともこの神社の敷地内には古墳らしきマウンドは存在しないようですが、「神明塚古墳」はどこに存在したのでしょうか。

 『武蔵名勝図会』は、千人同心組頭で『新編武蔵国風土記稿』の編纂にも参加した植田孟縉著作の江戸時代後期の地誌で、多磨郡の名所や旧跡が挿絵入りで描かれています。同書には「この神明塚と城山の間に、神明の社地あり。往古よりの鎮守社にてもありしや。いま城山の地は神明の除地免なり。又伝この塚は百姓屋敷の内にて折廻したる土手の鼻の少し高き地にて、榎の古木一株あり。その下に板石の古碑一基土中に埋まりて、二尺程出たり。その上に雨覆いをなし、この碑を神明に祀れり。祟りしことあるゆえなりとぞ。土俗この石碑の謂われも不知。この塚の前の平らかなるところに大なる平面ありて、その下に石函の如きもの埋まりてありと数百年の言伝えなり。」とあり、城山とともに描かれた神明社の南西に「古塚」として古墳らしきマウンドが描かれています。


「神明塚古墳」

 武蔵名勝図会の挿絵を参考にすると、画像の周辺が古墳の跡地ではないかと推測されます。一部は宅地化されている区域もあるようですが、これまで古墳の周溝や埋葬施設が検出されたという記録は見当たらないようですので、農地となっているどこかに「石函の如きもの」が残されているのかもしれません。残念ながら、地上には古墳の痕跡は何も残されていないようです。


「神明塚古墳」

 古墳のあるところにお稲荷さんが祀ってあると、かつては墳丘上に祀られていたのではないかと気になってしまいます。多摩川流域の小円墳が単独で存在するとは考え難いですし、四軒在家古墳群のように、将来の発掘調査により群集する古墳群が検出される可能性もあり得るかもしれませんよね。周囲には畑地もかなり残っているし。。。。

<参考文献>
東京都国立市遺跡調査会・東京都国立市教育委員会『下谷保一号墳』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/30(木) 23:43:02|
  2. 国立市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

「梅林1号横穴墓」

「梅林1号横穴墓」

 「梅林1号横穴墓」は、下谷保10号墳の東方8m程の立川段丘斜面地から検出された横穴墓です。玄室と羨道、墓前域から構成されており、墓前域の先端から玄室奥壁までの全長は4.7mを測ります。出土遺物がなく、人骨等も出土しなかったものの、玄室の規模が小さいことや多摩地域の横穴墓の変還等から、終末期である7世紀後半から8世紀前半に築造されたものと推測されています。

 国立市内の同じ立川段丘上からは「谷保東方横穴墓」が発見されています。この谷保東方横穴墓周辺からは、レーダー探査の結果、複数の横穴墓の存在の可能性が想定されています。横穴墓は単独で築造されることは少なく、群集する例が多いことから、梅林1号横穴墓の周辺にも未発見の横穴墓が存在するのではないかと考えられているようです。
 また、多摩川上中流域の古墳群と横穴墓群はそれぞれが独立して存在することが多いようですが、国立市内の横穴墓に関しては、下谷保古墳群の東側の支群に谷保東方横穴墓画存在しており、西側の支群に梅林1号横穴墓が隣接しており、この古墳群と横穴墓群の関係についても注目されているようです。

 画像の周辺が梅林1号横穴墓の跡地となるようですが、すでにこの場所は駐車場として整備されており、残念名がら古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
国立市教育委員会『東京都国立市 市内遺跡緊急調査報告5 平成21~23年度』
くにたち郷土文化館『くにたち発掘 ~最近の発掘から~』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/24(金) 05:00:52|
  2. 国立市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「谷保東方横穴墓」

「谷保東方横穴墓」

 画像は、国立市谷保の「谷保東方横穴墓」の跡地を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には国立市の遺跡番号25番の横穴墓として登録されている古墳です。

