
画像は京王線笹塚駅前の甲州街道沿い、渋谷区笹塚2丁目を南西から見たところです。この場所には、周辺地域の地名の由来になったとされる「笹塚」と呼ばれる塚が存在したといわれており、渋谷区教育委員会により説明板が設置されています。『東京都遺跡地図』には未登録となっていますが、一里塚であったとも古墳であったともいわれており、塚にまつわる伝説も残されているようです。すでに破壊されて消滅してしまったこの笹塚は、はたしてどんな性格の塚だったのでしょうか。。。

画像が、「笹塚」の所在地とされる2丁目12番地の南西角に設置されている説明板です。
笹 塚 跡 笹塚二丁目12番
昔、このあたりの甲州街道の南北両側に、直径
が一メートルほどの塚(盛土)がありました。その
上に笹(または竹)が生い茂っていたことから、笹
塚と呼ばれていたようです。
その塚が、慶長九年(一六〇四)に設置された
一里塚であるかどうかははっきりしませんが、こ
の塚に一里塚の印を記載している古図もあります。
また、江戸時代の文書にも笹塚のことが簡単に
述べられています。大正五年(一九一六)に発刊さ
れた『豊多摩郡誌』には、「甲州街道の北側に石
塚があったが、今は見られない」と書いてありま
す。
この塚があったことから、この地域一帯を昔か
ら笹塚と呼び、今もそれが町名として残っている
のです。
渋谷区教育委員会 この説明板からすると、笹塚は一里塚であった可能性が高いように思われるのですが、この周辺地域の郷土誌をひも解くと諸説あるようです。大正5年に発行された『豊多摩郡誌』には「幡ヶ谷志村兵四郎邸外なる甲州街道の南側に三尺餘の石塚ありたるとも、今は濠中に没して其の形だも見えず、又同所中村禎作邸前甲州街道北側にも石塚ありたれど是亦た土中に埋れて今見る能はず、以上は孰れも慶長九年建設せしものなりと言傳ふ」と、当時の塚のようすと所在地について書かれているのですが、同書にある「幡ヶ谷志村兵四郎邸」とは現在の渋谷区幡ヶ谷1丁目4番地あたりのことで、ちょうど京王線幡ヶ谷駅あたりの甲州街道南側、幡ヶ谷ゴールデンマンションの西側部分にあたります。そして「中村禎作邸」とは現在の渋谷区笹塚1丁目12番地、京王線笹塚駅あたりの「笹塚跡」の説明板が立てられている区画にあたります。両者は京王線各駅停車の一駅分、約700~800メートル程は離れており、これほど離れたこの2基の塚が一里塚であったとは考えられません。これはいったいどういうことなのでしょうか。。。

画像は、『豊多摩郡誌』にある「旧志村兵四郎邸」にあたる場所です。画像の右側のマンションの駐車場部分あたりが塚の跡地と思われます。地下には京王線幡ヶ谷駅があり、地上には大きく拡張された甲州街道の上には首都高速道路4号新宿線が走っており、塚の跡地前がちょうど幡ヶ谷出入口となっています。とても埋蔵文化財が残されているとは考えられない場所で、塚の痕跡は何も残されていないようです。
さて、一里塚であるとされるこの遠くはなれた2基の塚の真相について、『幡ヶ谷郷土誌』には次のように書かれていました。
「(前略)江戸を中心として築かれた諸街道の一里塚は日本橋を基點とし、其所から三十六町一里の計算で測定して設けられたものであったから、甲州街道に限って僅か六町餘を距てた両地點に両箇の一里塚があるといふ事は考へられぬ事で、これは両箇所の何れかの一つは眞実の一里塚では無く、何かの誤傳から後世斯うした奇怪な説が傳へられるやうになったのではあるまいか。然りとしたならばこの両箇の中の何れかが眞実の一里塚であらうか。
前にも一度甲州街道の項で引用したが、明治六、七年の頃に書かれた東京府志料に、
日本橋区通一丁目二丁目の間に於て東海道より西折し、呉服橋を經て旧日比谷門に至り、麹町隼町一番地に至りて日本橋より一里、此に第一の標を建つ、夫より内藤新宿三丁目二十四番地に至り二里一町二十五間、此に第二の標を建つ、夫より幡ヶ谷村五十五番地に至り此にて三里第三の標を建つ、夫より和田村と代田村松原村の間を經て下高井戸八十八番地に至りて四里、此に第四の標木を建つ。云々
とあるが、この記録に記された道程は江戸幕府時代に日本橋の基標を基點とし、甲府へ至る間の道路、即ち甲州街道として定められてあった道路を踏襲して測定されたものに相違無いが、それならば同一地點を起點として三十六町一里の定めで測定された一里の地點は、初めに一里塚を築かれた地點と一致せねばならず、二里の場合、三里の場合でも同様である。さうだとしたならばこの東京府志料にある幡ヶ谷村五十五番地の里程標こそ、江戸時代の一里塚の所在地を示す地點であり、其所にあった一里塚こそ眞箇の一里塚であると断定し得る事となるのであるが…(後略)」(『幡ヶ谷郷土誌』185~186ページ)

『幡ヶ谷郷土誌』の記述からすると、この幡ヶ谷1丁目4番地あたりに所在したといわれる塚が真の一里塚であるようです。画像は一里塚跡地を南西から見たところで、甲州街道の反対側から一里塚の跡地である幡ヶ谷ゴールデンマンションの駐車場部分を見たという状況ですが、やはり塚の痕跡は何も残されていません。こちら側は京王線が地下に入るトンネルとなっている場所で深くまで掘り下げられていますので、この塚が古墳であったとしても、地中も含めて痕跡は何も残されていないようです。。。

さて、幡ヶ谷に存在した塚が甲州街道の一里塚であったということであれば、笹塚に所在した塚はどんな性格の塚であったのかということになりますが、これについても『幡ヶ谷郷土誌』に記述があり、次のように書かれています。
現在は甲州街道の擴張工事のためにこの塚の在った所も丁度道路の北側の辺となり、好個の一里塚所在地の位置となったが、工事前には道路から五、六間距った民有地内に在った地坪五、六坪、高さ七、八尺の土塁で、豊多摩群誌が書いてゐるやうな石塚では無く、またそれが土中へ埋没するやうな状況の地形でもなかった。しかも前記の天保十四年の記録にもある通り、道路の南側の笹塚一丁目五十六番地にもこれと同一形式の塚があったといふ。そしてこの南側の塚は甲州街道開設の際に道路敷に當たるその半面は切崩され、その後この道路の改修工事の際に残された塚も取崩され、堆土は改修用の土に使用されてしまったものであると傳承されてゐる。
斯様の有様で南側の塚は全く崩壊されて明治以前に姿を失ったのであったが、農村時代にはこの塚に隣接して居住して居た農家の家名を「塚」と呼んでゐたが、それは此所に塚の在った名残の呼名であった事を裏書してゐるのであった。そしてこの南側の塚は筆者が物心附く以前から名のみ残って、実際の塚は失はれて終ってゐたので知る由も無かったが、北側の道路より五、六間奥まった所に在った塚には熊笹が繁茂し、塚の上には数本の小雑木が樹ってゐてその塚裾の東北地點に小さな墓石が四、五基、崩壊に瀕して建って居たのを記憶して居り、それは今に回想するのに四囲の状況から推しても一里塚とは思へない。
それならば何故斯うした塚を昔の文書は、一里塚村内笹塚と申所往還左右に御座候などと書いたのであらうか。それは當時の農民等の実生活と知識の程度から攻究して行かねば解らない。三百六十日暗いから暗いまで働き乍らも常に貢租に尻を叩かれて居たであらう彼等が、彼等の生活とは無関係な一里塚に果して関心を有って居たであらうか。しかもそれが構築された當座ならばいざ知らず、建造後百十餘年を經過した後にである。延宝八年に既に法界寺山門前に建立されてゐた庚申塚を始め、元禄十三年の笹塚庚申塚等数々の庚申塚が存してゐたにも拘わらず、同文書の中で庚申塚無御座候と答へて居る當時の農民等の知識としては、俗に墓石其他の碑標等の建てられた所をも塚と言った事を考へず、塚と し言へば正直に堆塚の地とのみ考へ、それが恰も道路の間近に在ったがために一里塚との質問に対し、之れがそれであらうと考へて斯く上申
したのも無理は無い。しかし此の塚は古くから傳承されて居る道路作りの際に南側の塚は半分壊されたといふ説話や、残存して居た北側の塚の状況から推測して決して一里塚では無かった事は明らかである。しかも笹塚の地名は笹の繁茂して居た此等の塚に由来する事は明かであり、笹塚の地名はそれ程新しいものでは無く、この幡ヶ谷に村作りが開始された頃から存したものと想像されるから、この地名は甲州街道開通以前からのもので有った事は明かである。(『幡ヶ谷郷土誌』186~187ページ) 画像の道路の左側が、同一形式の塚があったといわれる笹塚1丁目56番地にあたりますが、この場所も都市化の進んだ京王線笹塚駅と駅前の甲州街道沿いの一画であり、もはや塚の痕跡など微塵も残されていません。『幡ヶ谷郷土誌』の著者堀切森之助氏は、「一里塚と笹塚」の項の最後に「斯うして彼此考察して来ると笹塚の塚は決して徳川時代に築造されたものでは無く、それより以前既に存在して居た事が分明であり、その所在地の地形からしてこれは原住民の小円墳では無かったかと思はれる。」とはっきりと記述していますが、ダイダラボッチの伝説も残されているというこの「笹塚」がどんな性格の塚であったかは、消滅してしまった現在では確認することは出来ないようです。。。
<参考文献>
東京府豊多摩郡『豊多摩郡誌』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 中巻』
堀切森之助『幡ヶ谷郷土誌』
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- 2016/10/30(日) 22:48:14|
- 東京の一里塚
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画像は、渋谷区千駄ヶ谷1丁目に所在する「鳩森八幡神社」を東から見たところです。この神社の境内には「千駄ヶ谷の富士塚」と呼ばれる富士塚が所在しており、昭和56年(1981)には東京都の有形民俗文化財に指定されています。東京都内では、登拝できる日時が限られている富士塚も少なくないのですが、この千駄ヶ谷の富士塚は常時公開されており、一年中登拝することが出来ます。秋のよく晴れた日に訪れてみました。

画像が、富士塚を南西から見たところです。鳥居をくぐったところが富士塚で、「千駄ヶ谷の富士塚」と刻まれた石碑と、東京都教育委員会による説明板が設置されています。塚は寛政元年(1789)の築造といわれており、『江戸名所図会』や『東部歳時記』といった江戸時代の文献にもこの塚のことが記されています。その後、大正時代の関東大震災により崩壊しており、里宮の社殿も焼失しているそうですが、その後神社と鳥帽子岩講が協力して復興したことが大正13年造立の記念碑に記されているそうです。

説明板には次のように書かれていました。
東京都指定有形民俗文化財
千駄ヶ谷の富士塚
所在 渋谷区千駄ヶ谷1-1-24 鳩森八幡神社境内
指定 昭和56年3月12日
この富士塚は寛政元年(一七八九)の築造といわれ、
円墳形に土を盛り上げ、黒朴(富士山の熔岩)は頂上近
くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置し
ており、土の露出している部分には熊笹が植えられてい
る。頂上には奥宮を安置し、山裾の向って左側に木造の
里宮の建物がある。
頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、
自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつく
られ、その中には身禄像が安置されている。塚の前面に
は池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を
利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は
江戸築造の富士塚の基本様式を示している。
この富士塚は大正十二年(一九二三)の関東大震災後
に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、
東京都内に現存するものではもっとも古く、江戸中期以
降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富
士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。
昭和五十七年三月三十一日 建設
東京都教育委員会
頂上に登る登山道を見上げたところです。やっぱり富士塚には青空が似合いますね。

頂上に祀られている奥宮のようすです。
富士塚には、元々存在した古墳や塚を流用して築造されたものも少なくないのですが、この千駄ヶ谷の富士塚はどうやら古墳とは関係がないようです。。。

山頂から鳩森八幡神社境内を見下ろしてみました。高さは約4メートルとされるこの千駄ヶ谷の富士塚ですが、こうして見るとかなり高く感じますね。

境内に立てられている、千駄ヶ谷の富士塚の「富士塚絵図」です。古い絵図の劣化が進み、はっきり見えない状態になっていたことにより新しく作成されたそうです。昭和62年に講が解散された当時の講元のご子息の方が絵図を奉納されたそうです。
<参考文献>
(財)日本常民文化研究所『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』
鳩森八幡神社『社報鳩森』
現地説明版
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- 2016/10/29(土) 02:05:08|
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画像は、渋谷区東3丁目にある「福昌寺」を南西から見たところです。このお寺の境内には渋谷区の有形文化財に指定されている「阿弥陀石棺仏」が安置されています。

画像が、福昌寺境内に所在する「阿弥陀石棺仏」を南東から見たところです。寺門を入った左手に安置されています。
古墳の石室に収められた石棺(石でつくられたお棺)にはいくつかの種類があり、この中に「家型石棺」があります。故人の住居をまねて造られたといわれていて、石棺の蓋の部分が寄棟造りの家屋の屋根に似ていることからこの名が付けられたそうです。「石棺仏」とは、古墳が造られた時代から数百年たった中世のころ、崩された古墳に葬られていた古代人の霊を慰めるために、石棺の蓋に仏像を刻んだものだといわれています。

現地には、渋谷区教育委員会により立てられた説明板が設置されており、次のように書かれています。
東三丁目10番13号 曹洞宗 渋谷山 福昌寺
区指定有形文化財 平成十九年三月一日
阿弥陀石棺仏
石棺仏とは、古墳時代の石棺を転用して、そこに仏像を
彫り込んで路傍に立て庶民が礼拝の対象としたものです。
本石棺仏は、古墳時代中後期頃の家型石棺の蓋を利用して
おり、その内側は長方形に彫り窪められています。中心部
に表されるのは蓮台上に立つ阿弥陀如来像で、船形光背を
負い、来迎印を結ぶ姿が浮彫りされています。現存する阿
弥陀石棺仏の多くが坐像であり、このような立像は稀な例
になります。
この石棺蓋の材質は、兵庫県高砂市・加西市付近を産地
とする播磨竜山石と考えられます。石棺仏が彫られた時期
は、その像容や年紀を持つほかの作例から見て、南北朝時
代頃と推定されます。現状は石棺蓋の上端部に物が奉置さ
れるような窪みが穿たれていますが、阿弥陀如来像や蓮華
座に破損や摩滅等がほとんど見られず、保存状態は比較的
良好です。
この阿弥陀石棺仏は、和歌山県那賀郡から運ばれて来た
ものと伝えられ、昭和二十五年頃に造園業を営む東光園が
入手して当寺に寄進したもので、東京では本例のみという
珍しいものです。
渋谷区教育委員会
<参考文献>
渋谷区教育委員会『渋谷区史跡散歩地図』
佐藤昇著 株式会社学生社『東京史跡ガイド⑬ 渋谷区史跡散歩』
現地説明版
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- 2016/10/28(金) 01:04:55|
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画像は、渋谷区恵比寿南1丁目の「渋谷塚古墳」の跡地周辺を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、渋谷区の遺跡番号56番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳は、学術的な調査が行われることなく削平されて消滅しており、出土品や埋葬施設、周溝や埴輪の有無などの詳細は不明です。先日紹介した渋谷区№55遺跡の古墳の所在地とされる福徳稲荷大明神の南西に四、五十間ほどの地点にあり、小さな楕円形の塚は「奥の院」と呼ばれていたそうです。戦後の空中写真で観察すると、この場所にそれらしき楕円形の影が見えないこともないのですが、不明瞭で確信が持てません。この当時、地元の人々には「狐塚」と呼ばれていたようですが、東京都遺跡地図には現在は「渋谷塚古墳」として記載されています。この名称の由来についても詳細は不明です。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
渋谷氷川神社『渋谷の歴史 -渋谷昔ばなし-』
東京都渋谷区教育委員会『渋谷のむかし話』
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- 2016/10/25(火) 00:21:26|
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画像は、渋谷区恵比寿南1丁目にある「福徳稲荷大明神」を東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、この場所に渋谷区の遺跡番号55番の古墳(円墳)である「渋谷区№55遺跡」が登録されています。
さて、この福徳稲荷には数多くの伝説が残されています。この周辺は古くは下渋谷の稲荷山と呼ばれており、明治の初め頃までは森林だったそうですが、この稲荷社の祠の傍には数百年の樹齢を持つ大きな古杉が聳えており、神木と崇められていたそうです。地元の下渋谷村の人々には、もしもこの木を切ったり枝を折ったりすると祟りがあると信じられており、恐れられていました。また、この福徳稲荷の南西に四、五十間(70~90m)ほど離れたところには「奥の院」と呼ばれる小さな楕円形の塚があり、この場所も怖れられて誰も近づかなかったそうです。ちなみに地元の人々はこの塚を「狐塚」と呼んでいたそうですが、『東京都遺跡地図』を見ると、福徳稲荷の南西四、五十間の場所には渋谷区の遺跡番号56番の「渋谷塚古墳」が登録されており、狐塚と渋谷塚古墳が同一の塚なのか、またどんな性格の塚なのかとても興味深いところです。。。
明治39年にはJR山手線恵比寿駅の開設工事が始まり、たくさんの人夫たちが建築工事のために集まってきたそうですが、この稲荷山の福徳稲荷の社域までやってきて、立ち小便をしたり、稲荷社の絵馬をたき火にして燃やしたりしたそうです。その後、立ち小便をした人夫が大けがをして死んでしまったり、たき火をした者たちも原因不明の熱が出たり怪我をしたりしたそうです。それからというもの、この稲荷に乱暴する者はいなくなったそうです。また、明治41年には、下渋谷の蕎麦屋鈴木庵の老婦人が、福徳稲荷大明神のお告げにより祠の修理や整頓をしたところ、大病が数日のうちにすっかり治ってしまったそうです。またある年、下渋谷の祥雲寺境内にある霊泉院で火事があったそうですが、その火事に先立って霊泉院のお住持鈴木子順師の夢枕に福徳稲荷大明神が立ち、「今夜、火難あり」と告げたそうです。そのお告げの通り、その日の夜に近火がありました。。。

現在この福徳稲荷周辺は開発が進み、ビルやマンションが建ち並んでいます。古墳の痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
渋谷氷川神社『渋谷の歴史 -渋谷昔ばなし-』
東京都渋谷区教育委員会『渋谷のむかし話』
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- 2016/10/23(日) 23:32:18|
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「渋谷区№2遺跡」は、渋谷区代々木4丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号2番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳については、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」に記述が見られ、存在の不確実な古墳であるとしながらも、旧立花邸内に存在した円墳として取り上げられています。この時点では古墳は湮滅したと考えられていたようですが、その後、昭和57年(1982)に東京都心部遺跡分布調査が行われ、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には「湮滅と推定されていたが、墳丘の存在していることを今回の調査で確認する。」と、この時点ではまだ古墳らしき墳丘が残されていたことが書かれています。
画像は、この古墳の所在地とされる現在の「渋谷区立参宮橋公園」を南から見たところです。整地が行われた公園内には既に古墳らしきマウンドは存在しないように見えますが、すでに破壊されてしまったのでしょうか。

墳丘の存在が確認されたとされる昭和57年のこの場所には都営住宅が建てられており、このようすは空中写真で確認することが出来ます。インターネットで公開されている国土地理院の『地図・空中写真閲覧サービス』で確認すると、2棟並ぶ建物の南側に円形の古墳らしき影が認められるのですが、この場所を現代の地図と重ね合わせると、画像の公園の休憩所の場所にあたるようです。元々存在した塚状の地形を利用して作られたようにも見えますが、この場所が古墳跡なのでしょうか。
平成4年(1992)の空中写真では都営住宅とともに古墳は残されているように見えるのですが、平成13年(2001)の写真では建物が取り壊されて更地になっています。少なくとも平成に入るまで残されていたと思われる古墳が調査もされず消滅してしまったとは考え難いところなのですが、発掘調査報告書等の刊行物をみつけることは出来ませんでした。調査が行われても報告書が刊行されていない古墳も多く存在しますのでこのあたりも何ともいえないところですが、直径8メートルの円墳とされたこの№2遺跡は消滅してしまったのでしょうか。休憩所の地中から石室が検出されたらビックリ仰天なのですが。。。

埴輪片でも落ちていないか見渡してみましたが、特に何も見つかりません。。。

最初に訪れた時にこの場所かなと思ったのが、公園の東隅にある一本松の場所ですが、やはり古墳を保存するための措置とは考え難いかもしれません。空中写真で確認したところでは、団地の敷地の東角の植込み風に見える場所ですが、現在は松の根元が円形に区切られています。

一本松の遠景。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/10/20(木) 09:38:06|
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「ナマコ山古墳」は、渋谷区神南2丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号29番として登録されており、その形状から前方後円墳の可能性も指摘されている古墳です。
昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』にこの古墳についての記述が見られ、存在の不確実な古墳であると前置きしたうえで「旧練兵場(ワシントンハイツ)内のナマコ山は、今は削平されてしまったが、かつては前方後円墳らしき形状を呈していたという説もある。」と書かれています。
その後、昭和57年に行われた東京都心部遺跡分布調査の際に明治42年の1万分の1地形図に墳丘が認められたことにより、古墳のおおよその所在地が確認されており、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には出土遺物として円筒埴輪が記載されています。
画像は、渋谷区神南2丁目の「NHK放送センター」を南から見たところです。この横断歩道をわたったあたりが古墳の所在地であると思われますが、残念ながら古墳は完全に消滅しており、痕跡はまったく残されていないようです。

画像は、「ナマコ山古墳」の跡地を南西から見上げたところです。道路を登り切った、道が「く」の字に曲がった左側が古墳の跡地です。
この場所はかつては陸軍の練兵場だったところで、終戦後の昭和20年(1945)に連合国軍に接収され、ワシントンハイツが建設されています。インターネットで公開されている国土地理院の『地図・空中写真閲覧サービス』で確認すると、昭和11年と18年に陸軍により撮影された空中写真では、1万分の1地形図で認められる位置に古墳らしき形状を確認することが出来るのですが、昭和20年以降の写真では建物が建てられて消滅していますので、恐らくはワシントンハイツの建設により古墳は破壊されたのかもしれません。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=742556&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和19年に陸軍により撮影されたナマコ山古墳跡地の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に前方後円墳らしき形状を見ることが出来ます。渋谷のど真ん中に前方後円墳が存在したと考えるとわくわくしますが、もし古墳が残されていればちょっとした名所になっていたかもしれませんね。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
国土地理院『地図・空中写真閲覧サービス』
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- 2016/10/17(月) 00:42:00|
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「カネ塚」は、渋谷区西原町に所在したといわれる古墳で、『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号9番の古墳(円墳)として登録されています。このカネ塚はすでに消滅しており、墳丘の存在しない古墳であるとされていますが、出土した遺物についての伝承が残されており、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』には次のように書かれています。
右の円墳のほかは、殆んど不確実であって、あるいは信仰的な盛土であったり、あるいは姿、形を留めない伝承でしかなかったりするものである。たとえば、代々木西原町のカネ塚からは仿製鏡・玉・金環・武装埴輪等が出土し、それらはすべてや銭貨等が出土しているという伝承があり、東京国立博物館に収納されているというが、国立博物館には該当品は見当らないのである。また一方には大正四年の発掘の際には多数の古銭の出土を実見したという人もあり、俚俗談の一概に信ずべからずことをよく示している。 画像は、カネ塚が所在したとされる渋谷区西原3丁目の周辺を南西から見たところです。道路の左側あたりが古墳の跡地であると思われますが、周囲は開発により宅地化が進み、痕跡を見ることはできません。跡地とされる区画は広い敷地の個人の邸宅であることから、例えば狛江市の「猪方小川塚古墳」の事例もあるように敷地内に残存する墳丘が残されている可能性は考えられるかもしれません。ただし、出土したとされる遺物の行方が不明となっていることや、大正4年の発掘の際に多数の古銭の出土を実見したという証言からすると、このカネ塚は古墳ではなく後世の宗教的な塚であった可能性も考えられるかもしれません。残念ながら学術的な調査が行われていないため、これ以上の詳細は不明であるようです。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2016/10/15(土) 23:10:41|
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「渋谷区№14遺跡」は、渋谷区富ケ谷2丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号14番の古墳(円墳)として登録されています。この古墳については非常に情報が少なく、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」丘陵上に存在していたという以外は記述がなく、存在の不確実な古墳であるとしています。そして、その後の昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には、昭和57~59年にかけて行われた東京都心部遺跡分布調査により確認された古墳が記載されていますが、現況は宅地であり、古墳は湮滅していると書かれています。
画像は、古墳の跡地とされる富ケ谷2丁目周辺を北西から見たところです。この場所も小高い丘の多い地域ですので、台地の縁辺部か斜面あたりに古墳は築造されたのでしょうか。道路の右側あたりが古墳の跡地ではないかと思われますが、周辺は開発により宅地化が進み、痕跡を見ることはできません。

画像は、古墳の推定地に隣接する「富ヶ谷三本杉公園」のようすです。古墳が単独墳ではなく群集していたとすれば、ひょっとしてこの公園のあたりにも何基かの古墳が存在していたかもしれません。
当日は、お父さんやお母さんに連れられた子供たちが楽しそうに遊んでいました。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2016/10/11(火) 00:12:20|
- 渋谷区の古墳・塚
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「渋谷区№23遺跡」は、渋谷区代々木神園町に所在したとされる3基の円墳の総称です。すでに墳丘は削平されて消滅しているようですが、『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号23番の古墳として登録されています。
この古墳については昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に記述が見られ、「代々木山谷町の旧練兵場北隅にかつて存在した円墳三基からは、種々の須恵器、直刀に加えて鏡も出土した由であるが、その詳細については今日知る所がない。」と書かれています。この丘陵上に3基の円墳が存在しており、出土した遺物の言い伝えも残されているようですが、開発の進んだ現在では古墳の正確な所在地はわからなくなっていたようです。
その後、昭和57年(1982)の東京都心部遺跡分布調査における古地図の検討が行われ、昭和12年の1万分の1地形図に記されている塚状の地形が確認されたことにより、おおよその古墳の位置が判明しています。戦後の空中写真を確認すると、ほぼ同じ位置に古墳らしき影を見ることができますので、少なくともこの場所に何らかの遺構が存在したことは間違い無いようです。ただし、3基存在したとされる残る2基の所在地についてはわからなくなっているようです。
画像に見える、台地上のマンションの奥あたりか、隣接する国立オリンピック記念青少年総合センターの敷地あたりが古墳の跡地であると思われますが、残念ながら痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2016/10/10(月) 00:30:53|
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