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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「蛇塚」

「蛇塚」

 「江古田・沼袋原の合戦」とは、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた戦いです。この合戦が行われたと云われる現在の中野区江古田・沼袋地域には、戦いによる戦死者を葬ったといわれる「豊島塚」の言い伝えが多く残されています。

 「蛇塚」は、中野区丸山1丁目に所在したとされる、豊島塚ではないかとされている1基です。須藤亮作著『物語・豊島氏』によると、現在の新青梅街道から北に数十メートルほどの地点の竹林の中に、高さ約1.5mほどの塚が残されていたようです。その後、土地の所有者がさらに盛り土して築山を造り、頂上へ登る路を造って頂部に天女の石像を安置していたといわれています。その後、すぐ西側の環状7号線の敷設工事の際に塚は崩されて消滅したといわれています。

 画像は、蛇塚の所在地とされる丸山1丁目21番地周辺を南西から見たところです。中央に見える中野北郵便局のさらに奥の辺りが塚の跡地であると思われますが、残念ながら塚はすでに消滅しており、塚上に安置されていたという天女の石像も見つけることは出来ませんでした。。。

<参考文献>
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』


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  1. 2016/12/27(火) 01:55:28|
  2. 中野区の古墳・塚
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「金塚(首塚)」

「金塚(首塚)」

 「江古田・沼袋原の合戦」とは、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた戦いです。この合戦が行われたと云われる現在の中野区江古田・沼袋地域には、戦いによる戦死者を葬ったといわれる「豊島塚」の言い伝えが多く残されています。

 「金塚」は、中野区江古田4丁目に所在したとされる、やはり豊島塚のうちの1基ではないかと伝わる塚です。須藤亮作著『物語 豊島氏』によると、大正の頃には直径3m、高さ1.5mほどの円形の塚が残されており、土地の所有者は雑木林を開墾して芝生にしたものの塚には触れず、彼岸やうら盆に花や線香を供えて供養していたそうです。しかしその後、昭和10年(1935)頃に中新井土地整理組合により行われた道路整備により塚は削平され、付近からは多量の人骨が出土したといわれています。このため、昭和の初めごろに当時の土地の所有者により、供養のために「金塚」と刻まれた石碑が立てて供養をしており、この石碑は塚の跡地に今も残されています。これ以前にもこの塚からは兜や刀などの金属の武具が出土したとの言い伝えがあることから、地元の人には古くから「金塚」と呼ばれていたようです。
 画像は現存する「金塚」の石碑を東から見たところです。当日は、土地の所有者に許可を得て撮影させていただきました。区画整理が行われて塚が消滅した後、この石碑の場所は、塚の削平後は国有地となっていたそうですが、現在は個人所有の邸宅内に残されています。


「金塚(首塚)」

 画像は、「金塚」の跡地を西から見たところです。画像中央の道路の当たりが塚の跡地となるようですが、周囲は宅地化が進み、塚の痕跡はまったく見ることは出来ません。跡地に残された金塚の碑のみが当時の面影を偲ばせているようです。。。


「金塚(首塚)」

 画像は、練馬区豊玉南2丁目に所在する「正覚院」を南から見たところです。正覚院は真言宗豊山派の寺院で、山号天満山という豊島八十八箇所霊場第77番のお寺です。練馬区教育委員会による説明板によると、大田道灌が長禄年間の江戸城築城の際、ここ中荒井の陣屋にあった道灌崇敬の天満宮を守るため別当寺として創建したといわれているのがこの正覚院です。
 金塚から出土したという人骨はこのお寺に奉祀されされているそうですが、豊島塚として知られる塚以外にも、昭和初期の区画整理により掘り出された人骨が奉祀されているそうですので、江古田・沼袋原の合戦による戦死者を葬った塚は、かつてはかなり多く存在したのかもしれませんね。。。
 
<参考文献>
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』


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  1. 2016/12/24(土) 01:05:48|
  2. 中野区の古墳・塚
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「古塚(稲荷塚・馬捨場)」

「古塚(稲荷塚・馬捨場)」

 江古田・沼袋原の合戦とは、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた戦いです。この合戦が行われたと云われる現在の中野区江古田・沼袋地域には、戦いによる戦死者を葬ったといわれる「豊島塚」の言い伝えが多く残されています。

 中野区江古田2丁目には「古塚」が所在したといわれています。かつてこの周辺に二十五坪ほどの小高い藪があり、地元の人たちには「稲荷塚」とも呼ばれていたとわれています。また、別名「馬捨場」とも呼ばれていたようですが、これは元々存在した古塚に農家が家畜を埋葬していたことから、馬捨場に変わったものではないかと考えられているようです。この場所からも人骨の出土が伝えられていることから、地元では豊島塚ではないかといわれてきたようです。
 画像は、塚の跡地とされる番地の一角のようすです。正確な跡地は特定できなかったのですが、周辺はすでに宅地化が進み、塚の痕跡は何も残されていないようです。。。


「古塚(稲荷塚・馬捨場)」

 この周辺には中野区丸山町の地名が残り、「丸山小学校」や「丸山塚公園」といった塚の名称に因む施設も存在しています。中野区沼袋2丁目の「丸山塚公園」の南西隅には「江古田ヶ原沼袋の合戦」の犠牲者を祀ったとされる「豊島二百柱」の祠があります。また、祠の横には合戦や慰霊について刻まれたという石碑が立てられています。画像はこの祠と石碑のようすです。


「古塚(稲荷塚・馬捨場)」

 実際に「丸山塚」という塚が存在したのかどうかは不明ですが、公園内は整地されており、塚らしき痕跡は残されていないようです。。。


「古塚(稲荷塚・馬捨場)」

 画像は、豊島二百柱の祠がある丸山塚公園の道路を挟んだ西方、沼袋4丁目に所在する「身代延命地蔵尊」を東から見たところです。現在は、マンションに取り囲まれているこの身代延命地蔵尊は別名「マンション地蔵」とも呼ばれている地蔵尊です。かつてはこの周辺からも人骨が出土したと伝えられており、この近辺で不幸が相次いで起ったり、不思議な出来事があったといわれています。これらの不幸な出来事は、かつての江古田ヶ原沼袋の合戦による戦死者の怨念によるものではないかということから、これらの霊の鎮魂のために地元の人たちにより建てられたといわれています。
 豊島塚として知られる塚のすべては学術的な調査が行われることなく消滅しており、性格が把握されている塚が存在しないのは残念なところです。中野区内には豊島塚として7カ所ほどが知られているようですが、こうして丹念に言い伝えを調べてみると、やはりその多くは合戦の戦死者を葬った塚であるかもしれません。。。

<参考文献>
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』
中野区史跡研究会『中野区史跡散歩』
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』


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  1. 2016/12/23(金) 04:00:12|
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「お経塚」

「お経塚(古塚)」

 江古田・沼袋原の合戦とは、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた戦いです。この合戦が行われたと云われる現在の中野区江古田・沼袋地域には、戦いによる戦死者を葬ったといわれる「豊島塚」の言い伝えが多く残されています。

 画像は、中野区江古田2丁目に所在する「お経塚」の跡地を南西から見たところです。この場所にもかつて「豊島塚」であるとされる塚が存在したといわれています。塚は、大正時代の道路工事の際に砂利置き場にするために削平されていますが、この際に人骨と茶筒形をした金属製の筒が出土したといわれています。この筒は、道路の側に置いておいたところ誰かに持ち去られてしまったといわれており、残念ながら現存しないのですが、これは人骨を供養するために埋められた経筒ではないかと考えられており、この塚が豊島塚であるという根拠となっているようです。また、豊島塚説以外にも、東福寺の火災により焼けた経文などの灰を埋めた塚であるとの説もあるようですが、これはこの塚が東福寺所 有の土地であったことと人骨や経筒が出土したことによる、大正時代以降の解釈であると考えられているようです。


「お経塚(古塚)」

 経筒の出土により「お経塚」と呼ばれるようになったこの塚は古い記録によると「古塚」と記されており、東福寺の持ちで二十坪の敷地は除地となっていたようです。塚の跡地は現在小公園となっており、いつでも見学することが出来ます。画像はこの公園内のようすです。
 塚は完全に消滅して敷地内は平らにならされており、往時の面影は見られないようですが、塚上に立てられていたとされる、江古田村念仏講中による元文三年(1738)八月建立の地蔵尊と、安永五年(1776)六月建立の馬頭観音が元の位置に戻して祀られています。


「お経塚(古塚)」

 画像が、お経塚の地蔵尊と馬頭観音です。出土した人骨は敷地の片隅に埋められたと伝えられているようですが、この地中に合戦の戦死者が葬られているのでしょうか。。。

 敷地内には中野区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

 お経塚

 大正時代までは、左の写真にある
ように人の背丈ほどの塚でした。
 大正時代に塚の盛り土を整地した
とき、人骨とともに経筒らしいもの
が出土したという記録があります。
 言い伝えでは、東福寺が火災で焼
けたときの経文や過去帳などの灰を
埋めて塚を造ったと言われています。
平成五年三月
        中野区教育委員会


「お経塚(古塚)」

 画像は、大正9年に撮影されたとされる往時のお経塚の古写真で、現地の説明板で紹介されていたものです。塚の中腹に地蔵尊が立てられているようすを見ることができます。大正時代に壊されるまでは人の背丈ほどもあったといわれるお経塚ですが、よくこんなに古い塚の写真が残っていたものですね。。。

<参考文献>
堀野良之助『江古田のつれづれ』
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
中野区教育委員会『中野区の史跡』
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』


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  1. 2016/12/21(水) 08:31:03|
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「金井塚(庚塚・狐塚)」

「金井塚(庚塚・狐塚)」

 中野区江原1丁目、古くは江古田原の字植木戸のあたりに所在したといわれているのが「金井塚」で、この塚も「江古田・沼袋原の合戦」による戦死者を葬ったといわれる「豊島塚」のうちのひとつであるとされています。画像はこの金井塚の跡地周辺を南から見たところです。

 画像中央の道路が左に折れ曲がった右奥あたりに金井塚は所在したようですが、残念ながら正確な跡地まではわかりませんでした。往時には直径3m、高さ1.5m程もあったという円形の塚で、古い「つげ」の木や雑木がうっそうと茂っていたといわれています。地元の人々は化け物が出ると言って恐れており、土地の所有者も祟りを恐れて塚を壊すことが出来ずにいたそうです。頂部に庚申塔が立てられていたことから「庚(かのえ)塚」とも呼ばれており、また狐が住み着いていたことから「狐塚」とも呼ばれていまたそうです。
 この、金井塚と狐にまつわる言い伝えについては、この地域の郷土誌に記述を見ることが出来るようです。

狐塚・狐の穴 江古田原の片町にあった金井塚は、狐塚(きつねづか)とも呼ばれた。そこには、古狐が棲んでいて、農家から鶏を捕っていっては畑の麦作の畦に埋めた。昔から、この辺では、「狐は鶏を捕って口にたくわえていると歯が焼けるので、一時土をかぶせておき、冷えた時、巣に持ってゆくのだ。」といわれていた。その頃は、農家で鶏が狐にねらわれることは、しきりにあって私の家でも、たびたび鶏を狐に捕られ、取りかえしたことが幾度かあった。狐の穴をのぞくと、鶏の羽根があったのを見たこともあった。狐の棲んでいた場所は、狐塚の外に何ヶ所かあり、江古田氷川神社の裏手の須藤さんの持山にも狐がいるといわれた深い深い穴があった。また、江古田駅の近くにある松の木稲荷の塚にも狐の穴があって、そこで、白い尾の古狐で、大きな犬位あったものを見たことがあった。春の夜など、「ギャフギャフ」とうす気味悪い狐の鳴き声を聞いたことがあった。狐が「コンコン」と啼くのは、嬉しい時の啼き声だと、昔の人はいうていた。この辺の村人たちは、昔から人が狐に化かされるというので、夜になって外出する時は、必ずマッチを持って出てゆき、狐に化かされた時には、マッチをすって火をともすと、狐は、硫黄の臭いがきらいらしいから、逃げてしまう、と信じていた。(『江古田のつれづれ』69ページ)

 この狐は、近所ではけっしていたずらはしなかったが、遠くの農家からたびたび鶏を取ってきたそうである。狐は、口にくわえてきた鶏を塚のある畑のあぜに一時埋めておいて、鶏の体温が冷えてから掘り出して食べるという習性があった。この近所の人たちはそのことをよく知っていて、狐より先に掘り出して、ごちそうにありついたこともしばしばあったと伝えられている。(『中野区の歴史』224ページ)


 狐の穴の言い伝えはやはり古墳の石室の存在を想像してしまうのですが、金井塚が古墳であったかどうかは、塚が消滅してしまった今となっては確かめることは出来ません。この金井塚を含めた、豊島塚といわれるすべての塚は残念ながらすでに破壊されてしまったようです。。。


「金井塚(庚塚・狐塚)」

 江原町3丁目の江古田原観音堂は東福寺の境外仏堂で、地元では「原の観音堂」と呼ばれています。この敷地内には、金井塚の頂部に立てられていたという庚申塔が移されて現存しており、画像の右から2番目がその金井塚の庚申塔です。


「金井塚(庚塚・狐塚)」

 画像が、金井塚唯一の痕跡といえる庚申塔です。宝暦十三年十月吉日、江古田村金左衛門と願主の名が刻まれています。「金井塚」唯一の痕跡といえるものですね。。。
 文久二年の江古田村の古地図には「金井塚」とあるものの、ほかの古地図には「かのへ塚」と書かれていることから、庚申塔が建てられて以降は庚申塚として認知されていたようです。

<参考文献>
堀野良之助『江古田のつれづれ』
関利雄、鎌田優『中野区の歴史』
中野区史跡研究会『東京史跡ガイド⑭ 中野区史跡散歩』
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』


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  1. 2016/12/20(火) 01:39:42|
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「稲荷塚」

「稲荷塚」

 画像は、中野区江原町3丁目に所在する「中野区立こぐま公園」を西から見たところです。この場所はかつては小高い塚になっていて、塚上には牛頭天王社と宇迦之御魂神のふたつの祠が祀られていました。地元の人には「稲荷塚」とか「じゅくじゅく天王様」と呼ばれており、やはり古田・沼袋原の合戦による戦死者を葬ったといわれる「豊島塚」のひとつであるといわれています。

「稲荷塚」

 この塚は戦後までは残されていたようですが、昭和40年代になって2祠を合祀され、江原町1丁目44番地に移転の上、昭和42年に「須賀稲荷神社」として建立されています。こぐま公園が開設されたのは昭和47年7月とされていますので、昭和40年代には塚は削平されて消滅したようです。


「稲荷塚」

 画像は現在のこぐま公園内のようすです。公園内は整地されており、コンクリート製の遊具が置かれています。訪れた日には子供たちが楽しそうに遊んでいました。合戦による戦死者を葬ったといわれる豊島塚の痕跡は、全く残されていないようです。。。


「稲荷塚」

 画像は、江原町1丁目に所在する「須賀稲荷神社」を南から見たところです。稲荷塚に祀られていた牛頭天王社と宇迦之御魂神が合祀され、この場所に移転されています。
 境内に立てられている由緒書には次のように書かれていました。

        御 由 緒
                            須賀稲荷神社
御祭神 素戔嗚尊 宇迦之御魂神
例祭日 二月初牛


由緒
 はるか昔から、中野区江原町三丁目十七番地(現•こぐま公園のある所)に
二つの小さな祠があり、それぞれ牛頭天王(ゴズテンノウ)と宇迦之御魂神
(ウガノミタマノカミ)が祀られておりました。
 その祠の西側では清水がこんこんと湧きでて、細い流れをなしていたこと
から、土地の人々が五穀の豊穣と疫病除けを祈願して祠を祀ったものだと伝
えられています。悪疫の流行を防ぐ神として「じゅくじゅく天王様」と庶民
から親しまれ、多くの信仰を集めてきました。
牛頭天王は悪疫を防ぐ神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一され、また
社名の「須賀」とは、天照大神の弟である素戔嗚尊が出雲の国の斐伊川の上
流でヤマタノオロチを退治した時に「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」
と述べ、宮居を創立したという故事にもどつき名づけられた名称です。
「宇迦之御魂」は稲魂(イナダマ)の意で、「稲荷」の語源である稲成(イネナリ)、
つまり、稲の育つ様を言い表わした言葉から来たとされています。
 江原町は昭和三十年代になって、人口増加と東京オリンピック開催を契機
に道路整備が進捗し、目白通りの交通量が激増し、天王様の境内での祭礼、
町の諸行事の開催は危険な為、困惑しておりました。
地元有志の努力により現在地に二神を合祀して移転し、昭和四十二年二月十
三日に宗教法人須賀稲荷神社を創立、昭和四十七年一月に諸健物の建設を起
工、同年六月二十五日に神社、社務所(公民館併設)、神楽殿が完成しまし
た。その後江原町公民館運営委員会や町会、若睦が管理運営を行ってきまし
たが平成十七年五月二十九日「須賀稲荷神社氏子会」が発足され現在に至っ
ています。
                            (由緒書より)

<参考文献>
中野区ことぶき大学大学院『江古田散歩』
須賀稲荷神社『由緒書き』


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  1. 2016/12/19(月) 00:17:17|
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「一里塚のエノキ」―青梅市天然記念物―

「一里塚のエノキ」―青梅市天然記念物―

 画像は、青梅市今寺2丁目、今寺交差点の北東角にある「一里塚のエノキ」です。青梅市の天然記念物に指定されているこの一里塚は、青梅駅からちょうど一里(約4km)の距離にあり、山根道(根通り道)と伝馬街道が交差するところにあります。「根通り道」の一里塚として江戸時代に植えられたと伝わる、青梅市内に残されている唯一の一里塚です。

 江戸時代の八王子代官である大久保石見守長安は、この周辺地域の水田開発や堤防や橋の築造、また甲州街道、五日市街道、青梅街道といった街道造りにも貢献しているそうです。街道の改修工事を行っていた長安は、見渡す限りの原野であった武蔵野に目印になる山や大きな木がなかったため、一里塚に目印になるような大きな木を植えようと考えたそうです。時の将軍秀忠公にお伺いに上がり、「一里塚に木を植えたいが、松の木ではスギやヒノキと紛らわしいのですが、いかがいたしましょうか?」と尋ねたところ、秀忠公は「”余の木”(他の木)を植えたらよかろう」と答えたのだそうです。この頃少し耳が遠くなっていた長安は、「上様の言われた通り、早速一里塚に”榎(エノキ)”を植えよ」と 、「余の木」と「榎」を聞き間違えて榎を一里塚に植えさせたと言われています。何のことはない、オチはオヤジギャグかよという感じですが(笑)今寺の榎はこの時に植えられたようです。。。


「一里塚のエノキ」―青梅市天然記念物―

 榎の根元は盛り上がっていて、塚の面影を残しています。青梅市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。

市天然記念物 一里塚のエノキ
 江戸時代、街道の里程標
として植えられたという。
いわゆる「一里塚の榎」の
今に残る一本である。ここ
では川越街道とよばれた道
路の里程を示すために植え
られたものである。
植物名 ニレ科 エノキ
幹の太さ 三四七センチメートル
 昭和三十二年十一月三日 指定
    青梅市教育委員会


<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
現地説明版


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  1. 2016/12/15(木) 01:36:19|
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「佐藤塚」―青梅市指定史跡―

「佐藤塚」

 画像は、青梅市成木8丁目に所在する「佐藤塚」を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には青梅市の遺跡番号5番の近世の「石灰窯跡・墓地」として登録されている遺跡です。

 この塚について、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「松木峠の麓にて往還の傍にあり、天正年中北條氏照が家臣佐藤助十郎と云もの此地へ来り住し、上成木村にすめる木崎某川口某ら三人とはかりて始めて石灰を製せしよし、この家も今はたえてなし」と書かれています。『斎藤地誌』には「土人は塚と呼べども平地なり」とあるものの、『武蔵名勝図会』には「高さ六、七尺、上に雑木生ぜり」とあり、築造当時、塚状のマウンドは存在したのかどうかはよくわかりません。


「佐藤塚」

 画像は南西から見た佐藤塚です。現在の佐藤塚は高さ30mほどの大きなヒノキの根本に2基の五輪塔が建てられており、青梅市教育委員会による説明板が設置されています。この説明板には次のように書かれています。

市指定史跡 佐 藤 塚
 文政三年(一八二〇)に著された『武蔵名勝図会』に、「佐藤助十郎とて、上成木村木崎治右衛門、川口弥次郎等の先祖と同じく、北條家落魄のものどもなり。この辺にて石灰を焼きだすことを始めたる、その佐藤が塚なりと云。いまは断絶しければ、住居のあたりに築きたる塚なりと云。高さ六、七尺、上に雑木生ぜり」と記されている。
 江戸初期にはじまるこの地方の石灰産業史をかたるうえに重要な史跡である。また、檜の大木の前にある五輪塔の地輪には正保二年(一六四五)と解読できる年号が記され、本市における石造遺物の一つとして貴重である。
 昭和三十年十一月三日 指定
 青梅市教育委員会



「佐藤塚」

 画像が塚に立てられている2基の五輪塔です。
 この塚へは最寄りのJR青梅線軍畑駅からでも2~3kmほど歩かなければならず、また榎峠をを越えなければならないので、見学に訪れるにはなかなか難易度の高い塚です。車で訪れても山の中の一本道ですので付近に駐車場はありません。東京都内であることを忘れてしまいそうな自然の豊かな地域ですが、この周辺では消石灰の大量生産が行なわれ、江戸時代から明治時代にかけてかなり裕福な地域であったそうです。


「佐藤塚」

 塚の横にある橋には「佐藤塚橋」と塚の名前が使われています。。。

<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』


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  1. 2016/12/14(水) 01:02:37|
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「天皇塚」

「天皇塚」

 現在の青梅市藤橋2丁目周辺は、古くは今寺天皇塚という字名で呼ばれており、『東京都遺跡地図』によると、古墳や塚といった遺構は存在しないものの「天皇塚遺跡」の名称で青梅市の遺跡番号136番の包蔵地として登録されています。画像は、この天皇塚遺跡内に所在する「天皇さま」の祠を南から見たところです。

 『皇国地誌』の『今寺村誌』にはこの天皇塚についての記述があり、「天皇塚 元標ヨリ子ノ方、字天皇塚五百七十四番茅野壹反七畝十五歩、築地誠五郎所有地ノ内ニテ高サ(記述なし)、回リ(記述なし)、冢上ニ速進男命、神武天皇二柱ヲ祭ル。名義之ニ因レリ。側ノ字モマタ同義ナリ。」と書かれています。『皇国地誌』は、当時の明治政府によって行われたものの未完に終わった官撰地誌編纂事業で、正本は関東大震災により焼失したとされているものの、残存する草稿や副本などをまとめた『皇国地誌・西多摩郡村誌』が青梅市教育委員会より刊行されています。未刊に終わったためか「記述なし」や「草稿缺落」などと書かれている記事も多く、この天皇塚に関しても塚の規模については「記述なし」とされています。これは、塚の存在を想定して執筆したものの未完成の原稿であるために記述がないのか、それとも塚そのものが削平されて存在しなかったためなのか、詳細はわかりません。
 この周辺で地元の人にお聞きしたところでは、かなり以前よりこの場所に塚はなく、塚があったという話も聞いたことがないという事でしたので、少なくとも戦後くらいにはすでに塚は消滅していたようです。江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』にはこの天皇塚は記載されていないようなので、かつて塚が存在したとしてもそれほど知られた存在ではなかったのかも知れません。
 皇国地誌には他に「無名冢 元標ヨリ子ノ方、字常磐木平、路傍ニアリ。藤橋城没(以下記述なく草稿缺落)」とも書かれていますので、この周辺にはいくつかの塚が存在していたことは間違いないようです。。。

<参考文献>
青梅市郷土資料館『青梅市の埋蔵遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
青梅市教育委員会『青梅市史史料集第五十五号 皇国地誌・西多摩郡村誌』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』


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  1. 2016/12/12(月) 01:45:55|
  2. 青梅市の古墳・塚
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「入定塚」

「入定塚」

 画像は、青梅市塩船に所在する「大悲山塩船観音寺」の山門を南東から見たところです。山号を大悲山と称すこの塩船観音寺は、周囲の地形が小丘に囲まれて舟の形に似ていることから、仏が衆生を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟』になぞらえて塩船と名づけられたといわれています。大化年間(645~650)に若狭国の八百比丘尼が一寸八分の紫金の観音像を安置したのが開山と伝えられており、貞観年間(859~877)には安然和尚が十二の坊舎を建て興隆を極めたと伝えられています。このお寺の敷地内には青梅市の遺跡番号119番の「入定塚」という名称の中世の塚が登録されています。


「入定塚」

 この塚について、昭和52年(1977)に青梅市教育委員会より発行された『青梅市の埋蔵遺跡』には「塩船観音寺阿弥陀堂裏」とあり、また平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「残存、径10m」と書かれています。
 『東京都遺跡地図』の分布図を確認すると、青梅市内の古墳や塚に関しては比較的正確に所在地が記されているのですが、この入定塚に関しては、実際に現地を訪れてみても分布図に記されたあたりには塚らしきマウンドは全く存在しません。塩船観音寺でお聞きしたところでは「阿弥陀堂裏手の丘陵裾部の墓所の場所が昔から入定塚と呼ばれている」ということなので、早速引き返してその墓所を訪れてみました。画像がその墓所のようすです。
 多くの石造物が祀られているようですが、自然地形である丘陵の斜面を平らに削った場所であるようで、特に塚らしきマウンドは存在しないようです。入定塚という名称からしてかつては行者や修験者の入定伝説が残されていたのか、それとも供養塚の一種であるのか、というところですが、塚の由来については塩船観音寺でもわからないということのようです。。。


「入定塚」

 入定塚と呼ばれる墓所から南西側にさらに下った場所には、塚状のマウンドが存在します。『青梅市の埋蔵遺跡』にある「塩船観音寺阿弥陀堂裏」と、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「丘陵裾部」、「残存、径10m」という記述からするとこの塚が「入定塚」ではないかと考えられますが、特に説明板などは存在しないようです。。。

 八百比丘尼が紫金の千手観音像を安置したことにより開山したと伝わるこの塩船観音寺ですが、八百比丘尼とは、若狭国(現在の福井県)に暮らしていた漁師の娘が、人魚の肉を食してしまったことにより不老不死となり、その後娘は出家して八百比丘尼と呼ばれる僧侶となって諸国をを行脚したといわれており、全国各地に八百比丘尼にまつわる伝説が残されています。八百比丘尼は800歳まで生きた後、若狭に渡って死んだと伝えられており、福井県小浜市の空印寺には八百比丘尼が入定したとされる洞窟が残されているそうです。果たしてこの八百比丘尼の伝説と入定塚には何か関連があるのかもしれませんが、真相はわかりませんでした。


「入定塚」

 塩船観音寺境内のようすです。本当に舟のような形をしています。『東京都遺跡地図』には、この小丘の斜面に「青梅市№118遺跡」という名称の横穴墓が登録されています。。。

<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅市の埋蔵遺跡』
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
塩船観音寺『塩船観音寺公式ホームページ』


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  1. 2016/12/09(金) 09:24:49|
  2. 青梅市の古墳・塚
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