FC2ブログ

古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「大塚」

「大塚」

 前回は品川区大井1丁目に所在したとされる「納経塚」と、塚の伝承を紹介しました。この塚から掘り出されたといわれる二体の仏像のうちの一体は、品川区大井1丁目の三ツ又商店街と池上通りが交差する場所に今も祀られています。画像はこの「三ツ又地蔵」を南西から見たところです。
 納経塚の跡地とされる「大井庚申堂」から徒歩30秒ほどの場所にあり、現在の地蔵像は戦後に再建されたものであるそうですが、病魔、難産などの「身代わり地蔵」として現在も地元の人の信仰を集めているそうです。


「大塚」

 余談ですが、大井三ツ又地蔵は村松友視の直木賞受賞作品である「時代屋の女房」の舞台となった場所で、昭和58年(1983)に映画化されています。主演が渡瀬恒彦さんと夏目雅子さんで、三ツ又地蔵のある大井三ツ又差点角の「時代屋」という古道具屋が舞台となっており、この時代屋は実際に存在していたそうなのですが、現在は壊されて駐車場となっているようです。私の青春時代に公開された映画で、伝説の夏目雅子さんがとても印象的です。今となってはこの三ツ又地蔵のみが当時の記憶をとどめているのかもしれません。


「大塚」

 さて、この三ツ又地蔵の周辺には「大塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。昭和29年(1954)に発行された芳根彌三郎著『荏原中延史 前編』の38ページにはこの大塚について、「大井の大塚は(三ツ又の附近)後年明治中期の頃、或る寺領のものとなり後、この土地の土塊を賣り拂つた折、この大塚も発掘されたその時見物に行つたものであるが、その塚の眞中頃に大きな井戸の様な洞穴があつたが、今に疑問に思つて居るが察するに狐狸の巣ではなかつたかと思う。明治初年頃は、狐や狸がこの大塚に数知れぬ程巣食つていて、この近郷に跳梁したものであるが、その本據が皆この大塚であつた事は、一般の知る処であつた。」と書かれています。塚が取り崩された際の「塚の中央あたりに洞穴が存在した」という記述はいかにも古墳の石室を連想してしまいますし、東大井4丁目周辺に展開する「大井古墳群』からかなり近い距離にあることもあり、この大塚が古墳であった可能性も考えられるのではないかと思われますが、明治中期に消滅したこの塚の学術的な記録はなく詳細は不明で、正確な所在地も突き止めることは出来ませんでした。
 ちなみに、狐窪と呼ばれていた付近にも「大塚」という字名があり、大きな塚があったといわれていますが詳細はわからず、左近山にも五間(9m)四方の塚があったようですが、いずれも正確な所在地はわからなくなっているようです。。。

<参考文献>
芳根彌三郎『荏原中延史 前編』
品川区教育委員会『品川の地名』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/23(金) 01:54:33|
  2. 品川区/その他の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「納経塚(庚申塚)」

「納経塚(庚申塚)」

 画像は、品川区大井1丁目に所在する「庚申堂」を東から見たところです。池上道に面するこの場所には古来より「納経塚」と呼ばれる塚があったといわれています。

 塚上には榎の木が一本あったことから「一里塚」、または「庚申塚」ともいわれていたようですが、『南浦地名考』には「経塚 品川原の内池上道の傍にあり、来福寺地蔵尊縁起に頼朝卿書写納経の所とあり、村持にして今は庚申の石塔あり、此辺畠中に稲荷の祠あり山谷の稲荷と云ふ」とあり、また『大井町誌』には「(前略)果たして賴朝が書寫したものかどうかは解らないが一種の經塚であつた事は事實らしい。其後此邊で合戰して討死した武士を埋葬した様である。近年此地を穿つたときに人骨が現はれたことがある(後略)」とも書かれています。


 庚申堂の前には、來福寺による説明板が立てられており、次のように書かれています。

 庚申堂
 この庚申堂は昔庚申塚と呼ばれ、さらに
古くは、右大将頼朝卿が、戦死諸兵供養の
為に写経を埋められたので、その当時は納
経塚といわれていた。
 後柏原帝の文亀元年(一五〇一年前)梅巌と
いうお坊さんが、この塚の傍を通られると、
土中より読経の声を聞かれて、仏体を掘出
された。当時内乱で行方知れずであった、
來福寺(東大井三丁目)の本尊延命地蔵尊
であることがわかり寺に迎えて再び安置さ
れた。その為にこのご本尊は、別名経読地
蔵尊といわれるようになった。
 戦後地元有志の方々が、堂を建立された。
 現在も來福寺所管の境外仏堂で、縁日は
毎月一日・十日・二十日。
 尚毎年「かのえさる」の日に、庚申祭り
の修法をいたします。

 平成二十七年十二月
           所管寺院 來福寺


「納経塚(庚申塚)」

 さて、源頼朝が戦没諸兵の供養のために写経を埋めたといわれる「納経塚」ですが、数百年後の文亀元年(1501)、梅巌という僧が塚を通りかかったところ、経塚の中からお経を読む声が聞こえてきたそうです。おどろいた梅巌が土を掘りおこしたところ、二体の仏像があらわれ、お経も聞こえなくなったといわれています。
 行者が生きたまま埋葬され、即身成仏したという伝承に基づく「行人塚」の伝説は東京都内でも各地に残されているようですが、お経を読む声が聞こえた場所を掘りおこして仏像が出土するという事例はなかなか興味深いところです。
 塚から掘り出されたといわれる二体の仏像のうちの一体は、東大井3丁目の來福寺の本尊として祀られており、「延命地蔵」と呼ばれています。また、もう一体は「三ツ又地蔵」として三ツ又商店街と池上通りが交差する場所に今も祀られており、庶民の信仰を集めています。

 納経塚は、東大井4丁目周辺に確認されている「大井古墳群」からかなり近い距離にあり、古墳であった可能性も考えて調べてみましたが、これらの言い伝えからするとどうやら古墳ではなかったのかもしれません。。。

<参考文献>
安田精一『大井町誌』
品川区教育委員会『品川の地名』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
現地説明板


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/21(水) 00:34:34|
  2. 品川区/その他の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「目黒新富士」

「目黒新富士」

 目黒区内にはかつて2基の富士塚が存在していました。このうちの1基は文化9年(1812)に築造されたもので、東急東横線代官山駅近く、上目黒1丁目の目切坂を登った上にあり、「元富士」あるいは「西富士」と呼ばれていました。そしてもう1基が、元富士に遅れること7年後の文政2年(1819)に築造された富士塚で、別所坂を登りきった右手の台地縁辺部に所在しており、「新富士」あるいは「東富士」と呼ばれていました。蝦夷地探検で名高い幕臣・近藤重蔵が自身の別邸に作った富士塚で、眺望が良く、多くの参拝人を集めたといわれています。

 画像は、目黒区中目黒の「別所坂」です。1丁目と2丁目の境を北東へジグザグに折れ曲がって登るこの坂はこの周辺の地名であった「別所」が由来といわれており、古くより麻布方面から目黒へ入る道として賑わったといわれています。ちなみに別所とは『新しく開かれた土地」あるいは「行き止まりの場所」を示すといわれているそうです。
 この坂を登り切った場所が、かつての新富士の所在地です。坂の入口には「別所坂」の碑が立てられており、「かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。」と新富士についてもふれられています。


「目黒新富士」

「目黒新富士」

 別所坂を登り切った階段の右手に目黒区教育委員会による「新富士」についての説明板が設置されています。画像の右手のマンションの奥のあたりが新富士の跡地で、昭和34年(1959)までは残されていたそうですが、残念ながら現在は取り壊されています。


「目黒新富士」

 別所坂を下った新富士跡地の南側にある「目黒区立別所坂児童遊園」には、新富士にあった石碑が移設されています。ここにも目黒区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

新富士 中目黒2–1
 江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつく
られ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
 この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼
ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文
政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた
近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが
良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴
雑記』)と書かれるほどであった。
 新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙
法蓮華経」(「文政二己卯年六月健之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊
辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
                         平成18年10月
                       目黒区教育委員会



「目黒新富士」

 石碑が保存されている目黒区立別所坂児童遊園で振り返ってみるとこんな風景が。この周辺は昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られており、新富士は大勢の見物人で賑わったといわれていますが、眺めの良さは健在ではあるものの、残念ながらこの日は富士山は確認出来ませんでした。。。


「目黒新富士」

 富士山には、過去の噴火で出来た「風穴」と呼ばれる溶岩洞窟が多数存在しています。この内部に助骨の形や臓器の形を示すものがあり、人間の胎内を連想させることから富士講の人々はこれを胎内洞穴と呼んでいます。この胎内洞穴をくぐりぬけると安産の御利益があるということで、講徒は白木綿の布を襷に掛けて胎内くぐりをして、白木綿を持ち帰って産婦の腹帯にして安産を願うという事が行われていたそうです。
 江戸の各地に築造された富士塚の多くにはこの胎内洞穴が造られているようですが、目黒新富士跡地の隣接地からは、平成3年の発掘調査により胎内洞穴と考えられる地下式遺溝が発見されています。現在は埋め戻されて見ることは出来ないようですが、めぐろ歴史資料館では復元された胎内洞穴が公開されています。


「目黒新富士」

 この胎内洞穴は目黒新富士が所在した南の方向に延びており、壁面に富士講の笠(講)印や文字が線刻されていました。奥行き6mの横穴の奥には祠が造られており、祠の直下からは御神体と思われる「大日如来」像が発見されたそうです。
 画像は、めぐろ歴史資料館で公開されている壁面の線刻のレプリカのようすです。


「目黒新富士」

 文政9年、この富士塚にまつわるある事件が起こりました。
 あるとき、山正廣構という富士講の講中の集まりの中で、下渋谷村の百姓である半九郎の屋敷地が眺めの良い場所であることから、ここに富士塚を築造すると参拝人が多く集まり、講員も増えるのではないかという意見が出ました。しかし、百姓の身分での富士塚の築造は難しいと考えた半九郎は、自身の所有地の一部を近藤重蔵氏の抱屋敷(別邸)としてこの邸内に富士塚を築くという意向を、近藤宅に出入りしている者を通じて打診したところ両者の考えは一致、早速邸内の残土を集めて富士塚が築造されます。この塚は高台にあったため後に広重の『名所江戸百景』に描かれるほど見晴らしが良く、江戸の人びとの行楽の名所として大変な人気を集めます。これに合わせて半九郎は自宅で手打ち蕎麦の店を始めますが、こちらも大繁盛となったようです。
 その後、近藤は別邸に招待した客に半九郎の店から出前した蕎麦や酒でもてなしますが、代金の支払いはいっさいしませんでした。これに対して半九郎は、採算が取れなくなっては困ると考え、近藤からの注文には応じない事にします。近藤は腹を立て、半九郎の店との間に大木を植えて生垣を造り、半九郎の店から富士塚が見えないようにしてしまいます。半九郎は、話が違うと代官中村八太夫に提訴しますが、代官は相手が旗本であることから取り合いません。半九郎は仕方なく仲裁者を立て、生垣の撤去を申し入れたところ、近藤は生垣を撤去する人手がないので半九郎方で生垣を刈り取ってよいという返事をしたようです。半九郎はその翌日、すぐに生垣を刈り取ってしまいますが、これを見て腹を立てた近藤の忰の富蔵は家来を連れて半九郎宅に乗り込み、半九郎と半九郎の倅、半九郎の妻と抱えていた子供、日雇いの5人を斬り殺してしまいます。
 半九郎にしてみれば、土地を提供して自力で塚を築いたにも拘らず土地も塚もとられ、店の売りである富士塚の見物も出来ず、見物人が塚に入ることも出来ない状況は理不尽に感じたでしょうし、近藤にしてみれば話に乗ってやったのだから酒と蕎麦くらい振る舞え、といったところだと思いますが、感情のもつれから起こってしまった事件なのかも知れません。。。

<参考文献>
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
目黒区守屋教育会館郷土資料室『新富士遺跡と富士講』
現地説明板


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/19(月) 01:47:54|
  2. 目黒区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「庚申塚(別所坂上庚申塔)」

目黒区の庚申塚

 画像は、目黒区中目黒1丁目に所在する「別所坂上庚申塔」を東から見たところです。6基の庚申塔がおさめられている庚申堂で、別所坂を登りきった台地の縁辺部に所在しています。昭和10年(1935)に目黑區大觀刊行會より発行された『目黑區大觀』には「上目黑別所坂の上重信常直氏邸の前にある庚申堂附近で、新編武蔵風土記稿に『上目黑別所にある、除地五坪』とある。元祿の頃よりさゝやかな堂宇が建てられ、後近年に至り昭和五年頃上・中兩別所の有志が發起となつて七百餘圓の寄附を集め、祠堂の大修築を施こした。現在鏡域二十五坪五合、數年前まで古松が殘つて居た。」と書かれています。江戸時代には庚申堂は存在しており、その「附近」ということはこの庚申堂とは別の場所に塚が存在した、ということのようですが、すでにこの庚申塚は消滅しており、所在地はわからなくなっています。


目黒区の庚申塚

 この別所坂上庚申塔に近い恵比寿駅周辺には、加計塚古墳や渋谷塚古墳、渋谷区の遺跡番号55番の無名墳など、古墳ではないかと考えられている塚が多く存在したとされており、古墳群の存在も想定されているようです。また、北西側の台地縁辺部には猿楽塚の北塚と南塚の2基が現存しており、こちらも古墳ではないかと考えられています。
 別所坂上庚申塔に隣接する場所はかつて存在した「目黒新富士」の跡地です。富士塚が元々存在した塚や古墳を流用して築造された事例も多く確認されていることから、この庚申塚や新富士が古墳であり、この台地縁辺部に古墳群が存在した可能性はないだろうかと考えて調べてみました。庚申塚については破壊の際の遺物の出土の伝承等はなく、また学術的な調査も行われていないようです。また、新富士についてめぐろ歴史資料館でお訪ねしたところでは、何もない場所に築かれた富士塚であり古墳流用の可能性はないのではないかとのことです。残念ながらこの周辺での古墳の存在の可能性は今のところ考え難いようです。。。


目黒区の庚申塚

 昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「庚申塚」が記載されているのですが、この庚申塚は所在地が「上目黒2丁目」と記されています。ということは、中目黒1丁目に所在する「別所坂上庚申塔」とは別の庚申塚が存在するのだろうか?と考えましたが、上目黒2丁目に所在する塚について書かれている文献は見つけることが出来ず、詳細はわかりません。
 ちなみに上目黒2丁目には2ヶ所に庚申塔が残されており、画像はこのうちの1ヶ所である「天祖神社」を南東から見たところです。この神社の境内に庚申堂があり、2基の庚申塔が祀られています。


目黒区の庚申塚

 画像が「天祖神社庚申塔」です。塚らしきマウンドは見当たらないようです。


目黒区の庚申塚

 画像は、上目黒2丁目に所在するもう1ヶ所の庚申塔で「けこぼ坂庚申塔」です。目黒区役所前の、駒沢通り沿いの坂の途中の歩道に残されています。
 やはりこの場所にも塚は存在しないようです。果たして、開発が進む以前には塚の上に祀られていたのでしょうか。。。
 

目黒区の庚申塚
 
<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/15(木) 01:24:06|
  2. 目黒区の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「庚塚・金塚・鐘鑄塚」

「庚塚・金塚・鐘鑄塚」

 画像は、品川区大井7丁目にある「庚塚稲荷」を南から見たところです。この池上通りに面する庚塚のある周辺は、寛政期以前から大井村の中心地であり、稲荷の祠は小高い塚の上に祀られていたことから「庚塚稲荷」と呼ばれていました。「庚塚」は明治9年の地租改正以降に字名となり、昭和7年からは大井庚塚町となりましたが、昭和39年の住居表示実施により大井7丁目となり、庚塚の名称は消滅しています。
 この、かなり知られた存在であったと思われる庚塚は多くの郷土史に記述が見られ、『南浦地名考』には「(庚塚)池上道の内百姓の居屋敷にあり、稲荷の祠あり庚塚稲荷と云ふ、金塚と云ふ、又鐘鑄塚なりとも云ふ、又庚申の塚と云ふを庚塚とも云へり、此近辺の惣名となれり」とあり、また『大井町誌』には「(庚塚)町の西にある。庚塚稲荷の祠が在るので云ふ。又金塚とも云ふ、庚申塚が在るからである。東西三町三拾間南北二町五拾間余り。」と書かれています。


「庚塚・金塚・鐘鑄塚」

 画像は北西から見た現在の庚塚稲荷です。現代の建物に取り込まれてしまったようにも見える庚塚稲荷ですが、よく観察すると塚状に高くなった上に祠が祀られています。果たしてこれが塚の痕跡なのか、それとも他の場所から移されたものであるかはわかりません。東京湾に面する台地縁辺部に近い位置に所在する塚ということで古墳の可能性も考えたのですが、学術的な調査は行われていないようなので塚の性格まではわかりませんでした。大井古墳群から多少距離のあるこの周辺地域に古墳は存在しなかったのでしょうか。。。


「庚塚・金塚・鐘鑄塚」

 塚上のようすです。境内には「縁者一同」による「稲荷縁起」の説明板があり、「霊験あらたかなる当稲荷は この地が江戸と呼称される以前にさかのぼる大井の庄の頃より土地の人々に愛され あがめられてきた由緒ある存在である 家内安全 無病息災 子宝授与 蓄財万全 旅の安全 祈願成就 等多くのお恵みにより 万民の幸福を約されている 平成の良き日にあたり改めて縁を起毫するものなり 平成二年吉日 縁者一同」と書かれています。


「庚塚・金塚・鐘鑄塚」

 「庚塚」は、周辺の公園の名称に残されているようです。。。


【追記】
 その後、このお稲荷様について、近隣で生まれ育って50余年という地元の方からコメントをいただきました。
 この神社を所有する建物の場所は以前は砂利の露天駐車場で、そこに一間四面くらいの板張りの堂と鳥居一基があったそうです。この当時は駐車場と同じ高さの社地だったそうなので、少なくとも現在の祠の土盛は塚の痕跡ではなく、現代の建物の建築に伴い盛られたものであるようです。
 『南浦地名考』が発行されたのは昭和26年(1951)ですので、戦後にはまだ塚のなんらかの痕跡は残されていたのかもしれませんが、昭和40年代には、整地されて消滅してしまっていたようです。。。

<参考文献>
安田精一『大井町誌』
品川区教育委員会『品川の地名』
磯ケ谷紫江『南浦地名考』
現地説明板


人気ブログランキングへ
  1. 2016/09/13(火) 01:23:52|
  2. 品川区/その他の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「品川富士」―品川区指定有形民俗文化財―

「品川富士」―品川区指定有形民俗文化財―

 画像は、品川区北品川3丁目にある「品川神社」を東から見たところです。品川神社は平安時代末期の文治3年(1185)、源頼朝が安房国州崎明神を勧請して創建されたと伝えられています。天正18年(1590)8月1日には、徳川家康からあわせて5石の社領の朱印地を受けています。
 この品川神社の境内には、「品川富士」と呼ばれる富士塚が所在しています。


「品川富士」―品川区指定有形民俗文化財―

 画像が、品川富士を東から見たところです。富士塚は境内の南東隅にあり、第一京浜国道に面した崖の上に築かれています。品川神社は芳葉岡と呼ばれる台地の突端に築造されており、東を走る京浜急行の車内から見ると、ボク石で覆われた円墳型の富士塚がひときわ目立つ存在です。立地的に、古墳を流用して造られた可能性もあるのではないかとも考えましたが、大正11年(1922)の第一京浜国道の敷設工事の際、境内の東側が削られたときに塚も西に約60メートル程移動されているそうなので、古墳流用の可能性は有り得ないようです。


「品川富士」―品川区指定有形民俗文化財―

 富士塚へは、品川神社の石段の途中から左側に入るように造られています。敷地内には、品川区教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれていました。

品川区指定有形民俗文化財
 品川神社富士塚

所在 品川区北品川三丁目七番十五号 品川神社内
指定 昭和五十三年十一月二十二日(民俗第一号)

 富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士
山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山
ができない講員のために造った築山である。
 品川神社の富士塚は、明治二年(一八六九)、北品川
宿の丸嘉講社の講中三百人によって造られた。神仏分離
政策で一時破壊されたが明治五年に再築し、大正十一年
(一九二二)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。
 江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせつ
な文化財である。

品川区指定無形民俗文化財
 品川神社富士塚山開き

実施団体 品川丸嘉講社
指定 昭和六十一年三月十四日(風俗慣習第一号)
 毎年七月一日に近い日曜日に、講員一同が白装束で
浅間神社前で「拝み」を行う。
 その後、はだしで富士塚に登り、山頂の遥拝所や小
御岳の祠でも「拝み」をして下山し、社殿にもどって
から平服に着替える。
 かつては盛んだった行事であるが、現在も行ってい
る富士塚はたいへん少ない。

   平成二十三年三月三十一日
                品川区教育委員会


「品川富士」―品川区指定有形民俗文化財―

 登山道の途中、五合目あたりで見上げてみた富士塚のようすです。すごい迫力ですね。


「品川富士」―品川区指定有形民俗文化財―

 山頂は平坦になっていますが特に何もないようです。以前は赤土が露出していたようですが、現在はコンクリートで固められています。塚の北側には浅間神社が祀られています。


「品川富士」―品川区指定有形民俗文化財―

 山頂からの眺め。こうしてみるとかなりの高さがあるのがわかります。


品川神社

 品川神社の境内のようすです。神社というのはもう存在自体が芸術作品のようですね。


「庖丁塚」

 鳥居をくぐって右手には「庖丁塚」の石碑が立てられています。品川宿では魚や動物を調理することが多く、その動物たちを供養するために建てられた塚であるといわれています。ここは塚らしきマウンドは存在せず、石碑のみが建てられているようです。

<参考文献>
(財)日本常民文化研究所『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』
平野栄次『品川区史跡散歩』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/11(日) 00:43:03|
  2. 品川区/その他の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「流民叢塚碑」―品川区指定史跡―

「流民叢塚碑」

 画像は、品川区北品川2丁目の「法禅寺」を東から見たところです。南北朝時代の末、至徳元年(1384)に開創されたと伝えられるこの法禅寺にはかつて「流民叢塚」と呼ばれる塚が存在しており、塚の上に立てられていたといわれる「流民叢塚碑」が今も残されています。


「流民叢塚碑」

 画像の正面三体の六地蔵が流民叢塚碑です。この碑について、品川区教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。

品川区指定史跡
 流民叢塚碑

    所在 北品川二丁目二番十四号 法禅寺
    指定 昭和六十一年三月十四日(第二十一号)

 この碑は、天保の大飢饉でなくなった人たち
を祀る供養塔である。
 天保四年(一八三三)に始まった天候不順は、
その後数年におよび、多数の餓死者を出した。
品川宿には農村などから流浪してくるものが多
く、この付近で病や飢餓でたおれる人が八百九
十一人を数えるに至った。これらの死者は、法
禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が
埋葬されたという。
 初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治四
年(一八七一)に造立の流民叢塚碑が立てられて
いた。昭和九年(一九三四)に境内が整備された
折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建て
られ、上にこの碑が置かれた。
 碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、
天保の飢餓の悲惨さを伝えるとともに、名もな
い庶民の存在を伝えている。

 平成六年十月三十日
             品川区教育委員会


 享保,天明と合わせて江戸時代の三大飢饉と称される天保の大飢饉は、天保4年の東北地方の凶作により始まり、天保7年(1836)の長雨がこれに拍車をかけ、米価は平時の10倍にはねあがり、米屋には米粒の姿がなくなってしまったといわれています。夏の土用に入っても人々が着物を重ね着し、老人はあんかを抱いて寝るほどだったそうですので、かなりの冷夏だったようです。

 説明板によると、かつてはこの納骨堂の場所に円墳上の塚が築かれており、流民叢塚碑が塚上に建てられていたようですが、残念ながら塚は削平されており、痕跡は残されていません。立地から考えると、この塚もやはり古墳である可能性は考え難いようです。。。


「御殿山下台場(砲台)跡」

 法禅寺東方の品川区立台場小学校の敷地内には、「御殿山下砲台跡」として第2台場に設置された灯台のレプリカが設置されています。

 御殿山下台場(砲台)跡
 嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求め
るため浦賀(神奈川県)に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府
は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
 伊豆韮山(静岡県)の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導
にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で
工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代りとして、陸続きで五角形の
砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋立てられ姿
を消しましたが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることがで
きます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。
 台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の
上に立つ灯台は、明治3年(1870)日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯
台を模したものです。
 品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
                                   平成18年3月31日
                                   品川区教育委員会

<参考文献>
平野栄次『品川区史跡散歩』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/09(金) 01:27:13|
  2. 品川区/その他の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「海蔵寺無縁塔群・首塚・頭痛塚」―品川区指定史跡―

品川区 未登録「海蔵寺無縁塔群・首塚・頭痛塚」―品川区指定史跡―

 画像は、品川区南品川4丁目の「海蔵寺」を北から見たところです。海蔵寺は永仁6年(1298)に荒井道場という時衆道場として開かれたと伝えられています。江戸時代には、鈴ヶ森で処刑された罪人や引き取り手のない遊女などを葬ったため、別名「投げ込み寺」とも呼ばれていたそうです。境内には慶応元年(1865)に建立された「津波溺死者供養塔」や、大正4年(1915)建立の「京浜鉄道轢死者供養塔」、昭和7年(1932)建立の「大正葵亥震火大災・死各霊供養堵」などがあり、この海蔵寺が長い間、投げ込み寺としての性格を保っていることがわかります。そして、本堂裏手の墓地に所在するのが別名「首塚」とも呼ばれる「海蔵寺無縁塔群」です。


品川区 未登録「海蔵寺無縁塔群・首塚・頭痛塚」―品川区指定史跡―

 画像は、海蔵寺本堂と境内のようすです。この西側に塚が存在します。
 海蔵寺山門前には、品川区教育委員会により説明板が設置されており、次のように書かれていました。

品川区指定史跡
海蔵寺無縁塔群(首塚)


 所在 南品川四丁目四番二号 海蔵寺
 指定 昭和五十三年十一月二十二日(第十四号)

 山門を入って右手奥の塚は江戸時代、品川に
あった溜牢(牢屋)でなくなった人々の遺品を集
めて、宝永五年(一七〇八)に築かれたものです。
鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨の一部も埋葬
され「首塚」と呼ばれるようになりました。ま
た、この塚にお参りすると頭痛が治るというこ
とから古くより「頭痛塚」とも呼ばれています。
この塚には天保の大飢饉(一八三三~三九)で亡
くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」も
合葬されています。
 このほか、当寺院には慶応元年(一八六五)に
建立された「津波溺死者供養塔」や大正四年(一
九一五)の「京浜鉄道轢死者供養塔」などがあり
ます。いずれも引き取り手のない死者や不慮の
死をとげた者の霊を供養してきたため、本寺は
俗に品川の「投込寺」と言われました。
 平成六年十月三十日』
             品川区教育委員会


品川区 未登録「海蔵寺無縁塔群・首塚・頭痛塚」―品川区指定史跡―

 東海道の東側はかつて海だったところで、品川の低地に古墳が存在した可能性は考え難いところですが、やはり塚と聞くと見学したくなってしまいます。私は肩こりによる頭痛が酷いので、「頭痛塚」とも呼ばれるこの塚でしっかりとお参りしてきました。。。

<参考文献>
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/07(水) 22:40:26|
  2. 品川区/その他の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「鯨塚」―品川区指定有形文化財―

「鯨塚」

 今回紹介するのは「鯨塚」です。恐らくは古墳とはまったく関係のない近世の塚である鯨塚ですが、その由来がなかなか面白い塚なので、取り上げてみたいと思います。
 画像は、品川区東品川1丁目の利田神社を南東から見たところです。この神社の敷地内に鯨塚が祀られています。


「鯨塚」

 鯨塚は、神社の境内ではなく、社殿西側の敷地内に祀られています。マウンドは存在せず、「鯨碑」という石碑が立てられています。この鯨碑について、品川区教育委員会により現地に立てられた説明板には次のように書かれていました。


鯨碑

所在 東品川一丁目七番十七号 利田神社
指定 平成十八年十一月二十八日

 この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一九七八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。
 全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。
平成十九年三月一日
品川区教育委員会

「鯨塚」

 石碑は2種類存在しており、画像は北側に設置されている鯨碑です。劣化が激しく、刻まれた文字を読むことは出来ないのですが、「寛政十年」の文字が見えます。最初の石碑は寛政10年(1798)に造立されましたが、この石碑は明治39年(1906)に再築されたものであるようです。この碑の横には「鯨碑乃由来」の碑があり、「此ノ鯨碑ハ寛政拾年(西暦一七九八年)五月壱日折柄ノ暴風雨ニモマレ乍ラ大鯨ガ品川ノ沖ニ這入リ込ミ是を見ツケタ漁師達ハ船ヲ出シテ天王洲ニ追イ込ミ遂ニ捕エタ 此ノ事ガ忽チ江戸ニ広ガリ見物客デ大賑イニ成リ五月三十日ニ芝ノ浜御殿(今ノ浜離宮公園)ノ沖ニ船デ引張ツテ行キ第十一代将軍家斉公ニ御覧ニ入レタ 此ノ鯨ノ背通リ長サ九間一尺 高サ六尺八寸有ッタト言ウ 鯨碑ニハ左ノ句ガ刻ンデアル 江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨  当時の俳人 谷 素外」と刻まれています。


「鯨塚」

 画像は北側に設置されている新しい鯨碑です。
 この鯨は江戸中の評判となり、洒落本に取り上げられたり、うちわや手拭いに鯨の絵が描かれたりとかなりの流行となったようです。当時はテレビやネットが存在しない時代ですから多くの人は鯨を見たことがなかったのでしょうし、さぞかし大騒ぎになったことと思います。現代では、多摩川や鶴見川周辺でアザラシのタマちゃんが大きな注目を集めたことがありましたが、東京湾内に16メートルもの鯨が現れたら現代でもビックリですね。


「鯨塚」

 当時は、普段捕鯨が行われていない地域で鯨が捕らえられた際には、役人の検分を受けたのちに入札により払い下げることになっており、この鯨は宇田川町の左兵衛という人が金41両3分余で落札したのだそうです。こうして鯨は胴体の部分が売られて、頭の部分が地元の漁師たちにより手厚く葬られ、この時に築かれたのがこの「鯨塚」ということになるようです。


「鯨塚」―品川区指定有形文化財―

 鯨塚の西側に隣接する「品川浦公園」には鯨のモニュメントが存在します。塚には鯨の頭部の骨が埋葬されたそうですが、公園にもちゃんと頭部のモニュメントが建てられていました。

<参考文献>
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/05(月) 02:28:50|
  2. 品川区/その他の塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「仙台坂1号墳」

「仙台坂1号墳」

 「仙台坂遺跡」は、武蔵野台地の東南端にあたる品川区東大井4丁目に所在する遺跡です。「仙台坂」の名称はこの周辺に陸奥国仙台藩伊達家の下屋敷があったことに由来しており、昭和62年(1987)から翌年にかけて行われた、東京都都市計画道路・補助第26号線の仙台坂トンネルの工事に伴う発掘調査では、江戸時代の大名屋敷にちなんだ遺構・遺物が、多く出土しています。また、この仙台坂遺跡の発掘調査により、2基の古墳の周溝が検出されています。この2基の古墳を中心として南北に250mほどの範囲に予てより須恵器や円筒埴輪片といった古墳時代の遺物の散布域が認められており、10基前後の規模の古墳群の存在が想定されています。

 画像は、「仙台坂1号墳」の跡地周辺を南東から見たところです。この1号墳の規模は内径約16m、外径約22mの円墳と推定されており、覆土上面や周溝の周囲からは埴輪片が採集されています。画像の道路から左側の集合住宅の駐車場のあたりが古墳の跡地であると思われますが、古墳の痕跡は地上に残されてはいないようです。。。

<参考文献>
品川区遺跡調査会『仙台坂遺跡』


人気ブログランキングへ

  1. 2016/09/04(日) 01:28:43|
  2. 品川区/品川大井古墳群
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

カテゴリ

足立区/伊興古墳群 (4)
足立区/その他の古墳・塚 (9)
葛飾区/立石古墳群 (3)
葛飾区/その他の古墳・塚 (10)
江戸川区の古墳・塚 (0)
板橋区/志村古墳群 (10)
板橋区/その他の古墳・塚 (36)
北区/赤羽台古墳群 (2)
北区/十条台古墳群 (2)
北区/飛鳥山古墳群 (8)
北区/田端西台通古墳群 (1)
北区/その他の古墳・塚 (14)
荒川区/尾久 微高地 (4)
荒川区/町屋-三河島 微高地 (19)
荒川区/南千住 微高地 (3)
荒川区/日暮里 台地上 (2)
台東区/上野台古墳群 (5)
台東区/その他の古墳・塚 (7)
墨田区の古墳・塚 (4)
練馬区の古墳・塚 (16)
豊島区の古墳・塚 (3)
文京区の古墳・塚 (8)
杉並区の古墳・塚 (18)
中野区の古墳・塚 (17)
新宿区の古墳・塚 (19)
千代田区の古墳・塚 (7)
目黒区の古墳・塚 (9)
渋谷区の古墳・塚 (19)
港区の古墳・塚 (8)
品川区/品川大井古墳群 (7)
品川区/その他の塚 (15)
大田区/田園調布古墳群 (34)
大田区/鵜の木・久が原古墳群 (8)
大田区/その他の古墳・塚 (52)
世田谷区/野毛古墳群 (24)
世田谷区/殿山古墳群 (9)
世田谷区/大蔵古墳群 (0)
世田谷区/砧中学校古墳群 (2)
世田谷区/喜多見古墳群 (13)
世田谷区/砧古墳群その他 (8)
世田谷区/その他の古墳・塚 (18)
武蔵野市の古墳・塚 (3)
三鷹市の古墳・塚 (7)
狛江市/狛江古墳群(和泉) (34)
狛江市/狛江古墳群(岩戸) (13)
狛江市/狛江古墳群(猪方) (29)
狛江市/その他の古墳・塚 (1)
調布市/国領南古墳群 (2)
調布市/下布田古墳群 (16)
調布市/上布田古墳群 (7)
調布市/下石原古墳群 (2)
調布市/飛田給古墳群 (17)
調布市/その他の古墳・塚 (13)
府中市/武蔵府中熊野神社古墳 (2)
府中市/白糸台古墳群 (14)
府中市/高倉古墳群 (32)
府中市/御嶽塚古墳群 (19)
府中市/その他の古墳・塚 (15)
国立市/下谷保古墳群 (12)
国立市/青柳古墳群 (3)
国立市/その他の古墳・塚 (9)
立川市の古墳・塚 (14)
稲城市の古墳・塚 (12)
多摩市/和田古墳群 (15)
多摩市/その他の古墳・塚 (8)
日野市/平山古墳群 (7)
日野市/西平山古墳群 (5)
日野市/七ッ塚古墳群 (9)
日野市/万蔵院台古墳群 (4)
日野市/その他の古墳・塚 (12)
町田市/能ケ谷香山古墳群 (0)
町田市/その他の古墳・塚 (21)
八王子市の古墳・塚 (33)
昭島市の古墳・塚 (12)
あきる野市/森山古墳群 (3)
あきる野市/草花古墳群 (14)
あきる野市/御堂上古墳群 (4)
あきる野市/瀬戸岡古墳群 (7)
あきる野市/牛沼古墳群 (3)
あきる野市/その他の古墳・塚 (16)
日の出町の古墳・塚 (2)
青梅市の古墳・塚 (16)
西東京市•東久留米市の塚 (5)
小金井市•国分寺市の塚 (4)
東村山市•東大和市の塚 (9)
武蔵村山市•瑞穂町の塚 (17)
川崎市の古墳・塚 (47)
横浜市の古墳・塚 (0)
相模原市の古墳・塚 (7)
栃木県の古墳 (13)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
壬生町•上三川町 (5)
長野県の古墳 (6)
群馬県の古墳 (8)
茨城県の古墳 (5)
埼玉県の古墳 (2)
千葉県の古墳 (1)
未分類 (9)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR