
「あきる野市№106遺跡」は、あきる野市引田に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号106番の古墳として登録されています。この古墳は、多摩川の支流である秋川左岸の段丘縁辺部に位置しており、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「目の前が水田で、水田との比高差は約1.5m。」と記されています。
この「あきる野市№106遺跡」は、昭和45年(1970)の宅地造成中に遺物が検出されたことにより行われた緊急調査により確認された古墳です。発掘調査により土師器甕や板碑、宝塔印塔、古銭、腐敗した人骨などが出土しており、平安時代から江戸時代中期にわたって墳墓として再利用されたことがわかっているという古墳です。『多摩のあゆみ』第36号には、この古墳の調査を行った山上茂樹氏のコラムが掲載されており、同書71ページの「山上茂樹翁ききがきノート」には次のように書かれています。
(前略)秋留台地一帯には古墳が各地に散在する。昭和45年に引田で発見されたものもそのひとつ。真照寺南の田のふちにあり、もとは大宮神社の地所だったが、ひさしく宮地となっていた。宅地造成中に「どうも異様なにおいがするから来てくれ」といわれ、私もたち合うことになった。請け負った人たちも考古に興味があったらしく一日中手伝ってくれた。掘ってゆくと、板碑は出る、骨は出るの大騒ぎ。たしかににおいもする。寛永通宝が十数枚も出て、江戸中期以降の新しい墓と判断した。約二メートル下が水田という低湿地なので、水が腐っていたらしかった。ところがさらに掘りおこすと、石積みにあたった。瀬戸岡と同形式の古墳だった。奈良時代の古墳の上に、さらに江戸の墓地が重なった という面白い遺跡だった。(「山上茂樹翁ききがきノート」『多摩のあゆみ』第36号 71ページ)
画像は「あきる野市№106遺跡」跡地周辺を南から見たところです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にあるように、古墳の跡地の南側には現在も水田が広がっており、比高差も約1.5mあまりと地形は古墳の発掘当時とそれほど変わっていないように見えます。

古墳の所在地周辺は宅地化が進んでいます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』でも、墳丘、主体部ともに「消滅」とされているこの古墳を見ることは残念ながらできないようです。

古墳の所在地周辺の民家の敷地内で見かけた石積みです。もしや、古墳の石材として使用された河原石の残骸では?とも考えましたが、真相はわかりません。。。
<参考文献>
山上茂樹「山上茂樹翁ききがきノート」『多摩のあゆみ 第36号』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/14(火) 10:46:10|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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「山田古墳」は、あきる野市山田に所在する古墳で、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号36番の古墳として登録されています。この古墳は、昭和47年(1972)に宅地造成の際に発見された古墳で、当時都立五日市高等学校の生徒と多摩考古学研究会の佐々木蔵之助氏らによって発掘調査が行われています。昭和51年(1976)に発行された『五日市町史』に、この調査の詳しい経緯が記されています。
(前略)この古墳は前方の地所を削って宅地化する際、ブルドーザーにより不用意に破壊され、廃土は即刻道路工事の埋め土にリレー式で捨てられてしまったため、これが古墳であったことの発見は、ずっと後のことであった。古墳は北側最奧の奥壁の部分が辛うじて残り、これが露呈していたために確認されたもので、遺物はなにもなく、調査は残された奥壁の部分と、北側外周に周溝の存在有無を確かめることで終わった。
石室の側壁となる積石は左右とも内側にせり出しの方法がとられ、一〇度前後の傾斜のアーチ型となっている。この積石は二重に組まれ、間隙は小石により補強されている。石室は半地下で、奥壁(鏡石)は巨大な一枚岩、幅一メートル余、高さ一・七メートル、断面は長方形と考えられる人為的な形成がなされたもので、材質は五日市近辺産出の、小仏層中にみられる粘板岩を用いてあった。石室を作るためには幅四メートルの堀下げを行い、中に二重の石垣を含めて幅二メートル、胴張りの内法約一メートル、高さ一・七メートルの石室を構成していて、奥壁の面は西南面より一六度西にふれていた。この地は秋川河岸段丘の縁に近く、礫層の堆積土のため、周溝についてはその存在は不確かで、恐らく水 はけのよい場所なので、設けられなかったのかもしれない。
これらを総合するに、石室の大きさからして、当地方の積石塚古墳のうちでは大きく立派な古墳の一つであったことを想像してよいであろう。(『五日市町史』54~55ページ)
画像が「山田古墳」の所在地周辺のようすです。道路右側の区画のどこかに古墳が存在したものと思われますが、周辺は宅地化が進み、古墳の痕跡を見つけることはできません。思えば、民家の敷地内に残されている可能性は考えられるのでピンポンしてみればよかったかもしれないのですが、この古墳に関してはなぜかあまり深追いをしませんでした。。。
<参考文献>
五日市町編さん委員会『五日市町史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/13(月) 00:06:53|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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画像は、あきる野市館谷みとうがいどにある「八幡神社」を東からみたところです。祭神は応神天皇であるこの八幡神社は、寛文2年(1663)の検地帳に「御除地畑五畝六歩八幡免正光寺持」とあるのみで、起源や由来は不詳とされています。この神社の周辺にはかつて古墳が存在したといわれており、『東京都遺跡地図』には「舘谷古墳群」の名称であきる野市の遺跡番号22番の古墳として登録されています。

『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、この周辺には3基の古墳が存在したとされており、このうちの1基について昭和37年(1962)に行われた発掘調査の詳しい経緯が、昭和51年(1976)に発行された『五日市町史』に記されています。
五日市の古墳に関してはあまり世間に知られていないが、この古墳は八幡神社脇にあったもので、昭和三十七年頃、当時考古学に関心の深かった来住野重康(故人)が、国立音楽大学教授甲野勇氏(故人)に連絡、学習院大学生の手によって発掘調査が行われた。現場は八幡神社前庭境内に隣接、一段下がった雑木林の中で、おびただしい積石を排除すると、南北に構成された積石石槨の一部が「コ」の字型に残っていることがはっきりした。途中大きな石が順序不動に出てきたが、これらは秋川から運ばれてきたもので、付近に存在するものではなく、羨道部分や蓋石に使われたものであろうとされ、ほとんど破壊された遺跡で、出土品は既になかった。指導に立合われた甲野教授や玉川大学の大谷勀氏の 言 では、「中世、八幡神社の創建当時破壊され、これらの大石が、神社の石段などに利用されたのではないか」とのことであった。ただし、この古墳も瀬戸岡古墳に類する、積石塚古墳出会ったことは残された部分で明瞭であった。(『五日市町史』54ページ)
『五日市町史』にある、古墳の所在地とされる「八幡神社前庭境内に隣接、一段下がった雑木林」を当時の空中写真等で確認すると、おそらくは神社境内の南側あたりではないかと考えられます。
画像は、八幡神社の境内南側の一段下がった一帯のようです。すでに周辺地域は開発が進み、住宅地となっています。画像の左側はすぐに崖になっていて、多摩川の支流である秋川が西に向かって流れています。

画像は、先ほどの八幡神社南側の住宅地周辺を段丘下から見上げてみたところです。おそらくはこの台地縁辺部周辺に古墳は存在したのではないかと思われます。

周辺地域で唯一宅地化されていない空地が存在します。八幡神社南側の台地縁辺部にあたり、古墳の所在地として一番怪しい場所なのですが、地中に痕跡が残されている可能性は高そうです。

空地には微妙なマウンドが存在するようです。地膨れ程度の僅かな盛土ですが、発掘調査後に埋め戻された埋葬施設が残されている可能性はないのでしょうか。。。

空地のすぐ横のカフェに、とても思わせぶりな置き物が2体、置かれています。なにか古墳と関係があるのでしょうか。。。

画像が「秋川」です。画像左側の段丘上が舘谷古墳群の所在地となります。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『五日市町史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/12(日) 10:02:49|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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「御堂上古墳群 4号墳」は、あきる野市草花上御堂に所在するとされる古墳です。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号47-4番の古墳として登録されています。
この古墳は、平成4年(1992)に多摩地区所在古墳確認調査団により行われた確認調査、分布調査により把握されています。その後、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの古墳について次のように書かれています。
1-4 (御堂上古墳群)
遺跡地図番号:秋川・五日市(あきる野)47-4
所在地:秋川市草花上御堂
占地状況:平井川左岸の段丘崖下
墳丘:消滅。林の中に石が円形状に残っている。
主体部:内容不明。
備考:古墳か否か不明。
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』50ページ) この4号古墳は、あきる野市立御堂中学校北側の段丘崖下の、御堂中学校側のフェンスと崖の間のわずかな敷地の林の中に所在するものと思われます。画像の崖際のあたりが古墳の所在地であると思われますが、この場所も冬に訪れても藪の中で、円形に残された石がどこに存在するのかさっぱりわかりません。『東京都遺跡地図』には「古墳(円墳) 径9.8m [古]葺石?」と規模についても明記されており、径9.8mといえばかなり大きな痕跡であるはずなのですが、残念ながら痕跡を見ることはできませんでした。この古墳だけ崖下に存在するということには違和感を感じるのですが、古墳は消滅してしまったのでしょうか。
農作業をしていた地元の古老の男性からお聞きしたところでは、この4号古墳の東側、現在のあきる野市立多西小学校の南側から南西側あたりの畑からは、未確認の古墳が発見されたようなこともあったそうですが、こういった古墳のほとんどは埋め戻されていて正確な所在地はわからなくなっているそうです。このお話からすると、東方に所在する「北小宮古墳」から4基の御堂上古墳群まで連続する古墳群が形成されていたのではないかと推測されます。この周辺も宅地化が進んでいるようですが、今後、調査が行われることがあれば、未確認古墳発見の可能性は高そうです。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/11(土) 20:26:08|
- あきる野市/御堂上古墳群
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画像は、「御堂上古墳群(みどううえこふんぐん) 3号古墳」を南から見たところです。あきる野市草花に所在する古墳で、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号47-3番の古墳として登録されています。
昭和58年(1983)に秋川市より発行された『秋川市史』にはこの古墳について「(前略)台地の南には、深さ10メートルの谷をはさんで平井川によって切り取られた様相を示す。独立した台地の一部が残っており、あたかも、その景観はさながら前方後円墳のごとき残形を偲ばせ、平井川面に張り出している。この古墳状の自然地形を利用して、その頂部の雑木林には、円墳状の古墳が所在しており、葺き石と思われる石が所々に露出している。現況での古墳の大きさは、東西約14.8メートル、南北14.5メートル、高さ1.4メートルをはかり、標高は海抜154.3メートルであり、直下の平井川との比高差は約14メートルである。」と書かれています。
その後、平成4年(1992)には多摩地区所在古墳確認調査団により確認調査、分布調査が行われています。平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には次のように書かれています。
遺跡地図番号:秋川・五日市(あきる野)47-3
所在地:秋川市草花2776付近
占地状況:台地(平井川左岸の段丘突端部だが、北側に深さ約10mの谷が存在するために独立丘
の様になっている。)
墳丘:雑木林の中に円墳上の墳丘が残存。径約14m、高さ約1.4m。墳丘上には葺石と思われ
る石が見られる。
主体部:内容不明
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』49~50ページ)
画像は、御堂上古墳群3号古墳を東から見たところです。古墳はちょうど小宮久保会館の北側の丘陵上にあり、素人目に見てもこのマウンドは自然地形ではなく、人工的に造られた盛り土のように感じられます。段丘突端部に存在するため南側から見るとかなり大きな古墳に見えますが、地元の人にお聞きしたところでは、平井川は何度も氾濫していて周辺の崖が崩れたこともあったそうです。古墳を大きく見せるために計算して造られたようにも感じられますが、築造当時はこの段丘がもっと南に張り出していてその台地上に造られていたという可能性もあり得るように思います。
古墳の形状は、『秋川市史』にあるように、南に後円部、北に前方部という前方後円墳のようにも感じられるのですが、この地域の前方後円墳の存在は考え難いところですし、やはり円墳なのでしょうか。表面観察したところでは、確かに葺き石と思われる河原石が見られるのですが、積石塚である可能性も考えられるように思います。
私が最初に訪れたのは真夏でしたが、古墳の周囲は物凄い藪で、しかも蜘蛛の巣だらけでとても近寄る気になりません。画像は冬の終り頃に撮影した画像ですが、冬でもすごい藪で、墳丘全体を把握できるような写真を撮ることが出来なかったのが残念なところです。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/09(木) 23:27:05|
- あきる野市/御堂上古墳群
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前回に続き、今回も「あきる野市内の消滅した塚 」を書き留めておこうという企画です。前回は正確な所在地がわからなくなっている塚を中心に取り上げましたが、今回は、やはり塚は消滅しているもののおおよその跡地は判明している塚を取り上げておこうと思います。
画像は、あきる野市伊奈に所在する「塩地蔵尊」です。この場所は千日堂跡であるといわれ、「堂塚」と呼ばれる塚の跡であるといわれています。

画像が、千日堂跡に残されている念仏供養塔です。享保14年(1729)銘の大型の宝篋印塔型で造られたもので、千日供養という千日間の念仏供養を行って満願を記念して建立されてものであるといわれています。どこかに「堂塚」と刻まれているようなのですが、これは見学に訪れて撮影した後に知ったことで確認をしませんでした。中世の塚ではないかと考えられているようですが、詳細はわかりません。

敷地内には忠魂碑が立てられており、この土台の部分が塚状に盛り上がっています。果たしてこの塚が「堂塚」の痕跡であるのか、それとも無関係の現代の塚であるのか、こちらも詳細はわかりません。。。

画像は、あきる野市引田の「神送り場」と呼ばれる地点です。この場所にもかつて塚が築かれていたといわれています。『秋川市の文化財 八』には、「五日市山田と上引田の境にある三角地に、小石を積み上げて作った塚で、悪病がはやると村内の者はここに集まり、悪病を村外に送り出したのでこの名がある。ここには三角地蔵と呼ばれる地蔵がまつられているが、実は道祖神であるといわれている。」と書かれており、この中で気になるのはやはり「小石を積み上げて作った塚」という記述です。あきる野市内で多く見られる積石塚である可能性はなかったのだろうかと、とても気になる塚ですが、すでに宅地化により塚の痕跡は全く残されていません。現在は「延命地蔵尊」が祀られているようです。

画像は、あきる野市引田に所在する「もみじ塚」を南西から見たところです。平成元年(1989)に行われた発掘調査により、古墳ではなく近世の塚であることがわかっている現存する塚です。かつて引田の神送り場に立てられていたという寒念仏供養碑は、このもみじ塚に移設されています。

あきる野市内には、渕上にも「神送り場」であったといわれる塚の跡地があります。画像の道路右側の三角地がかつての塚の所在地とされています。
秋川市教育委員会より発行された『秋川市地名考』にはこの塚について、「神送り場(カミオクリバ)渕上二五二番地の前。何の塚か不明であるが、ここは塚の跡といわれている。ここでは「塞の神」をやらずに、観音寺にお札やだるまを返すのに、ここへ集めたのであった。またここに榛名講のお札を飾ったという。今桑の大木が枯れて残ってたっている。榛名講は、群馬県榛名神社信仰の講である。榛名神社は農耕の神なので毎年農作祈願に代参した。この代参にあたった者は、雹などが降るといけないというので、鶏卵の食べてはいけないなどといわれたという。」と書かれています。
塚の跡地とされる三角地は現在も残されているようですが、塚の痕跡は残念ながら何も残されていないようです。。。

古墳探訪のために都内各地を訪れる中で、なかなか興味深い史跡に出会うこともあります。古墳とは全く関係がのない史跡ですが、かつては武蔵野台地の各地に見られたといわれるのが「まいまいず井戸」です。すり鉢状に掘った穴の底に井戸を掘るという特殊な構造の井戸で、あきる野市内では渕上の開戸センターの敷地内に残されています。
あきる野市教育委員会により立てられた説明板には次のように書かれていました。
あきる野市指定史跡
渕上の石積井戸
所 在 地 あきる野市渕上三三〇番地
所 有 者 あきる野市
指定年月日 平成四年七月九日
地面をすり鉢状に掘りくぼめ、らせん状の道を設けるなど、堅
井戸の普及する以前の井戸の特徴を良く示しています。
平成四年の発掘調査によって、東西五•五m、南北七•五m、深
さ三•二mの規模であることや、壁全体に石積が施されていること
などがわかりました。また、北と南に階段状の入り口が設けられ、
幅六十cm程の道が左回りで平坦な底まで続いています。底は水を
とおしにくい固い砂?層(五日市砂?層)まで掘り込まれていて、
きれいな地下水が周囲の石積の間から湧き出しています。
構築年代は中世に遡りうる可能性があり、また石積をともなう
点で大変稀少で保存状態も良く、地域における水と生活の歴史を
知る上で貴重です。
(本井戸の脇に設けられている井戸は、昭和二十年代までつるべ
井戸として使用されていたものを復元したものです。)
あきる野市教育委員会
あきる野市油平には、「太刀塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。画像の道路左側あたりが太刀塚の跡地といわれている場所で、宅地化が進んだこの周辺に塚の痕跡は何も残されていないようですが、遺物の出土の伝承が残されているようです。この地は「福徳寺」の旧地ともいわれているようですが、この福徳寺と太刀塚について『秋川市史』には次のように書かれています。
福徳寺 油平二四六番地
山号は延命山という。本尊は十一面観世音菩薩である。
当寺はもと福泉寺と言って、油平20~24番地付近にあった。草創は延文年間(1356~60)といわれているが、開基は不詳である。往昔、寺のあった付近は太刀塚とよばれていて、戦前には高さ2メートル、周囲約10メートルの円い塚があったという。
この塚には1つの伝説がある。延文の頃(14世紀半ばごろ)足利氏の臣某が、この地で戦って敗けて、戦死者や武器などを埋めた跡だといわれている。明治8年(1875)11月に、この付近から矢の根数十本が掘り出されたという。
開山は普門寺7世の徹堂薫禅師である。禅師の入寂は文禄元年(1592)5月9日である。草創を延文年間とすると、禅師の示寂した文禄とは230年近いへだたりがある。おそらく、延文に草創されたものが衰微していたものであろうか。『建長寺史 末寺編』によれば永正2年(1505)に太刀塚の所から、油平の現在地に移したという。(後略)』(『秋川市史』1604ページ)
画像は、あきる野市油平に所在する「福徳寺」の山門を西から見たところです。この福徳寺はかつては福泉寺と称しており、明治44年に牛沼にあった徳重院と合寺したのち、福徳寺と改称したそうです。この山門は徳重院所在のものを昭和5年にされたもので、あきる野市の有形文化財(建築物)として指定されています。

画像は、あきる野市下代継の「ばいせん屋敷跡」とされる周辺を北西から見たところです。この地には石の塚が存在したといわれており、積石塚が多く存在する秋留の市内において気になる存在です。このばいせん屋敷跡について、昭和58年に秋川市教育委員会より発行された『秋川市地名考』には「ばいせん屋敷跡 稲荷神社前は小公園になっている。その前の田んぼの畦道を東南に約百五十メートルほど進んだ付近の田を、「ばいせん」とよんでいる。今は屋敷跡らしいものは、何も残っていない。明治の中ごろまで小屋があって、変わった俳人がひとり住んでいたという。その跡には石の塚も最近まであったが、いまはそれもなくなってしまった。」と書かれています。
ここに小屋を建てて独りで暮らすというのはかなり孤独な事だと思うのですが、変わった俳人とはいったいどんな人だったのでしょうか。
ここから北東に300mほどの地点には、3基の積石塚からなる「牛沼古墳群」が所在します。この場所に残されていたという「石の塚」が古墳だった可能性も十分に感じますが、残念ながら現在は屋敷跡、石の塚ともに何も痕跡は残されていないようです。
あきる野市内に存在したといわれる塚において、実際に現地を訪れてみたのはこれですべてです。いずれも学術的な調査は行われないまま消滅しており、その性格はわからないものばかりですが、中には古代に築造された古墳であった塚も存在したかもしれません。あきる野市の歴史は今後の調査によりさらに解明されて行くものと思われます。その進展を楽しみに待ちたいところです。。。
<参考文献>
秋川市教育委員会社会教育科『秋川市の文化財 八』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』
現地説明版
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- 2017/03/08(水) 23:03:49|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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あきる野市内では秋川と平井川の下流域を中心に多くの遺跡が発掘されており、多くの古墳の存在が確認されています。平井川流域では、日の出町の「道場古墳群」から「瀬戸岡古墳群」、「御堂上古墳群」、「草花古墳群」、「森山古墳群」と、未確認のものも含めてかなり多くの古墳の存在が想定されているようですが、秋川流域では、円墳3基で形成される「舘谷古墳群」、同じく3基で形成される「牛沼古墳群(西龍ヶ崎古墳群?)」のほかは「山田古墳」、引田の「№106遺跡」等わずかに点在する小円墳が確認されているのみであるようです。ただし、あきる野市の郷土史を調べてみると、中には古墳であった可能性も考えられる塚の記録が多く残されているようです。これらの塚のほとんどは残念ながら消滅しており、正確な所在地がわからなくなっているものも少なくないようですが、今回はこの消滅した塚の探訪記録を書き留めておこうと思います。

画像は、あきる野市小川に所在する「林泉寺」を南から見たところです。この林泉寺持の土地に所在したといわれる塚が「八幡塚」です。塚上に八幡様が祀られていたことからこう呼ばれており、かつての地名の由来にもなっていたようです。林泉寺裏の「八幡堀」や「八幡道」などは、現在も残されています。また、この周辺地域では、ここで雹祭りをすると雹が降らないといわれており、また塚をいじると祟りがあるという言い伝えも存在したようなのですが、その後は開発により消滅してしまったようです。
周辺を散策しましたが、残念ながら塚の痕跡は見つかりませんでした。。。

林泉寺周辺には石造物が多く残されているようです。1枚目の画像は、林泉寺横の駐車場の西側に並んでいた石造物ですが、現在は移設されて存在しません。こうした石造物は、なるべく元あった場所に残されて欲しいと思っていますが、都市化が進むと神社や郷土資料館などにまとめて移されてしまうことが多いようで、古いものと新しいものの共存は難しいですね。

同じく、林泉寺周辺の石造物。こちらは今も健在に残されています。

画像は、あきる野市野辺の「八雲神社」です。長禄年間(1457~60)創立と伝わる神社で、御祭神は素盞嗚尊。あきる野市HPの「あきる野市神社一覧」によると、祇園牛頭天王を勧請して村内の新開院が別当となり、明治維新の折、八雲神社と改称されているようです。秋川市教育委員会社会教育科より発行された『秋川市の文化財 八』には、この八雲神社周辺に存在した塚について「谷頭 野辺の神社のうしろをいう。ここに塚があり、崩したらやじりが出てきたという。」と書かれています。
秋川流域左岸に存在したと考えられるこの塚から「やじりが出てきた」という記述からして、古墳であった可能性を想定したくなる塚ですが、塚は残念ながら開発により消滅しており、所在地はわからなくなっています。周辺を散策してみましたが、やはり塚の痕跡を見つけることはできません。。。

近隣で見かけた茅葺屋根の民家です。民家園のような古民家の保存を目的に移築された以外で、街を歩いていて茅葺屋根の古民家を見かけたのはかなり久しぶりで、しかも東京都内ということもあってちょっと感動しました。あきる野市内をぶらぶら歩いていると、かなり多くの、豪農や名主と考えられるお屋敷や古民家、土蔵などを見ることができます。むしろ古墳よりもこちらの方が見応えがあるかもしれません。

「おえい塚」は、あきる野市小川に所在したとされる塚です。画像の左奥あたりがおえい塚の跡地であると思われます。秋川市教育委員会より発刊された『秋川市地名考』にはこの塚について、「おえい塚 前田小学校の東側に三角の田があって、その真中に塚がある。言い伝えによると、「おえい」という女性が、田んぼの水争いにまきこまれ。夜、不意打にあって殺されたという。いつのことか不明であるが、その「おえい」とよばれた女性を葬ったのが、この「おえい塚」だという。」と書かれています。この記述からして、『秋川市地名考』が発行された昭和58年(1983)当時にはまだ塚は残されていたようですが、現在は宅地化が進み、塚の痕跡を見つけることは出来ませんでした。
この伝説が史実であるようならば、塚は古墳ではなく供養塚の類いではないかと考えられますが、どんな性格の塚だったのでしょうか。。。

おえい塚の北側、あきる野市野辺の「前田公園」として保存されているのが「前田耕地遺跡」です。この遺跡は、多摩川支流である秋川と平井川に挟まれた段丘上に位置しており、昭和51年(1976)から同59年(1984)にかけて発掘調査が行われ、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡が検出されています。多摩地域を代表する縄文時代の遺跡であるようです。
画像は、北西130mほどの地点から移築、復元された縄文時代の敷石住居跡で、公園内には縄文時代と弥生時代の住居跡が保存されています。

画像は同じく前田公園内に復元された、弥生時代の竪穴住居跡です。この直下の地中に、同じ形状の住居跡がそのまま残されているようです。古墳巡りをするようになって、こうした史跡公園の存在が気になるようになったのですが、以前であれば興味がなかった、というより気がつかなかったかもしれません。。。

「蟻塚」は、あきる野市野辺に所在したとされる塚です。『秋川市の文化財 八』にはこの蟻塚について、「野辺の秋川沿いのハケ上にあった。昔、ここに行き倒れ人があり、死がいに蟻が一ぱいたかっていたので、村の人が可哀想がり、塚を築いて霊をともらってやった。誰言うとなく、この塚を蟻塚と呼ぶようになったという。」と書かれています。「秋川沿いのハケ上」という立地的に古墳の可能性を感じさせるところなのですが、正確な所在地については全くわからなくなっているようです。画像は、野辺の秋川沿いのハケを南から見たところで、この周辺の段丘上に蟻塚は存在したものと思われますが、痕跡を見ることは出来ません。。。
他に、二宮の東方の多摩川よりには「馬塚」という塚が存在したといわれています。馬の墓場ともいわれたこの馬塚は小石を積み上げた塚であったといわれており、これはあきる野市内に多く見られる積石塚を連想させる塚ですが、所在地については皆目見当がつかず、従って画像も無しというていたらくです。。。
以下、次回の「あきる野市内の消滅した塚 その2」へ続く。。。
<参考文献>
秋川市教育委員会社会教育科『秋川市の文化財 八』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』
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- 2017/03/06(月) 23:53:52|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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「下平井古墳」は、日の出町平井に所在したとされる古墳で、『東京都遺跡地図』には日の出町の遺跡番号19番の古墳として登録されています。平井川右岸の段丘上に位置しており、上流には「道場古墳群」が、また下流域にはあきる野市の「瀬戸岡古墳群」が存在します。
この古墳はすでに削平された、墳丘や埋葬施設の存在しない古墳です。明治時代の開墾の際に、直刀、刀子、鉄鏃等の鉄製品や須恵器蓋、坏が出土しているようですが、古墳は学術的な調査が行われないまま消滅しています。平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「個人宅敷地内に石室の構築材と思われる大きな河原石が数個残っている。他に中小の礫が多数あったといわれているが、現在は残存していない。」とあり、また多摩地域史研究会より発行された『多摩川流域の古墳時代 -国府以前の様相-』には出土品について、「古墳出土と想定される遺物が土地所有者によって保管されており…」と書かれています。
画像の一角が古墳の跡地であると思われるのですが、河原石が残されているという個人宅がどこか特定できず、残念ながら出土したとされる遺物を見ることはできませんでした。。。
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ―国府以前の様相―』
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- 2017/03/04(土) 09:34:14|
- 日の出町の古墳・塚
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「道場古墳群」は日の出町平井に所在する古墳群です。『東京都遺跡地図』には、日の出町の遺跡番号22番の遺跡として「道場遺跡・道場古墳群」の名称で登録されています。秋留台地の北端にあたる、崖端に接する台地縁辺部に位置しており、平成9年(1997)の宅地造成工事に伴う調査により2基の古墳の埋葬施設と部分的に欠落する周溝が確認されています。
画像の右側あたりから検出されたのが1号墳、中央付近から検出されたのが2号墳で、この2基の古墳の周溝は全周していないことから形状は不明であるものの、隅丸方形状であったと想定されているようです。古墳の築造は、出土遺物により7世紀後半と推定されています。
この古墳の発掘当時には石室の移築が考えられていたようなので、どこかに復元されていないか調べてみたのですが、残念ながら実現はしていないようです。また、この古墳群周辺の台地縁辺部には石室の構築材と思われる川原石を畑等にまとめられている箇所が複数存在するということで、周辺をぶらぶらと散策してみたのですが、それらしき遺構を見つけることは出来ず、この周辺地域もかなり宅地化が進んでいるようです。。。
<参考文献>
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ―国府以前の様相―』
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- 2017/03/03(金) 00:18:05|
- 日の出町の古墳・塚
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