FC2ブログ

古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「布田九塚 その2」

「椿稲荷(小山稲荷)」

 前回に続き、今回は『布田九塚 その2』と題して、広範囲に分布したと考えられる布田九塚のうち、下布田古墳群の範囲内に存在したと思われる塚の推定地を探っていきたいと思います。手がかりは、地元の郷土史家である石森直吉氏により書かれたという塚の所在地を記した手書きの地図とわずかな文献のみですが、おおよその位置を推定出来る塚も存在します。

 画像は、調布市布田6丁目41番地付近に所在する「椿稲荷(小山稲荷)」を北東から見たところです。品川道沿いの「椿地蔵前」交差点の南西角にあり、享保二十年(1735)造立の地蔵尊が一体安置されています。敷地内に「シロハナヤブツバキ」という自然状態ではまれに見られる珍しいツバキがあることが「椿地蔵」の名称の由来となっているというお地蔵様です。
 布田九塚の地図には、円形の塚のマークの中にお地蔵様が描かれていますので、かつてはこの地蔵は塚上に祀られていたようです。ただし、この地蔵とツバキは品川道の拡張工事の際に、現位置よりも北に約5メートルの位置から移されているようですので、この場所に古墳が存在したとすれば、現在は品川街道のアスファルトの下(画像右側の横断歩道のあたり?)に埋没しているのかもしれません。


「椿稲荷(小山稲荷)」

 画像は、椿地蔵を正面(北)から見たところです。敷地内がうっすらと盛り上がっているようにも見えるのが気になるところです。。。


「椿稲荷(小山稲荷)」

 画像は、椿地蔵の敷地内のようすです。敷地内に保存されている樹齢約700年と推定されるシロハナヤブツバキは、昭和41年(1966)4月1日に調布市の天然記念物(植物)に指定されています。かつては五幹に分かれ、高さは約5メートル、東西7メートル、南北8メートルにわたって茂っていたようですが、平成2年頃に樹勢が衰え、回復に努めたものの、現在残っているのは、枝分れの一本とひこばえです。平成23年にも樹勢回復作業を行っているようです。


「山口稲荷」

 布田九塚の地図には、品川道の北側に「旧ツカ」の名称で、三角のマークの小塚が描かれています。現在の品川道のあたりからは、近年の発掘調査により「下布田16号墳」が確認されており、小塚は16号墳である可能性も考えられますが、地図で上では品川道から少し離れた位置に塚が描かれていることから、画像の「山口稲荷」のあたりが小塚の推定地ではないかと考えました。
 この塚に関しては位置を特定するための情報がなく、根拠はありません。周辺を歩いてみた感覚で、このあたりかなあという感じです。山口稲荷周辺に塚の痕跡は残されていないようです。


「狐塚(下布田6号墳)」

 画像は「狐塚(下布田6号墳)」を北西から見たところです。この古墳は、『古墳なう』の2015年12月15日の回でも一度取り上げていますが、「布田九塚」において唯一残存する古墳で、発掘調査ののちに「歴史の広場」として整備、公開されています。平成26年(2014)3月14日には、「下布田6号墳(狐塚古墳)及び出土品」が、調布市指定記念物(史跡) として登録されています。


「釈迦塚」

 「釈迦塚」は、この塚が古墳であれば「下布田古墳群」に属する古墳であると思われ、この地域で一番大きな塚であったともいわれています。
 この周辺の古墳については明治時代に井上喜久治氏が報告しており、明治26年発刊の『東京人類学会雑誌 第93号』に掲載されている「玉川沿岸遺跡探検の記」には「(前略)翌十四日案内者を雇ひ再ひ玉川沿岸に至て古墳の二三ヶ處に散在しあるを見る何れも皆土饅頭にして石槨の顯れたるものなし此處は總て調布村の内にして右二三個の内釋迦塚と云云るは大なるものにして先年發掘の際石槨顯れたるも今は舊に復して其形狀を見る能はず(後略)」とあり、なんとこの当時23基もの古墳と考えられる塚が残されていたことが記載されています。また、「狐塚の西方」に所在したとされる釈迦塚は、付近に埴輪の破片が散布しており、面積260平方メートル、高さ3.6メートルの円墳であったされています。この釈迦塚の所在地について、調布市郷土史料保存会より発行された『調布のあゆみ』では「今の布田6–27~28」としています。画像はこの釈迦塚の跡地周辺を南西から見たところです。
 下布田古墳群は、まだ発掘が行われていない空白地帯があり、釈迦塚についても学術的な調査は行われていないために詳細は不明ですが、「埴輪の破片が散布していた」という記述からしてこの釈迦塚が古墳であった可能性はかなり高いのかもしれません。ちなみにこの推定地の西側では、比較的大形の円墳である「下布田17号墳」が確認されています。果たしてこの17号墳が釈迦塚であったのか、未調査の区画から今後釈迦塚が確認されるのか、調査の進展が楽しみな古墳です。


