
東京都府中市府中町2丁目には、雁追塚(雁追稲荷塚)と呼ばれる塚が存在したといわれています。昭和60年(1985)に府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』には「雁が作物を荒らすので、それを追うための塚という。雁番やその番小屋もあったという。稲荷が祀ってあり、今は枯れてしまったが、高い杉の木が一本あって、旅人に方向を教えたという。」とのみ書かれています。
同書の付図には、府中町2丁目の府中公園の北西隅の一角を塚の跡地として記されており、実際に現地を訪れてみると確かに公園の築山として塚状に盛り上がった場所を見ることができます。残念ながら祀られていたといわれる稲荷や番小屋、高い杉の木などはすでに存在しないようです。

この塚の跡地の前を通る道は「稲荷道」と呼ばれていたそうです。雁追塚跡地の並びに府中市による石柱が立てられており、この石柱には「稲荷道(いなりみち)の名は、この道が雁追稲荷(がんおいいなり)に至ることに由来します。小金井道とも呼ばれます。かつてこの辺りには雁が沢山来て作物を荒らして困ったと伝えられています。」と書かれています。塚については何も記されていないようですが、少なくとも雁追稲荷は確実に存在したようです。
これ以上の情報は見つからず、詳細はわかりませんでしたが、果たしてこの築山が雁追塚の痕跡なのでしょうか。。。
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
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- 2016/07/28(木) 09:18:56|
- 府中市/その他の古墳・塚
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画像は、府中市南町に存在したとされる「しょうかい塚」の跡地を南西から見たところです。
この塚について、府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』には、「新編武蔵風土記稿の中河原村のところに、小名は残るがすでに塚は多摩川洪水の時に流されてない、とある。字名は正戒塚とも性皆塚とも字をあてる。場所は確かなことは分らず、ここも一つの推定地である。」とのみ書かれており、江戸時代には塚は既に消滅していたようです。
画像は、同書の付図に記されている塚の推定地ですが、周囲の開発が進み、宅地化されているにもかかわらず、この三角地だけが畑地として残されており、墓地として利用されている部分が小高くなっています。洪水によって崩れてしまった塚の僅かに残った高まりを墓地として利用した、ということも十分に考えられるところですが、残念ながら詳細はわかりませんでした。。。
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
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- 2016/07/23(土) 13:43:50|
- 府中市/その他の古墳・塚
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「ねこ塚」は、府中市小柳町にかつて存在したとされる塚です。この塚については、府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』に記述がありますが、「現在塚はないし、あったかどうかも不明だが、こう呼ばれていた。」と書かれているのみで、また他にこの塚についての記録を見つけることは出来ず、詳細のわからない塚です。同書では小柳町3丁目16番地周辺をこの塚の推定地としており、付図にも塚の位置が記されています。現地を訪れてもすでに塚はなく、消滅しているようです。
画像が、ねこ塚の跡地と思われる周辺を北西から見たところです。すでに塚は削平されて存在しないものと思われますが、推定地の畑地の一角には不自然な三角形の一段高くなった場所が存在しており、ひょっとして塚の痕跡ではないかと気になるところです。ただし、特に学術的な調査が行われたようすはなく、また塚の伝承や由来等についても見つけることは出来ませんでしたので、残念ながらこれ以上の詳細はわかりません。。。
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
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- 2016/07/21(木) 01:29:07|
- 府中市/その他の古墳・塚