 この横穴墓は昭和51年12月の道路改良工事中に偶然に発見され、翌52年3月より調査が行われています。画像の府中崖線上の道路沿いの柵に説明板が設置されているのが見えると思いますが、この説明板のある地上から2〜3mのあたりが横穴墓の跡地となるようです。
 主軸の長さ3.6m、奥壁は底面の幅2.25m、高さ0.65mで半円形を呈しており、床面には河原石が敷き詰められていたそうです。玄室からは人骨が発見されていますが、少なくとも成人4個体が葬られていて、そのうち3人は男性であったと推定されています。副葬品として鉄製の刀子が出土しており、築造の時期は7世紀末から8世紀代と推定されています。発見された横穴墓は1基のみですが、同一斜面に多くの横穴墓が群在していると考えられています。


「谷保東方横穴墓」

 画像は、崖線上の道路沿いに国立市教育委員会により設置された説明板です。残念ながら横穴墓を見学することは不可能で、この説明板のみが古墳の痕跡と言えそうです。

  谷保東方遺跡 横穴墓
 この横穴墓は、昭和五十一年に行われた道路
改良工事の際に発見されたもので、横穴墓とし
ては市内で初めての発見です。
 構造は、段丘の斜面を横に掘削して造られて
おり、奥行き三・六メートル、天井はアーチ型
で高さ一・三八メートル、床面には河原石が敷
き詰められています。このような造り方から、
築造年代は七~八世紀と考えられています。
 また、玄室(墓室)からは四体の人骨と、副
葬品として鉄製刀子(ナイフ、長さ十四センチ
メートル)一口が発見されました。

 平成二年三月      国立市教育委員会


<参考文献>
国立市教育委員会『国立市文化財調査報告書第5集 谷保東方遺跡』
現地説明板


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/22(水) 00:35:07|
  2. 国立市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「鰭ヶ崎三本松古墳」

「鰭ヶ崎三本松古墳」

 今回もちょっと脱線。6月18日に現地説明会が行われた「鰭ヶ崎三本松古墳」を紹介したいと思います。

 流山市鰭ヶ崎字塚ノ腰に所在する鰭ヶ崎三本松古墳は、流鉄流山線鰭ヶ崎駅からは徒歩5分、JR武蔵野線とつくばエクスプレス南流山駅からは徒歩10分ほどの標高20mほどの台地上に立地します。今回は、まだ一度も乗ったことのなかった流鉄流山線を利用して鰭ヶ崎駅から歩いて現地に向かいました。
 流鉄流山線は松戸市の馬橋駅と流山市の流山駅までの全6駅を結ぶ路線です。先週は、鎌倉市由比ガ浜の「長谷小路周辺遺跡」の発掘現場見学会の見学のために久しぶりに江ノ電を利用しましたが、この流鉄流山線も2両編成のレトロでカラフルな電車です。自動改札が無く、改札で駅員さんに切符を手渡しするあたりが懐かしい感じです。。。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 鰭ヶ崎駅を降りると、古墳までの道のりは曲がり角のたびに案内板が立てられているので、迷わずに進むことができます。さすがに行き届いています。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 坂道の途中で、発掘途中の鰭ヶ崎三本松古墳の後円部がちらりと顔を覗かせています。
 この古墳は地元では塚と呼ばれており、この塚の存在が周辺地域の「塚の腰」という字名となっているそうです。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 坂を登り切った台地上が古墳の所在地であり、現地説明会の会場です。当日は天気もよく、かなり多くの人が見学に訪れていました。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 画像が、鰭ヶ崎三本松古墳を北西から見たところです。かなり発掘が進んでいるためわかり難いかもしれませんが、右手前が前方部、左奥が後円部です。発掘調査は平成27年7月から行われており、全長は約40m、後円部の直径約25m、高さ約2.5mの前方後円墳であることがわかっており、江戸川左岸では、市川市の法皇塚古墳や弘法寺古墳に次ぐ規模の貴重な古墳として位置付けられています。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 画像は南西から見た鰭ヶ崎三本松古墳です。こちらから見るとなんとか形状がわかるのではないかと思いますが、左手前が前方部、右奥が後円部です。
 この古墳の東側と南側は、昭和30年代後半に宅地造成のための土取りにより削られていて古墳ぎりぎりまで崖となっており、古墳の現状保存は困難であるようです。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 手前に見えるのが周溝で、奥に見えるのが後円部です。周溝は幅4m、深さ約0.4m、長さ18mにわたって検出されています。後円部の周囲からは周溝が検出されているものの、中世以降の攪乱により前方部の周囲からは周溝は検出されていないようです。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 後円部の墳丘断面のようすです。墳丘の築造の際にちがった種類の土を交互に敷いて叩き締めていく「版築(ばんちく)」の手法を見ることができます。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 画像は古墳の全景を北西から見たところです。埋葬施設は今の段階では検出されていないようなのですが、千葉県北部から茨城県の霞ヶ浦周辺にかけての前方後円墳には、墳丘上ではなく前方部と後円部の間のくびれ部の裾の部分に埋葬施設を設けるという特徴がみられることから、今後この場所から埋葬施設が発見される可能性も考えられるとのことなので、このあたりは今後の調査の進展が楽しみですね。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 出土した円筒埴輪です。発掘調査により出土した埴輪は様々な場所から発見されており、完全な形を保っているものは殆どなかったようです。完形に近いこの埴輪は貴重ですね。


