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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「鐘鑄塚(鐘塚)」

「鐘鑄塚」

 目黒区内には、周辺地域でその存在が知られており、また塚にまつわる伝説が残されていながらも削平されて消滅した塚が数多く存在しています。

 「鐘鑄塚」は目黒区駒場に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「鏡塚」という名称の塚が記載されています。ただし、おそらくこの名称は間違いで、「鐘塚(鐘鑄塚)」と同一の塚を指したものではないかと思われるのですが、塚の所在地については旧番地で「駒場町915番地」とはっきりと記載されています。おそらくはまだこの時点で塚が残存していたか、または墳丘が破壊されたものの塚の跡地がまだ地元の人の記憶に残されていた状況であったと考えられます。そこで、鐘鑄塚の所在地を突き止めるべく、当時の番地が記載されている古地図を探してみました。しかし、やっと見つけた古地図にはなぜか913番地までは記されているものの914と915番地が存在せず、916番地以降がまた記されているという状況で、塚の位置が判然としません。そこで、大体この辺りではないかという当たりをつけて実際に現地を訪れてみました。
 画像が、旧駒場町の900〜910番台と思われる周辺のようすです。。。


「鐘鑄塚」

 この周辺は古地図と比べると大きく地形が変わっているため位置を推定するのは難しいのですが、やはりこの周辺もすでに宅地化が進み、古墳らしき痕跡を見ることはできません。。。


「鐘鑄塚」

 北に進むとすぐに一段高くなった台地となり、古墳が存在したとすればこの辺りか?とも思われるのですが、やはり塚を見つけることはできません。画像は、東京大学校内の、ちょっと気になる地形をした場所です。。。


「鐘鑄塚」

 目黑區大觀刊行會より昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの塚の言い伝えについて次のように書かれています。

 里俗『鐘塚』と言つて、今の帝都電鐵東駒場驛の下御成橋の附近にあつた。同所は山内杉太郎の先々代上知組名主三左衛門氏の邸内に在りし由。同家は會て牛乳搾取業を營み家號を金塚舍と言つて居たが、これはその古名に因むものであつた。名所圖繪に
 鐘鑄塚は駒場野の中にありと云ふ。方九尺許り、高七八尺許りなりしとぞ。昔此處にて梵鐘を鑄たる舊跡なりと傳ふれども、何れの寺の鐘なりしや知るべからず。富士見坂の下の水流、下澁谷の分水掛口の地の名に『道場ヶ淵』と伝ふあり、いづれ此の近邊に盛大の寺院ありしなるべし
と記して居る。(『目黑區大觀』206ページ)


 『目黑區大觀』の「帝都電鐵東駒場驛の下御成橋附近」という記述からして、ひょっとしたら鑄塚の所在地は、『目黒区史』にある「駒場町915番地」は間違いで、正しくは815番地ではないかとも考えて散策してみましたが、やはりこの周辺も宅地化が進み、塚の痕跡は全く見ることができません。
 これは私の推測ですが、目黒区域の古墳時代の遺跡の分布状況から考えると区内の中央部周辺は人々の生活に適さない原野が多く、古墳が存在するとすれば目黒川流域か、河川の上流の台地上に限られていたのではないかと考えていました。現在『東京都遺跡地図』に古墳として登録されている「大塚山古墳」や「狐塚古墳」は実は後世の塚で、世田谷区との区境にある「土器塚」やこの「鐘鑄塚」に古墳の可能性を感じていたのですが、よくわからない!というのが結論です。。。

 この他にも『目黑區大觀』には、現在の青葉台3丁目あたりに存在したといわれる「東山塚」について「上目黒の中央にあつたもので、上目黒村石川組名主加藤定右衛門がもと住んで居た所に當つて居るが、塚らしいものは全然殘つて居ない。又その名の起源も定かでない。市郡併合まで、その名の塚の字を除いて、単に『東山』と云ふ字名が殘つて居た。」とあり、また「耳塚」についても「上目黒東山にあつた。昔敵軍人の耳を斬取つて埋めた所であると傳へられて居る。後に至り之を平坦にして、其趾に耳塚花園と云ふものが有つたが、大正六七年の頃町田氏の邸宅を建築するに當り、其の邊りを發掘した際には、拍車様のものが多數發見されたと伝ふ。」と書かれています。「耳塚」の名称からする言い伝えや、拍車(靴のかかとに装着する馬術のための道具)が出土したという伝承は非常に興味深いのですが、いづれも塚は消滅して正確な所在地はわからなくなっており、真相は不明です。
 果たして、目黒区内に古墳は存在したのでしょうか。。。

<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』


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  1. 2016/11/30(水) 08:25:09|
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「道京塚」

「道京塚」

 「道京塚」は、目黒区南町3丁目に所在したとされる2基の塚の総称です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とする12基の塚のうちの1基として取り上げられています。旧番地の宮ケ丘1844番地の塚が「東道京塚」、1845番地の塚が「西道京塚」と呼ばれ、どちらも広さ100~130平方メートルほどを占める高さ4mほどの円墳状の塚であったといわれていますが、どちらの塚も現在は削平されて消滅しています。

 画像は、目黒区南町3丁目の東道京塚の所在地付近のようすです。塚の所在地は道路の左側あたりのどこかにあたると思われますが、正確な跡地はわかりません。昭和37年に発行された『郷土目黒』の第六輯では元の土地の所有者による回顧録と塚の往時の写真を見ることができるのですが、同書によると東道京塚は終戦後まではほぼ原型を留めており、昭和30年前後に取り壊されてしまったようです。塚の頂部には「東道京塚」と刻まれた五輪塔が建てられていたようですが、同書には「この塚の持主であり、好事家であった私の父、金蔵のたしか昭和初年になしたことであるが、後にあやまちを招く恐れがあると思った。果して直きに、この塔の存在と名称によって、経塚であると見るような向も現われた。 」とあり、五輪塔の存在を根拠とする経塚であるという判断は誤りであるとしているようです。


「道京塚」

 画像は、「東道京塚」の塚上に立てられていたという五輪塔です。この五輪塔は現在、碑文谷1丁目の円融寺の境内に祀られています。この場所には多くの板碑が円墳状に立てられて祀られており、東道京塚の五輪塔はその正面に見ることができます。


「道京塚」

 画像は、目黒区南町3丁目の西道京塚の所在地付近のようすです。塚の跡地はおそらく道路の右側のどこかにあたると思われます。こちらの塚は戦前には開墾されて破壊が進み、高木神社遥拝所の小祠が建てられていたようです。その後の開発により塚は消滅、現在は宅地化が進み、塚の痕跡を見ることはできないようです。
 この2基の塚は学術的な調査が行われないまま消滅しており、塚の性格については不明とされていますが、『郷土目黒 第六輯』には、元の土地の所有者によるの推察が次のように書かれています。

 両塚は附近の富士見台三合塚(古墳時代末期の前方後円墳と推定された)と同じく、すぐ南方に洗足池の水源の一つをなす清水窪の湧水低湿地をひかえた丘陵の上頂部にあるところから、立地上三合塚と同時代の円墳と見られないこともない。現に東塚の西下の地点から無紋薄手の古土器の完全なものを掘出したことがあったが、地上に出すと同時にバラバラにくずれてしまった。
 尚この二塚の取こわしの状況を見る機会を私は持たなかったが、ともに出土品はなかったときいた。
 これ等の事実と離れて、この塚に道京塚(どうきょうづか)と言う名称がつけられたことについては、私に二つの仮定、想像がわくのである。
 一つは道京塚、即ち道鏡塚、道鏡、村境の標識としての塚ということである。西塚は目黒区内の最高所の地点を走る旧六郷道のかたわらにあり、東塚は丸子道のかたわらにあり、ともにいりくんだ馬込村千束との村境にあることは事実である。
 今一つは、道京塚は道鏡塚なりとする説であって、これは曽て洗心堂主人、赤崎新太郎氏の私に教示されたものである。即ち道鏡塚又は将門塚といわれるものは、ともに謀叛者、反削道鏡(–772)平将門(–940)の名をとっているのは、古く郷村においては、秋に笛や太鼓で害虫を村境の川や塚まで追出す虫追い(悪病よけ)の慣習行事があり、この遺跡の塚が各地にある。即ち村境を現わしたものが道京塚でありとするのであるのである。
 それでは再び失われたこの二塚は古墳なりや、はた又一里塚、境界塚の如き標識の塚なりやということになるが、標識塚としては三合塚とこの二塚の距離が、三角形に何れからの距離も2~300メートルを出ない近距離にあり、又東方洗足には塚越などの地名もあり、このあたり一帯にかけては、小規模ながら古代文化のあとの古墳群のあったことを示すものではないかと私は思う。(『郷土目黒 第六輯』8ページ~9ページ)


 東方に存在する「三合塚」については、昭和59年に行われた確認調査によりそれぞれが独立した3基の塚であることがわかっており、前方後円墳ではなかったことが確認されていますので、2基の道京塚と周辺の塚を含めて古墳群が存在したとする説は現実的ではないと思われますが、なかなか興味深い仮説です。この塚の位置はかつての碑文谷村と馬込村の村境となっていましたが、現在でも目黒区南町3丁目と大田区北千束1丁目との境界となっています。「めぐろ歴史資料館」で行われた平成27年の春の企画展でも、展示されていた境界にまつわる民俗資料としてこの道京塚が紹介されていたようですし、同書の記述からしても境塚であるとする説が現実的かもしれません。。。


「道京塚」

 西道経塚の頂部にも、東道京塚と同様に「西道京塚」と刻まれた五輪塔が建てられていました。この五輪塔は現在、中目黒3丁目の「めぐろ歴史資料館」の敷地内に移設保存されています。

<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
富岡丘蔵「失われた道京塚二つ」『郷土目黒』
目黒区めぐろ歴史資料館『めぐろ歴史資料館だより つどい 第10号』


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  1. 2016/11/27(日) 09:35:53|
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「土器塚」

「土器塚」

 「土器塚遺跡」は、目黒区駒場1〜2丁目から大橋2丁目、世田谷区代沢1丁目から池尻4丁目にかけて所在する遺跡です。この遺跡は、古くは旧石器時代から縄文時代や弥生時代、明治時代以降の「駒場練兵場」関連の防空壕や掩体壕など、多くの遺物や遺構が検出されている複合遺跡です。画像は、この土器塚遺跡の中心にあたる、淡島通りの目黒区と世田谷区の区境付近を東から見たところです。

 この周辺には「土器塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』などに取り上げられており、源義家が奥州征伐の際にこの地で酒宴を催して土器を埋めたという説、また世田谷区下馬5丁目に所在する「葦毛塚」と同様に馬を埋めた塚であるという説などが記載されています。昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの塚について次のように書かれています。

 駒場野の内に在りて、俚言に依れば、昔此の地が奥州街道に當つて居たので、源義家が奥州征伐に赴く途次、此處で酒宴を開いた事がある。其時に用つた土器を、義家の武功英名を尊ぶの餘り、此の附近の人々が地下に埋めて塚としたと傳へて居る。卽ち之が土器塚の起源で、此塚の附近の事を同勢山と云ふのは、義家に供奉した者等の屯ろした所の舊跡であると。『按ずるに此地に芦毛塚と稱するものあり、疑ふらくは土器塚も?塚を語るものにして、その往古は馬などを埋めたる塚なるべし』と江戸名所圖繪は云ふて居る。(『目黑區大觀』203ページ)


「土器塚」

 画像は、駒場二丁目17番にある「〆切地蔵」を南西から見たところです。目黒区のホームページによると、この地蔵は江戸時代の延宝から元禄年間に建立されたものであると考えられており、板きれに次の様な由来が書かれていたそうです。

 コノ地蔵ハ、駒場、下代田、池尻ノ、境ニアル仏デアリマス。昔ノ人ノ伝エ聞ク話ニ依ルト、明治初年以前、西駒場地蔵(一名〆切地蔵)ト申サレ、隣村に悪病流行致ス時ハ、当駒場ノ村人一同、百万ベント云フ念仏ヲトナエ、地蔵尊ニ願ヲ掛ケ、当時ニハ一名ノ病人モ無ク、安心シテ生活シテコラレタノ由。悪病悪魔〆切ト云フノデ〆切地蔵ト申サレ、今デモ重病人ノ在ル方ハ、〆切地蔵ニ一週リ(現今ノ一週間)、モシ一週リニテ御利益ナキ時ハ、二週リ御願申セバ必ズ快方ニ向フトノ伝説デ御座リマス。又此ノ地蔵ニ『イタズラ』又賽銭ヲ取ルマタハ不心得ノ者ハ、一ヶ月以内ニ必ズ災難ニアフトノ事、又他何事ノ願デモ必ズ誠心誠意ノ方ニ成就スル事『ウタガイナシ』

 やはり土器塚については何も書かれていないようです。この場所は、淡島通りがちょうど「く」の字に折れ曲がった場所で、目黒区と世田谷区の区境でもあり、またお地蔵様が祀られているということで、塚の跡地としては怪しい!と考えたのですが、結局正確な塚の跡地を突き止めることはできず、今思えばあまり深追いせずあきらめてしまったかもしれません。。。
 
「土器塚」

 明治15年(1882)には、駒場農学校生であった福家梅太郎氏が「土器塚」で縄文土器を発見し、翌明治16年に『東洋学芸雑誌』に「土器塚考』という論文を発表しているそうです。つまり、明治の頃までは塚は残されていたようなのですが、現在土器塚は完全に消滅しており、痕跡を見ることはできないようです。

<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
目黒区守屋教育会館 郷土資料室『めぐろの弥生時代をさぐる ―駒場土器塚遺跡の調査から―』


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  1. 2016/11/26(土) 02:15:16|
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「目黒元富士」

「目黒元富士」

 目黒区内にはかつて2基の富士塚が存在していました。このうちの1基は文政2年(1819)に築造された富士塚で、別所坂を登りきった右手の台地縁辺部に所在しており、「新富士」あるいは「東富士」と呼ばれていました。この富士塚は以前、9月19日の回で紹介したものですが、今回紹介するのは新富士から遡ること7年、文化9年(1812)に築造された「元富士」を紹介したいと思います。この元富士は東急東横線代官山駅近く、上目黒1丁目の目切坂を登った上に所在したとされる富士塚で、別名「西富士」とも呼ばれていました。
 この元富士は、丸旦講の先達で麻布善福寺門前の伊右衛門により築造され、明治11年(1878)にこの場所が明治維新の際に活躍した岩倉具視の別荘となった際には、塚は残されたものの石祠や石碑、水盤などの石造物は目黒区大橋2丁目の氷川神社に移されています。その後この場所は東武鉄道社長の根津喜一郎氏の私邸となり、昭和14年(1939)の改築の際に塚は取り崩され、消滅しています。現在のこの場所はマンションとなっており塚の痕跡は何も残されていませんが、跡地前には目黒区教育委員会による説明板が設置されており、画像はその跡地前のようすです。

           目黒元富士跡
                            上目黒1―8
 江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講と
いう団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型
の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、
山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
 マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の
人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、
別所坂上(中目黒2―1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こ
ちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重
の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描か
れています。
 元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(2―16―21)
へ移されました。
                         平成22年12月
                              目黒区教育委員会

 元富士の北側に隣接する旧朝倉家住宅周辺には、かつては複数基の古墳が存在していたといわれ、現在も残存する2基の猿楽塚古墳(北塚と南塚)は渋谷区の指定史跡として保存されています。同じ丘陵上縁辺部に存在したこの元富士が、例えば元々存在した古墳を流用して築造された可能性はないのだろうかと考えたのですが、めぐろ歴史資料館でスタッフの方にお聞きしたところでは、この元富士と新富士は何もない場所に蓄財された富士塚であるということで、古墳流用の可能性はないようです。


「目黒元富士」

 画像は、目黒区大橋2丁目に所在する「氷川神社」を南西から見たところです。旧上目黒村の鎮守であるこの氷川神社の境内には、目黒元富士にあった浅間の石祠や仙元講(丸旦講)の石碑が移されています。富士塚は存在しないようですが、台地の斜面に登山道が造られて「目黒富士」と呼ばれています。


「目黒元富士」

 画像が、氷川神社境内に所在する「富士浅間神社」です。社殿前には「目黒富士」について目黒区教育委員会による説明板が立てられています。

             目黒富士
                          大橋2-16-21
 江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が  
各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富
士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。
 目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に
目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上
(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。
元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年
(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑
を移しました。
 昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の一
角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行
われています。
                     平成22年3月
                          目黒区教育委員会



「目黒元富士」

 富士講の石碑のようす。

<参考文献>
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
目黒区守屋教育会館郷土資料室『新富士遺跡と富士講』
現地説明板


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  1. 2016/11/25(金) 00:57:47|
  2. 目黒区の古墳・塚
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「富士見二丁目1号墳」

「富士見二丁目1号墳」

 「富士見二丁目1号墳」は、平成17年(2005)に行われた「富士見二丁目遺跡」の発掘調査により周溝が検出された古墳です。千代田区は、武蔵野台地東縁部の「山の手台地」と呼ばれる段丘面と「下町低地」と呼ばれる低地に二分されており、この「山の手台地」のうち千代田区内では淀橋台と本郷台の2つの段丘面が存在しています。富士見二丁目1号墳が発見された富士見二丁目遺跡は淀橋台の縁辺部に所在する遺跡で、神田川の谷に面した低い段丘面に位置しています。江戸時代には牛込門御内と呼ばれた地域の武家地で、稲垣氏と米倉氏の拝領屋敷であったようです。千代田区内では、これまでの台地縁辺部からの埴輪片の出土により古墳の存在が想定されていましたが、初の古墳の発見となったようで す。
 古墳の規模は周溝約30mほどの比較的大型の円墳で、ブリッジや埋葬施設は確認されなかったものの、ブリッジ付の円墳で竪穴系の埋葬施設を有する古墳と考えられており、出土した遺物により5世紀前半に築造されたと推定されているようです。同じ遺跡内からは弥生時代後期の方形周溝墓が2基、検出されています。

 画像は、古墳が検出された千代田区富士見2丁目の「富士見二丁目遺跡」周辺のようすです。JR中央本線飯田橋駅のちょうど裏側にあたるこの「富士見二丁目遺跡」はすでに発掘調査は終了しており、かなり大きなビルが立ち並ぶなど開発が進められています。画像中央の大きなビルの真下が古墳の跡地であると思われますが、残念ながら痕跡は全く残されていないようです。


「富士見二丁目1号墳」

 お隣の日本歯科大学の敷地内にはこんな石碑が立てられていました。「下乗(かじょう)」と読むこの石碑の建立の動機については不明とされていますが、江戸時代のこの場所は富永権左エ門という旗本の屋敷地で、この時代のものとして残されていたものであるようです。
 それにしても、ほんの10年ほど前までは雑居ビルが立ち並ぶもう少しごちゃごちゃした場所だったような記憶があるのですが、どんどん変化していく東京の街の景観にはいつもながら驚かされます。。。


「富士見二丁目1号墳」

 千代田区立日比谷図書文化館には富士見二丁目遺跡の古墳より出土した土器が常設展示されています。(館内は撮影禁止とされていますが、文化財事務室にて許可を得て撮影させていただきました)

<参考文献>
株式会社武蔵文化財研究所『富士見二丁目遺跡』
現地説明版


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  1. 2016/11/23(水) 01:16:35|
  2. 千代田区の古墳・塚
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「東京国立近代美術館遺跡」

「東京国立近代美術館遺跡」

 画像は、千代田区北の丸公園の「東京国立近代美術館遺跡」の所在地を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』には千代田区の遺跡番号22番に登録されているこの遺跡は、神田川下流にあたる旧平川を望む武蔵野台地縁辺部に立地しています。昭和54年(1979)から翌55年にかけて東京国立近代美術館遺跡調査会により発掘調査が行われており、旧石器時代から江戸時代にわたる複合遺跡であることがわかっています。この遺跡の古墳時代の遺物は大半が土師器であるものの2点の管玉と4点の埴輪片が出土しており、この周辺に古墳が存在したことが想定されています。

 神田川流域では新宿区の下戸塚遺跡で円墳2基が検出されており、また杉並区の本村原遺跡でも埴輪片が出土しています。また妙正寺川流域では中野区の遠藤山古墳群から円墳4基が検出されており、また善福寺川流域では高千穂大学大宮遺跡で円墳が1基検出されています。どうやら23区内の小さな河川沿いにも小規模ながらも古墳群は存在していたようです。。。

<参考文献>
東京都千代田区『新編 千代田区史 通史編』
東京都千代田区『新編 千代田区史 通史資料編』
千代田区一ツ橋二丁目遺跡調査会・文部省・学術情報センター『一ッ橋二丁目遺跡』


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  1. 2016/11/21(月) 08:57:25|
  2. 千代田区の古墳・塚
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「一ッ橋二丁目遺跡」

「一ッ橋二丁目遺跡」

 画像は、千代田区一ッ橋2丁目の「一ッ橋二丁目遺跡」の所在地を南東から見たところです。古代から中世、近世にかけての複合遺跡であるこの一ッ橋二丁目遺跡からは、須恵器や土師器に加えて円筒埴輪片が1点出土しており、周辺に古墳の存在が想定されているようです。

 この「一ッ橋二丁目遺跡」は、江戸時代初頭に行われた神田川の付け替えにより消滅したといわれる旧平川の左岸に位置しており、河川際の微高地であったと推定されています。近世では江戸城外堀の一角である一ツ橋御門外であり、寛永9年(1637)には大河内松平家の上屋敷となるも明暦3年(1685)と寛文元年(1671)の火災により明地となり、その後美濃郡上藩遠藤家上屋敷となるも享保2年(1717)の大火災により再度明地となり、明治時代以降は東京大学や学習院大学といった大学の集まる地域となっていたようです。現在のこの場所は首都高速都心環状線と5号池袋線が合流する竹橋ジャンクションの北東側の白山通り沿いにあたり、交通量も多く開発の進んだ地域で古墳の存在は想像し難い場所ですが、対岸の台地上に立地する北の丸の国立近代美術館遺跡からも埴輪片が検出されており、また皇居内や九段坂上貝塚といった平川を望む台地の縁辺部でも同様に埴輪片が検出されていることから、この周辺地域に複数の古墳が存在した可能性が考えられているようです。


「一ッ橋二丁目遺跡」

 千代田区立日比谷図書文化館には「一ッ橋二丁目遺跡」より出土した円筒埴輪片が常設展示されています。(館内は撮影禁止とされていますが、文化財事務室にて許可を得て撮影させていただきました)


「東京外国語学校発祥の地」

 一ッ橋二丁目遺跡跡地は現在、学術総合センターのビルが建てられており、敷地内には「東京外国語学校発祥の地」の石碑が建立されています。東京外国語大学は安政元(1857)年に創設された蕃書調所が起源といわれており、明治6年(1873)に前身である東京外国語学校が開設されています。その後、昭和15年(1940)に北区西ヶ原に移転、昭和24年(1949)に「東京外国語大学」となり、現在は府中キャンパスに移転しているそうです。


「一ツ橋」

 「一ツ橋」という橋があったのですね。千代田区教育委員会による説明板によると、この一ツ橋は内濠川に架かる見附橋で、徳川家康が江戸城に入ったころは大きな丸太が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといわれているそうです。現在の橋はもちろんコンクリート造りで、大正14年(1925)に架設されたものですようです。

<参考文献>
千代田区一ツ橋二丁目遺跡調査会・文部省・学術情報センター『一ッ橋二丁目遺跡』
現地説明版


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  1. 2016/11/19(土) 01:39:03|
  2. 千代田区の古墳・塚
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「聖心女子大学構内古墳」

「聖心女子大学構内古墳」

 画像は、渋谷区広尾4丁目にある聖心女子大学内に所在する「聖心女子大学構内古墳」を北東から見たところです。『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号95番として登録されている古墳です。

 この古墳はについて、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」には記載がなく、昭和57年(1982)に行われた東京都心部遺跡分布調査の古地図の調査により把握されています。昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には「5千分の1東京図に墳丘が認められる。今回の調査で確認」と書かれています。
 この大学の敷地と北側に隣接する日本赤十字医療センターや看護大学、広尾ガーデンヒルズとを含めた一帯は、江戸時代には下総佐倉藩堀田家の下屋敷であったといわれていますので、古墳は庭園の築山として流用されたことにより壊されずに残されたものでしょう。大正6年(1917)にはこの敷地内に久邇宮家の本邸が建設されており、戦後間もなくの昭和22年(1947)に聖心女子大学がこの地を末に購入して翌年に開校しているそうですが、おそらくは下屋敷時代の築山という認識のまま大学構内に残され、昭和57年の東京都心部遺跡分布調査団によりその存在が確認された、ということのようです。
 構内で学生さんに古墳について尋ねても皆きょとんとしており、土で盛られた築山があるはずだと訪ねると、「ああ、築山ですね」という感じで、「築山」と呼ばれているのがとても印象的でした。古墳の周囲に説明板等は存在しないようですし、在校生の多くはこの築山が古墳であるという認識を持っていないのかもしれません。


「聖心女子大学構内古墳」

 画像は、西から見た古墳です。学術的な調査は行われていないため、出土品や埋葬施設、周溝や埴輪の有無などの詳細は不明です。実際に見学してみたところでは、小型の前方後円墳だったのではないかとも感じましたが、『東京都遺跡地図』では径15~17mの円墳であるとしています。ひょっとしたら後世の塚である可能性もあるのかもしれませんが、このあたりの真相は今後の調査の進展を待ちたいところですね。


「聖心女子大学構内古墳」

 古墳の南東側の裾部は削られており、石垣により土留めされているようです。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2016/11/16(水) 00:15:02|
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「渋谷区№78遺跡」

「渋谷区№78遺跡」

 『東京都遺跡地図』には、渋谷区広尾2丁目に「渋谷区№78遺跡」という名称で2基の古墳が登録されています。古くは昭和41年(1966)に東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」にこの古墳が取り上げられており、この時点では「円墳 1基」として記載されています。「湮滅」としながらも「古老談」と書かれていますので、恐らくはこの当時には消滅してしまった古墳の記憶を語ることのできる地元の古老の存在があったのかもしれません。
 その後、昭和57年(1982)に行われた東京都心部遺跡分布調査の古地図の調査により存在が確認されており、昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には「5千分の1東京図に墳丘が認められる。」と書かれています。この地図には2基の古墳の墳丘が記されていますので、これがそのまま『東京都遺跡地図』に登録されているものと思われます。

 画像の右側あたりが2基の古墳のうちの1基の所在地と思われます。立地的に台地の縁辺部ということもあり、古墳の存在を感じさせる場所ではあると思いますが、正確な位置までは特定できず、痕跡を見つけることは出来ませんでした。
 実は知人宅が目の前であることに気がついてビックリしました。いつも暗くなってから訪問していたので、現地を歩くまで気がつきませんでした。あまり時間がなかったので素通りしてしまいましたが、昔のようすを聞いてみれば良かったかもしれません。残念。。。


「渋谷区№78遺跡」

 画像の右側あたりがもう1基の古墳の跡地と思われます。こちらも正確な跡地は特定できず、痕跡を見つけることは出来ませんでした。

<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2016/11/15(火) 00:35:42|
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「禿塚・カムロ塚」

「禿塚・カムロ塚」

 渋谷区円山町には、「カムロ塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。JR渋谷駅ハチ公口から道玄坂を目黒方面に登った一番高くなったあたりが塚の跡地であり、『東京都遺跡地図』には未登録となっているようですが、昭和41年(1966)に発行された『新修 渋谷区史 上巻』に掲載されている「古墳所在地名表」に取り上げられています。

 画像は、カムロ塚の跡地とされる旧上通4丁目26番地(現在の渋谷区円山町)周辺を南から見たところです。この南西側(画像の左奥)は谷になっており、塚の跡地は台地の縁辺部という古墳の存在の可能性が考えられる立地条件であるようですし、同じ台地上の南東1km程の地点には複数の塚が存在していたと伝えられており、猿楽塚北塚と南塚の2基が現存しています。このカムロ塚が古墳であった可能性も十分に考えられると考えましたが、残念ながら塚は完全に消滅しているようです。


「禿塚・カムロ塚」

 この塚にまつわる伝説について『新修 渋谷区史 中巻』1355ページに記載があり、「かつて、この附近青山道の北側にカムロ塚という土盛りがあったといわれる。諸書には見えないが、土地の口碑に昔カムロ某が、ここに行き倒れたので、里人達が集まってこれを厚く葬り、上に杉の木を植えて禿塚とよんで、やがて附近の地名となっていたと伝えられている。この事実の真偽も、その跡も今は確かめる方法がないが、附近は古くは寺院か、墓地のあとらしく、かつて地下から多くの枯骨が出土したといわれる。」と書かれています。
 これだけの言い伝えが残されている塚ですので、祀られていた祠が残されているとか、立てられていた石造物が保存されているといった痕跡を探して周囲を散策しましたが、何も見つかりませんでした。私が上京した頃は、渋谷駅からここまで離れるともう少し雑多というか”隙”のようなものが残されていたように思うのですが。。。

 この場所は通称「246」または「青山通り」と呼ばれる幹線道路沿いで、首都高速3号渋谷線が平行して走っており、直下には田園都市線が走行しています。周囲には高層ビルが建ち並び、開発の進んだこの地域に古代の墳墓が残される余地はないのかもしれません。。。

<参考文献>
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 中巻』


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  1. 2016/11/14(月) 00:47:51|
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