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前回は府中市白糸台1丁目に残存する「彦四郎塚」を紹介しましたが、この彦四郎塚と同じ敷地内の西側数十メートルの地点には「首塚」が所在します。『東京都遺跡地図』では、墳丘の残存する彦四郎塚が府中市の遺跡番号17番の古墳として登録されているのに対して、この首塚は未登録となっています。
この首塚については、猿渡盛厚著『武蔵府中物語』に「なほその西側に並んで小塚があって鏡塚といつて居り」とあり、また本願寺に建てられている由来碑にも「彦四郎塚・首塚と呼ばれる古墳が現存し」と書かれています。実際に現地を訪れてみると、彦四郎塚と同じようにフェンスに囲まれて駐車場内に保護されているのですが、マウンドは残されていないようです。『武蔵府中物語』ではこの塚の名称を「鏡塚」として「彦四郎塚と小塚との関係は判らない」としているのですが、地元ではこの塚は「首塚」と呼ばれており、分倍河原の合戦による戦死者を埋葬した塚であるという伝承が残されているそうです。

画像は、首塚のフェンスに囲まれた内部のようすです。やはり残念ながら塚は削平されてしまったようですが、こうして跡地が保護されて残されているだけでも
同じ府中市内では美好町三丁目にも「首塚」と呼ばれる塚が現存しており、発掘調査で周溝が検出されたことにより古墳であったことがわかっていますが、この白糸台の「首塚」は発掘調査が行われていないため、どういう性格の塚であるか真相はわかりませんでした。

『武蔵府中物語』には「又今は崩壊してしまつてないが、小学校の玄関前あたりにも、一つあつたそうだが、彦四郎塚とそれらの小塚との関係は判らない。」と、もう1基、詳細不明の塚の存在について記されています。この塚は現在の府中第四小学校のプールのあたりに存在したようですが、跡形もなく消滅しているようです。
府中崖線上に存在する白糸台古墳群を形成する古墳のほとんどは京王線の南側から検出されており、京王線の北側からは古墳が確認されていないことから、彦四郎塚や首塚は古墳ではなく塚ではないかと考えられているようです。かなり密集する形で存在する3基の塚が古墳群であった可能性も考えてしまうところですが、このあたりは今後の調査を待たなければならないようです。。。

無名塚が所在したとされる府中第四小学校の敷地の一角には庚申塔が祀られています。この庚申塔の奥の、学校の敷地の南東側にわずかに塚状に盛り上がった一角を見ることが出来ます。最初はこの場所が塚の跡地ではないかと考えたのですが、これはどうやら違ったようです。

路上には「品川道」の石柱が立てられています。石柱には「品川道(しながわみち)の名は、この道が品川の宿へ通じる道だったことに由来します。この道は「品川街道」、「筏道」などとも呼ばれます。この道路には一里塚(市史跡)があります。」と書かれています。思えばこの品川道は府中市内の「白糸台古墳群」から調布市内の「飛田給古墳群」、「下石原古墳群」、「上布田古墳群」、「下布田古墳群」まで古墳群に沿うように通っていて、その後「狛江古墳群」のまっただ中をぶち抜けて品川へ向かいます。白糸台古墳群から下布田古墳群までのほとんどの古墳はこの品川道と府中崖線の間に存在するという状況ですので、何百年か前の品川道を歩くことが出来れば、何百基もの壮大な古墳群を見ることになったのではないでしょうか。ひょっとしたら品川道とは、府中崖線と平行に古墳群を避けるように造られた道だったのかもしれません。。。
<参考文献>
猿渡盛厚『武蔵府中物語 第21編』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
車返由来碑
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- 2016/07/19(火) 03:31:55|
- 府中市/その他の古墳・塚
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「彦四郎塚」は、府中市白糸台1丁目に残存する塚です。『東京都遺跡地図』には府中市の遺跡番号17番の”時代不明の塚(円墳)”として登録されており、塚ではないかとしながらも、古墳である可能性も考えられているようです。
この塚については猿渡盛厚著『武蔵府中物語』に詳しい記述があり、次のように書かれていました。
彦四郎塚
開運薬師堂が、元弘3年5月の、分倍河原戦争の時にも、正平7年2月の、人見原合戦の時にも、兵火のために焼亡してしまつたのを、北條氏の一族であつた、上総國(千葉県)市原郡の武士、大久保彦四郎といふものが来府して、永正13年堂宇を建立し、近江國(滋賀県)安土の貞安上人の弟子貞元が、鎌倉光明寺に居たのを請し、住持として再興したものである。その時大久保氏は、荒地六畝二十歩を開墾して、薬師堂の境内地となし、自分もそこに住宅を構へて居たが、京都将軍家から、中國辺に領地を賜はつて立去るときに、その領地内に塚を築いて、所持の武器等を埋めて往った。
それが彦四郎塚で、現に多磨村役場の南畑中にあるのがそれである。故に開運薬師は、この大久保氏の力によって再興され、後にまた其の屋敷跡に、宮崎泰重が来府して、天正2年に本願寺と八幡宮とを建立されたのである。
なほその西側に並んで小塚があって鏡塚といつて居り、又今は崩壊してしまつてないが、小学校の玄関前あたりにも、一つあつたそうだが、彦四郎塚とそれらの小塚との関係は判らない。
また、この塚について江戸時代の地誌類にも記述が見られ、『武蔵名勝図会』には「同村内。字上というところの南裏にあり。高さ八、九尺許。この人の武具を納めし塚なりと云。本願寺の記に出たり。」とあり、また「…中興開基大久保彦四郎。この大久保彦四郎という人は総州の郷土にして、永禄十二年(1569)ゆえありて当国へ来たり、開運薬師の旧地に一字を再建し、江州安土の安貞土人の御弟子良懐和尚の天照山に居けるを招きて開山となして、携え来たりける武具等をことごとく埋めて塚を築きて何方へか去りぬと云。」と書かれています。
画像は、「彦四郎塚」を東から見たところです。府中第四小学校の西側、第四学童クラブの南側にあたる本願寺の旧境内地は現在駐車場となっており、塚はこの駐車場内にフェンスに囲まれて保存されています。『東京都遺跡地図』にはこの塚の規模について「径1.5m 高1m」と書かれていますが、実際に見学した印象はそれよりもかなり大きいようです。

彦四郎塚は発掘調査が行われていないため、どういう性格の塚であるか詳細はわかりません。府中崖線上に存在する白糸台古墳群を形成する古墳のほとんどは京王線の南側から検出されており、京王線の北側からは確認されていないことから、この彦四郎塚は古墳ではなく塚ではないかとも考えられているようですが、真相は今後の調査を待たなければなりません。

画像は、白糸台5丁目にある現在の本願寺です。大久保彦四郎が兵火で焼けていた薬師堂を再建したことから、「彦四郎寺」とも呼ばれていたそうです。境内に立てられている説明板にも彦四郎塚についてふれられています。
當山の起源は、その昔源頼朝の奥州征伐の折彼地よりもたらされた藤原秀衛の守本尊と伝えられる薬師如来をまつったことに始まる。その後、総州の人大久保彦四良兵火に焼かれたお堂を再建し、永正三年(一五一六)鎌倉光明寺の僧、教誉良懐上人を迎えて中興開山となし一寺の形態を定む。彦四郎塚今なお東部出張所南に現存す…(浄土宗八幡山廣徳院本願寺)
車返(くるまがえし)は、現在の白糸台二、四、五丁目の一部(旧甲州街道・いききの道沿い)に集落の中心があった村落です。
幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「家数総て八十九軒、西を上とし、中央を中といひ、東方を下といふ」とあります。古名を白糸村と称します。
地名の起こりは、本願寺の縁起によると、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営したところ、夢告によってこの地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとへ返したことに由来するといわれます。旧境内跡地(市立第4小学校西側)には、彦四郎塚・首塚と呼ばれる古墳が現存し、往古をしのばせています。(車返 由来碑より)
画像が現在の開運薬師堂です。かつては「彦四郎寺」とも呼ばれたこの薬師堂は、本願寺の境内に祀られています。
<参考文献>
猿渡盛厚『武蔵府中物語 第21編』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
現地説明版
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- 2016/07/17(日) 04:37:43|
- 府中市/その他の古墳・塚
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「古屋敷塚古墳」は、岩戸支群中最北端にあたる狛江市岩戸北3丁目に所在した古墳です。『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号24番に登録されている古墳です。
この古墳は、昭和35年(1960)に行われた分布調査時には残存しており、実測調査が行われています。墳頂部に祠が祀られていたこの古墳は調査当時にはすでに土砂採取が進み、特に北側は掘削が中心部に迫っている状況でした。しかし、埋葬施設の石材等は出土せず、石室、礫槨以外の竪穴系の主体部ではなかったかと考えられていました。また、葺石や埴輪等も確認されなかったようです。
その後古墳は削平され、正確な所在地もわからなくなっていましたが、昭和62年(1987)に始まる小田急線の高架複々線化工事に伴う発掘調査により集溝の一部が検出され、正確な所在地や規模が明らかとなっています。
周溝の内径は39m、外径は52mを測り、北西側に幅5mほどのブリッジが検出されています。周溝内から出土した遺物から、古墳の築造時期は5世紀第2四半期とされています。『東京都遺跡地図』には、昭和35年(1960)に行われた調査時の規模である径38m、高5mが記載されています。
画像は、狛江市岩戸北3丁目の「古屋敷塚古墳」の跡地周辺を南西から見たところです。道路から右側の宅地にかけて古墳が存在したと思われますが、残念ながら痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『猪方小川塚古墳と狛江古墳群』
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- 2016/07/14(木) 09:19:34|
- 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
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「下野田2号墳」は、世田谷区喜多見6丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には266-2番の古墳として登録されています。
この古墳についても前回紹介した「下野田1号墳」と同様に、昭和57年度から59年度にかけて実施された東京都心部遺跡分布調査により把握されたとされる古墳です。昭和60年に東京都教育委員会により発行された『都心部の遺跡』には次のように書かれています。
201 下野田2号墳
世田谷区 266 世田谷区喜多見6―3
①台地上
②宅地
③遺存
④円墳?(径5m)
⑧昭和59年、世田谷区遺跡調査会が存在を確認。
(①占地状況 ②現況 ③遺存状況 ④墳形 ⑧所見、備考)
この古墳に関しては、戦後の空中写真で確認すると古墳らしき円形のマウンドを見ることが出来ますので、おおよその位置は推測することが出来ます。実は5〜6年前に世田谷区の古墳群を散策した際、画像の駐車場のあたりにコンクリートで囲まれた方形の高まりが残されていた記憶があるのですが、今思えばあの高まりが下野田2号墳の残存部分ではなかったかとも思います。このときは写真に収めることはしませんでしたので今となっては確認することは出来ないのですが、『都心部の遺跡』に書かれている「世田谷区遺跡調査会が存在を確認」したという古墳の残存部分は、あの方形の高まりと同一のものだったのでしょうか。
残念ながら方形の高まりは消滅しており、古墳の痕跡を見ることは出来ません。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/07/13(水) 01:28:46|
- 世田谷区/砧古墳群その他
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「下野田1号墳」は、世田谷区喜多見6丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には266-1番の古墳として登録されています。
下野田1号墳は、昭和57年度から59年度にかけて実施された東京都心部遺跡分布調査により把握されたとされる古墳ですが、ほかに多くの情報がないため詳細のわからない古墳です。昭和60年に東京都教育委員会により発行された『都心部の遺跡』には次のように書かれています。
201 下野田1号墳
世田谷区 266 世田谷区喜多見6―5・9
①台地上
②学校
③湮滅
⑧昭和59年、世田谷区遺跡調査会が存在を確認。
(①占地状況 ②現況 ③遺存状況 ⑧所見、備考) 「世田谷区遺跡調査会が存在を確認」としながらも遺存状況に関しては「湮滅」と書かれていますので、恐らくは聞き取り調査等により確認された古墳なのかも知れません。所在地については「世田谷区喜多見6―5・9」とされていますが、5番地と9番地にまたがって存在した古墳なのでしょうか。画像は、右側の宅地となっている区画が喜多見6丁目5番地にあたり、左側の小学校の敷地が6丁目9番地にあたります。『都心部の遺跡』の情報を信用するならば、この道路を中心に左の学校から右の宅地にかけて古墳が存在したのではないかと思われるのですが、残念ながら痕跡らしきものは見当たらないようです。
この場所から南東に100m程の地点は「下野田2号墳」の所在地とされています。この2基の古墳が存在したとなると、「砧中学校古墳群」と「殿山古墳群」が連なるように存在していたとも考えられますし、とても興味深い地域ではないでしょうか。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/07/11(月) 01:37:02|
- 世田谷区/砧古墳群その他
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前回は、港区芝南麻布5丁目の有栖川宮記念公園内に所在する前方後円墳ではないかとされるマウンドを紹介しましたが、『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、同じ敷地内にもう1基、古墳が登録されています。画像はその、古墳ではないかと思われるマウンドを西から見たところです。2基の古墳が「港区№49遺跡」という名称で登録されているわけですが、東京都遺跡地図には「前方後円墳?」としか記述がなく、この円形のマウンドに関しては出土品等の情報はないようですので学術的な調査は行われていないのかもしれません。
この周辺は、かつて鳥居龍蔵氏が調査に訪れていると思われる場所です。目敏い鳥居氏がこの古墳を見落とすだろうかとも考えてしまいますが、雑誌『武蔵野』にはこのマウンドに関しての記述は残されていないようです。昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』にもこの古墳は掲載されていませんので、かなり近年になって把握された古墳のようですが、詳細はよくわかりませんでした。
この周辺は「陸奥盛岡藩南部家屋敷跡遺跡」として調査が進んでいるようですので、このマウンドの調査もいずれは行われることと思います。その日を楽しみに待ちたい古墳です。。。
<参考文献>
鳥居龍蔵「麻布の有史以前と原始時代」『武蔵野 第20巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/07/08(金) 09:53:57|
- 港区の古墳・塚
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『東京都遺跡地図』には、港区芝南麻布5丁目に「港区No.49遺跡」という名称で古墳が登録されています。場所は有栖川宮記念公園公園内、現在の東京都立中央図書館の敷地内に所在しており、東京都遺跡地図には全長41.6mの”前方後円墳?”とされています。
昭和8年に発刊された『武蔵野 第20巻 第5号』に掲載されている「麻布の有史以前と原始時代」には、この「港区№49遺跡」について、鳥居龍蔵氏による記述を見ることができます。同書には次のように書かれていました。
區内盛岡町(同町名は明治二十五年から稱する)もと高松宮御庭内に左の圖の如き前方後圓の高塚が存在する。これはその形狀から見ても、瓢箪型を呈して前方後圓墳であることが推知せされる。この高塚は全長直經一百二十六尺で稍や東西に面し、東西に兩隆起し、東の方は高さ十三尺三寸、長さは四十八尺、幅六十尺で稍や圓形を呈するが、西の方の高さは東より低い、けれども長さは七十七尺、幅三十四尺(端で二十四尺)で長圓を呈して居る。そして兩者のあいだは十二尺の比例で凹み凹みの幅は六尺を呈して居る。私はこの高塚の周圍を精密に調査したが、何物の破片だも得なかつた。位置は低地を控へた丘陵上にあり、風景最もよろしく當事にあつては高貴の人のオクツキであることが察しられる。(『武蔵野』295ページ)
『都心部の遺跡』の174ページに掲載されている「古墳分布図 第2図」や『東京都遺跡地図』の「遺跡地図」を参考に、この地点ではないかと思われたのが画像のマウンドです。この場所は東京都立中央図書館の敷地となっており、周囲は図書館の駐車場と道路により舗装されているために残されているのはかなり小さなマウンドでもはや残骸という状況です。鳥居龍蔵氏により調査が行われた当時はもっと大きなマウンドが残されていたと思われますが、果たしてこれがかつて全長41.6mもあったという前方後円墳古墳なのでしょうか。
「港区史 上巻」ではこの古墳は「有栖川宮記念公園内の古墳」として紹介されていますが、この中で「周囲は綿密に検されたが遺物は全くない。(中略)もつとも江坂輝爾氏によれば、これはこれは古墳ではないらしいとのことである。」という記述があり、また『港区史跡散歩』にも「園内に古墳らしいものがあるというのは誤認らしい」とあります。果たしてこのマウンドが古墳であったかどうかについては疑問も残るようです。

画像は墳頂部のようすです。いくつも置かれている大きな石が埋葬施設を連想させますが、特に石室に利用された石材という訳ではないようです。
<参考文献>
鳥居龍蔵「麻布の有史以前と原始時代」『武蔵野 第20巻 第5号』
東京都港区役所『港区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
学生社『港区史跡散歩』
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- 2016/07/04(月) 01:04:13|
- 港区の古墳・塚
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