「鰭ヶ崎三本松古墳」「鰭ヶ崎三本松古墳」

 人物埴輪の破片も多数出土しているようです。


「鰭ヶ崎三本松古墳」

 画像は、古墳から移設された現在の「三本松稲荷」です。かつての墳丘上にはこの稲荷神社が祀られており、下総國鰭崎邨古冢碑(しもうさのくに ひれがさきむらこちょうひ)と刻まれた石碑が立てられていました。碑文は漢字で書かれているようですが、『天明の飢饉の時、古くから貴人の墓と伝えられている塚を掘れば宝器があるにちがいないと村人たちが話していました。それを里正(名主)である渡辺充房と子の寅が聞き、米を与えて塚を掘るのを止めさせ、続く睦も塚を守ったので白虎が現れ、村も渡辺家も繁栄した」という内容であるようです。この石碑は現在修復作業が行われているそうで、残念ながら今回見ることはできませんでした。。。
 
<参考文献>
流山市教育委員会・生涯学習部 図書・博物館『鰭ヶ崎三本松古墳 現地説明会資料』
流山市教育委員会『チェック!流山のむかし』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/19(日) 02:05:11|
  2. 千葉県の古墳
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

「春名塚」

「春名塚」

 今回は、西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷に所在したとされる「春名塚」を紹介したいと思います。実はこの塚は私にとって悔やんでも悔やみ切れない、消滅してしまった塚です。

 この塚については瑞穂町教育委員会より発行された『瑞穂の地名』に記述を見ることができ、
 「春名塚」は榛名塚のことで、近年まで榛名様が祀られ、「ひようまぶり」をした所。塚はその名残がある筈という。
 と書かれています。この春名塚は周辺の地名にもなっており、画像の周辺が旧春名塚地区となるわけですが、同書の「塚はその名残がある筈という」という通り、グーグルマップで検索すると、画像のあたりから斜めに西に向かう農道のような細い道があり、この道の周辺に塚の痕跡らしき名残を見ることができます。斜めの道のY字路の間の三角地には塚の跡地を思わせる小さな木立があり、さらにこの道を東に4〜50メートルほど進むと、左側には塚の残骸を思わせるマウンドとその上に祠が祀られているような地点が存在します。
 Y字路の木立が塚の名残であるならば、画像のあたりが春名塚の跡地となる筈ですが、痕跡は何もなく、雑草が生えるに任せた更地となっています。


「春名塚」

 農道の途中にある塚の残骸らしきマウンドが春名塚であるならば、画像の道路の左側あたり(ちょうどトラックが停車しているあたり)が跡地ではないかと思われますが、こちらも完全に区画整理が行われていて、何の痕跡も残されていません。
 現在もまだグーグルマップで検索できるこの地点には雪が残されており、恐らく今年の初冬の画像ではないかと思われますが、春名塚を調べていた昨年にすぐ訪れていれば塚の痕跡を見ることができていたかもしれないのですが、タッチの差で区画整理が行われ、すべて消滅してしまったようです。
 こういう残念な出来事は油断しているとたま〜にやってくるのですが、本当に思い立ったらすぐに行動ですね。


「春名塚」

 春名塚の痕跡は、バスの停留所の名称などに残されているようです。

<参考文献>
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/15(水) 03:10:46|
  2. 武蔵村山市•瑞穂町の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

「長谷小路周辺遺跡の石棺墓と土墳墓」

「長谷小路周辺遺跡の石棺墓と土墳墓」

 この「古墳なう」は"大都市東京の失われた古墳"をテーマに、古墳ではないかと考えられていた塚などを含めて東京都内の古墳を紹介していますが、今回はちょっと脱線して、神奈川県で発見された石棺墓を珍しくタイムリーに紹介したいと思います。

 画像は、鎌倉市由比ガ浜3丁目の「長谷小路周辺遺跡」で6月12日に行われた発掘現場見学会のようすを東から見たところです。この日は日曜日であるにもかかわらず朝早くからかなり大勢の見学者が訪れており、この遺跡への関心の高さが伺えます。この遺跡からは今回調査が行われたこの長谷小路周辺遺跡からは、古墳時代から鎌倉~室町時代にかけての遺構が発見されており、古墳時代からは、北に向かって下がる斜面から火を燃やした炉跡1箇所、埋没土器2基、散乱した土器、貝殻、軽石などが見つかっています。また、この斜面が海岸から吹き寄せた砂で1mほど埋まった後に、石棺墓1基、土墳墓1基、土坑などが見つかっているようです。


「長谷小路周辺遺跡の石棺墓と土墳墓」

 画像は発見された石棺墓のようすです。部分的に加工した泥岩を積み上げた中央に、長さ162cm、幅35cm、深さ45cmの埋葬施設を造り、床には砕かれた泥岩が敷かれています。上部には天井石が置かれていたそうですが、これは取り除かれているとのことでした。石には形を整えたとみられる工具痕が残されていたそうです。
 私は、海岸に沿う地域での見学会は初めてでしたが、掘られた土の色がとても印象的で、やっぱり砂なんだなあと思います。


「長谷小路周辺遺跡の石棺墓と土墳墓」

 画像は北西から見た石棺墓です。人骨がかなり良い状態で残されているようすがわかります。
 被葬者は、骨や歯の状況から15歳前後の身長は156.2cmの男性で、頭を南東に向けて仰向けで体を伸ばした仰臥伸展葬の姿勢をしています。ちなみに類例としては横須賀市久里浜の八幡神社遺跡で発見されており、神奈川県内では2例目となるようです。


「長谷小路周辺遺跡の石棺墓と土墳墓」

 画像が土墳墓のようすです。石棺墓の西側8.3mに位置しており、穴が掘られた中に、頭を東に向けて仰向けに体を伸ばして埋葬されています。埋葬された人物の年齢や性別は不明で、今後鑑定が行われるようです。


「長谷小路周辺遺跡の石棺墓と土墳墓」

 石棺墓の内部からは副葬品は見つかっていないが、盗掘の形跡はなく、元々なかったものと考えられているようです。
 見学会会場では多くの出土遺物が公開されていました。画像は土師器と須恵器の破片です。

<参考文献>
(株)斉藤建設 埋蔵文化財調査部『長谷小路周辺遺跡 発掘現場見学会 説明資料』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/13(月) 02:07:29|
  2. 川崎市の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「二本榎塚(天神塚)」

「二本榎塚(天神塚)」
 
 江戸街道と八王子道が交差する南東の一角に存在したとされるのが「二本榎塚」です。画像は、この二本榎が所在したとされる旧江戸街道と八王子道の交差する地点を東から見たところです。その名の通り、二本の榎が植えられた塚であったといわれていますが、開発により完全に消滅しており痕跡を見ることはできません。
 『瑞穂の地名』によると、「二本榎 石畑診療所の東、江戸街道と八王子道とが交差する東南の一角には、二本の榎が植えられた塚があったとのことである。今その名残と思われる宝篋印塔の上半分と自然石に庚申と彫った塔が残っている。戦前はここはむしろ凸地になっていたが、これは江戸街道の道ぶしんの際に塚の土だけでは足りず、地下に掘り下げ、砂利の採掘をしたためである。この二本榎を越した南の一帯を榎向うとよんでいる。」と書かれています。


「二本榎塚(天神塚)」

 二本榎から北に向かった、残堀川を渡る「二本榎橋」に塚の名称を見ることができます。
 この塚に立てられていたという宝篋印塔と庚申塔は当時、瑞穂町の郷土資料館に移されたようですが、現在は所在がわからなくなっているとのことで、見学することは出来ませんでした。瑞穂町では現在、石造物の追跡調査を行っているようですので、発見されることを期待したいですね。。。


「二本榎塚(天神塚)」

 二本榎橋の中央には石橋供養塔が建てられています。石橋供養塔とは、橋の建造中に事故などでなくなった人の供養のためのものと思いがちですがそうではなく、石橋が落ちることなく永続的に続くようにという願いを込めて建てられた記念碑であるといわれています。瑞穂町内には合計5基の石橋供養塔が建立されているようですが、当時数少ない石橋がどのようなものであったか、とても興味深いものです。 

<参考文献>
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』
紅林章央「多摩の橋景色の移り変わり」『多摩のあゆみ 第123号』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/12(日) 04:05:47|
  2. 武蔵村山市•瑞穂町の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「奈良橋庚申塚」

「奈良橋庚申塚」

 東大和市内に現存する高塚古墳は存在せず、この地域に有力な支配者の存在はなかったのではないかとも考えられているようですが、塚の存在により「塚」が地名として使われた場所は数多く存在するようです。芋窪村には法界塚、狐塚。蔵敷村には山王塚、庚申塚、塚前。高木村には蛇塚、塚下。清水村には金剛塚、庚申塚。宅部・内堀地区には行人塚、東光院塚、大塚、庚申塚、御判塚、送神塚、霊光塚、塚の腰など、かなりの数にのぼりますが、多くの塚は現在消滅しており、その位置も判らなくなっているようです。

 「奈良橋庚申塚」も、地元ではかなり知られた地名であるようですが、残念ながら塚は削平されており、現在は存在しません。画像は奈良橋庚申塚の跡地を南東から見たところです。交番の前の、交差点の角のところに塚は存在したようです。


「奈良橋庚申塚」

 画像は、奈良橋庚申塚から移設された現在の庚申塔のようすです。東大和市奈良橋1丁目の雲性寺の山門の下に所在します。庚申塔のほかに馬頭観音も立てられています。一説によると、新青梅街道拡張工事の際、駐在所に出入りするパトカーの邪魔になるということで庚申塚は崩されてしまったようですが、庚申塔や馬頭観音、道標といった石造物は元あった場所に保存しないと意味がないように思いますが、このあたりはなかなか難しいですね。。。


「奈良橋庚申塚」

 天王山雲性寺の山門前のようすです。創建は永享11年(1439)といわれるこのお寺の山門はなんと、箱根の関所の一の門として使われていたものなのだそうです。この山門はなかなか数奇な運命を辿っているといわれますので詳しく調べてみると面白いかもしれません。


「奈良橋庚申塚」

 雲性寺境内に咲く「ハンカチの木」の花です。私はこの花をこの雲性寺の境内で初めて見ましたが、なかなか見ることのない珍しい形状の花だと思います。。。


「奈良橋庚申塚」

 「奈良橋庚申塚」の痕跡は、様々な場所に名称として残されているようです。バス停にも……


「奈良橋庚申塚」

 交差点にも……


「奈良橋庚申塚」

 そして橋の名称にも!東大和市内で一番有名な塚の名称であるようですし、やはり塚が消滅してしまったのは残念でなりません。。。 

<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/11(土) 03:42:58|
  2. 東村山市•東大和市の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「山王塚」

「山王塚」

 画像は、東大和市蔵敷2丁目に所在する「山王塚」の跡地を北西から見たところです。

 この場所はかつて三本杉または一本杉とも呼ばれた杉の木が目印となっていた三角地で、現在はフェンスで囲まれた中に山王社が祀られています。東大和市教育委員会より発行された『道と地名と人のくらし』では昭和49年当時の山王塚の写真を見ることが出来ますが、かつてのこの場所は小高く盛り上がった塚上に祠が祀られていて、古墳ではないかとも考えられていたようです。雑誌『武蔵野』にはこの周辺の遺跡を廻った村高擔風氏の一文が掲載されており、「山王塚の遺跡 自動車にて村山に着くや蔵敷村に有名な夫婦杉のある山王塚に向ふ桑畑には未だ雪の鹿の子斑に残る霜解道を漸くに夫婦杉の許に抵れば小高くなれる薮は古墳の崩れたるものにて小さな祠が安置してある四辺の畦道を彷徨ひて石斧を獲たるが内野杢左衛門氏方に多数蔵すを聞き同家を訪ふ旧地の主人快く倉より取出して土器(形は崩る)石器矢根石等を示さる何れも同村字台より発掘せるもの縄紋土器は磨石斧と共に出しが当時は博物館にても土器全形を足るものなりかば非常に珍重されしなん……」と書かれています。

 多摩川から遠くはなれた東大和市内では未だ古墳の発見はないようですが、当時「古墳の崩れたるもの」と考えられた山王塚も残念ながら古墳ではなかったようです。


「山王塚」

 ちなみに、雑誌『武蔵野』は日本考古学の指導者として著名な鳥居龍蔵氏により創立された「武蔵野会」の機関紙として創刊された雑誌です。東大和市内においては、大正5年(1916)に東京市により村山・山口両貯水池の建設が行われた際、湖底に沈んでしまう埋蔵文化財の調査を依嘱されたのが鳥居龍蔵氏であったそうです。鳥居龍蔵氏といえば、大正12年(1923)に起こった関東大震災で東京が廃墟と化した際、震災によって建物が焼けたり崩れたりして元々の地面の起伏が露出したことを鳥居龍蔵氏はチャンスと捉えて、カメラを携えて東京市中の古墳と思われる塚を調査したというエピソードが有名ですが、東大和市内の調査を行っていたとは知りませんでした。。。


東大和市 未登録 山王塚3

 この山王塚の場所は「蔵敷調練場跡」として昭和55年4月1日に東大和市の旧跡として指定されており、敷地内には東大和市教育委員会による説明板が立てられています。この説明板には次のように書かれています。

東大和市旧跡
蔵敷調練場跡
             所在 東大和市蔵敷二丁目
             指定 昭和五十五年四月一日

 江戸時代末期は日本全体が混乱し、治安が乱れていた。
このため、丈久三年、この付近を治めていた韮山代官江川
太郎左衛門は、治安維持のため、また頻繁に起こる百姓一
揆鎮圧のため、村役人級の農民に編成し、小銃を貸し付け、
農業の合間に軍事訓練を行った。農兵に軍事訓練を行った
場所を調練場といい、この付近一帯がその場所であった。
                 東大和市教育委員会


 山王社の南側が調練場で、北西の一角にはクリの木で作った玉除を埋めこんだ大きな土手が築かれて射的場として使われていました。現在は開発が進み昔の面影はなくなっているようですが、調練場という名は戦前までは残されていたようです。。。

<参考文献>
村高擔風氏「村山地方の遺跡廻り」『武蔵野 第一巻 第一号』
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/09(木) 00:58:38|
  2. 東村山市•東大和市の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

「瑞穂町内の消滅塚について」

「瑞穂町内の消滅塚について」

 西多摩郡瑞穂町の旧石畑村周辺には、かつては数多くの塚が存在したといわれています。そのほとんどはすでに開発により消滅しており、その姿を見ることはできませんが、地元の郷土誌などの記録の中にその面影を見ることができます。

 現在の西多摩郡瑞穂町武蔵周辺に所在したとされるのが「思案塚」です。瑞穂町教育委員会より発行された『瑞穂の地名』にはこの塚について「石畑の上(かみ)駐在所の道は江戸街道を横断してしばらく行くと二又に分れる。右へ行けば、一本杉の所で拝島街道に交差し更に進んで川崎街道となる左側を進めば、桜株で拝島街道に合する。更に進めば福生街道と合し、先は伊奈街道となる。旅人が右に行っても左に行っても、所詮拝島街道に行き当るのであるがさてどちらの道を通ったらよかろうかとしばし、立止まって思案したところであったので、この二又の間につくられた塚を思案塚と名づけたという。」と、この塚の所在地と名称の由来について記されています。
 この周辺は、特に新青梅街道の南側を中心に区画整理が行われているため、思案塚の所在地である二股の道の正確な場所はわかりません。画像にみえる、新青梅街道の奥(南側)あたりが思案塚の跡地であると思われますが、塚の痕跡を見ることはできないようです。


「瑞穂町内の消滅塚について」

 日光街道と大江戸街道が交差する南東の隅には、福泉氏の享保年間の碑の立つ、笹に覆われた塚があったといわれています。大江戸街道は別名桜街道と呼ばれ、かつては道の両側に桜の木が植えてあったそうですが、その名残か塚の近くにも桜の大きな切株があり、このことから「桜株」の地名が生じたといわれています。
 現在の旧日光街道を南に向かうと、横田基地により道が分断されて行き止まりとなっており、画像がその突き当たりの周辺です。地名の由来となった桜株や笹に覆われたという塚は基地の広大な敷地に取り込まれて痕跡はまったく残されていないようです。


「瑞穂町内の消滅塚について」

 桜株の東側、石経塚から西に伸びた農道が大江戸街道に交差するところにあったといわれるのが「念仏塚」です。また、この日光街道をさらに南に進み、川崎街道が交差するところには村山雅楽助の子の孫右衛門を葬った塚であると伝わる「孫右衛門塚」があったといわれています。
 都市化により街の景観が変わっても、東京というところは意外と古いものが残されていたりするものですが、この横田基地の容赦ない感じは言い知れぬ寂寥感に襲われます。
 戦争ばっかりやってると土地の歴史も破壊されてな〜んにもなくなっちゃうからいい加減やめね〜か?と根拠なく思います。。。

<参考文献>
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/06/08(水) 00:28:00|
  2. 武蔵村山市•瑞穂町の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

カテゴリ

足立区/伊興古墳群 (4)
足立区/その他の古墳・塚 (9)
葛飾区/立石古墳群 (3)
葛飾区/その他の古墳・塚 (10)
江戸川区の古墳・塚 (0)
板橋区/志村古墳群 (10)
板橋区/その他の古墳・塚 (36)
北区/赤羽台古墳群 (2)
北区/十条台古墳群 (2)
北区/飛鳥山古墳群 (8)
北区/田端西台通古墳群 (1)
北区/その他の古墳・塚 (14)
荒川区/尾久 微高地 (4)
荒川区/町屋-三河島 微高地 (19)
荒川区/南千住 微高地 (3)
荒川区/日暮里 台地上 (2)
台東区/上野台古墳群 (5)
台東区/その他の古墳・塚 (7)
墨田区の古墳・塚 (4)
練馬区の古墳・塚 (16)
豊島区の古墳・塚 (3)
文京区の古墳・塚 (8)
杉並区の古墳・塚 (18)
中野区の古墳・塚 (17)
新宿区の古墳・塚 (19)
千代田区の古墳・塚 (7)
目黒区の古墳・塚 (9)
渋谷区の古墳・塚 (19)
港区の古墳・塚 (8)
品川区/品川大井古墳群 (7)
品川区/その他の塚 (15)
大田区/田園調布古墳群 (34)
大田区/鵜の木・久が原古墳群 (8)
大田区/その他の古墳・塚 (52)
世田谷区/野毛古墳群 (24)
世田谷区/殿山古墳群 (9)
世田谷区/大蔵古墳群 (0)
世田谷区/砧中学校古墳群 (2)
世田谷区/喜多見古墳群 (13)
世田谷区/砧古墳群その他 (8)
世田谷区/その他の古墳・塚 (18)
武蔵野市の古墳・塚 (3)
三鷹市の古墳・塚 (7)
狛江市/狛江古墳群(和泉) (34)
狛江市/狛江古墳群(岩戸) (13)
狛江市/狛江古墳群(猪方) (29)
狛江市/その他の古墳・塚 (1)
調布市/国領南古墳群 (2)
調布市/下布田古墳群 (16)
調布市/上布田古墳群 (7)
調布市/下石原古墳群 (2)
調布市/飛田給古墳群 (17)
調布市/その他の古墳・塚 (13)
府中市/武蔵府中熊野神社古墳 (2)
府中市/白糸台古墳群 (14)
府中市/高倉古墳群 (32)
府中市/御嶽塚古墳群 (19)
府中市/その他の古墳・塚 (15)
国立市/下谷保古墳群 (12)
国立市/青柳古墳群 (3)
国立市/その他の古墳・塚 (9)
立川市の古墳・塚 (14)
稲城市の古墳・塚 (12)
多摩市/和田古墳群 (15)
多摩市/その他の古墳・塚 (8)
日野市/平山古墳群 (7)
日野市/西平山古墳群 (5)
日野市/七ッ塚古墳群 (9)
日野市/万蔵院台古墳群 (4)
日野市/その他の古墳・塚 (12)
町田市/能ケ谷香山古墳群 (0)
町田市/その他の古墳・塚 (21)
八王子市の古墳・塚 (33)
昭島市の古墳・塚 (12)
あきる野市/森山古墳群 (3)
あきる野市/草花古墳群 (14)
あきる野市/御堂上古墳群 (4)
あきる野市/瀬戸岡古墳群 (7)
あきる野市/牛沼古墳群 (3)
あきる野市/その他の古墳・塚 (16)
日の出町の古墳・塚 (2)
青梅市の古墳・塚 (16)
西東京市•東久留米市の塚 (5)
小金井市•国分寺市の塚 (4)
東村山市•東大和市の塚 (9)
武蔵村山市•瑞穂町の塚 (17)
川崎市の古墳・塚 (47)
横浜市の古墳・塚 (0)
相模原市の古墳・塚 (7)
栃木県の古墳 (13)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
壬生町•上三川町 (5)
長野県の古墳 (6)
群馬県の古墳 (8)
茨城県の古墳 (5)
埼玉県の古墳 (2)
千葉県の古墳 (1)
未分類 (9)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR