
先週末は壬生車塚古墳の現地見学会が開催されるということで、栃木県壬生町を訪れました。壬生町というところは私にとっては比較的土地勘のある、馴染みのある場所なのですが、よく知る場所であるがゆえにこれまで積極的に古墳の探訪に訪れたことはなく(まず行ったことのない場所に行って見たくなってしまうから)、今回はゆっくりと町内の古墳を見学することができました。こんなによく晴れた休日の古墳探訪は久しぶりです。。。
さて、画像は「車塚古墳」を南から見たところです。車塚は壬生町中央部を南流する黒川右岸の台地上に築造された古墳で、壬生バイパス沿いに所在するため車があれば交通の便の良い古墳です。大正15年(1926)に国の史跡として指定されており、墳丘の直径84メートル、周溝も含めた総全長は130メートルもある大円墳です。この周辺地域では、墳丘の一段目が低く平坦で幅の広い基壇を持つという特徴があり、前方後円墳においては多くの古墳が後円部やくびれ部に石室が設けられているのに対してこの周辺の古墳は前方部にのみ横穴式石室が設けらており、これらの特徴のある古墳は「下野型古墳」と呼ばれています。この車塚古墳も、墳形は円墳ですが、三段に作られた墳丘の第一段平坦面は幅広く造られています。

「車塚古墳」を西から、周堤の外側から見たところです。墳丘の一段目が低く、平坦で幅が広いということですが、例えば埼玉古墳群の丸墓山古墳などと比べると形状的に平べったい印象です。

敷地内には壬生町教育委員会による説明板が設置されており、画像はこの説明板に掲載されている古墳の測量図です。古墳の大きさとともに形状がわかります。

画像は埋葬施設のようすです。玄門をはさむ「玄室」と「前室」が残されており、凝灰岩の一枚石で造られています。以前訪れたときには、石室内に土砂が流れ込んで半分くらいは埋まっていた記憶があるのですが、現在は土砂はかなり取り除かれています。。。

石室内部のようす。玄室の規模は幅2.8m、奥行き3m。前室は幅2.5m、奥行き2.4m、高さ2.1mメートルを図ります。これまでの調査で、玄室の床部分を除く側壁、天井部分がベンガラ(酸化第二鉄)で赤に塗られていたことが確認されており、さらに前室の壁からも赤彩の跡が確認されています。かなり色は落ちてしまっているようですが、わずかに顔料の赤い痕跡が残されているようすがわかるでしょうか。。。

この古墳の隣接地には鎌倉時代以降に寺院が建築されといわれており、その関連施設が前庭部に造られたことにより大きく破壊を受け、石室前面に構築される祭祀の場である「前庭」の存在は突き止めることができなかったようですが、今回の発掘調査によりの一部が確認されています。前提は石室入り口前面に川原石や切石で造られており、この発見により墳丘の全体像を復元することも可能になると考えられているようです。

この車塚古墳は壬生地区の首長墓の中では唯一の葺石を持つ古墳です。葺石は墳丘第一段の斜面中ほどから墳頂部の平坦面まで覆われていることが確認されています。墳頂部など平坦面の葺石は良好な状態で残っているものの斜面部の多くの葺石は崩落してしまっているそうです。また周囲には完全な形で周溝と周堤が廻っており、近年の調査により周堤の外側に幅5メートル、深さ約1メートルの二重目の周溝の存在が確認されています。この車塚は円筒埴輪のかわりに須恵器が飾られていたということのようですが、どのような意味があったのでしょうか。。。
それにしても、見事に周溝が残っています。
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- 2017/01/29(日) 23:23:49|
- 壬生町の古墳・塚
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東京都杉並区井草2丁目8に所在したといわれる塚が「念佛塚」です。『東京都遺跡地図』には未登録で、すでに消滅して存在しない塚ですが、この塚にも文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた「江古田・沼袋原の合戦」の戦死者を葬ったとされる言い伝えが残されているようです。
画像は、念佛塚の跡地周辺を北東から見たところです。かつての念佛塚は、旧早稲田通りの西側3m程の地点に2mほどの高さで存在したといわれています。画像の手前が旧早稲田通りで、駐車場の敷地のあたりが塚の所在地となるようですので、おそらく駐車場の入り口あたりに念佛塚が存在したものと思われますが、残念ながら痕跡は何も残されていません。塚は十坪程の広さで欅の木が生えており、塚のあった山は周辺地域では「念佛山」と呼ばれていたそうですが、大正の初め頃に畑地化のための開墾が行われ、塚の盛土は畦の埋立てのために使われて削平されてしまいました。
学術的な調査がおこなわれた記録は無く、また出土した遺物等も存在しないこの塚の性格を知る術は残されていないようです。。。
<参考文献>
井口龍蔵『井草のかたりぐさ ―大正のころの八成―』
杉並区教育委員会『杉並の通称地名』
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- 2017/01/27(金) 02:34:11|
- 杉並区の古墳・塚
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画像は、杉並区桃井1丁目の「お古里塚」が所在したとされる周辺を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、塚にはさまざまな言い伝えが残されており、古墳である可能性も指摘されているようです。
江戸時代の初め頃、この周辺は井口長佐衛門というお百姓さんの所有地だったことから「長佐衛門原」がなまって「チョウセンパラ」と呼ばれていたそうです。長佐衛門は当時、薄の原っぱだったこの土地にクヌギやコナラなどの落葉樹を植えて雑木林にした後、ところどころに畑を開墾しました。この林の中にはいくつもの塚が散在していたそうですが、その後大正の半ば頃にはほとんどの塚は開墾により消滅し、一番大きかったお古里塚が残されていたようです。
一説にはこの塚は、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた江古田・沼袋原の合戦の戦死者を集めて葬ったところで、鎧や兜、刀、槍などが埋められているために、これを掘り返すと”おこり”(熱病)になるという言い伝えがあり、このため誰も手をつけずに取り崩されなかったのではないかといわれています。
塚は、明治時代に周辺の小さな塚を取り崩したときに、鎧の破片らしい鉄屑が残っていたという話があり、お古里塚周辺にあった小さな塚も皆、太田軍の将兵の墓だったのではないかともいわれているようですが、この遺物は残されていないため真相はわかりません。また、戦後に塚の一部を整備した際に応安2年(1369)銘の板碑が出土していることから、江古田・沼袋原の合戦以前の古墳ではないかとする説があり、また塚は鎌倉時代に築造された塚に江古田・沼袋原の合戦の戦死者を併葬したもので、”おこり”になるという伝説は塚を保護するための作られた伝説ではないか、とさまざまな説があるようです。
昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』では「あるいは古墳であるかも知れない」と古墳の可能性も指摘しているようですが、すべての塚が消滅してしまった現在では塚の性格を知ることは出来ないようです。。。
<参考文献>
森泰樹『杉並の伝説と方言』
森泰樹『杉並歴史探訪』
森泰樹『杉並風土記 上巻』
東京都杉並区役所『杉並区史』
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- 2017/01/23(月) 00:52:10|
- 杉並区の古墳・塚
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これまでに、江古田、沼袋を中心に中野区内に所在したといわれる、「江古田・沼袋原の合戦」の戦死者を葬ったとされる7ヶ所の「豊島塚」を紹介してきましたが、この周辺地域である杉並区や練馬区内にもこの合戦の戦死者を葬ったとされる塚が存在したようです。
杉並区高円寺南2丁目周辺には「六つ塚」と呼ばれる数基の塚群が存在したといわれています。この塚群は開発によりすべて消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録の言い伝えのみに残る塚ですが、高円寺図書館の敷地内に杉並区教育委員会による説明板を見ることができます。
六 つ 塚 跡
図書館前の路を北に六〇メートルほど行った辺り(名取眼
科医院付近)に、かつて六基の塚があり、地元の人々はそれ
を「六つ塚」と呼んでいました。
塚はいずれも土まんじゅうのような円墳型をしており、四
基は小塚でしたが二基は高さ四メートル、直径が六メートル
ほどの大塚で、頂には木が生え、裾には小さな窪みがあった
と伝えられています。
雑木林の中にあったこの塚は、その頃はまだ当図書館の場
所にあった杉並第三小学校の児童たちの恰好の遊び場で、腕
白どもは学校の行き帰りや休み時間に、よく塚に登って遊ん
だということです。
また、当図書館の一帯が昭和の初め頃まで「むつづか」の
通称で呼ばれていたのも、この塚に由来していたのです。
しかし大正末年頃、塚は区画整理事業による桃園川流域低
湿地埋めたてのため、崩されてしまいました。その際、塚か
らボロボロになった刀などが出土したといわれ、こうした出
土品などから、塚は太田道灌と豊島氏との戦の死者を葬った
墓ではないか、との説もありますが、真偽のほどは不明です。
なお、六つ塚に近く、長く当図書館の地にあった杉並第三
小学校(前身は高円寺小学校)は、明治二十六年に開校した古
い歴史を持ち、昭和三十三年に現在の高円寺南一丁目へ移転
した学校です。
平成四年三月
杉並区教育委員会
六つ塚の跡地周辺のようすです。画像は跡地周辺を北東から見たところで、坂道を上がった右側が説明板の立つ高円寺図書館です。現地はなだらかな坂道となっているようですが、塚はこの斜面に存在したのか、それとも宅地造成が行われる以前の台地の縁辺部にしたのか、塚の正確な所在地がわからないので何ともいえないところです。6基存在したという塚の痕跡は全く残されていないようです。
江古田・沼袋原の合戦の戦死者を埋葬した塚ではないかという伝承について、『杉並の通称地名』では33ページで「いわゆる古墳ではなく、中世の死者を埋めたもののようである。」としながらも、81ページでは「古墳らしい塚が六基あった」と、塚が古墳であった可能性を感じさせる記述も見られます。果たしてこの地に古墳が存在したのか否か、塚が消滅して出土した遺物等もすでに存在しない今となっては真相を知ることは出来ないようです。。。
<参考文献>
杉並区教育委員会『杉並の通称地名』
現地説明版
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- 2017/01/21(土) 00:15:03|
- 杉並区の古墳・塚
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現哲学堂公園の北東角、現在の新青梅街道と、新井薬師駅方面から千川通り方面に抜ける、地元では「鎌倉街道」と呼ばれる道路が交差する付近に道路を挟んで四ヶ所に存在したといわれているのが「四ツ塚」です。その名の通り4基の塚の塚の総称で、これも「豊島塚」のひとつであるといわれています。
鳥居龍蔵氏は昭和15年(1940)発刊の『風至』五巻二号の「上代の野方風至地区付近に就いて 三、四」の中でこの四ツ塚は古墳ではないかと推測しており、昭和18年(1943)に東京都中野区役所より発行された『中野区史 上巻』でもこの四ツ塚を「江古田一丁目四ツ塚古墳群」の名称で古墳として紹介しています。しかし比田井克仁氏は著書『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』の中で「鳥居龍蔵は古墳説をとっているが、この地域で兜や刀を出土する古墳、すなわち五世紀~六世紀代のトップクラスの古墳の存在の可能性はきわめて低いため、この説は賛成できない」としており、古墳説には否定的です。
この4基の塚はかなり接近して存在しており、高さ約3m、径約3m程あったといわれています。明治40年頃の宅地建設の際にこのうちの1基が壊された際には、鉄の兜や腐った刀が人骨とともに出土しているようですが、その後、昭和10~15年頃に道路工事によりもう1基が崩された際には何も出土しなかったと伝えられています。これだけでは、この塚が古墳であったか塚であったかは何ともいえないところですが、残念ながら出土した遺物の所在はわからなくなっているようです。
『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』等の江戸時代の地誌類にはこの四ツ塚についての記述は見られず、また『風至』の鳥居龍蔵氏の文献の後ろには「この四ツ塚に就いては、古い文献の上にも現はれてゐない程、重視、否問題にしてゐなかったらしく記録がない。又土地にもこれに關する口碑さへ傳へられてゐない有様である。」と編集者の補遺が記載されています。つまりは、かつての四ツ塚は特に伝承等が残されていない無名の塚で、明治40年頃の塚の削平の際の兜や刀の出土により、その後豊島塚と呼ばれるようになったというのが真相のようです。

堀野良之助著『江古田のつれづれ』には4基の塚のうちの1基について、「哲学堂側にあった塚は、盛り土を哲学堂地内に移して面影を残された」と記されています。この盛り土は「哲学堂公園野球場」の北東角、グランドのバックネット裏の金網の内側に残されています。
画像はこの盛り土が残された地点を北東から見たところです。交差点の歩道の金網の奥に、うっすらと塚らしきシルエットが見られると思います。これが四ツ塚の唯一の痕跡といえるものですが、これは移築された塚と呼べるような代物ではなく、残土の山に篠竹が生い茂っているという状況で、残念ながら”面影を残す”というものではなく、また説明板等も存在しないようです。将来このグランドの工事でも行われれば、何も知らない工事関係者があっさりと撤去してしまいそうです。。。
この交差点は中野区と新宿区の区境に当たります。残された盛り土が中野区側に所在していることから今回の「四ツ塚」は中野区の塚として紹介しましたが、現在の行政区分に従うならば四ツ塚のうちの2基は西側の中野区内に、残る2基は東側の新宿区内に存在したということになります。

今回まで中野区内に所在したとされる七ヶ所の「豊島塚」と呼ばれる塚を紹介しましたが、古墳の可能性という点では、どの塚よりもこの四ツ塚に古墳の可能性を感じますが、残された遺物も存在せず、また発掘調査等も行われないまま塚は消滅していることから、真相はわかりません。ただし、もしもこの塚が古墳であれば、残された塚の残土の中に埴輪片などの遺物が紛れているという可能性は考えられるかもしれませんし、発掘してみる価値はあるかもしれません。
『中野区史 上巻』には、この四ツ塚の南側、妙正寺川を挟んだ対岸に「片山東南方高塚古墳群」と称される古墳群が存在したと記されています。また、上高田5丁目の「遠藤山遺跡」からは近年の発掘調査により計4基の古墳の周溝が検出されています。妙正寺川流域に所在するこの四ツ塚が古墳群であった可能性は十分に考えられるのではないかと思われますが、真相は今後の調査の進展を待たなければなりません。。。

四ツ塚の交差点から新青梅街道を西に四百メートルほど進んだ中野区立江古田公園の敷地内には、「史蹟江古田ヶ原沼袋古戦場」の碑と中野区教育委員会による説明板が建てられており、次のように書かれていました。
江古田古戦場
このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にい
たる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(1477)
太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。
ここでの合戦は、享徳の乱(1454〜1482)と
いう長期にわたる内乱の中の戦でした。
享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関
東公方足利成氏と。太田氏が仕える関東管領上
杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により
管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きま
した。
この乱により関東は二分され、幕府などの支
援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をお
さえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とし
た道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、
戦を有利にすすめるために重要な役割をはたし
ました。
ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た
豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立
するうえで、大きな意味をもっていました。
昭和五十七年二月
中野区教育委員会
妙正寺川のほとり、江古田公園のようす。ほんの何百年か前にはここで戦争をしていたとは信じられない、平和な感じです。。。
<参考文献>
東京都中野区役所『中野区史 上巻』
堀野良之助『江古田のつれづれ』
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』
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- 2017/01/19(木) 01:00:58|
- 中野区の古墳・塚
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「江古田・沼袋原の合戦」とは、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた戦いです。この合戦が行われたと云われる現在の中野区江古田・沼袋地域では各地で激烈な白兵戦が行われたといわれており、江古田原古戦場周辺には、この合戦の戦死者を葬ったとされる「豊島塚」が点在していたといわれています。
画像は、中野区野方6丁目の「大塚」の跡地周辺を北東から見たところです。この塚は「豊島塚」のひとつであるといわれています。豊島塚に詳しい須藤亮作著『物語 豊島氏』には、当時の大塚の所有者の談が掲載されていますが、これによると大塚は地積四畝歩にわたり、高さ五メートル余りもある、豊島塚と呼ばれた塚の中では一番大きな塚であったといわれています。雑木や熊笹が茂る大塚は遠方からも望めたとされていますが、塚に狐が住みついて付近の畑の作物や農家の鶏などを荒らすことから、明治15~16年頃に塚の一部を除いて崩されています。この際に、刀剣や板碑とともに人骨が掘り出されたといわれていますが、人骨の多くは頭骨であったことから、合戦に勝利した太田道灌が、戦死した豊島泰明や一族の赤塚・板橋氏の首実検をした後に遺骸を葬ったところとも言い伝えられているようです。
昭和18年(1943)に東京都中野区役所より発行された『中野区史 上巻』ではこの大塚を「大塚古墳」と古墳として取り上げており、「徑十間以上の大高塚墳。圓墳。但し、破壊削平せられ、現在全然舊狀を知り得ず。」と記載されています。果たしてこの塚が古墳であるのか、それとも塚であるのか、学術的な調査は行われていないため真相はわかりませんが、多くの言い伝えから検証すると、この大塚はやはり古墳ではなく江古田ヶ原沼袋の合戦の戦死者を葬った「豊島塚」であったのかもしれません。
出土した刀剣はなんと鉈の代わりに使っていたそうですが、墓地から出土した刃物を使っていては祟りが起こるということである宗教の行者が持ち去ってしまったといわれており、所在はわからなくなっているようです。また、人骨は菩提寺へ埋葬したといわれています。そして、残された塚の残存部分には土地の所有者の稲荷社を祀り、出土した板碑が重石代わりに敷かれていたといわれています。そしてその後、関東大震災後に残されていた塚の一部も削平されて平地にされており、この際にも人骨が掘り出されたといわれています。現在は塚の跡地は宅地化が進み、塚の痕跡は全く残されていません。

「大塚」に祀られていたという稲荷社については間近で見学することは出来なかったのですが、大塚の所有者の分家の方に案内していただき、敷地の外から稲荷社を垣間みることは出来ました。画像がその稲荷社のようすです。祠の後ろ側に、半分に欠けた石造物が立てかけてあるようすを見ることが出来ます。恐らくはこれが、出土した後に重石代わりに敷かれていたという板碑ではないかと思われます。『中野区史 上巻』では古墳ではないかとして取り上げられていたこの大塚ですが、やはり豊島塚と呼ばれる1基である可能性が高く、古代に築造された古墳ではなかったのかも知れません。。。
<参考文献>
東京都中野区役所『中野区史 上巻』
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』
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- 2017/01/17(火) 01:08:31|
- 中野区の古墳・塚
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「小人見塚」は、府中市浅間町1丁目に所在したとされる塚です。現在すでに消滅して存在しない塚で『東京都遺跡地図』には未登録となっています。
府中市教育委員会より発行された『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』によると、この塚は旧なかみちと旧こみとめ道の間にあり、だらだらした塚で、面積は1町歩ほどもあったといわれています。古くから知られた存在であったと考えられ、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「神領八幡宿。八幡宮の大門口、鳥居際より甲州街道をへだて北東の方にあり。廻り凡そ百歩許。高さ6尺程なり。謂われ不知。小人見塚と号するは、この塚より人見村へ接し、また人見村の堂山、中山などと同じ土にて、ここの土にあらず。人見村の土と同じければ人見山と号する由なり。他所の土を以て築きたる塚也。」とあり、『新編武蔵風土記稿』には「(前略)街道の北に当れる陸田の内に、小人見村と唱るあり、周廻三十間許、高五尺程、其來由はしれず。」と書かれています。
画像は、東京都立府中の森公園内の「小人見塚」の跡地周辺のようすです。塚はすでに消滅しているはずで、画像の塚は公園の整備の際に造られた築山であると思われますが、『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』の付図に記された小人見塚の跡地にぴったりと重なる感じで築山が存在したので、塚の面影というイメージで掲載してみました。。。
<参考文献>
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/01/14(土) 13:12:07|
- 府中市/その他の古墳・塚
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府中市若松町1丁目に所在したといわれるのが「関谷塚」です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚で、すでに開発により消滅した、言い伝えにのみ残る塚です。
この周辺は、古くは廣野原と呼ばれる人里離れた場所で、関谷塚は密林の中の御仕置場(刑場)に存在した塚であったようです。この関谷塚には築造の際の言い伝えが残されているようです。承應の頃、この御仕置場を支配していた是政村の関谷戈次郎の息子で佐吉という無頓漢がいましたが、この佐吉は女郎に熱をあげて困窮し、恋敵でもある八王子の絹屋某を殺害して金銭を奪い、その首を切り落として御仕置場へ晒しておいたそうです。これは恐らく、成敗された罪人の首に見せかけるためではないかといわれていますが、やがて罪は発覚し、佐吉は皮肉にも親の戈次郎の手により成敗され、佐吉の首は同じ御仕置場に晒されることとなります。
その後、関谷の家では病人が出たり不幸が重なり、主人の善吉までもが気が狂ってしまいます。これは、殺された八王子の絹屋の祟りではないかということになり、占師を呼んで占ってもらったところ、やはりこれは絹屋の祟りで、両人の霊を鎮魂するために高い塚を築いて祭ると祟りが止むといわれたことにより、高さ約8、9尺といわれる「関谷塚」を築いたところ、物の怪は止み、善吉も回復したといわれています。
この伝説は古くから知られており、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「高さ八、九尺。甲州街道端にあり。これは先年村内の百姓関谷才次郎というもの、明暦年中御仕置の刑になりし地なり。」と書かれています。
訪れた当日は『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』の付図を参考に関谷塚の跡地を目指しました。付図に記されたあたりにこの「是政共同墓地」が存在したので、少なくともこの場所がかつての御仕置場(刑場)であろうと考えましたが、塚の正確な跡地がこの墓地であるかどうかはわかりません。これは訪れた後でわかったことですが、かつての関谷塚には「関谷霊神塔」と刻まれた石碑が立てられていたといわれています。訪れた日に墓地内を見渡したところではこの石碑は見当らなかったように思うのですが、これはあまり自信がありません。隣接する宅地内にも赤い鳥居と祠が祀られていたと記憶しているので、こちらに関谷霊神塔が保存されている可能性もあったかもしれないのですが、これは見逃してしまいました。
開発が進み、宅地化された周辺には少なくとも恐ろしい刑場の記憶は残されていません。また、塚とともに祟りの言い伝えも残されていないようです。。。
<参考文献>
猿渡盛厚『武蔵府中物語』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/01/11(水) 00:24:54|
- 府中市/その他の古墳・塚
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さて、前回は品川区内に所在する、古くから古墳ではないかと考えられていた「天神山」を紹介しましたが、実は府中市内にも古墳かも知れない「天神山」と呼ばれる小丘が存在します。この天神山は、府中市宮町3丁目、大國魂神社東方約500mほどの地点に存在する小丘で、天神社が祀られていることから天神山と呼ばれているようです。画像はこの天神山を北から見たところです。
この場所は、東京競馬場建設のための土砂採掘や周囲の開墾により原形は損なわれているようですが、以前は前方後円の形状をなしていたといわれています。かつてこの地の調査に訪れた鳥居龍蔵氏をしてこの天神山は古墳ではないかと推測していたといわれ、また大國魂神社の公式ホームページでも「一説に国造の墳墓跡ともいわれている。」と記載しています。
画像の、北から南へ東京競馬場方面に向かう道路が天神山を避けて前方後円の形状を示すかのように曲がっているあたりは古墳の存在を思わせるところですが、小丘自体は大きく改変されているようですので、素人目にこれが古墳であるかどうかはなんとも言えないところです。。。

画像は天神山を南から見たところです。こちら側は、土砂採掘により大きく改変されていると思われますので、古墳ではないかとされた当時の原形はよくわかりません。。。

画像は、「天神社」を北西から見たところです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「天神社、除地、二段、小社、本社より東一丁余にあり、祭神少彦名命、例祭毎年二月廿五日」と記載されています。この神社の祭神が菅原道真ではなく「少彦名命(すくなひこなのみこと)」であることから、天神社は「あまつかみのやしろ」と呼ぶのが正しいのだそうです。
もしこの天神社が前方後円墳であれば、天神社は後円部上に祀られているということになりますが、この場合はかなり削平されて改変されているようです。この周辺からは弥生式土器や土師器の破片、板碑などが出土したといわれ、南麓の田地からは胴の直径一尺五寸ほどの大甕棺が発掘されています。また、天神社の東隣の畑の三尺ほど地中には大きな平石が埋まっているという地元の人の伝承があり、これはいかにも古墳の石室の天井石を連想させるところですが、府中市郷土の森博物館でお聞きしたところでは、この天神山の 学術的な調査は行われていないものの、周辺地域で行われた武蔵国府関連遺跡の調査から推測すると、この天神山は古墳ではないのではないか、と考えられているようです。

画像は「六所日吉神社」の境内のようすです。武蔵国総社である大國魂神社の境外末社で、もし天神山が前方後円墳であれば、この場所はくびれ部のあたりか前方部にあたると思われます。
多摩川中流域左岸にはほぼ連続して古墳群が存在しています。天神山の西方には国立市の下谷保古墳群から府中市の御嶽塚古墳群、高倉古墳群が連なって存在しており、また東方には、白糸台古墳群から調布市の飛田給古墳群が存在するのですが、武蔵国府が設置されたとされるこの周辺地域だけは古墳が全く存在せず、古墳空白地帯となっています。そして、首長墓とされる「武蔵府中熊野神社古墳」や「天文台構内古墳」は、小円墳が密集する古墳群とは離れた場所に単独墳として存在しています。もしこの古墳空白地帯に大きな前方後円墳が単独で存在するのであれば、非常に興味深いしロマンがあると考えていたのですが、残念ながら真相はわかりません。。。

画像は、天神山の南西下に府中市により建てられている「天神坂」の石碑です。府中市では、昭和59年度以降に「坂、橋、地名、道、渡し」などの地名等由来碑が設置されており、いたるところでこの由来碑を見かけます。中には古墳や塚についての記述も見られるようです。かつては国府が置かれ、史跡の多い府中市ならではかもしれません。。。

住宅街の道路沿いに残されている「京所(きょうず)」の庚申塔です。京所の地名は、経所(きょうじょ)が転訛したものだといわれており、この周辺に国府の写経所のような施設が存在した名残ではないかといわれています。この道も、「京所道」と呼ばれる古道であったようです。。。

府中駅周辺の街路には小さな博物館が作られており、市内の遺跡から発掘された出土品が展示されています。郷土の森博物館やふるさと府中歴史館等の施設がありながらも、こういった展示スペースがあるあたりは、さすがは国府の街府中市!という感じですね。
画像は府中駅前、くるるの南側外壁に所在する「ぷらっと博物館」です。

画像は、大國魂神社北側、伊勢丹・フォーリスの1階南西側に所在する「まちかど博物館」です。こちらはいつもスペース前が駐輪場となっていて見学し難いのが残念なところです。
展示品は、不定期に年2回程度入れ替えが行われているそうなので、古墳に関する遺物が紹介されることもあるかもしれません。。。
<参考文献>
猿渡盛厚『武蔵府中物語』
大國魂神社『大國魂神社公式ホームページ』
現地説明版
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- 2017/01/09(月) 00:00:36|
- 府中市/その他の古墳・塚
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画像は、東大井3丁目にある「來福寺」を東から見たところです。このお寺の境内からは、発掘調査により埴輪片が検出されており、古墳の存在が想定されています。『東京都遺跡地図』には「梶原氏館跡」として品川区の遺跡番号22番の遺跡として登録されていますが、『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、古墳は登録されていないようです。
來福寺は、平安時代の中期にあたる正暦元年(990)の創建とされています。昨年の9月21日の回の『古墳なう』では、大井1丁目に所在したとされる「納経塚」とその言い伝えについて取り上げましたが、この來福寺は納経塚から掘り出されたとされる二体の地蔵像の一体である「延命地蔵」が本尊で、この地蔵は別名「経読地蔵」とも呼ばれています。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にはこの来福寺について「境内除地四段一畝十八歩、村の東北にあり」と記し、また天満宮(聖天堂)について「門を入て右の方小高き処にあり」と書かれています。そして、『南浦地名考』にはこの天満宮について「境内に天満宮の社あり、故に始は天神山とも云ひしとぞ」とあり、また「現在は歓喜天を祀ってある。この小高きところは円墳のように考えられる」とも書かれています。
画像が、円墳ではないかとされる「聖天堂」を南西から見たところです。山門を入って右手の塚状に小高くなったマウンドの上にあり、歓喜天が祀られています。山門とともに江戸時代の終りごろに建てられたという古いものであるそうです。
この塚が古墳であるという説は南浦地名考以外には特に見つからなかったのですが、実際に見学したところでは、素人目に見てもいかにも古墳を削って造られたような円形のマウンドです。東大井4丁目周辺に存在する品川大井古墳群から南に2~300メートルという近距離にあり、また同じ台地上の縁辺部という立地状況からしても、このマウンドが古墳である可能性は高いように思われます。

聖天堂(墳丘上?)のようすです。このマウンドが古墳であれば、墳丘上部を大きく平らに削平されているようですが、聖天堂は山門とともに江戸時代の終わりごろに建てられたといわれていますので、古墳もこの頃に削平されたのかもしれません。。。

埴輪片などの遺物が残されていないか表面観察を試みましたが、特にそれらしき遺物を見つけることは出来ませんでした。

聖天堂の背後(北東側)に存在するのが、埴輪片が出土したとされる問題の塚状のマウンドです。残念ながらこの場所はフェンスに覆われていて立ち入ることが出来なかったのですが、聖天堂の土台となっているマウンドが円墳で、聖天堂裏のマウンドも円墳であると考えるには、両者の距離は近すぎる(というよりもくっついている)ように思いますし、ひょっとしたら聖天堂建立の際に削られた古墳の残土の山で、そこかに埴輪が紛れ込んでいた、ということも考えられるのかもしれませんが、このあたりの真相はわかりません。

画像は、南から見たマウンドのようすです。こちらから見ると円形を呈する塚のように見えます。石造物が何基か立てられているようなのですが、落ち葉が降り積もって殆ど見えなくなっています。
発掘調査は狭い範囲に限られていたようなので、埋葬施設や周溝などの詳細はわからないようですが、出土した円筒埴輪は6世紀後半の所産と考えられるもので、これは同じ大井古墳群の「大井林町古墳」から出土した埴輪とほぼ同時期のものであるようです。

南西から見たマウンドのようすです。北西側が來福寺の建物に、まだ北東側がマンションにより削られているようなので、形状については何ともいえないところですが、方形を呈するようにも思えます。こちらから見ると、聖天堂の土台の部分が後円部で、この背後のマウンドが前方部という小形の前方後円墳なのではないかという期待も膨らみますが、このあたりは謎のままです。

來福寺境内のようすです。この築山もまた古墳跡ではないかと妄想してしまいますが、古墳とは関係ないようですね。
<参考文献>
磯ケ谷紫江『南浦地名考』
品川区教育委員会『品川の地名』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
品川区立品川歴史館『品川地中探検記』
現地説明板
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- 2017/01/07(土) 04:02:32|
- 品川区/品川大井古墳群
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