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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「加藤塚」

「加藤塚」

 画像は、瑞穂町大字箱根ケ崎にある「加藤神社」を南から見たところです。この神社の境内には、『東京都遺跡地図』には未登録であるものの、瑞穂町の史跡として指定されている「加藤塚」が所在します。多くの伝説が残されている塚ですが、古墳を流用したものではないかとも考えられていたようです。

 この神社と塚については、古くは江戸時代の地誌類に多くの記述が見るられ、『武蔵名勝図会』には「加藤景忠の墳 箱根ヶ崎村。日光街道より一町程西の方田圃の中に塚あり。円径六間許。高さ五尺なり。」と書かれています。説明板にある「直径11メートル、高さ1.5メートル」という塚の規模は、恐らくはこの武蔵名勝図会の記述を参考にしているのかと思われます。また、『新編武蔵風土記稿』には「民家より南二十間許をはなれ、田圃の間芝地六間に五間許の所なり、そこに五輪の毀れたる三基あり、これ加藤丹及び妻子の碑なりといへども、文字は剥落したれば讀がたし、また塚上に獨窓院明天清月居士、梅林院清香妙通大姉と云を正面にえり、左に天正三年乙亥十二 月十二日、兩體同加藤氏法號とえり、右に施主師井四郎右衛門とえりたる長三尺、幅九尺許の碑あり、また塚の下右の傍に、正面には安宗徹心居士の塔、左は于時天正十壬午四月十二日、於此所義死、右には加藤丹後守家臣、俗名溝口彦右衛門尉行輝とえりたる、高さ三尺余、幅六寸許の碑あり、この外塚上に加藤父母三名の法號えりたる碑もあり、」と、この当時、五輪塔が3基と石碑が3基存在したようすが書かれています。


「加藤塚」

 画像が、南から見た現在の加藤塚です。昭和9年(1934)に多摩史談会により行われた第六回見学会の『狭山・箱根ケ崎村方面の記』にはこの塚についての記述が見られ、「そこで一行は其の丹後守一家の墳墓の地へ弔いに出かけた。墳墓は径六間高五尺位の円墳上にあり、大なる欅がある。欅の樹齢も正に天正頃のものであろう。五輪の塔が三基ある。その五輪も正に天正頃のものである。が一基だけ立って居って、二基は散乱して居る。(後略)」と書かれています。
 おそらく戦前頃までは原型が保たれた状態で残されていたものと思われますが、昭和18年(1943)の行幸道路の建設の際に境内が道路により分断され一部が破壊。その後、戦後の横田基地の滑走路延長の際に、航空機の離着陸に障害が出る恐れがあることから塚上の大樹が伐採され、この際に塚の破壊が大きく進んだものの、この時点では塚の範囲は確保されていたようです。そして、昭和50年代に行幸道路から国道16号線となった際の拡張工事において塚の半分ほどが削平されて消滅したようです。そして、平成23年(2011)、東京都による道路整備事業に伴う発掘調査が行われ、その後の都道拡張工事により塚は消滅。移設された加藤神社の北側に築山が復元され、遺された墓石が安置されて塚が復元されています。
 周溝等が確認されなかった状況や、封土中から出土した遺物から、この加藤塚は古墳ではなかったと考えられ、また調査時にすでに塚の中心部分が破壊されて消滅していたことから、この塚が墳墓であるという確証は得られなかったようですが、人工的に築造された塚であることは間違い無いようです。


「加藤塚」

 現在の加藤塚前には瑞穂町教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

 町旧跡 加藤塚跡地
 所在 東京都西多摩郡瑞穂町大字箱根ケ崎三一五番地
 指定 平成二十五年』二月二十八日

 武田氏の滅亡後、その家臣であった加藤丹後守景忠は妻
子及び数名の家来をつれて当地まで逃れてきた。多磨郡を
越えて入間郡に入る事ができずこの地で果てた。天正十年
(一五八二)四月十一日のことである。
 村民はその死をあわれみ、直径十一メートル、高さ一、
五メートルの塚を築き葬った。二基の五輪塔はその当時の
ものと思われる。
 寛政年間(一七九〇年代)に至り、加藤氏の後裔といわ
れる上野原の加藤最次郎が石塔を建てたり、練馬区の子孫
が円福寺に馬上丹後守像等を納めたのをきっかけに、村民
の間にも信仰の念が深まり、加藤八幡宮が建立された。
 塚の上には、周囲約八メートルの大欅をはじめ、杉・桜・
くぬぎ等の大木が茂っていたが戦後航空障害と都道百六十
六(旧国道十六)号線の開通のため伐採された。そして、
この度、都道拡張に伴い、塚を現在の地に移し、社も新築
した。それに伴って、町史跡だった加藤塚を町旧跡と改め
た。
 平成二十六年三月三十一日建立
                  瑞穂町教育委員会


「加藤塚」

 加藤塚の北東数十メートルのあたりには、加藤丹後守の妻の墓とされる「姫塚」が存在したといわれています。『武蔵名勝図会』にはこの姫塚について「これは丹後守が室を埋めたる塚なりと云う。塚の広狭、景忠が塚に同じ。景忠が古墳より廿間余離れて、民居の変にあり…」と書かれており、廿間余ということはおそらく、加藤塚から北東に40~50メートル程の場所に姫塚が存在したものと思われます。
 昭和9年(1934)に多摩史談会により行われた第六回見学会の『狭山・箱根ケ崎村方面の記』には「風土記にある姫塚に行って見たら、如何にも貧弱なものとなって仕舞った。土地の人が姫塚と称え、風土記に載って居るから、成程と言うものの、然らざれば、何んとも分らない姿となって居る。」とあり、戦前にはすでに塚の破壊が進んでいたようですが、現在は姫塚は完全に消滅しており、その位置さえも分らなくなっているようです。
 画像は、姫塚の跡地と思われる周辺のようすです。『町指定史跡 加藤塚』に掲載されている遺跡の分布図に記されていた場所で、加藤塚の北東40~50メートル程の地点です。残念ながら塚の痕跡は何も残されていないようです。。。

<参考文献>
瑞穂町役場『瑞穂町史』
瑞穂町史編さん委員会『瑞穂小史』
東京都建設局西多摩建設事務所・瑞穂町教育委員会・株式会社武蔵文化研究所『町指定史跡 加藤塚』
現地説明版


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  1. 2017/05/30(火) 23:46:36|
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「石経塚(いしんぎょうづか)」

「石経塚(いしんぎょうづか)」

 瑞穂町武蔵周辺は、まだ畑地が多く残されているにもかかわらず広く区画整理が行われており、また横田基地の敷地に取り込まれた場所もあり、古い道の多くは姿を消してしまっています。この周辺には多くの塚が存在したといわれており、その多くは古道の交わる辻のところに造られていたようですが、残念ながらすべて消滅してしまっているようです。
 画像は、西多摩郡瑞穂町武蔵に所在したとされる「石経塚(いしんぎょうづか)」の跡地と思われる周辺を東から見たところです。瑞穂町教育委員会より発行された『瑞穂の地名』にはこの塚について次のように書かれています。

 「石経(いしんぎょう)塚 二本榎を越し八王子道を南に進むと、石畑駐在所の方から来た道(川島製本の西側の道はずっと南まで伸びていた)と交わる。ここでは更に西に屈曲して福生街道に交わる道を派生させ他のもう一本の野道を合わせて六道の辻になっている。この交差点に石に経文を記し、供養をした塚を築いた、石経塚と呼ばれるものである。」(『瑞穂の地名』18ページ)

 石経塚の所在地である六道の辻の正確な場所はわかりませんが、戦後の空中写真と現代の地図とを重ね合わせて、だいたいこのあたりではないかというのが画像の場所です。区画整理により古道は消滅しているため塚が存在した当時の地形を見ることはできませんが、農地となっている周辺一帯を見回しても塚らしき痕跡を見ることはできません。


「石経塚(いしんぎょうづか)」

 この周辺を散策していて、地元の農家の男性とお話をする機会があったのですが、この男性曰く、「あの一本の木が生えているあたりに塚があったと思うなあ…」とおっしゃっていたのです。畑の中にぽつんと一本だけ存在する、とても目立つ木です。それで、石経塚と出土した経文を記した石の話をしてみると、「そういわれてみると、あの木の根本のところに石が集められていたような気がするから行って見てみるといい…」ということで、この木のところまで歩いて見たところ…


「石経塚(いしんぎょうづか)」

 本当に木の根本のところに石が集められていたのです。これにはかなりびっくりしましたが、いくつか石をひっくり返してみたところ、経文が記された石は存在しないようです。長期間雨ざらしにされていれば墨書きされた経文は雨に流されて消失しているかもしれませんし、真相はわかりません。瑞穂町の郷土資料館でお聞きしたところでは、経文が書かれた礫石経は郷土資料館の倉庫に保管されているそうなので、この場所に石が集められているのは単なる偶然なのかもしれません。。。


「石経塚(いしんぎょうづか)」

 画像は、府中市のふるさと歴史館に展示されていた、「三千人塚」から出土したという礫石経です。この石は江戸時代後期のもので、「佛」「法」「濁」「是」「却」などの法華経の文字が墨書きされています。


「狐塚」

 画像は「狐塚」の跡地とされる周辺です。この塚も、正確な跡地はわからなくなっているようですが、地元の農家の男性でお聞きして、「この辺りだったはず」と地図上で示された場所です。あとで昭和初期の空中写真で確認したところでは、確かに塚らしき影が見えるようにも思います。発掘調査等は行われていないため、塚の性格は不明です。。。

<参考文献>
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』


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  1. 2017/05/29(月) 23:28:52|
  2. 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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「経塚(京塚)」

「経塚(京塚)」

 武蔵村山市中原3丁目に所在したといわれる塚が「経塚」です。既に削平されて消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、塚にまつわる出土品と言い伝えが残されているようです。
 瑞穂町教育委員会より発行された『路辺夜話』には、当時の経塚を知る人による次のようなエピソードが書かれています。

 それは昭和14年の盛夏、私は小学校6年生の児童でした。時あたかも日中事変が始まって既に3年を経過しており、出征兵士の留守宅農家への手助けとして勤労奉仕に従事していました。真夏の照りつける太陽のもと、夏休みのある一日でした。確か集合したのは、日除けになる大榎の下、かの一本榎の塚上でした。
大きな石の庚申塔が建っていて、横には「文化十癸酉歳九月吉、武刕多摩郡邑山郷殿ヶ谷村」、台右には「惣村、講中、発願主 小峯佐兵衛」の文字が彫られています。
 この庚申塔を近くで見るのは初めてでしたので興味を持ちました。やがて集合時間よりも早目に着いた者が、地元の殿ケ谷村に住む級友が案内人となって、経塚へ行ってみようということになり、これまた全くの初の場所へ連れて行かれました。
 経塚は畑の中にポツンと盛り上がっていて、丸くお椀を伏せた形状の、小山の如き姿をしていました。
 塚には一面に雑草が生い茂って緑の土饅頭といったところ。
 集まった者は到着するが早く、直ぐに経塚に登りだしました。止める者は誰もいない。登った仲間は皆お山の大将気取りで大きく手を挙げ、声をあげてはしゃいだのを思い出します。まるでその頃のニュース映画に映し出された広野の戦場で、トーチカを占領した兵士の気分でした。
 塚には雑草のほかは何もありませんでした。
 塚へ登るのには、多少手足と身体を巧く操っての登攀だったような記憶があります。這い登ったという形容が当たっているでしょうか。塚の高さは子供の目測ですから正確ではありませんが、2m程はあったと思います。(『路辺夜話』46~47ページ)


 さて、ではこの「経塚」がどこに存在したかということになりますが、瑞穂町教育委員会により編集された『瑞穂の地名』には「岸前京塚 岸村(現武蔵村山市岸)にあった経塚の近辺、殿ケ谷村に属した土地もあったろう。村境でもある。その経塚の位置は、一本榎より斜めに伊奈街道と方角を対照的に南へ、榎の塚から残堀方面に向かう道を進むとやがて道は二つにわかれる。その三角地帯にあった円墳形式の塚である。戦後きれいに盛土は運び去られて平地化されてしまった。その時唯一の遺物として大きな五輪塔の水輪が一つ出土した。したがって京塚は境塚とみるより経塚にちがいない。」と書かれています。
 画像はこの、現在も残る三角地のようすです。この周辺地域は開発が進み、区画整理が行われて大きく地形が変わってしまっていますが、塚の所在地とされる周辺にはまだ古い道も残されているようです。一本榎から南に向かった二つにわかれる辻とはこの場所ではないかと思われますが、経塚らしき痕跡を見つけることは出来ませんでした。
 

「経塚(京塚)」 

 戦後の空中写真等で、塚らしき痕跡が残されていないか探してみたところ、この辺りに塚らしきマウンドが存在しなかったかと推測した場所が画像の地点です。もちろん、経塚とは無関係の別の塚が存在した可能性も多いに有り得るわけですが、残念ながらここにも痕跡は何も残されていません。


「経塚(京塚)」

「経塚(京塚)」

 経塚は残念ながら消滅してしまったようですが、周辺のバス停や公園などの名称に経塚の名が残されているようです。

「経塚(京塚)」

 戦後までは残されていたといわれているこの経塚ですが、その後の開墾により削平され消滅しています。この際に、出土したとされているのが画像の五輪塔の水輪です。この水輪は、現在は瑞穂町の郷土資料館に所蔵されているもので、昨年の6月に見学させていただいたものです。水輪には五輪塔発心門の「水」を表す梵字が刻まれています。地輪が残されていないことから、経塚を築造した年代、もしくは五輪塔を建立した年代は不明であるものの、この水輪の存在により塚が経塚であったことがわかっているようです。
 瑞穂町の郷土資料館のスタッフさまには、とても丁寧な対応で五輪塔を見学させていただきました。ありがとうございました。。。

「経塚(京塚)」
 
<参考文献>
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』
瑞穂町教育委員会『路辺夜話』


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  1. 2017/05/28(日) 01:41:20|
  2. 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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「大塚古墳(王塚古墳)」―東京都指定旧跡―

「大塚古墳(王塚古墳)」―東京都指定旧跡―

 JR五日市線を東秋留駅から秋川駅に向かう車窓から、方形の大きな塚を見ることが出来ます。この塚が、あきる野市雨間に所在する「大塚古墳」です。『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号79番として登録されており、大正15年(1926)には都旧跡の指定を受けています。この古墳はあきる野市役所の南西、市役所とJR五日市線の間にある「大塚公園」に所在しており、昭和57年(1982)に行われた測量調査により、一辺約33m、高さ約8mの方形の塚であることがわかっています。

 この古墳は、江戸時代にはすでに存在していたと考えられ、地誌類に多くの記述を見ることができます。『新編武蔵風土記稿』には「塚 村の北陸田の中にあり、高さ二丈五六尺、土人呼て平井の大塚と云、塚上に稲荷の小祠二宇を建つ、由来つまびらかならず」とあり、また『武蔵名勝図会』には「雨間大塚 雨間の大塚と号して近郷にその名を云う。村居より北の方、陸田の中に高く突出すること凡そ二丈四、五尺。この塚の上、又は廻りに狐の穴多くありける故、土人稲荷の小社を祀れり。この辺は渺々たる畑地にて、西は平井。大久野辺りより東は二の宮、野辺あたりまで一里余、南北は雨間、菅生の間、半里もあるべき田圃の間にある塚なるゆえ四方より見えけり。年々塚の際を切り崩しければ、昔はいまより大なりしことならん、麓より陶器などを掘りだせることあり。或云この塚に石函ありと言い伝う。この近辺の畑畔よりも古瓦の出ることありと云。塚の由来は知るものなけれど、近き辺より瓦など出れば、昔は郡司、若くは庄園の司なる人が任せし地にて、この塚は塋域なるべし、されば、 次に出す雨武主明神もその家の祖神を祀りしならんといえり。又云この塚より十四、五町も西よりにて、同じくこの原の内にて、これも四面みな畑の中に芝地六、七間四方もあるべき中に、わずかに高さ三、四尺許の塚あり。その上にモミの古木一樹生茂せり。これも星霜四、五百年余の樹なり。この地は広き畑中にて、前に云う大塚とこのモミの木ある小塚ばかりなり。その謂われ不知といえども、前にいうが如き謂われなるべし。」と書かれています。
 この『武蔵名勝図会』の記述からすると、盛土の周囲が削られて小さくなっていることがうかがえますので、築造当時はもっと大きな墳丘だったのかもしれません。同書の「この塚に石函ありと言い伝う」という記述により、この「石函」がいわゆる古墳に安置されている「石棺」ではないかとも考えられることから、この大塚が古墳ではないかと想定されてきたようで、また、本来は東西に長い亀のような形をしていたという地元の人の言い伝えもあることから、例えば狛江古墳群にある「亀塚古墳」や、田園調布古墳群にある「亀甲山古墳」のように前方後円墳であった可能性も考えらてきたようです。ただし、周溝や埴輪、葺石といった古墳特有の施設がまったくみられないことから、例えば『日本霊異記』に登場する奈良時代の大山真継の墓とする説や、冨士講に関連する富士塚であるとする説などもあり、実態は不明なままです。


「大塚古墳(王塚古墳)」―東京都指定旧跡―

 この大塚には古墳説以外にも様々な伝承が残されており、デーダラボッチの下駄糞だという伝説や、鍛治屋が大塚のそばに住み、毎日金糞(金属を製錬する際に、溶融した金属から分離して出てきたカス)を拾っていたのが積もり積もってできたのが大塚であるという説、また近くに長者が住み、モミガラを捨てていたのがいつの間にか大きな塚になっていたという説、平安朝の頃、日野に置かれていた軍団の将が変時を知るために各地に設けたノロシ台の一つである説、大直山継の墓ではないかとする説、富士浅間講の信者が富士山を拝むために築いた塚であるという説等々、枚挙に遑がないほどです。これだけの大きな塚が一体何のために造られたのか、とても興味深いところです。。。


「大塚古墳(王塚古墳)」―東京都指定旧跡―

 画像は、大塚古墳を東から見たところです。この大塚古墳は、平成5年には多摩地区所在古墳確認調査団によって調査されており、盛り土が黒色か黒褐色の締まりのない腐植土であることがわかっています。また周溝がなく、墳丘の傾斜が急であることや方形であることから、塚である可能性が高井野ではないかと考えられています。(これは、世田谷区の「砧大塚」や武蔵野市の「こんこん塚」、東村山市の「浅間塚」といった塚に共通する特徴であるようです。)
 ただし、同時期に行われた地下レーダー探査では盛土内に「何らかの孤立的な物体」が埋まっていることがわかっており、このあたりの真相は今後の発掘調査を待たなければなりません。


「大塚古墳(王塚古墳)」―東京都指定旧跡―

 塚には石段が設けられており、いつでも登ることが出来ます。階段の登り口には、東京都教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

 東京都指定旧跡
  大塚古墳
所在地 あきる野市雨間二三二
大正十五年五月
指 定 昭和三〇年三月二八日

 秋留台地のほぼ中央に立地する本古墳
は、昭和五七年に行われた測量調査によ
って、一辺約三三m、高さ約八mの規模
を持つことが判明し、その形状から方墳
の可能性が高いとされました。その後、
平成五年の部分的な発掘調査では、周溝
が確認されず、墳丘の森土の特徴が古墳
に通常認められるものとは異なることが
判明しました。この遺跡については、古
墳とともに塚の可能性も考える必要があ
ります。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会



「大塚古墳(王塚古墳)」―東京都指定旧跡―


 墳頂部のようす。鳥居と祠が祀られています。。。

「大塚古墳(王塚古墳)」―東京都指定旧跡―

「大塚古墳(王塚古墳)」―東京都指定旧跡―

<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
あきる野市教育委員会『秋川遺跡散歩』
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  1. 2017/05/26(金) 02:20:07|
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「あきる野市№105遺跡」

「あきる野市№105遺跡」

 画像は、あきる野市二宮にある「二宮神社」を東から見たところです。「二宮神社並びに城跡」として、大正15年(1926)には東京都旧跡に指定されているこの神社は、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号105番の「古墳」として登録されており、主な出土品として須恵器や鉄製品、鍔などが記されています。
 二宮考古館で配られていた東京都教育庁によるポストカードにはこの神社について次のように書かれています。

~都指定旧跡~ 二宮神社並びに城跡(指定:大15.5)
 二宮神社は武蔵六社宮の一つとして、国常立尊(くにとこたちのみこと)を祭神としています。古代にはこの地が多摩郡小川郷に属していたことから、小川大明神と呼ばれていました。
 建立年代は不明ですが、社伝によれば藤原秀郷(ひでさと)が天慶(てんぎょう)の乱に際して戦勝を祈願したとされ、その後、源頼朝、北条氏政の崇敬を受け、天正19年(1591)、徳川家康の時代から代々15石の朱印状を与えられていました。現在の本殿は、江戸時代初期の形態をつたえており、宮殿は、少なくとも室町時代後期以前の建築と考えられ、共に市の有形文化財に指定されています。
 一方、鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重が城館を構え、5代にわたって居城としたとの記録があります。この二宮城の所在を探るため、昭和47年(1972)に二宮神社境内の一角が発掘調査されましたが、関係する資料を得ることができませんでした。この発掘調査では、小型懸仏の金銅製薬師如来像や中世の瓦が発見され、新たな謎を呼んでいます。



「あきる野市№105遺跡」

 画像は二宮神社境内を南東から見たところです。一見すると、敷地内に古墳らしきマウンドは見られないようですが、1995年に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の81~82ページには、この神社の古墳について次のような記述が見られます。

占地状況:台地縁辺
墳  丘:消滅
主体部 :消滅。二宮神社本殿南側の玉垣に沿って発掘したところ、河原石が多数出土した。
出土遺物:河原石の直上から多数の須恵器瓶類のほか、杯、蓋、甕、広口壷、鉄製の鍔、柄頭、
     鞘尻等が出土した。また河原石の直上ではないが土師器の坩、杯が出土している。
備  考:昭和45年1~8月塩野半十郎氏他により調査。出土した石室床面の敷石と推定される
     河原石と須恵器、鉄製品から古墳の存在が判明した。文献84では昭和42年にやはり
     境内を発掘したところ4基の古墳が発見されたと記録されているが、この4基に関し
     ては詳細が不明となっている。
(『多摩地区所在古墳確認調査報告書』81~82ページ)


「あきる野市№105遺跡」

 画像は、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にある、二宮神社本殿南側の玉垣に沿ったあたりのようすです。現在も多数の河原石を見ることができるようです。4基の古墳が存在するというのは驚きですが、この河原石が古墳の石室を構築した石材の残骸なのでしょうか。
 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の備考欄にある「文献84」とは、昭和50年(1975)に秋川市教育委員会社会教育課より発行された『秋川市二宮神社境内周辺の遺跡』を指しているようです。同書は、昭和45年(1970)1月から8月にかけて行われた第二次発掘調査の報告書ですが、昭和42年に行われたという発掘調査に関する興味深い記述が見られます。3ページの「序文」の項には次のように書かれていました。

 1966年9月24日、台風26号によって神社の大木がことごとくたおれた。その木の根に縄文の遺物が各所に発見され、これを契機に、埋没した文化財を調査しようという事が神社の氏子有志町内会できまった。そして翌年昭和42年5月20日より塩野半十郎先生指導のもとに調査がはじめられ、郷土史研究会も発足し、精力的な調査が翌年8月30日まで実施された。そして縄文時代の住居跡が11ヶ所、古墳4、経塚2を発見、調査し、数多くの貴重な遺物を発掘した。その折(42年10月15日)ロームでたたきかためた円墳の中心(表土より1m60cmばかりの下)に不思議な異物を発見した。遺物はこぶし大の石を上下にはさんで、あたかも目印の如く埋められていた。。又これが不思議なことに、偶然神官が大正期に表面より発見して倉庫に保管していたものと合致した。又その用途も種別も年代とともに不明であったために国立博物館に鑑定を依頼したが不明であった。その事によって第2次発掘調査の許可を申請ここに又調査が開始された。まず新編武蔵風土記による整地の折とある、整地されたる遺物埋没個所南面の位置より調査を始めた所 神社の伝説記録等に見合う遺物が次々と発見され又郷土史研究会を中心に氏子会等も協力し発掘も信仰下が、発掘期日終了のため 昭和45年8月30日をもって発掘を終了した。尚この南面の位置には驚くほどの神社の資料となる遺物が埋没しており、再度の発掘調査を待たなければ完全な結果が得られない。」(『秋川市二宮神社境内周辺の遺跡』3ページ)

 「たたきかためた円墳」という記述からすると、墳丘が構築されている版築のようすが確認されていると推測されます。おそらく古墳は間違いなく存在したのではないかと考えられますが、第二次発掘調査の報告書には古墳の位置に関する記述は無く、残念ながら古墳の正確な位置はわからなくなっているようです。


「あきる野市№105遺跡」

 この画像のあたりには2基の経塚も存在したようなのですが、痕跡は残されていないようです。この経塚が、古墳を流用して築造された可能性もあるのではないかとも考えましたが、これも真相はわかりません。。。

 その昔、この二宮神社の境内の裏側に大きな穴が開いていて、この穴は八王子の高月まで続いていると云われていたそうです。『二宮神社明細帳』には「境外地なる新開墾畑中に、突然陥落したる古墳らしき穴あり。未だ何たるを知り得ず。」と記されています。これは「地下式横穴」と呼ばれている穴で、この周辺からは四ヶ所に横穴が発見されているそうです。この横穴の用途については、墳墓説、貯蔵庫説などがあり、また築造時期についても古墳時代から中世までと意見はわかれていて、詳細はわからないようです。


「あきる野市№105遺跡」

 社殿の背後(西側)の林の中にはロープが張られていて、保護されているかのような場所が数ヶ所見られます。報告書によると、古墳が検出されたのは表土より1m60cmばかりの下ということですから、発掘が行われた場所を推測するとこの林の中のどこかではないかと考えたいところですが、古墳はおろか経塚や地下式横穴等、地上には痕跡は何も残されていないようです。
 ちなみに、江戸時代の地誌類も調べてみたのですが、『新編武蔵風土記稿』の二宮神社の項には「古ハ社モ荘厳ナリシニヤ 社地ヨリ布目ノ紋アル古瓦ヲ掘出ス事マゝアリト云リ先年社再興ノ時 土中ヨリ甕一ツヲ掘出セリ 甕中ニ銅ノ筒二ツアリテ其中ニ綿ノ如クナル紙アリ 縁起ナド書タル者ニヤ甕ハ今モ神主所持スレド銅筒ハ紛失シタリト云」と、経塚についてらしき記述は見られるものの、古墳についての記述は存在しないようです。。。


「あきる野市№105遺跡」

 画像の、境内社の鳥居の左側あたりに地下式横穴が存在するはずなのですが、これも埋め戻されており、痕跡は見られません。


「あきる野市№105遺跡」

 画像の階段のあたりにも、未調査の穴が存在するはずなのですが、これも埋め戻されているようです。。。


「あきる野市№105遺跡」

 二宮神社に隣接して、あきる野市の郷土資料館である「二宮考古館」があり、市内で発掘された縄文時代の土器、石器のほか、経塚から出土した経文石なども展示されています。あきる野市内にはかなり多くの古墳が確認されているのですが、古墳に関する展示品はあまり多くはないようです。
 東京都埋蔵文化財センターの倉庫に眠っているものと思われる「瀬戸岡30号墳」の石室のレプリカなどは、この二宮考古館に展示して見学できれば良いのになあと思うのですが、管轄が違うと無理なのでしょうね。金銭トレードが無理でもレンタル移籍とかあればいいのに。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会社会教育課『秋川市二宮神社境内周辺の遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
秋川市教育委員会『秋川昔物語 秋川市ところどころ』
秋川市教育委員会『秋川市遺跡散歩 秋川市ところどころ(二)』


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  1. 2017/05/25(木) 02:43:39|
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「あきる野市№104-3遺跡(牛沼古墳群3号墳)」

「あきる野市№104-3遺跡(牛沼古墳群3号墳)」

 画像は、あきる野市牛沼に所在する「あきる野市№104-3遺跡(牛沼古墳群3号墳)」を南西から見たところです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「牛沼古墳群3号墳」という名称で掲載されていますが、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号104-3番の無名の古墳として「あきる野市№104-3遺跡」の名称で登録されています。

 この牛沼古墳群3号墳は、前回紹介した2号墳の東方数十メートル程の民家の敷地内に所在します。この古墳も、学術的な調査は行われていないため、埋葬施設や周溝等の詳細は不明で、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、墳丘は「消滅」、主体部についても「石積の一部と思われる石が露出している」とのみ書かれています。


「あきる野市№104-3遺跡(牛沼古墳群3号墳)」

 画像は、3号墳の南東数十メートル程の地点に所在する鳥居と祠です。古墳のある周辺を歩くと古墳跡ではないのかと思えるような場所に遭遇するのですが、この祠は牛沼古墳群と同じ台地上の縁辺部にあり、また祠の周囲には河原石が散在していて、積石塚の跡地かもしれないとも思えるような場所です(またいつもの妄想かもしれませんが)。。。


「あきる野市№104-3遺跡(牛沼古墳群3号墳)」

 再度訪問した際には、祠の周囲がブルーシートで覆われていたのですが、発掘調査の予定でもあるのでしょうか。気になる場所です。


「西秋留石器時代住居跡」

 画像は、同じあきる野市牛沼に所在する「西秋留石器時代住居跡」です。国の史跡として指定されている縄文時代の住居跡で、崖下に秋川を望む、秋川左岸の河岸段丘上に所在します。牛沼古墳群から徒歩10分程の場所です。


「西秋留石器時代住居跡」

  国史跡
西秋留石器時代住居跡(清水遺跡)
所在地 東京都あきる野市牛沼二六五番地
指定日 昭和八年四月十三日
 昭和七年、後藤守一氏を中心として東京府(現東京都)によって調査が行われ、縄文時代後期の敷石住居跡五軒や石棺墓二基、石組の炉一基などが発見された。
 当時、敷石住居跡が単独で出土した例はあったが、このように狭い範囲にまとまったものはほとんど無く昭和八年、国の史跡に指定された。
 また、これらの遺構の他、縄文時代中期及び後期の土器や、石皿、凹石、石棒、打製石斧、石錘などの石器も多数出土している。
 調査当時、発見された住居の床面と周囲とが同じ面であると認められたため、竪穴式の住居ではなかったと判断され、それ以降の、敷石住居は平地住居であるとする説の有力な根拠とされるなど、学史的にも非常に貴重な遺跡である。
  東京都あきる野市教育委員会

 
<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/05/23(火) 02:15:14|
  2. あきる野市/牛沼古墳群
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「あきる野市№104-2遺跡(牛沼古墳群 2号墳)」

「あきる野市№104-2遺跡(牛沼古墳群 2号墳)」

 画像は、あきる野市牛沼に所在する「あきる野市№104-2遺跡(牛沼古墳群2号墳)」を北西から見たところです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「牛沼古墳群2号墳」という名称で掲載されていますが、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号104-2番の無名の古墳として「あきる野市№104-2遺跡」の名称で登録されています。

 この牛沼古墳群2号墳も、前回紹介した2号墳と同様に、圏央道の建設計画に対しての地元住民の反対運動や訴訟の末に、破壊を免れたという古墳です。1号墳と同じく真上が圏央道の秋川高架橋となっており、古墳はフェンスに囲まれる形で現状保存されています。
 古墳が残されたことに対しては喜ばしいとは思うのですが、施錠されて滅多に人が立ち入らない敷地内でさらにフェンスで囲ってしまったことにより、フェンスの外側は整地されているにも拘らずフェンスの内部だけが竹林となって鬱蒼としています。本当にこれで良いのだろうかと甚だ疑問なのですが、きちんと整備して史蹟公園として古墳を公開したりできないのでしょうか。。。


「あきる野市№104-2遺跡(牛沼古墳群 2号墳)」

 画像は、北から見た、雑草の合間に僅かに見える2号墳のマウンドです。平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には墳丘は「消滅」とあり、主体部についても「石積の一部と思われる石が露出している」とのみ書かれていますが、少なくとも1号墳と比べると墳丘らしきマウンドが残されているようにも見えます。


「あきる野市№104-2遺跡(牛沼古墳群 2号墳)」

 画像は、最初に訪問したときの2号墳のようすです。このときは、フェンス内の竹や雑草が伐採されていて墳丘がきれいに見えたのですが、残念ながら敷地内には入ることが出来ず、遠方からの見学のみでした。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/05/22(月) 00:17:18|
  2. あきる野市/牛沼古墳群
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「あきる野市№104-1遺跡(牛沼古墳群 1号墳)」

「あきる野市№104-1遺跡(牛沼古墳群 1号墳)」

 「牛沼古墳群」は多摩川の支流である秋川左岸に所在する古墳群です。多摩地区所在古墳確認調査団により行われた平成4年度の分布調査において把握されており、3基の古墳により形成されていることがわかっています。この調査結果が掲載されている『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「牛沼古墳群」という名称で掲載されているのですが、その後の『東京都遺跡地図』には、あきる野市の遺跡番号104番の無名の古墳として登録されており、現在ネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、「№104-1遺跡」から「№104-3遺跡」までの3基の古墳として登録されています。この古墳に北側には、5次にわたる発掘調査が行われた「西龍ヶ崎遺跡」があり、この古墳も 「牛沼西龍ケ崎古墳」や「西龍ケ崎塚古墳」等々、さまざまな名称で呼ばれているようです。

 画像は、あきる野市牛沼に所在する「あきる野市№104-1遺跡(牛沼古墳群 1号墳)」を南西から見たところです。この1号墳のちょうど真上は圏央道の秋川高架橋となっていますが、古墳の所在する牛沼地域ではこの圏央道の建設にあたって地元住民の激しい反対運動があり、多くの訴訟も起こされたようです。江戸時代から先祖代々生活を続けてきた旧家の住民に対する不当な土地収用、騒音や振動など道路公害とともに、地権者の敷地内に発見された古墳時代後期の円墳がこの事業により破壊されることなども訴えられたようです。
 この古墳は、当時、土地所有者で原告の地元住民の敷地内に所在する古墳の上に圏央道の橋脚を立てることになっており、土地収用後に古墳の学術的な調査を行った後に消滅という流れであったようですが、工事着工を急ぐ起業者は当初の工事費用に数千万円を上乗せして高架橋方式に大きく設計変更。これは、関係する鉄鋼メーカーの談合によりかなりの高値で落札されたといわれており、この工事を受注した会社からは2人の逮捕者を出したようです。


「あきる野市№104-1遺跡(牛沼古墳群 1号墳)」

 土地収用後の古墳周辺は整地が行われてゲートボール場が作られているようですが、通常は施錠されていて敷地内に立ち入る事は出来ません。古墳の学術的な調査は行われず、説明板なども特に設置されていないようです。数奇な運命に翻弄されながらも圏央道の高架橋の下に残された1号墳は、現在はフェンスに囲まれて保存されています。
 私が最初に訪れたときは敷地内に立ち入ることは出来ず、遠方から見学するのみだったのですが、2度目の訪問の際は町内会によるゲートボール大会が行われており、使用者に許可を得て見学することができました。
 画像はフェンスの内部のようすです。墳丘らしきマウンドは見られないようですが、積石塚と思われる石積みの一部が露出しています。


「あきる野市№104-1遺跡(牛沼古墳群 1号墳)」

 画像は、西から見た牛沼1号墳です。この角度から見ると、僅かに盛り上がった古墳らしい形状を見ることが出来ます。
 色々経緯のあった古墳であるようですが、せっかく破壊を免れて保存されることになったわけですから、きちんと発掘調査を行ったうえで史蹟公園のような形で公開することは出来ないものかと思うのですが、難しいのでしょうね。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/05/21(日) 00:41:19|
  2. あきる野市/牛沼古墳群
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「西岡第31号古墳+西岡第32号古墳(新居里古墳)」

「西岡第32号古墳」

 大田区田園調布5丁目に所在するのが「西岡第31号古墳」と「西岡32号墳」です。『東京都遺跡地図』には31号古墳が大田区の遺跡番号20番、32号古墳が21番の古墳として登録されています。

 この古墳は、後に大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により1930年代に行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。当時の記録が掲載されている『考古学雑誌 第26巻 第5号』「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」にはこの古墳について次のように書かれています。

第三十一號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部字新居里
      新地名 東京市大森區田園調布四丁目一二二、西澤氏邸内
(型式)圓型墳
(發掘者氏名及び出土品等)
 西岡 秀雄…石釧〔寫眞第一二〕 土器底部等 昭和七年
(現況其の他)現在は邸宅地となり全く原形を留めない。高さ約三・五米。

第三十二號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部字新居里
      新地名 東京市大森區田園調布四丁目一二二、西澤氏邸内
(型式)圓型墳
(發掘者氏名及び出土品等)
 西岡 秀雄 松野 正徳…埴輪圓筒〔寫眞第一三〕・土器等 昭和七年
(現況其の他)現在は邸宅地となり殆ど原形を留めない。高さ約二米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』316~317ページ)


 第31号古墳からは石釧が出土しており、また第32号古墳からは多摩川流域で最古のものであるとされている円筒埴輪が出土しています。この2基の古墳の出土遺物が同時期であり、また立地的に隣接していることから1基の前方後円墳ではないかとも考えられており、この地域の小字名から「新居里古墳」と呼ばれています。同じ田園調布5丁目内には、やはり前方後円墳ではないかと考えられている「西岡第19号古墳」が築造されており、立地的に同じような多摩川に突出した狭小な舌状台地の先端に存在するこの「新居里古墳」が前方後円墳である可能性は、じゅうぶんに考えられるように思います。
 画像の、台地上に立つ松の木の根本のあたりに存在した(多分)と思われるのが、西岡第32号古墳です。昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』では「一部遺存」とされ、現状径30mの円墳であるとされています。現在も痕跡は残されているのかもしれませんが、敷地内を見学することは出来ません。。。


「西岡第31号古墳」

 『都心部の遺跡』では第31号古墳も「一部遺存」とされています。
 周辺にお住まいの方に伺ったところでは、この古墳に隣接する集合住宅の建築の際には人骨が出土したというお話も聞きました。この人骨が第31号古墳の被葬者であったかどうかは不明ですが、興味深いお話だと思います。。。


「西岡第31号古墳+西岡第32号古墳(新居里古墳)」

 多摩川台公園内に所在する古墳展示室には、この古墳から出土した円筒埴輪のレプリカが展示されています。埴輪は2本出土しており、共に底部より15cm程の間の表面の劣化が激しいことから、この部分を墳丘に埋めていたと考えられているようです。この埴輪は5世紀前半に作られ、荏原台古墳群では最古の埴輪であることがわかっています。

<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区立郷土博物館『大昔の大田区』


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  1. 2017/05/19(金) 00:06:04|
  2. 大田区/田園調布古墳群
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「西岡第30号古墳」

「西岡第30号古墳」

 「西岡第30号古墳」は、大田区田園調布5丁目に所在したとされる古墳で、『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号19番に登録されています。この古墳は、西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されており、この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように記載されています。

第三十號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部字新居里
      新地名 東京市大森區田園調布四丁目一二二、早田氏邸内
(型式)圓型墳
(發掘者氏名及び出土品等)荏原郡史蹟調査部 耳環・小刀・管玉等 昭和二年
(現況其の他)現在は邸宅地となり全く原形を留めない。詳細不明。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』316ページ)


「西岡第30号古墳」

 昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』にはこの古墳について「空地の道路側に僅かの土盛が存在するのみ。」と記載されており、分布図に位置が記されています。また、所在地の住所も記載されています。これを参考にすると、ちょうど画像の道路のあたりに古墳が存在したのではないかと思われます。記載されている住所は道路の左側にあたるようですが、当時存在した僅かの土盛が存在する空地とは、道路の右側ではないかと思われます。
 画像の、民家の庭の道路側がわずかに高くなっており、これが古墳の痕跡なのではないかとも考えましたが、真相はわかりませんでした。。。

<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/05/18(木) 00:25:04|
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