「釈迦塚」

「釈迦塚」

 画像は、調布市布田2丁目の蓮慶寺に安置されている「釈迦如来座像」を南から見たところです。このお釈迦さまは元々は釈迦塚の近くに祀ってあったといわれており、塚の名もそこから付けられたそうです。お釈迦さまは、明治以降から流浪の旅をすることとなり、昭和38年から八雲小学校北裏の荒井茶舗に置かれた後、現在では蓮慶寺に移されて大切に保護されています。


「下布田7号墳」

 布田九塚の手書きの地図には釈迦塚と狐塚の間に小さな塚が描かれていますが、これは発掘調査により確認されている「下布田7号墳」である可能性が高いように思います。明治初年の地租改正の際に作成された『地籍図』には、下布田7号墳ではないかと考えられる不規則に小さな区画が存在しており、地籍図が作成された時点では古墳の墳丘の高まりが残されていたのではないかと想定されている古墳です。戦後の空中写真でもわずかに7号墳の墳丘らしき影を確認することができます。この古墳は、外径22m、内径15.2mの円墳であることがわかっています。


布田九塚2-10

 布田九塚の手書きの地図を参考にすると、狐塚の南東に「サイド」と書かれた塚と、南西に「旧ツカ」と書かれた、それぞれ三角マークの小塚が描かれています。また釈迦塚の南西方向に1基、「ツカ」と書かれた丸いマークの大きな塚が描かれています。狐塚の南西と南東に描かれている2基の小塚は、発掘調査により確認されている「下布田3号墳」と「同5号墳」ではないかと考えるのが妥当ではないでしょうか。この下布田地区一帯は、第二次世界大戦中の高射第一1師団高射砲第112連隊第14中隊の矢ケ崎照空隊陣地が設営された場所であったといわれており、この照空灯は、当時残存していた3号墳と5号墳の墳丘を流用して設置されていたといわれています。そして、昭和初期の空中写真で2基の古墳の墳丘らしき影を確認することができます。
 また、釈迦塚の南西方向の大塚は、調布市郷土博物館分室の西側に現存する塚と考えるのが妥当ではないでしょうか。この塚は、近年行われた発掘調査により性格は判明していないという正体不明の塚ですが、現在もマウンドが残存するこの塚は当然昭和初期にも存在したはずです。ただし、この正体不明の塚は、内径31.8mの円墳である「下布田3号墳」や内径約17mほどの円墳であるとされる「下布田5号墳」と比較するとかなり小さな塚であり、釈迦塚の南西の「ツカ」が丸い大塚のマークで書かれていることからすると、未発掘の地域に狐塚や釈迦塚と同程度の未知なる古墳が存在した可能性も考えられるかもしれません。

 以下、次回の「布田九塚 その3」へ続く…

<参考文献>
井上喜久治「玉川沿岸遺跡探検の記」『東京人類学会雑誌 第93号』
石森直吉『たづくりを巡りて』
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
多摩中央信用金庫『多摩のあゆみ 第52号』
調布市郷土博物館『下布田古墳群の調査』
企画調整部広報課『調布こぼれ話』
調布ブッククラブ『調布の民話集』


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/26(水) 01:53:47|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:2

「布田九塚 その1」

「布田九塚」原図

 調布市の郷土研究家、故石森直吉の手記『たづくりを巡りて』には、この調布市布田周辺の墳丘が削平されて失われた古墳(塚)について書かれています。同書によると、品川道の南側の崖線付近には、狐塚、釈迦塚、飯盛塚、扇台塚、砂利塚といった多くの塚が分布しており、これらは「布田九塚」と呼ばれていたそうです。また、崖下の水田地帯にも、三本松塚・神明塚・不動の森塚といった塚があったといわれています。
 この布田九塚と呼ばれる古墳(もしくはこれに類似する塚)は、ほとんどが太平洋戦争中から戦後にかけて削平されており、痕跡を残すのは、発掘調査の結果古墳であることが確認された「狐塚(下布田6号墳)」1基のみです。ほかに「飯盛塚(上布田3号墳)」と「庚塚(上布田4号墳)」の2基が『東京都遺跡地図』に登録されているものの、これ以外の塚は所在地もわからなくなっているようです。ただし、地元の郷土史家である石森直吉氏により書かれた、塚の所在地を記した手書きの地図が残されており、おおよその塚の位置は知ることが出来ます。(実際には円形マークが大塚、三角マークが小塚で、合わせて18基が記されています。)
 今回はこの地図を頼りに、布田九塚と呼ばれた塚のうちの国領南古墳群の範囲内に存在したと思われる塚の跡地を探ってみました。

「十万石稲荷(小山稲荷)」

 画像は「十万石稲荷(小山稲荷)」を北西から見たところです。
 この近くに十万石大名の蔵があった伝承に由来するといわれる神社で、国領町4丁目12番地付近の三角地に祀られています。果たしてこの場所に古墳が存在したのでしょうか。。。


「十万石稲荷(小山稲荷)」

 画像は、十万石稲荷の境内のようすです。地図を参考にすると、鳥居のマークより西の道路側に円形の塚のマークが記されていますので、画像の手前のあたりが塚の跡地かと考えられますが、周囲は開発による宅地化が進んでいることから境内が狭くなっている可能性もあり、また社殿の位置が変わっている可能性も考えられますので、正確な塚の位置は何ともいえないところです。境内に特に地面が盛り上がっているような場所も見当らず、痕跡は残されていないようです。
 府中崖線からかなり距離のあるこの場所に古墳が存在した可能性は考え難いようにも思いますが、発掘調査は行われていないため詳細は不明です。


「十万石稲荷(小山稲荷)」

 西から見た十万石稲荷です。やっぱり三角地なんだ!という感じですね。。。


「赤稲荷(衢稲荷)」

 続いて、国領町5丁目37番地付近に所在する「赤稲荷(衢稲荷)」です。品川道沿いの「国領町5丁目」交差点の北東角にあり、調布市史編纂委員会より発行された『調布市史 民俗編』には「社と地続きの範囲の上ヶ給の地付の家七、八軒で祀る大人のビシャ講は今もあるが、子供のコモリ行事は三〇年ころまでだった。」と書かれています。
 ちなみに布田九塚の地図には「血又イナリ」と書かれているのが気になるところですが、どんな意味があるのでしょうか。。。


「赤稲荷(衢稲荷)」

 分布図では塚のマークの円形の中に神社の鳥居が描かれていますので、稲荷の祠は塚上に祀られているものと思われます。画像は赤稲荷を南西から見たところですが、確かに稲荷の敷地は周囲よりも若干高くなっており、塚の跡地であることを感じさせます。


「赤稲荷(衢稲荷)」

 赤稲荷境内のようす。祠の位置がわずかに高く盛り上がっているようですが、この地膨れのほかには、古墳跡であるような痕跡は特に見られないようです。赤稲荷も府中崖線縁辺部からは少し距離があるようですので、この場所が古墳であったかどうかは微妙なところですが、近年の発掘調査により、崖線から離れた位置に存在する下布田16号墳が発見されていますので、この赤稲荷が古墳跡である可能性も考えられるかもしれません。


Y字路の間の無名塚

 画像は、調布市国領町6丁目3番地付近を南から見たところです。布田九塚の地図を参考にすると、このY字路の間の三角地周辺に古墳らしき塚が存在したようです。この塚には名称の記載がなく、また周辺に塚らしき痕跡は全く見ることが出来ず、詳細はわかりません。

 ちなみに、このY字路を右に進んだ右手の京王バスの調布営業所の敷地が、発掘調査により「国領南2号墳」が検出された場所です。布田九塚の地図にも、この辺りに三角の小塚のマークが記されており、「稲荷山跡」と書かれています。おそらくこの塚は、国領南2号墳と同一のものではなく、稲荷山はもう少し南側にあったのではないかと思われるのですが、この塚についてはあまり深追いはせず、画像はありません。。。

以下、次回の「布田九塚 その2」へ続く…

<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
調布市史編纂委員会『調布市史 民俗編』
多摩中央信用金庫『多摩のあゆみ 第52号』


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/22(土) 00:15:49|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「十三坊塚」

調布市 十三坊塚

 調布市内には「十三塚」の伝承が残されているようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、上布田宿の項に「十三坊塚 乾ノ方ニアリ」とあり、小島分村の項には「十三坊塚 又十三本塚トモイヘリ街道ノ北裏ニアリ」と書かれています。この上布田宿の乾と小島分の甲州街道の北裏とは同じ場所を指しており、これは現在の調布市調布ヶ丘1丁目の一部から同3丁目の一部にかけてであるようですが、近年の町名改正以前のこの地域が「塚通」という字名であったことから、この地域に「十三坊塚」呼ばれる塚が存在したことが想定されているようです。

 十三塚については、柳田国男氏と堀市郎氏による『十三塚考』に秋田県から鹿児島県に及ぶ223ヶ所が取り上げられており、昭和59年(1984)に発刊された『十三塚―実測調査・考察編―』には333ヶ所の十三塚が取り上げられています。十三塚は、13基の塚が一列に並ぶ列塚をなすものが最も多く、東京都内で唯一現存する稲城市平尾と川崎市白鳥との境に所在する十三塚は1m前後の小さな塚が東西方向に一直線に並び、中央の1基が若干高いという典型的な十三塚の形態となっているようですが、北区や荒川区内に存在したという「十三坊塚」は点在しており、塚ではなく古墳群だったのではないかという説もあるようです。
 この調布の十三坊塚については、早い時期に消滅しており、また塚にまつわる伝承も残されていないことから、どんな性格の塚であったかはわからなくなっています。。。

<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/19(水) 08:20:25|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「郷土博物館分室西側の正体不明の塚」

「郷土博物館分室西側の正体不明の塚」

 画像は、調布市郷土博物館分室の西側、調布市小島町3丁目に所在する正体不明のマウンドです。

 このマウンドは、調布市布田6丁目地域を中心とする「下布田遺跡」の崖線際に所在しており、平成14年(2002)3月に学術調査が行われています。塚は、人為的に版築された構築物であることが判明しています。
 版築土には円礫と縄文時代の石器が混入しており、周辺からはこの塚に伴う周溝は確認されなかったようです。また、塚の頂部の地表直下からは、粉状の骨と寛永通宝6枚が納められた、江戸時代の壺を容器とした蔵骨器が出土しているものの、地表直下から出土していることから、この埋納が塚の築造の本来の目的ではないのではないかと考えられています。現時点では、この塚の築造時期や性格は不明とされています。

 「下布田古墳群」は、多摩川中流域左岸の立川段丘縁辺部に立地していますが、この地域は南東から北西方向にかけて僅かな段差があり、これは古多摩川によって形成されたと考えられています。このうち古墳群は北側の高位段丘面の縁辺部に沿う形で形成されており、低位段丘面には古墳時代後期集落が広がっています。低位段丘面からはこれまで古墳は確認されていないことから、やはりこの塚が古墳であるとは考え難いかもしれません。。。

<参考文献>
調布市遺跡調査会『下布田遺跡 ―第70地点(宅地造成工事)の調査―』
調布市教育委員会『埋蔵文化財年報 ―平成23年度―』


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/16(日) 22:54:04|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「道正塚」

「道正塚」

 画像は、国道20号(別名甲州街道)と東京都道123号境調布線(通称天文台通り)が交差する、調布市上石原1丁目の上石原交差点の北西角に所在する「道正塚」の石碑です。

 実はこの石碑は、自転車でぶらぶらと移動中に偶然見つけました。甲州街道という幹線道路の歩道に1基の「墓」が立っていて花が生けてあるという光景は異様でびっくりしたのですが、よく見てみると、石碑には「道正塚」と刻まれています。古道が交わる辻のところに存在する塚はこれまで数多く見てきましたし、ひょっとしたら古墳が存在した可能性もあるかも知れないと考え、そのまま調布市の中央図書館に直行して調べてみました。しかし、この道正塚について記載されている文献は全く見つかりません。後日ネットで調べてようやく、『東京珍景録』という書籍に道正塚についての記事が書かれていることを知ることが出来ました。
 同書によると、この塚は分倍河原の合戦による戦死者を埋葬した塚であるという伝承が残されているようです。本来の塚はこの場所より北側に存在しており、昭和の初め頃にそこを買い取った人が塚を壊して家を建てたところ、3人の不幸が立て続けに起ったことから塚を壊した祟りではないかと考え、元の場所に塚を再興したそうです。その後、この土地は別の人の手に渡り、さらに現在の運送会社の手に渡った際に、塚を現在の場所に移して手厚く供養した、というのが現在の道正塚の碑であるようです。
 塚が削平されたのは昭和の初め頃であり、学術的な調査が行われた形跡はないようなので塚の性格についての詳細は不明で、出土した遺物等の伝承も残されていないようです。
 この道正塚は古墳とは関係はないようなのですが、味の素スタジアムにほど近い東京の主要道路に、墓石のような碑がポツリと残された光景があまりにも衝撃的だったことから、今回取り上げてみました。


「道生神社」

 道正塚の碑のある上石原交差点の北方、現在の調布飛行場の敷地には、かつて「山王様」という神社と「道生塚」という塚が一緒に祀られていたといわれています。この道生塚は当時かなり知られた存在であったとみられ、周辺の地名の由来ともなっていたようですが、昭和18年の調布飛行場整備に伴う立ち退きにより移転しており、現在は調布市飛田給2丁目の「道生神社(みちおいじんじゃ)」として合祀されています。
 画像は「道生神社」を東から見たところです。現在の道生神社には、塚に関係するような痕跡は見当らないようです。上石原交差点に碑が残る「道正塚」と山王様と一緒に祀られていたという「道生塚」は何か関係があるのか、それとも全く無関係の別々の塚であるのか、残念ながらその詳細はわかりませんでした。。。

<参考文献>
林望『東京珍景録』


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/13(木) 23:56:34|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「行人塚」―調布市指定史跡―

「行人塚」―調布市指定史跡―

 画像は、調布市飛田給1丁目に所在する「行人塚」を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、調布市の遺跡番号62番の塚として登録されており(遺跡範囲のすべてが調布市指定史跡飛田給薬師堂境内行人塚となっている)、昭和49年(1974)には調布市の史跡として指定されています。

 調布市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。

      市史跡
    行  人  塚
         所在 飛田給一丁目二十五番地 薬師堂境内
            甲州街道と大山海道との交差点
         指定 昭和四十九年七月十二日

 この塚は、仙台の人松前意仙の入定塚である。
 伊達藩士にして医師であった意仙は、薬師如来に帰依礼拝の心
があつく、各地の仏閣廻拝の心を遂げようと、諸国遍歴の末ここ
に足をとどめた。その後、意仙は石仏説明のとおり、薬師如来像
をつくり、大願成就後、自ら墓穴を掘り、村人に「鉦のやんだと
きは、わが命のつきたときである」と言い残してその中には入り
端座叩鉦誦結三昧の末、元禄十五年(1702)一月十二日に入定した
という。
 その死後、村人によって塚が築かれて行人塚と呼ばれている。
 意仙の感化は、里人はもとより近隣にもおよび、その慈悲の深
さに人々は敬拝し、碑を建てて信仰に励んだといわれている。郷
土の民間信仰史上三百年の長い間にわたり、今日なお大きな宗教
的感化を残している。
 現在のこの塚は、昭和47年に改修されたもので、この工事の際
に専門家が発掘し、遺骨の存在が確認された。

昭和六十三年三月二十四日         調布市教育委員会


  2月24日に発売され、ベストセラーとなっている村上春樹著『騎士団長殺し』には、祠の裏側の小さな石の塚から鈴の音が聞こえてくるというシーンがあり、この入定塚と想定される塚の石室から鈴が掘り出されます。石室には入定した行者の遺骨は存在せず、騎士団長が世に解き放たれてしまうわけですが、この調布の行人塚は、薬師堂の改修が行われた昭和47年(1972)に発掘調査が行われています。この塚に入定したという松前意仙は自ら墓穴を掘って入り、21日間鉦を叩き続け、鉦の音が途絶えたら埋めて呉れと遺言して入寂したといわれていますが、発掘の際には、座禅を組んだままの姿勢で白骨化した、かなり大柄のたくましい男性の遺骨が発見されたそうです。ただし、不思議なことに、21日間叩き続けたといわれる鉦は出土しなかったそうです。。。

<参考文献>
中西駿郎『調布のあゆみ』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/09(日) 00:47:54|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「仙川一里塚跡」―調布市指定旧跡―

「仙川一里塚跡」―調布市指定旧跡―

 画像は、調布市仙川町3丁目の「仙川一里塚跡」を南西から見たところです。

 この仙川一里塚は、甲州街道と都道114号線が交差する辻の場所にあり、前回紹介した「小島一里塚跡」と同様に、北と南に向かい合って存在したといわれています。北側の塚の跡地とされる、現在のセブンイレブン調布仙川店の角には、調布市教育委員会による「仙川一里塚跡」の石碑が立てられており、次のように書かれています。

市旧跡
 仙川一里塚跡
           所在 調布市仙川町三―二
           指定 昭和四十六年二月十日
 この地は、仙川一里塚の跡である。江戸日本橋を起
点にして、五里(約二〇キロメートル)の距離にあり、
甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。この塚は、徳
川家康が天下を平定してから主要街道に一里塚の制度
ができ、慶長七年(一六〇二)江戸・甲府間に甲州街道
が完成した後に築かれたものである。
 一里塚は、街道を行く旅人が、正確な里程を知る目
じるしとして築かれた。塚は、普通五間(九メートル)
四方、高さ一丈(三メートル)の規模で、エノキが植え
られたが、地方によってはマツやケヤキを植えたとこ
ろもある。エノキの実は甘く、若芽も食べられること
から、旅人にとっては空腹をいやしたり木陰のもとで
疲れをとる場所でもあった。
 この手前の一里塚は上北沢で、次が小島一里塚とな
る。現在、昔のおもかげは全くみられないが、土地の人
は今でもこのあたりを塚とよんでおり、地名に当時の
名残りをとどめている。
 平成六年三月吉日
                調布市教育委員会


「仙川一里塚跡」―調布市指定旧跡―

 前回紹介した「小島一里塚」の石碑を見つけて見学した際、調布市内にもう1箇所、一里塚がある事を思い出して、そのまま仙川まで移動しました。小島一里塚跡は調布駅から、仙川一里塚跡は仙川駅からどちらも数分ほどで、見学しやすい場所にあります。

 余談ですが、甲州街道に交差する都道114号線を北へ500メートルほど行ったところに「控塚」と呼ばれる塚があったといわれています。この塚の場所には「みたかきちじょうじへの道」と刻まれた、宝暦4年4月15日建立の道標が立てられていたようです。元桜金属の工場があったところということで、おそらく現在の調布市仙川町3丁目4番地周辺と思われますが、残念ながらこの道標も塚も失われているようです。。。

<参考文献>
調布史談会『調布市談会誌 第4号』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/07(金) 00:33:29|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「小島一里塚跡」―調布市指定旧跡―

調布市 小島一里塚

 画像は、調布市小島町1丁目の「小島町一里塚跡」を南から見たところです。

 この塚は、かつては甲州街道(現在の旧甲州街道)をはさんだ西側に対をなして存在したといわれ、『武蔵名勝図会』には「この塚より東の次は、布田五ヶ宿の内、小島分と言うところにあり」とあり、『新編武蔵風土記稿』には「街道ノ中程ニ一里塚アリ、是慶長七年五月築ク所ナリ」と書かれています。塚はすでに削平されて失われていますが、昭和42年(1967)頃までは直径約3尺位、高さ8〜9間もある榎の大木が残されていたそうです。現在はこの榎も失われ、
 調布市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。

市旧跡
 小島一里塚
          調布市小島町一―十七
       指定 昭和四十六年二月十日
 ここは江戸時代の初めごろ、甲州街道に築
かれた一里塚のあったところである。江戸日
本橋を起点として、およそ六里(二四キロメ
ートル)の距離にある。
 一里塚は街道の一里ごとに、その目じるし
として道の両側に築かれたものである。たい
ていは塚の上にエノキが植えられ、遠くから
でも望見できるようにして旅行者の便がはか
られた。
 ここにも樹齢二〇〇年余と推定されるエノ
キの大樹があって、その昔がしのばれたが、
危険防止のため昭和四〇年頃に伐られた。
            調布市教育委員会


調布市 小島一里塚

 この周辺をバスで移動中に、窓の外に「塚」の文字が刻まれた石碑が視界に入ったので、あわてて降りて見に行ったら一里塚の跡だった、というオチなのですが、古墳病は悪化する一方です。。。

<参考文献>
調布史談会『調布市談会誌 第4号』
猿渡盛厚『武蔵府中物語』
現地説明版


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/05(水) 23:29:06|
  2. 調布市/その他の古墳・塚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「国領南2号墳」

「国領南2号墳」

 画像は、調布市国領6丁目の「国領南2号墳」所在地周辺を南西から見たところです。

 この古墳は、平成8年(1996)に行われた京王バス車庫建設に伴う発掘調査により確認されています。調査当時すでに墳丘は存在せず、また主体部も検出されなかったようですので詳細はわからないようですが、周溝はほぼ全周にわたって検出しており、外径約12.5m、内径約9.5mの円墳であることがわかっています。
 この古墳が属している「国領南遺跡」は、西側に隣接する「下布田遺跡」と比べると大規模な調査は少ないようです。京王バス車庫の東側、西側ともには畑地が多く残されているようですし、今後の調査の進展次第では未確認の古墳が発見される可能性は高いかもしれません。。。

<参考文献>
調布市教育委員会『埋蔵文化財年報 ―平成20年度(2008)―』


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/03(月) 01:13:10|
  2. 調布市/国領南古墳群
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「国領南1号墳」

「国領南1号墳」

 調布市内の古墳は、多摩川中流域左岸の立川段丘縁辺部に古墳群を形成して分布しています。古墳群は東から(多摩川下流から)「国領南古墳群」、「下布田古墳群」、「上布田古墳群」、「下石原古墳群」、「飛田給古墳群」が存在します。残念ながら墳丘が残存する古墳はごく僅かで、発掘調査により周溝等の遺構が検出されたことにより存在が確認された古墳が大半を占めているようです。

 画像は、調布市国領6丁目の「国領南1号墳」の所在地周辺を南東から見たところです。この古墳は、平成5年(1993)に調布市遺跡調査会により行われた発掘調査で周溝が検出されたことにより、存在が確認されています。『東京都遺跡地図』には、調布市の遺跡番号55番の古墳として登録されています。この幼稚園の敷地内が古墳の所在地となるようですが、入り口に蔵が残されているというなかなか印象的な幼稚園です。
 墳丘や埋葬施設は消滅しているため詳細はわからないようですが、検出された周溝から外径約20mの円墳であることがわかっています。この古墳の周辺からは5世紀前半頃の方形周溝墓が検出されており、また東側の上ヶ給遺跡内からも方形周溝墓が検出されています。国領南古墳群内では、同じ地域に築造時期が近接する古墳と方形周溝墓が存在していたことがわかっています。


「国領南1号墳」

 怪しい地形を見つけて河原石が散在していると立ち止まって見入ってしまうわけですが、いつか通報されてしまうかもしれません。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


人気ブログランキングへ

  1. 2017/04/02(日) 00:36:37|
  2. 調布市/国領南古墳群
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

カテゴリ

足立区/伊興古墳群 (4)
足立区/その他の古墳・塚 (9)
葛飾区/立石古墳群 (3)
葛飾区/その他の古墳・塚 (10)
江戸川区の古墳・塚 (0)
板橋区/志村古墳群 (10)
板橋区/その他の古墳・塚 (36)
北区/赤羽台古墳群 (2)
北区/十条台古墳群 (2)
北区/飛鳥山古墳群 (8)
北区/田端西台通古墳群 (1)
北区/その他の古墳・塚 (14)
荒川区/尾久 微高地 (4)
荒川区/町屋-三河島 微高地 (19)
荒川区/南千住 微高地 (3)
荒川区/日暮里 台地上 (2)
台東区/上野台古墳群 (5)
台東区/その他の古墳・塚 (7)
墨田区の古墳・塚 (4)
練馬区の古墳・塚 (16)
豊島区の古墳・塚 (3)
文京区の古墳・塚 (8)
杉並区の古墳・塚 (18)
中野区の古墳・塚 (17)
新宿区の古墳・塚 (19)
千代田区の古墳・塚 (7)
目黒区の古墳・塚 (9)
渋谷区の古墳・塚 (19)
港区の古墳・塚 (8)
品川区/品川大井古墳群 (7)
品川区/その他の塚 (15)
大田区/田園調布古墳群 (34)
大田区/鵜の木・久が原古墳群 (8)
大田区/その他の古墳・塚 (52)
世田谷区/野毛古墳群 (24)
世田谷区/殿山古墳群 (9)
世田谷区/大蔵古墳群 (0)
世田谷区/砧中学校古墳群 (2)
世田谷区/喜多見古墳群 (13)
世田谷区/砧古墳群その他 (8)
世田谷区/その他の古墳・塚 (18)
武蔵野市の古墳・塚 (3)
三鷹市の古墳・塚 (7)
狛江市/狛江古墳群(和泉) (34)
狛江市/狛江古墳群(岩戸) (13)
狛江市/狛江古墳群(猪方) (29)
狛江市/その他の古墳・塚 (1)
調布市/国領南古墳群 (2)
調布市/下布田古墳群 (16)
調布市/上布田古墳群 (7)
調布市/下石原古墳群 (2)
調布市/飛田給古墳群 (17)
調布市/その他の古墳・塚 (13)
府中市/武蔵府中熊野神社古墳 (2)
府中市/白糸台古墳群 (14)
府中市/高倉古墳群 (32)
府中市/御嶽塚古墳群 (19)
府中市/その他の古墳・塚 (15)
国立市/下谷保古墳群 (12)
国立市/青柳古墳群 (3)
国立市/その他の古墳・塚 (9)
立川市の古墳・塚 (14)
稲城市の古墳・塚 (12)
多摩市/和田古墳群 (15)
多摩市/その他の古墳・塚 (8)
日野市/平山古墳群 (7)
日野市/西平山古墳群 (5)
日野市/七ッ塚古墳群 (9)
日野市/万蔵院台古墳群 (4)
日野市/その他の古墳・塚 (12)
町田市/能ケ谷香山古墳群 (0)
町田市/その他の古墳・塚 (21)
八王子市の古墳・塚 (33)
昭島市の古墳・塚 (12)
あきる野市/森山古墳群 (3)
あきる野市/草花古墳群 (14)
あきる野市/御堂上古墳群 (4)
あきる野市/瀬戸岡古墳群 (7)
あきる野市/牛沼古墳群 (3)
あきる野市/その他の古墳・塚 (16)
日の出町の古墳・塚 (2)
青梅市の古墳・塚 (16)
西東京市•東久留米市の塚 (5)
小金井市•国分寺市の塚 (4)
東村山市•東大和市の塚 (9)
武蔵村山市•瑞穂町の塚 (17)
川崎市の古墳・塚 (47)
横浜市の古墳・塚 (0)
相模原市の古墳・塚 (7)
栃木県の古墳 (13)
那須町•大田原市•那珂川町 (8)
壬生町•上三川町 (5)
長野県の古墳 (6)
群馬県の古墳 (8)
茨城県の古墳 (5)
埼玉県の古墳 (2)
千葉県の古墳 (1)
未分類 (9)

最新記事

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR