
画像は、大田区田園調布5丁目に所在する「秋葉のクロマツ」を東から見たところです。東京都の天然記念物として指定されている巨木で、松の根本には秋葉神社の石祠が祀られており、東京都教育委員会による説明板も設置されています。そして、このクロマツに隣接するあたりに存在したとされているのが「西岡29号墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号18番の古墳として登録されています。
西岡29号墳は、西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第二十九號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部字新居里
新地名 東京市大森區田園調布四丁目一二二、松野喜内氏邸内
(型式)圓型墳
(現況其の他)道路開墾の爲其の周圍を切り取られ、上圓下方型を呈するが、内部は發掘されてゐない。高さ約三・五米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』316ページ) 『都心部の遺跡』にはこの古墳の正確な所在地の記載があり、西岡第29号古墳が存在したのは、秋葉のクロマツの北側に隣接する個人の邸宅周辺であるようです。この邸宅の庭のあたりは周囲より高くなっており、この場所が古墳の痕跡なのではないかと推測しましたが、残念ながら学術的な調査が行われた形跡はなく、詳細はわかりません。西岡秀雄氏による「上圓下方型を呈する」という記述は大変気になるところですが、『都心部の遺跡』には径約24メートルの円墳であるとしているようです。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/05/17(水) 00:01:21|
- 大田区/田園調布古墳群
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大田区田園調布5丁目に所在したとされるのが「西岡28号墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号17番の古墳として登録されています。
この古墳は、後に大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第二十八號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
新地名 東京市大森區田園調布四丁目一二五、池田氏邸内
(型式)圓型墳
(採集者氏名及び出土品等)石川氏 六鈴鏡・直刀・鉄蔟・馬轡等 大正十五年
(現況其の他)道路開墾工事の爲切り崩され、現在は全く原形を留めない。高さ約四•五米。堀梅天氏出土品所蔵。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』315~316ページ) 画像の道路の周辺に古墳が存在したのではないかと思われますが、戦前の宅地開発により消滅しており、古墳の痕跡を見つけることは出来ませんでした。おそらくは、道路の建設のために台地ごと切り崩されており、周溝も含めて痕跡は残されていないのかもしれません。

多摩川流域で最古とされるこの古墳の横穴式石室からは多くの副葬品が出土しており、この古墳から出土した六鈴鏡や世田谷区の「御岳山古墳」から出土した七鈴鏡は周りに鈴の付いた特徴のある鏡で、この鏡の出土例が群馬県を中心とした北関東に多くみられることから、ここが製作地ではないかと考えられているようです。
それにしてもこの周辺は坂道が多く、この日もテレビの企画で坂道巡りをする団体と出会いました。坂道マニアにはたまらない地域かもしれませんが、古墳マニア(笑)にとっては、地形を把握してから歩かないと登ったり降りたりとかなり苦労をすることになります。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区立郷土博物館『大昔の大田区』
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- 2017/05/16(火) 00:23:59|
- 大田区/田園調布古墳群
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画像は、田園調布5丁目にある「馬坂」を南西から見たところです。この坂は大正の頃までは馬をひく荷車で台地上へ上る唯一の坂道であったといわれており、かつては荷車が通れる程度の狭い道であったといわれています。この坂道を登り切った右側あたりに所在したとされる古墳が「西岡27号墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号16番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳は、西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第二十七號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
新地名 東京市大森區田園調布四丁目一二五、池田氏邸内
(型式)圓型墳
(現況其の他)依然其の痕跡があつたが現在は邸宅地となり全く原形を留めない。詳細不明。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』315ページ)
その後、昭和58年(1983年)には東京都心部遺跡分布調査団により分布調査が行われています。この調査結果が掲載されている『都心部の遺跡』には第27号古墳の正確な所在地の住所の記載があり、分布図にはその位置が記されています。画像はその、第27号古墳の跡地周辺のようすです。現在更地となっているこの場所か、隣接する民家のあたりが古墳の跡地であると思われますが、残念ながら古墳の痕跡は見ることが出来ません。これから発掘調査が行われるのでしょうか。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/05/15(月) 08:41:45|
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大田区田園調布4丁目に所在したとされるのが「西岡第26号古墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号15番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳は、西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第二十六號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部字花野
新地名 東京市大森區田園調布四丁目一二九、鹿内健一氏邸内
(型式)圓型墳
(現況其の他)道路開墾工事の爲切り崩され、現在は全く原形を留めず、埴輪圓筒破片を採集したが詳細不明。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』315ページ) その後、昭和58年(1983年)には東京都心部遺跡分布調査団により分布調査が行われており、この調査結果が掲載されている『都心部の遺跡』には、「一部遺存、円墳」とあり、「××邸内南側の庭に残る高まりが、当古墳の残存部であると推定される。」と書かれています。
画像の道路の右側あたりが古墳の跡地であると思われるのですが、古墳の残存部分らしき庭が存在するのかどうかは確認できず、残念ながらすでに消滅してしまっているのかもしれません。円筒埴輪が採集されているということで古墳が存在したことは間違いないようですので、今後の調査次第では古墳の痕跡が検出される可能性もあるのかもしれません。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/05/14(日) 01:00:26|
- 大田区/田園調布古墳群
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画像は、田園調布五丁目にある「急坂」を南西から見たところです。大正末期に行われた耕地整理によりできた坂道で、戦後になって自然発生的にこの名で呼ばれ始めたそうですが、その名の通りかなり急な坂道で「五丁目の急坂」とも呼ばれて地元の人に親しまれているそうです。(運動不足の私にはとても坂道を親しむ気持ちにはなれませんが…)
この坂道を登り切った正面のあたりに所在したとされているのが「一本松古墳(西岡第25号古墳)」です。すでに宅地化により古墳は消滅しているようですが、『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号14番の古墳(円墳?)として登録されています。この古墳は、後に大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されており、この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第二十五號古墳(俗稱)一本松古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
新地名 東京市大森區田園調布四丁目一四
(型式)圓型墳
(現況其の他)高橋正人・高橋哲太郎・大沼帝帯刀の諸氏が一部發掘され土器片を得られたが、詳細未だ不明で、現在は封土の周圍大部分崩壊してゐる。高さ約四•五米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』315ページ)
同書によるとこの古墳は一部発掘されているようですが、埋葬施設や埴輪等の記録はなく、出土品は土器片のみであるようです。平成12年(2000)に発行された『郷土誌 田園調布』にも、この一本松古墳の当時を知る地元の人の「骨は出なかったが土器が出土した」というコメントが掲載されています。
昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』には、「古くから住んでいる人の話によると30年前にすでに塚状の高まりはなかったとのこと。墳形はひさご形だったそうである。前方後円墳であった可能性も推定される。」との記述を見ることが出来ます。ただし、「西岡第19号古墳」と同様にこの古墳は古地図に塚の位置が記されていますが、この地図には円形の塚が記されています。場所に古墳らしき塚が存在したことは間違いないようですが、古墳が消滅してしまった今、墳形まで推定することは難しいようです。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
社団法人 田園調布会『郷土誌 田園調布』
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- 2017/05/13(土) 01:20:26|
- 大田区/田園調布古墳群
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画像は、大田区田園調布5丁目に所在する「八幡神社」を南西から見たところです。この神社の敷地内には「八幡神社境内古墳」という名称の古墳が存在します。『東京都遺跡地図』には、大田区の遺跡番号159番の古墳として登録されています。
この古墳は、昭和57年度から59年度にかけて行われた東京都心部遺跡分布調査において把握されています。昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』にはこの古墳について、「八幡神社境内に墳丘の一部が残り、石室の石材と推定されるものも認められる。今回の調査で存在を確認。」と記載されています。

画像が、八幡神社境内と社殿のようすです。『都心部の遺跡』の分布図(第6図)を参考にすると、社殿の左奥(北側)あたりが古墳の所在地ではないかと思われます。果たして「石室の石材と推定されるもの」は残されているのでしょうか。

社殿北側のようすです。うっすらと塚状に盛り上がっているようにも見えますが、自然地形にも見えますし、古墳の残存部分であるのかよくわかりません。「石室の石材と推定されるもの」も見ることは出来ないようです。

この木の根にあたる場所が盛り上がっているようですが、古墳跡なのでしょうか?まさか?。。。

社殿の東側のようすです。石段が設けられており、おそらくは、かつてこの奥に境内社が祀られていたものと思われますが、現在は移されたと思われ、何も祀られていないようです。かつて古墳や塚の墳丘上に祠が祀られた事例は数多く存在していますし、この場所の表面観察を試みてみたところ…

なんと!わずかながら凝灰岩らしき石が露出しています。
果たしてこの場所が、東京都心部遺跡分布調査において把握されたという「八幡神社境内に残る墳丘の一部が」であり、この石が「石室の石材と推定されるもの」であるのかどうか確信には至りませんが、古墳である可能性は十分に考えられる場所ではないでしょうか。
実はこの八幡神社境内古墳は以前にも一度掲載したのですが、どうしても腑に落ちなくてもう一度訪れてみました。最初の訪問のときにはこの露出した石材らしき場所は見落としていたのですね。。。
神聖な場所ですからすぐに発掘調査が行われる可能性は考え難いところですが、今後の調査の進展が楽しみな場所です。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
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- 2017/05/11(木) 10:48:26|
- 大田区/田園調布古墳群
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「西岡第23号古墳」と「西岡第24号古墳」は、大田区田園調布5丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、西岡第23号古墳が大田区の遺跡番号12番に、西岡第24号古墳が13番の古墳(円墳)として登録されています。
この2基の古墳は、西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第二十三號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
新地名 東京市大森區田園調布四丁目八三東光院所有地
(型式)圓型墳
(現況其の他)雑木林中にある。未發掘。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』313ページ)
第二十四號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
新地名 東京市大森區田園調布四丁目八三東光院所有地
(型式)圓型墳
(現況其の他)道路開墾工事により切り崩され、現在は全く原形を留めない。高橋正人氏が直刀・鉄蔟・銅釧・人骨等を採集されたが詳細不明。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』315ページ) 画像の道路の右側あたりに2基の古墳が存在したものと思われますが、現在は開発が進み、古墳の痕跡を見ることは出来ません。最初にこの田園調布古墳群を散策した頃には、この周辺にはまた空地(民家の庭?)が残されていた記憶があり、もう少しよく観察して写真を撮っておけば良かったと思うのですが、近年の区画整理で新たに宅地化が行われ、古墳の面影はまったく残されていないようです。
「西岡○○号墳」という名称は、なんと当時中学生だった西岡秀雄氏が世田谷方面から順に番号を付けたもので、後に大学生になってから『人類学雑誌』に発表されたものなのだそうです。当時は、この周辺のあちこちに古墳らしきマウンドがあり、そこをT字型の鉄の棒でつつくと粘土に当たったり、石棺に当たったりすることから、1基ずつ地道に確認していったそうです。西岡氏は、後に大田区立郷土博物館の館長を努めるわけですが、こうして少年時代から功績を残されていることにはびっくりしますね。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2017/05/10(水) 00:54:15|
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「西岡第22号古墳」は、大田区田園調布5丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号11番の古墳(円墳)として登録されています。多摩川左岸の台地縁辺部に位置するこの古墳は、高さ4.5mほどの円墳で、道路工事により墳丘の約半分が削平された際、昭和6年~7年にかけて、西岡秀雄、松野正徳両氏により発掘調査が行われています。「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第二十二號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
新地名 東京市大森區田園調布四丁目八三東光院所有地
(型式)圓型墳
(採集者氏名及び出土品等)西岡秀雄 松野正徳 小島組土工等・・・・鉄蔟・短刀・直刀・耳環・雲珠・土器片等 昭和六年より同七年にかけて
(現況其の他)封土の約半分は道路開墾工事により切り崩され、石室内部は殆ど採掘されてゐる。高さ約四•五米。(『考古学雑誌 第26巻 第5号』314~315ページ) 田園調布古墳群を形成する多くの古墳はすでに削平されて消滅しており、正確な位置がわからなくなっているものも少なくないようです。この西岡第22号古墳の周辺も、西岡秀雄氏による分布調査が行なわれた後に宅地造成が行われているため地形が変わっており、古墳の正確な位置はわかりません。『都心部の遺跡』や『東京都遺跡地図』の古墳分布図、『大田区古墳ガイドブック』付属の古墳散策マップ等を参考にすると、画像の右側あたりが古墳の跡地となるようです。
『都心部の遺跡』に記載の住所をたどると、古墳の所在地は「田園調布5-30-16」とあり、この場所は田園調布八幡神社境内となっています。同書には別に、田園調布5-30の神社内の未命名の古墳が記載されており、その後発行された『東京都遺跡地図』にも、遺跡番号11番の「田園調布5丁目」の「西岡22号墳」、遺跡番号159番の「田園調布五丁目八幡神社裏」の「八幡神社境内古墳」が別々の古墳として登録されていますので、『都心部の遺跡』に記載された住所が間違いだったのではないかと思われますが、『都心部の遺跡』を頼りに古墳探訪をする場合は注意が必要ですね。

西岡第22号古墳の埋葬施設は横穴式石室で、玄室の長さは3.35m、幅1.87mで、床面には玉石が敷かれており、その上に多くの副葬品が置かれていました。古墳は6世紀末から7世紀前半の築造と推定されています。

大田区田園調布の多摩川台公園内に所在する古墳展示室には、この古墳から出土した刀子、鉄鏃、雲珠が展示されています。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/05/09(火) 02:39:39|
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「西岡第20号古墳」と「西岡第21号古墳」は、大田区田園調布5丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、西岡第20号古墳が大田区の遺跡番号9番に、西岡第21号古墳が10番の古墳(円墳)として登録されています。
この2基の古墳は、後に大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。
第二十號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
新地名 東京市大森區田園調布四丁目八四東光院所有地
(型式)圓型墳
(現況其の他)雑木林中にある。未發掘。
第二十一號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
新地名 東京市大森區田園調布四丁目八二東光院所有地
(型式)圓型墳
(現況其の他)雑木林中にあり、一部は畑地となり崩壊せられ、又採掘された痕跡があるが其の詳細不明。高さ三•五米。(『考古学雑誌 第26巻 第5号』313~314ページ) 画像の左奥あたりに古墳が存在したものと思われますが、2基ともに完全に消滅しており、残念ながら古墳の痕跡は全く見られないようです。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
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- 2017/05/08(月) 02:09:08|
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「西岡第19号古墳」は、大田区田園調布5丁目に所在したといわれる古墳です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号8番の古墳として登録されています。
この周辺は、世田谷区尾山台から野毛にかけての古墳群が「野毛古墳群」、大田区田園調布一帯の古墳群が「田園調布古墳群」と呼ばれ、合わせて「荏原(台)古墳群」と総称されています。西岡第19号古墳は田園調布古墳群の最北西に位置しており、舌状台地の突端に築造されています。以前はこの古墳は円墳であると考えられてきましたが、昭和57年度から59年度にかけて行われた東京都心部遺跡分布調査における昭和初期の地形図の再検討により、昭和7年の「玉川村全図」に前方後円墳の形状が確認され、現在では全長約60mの前方後円墳ではないかと考えられています。学術的な調査が行われていないため詳細のわからない古墳ですが、直刀の出土が伝えられているようです。
『都心部の遺跡』にはこの古墳について「文献67(「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』)では円墳で高さ2m、土木工事により消滅とされているが前方後円墳の可能性が高い。現在、人家が4軒墳丘上にあり古墳と気づきにくい。墳丘は上部が削平されているが下部が残る。」と書かれています。
画像は、西岡第19号古墳の所在地の南西部を南東から見たところです。写真ではわかり難いのですが、奥の方はさらに一段高くなっていて、確かに墳丘の基底部が残されているように感じます。この場所は以前は宅地となっていたようですが、訪れたときは建物はなく更地になっていました。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=232615&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)10月30日に米軍により撮影された西岡19号墳跡地のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に前方後円墳らしき形状が見られ、ひょっとして古墳の周溝ではないかとも考えられる、弧を描く円形の影を見ることが出来ます。この画像から察すると、北東に後円部、南西に前方部という前方後円墳ではないかと推測できます。従って、1枚目の画像は前方部を南東から見たという状況になると思われます。あくまで素人考えですので真相はわかりませんが、今後の調査の進展が楽しみな古墳ではないでしょうか。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区大田西地域行政センターまちなみ整備課『大田区古墳ガイドブック―多摩川に流れる古代のロマン』
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- 2017/05/07(日) 00:08:47|
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