
「渋谷区№81遺跡」は、渋谷区代々木4丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号81番として登録されています。
この古墳は、戦後までは何らかの痕跡が残されていたようですが、その後の開発により削平されて消滅しています。昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」に記述が見られ、存在の不確実な古墳であるとしながらも、旧山内邸内に存在した円墳として取り上げられています。この時点では古墳の所在地はわからなくなっていたようですが、その後、昭和57年に行われた東京都心部遺跡分布調査の際の古地図の検討により、おおよその古墳の位置は判明しているようです。
画像は、古墳の所在地とされる代々木4丁目周辺のようすです。刀剣博物館の向かい側、画像の道路の左側あたりが古墳の跡地であると思われますが、残念ながら痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/10/09(日) 01:36:14|
- 渋谷区の古墳・塚
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現在の立川市錦町5丁目には、古墳ではなかったかと考えられる「狐塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には未登録の古墳ですが、立川市史編纂委員会より昭和43年(1968)に発行された『立川市史研究』には、地元の古老の口伝として次のように紹介されています。
(三) 狐塚、この塚は、つむじ塚の稍々南に位置し、極めて近接しており、地番は錦町5丁目12番に存在したらしい。
小川氏の話によると、相当大規模であったらしく、想像をたくましくすれば、恐らく富士塚位あったであろうとの推定がつく。また円墳らしく思考できる性質のものであったらしい。現在は如何なる理由によるものか、空き地になっており、雑草の茂るにまかせているのはどうしたわけであろうか。
尚、小川氏の父はこの塚の存在した当時、野良帰りに時々狐の子供が遊んでいるのを見かけたと、昔話しによく語ってくれたといっている。しかしながらすでに消滅してしまっているので、考古学的に証明する事は困難であるが、古墳が存在してもよい立地条件の箇所であることは、筆者も水野教授も意見の一致を見ている。(『立川市史研究 第九冊』58~59ページ) 「狐塚」という名称からして、狐穴の存在と開口した埋葬施設の存在を連想してしまいますが、西方には『東京都遺跡地図』に登録されている「立川市№13遺跡」と「立川市№16遺跡」の2基の古墳があり、№13遺跡は墳丘が残存しています。この2基の古墳と同じ台地上の縁辺部という立地的な環境から考えてもこの塚は古墳ではなかったかとも考えられますが、残念ながら学術的な調査が行われることなく消滅しており、詳細はわかりません。画像の道路の左側あたりが塚の跡地とされている地点です。

画像は右側が立川公園で、左側の立川崖線上(府中崖線)に「狐塚」と「つむじ塚」の2基の塚が並ぶように存在していたと思われます。塚の跡地周辺地域は宅地化が進んでおり、痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
八巻義昌「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』
立川市『立川市史 上巻』
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- 2016/10/07(金) 02:02:24|
- 立川市の古墳・塚
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現在の立川市錦町5丁目には、古墳ではなかったかと考えられる「つむじ塚」と呼ばれる塚の伝承が残されています。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、立川市史編纂委員会より昭和43年(1968)に発行された『立川市史研究』には、地元の古老の口伝として次のように紹介されています。
(二)つむじ塚、現在の錦町五丁目六番地に存在していたらしい。
小川氏の話によると、昔日秩父方面より非常に大規模のつむじ風が立川方面に向ってきたが、この地点より田無方面に方向を変えたということである(あるいは野火止方面であるともいっている)。
立川附近のつむじ風は、今日では人家がたちこめ余りひどくなくなったが、私達の小学生時代には早春から初夏にかけて、桑畑つづきの台地に屢々見うけられ、そのための赤土が数百米の上空まで達して、万点紅に染められたすさまじさを日々体験していたので、このような自然の猛威に対して、それらを鎮めようがために祀られた祠のような気がする。そして、このつむじ風はむしろ秩父方面からではなく、国立方面より旧立川方面に向って来たように筆者は記憶しているし、塚の位置からすれば、国立方面から来るつむじ風を、この地点で田無方面に変えさせたとする方が自然であると考えられる。 つむじ塚の北側のかなり近い位置には「狐塚」と呼ばれる塚が存在していたといわれており、この2基ともに古墳ではなったかとも考えられているようです。画像の道路の左側あたりが塚の跡地と思われますが、周辺は宅地化が進み、塚の痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
八巻義昌「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』
立川市『立川市史 上巻』
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- 2016/10/06(木) 00:39:26|
- 立川市の古墳・塚
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立川市柴崎町4丁目には現在、「立川市№13遺跡」と「立川市№16遺跡」の2基の古墳が『東京都遺跡地図』に登録されています。№16遺跡はすでに墳丘は消滅しており、昭和30年の樹木の移植の際に古墳の埋葬施設が偶然発見されたという伝承と、平成18年の発掘調査により周溝の可能性が考えられるという溝の一部が検出されたという記録が唯一の古墳の記録となっています。墳丘が残存する古墳は、沢稲荷の社殿が鎮座する№13遺跡の1基のみであるようですが、周辺には古墳ではなかったかと考えられている塚の伝承が残されているようです。
昭和43年に発行された『立川市史研究 第九冊』に掲載されている「立川市内に於ける消滅古墳について」の中で、八巻義昌氏は柴崎町4丁目に存在したとする「通称こうじや附近の塚」について「この塚の番地は現在明らかでないが、普済寺の北側とも東側ともいわれていて、これもはっきりしないが、小川氏は柴崎町4丁目162番地あたりといっている」と記しています。
多摩川中流域左岸の古墳群の分布は府中崖線状の台地縁辺部に集中しており、調布市下布田・上布田古墳群から飛田給古墳群、府中市白糸台古墳群から高倉古墳群、御嶽塚古墳群、国立市下谷保古墳群から青柳古墳群と続いています。立川市内のこの段丘上に古墳が存在した可能性も十分にあるのではないかと思います(勿論素人考えですが)。これまでに紹介した立川市内の塚の多くは台地縁辺部からは距離があり、古墳ではなかったのではないかと思われるのですが、この通称こうじや附近の塚は台地縁辺部に近く、また古墳であるとされる№13遺跡と№16遺跡ともかなりの近距離にあることから、古墳であった可能性も考えられると思われますが、削平の際の遺物の出土の伝承等もなく、学術的な調査も行われていないため、詳細はわかりません。
画像の道路の右側あたりが旧番地の162番地となりますが、路上から確認したところでは古墳らしき痕跡は残されていないようです。。。
<参考文献>
八巻義昌「立川市内に於ける消滅古墳について」『立川市史研究 第九冊』
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- 2016/10/05(水) 01:17:24|
- 立川市の古墳・塚
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画像は、品川区東大井3丁目に所在する「梶原稲荷神社」を北から見たところです。この神社の境内には「梶原塚」と呼ばれる塚が残されています。
梶原稲荷神社は建久3年(1192)、征夷大将軍源頼朝の命を受けた梶原平三景時は、武蔵國荏原郡大井村鹿島谷に「萬福寺」を建立したものの、元応2年(1320)に火災により全焼、境内にあった稲荷祠だけが焼け残ったと伝えられています。その後、萬福寺は現大田区の馬込村に再建されますが、稲荷祠だけは来福寺に属してそのまま残されていましたが、近年の都市化により来福寺と梶原塚の間の宅地化が進み、現在のように別々の形態になったようです。

画像は、境内に残存する「梶原塚」を北西から見たところです。稲荷祠は来福寺に移された後も梶原稲荷と尊称されて現在に至っていますが、梶原塚は梶原一族の墳墓ではないかと考えられているようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも記述が見られ、「来福寺」の項に「梶原塚。境内北の方にあり、景季の墳と云、按に此邊梶原景時父子の舊蹟と云もの多し。巳に馬込村の條にも記せし如く、永禄の頃小田原北條家人に梶原氏のものありて、馬込村を領したるにより後人附會の説を起し、かく景時が舊蹟のやうに云傳へしならん、猶馬込村の條に合せ見べし。」と書かれています。
北東に300mほどの地点には、前方後円墳ではないかと考えられている「大井林町2号墳」の跡地とされる立会小学校があり、古墳群が存在しています。同じ台地上の縁辺部に存在するこの梶原塚が、古代に築造された古墳である可能性も十分に考えられるのではないかと思われますが、発掘調査等は行われていないために詳細はわかりません。

北東から見た梶原塚です。塚は四方を削平されて方形に改変されており、東側に梶原稲荷の社殿が鎮座しています。周囲を宅地に囲まれているので、塚の全景を写真に収めることは出来なかったのが残念ですが、どんな性格の塚なのか、とても興味深い梶原塚です。。。

梶原稲荷神社社殿に設置されていた「梶原塚稲荷祠由来記」です。梶原塚についての記述も見ることが出来ます。
<参考文献>
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
梶原稲荷講『梶原稲荷神社由来記』
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- 2016/10/01(土) 03:20:54|
- 品川区/その他の塚
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