
画像は、品川区南品川5丁目に所在する「海晏寺(かいあんじ)」を東から見たところです。
海晏寺は建長3年(1251)、北条時頼が鎌倉の建長寺の蘭渓道隆を迎えて開いたと伝えられ、その後時頼の息子の時宗の時代に新たな堂が造られて、阿弥陀仏が安置されたといわれています。墓地には、東京都の旧跡に指定されている岩倉具視、白井鳥酔、加舎(春秋庵)白雄の墓があり、また松平慶永、由利公正の墓が品川区の史跡に指定されています。岩倉具視のお墓は本堂の裏手に残されているようですが、残念ながら一般の参拝は認められていないようです。この本堂裏手に、品川区の遺跡番号18番の古墳が登録されています。

この遺跡番号18番の古墳はすでに削平されており、墳丘の存在しない古墳です。都心部遺跡分布調査団により行われた昭和58年度の品川区大井地区の古墳分布調査により、須恵器高杯、須恵器甕、形象埴輪がそれぞれ1点と円筒埴輪片5点が採集されており、これにより古墳の存在が想定されているようです。
画像の道路の右側あたりが「須恵器及び円筒埴輪片散布域」となるようです。実際にはもう少し奥の方ではなかったかと思います。残念ながらこの場所は見学不可で、立ち入ることが出来ないようですので、路上から見学するより手段が無いのが残念です。遺物はかなり広い範囲から採集されているようなので、古墳が円墳であれば複数の古墳が存在したか、もしくは前方後円墳が存在した可能性も考えられるところですが、真相は不明のままです。

塀の隙間から覗いてみるとこんな感じ。平らに整地されているようなので、はっきりと墳丘が残る古墳は存在しないようです。品川区の史跡として指定されるような墓所ですから、ちゃんと整備して見学できるようになると良いのになあと思うのですが、なかなか難しいですね。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
品川区立品川歴史館『東京の古墳 ―品川にも古墳があった―』
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- 2017/01/05(木) 03:00:40|
- 品川区/品川大井古墳群
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新年あけましておめでとうございます。
昨年は御訪問いただき、ありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。

「大井公園内古墳」は、その名の通り、品川区東大井4丁目に所在する大井公園内の築山として存在しています。『東京都遺跡地図』には品川区の遺跡番号20番の古墳として登録されています。画像はこの大井公園内古墳を南東から見たところです。
このマウンドの周辺からは、都心部遺跡分布調査団により行われた昭和58年度の品川区大井地区の古墳分布調査により円筒埴輪片が採集されています。この埴輪片の発見により、それまで公園の造営時に盛られたものであると思われていた築山が、実は元々存在した古墳を流用したものではないかと考えられているようです。発掘調査は行われていないため、埋葬施設や周溝の有無については不明であるようです。

古墳は盛り土により築造されていますので、夏になれば草が生え、木には葉が茂ります。当然墳形も見難くなりますし、自然の中での古墳探訪はスズメバチに追われたり、蛇が出たりと実はかなり危険で怖いのです。都心部の古墳においてはこのような危険はあまりありませんが、それでもやはり古墳は冬の見学が理想的です。
大井公園内古墳は整備が行われていますので、落ち葉なども清掃され、冬には残存する墳丘をはっきりと見ることが出来ます。公園内には広葉樹が植えられているので、秋になると葉が紅や黄色に色づき始め、秋も深まる11月後半には中旬から下旬が紅葉が深まる古墳の姿を見ることが出来ます。
画像は、秋の大井公園内古墳を南東から見たところです。。。

画像は、大井公園の坂の下に品川区教育委員会により設置されている説明板です。古墳についての記述は見られないものの、江戸時代のこの周辺は下屋敷であり、この下屋敷内に所在したと云われる塚についての興味深い記述が見られます。
説明板には次のように書かれています。
旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡
(元:陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)
東大井4丁目
この地より高台に向かう一帯には、越前国(現・福井県)間部下総守の下屋敷があった。
もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新た
に大井村に拝領した下屋敷であった。この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚が
あり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)に、鯖江
藩間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となった。その後、
一部は再び伊達家の所有となった。
安政2年(1855)頃の鯖江藩主間部下総守詮勝は5万石の家禄があり、上屋敷は常盤橋
御門内(現・千代田区大手町)にあった。
品川区教育委員会 この説明板にある下屋敷の範囲から「高尾太夫の器を埋めたという塚」を現在確認されている古墳に当てはめてみると、「大井公園内古墳」か「大井林町1号墳(伊達家邸内古墳趾・伊達古墳)」、「大井林町2号墳(内山家墓所内古墳)」の何れかではないかと考えられます。ただし、当時、2基の林町古墳を発掘したとされる徳川義宣氏著『大井林町古墳』には、1号墳の発掘や2号墳の埴輪片の採集についての詳細な記述が見られるものの、大井公園内古墳についての記述は全く見られないことは不自然にも感じられますし、ひょっとしたら大井公園内古墳は大井公園を造成した際に造られた築山で、都心部遺跡分布調査団により円筒埴輪片が採集されたのは偶然であるという可能性も考えられるかもしれません。
いずれにせよ、この周辺に複数の古墳が存在したことは間違いないと思われますので、今後の調査の進展に期待をしたい地域だと思います。。。

あらためて、季節により移り変わる大井公園内古墳、その1。画像は、南から見た夏の大井公園内古墳です。
これこのとおり、案の定、草ボウボウですね。。。

季節により移り変わる大井公園内古墳、その2。先ほどと同じ、南から見た、色づき始めた秋の大井公園内古墳です。紅葉がきれいです。

季節により移り変わる大井公園内古墳、その3。同じく南から見た、冬の大井公園内古墳です。残存する墳丘のようすをはっきりと見ることができます。

画像は墳頂部のようすです。灰皿が設置されており、喫煙所となっているのが残念なところですね。。。

画像は、墳頂部から北東側を見下ろしたところです。埴輪片が採集されたのはこの辺りだと思われます。この日も表面観察を試みましたが、埴輪片らしき遺物は見られませんでした。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
品川区立品川歴史館『東京の古墳 ―品川にも古墳があった―』
現地説明版
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- 2017/01/03(火) 23:12:22|
- 品川区/品川大井古墳群
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