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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「東覚塚(とうがくづか)」

「東覚塚(とうがくづか)」

 画像は、西多摩郡瑞穂町大字箱根ケ崎に所在したとされる「東覚塚」の跡地を南から見たところです。すでにマウンドは消滅して存在しない、『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 昭和49年(1974)に発行された『瑞穂町史』には、昭和9年に多摩史談会により開催された第6回見学会の際の「狭山・箱根ケ崎村方面の記」が記載されており、これによると「(前略)この付近には他にも塚だと伝うるものが三、四か所ある。風土記にある姫塚へ行って見たら、如何にも貧弱なものとなって仕舞った。土地の人が姫塚と称え、風土記に載って居るから成程と言うものの、然らざれば、何んとも分らない姿となって居る。西方にトーガク塚と呼ぶものがある。この方がまたただものではないと言う感を抱かせる丈には残って居る。(後略)」と書かれています。
 注目すべきは、古くから知られていた存在であったと思われる「姫塚」についての記述が見られるところです。この塚については江戸時代の地誌類にも記述が見られ、『新編武蔵風土記稿』には「加藤某の古墳より北二十間余を隔ててあり、この塚は丹後守が妻を埋めし所なるよし、姫塚と号せるなり」とあり、また『武蔵名勝図会』には「これは丹後守が室を埋めたる塚なりと伝う。塚の広狭、景忠が塚に同じ。景忠が古塚より廿間離れて、民居の辺にあり。」と記載されています。「加藤塚」から北に二十間(約36m)ほどの距離にあったとされる「姫塚」は現在はまったく痕跡がなく、跡地を特定することも出来なかったのですが、昭和初期には何らかの痕跡は残されていたようです。

 さて、話を「東覚塚」の話題に戻しましょう。昭和55年(1980)に瑞穂町教育委員会より発行された『瑞穂の地名』には「箱根ケ崎駅の西南字野辺にある。(箱根ケ崎三七八番地)うらなし街道最初の左折の道は、六道の辻へ向うが、その途中に塚がある。現在は塚のすぐ南側は新青梅街道の切通しとなって道もそこで行止まっている。直径三間、高さ五尺位、積上げられた土は殆んど黒土で草に覆われている。由来を示すものは何も見当らない。民家の軒先が塚の北端にかかり、保存に留意する必要がある。」と書かれており、塚はかなり近年まで残されていたようです。おおよその跡地は特定出来たのですが、残念ながら東覚塚は土地の所有者により削平されて消滅、画像のように塚の所在地は住宅地となり、まったく痕跡は残されていないようです。。。

<参考文献>
瑞穂町役場『瑞穂町史』
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』 
瑞穂町教育委員会『炉辺夜話』


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  1. 2016/08/30(火) 02:20:20|
  2. 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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「宗安塚」

「宗安塚」

 画像は、西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎に所在したとされる「宗安塚」の跡地を南東から見たところです。

 この宗安塚については、瑞穂町教育委員会により発行された『瑞穂の地名』に記述があり、「青梅街道を西に進み、八高線の踏切りを越して約一〇〇m程進むと青梅街道と秩父街道との分岐点に達する。この角が小高い森になって、その中に明暦、寛文の歿年を記す後年建立した石塔がある。孫右衛門の子で、新宿を開いたという村山市郎右衛門宗安の墓といわれている。」と書かれています。
 画像の、信号のあるT字路となっている交差点が同書に書かれている青梅街道と秩父街道(現在の岩蔵街道)との分岐点で、信号の右手前あたりが宗安塚が所在したとされる「小高い森」にあたる場所ですが、残念ながら小高い森はすでに消滅しており、塚や石塔も見ることはできません。


「宗安塚」

 地元の人にお聞きしたところでは、画像の舗装された三角地のような場所の奥の電柱のあたりに石塔が建てられていたようですが、すでに塚の痕跡はなく、石塔は個人の邸宅内に移されているそうです。

<参考文献>
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』


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  1. 2016/08/28(日) 01:05:59|
  2. 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

 画像は、立川市柴崎町にある「正一位原市場稲荷大明神」を西から見たところです。画像の鳥居をくぐって住宅地の間の細い道を進んだ左側に、原市場稲荷があります。この稲荷神社周辺は埋蔵文化財包蔵地とされており、境内には「№12遺跡」の名称で立川市の遺跡番号12番の「古墳」が登録されています。以前に一度取り上げた古墳ですが、神社の境内が整備されてかなり状況が変わったことと発掘調査の記録を見つけることが出来たので、あらためて紹介したいと思います。

 まずは前回のおさらいという感じですが、この神社が古墳の跡地であるとする根拠とされる、『立川市史 上巻 』(昭和43年発行)に掲載されている、昭和30年代に八巻義昌氏により書かれた記事を紹介したいと思います。

 立川市柴崎町2丁目73番地に所在する、原市場稲荷社(正一位原市場稲荷大明神)境内について、かねて古墳(円墳)の跡ではないかという疑問があった。
 しかしながら現在古墳らしき封土はなく、完全に破壊されており、僅かに隣接土地とのレベルと比較して、幾分境内全般が浮びあがっているように見受けられるが、古墳阯と推定し得る理由としては、左記の7項目をあげ得る。
 ⑴ 現在の祠が造営される以前、古墳(円墳、以下古墳と呼ぶ)らしい封土があった。
 ⑵ ⑴について調査の結果、封土のあった事実を裏付ける地元民ならびに古老の証言が得られた。
 ⑶ 調査に際し、入手した祠造営落成式の写真により、明らかに封土を削土したと思われる状態がみられる。
 ⑷ 封土があった当時より存在したと推定される境内周囲の樹木の根間に、古墳造営時に使用されたと思われる自然石が多数はさまっている。
 ⑸ ⑷の樹木については、祠造営時封土を削土した際、樹木の根元深く鍬をいれたため露出せし主要根が、樹幹同様に変化している様子がよくわかる。
 ⑹ 昭和18年頃まで、境内に扁平形の自然石(40cm×20cm程度)が点在していた。
 ⑺ 調査により、境内に小形の自然石(20cm×7~8cm程度)ならびに打撃による加工を認められる石の散布が注意される。
(『立川市史 上巻 』218~220ページ)



「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

 画像は、現在の原市場稲荷の境内のようすです。敷地内は整備が行われており、かつて存在したとされる封土はもちろん、樹幹同様に変化しているという主要根や古墳造営時に使用されたと思われる石材らしき自然石も消滅しており、残念ながら見ることはできません。
 この場所は、平成14年と17年に立ち合い調査が行われているようですが調査成果は特になく、平成20年(2008)に初めて境内の北側における発掘調査が行われていますが、やはり古墳に関係する遺構や遺物は検出されなかったようです。
 社殿が改築された当時の古写真を参考にすると、古墳に関係する遺構が検出されるとすれば神社の東側から南側にかけてあたりではないかとも思うのですが、こちら側はまだ調査が行われていないようなので、この辺りは今後の調査の結果を待たなければなりません。


「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

 実は、以前の原市場稲荷の社殿は少し傾いており、地中に空洞でも存在するのではないかと考えていた!というお話を、最近になって立川市の歴史民俗資料館でお聞きしました(あくまで雑談のなかでです)。古墳の存在が想定されている場所で地中に空洞が存在するとなると、がぜん残存する石室の存在を想像してしまいますが、ここであらためて社殿のようすを見比べてみたいと思います。
 画像は現在の整備後の社殿を南から見たところです。社殿も建て直されているようですので、さすがに傾きは見られないようです。


「立川市№12遺跡(正一位原市場稲荷大明神)」その2

 画像が、整備される以前の原市場稲荷社殿のようすです。確かに、基礎の部分の西側が沈下して、西に傾いているように感じます。このあたりの地中に何か存在するのでしょうか。
 多摩川中流域左岸に存在する調布市から府中市、国立市にかけての古墳は、単独墳である武蔵府中熊野神社古墳や天文台構内古墳を除くとまるで測ったかのように府中崖線縁辺部から一定の距離の中に築造されています。この立川市№12遺跡は崖線からかなり離れた場所に存在していることから、古墳ではなく塚であった可能性も考えていましたが(あくまで素人考えですが)、万が一地中から埋葬施設が発見されて古墳の存在が確認されれば大発見かもしれません。神聖な場所の調査はなかなか現実的ではないかもしれませんが、調査の進展が楽しみな場所ではないでしょうか。。。

<参考文献>
立川市史編纂委員会『立川市史 上巻 』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
立川市教育委員会『立川市埋蔵文化財調査報告書集』


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  1. 2016/08/23(火) 00:38:03|
  2. 立川市の古墳・塚
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「宮前塚(宮塚)」

「宮前塚(宮塚)」

 「宮前塚」は、品川区旗の台6丁目付近に所在したとされる、『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。

 この塚については、昭和41年(1966年)に発行された『荏原中延史 前編』に記述が見られ、「中延大原北に宮前塚と稱する塚がある。十二、三尺の丘陵で雑木が生えて居た。大正年間田園都市が開設されるに及んで、心なき人夫に依つて壊されて了つた。この塚の伝説は宮前塚とも宮塚ともいわれるだけで他には詳しい記録も伝説もない。ただ所在位置の点から推して南北朝時代のものであるかと思う。」と書かれています。塚についての由来、伝承や出土遺物等の詳細は不明であるようですが、同書の付図には塚の所在地が記されています。

 画像は、宮前塚が所在したとされる周辺を南から見たところです。正確な跡地までは特定できませんが、恐らくは画像の道路の右側あたりが塚の跡地であると思われます。この周辺で一番高くなった場所で、いかにも塚の所在地らしき場所ですが、個人の邸宅内に塚の痕跡が残されている可能性は考えられるものの、路上から観察したところでは塚は削平されて消滅しているようです。
 この宮前塚が古墳であった可能性は考え難いように思いますが、果たしてどんな性格の塚だったのでしょうか。。。

<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史 前編』


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  1. 2016/08/18(木) 02:37:48|
  2. 品川区/その他の塚
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「三合塚」

「三合塚」

 「三合塚」は、目黒区南1丁目に所在する3基の塚の総称で、現在は「目黒区立富士見台公園」という施設内に残存しています。『東京都遺跡地図』には目黒区の遺跡番号26番の”時期不明の塚”として登録されています。

 この三合塚は古くからその存在を知られていたと考えられ、周辺地域の字名にもなっていました。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の荏原郡碑文谷村の項には「三合塚 西南の方なり、塚の数三あるによりかく唱ふとぞ、或は三合塚とも呼り、もと塚の名なれども土人いつとなく此邊の字とせしとぞ、」と書かれています。また、その後昭和に入るとこの塚は古墳ではないかと考えられるようになり、昭和36年に発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性を持つ」とされる12基のうちの1基として紹介されており、「現在富士見台児童遊園となっているが、富岡丘蔵の所有地内にある。この面積約460平方メートル、本墳は西寄りに大きい円墳形のもの、東寄りは小さい三角形に近い墳丘からなり、二墳と考えられてきたが、詳細に調査すると、両者の距離があまりに近すぎるのと、現在のように遊園地になる前の現状とを総合して、これは前方部を東にむけ、長さ20メートルほどの小形前方後円墳ではないかと考えられるようにいたった。そして、さらに積土の状態を検索して、大体前方部幅5メートル、後円部直径7 メートル、高さ今の路面より4メートル(現在3メートル)、前方部高さ3メートル(現在2メートル)ほどのものであったらしく、周湟の存否は不明であった。現在このくびれ部に小祠が建てられているが、おそらくこの古墳信仰に始まるものと考えられる。(後略)」と書かれています。

 画像は、公園内の東側に所在する塚を北西から見たところです。かつてはこの小さなほうの塚が前方部であり、西側の大きな塚が後円部であると考えられていたようですが、昭和59年に行われた確認調査によりそれぞれが独立した塚であることがわかっています。また、周囲には堀を巡らせた跡も確認されていますが、どういう性格の塚なのか、また築造された時期などは不明であるようです。


「三合塚」

 三合塚は、明治のころまでは塚とその周囲が雑木林となっており、塚の頂上や横には多数のキツネの巣穴が存在したといわれています。「ひさご形」と考えられた墳形と周囲の濠もはっきりと残っていたようです。昭和31年に富士見台児童遊園として開園すると敷地内には砂場やブランコ、シーソーなどが造られ、塚上には2箇所に滑り台が造られたようですが、個の滑り台の設置により墳形はかなり損なわれてしまったようです。
 画像は、5年程前の塚のようすですが、まだ木製の遊具が残されているのがわかります。現在は、塚に設置された遊具は全て取り払われているようです。。。


「三合塚」

 画像は、南西側にある現在の塚のようすです。後円部であると考えられていた塚ですが、昭和のころの写真を見るとかなり大きな塚であったようですが、かなり崩されて原形は留めていないようです。この2基の塚の間には、「三合塚稲荷社」の社殿が置かれていたようですが、現在は見られないようです。


「三合塚」

 2基の塚の遠景です。これが前方後円墳であれば右側が後円部、左側が前方部と考えられていたようですが、やはり古墳ではなかったようです。。。


「三合塚」

 画像は、富士見台公園内の北西側に所在する3基目の塚を北西から見たところです。
 塚上には「祝 皇太子殿下 雅子妃殿下 ご成婚記念樹」と書かれた碑が立てられ、ハナミズキが植えられています。

<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
目黒区郷土研究会『目黒区郷土研究 第86号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


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  1. 2016/08/16(火) 00:33:08|
  2. 目黒区の古墳・塚
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「平塚」

「平塚」

 「平塚」は、品川区荏原4丁目、現在の中原街道沿いに所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』には未登録ですが、古くはこの周辺地域の字名にもなっており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「村の東の方なり」と書かれているなど、かなり知られた存在であったようです。
 この平塚にまつわる言い伝えについては、『荏原中延史』詳しい記述を見ることが出来ます。

 足柄山の夜半の月、風流武將新羅三郎義光の塚なりといわれる。中延村は平塚の塚周辺は畑なれど、一里塚に見らるゝ程度の大きさであつた。この新羅三郎義光の塚であるという伝説の外に、これは平將門の弟將平の首を葬つたのであるという説もある。この伝説や文献を綜合してみると承平、天慶の亂に平親王將門征伐に総大將藤原秀郷の幕下に我が荏原の住民で荏原三郎という勇士があつた。一族を引具して下総に転戰し大功を建てた。この亂以前に將門は自分の伯父国香を殺した。国香の子平貞盛は、この機に乗じて秀郷の軍に合流し、荏原三郎の援助の下に仇敵將門兄弟を强弓を以て、射殺して首級を携えて荏原三郎は荏原に帰り、後年新羅三郎義光が施主となつて懇ろに將門の首を平塚に葬つたものであるという。故に平塚というと眞?何れにしても興味豊かな郷土物語りではある。(『荏原中延史』34ページ)

 この平塚は高さ七、八尺で広さ十坪程もある円形の塚で、戦後に整地された際には、多くの鎧や兜、刀剱などが発掘されたといわれています。
 画像の、中原街道から北西側のバーミヤンのあたりが平塚の跡地であると思われますが、残念ながら塚は削平されて消滅しており、痕跡を見ることは出来ません。


「平塚」

 塚の削平後、周辺に暮らす人たちにたびたび不吉な出来事がおこるため、「塚が失われたことによる義光の祟りではないか」といわれるようになり、塚の跡地近くに供養のために「平塚の碑」が建てられたそうです。画像はこの平塚の碑を北東から見たところです。
 現地に立てられている品川区教育委員会による説明板には次のように書かれていました。

平塚の碑
        所在地 荏原四丁目六番四号
 古くは鎌倉へ通じる古道で、江戸時代には東
海道の脇街道として往来の盛んであった中原往
環(中原街道・相州道)沿いに「平塚」と呼ば
れる大きな塚があった。
 伝承によると、後三年の役(一〇八三~八七)
において八幡太郎源義家をたすけた弟の新羅三
郎源家光は奥州からの帰途、この地において夜
盗のため多数の部下を失った。その霊を祀った
のが、この塚の由来とされている。
 時の流れとともに、この塚は取り壊されたが、
地域の人たちによって昭和二十七年(一九五二)
三月、「平塚の碑」が建立され、伝承は受け継
がれている。
   昭和五十九年四月三十日
              品川教育委員会



「平塚」

芳根彌三郎『荏原中延史 後編』
品川区教育委員会『品川の地名』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
現地説明板


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  1. 2016/08/11(木) 06:25:51|
  2. 品川区/その他の塚
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「大井林町2号墳(内山家墓所内古墳)」

「大井林町2号墳(内山家墓所内古墳)」

 「大井林町2号墳」は品川区東大井4丁目、現在の品川区立立会小学校の敷地内に所在したとされる、品川区の遺跡番号19番に登録されている古墳です。画像はこの古墳の推定地を南東から見たところで、大井林町2号墳はこの台地上縁辺に存在した前方後円墳であるといわれています。

 この古墳の所在地は、前回紹介した「大井林町1号墳」の所在地である旧仙台藩伊達邸の裏庭(現在の大井公園の大半)に隣接する、旧土佐藩の山内家の墓所となっていた場所で、「目黒台」と呼ばれる台地の東端に、戦後まで墳丘が残されていたようです。昭和24年(1949)から翌年にかけて市川健二郎氏の指導のもと、学習院輔仁会高等科史学部により発掘調査が行われ、この発掘に参加した徳川義宣氏により執筆された調査報告が、「大井林町古墳」と「大井林町古墳 補訂」として『品川歴史館紀要』の第11号と第13号に記載されています。
 同書によると、当時の残存規模は「東西に約四一メートル、南北に二〇メートル乃至二八メートル、高さ四メートル強の墳頂部は西から一四メートル」で、「西に後円部、東に前方部を展開する前方後円墳」と想定されています。翌昭和25年の発掘では木棺と粘土槨で構成されると考えられる埋葬施設が検出されています。墳丘周辺からは埴輪片や土師器片が採集されており、また南側数メートルには陪塚と考えられる塚の存在も推定されていたようですが、発掘調査が実施されなかったためにこの塚が古墳であったかどうかはわからないようです。


「大井林町2号墳(内山家墓所内古墳)」

 大井林町1号墳とこの2号墳の他に、発掘調査により周溝が検出されている仙台坂1号墳と2号墳、また埴輪片散布地なども含めると、この東大井4丁目周辺には少なくとも6基以上の古墳が存在したということになるようです。もちろん未発見のまま消滅した古墳の存在も考えられるでしょうし、想像するよりはずっと大きな古墳群だったのかもしれませんね。。。


「大井林町2号墳(内山家墓所内古墳)」

 大井林町2号墳の所在地とされる立会小学校に隣接する場所に保存されているのが「山内豊信(容堂)墓」です。鯖江藩主間部下総守の下屋敷があったことから下総山と呼ばれていた場所で、「大井公園内古墳」が残存する大井公園との間の石段を登ったところにあります。
 山内豊信とは、土佐藩の第15代藩主で、福井の松平慶永、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城とともに「幕末の四賢候」に数えられる、明治維新の先駆者として幕政に大きな影響を与えている人物で、遺言により、晩年愛したこの地に葬られたそうです。


「大井林町2号墳(内山家墓所内古墳)」

 画像が「山内豊信(容堂)墓」です。このお墓は、古墳(円墳)を思わせる塚状に築かれた盛土に墓石を配されており、かつての古墳群が展開されていた真っ只中に存在することを考えると、形状的にもとても興味深いです。(このお墓が公開されているのは午前9時から午後5時までの間のみで、これ以外の時間は施錠されて立ち入ることができませんので注意が必要です。)

<参考文献>
徳川義宣「大井林町古墳」『品川歴史館紀要』第11号
徳川義宣「大井林町古墳 補訂」『品川歴史館紀要』第13号
品川区立品川歴史館『東京の古墳 -品川にも古墳があった-』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』


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  1. 2016/08/09(火) 00:00:50|
  2. 品川区/品川大井古墳群
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「大井林町1号墳(伊達家邸内古墳趾・伊達古墳)」

「大井林町1号墳(伊達家邸内古墳趾・伊達古墳)」

 「大井林町1号墳」は、品川区東大井4丁目に所在したとされる、品川区の遺跡番号19番に登録されている古墳です。画像はこの古墳の推定地周辺を南東から見たところです。

 この周辺は、江戸時代前半には幕府の敷地であったため大井村御林町と呼ばれ、昭和7年の二十区制により大井林町と称された後、昭和39年の住民表示制度施行により東大井4丁目と改められた地域です。「目黒台」と呼ばれる台地の東端に位置しており、台地の高さは大井林町周辺で14~15メートルほどとなっています。この台地上、現在の大井公園周辺には旧仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があり、この伊達家邸内から埴輪片が採集されたことにより古墳の存在が想定されています。
 この埴輪片の表面採集を行った徳川義宣氏により執筆された「大井林町古墳」によると、埴輪片の多くは円筒埴輪で、中には人物の腕部や水鳥の足かと思われる破片もあり、形象埴輪も含まれていたと考えられています。調査は表面採集のみで周溝の発掘等も行われていないため、墳丘の規模や形状、古墳の基数等は不明であるようですが、埴輪片は八百坪ほどの庭の全面から採集されたものの台地先端部から20~60メートルの範囲の分布密度がが高かったとされ、最長でも50メートル内外の古墳ではなかったかと推定されています。

 この大井林町1号墳の所在地とされる埴輪片採集地は、現在は整地が行われて大きなマンションが立ち並び、地形自体が大きく改変されています。画像の中央付近から左右に立ち並ぶマンションあたりまでが埴輪片採集地となるようですが、残念ながら古墳の痕跡を見つけることは不可能な状況であるようです。。。

<参考文献>
徳川義宣「大井林町古墳」『品川歴史館紀要』第11号
徳川義宣「大井林町古墳 補訂」『品川歴史館紀要』第13号
品川区立品川歴史館『東京の古墳 -品川にも古墳があった-』


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  1. 2016/08/07(日) 03:11:03|
  2. 品川区/品川大井古墳群
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「高倉古墳群 26号墳(高倉塚古墳)」―府中市指定史跡―

「高倉古墳群 26号墳(高倉塚古墳)」―府中市指定史跡―

 「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。これまでに約30基の古墳が調査あるいは確認されており、その多くは墳丘が失われているものの周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。

 「高倉塚古墳」は、府中市分梅町1丁目に所在する古墳で、画像はこの高倉塚を北北西から見たところです。高倉古墳群の中心に位置するこの古墳は墳丘の残存する数少ない貴重な古墳であり、周辺の多くの古墳が削平されていく中、中世から近世にかけて塚として流用されたことにより削平を免れてきたようです。昭和50年(1975)の最初の調査が行われて以降、何度かの調査が行われており、平成13年10月30日には府中市の文化財に指定され、平成16年(2004)に史跡公園として整備、公開されています。


「高倉古墳群 26号墳(高倉塚古墳)」―府中市指定史跡―

 画像は南西から見た高倉塚古墳です。この古墳は古くから知られた存在であったと考えられ、江戸時代の地誌類にもその記述を見ることが出来ます。『武蔵名勝図会』には「分倍の北にて、屋敷分村の裏にあり。この辺をすべてタカクラと呼ぶ。(中略)この府中も国府なれば、国造。国司の居地にて、塚は即ち葬地の標なるべし」とあり、『新編武蔵風土記稿』には「(前略)田間に胴塚、首塚などいひて多くの小塚ありて、其數しらず、其中に就て高倉塚と呼ぶものあり、是古へ國府屯倉の蹟なるべしといへり、今按に天應元年高倉福信遷彈正尹兼武蔵守とみえしことあり、或は福信此府にありて卒し、むくらをここに埋めしも又しるべからず。」と書かれています。


「高倉古墳群 26号墳(高倉塚古墳)」―府中市指定史跡―

 画像は墳頂部のようすです。古墳の規模は推定外径約26m、高さ約2.4mで、形状は円墳であると考えられています。埋葬施設は後世の攪乱により確認されず、また古墳に関係する出土遺物としては坏片1点のみであるようです。


「高倉古墳群 26号墳(高倉塚古墳)」―府中市指定史跡―

 私はこの古墳は好きです。開発が進んで宅地化された地域にあって、住宅街にひっそりと残された高倉塚には趣があり、なぜか気持ちが落ち着くような気がします。アスファルトで固めて建物だらけにしてしまうよりも、こうして歴史と共存する町並みに風情を感じますよね。
 画像は夏の高倉塚古墳です。季節によって様々な表情を見ることが出来るのも古墳の良いところかもしれません。冬には黄金色に染まる墳丘も、夏になると青々と輝く姿を見ることが出来ます。


「高倉古墳群 26号墳(高倉塚古墳)」―府中市指定史跡―

 画像は雪の高倉塚古墳です。子供たちの遊び場になってしまっています(笑)。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査団報告書』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 30』
現地説明版


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  1. 2016/08/04(木) 00:21:15|
  2. 府中市/高倉古墳群
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「雁追塚」

「雁追塚」

 前回は、府中市府中町2丁目に所在したといわれる「雁追塚(雁追稲荷塚)」を取り上げましたが、この場所からそれほど遠くない、美好町2丁目にも「雁追塚」という名称の塚が存在したといわれています。昭和60年(1985)に府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』には「陣街道の東側、現在の東芝工場南門のところにあった。径4~5m、高さ2m弱、3坪位。畑を作る際にじゃまな石などを積んでできた塚であろうか。作物(麦)を食べてしまう雁を追った塚だからこういう名がついたという。その番人の小屋もあり、万人の給として2うね分の作物があてられた。」と書かれています。

 画像は、同所の付図に記されている雁追塚の推定地を南から見たところです。すでに塚は存在せず、番人の小屋なども残されていないようなのですが、不思議なことにこの塚の跡地とされる東芝工場南門前のT字路角の歩道には塚の位置を記すかのように地面の煉瓦が円形に敷かれています。周辺の交差点には存在しないこの場所のみで見られる光景で、ひょっとして塚の跡地を示すものではないかと深読みして写真を掲載してみましたが、真相はわかりません。。。

<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』


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  1. 2016/08/02(火) 01:31:06|
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