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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「葛飾区№23遺跡」

「葛飾区№23遺跡」

 画像は、葛飾区奥戸3丁目にある「葛飾区№23遺跡」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、葛飾区の遺跡番号23番の「時代不明の塚」として登録されています。

 この塚については以前にもこの『古墳なう』で紹介したのですが、その後、最訪した際に土地の所有者のおばあちゃんやそのご友人である奥様にお話を聞くことが出来ました。また、その後入手した新しいカメラで写真も取り直すことが出来ました。あらためて取り上げてみようと思います。

 祟りなどの否定的な言い伝えが存在したが故に、崩されずに残された古墳や塚の事例はこれまでにも数多く取り上げてきましたが、この塚にも古くからの祟りの言い伝えがあったようです。実際に、塚の整備の際に敷地内で立ち小便をしたところ、なんと!作業員の局部が大きく腫れ上がったということがあり、これは地元の人たちには塚の祟りだったのではないかといわれていたようです。
 塚上には弁天様の祠が祀られていますが、作業員はこの弁天様の怒りに触れてしまったのでしょうか。。。


「葛飾区№23遺跡」

 塚上に祀られている弁天様の祠です。
 古くは、ある大学がこの塚の発掘調査を行ったことがあるそうです。土器らしき遺物が出土したともいわれているようですが、この調査がいつごろ行われたものなのか、またどの大学が行った調査なのか、詳細は全くわからず、この記録が記されている文献等は見つけることが出来ませんでした。。。


「葛飾区№23遺跡」

 塚と同じ敷地内にひっそりと置かれているのが男根の石碑です。
 この一帯が草ぼうぼうで藪になっていたところを、土地所有者のご友人である奥様が草むしりなどの整備をした際に発見したものであるそうです。子宝に恵まれなかったという土地所有者のご先祖様が、この碑を祀って祈願したものであるそうですが、過去にはこの存在を知ったTV局が取材に来たこともあるのだと、奥様から教えていただきました。
 なぜか今回の塚にまつわるお話は下半身ネタが多くて、奥様も話し難かったかもしれないのですが、興味深いお話を聞けて、勇気を出して話しかけてみて良かったです。

 ちなみに南西に数百メートルほどの地点には、発掘調査により中世と近世に築かれた塚であると判明した「鬼塚」が今も残存します。また北西数百メートルほどの中川を渡ったあたりには「熊野神社古墳」や「南蔵院裏古墳」等で形成される「立石古墳群」が存在します。この塚が古墳であるのか塚であるのかは諸説在るところですが、今後の調査の進展が楽しみな塚ではないでしょうか。

 土地所有者のおばあちゃんとご友人の奥様には色々と教えていただきました。
 楽しい時間をありがとうございました!

<参考文献>
葛飾区郷土と天文の博物館『鬼塚・鬼塚遺跡Ⅶ』


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  1. 2017/10/31(火) 00:44:52|
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「入定塚」

「入定塚」

 画像は、葛飾区奥戸2丁目に所在する「入定塚」を南から見たところです。画像の右側は「南葛大師」で、左側が入定塚であるとされる「森市地蔵尊」です。森市地蔵尊の祠の前には「入定塚」の石碑が建てられています。
 この場所には、村の古老の間で語り伝えられたという伝説が残されています。

 ここに入定埋葬されたという森市は、他郷からこの土地に流れてきて土着したといわれ、村人の施しに縋って毎日の命を継いでおり、有る時は食べ、無い時は食べないという状態で、この塚のあたりに小屋を掛けて雨露を凌いでいたといわれています。森市は毎日村を廻って日暮れにはここに戻り、貰ったものを煮炊きしていました。村人たちはその姿を見ていて、何もない時に残り物を持っていって与えてやると、何度も何度も頭を下げていたそうです。
 こうして何年か暮らすうちに、森市は自分の寿命が尽きることを悟り、これまで情けをかけてもらった村人の恩義に報いるために、生きながら入定して悪疫災難を村から除き、村人の無病長生の祈願を続けることを約束しました。
 森市は、「この鈴の音が聞こえなくなったら成仏したと思って下され。念願は成就します。」と遺言を残してこの地に作法通りに座禅を組み、経文を唱えて行ない済せて宝鈴を振り続け、森市は村の発展と平和を願い、入定を断行したといわれています。

 「入定塚」前に立てられている説明板には次のように書かれていました。

 入 定 塚 の 由 来
 此の入定塚は、森市と言う六部(行者)の終焉の地です。
以後この場所を、森市地蔵・または圦の河岸・と呼んでいます。
 森市は、江戸時代他国より廻国してきた「六部」で、此の村で何年か過ごし
ましたが村人にも大変尊敬された行者でしたが「自己の天寿を悟り」今迄大変
お世話になった村の人等の繁栄を祈願し「入定」しました(入定とは生きなが
ら墓穴に入り、即身仏となって命を断つ意)。
 経文を唱え、鉦を打ち、其の音が「三日・三晩」続いた……と伝えられてい
ます。村人は森市の死を哀れみ、お地蔵様を祀り供養しました。
 現在のお地蔵様は、お堂内に祀られている聖徳太子像の、背面に安置され
ています。

 南 葛 大 師 第十二番 の 由 来
 南葛八十八ヶ所の一霊場として、お大師様のご遺徳と村の繁栄を願い、大
正十二年奥戸六丁目・真言宗 善紹寺住職 宇田川恵心 師、竝に地元有志
の「発願」により小堂を建て、弘法大使の石像を安置したもので「南葛大師」
と呼び称されています。以来、旧南葛飾郡一円の善男善女の信仰を集め、現
在に至っています。
  古き代の 石のみほとけかしこみて
              斎きまつれる 人ぞ尊き
                          坂本 凱二  詠
 両社とも毎年六月二十四日 午前十時より盛大な供養会を執行しています。
                  所在地 葛飾区奥戸二丁目一番八号
  平成十年六月
                     森市福地蔵尊弘法大師奉賛会



「入定塚」

 森市の入定を哀れんだ村人は遺言通りに塚を築いて手厚く葬り、それがこの「森市地蔵尊」です。
 この付近に住むたばこ屋の老婆の話では、子供の頃に古老から聞いた話として、宝鈴の音が三日三晩鳴り響いたそうで、このころに森市は入定したのではないかと話されていたそうです。
 このお話は、いつ頃の時代のものかも判らず、また森市という六部とも按摩とも知れない人物が何者なのかはいっさい不明ですが、現在も村人の篤い信仰によって老人たちの念仏講中に支えられて、毎年2月には墓前で念仏供養会が捧げられているそうです。

 私が訪れた当日も、地元の女性が犬の散歩がてら、この森市地蔵尊にお参りに来ていました。
 今でも地元の人に大切に祀られているようです。。。

<参考文献>
萬年一『葛飾百話』
現地説明版


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  1. 2017/10/30(月) 00:02:24|
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「一里塚」(葛飾区指定旧跡)

「一里塚(葛飾区指定旧跡)」

 慶長九年(1604)、徳川家康は秀忠に命じて東海道、東山道、中仙道の三街道を整備させ、江戸日本橋を起点に沿道一里毎に一里塚を設けられました。そして、この亀有の一里塚はその後、水戸街道中の千住松戸両宿間に、日本橋より三里の地点の塚として設置されたものです。
 一里塚はすでに消滅して存在せず、本来あった場所から約10メートル程西側の歩道の片隅には、葛飾区教育委員会による説明板とともに「一里塚」の石碑が立てられています。そして、面白いのは石碑と説明板の横に並んで、助さん格さんを従えた水戸黄門様の像が置かれています。(写真が日陰に入ってしまってちょっと見難いのですが)

 説明板には次のように書かれていました。

一 里 塚 跡
所在地 葛飾区亀有三丁目12番地先
    葛飾区亀有一丁目28番地先稲川淳二 生き人形

 一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里(約4km)ごとに設けられました。塚は道路の両側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから、塚の崩壊をを防ぐ役割があったようです。
 一里塚の起源については諸説ありますが、現在では一里塚といえば、慶長九年(一六〇四)に設置が命じられた江戸時代のものをさします。
 亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋からは三里のところに位置します。現在ではその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。
 塚の位置は、ここから東へおよそ10m先にありました。
葛飾区教育委員会



葛飾区 未登録 一里塚跡2

 一里塚が築かれていたのは、旧水戸街道沿いのこの交差点のあたりではないかと思われますが、残念ながら痕跡は残されていないようです。


こち亀銅像

 JR常磐線・亀有駅を降りるとこち亀銅像がお出迎え。
 この漫画は私が小学生の頃に連載が始まっていて、ちなみに私は30巻くらいまでは買って集めていた記憶があるのですが、私は山止たつひこ名義だった劇画調の絵の頃が好きでした。銅像が建つような国民的漫画になったのですね。
 初めてこの街を訪れたころ(30年くらい前?)はもちろん銅像はありませんでしたが、もっと昭和っぽい街だったように思うのですが(というか昭和だったのですが、笑)まるで別の街のようにかわっていてびっくりしました。

<参考文献>
東京都葛飾區役所『新修 葛飾區史』
現地説明版


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  1. 2017/10/29(日) 00:34:00|
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「曙町古墳(鶏声塚)」

「曙町古墳(鶏声塚)」

 「曙町古墳」は、文京区本駒込1丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、文京区の遺跡番号13番の古墳(円墳)として登録されています。

 この場所はかつては土井大炊頭利勝の下屋敷だったところで、この地域の地名の由来ともなったある伝説が残されているようです。江戸時代の地誌『江戸砂子』にはこの伝説の詳細が記されており、
 「鶏声ヶ窪 駒込竹町の先。むかし土井大炊頭利勝の御やしきの辺、夜ごとに鶏の声あり、あやしみてその声をしたひてその所をもとむるに、利勝の御やしきの内、地中に声あり、その所をうがち見るに、金銀のにはとり掘出せり、よつてかく名に成りたるといふ。」
 と書かれています。
 この言い伝えが、一帯のかつての地名である「鶏声ヶ窪」の名称の由来ともなっており、そしてこの土井屋敷には「鶏声塚」と呼ばれる塚があったといわれています。
 その後、明治2年のこの地域の町名はこの「鶏声」の意味からとって「曙町」とされており、「曙町古墳」の名称はおそらくこの町名からつけられたもので、鶏声塚と曙町古墳は同一の塚を指しているものと考えられます。(鶏声塚古墳でいいじゃないかよ、と思うのですが。)

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、昭和3年(1927)に発刊した、著書『上代の東京と其周囲』の「東京市内の古墳調査巡回の記」の中でこの鶏声塚を取り上げられており、
 此處の巡視を済まし、それから駒込曙町の土井子爵の邸内に稲荷を祀つて居る小丘の所に行つたが、此の丘も無論古墳であつて、丸塚である。
 と、鶏声塚は古墳であると断定しています。

 画像の、道路が左に折れ曲がった右側あたりが曙町古墳の跡地とされる場所です。学術的な調査は行われないまま古墳は消滅していますので、埋葬施設や周溝等の詳細はわかりません。
 こうした、名の知られた存在だったであろう古墳の前で道が折れ曲がっているという光景はかなり多く見られるように思うのですが、古墳を道標にしてまっすぐに歩いてきた後、古墳の前で次の目標に向かって少し方角を変えて歩いていくような、そんな場所だったのかもしれませんね。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


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  1. 2017/10/27(金) 09:04:13|
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「実盛塚」

「実盛塚」

 画像は、文京区湯島3丁目にある「実盛坂」を東から見たところです。
 この坂は、湯島天満宮の青銅の鳥居からお茶の水方面にまっすぐ向かった、中坂と三組坂の中間を東に下る石段坂です。この坂下方面には首洗いの井戸とともに「実盛塚」と呼ばれる塚があったと伝えられています。

 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、江戸時代の地誌『江戸砂子』の中に、原始時代及びそれ以後の古墳と考えられる遺構が掲載されているとして、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』において、「江戸砂子に見えたる古墳」という論文を発表しています。この中で、この実盛塚も取り上げられており、
 更に本郷の方へ來てはどうであるかといふと、本郷では不忍池の上、丁度今日の岩崎家の邸内あたりに、實盛の墳といふのがある。これには
 湯島の下、藤枝帶刀殿やしきの内にあり
 と書いて居る。これは果して齋藤實盛の墓であるか、固より分らないけれども、古墳が湯島の下にあつたことは、是に依つて考へることが出來る。

 と記されています。

 「湯島の下、藤枝帶刀殿やしき」を追いかけると、実盛塚の所在地を特定することが出来たかもしれませんが、塚が残されている可能性がほとんどなく、また段丘を下った低地という古墳の可能性をあまり感じさせない所在地ということもあり、あまり深追いをしませんでした。
 鳥居博士が主張するように実盛塚は古墳だったのでしょうか。。。


「実盛塚」

 この坂を上りきった歩道に文京区教育委員会による説明板が設置されています。
 この説明板には「実盛塚」についての記述も見られ、次のように書かれています。

           実 盛 坂
                               湯島三丁目20と21の間
 『江戸志』によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当
実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸が
あったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。この実盛のいわれ
から、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、
平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)
の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎三盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く
染めていたという。この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
 湯島の "実盛塚" や "首洗いの井戸" の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、
実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
                       文京区教育委員会    平成14年3月


<参考文献>
鳥居龍蔵「江戸砂子に見えたる古墳」『上代の東京と其周圍』
現地説明版


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  1. 2017/10/25(水) 01:15:36|
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「下戸塚遺跡(下戸塚古墳群)」

下戸塚古墳群 1号墳

 「下戸塚古墳群」は、新宿区西早稲田3丁目の「No.49-4遺跡(下戸塚遺跡)」内で確認された2基の古墳の総称です。『東京都遺跡地図』には古墳としての登録はなく、新宿区の遺跡番号49番の遺跡として「No.49-4遺跡(下戸塚遺跡)」が登録されています。
 この遺跡の南東側にある「穴八幡宮」は、その名称の由来となった横穴墓が存在したといわれ、また現在の早稲田大学9号館の位置に所在したとされる「富塚古墳」は前方後円墳だったともいわれており、江戸時代の地誌類には、この周辺に古来古塚が多くあり、これを「十塚」と呼んだのが「戸塚」になったとする説が記載されるなど、多くの古墳が存在したのではないかと想定される地域です。

 下戸塚遺跡の環状第四号線(西早稲田地区)の発掘調査は平成11年に行われており、調査当時すでに墳丘は失われていたものの、周溝が検出されたことにより古墳の存在が確認されています。画像は「下戸塚古墳群 第1号円墳」の跡地を南東から見たところです。
 第1号円墳と第2号円墳は約2mの間隔をあけて南北に配置されており、このうち南側にあるのが第1号円墳です。径9.24mと小規模な円墳で、北東側には幅87cmの陸橋部が設けられています。周溝内からは土師器坏が1点出土しており、この遺物により古墳の築造は5世紀末から6世紀初頭と推定されています。

 画像は「下戸塚古墳群 第2号円墳」の跡地を南東から見たところです。
 第1号円墳とともに主体部が未検出で詳細はわからないようですが、規模は径10.38m、周溝の幅48~90mの陸橋部付の円墳で、周溝内から採集された土師器坏や土師器甕より5世紀末から6世紀初頭の築造と推定されているようです。

下戸塚古墳群 2号墳

 この周辺地域の丘陵上に未確認の古墳が存在した可能性は高いのではないかと思われます。開発の進んだ新宿区内で発掘調査が行われるにはなかなかハードルが高いかもしれませんが、今後の調査の進展を楽しみにしたい地域です。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京都建設局・財団法人新宿生涯学習財団『下戸塚遺跡Ⅳ』


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  1. 2017/10/23(月) 00:38:32|
  2. 新宿区の古墳・塚
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「富塚古墳」その2

「富塚古墳」その2

 前回に続き、「富塚古墳」の続編です。
 画像は、新宿区西早稲田3丁目の水稲荷神社社殿を東から見たところです。この社殿の背後に富塚古墳の石室が移されており、また境内に高田富士が移築されています。


「富塚古墳」その2

 画像が、水稲荷神社本堂の西側に移築された、現在の富塚古墳のようすです。(古墳と呼んでよいものか躊躇するところですが、墳丘らしき前には一応「富塚古墳」の立て札もあったので。。。)
 一見すると、横穴式石室が開口した円墳のようにも見えますが。


「富塚古墳」その2

 鳥居をくぐってみたところ。確かに、古墳の石室を構築した石材で造られているようではあるのですが、富塚古墳削平の際に学術的な調査は行われなかったようなので、残念ながらこの石室は正確に復元されたものではないようです。石室を復元したというよりも、小稲荷が祀られていた狐穴を復元した、という表現が正しいのかもしれませんね。


「富塚古墳」その2

 狐穴のようす。鳥居をくぐって狐穴を覗くと穴の中にも鳥居が立てられているという、いったいどうやってお参りしたらよいのか迷ってしまいました。笑。



「富塚古墳」その2

 溶岩で固められた塚の前には「戸塚の町名の起源になった富塚古墳」という立て札が見られます。
 新宿区や教育委員会等による説明板は立てられていないようです。。。


「富塚古墳」

 塚上には祠が祀られています。
 そもそも富塚古墳は前方後円墳であり、高田富士は前方部を改変して築造されたといわれているようですので、この水稲荷神社裏の塚は「富塚古墳の後円部」ということになるのか!などと考えながらお参りしました。。。


「富塚古墳」

 同じく塚上に祀られた祠とお狐さまたちのようすです。
 東京都内でも大都会だと思われる新宿区にあって、この場所はまったくの異空間でちょっと怖いくらいです。。。


「高田富士」

 さて、画像が移設された現在の富士塚です。

 安永8年(1779)に富士信仰の行者である高田藤四郎により築造されたという高田富士は、昭和40年(1965)に早稲田大学校域拡張工事により敷地が買収されてしまいます。これには当時の富士講や水稲荷神社氏子も反対したようですが、残念ながら江戸の富士塚第一号である高田富士は崩され、富士塚直下に葬られていた高田藤四郎の墓である「日行墓」も移されてしまいます。するとその後、数年を経ずして水稲荷神社神主が死亡。富士塚取り壊し工事に関係した工事請負人、施行責任者も死亡。そして、日行墓の位置には大学の商法学部教授の研究室がつくられたようですが、この研究室に属する教授三名が次々と他界したことで、因念めいたことを感じた教授会は研究室の移転を考えているという噂が流れたといわれています。
 果たしてこれが、長い苦労の末に富士塚築造の大願を達成し、その山裾に埋葬されてまで富士塚が永遠に残ることを願望したという藤四郎の因縁か、それとも破壊された古墳に埋葬された被葬者の祟りなのか、真相はわかりませんが、当時の富士講の信徒たちは、何千人かの信徒が心を込めて築き上げた信仰のシンボルを、金権を以て奪い取った者へ下された、仙見大菩薩の罰ではないかと語っていたそうです。。。


「高田富士」

 富士塚は、富士祭が毎年7月の海の日と前日の日曜の2日間行なわれ、この2日間だけ富士塚が開放されています。早速、富士塚に登ってみましょう。
 入り口には立て札があり、「高田富士 安永九年(一七八〇年)先達日行青山藤四郎翁により築かれた江戸市中最大最古の富士塚」と書かれています。


「高田富士」

 富士祭の日にのみ立てられていると思われる説明板には次のように書かれていました。

    高 田 富 士
 安永九年、一七八〇年、大先達、日行藤四
郎が身禄同行という富士信仰の人達(富士講
)と白い行衣を身につけて、富士山頂の岩や
土を運んで、九年五ヶ月の末、ついに富士塚
を築きました。藤四郎の富士登拝は、五十八
回ともいわれています。
 御山は高さ十メートル、江戸の人造富士中
最大最古のものです。
江戸の町民で富士山に行きたくとも行けない
人達は、この人造富士山に登って、富士講で
富士登山すると同じ心境を味わうことができ
るということで大変な人気でした。これのま
ねをして江戸のあちこちで富士塚が造られま
した。
 御祭日は七月十六日、ふもとに浅間大神を
祀り五合目に小御岳大神を祀っており、毎年
富士祭として三日間、御山登拝ができます。

順路にそって足元に気をつけて登ってくださ
い。道のない所は危険ですから行かないで下
さい。


「高田富士」

 登山道の途中にも祠が祀られています。


「高田富士」

 案内に従ってさらに登ります。
 考えてみれば、富塚古墳の前方部を改造したのが富士塚であるということですから、この富士塚はものすごく薄まった元前方部でもあるわけです。


「高田富士」

 お。ようやく山頂が見えてきました。


「高田富士」

 山頂に到着。日頃の運動不足がたたって、かなりハアハアいっています。


「高田富士」

 山頂には祠が祀られています。
 山頂では鐘を鳴らすようになっているのですが、私は一人だったので鐘を鳴らす姿を自分で撮影することもなく、鐘の写真はありません。何回か叩くようになっていたのですが、何回叩いたかは忘れてしまいました。。。


「高田富士」

 山頂から見下ろしてみたところです。かなり高さがあることがわかると思います。
 富士塚の全貌を撮影出来るスペースを見つけることが出来なかったのですが、かなり大きな富士塚であるようです。


「高田富士」

 下山した右手に胎内が。
 なんだか開口した横穴式石室みたいですね。元前方部ですからね。

<参考文献>
芳賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
(財)日本常民文化研究所『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』
東京都新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編』
現地説明版


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  1. 2017/10/22(日) 00:52:17|
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「富塚古墳」その1

宝泉寺

 画像は、新宿区西早稲田1丁目にある「宝泉寺(ほうせんじ)」を南東から見たところです。
 このお寺は、西暦810年頃の草創と伝えられ、また承平年間(931-938)に平将門の乱を平定した藤原秀郷の草創とも伝えられる天台宗の寺院です。かつては、早稲田大学キャンパスの大部分が宝泉寺の寺領であり、境内裏手にある早稲田大学9号館の場所には、戸塚の地名の起源ともいわれる「富塚」と呼ばれる古墳が所在したといわれています。
 『東京都遺跡地図』には、「富塚古墳」の名称での記載はないようですが、新宿区の遺跡番号49番に「下戸塚遺跡」が登録されており、「遺跡の概要」の欄に、弥生時代の方形周溝墓とともに「円墳」が記載されています。


宝泉寺と早稲田大学9号館

 現在の町名である「西早稲田」は昭和50年の新住居表示により生まれた町名で、「早稲田」の西にあたるうえに、早稲田大学があることからつけられた名称といわれています。早稲田大学の名称は、蘭学者の松本順が東京初の洋式病院と洋学校である蘭疇学舎を現在の早稲田鶴巻町に建て、その後、東京専門学校が大学にする際に縁の深い地名である早稲田の名をとったものであり、江戸時代まではこの一帯は「戸塚村」の一部であったものの、戸塚」の地名は皮肉にもこの早稲田大学が元になって消えてしまったようです。
 元々の村名である「戸塚」の地名の由来は諸説あり、江戸時代の地誌『江戸名所図会』には、宝泉寺境内に「富塚」という塚があったことから地名となり、その後、富を戸にしたということが書かれています。また、同書や『江戸砂子』には、旧岡本氏某の邸内に古い塚があり、そこに白狐が住んでいたことから「狐塚」と呼ばれていたが、この狐塚が戸塚になったとも書かれています。
 『高田雲雀』には、この富塚に狐の形の石の扉があったから、とも書かれているようです。また『江戸名所図会』には、この周辺に古来古塚が多くあり、これを「十塚」と呼んだのが「戸塚」になったとする説もあり、また同書の「百八塚」の項には「供養塚 昔富塚と号消しも、富民の制する所なればかの供養塚を富塚と唱へし(後略)」と、喜久井町に所在した「供養塚」という塚を「富塚」と呼んでいたのが「戸塚」になったとする説もあるようです。またほかに、穴八幡の社伝には、源頼家が東征した凱旋の際にこの地にかぶとを埋めたことから「かぶと塚」と呼んだものから名づいたともあるようです。
 いずれにせよ、かつてはこの周辺に数多くの古塚が存在しており、そのうちの1基である「富塚」と呼ばれる古墳が「戸塚」の地名の由来となっているという説は、信憑性の高い話ではあるようです。

 宝泉寺墓地の背後に見えるのが現在の早稲田大学9号館です。この建物の真下に富塚古墳は存在したと思われます。この場所はかつては南側に続く高台と同じ高さだったようですが、この9号館が掘り下げて建てられていることから、地中に残されていたはずの周溝等も含めて古墳の痕跡は何も残されていないのかもしれません。。。


早稲田大学9号館西側、「富塚跡」の説明板

 早稲田大学9号館西側の築山には、新宿区教育委員会による「富塚跡」の説明板が設置されています。
 この説明板には次のように書かれていました。

新宿区登録史跡
富 塚 跡
所 在 地 新宿区西早稲田一丁目六番地
登録年月日 昭和六十二年三月十二日

 このあたりは、昭和四十一年(一九六六)
に甘泉園内に移転するまで水稲荷神社の敷
地であった。神社の境内には、富塚という
古墳(円墳)があった。
 戸塚の地名の起源は、この付近に塚(古
墳)が多く「十塚」・「百八塚」などと呼
ばれたからとか、そのうちの一つである富
塚に因んだ、とかいわれている。
 水稲荷神社移転時に崩され、整地された
が、地名の由来を物語る史跡として貴重で
ある。
 平成三年十一月
        東京都新宿区教育委員会



富塚古墳

 早大敷地内の説明板の記述では富塚は円墳とされており、『東京都遺跡地図』にも円墳の存在が記載されているようですが、言い伝えでは富塚は前方後円墳だったといわれています。江戸時代に、この富塚古墳を流用して「高田富士」と呼ばれる富士塚が造られていますが、この富士塚は古墳の前方部を流用して築かれたといわれており、当時の高田富士の写真を観察したところでは、確かに大きな富士塚の横に小さなマウンドを確認することができます。
 画像は、往時の高田富士のようすですが、当時の水稲荷神社境内の略図でも前方後円形の築山を確認することができるようです。富塚古墳は前方後円墳だった可能性が高いのではないでしょうか。
 

富塚古墳

 「高田富士」は、安永8年(1779)に高田藤四郎という富士信仰の行者により築造されたとされる富士塚で、高さ10メートルほどもある大きな塚は、段丘下の宝泉寺本堂から見上げるとかなり巨大な山に見えたといわれています。安永8年に刊行された『大抵御覧』には「かたはらの山をきりたいらげ、その土を以て新規に山のかたちをきづく。それより老若男女を論ぜず、うぶ子はふ子にいたるまで、われもわれもと土をはこぶ。力すぐれし壮士は十人前も一人ではこび、或は一もっこう或は二もっこう、又やごとなき姫御前も紙につつみてそれぞれに多少を論ぜず、土持してだんだんつもる。一簀の功、終に九仭の山となれり。」と、富士塚築造当時のようすが書かれています。また、その50年後に刊行された 『新編武蔵風土記稿』の下戸塚村の項には「浅間社」として「高さ三丈余仮山上にあり、安永八年の勧請にて山は奇石を畳みて築立巧を極めたり、毎歳六月十五日より十八日まで登山を許し参詣の人にきはへり、里人高田富士と云へり。」とあり、このころには高田富士はかなり知られた存在になっていたことがわかります。
 また、後円部には洞窟があり、この洞窟には小稲荷が祀られていたといわれていますが、これは石室を利用したものであったと考えられているようです。


日行墓

 高田富士を築いたという高田藤四郎は、宝永三年(1706)に京都市の北部で生まれ、11歳で江戸に上り、植木屋をしながら戸塚で暮らしていたといわれています。16歳で身禄の弟子となり、師と別れてからは身禄同行という富士信仰の結社を組織しており、これが「富士講」です。藤四郎は57回もの富士山登拝を行い、正保三年(1646)、年106歳で富士山の三味堂で静かに入定したといわれています。
 藤四郎は日行ともいい、墓は宝泉寺墓地内にあります。画像はこの「日行墓」です。

 新宿区原町1丁目の天祖神社の西には昔報恩寺があり、このお寺には江戸時代に「竜の玉」と「雷の玉」と呼ばれる珍宝があったといわれています。竜の玉は直径15cmほどの死んだ竜の卵で、雨の降る前には湿気を帯びて大きくなるといい、雷の玉は直径約9cmで乳白色にうす藍色とねずみ色、うす茶色の木目のような模様があり、光沢があったそうです。このうちの雷の玉は戸塚で拾ったものといわれ、富塚古墳に落雷した時に副葬品の飾り玉が崩れた玄室から飛び出したものだろうといわれているそうです。
 報恩寺は、明治2年頃に下落合の薬王院に合併して廃寺となっており、この2つの玉は残念ながら行方がわからなくなっているようですが、とても興味深いお話です。


水稲荷神社

 富塚古墳(高田富士)を含む付近一帯はその後、早稲田大学の校地として買収され、時に昭和38年(1963)、古墳は高田富士もろとも崩されてしまいます。古墳の東隣にあった水稲荷神社が西方の甘泉園に移転したことにより、富塚古墳の石室を利用した小稲荷と高田富士も移築されています。
 この際、大学は水稲荷神社の敷地と甘泉園の土地の一部を交換するようなかたちで取得したといわれ、この土地交換に際しては、水稲荷神社氏子の反対運動などもあったようです。古墳が旧地に残されていれば、新宿区内唯一の残存する前方後円墳!となっていただけに、移転による古墳の削平はとても残念ですね。。。
 画像は、新宿区西早稲田3丁目の現在の「水稲荷神社」です。元は早大商法研究室のところにあり、昭和38年(1963)7月25日にこの場所に移転したものです。この神社裏には、富塚古墳の石室の石材を利用した小稲荷が移されており、また境内東には、富塚古墳を流用して築造されたという「高田富士」が移されています。

 以下、次回の「富塚古墳 その2」に続く。。。

<参考文献>
芳賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
東京都新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編』
現地説明版


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  1. 2017/10/21(土) 00:34:46|
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「穴八幡宮」

「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 画像は、新宿区西早稲田2丁目の「穴八幡宮」を東から見たところです。

 この神社の祭神は応神天皇、仲哀天皇、神宮皇后で、寛永13年(1636)、武士、松平左衛門尉直次が射術の練習のために的場を造営、弓矢の守護神である八幡神の小祠を営んだことに始まるといわれています。
 そして、その後の寛永18年(1641)、良昌僧都が放生寺造営のため山麓を工事中に洞穴を発見、この穴の奥の台の上に高さ10センチほどの金銅製の阿弥陀如来像があり、その前に小さな瓶が一つあり、左右に多くの人骨があったといわれています。
 この穴は奈良時代初期に築造された横穴墓ではないかと考えられているようです。


「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 画像は、「出現殿」を東から見たところです。神武天皇遥拝所脇から放生寺側へ降りていく石段の途中の玉垣に囲われた建物で、金銅製の阿弥陀如来像が出現したという神穴の所在地です。
 この穴八幡は、はじめは「高田八幡」といったそうですが、横穴が発見されてから参拝人が多くなったことから「穴八幡」と呼ぶようになったといわれています。。。


「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 神穴の場所を隙間から覗いてみました。神穴の周囲は石造で構築されており、その全面に拝殿が設けられ、合わせて出現殿とした建築です。この中に神穴が整備されているようですが、残念ながら公開は一切しないということです。


「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 穴八幡宮は元々大きな前方後円墳である、という説もあるとても興味深い場所です。この前方後円墳説の真相はよくわからなかったのですが、横穴は横穴墓ではなく、前方後円墳の横穴式石室だったのでしょうか。
 画像は、まだ見学することが出来た昭和の時代の横穴のようすです。この横穴を見学できるチャンスはどうやら皆無であるようですが、う〜ん、見たかった。。。

 この横穴古墳近くには、江戸時代には「光り松」という名木があったそうです。
 時に寛永13年(1636)、穴八幡の本殿落成の祝賀の夜のことですが、神前で風流の踊りが行われた10時から11時にかけての頃、この松から提灯ほどの光るものが飛び出して神社の後ろに落ちたと言います。集まっていた人々はびっくりしたようですが、これは神霊が光ったのだろうといって伏し拝み、その後参拝者が次第に増えていったそうです。
 この松は、それ以降毎夜青白い光を放つことから「光り松」と呼ばれて名木となり、東都十八名松の一つとして有名になったそうです。これは、地表から多量の地電流が発生しているにもかかわらず十分な放電が行われない場合に、尖った物体の先端などで、静電気などがわずかずつ放電して発光するというものだそうですが、私は昼間に訪れたせいか、子の放電現象を見ることはありませんでした。
 残念ながらこの名木は延享年間(1744~1747)に枯れ、二代目も昭和20年の戦災にあって枯れ、現在は東側から上る石段右上に三代目が植えられています。
 

「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 境内の拝殿に向かう右手の水屋の中に石布袋像の手洗鉢があります。これは、かつては横穴墓の右傍にあったもので、昭和43年にこの場所に移されており、新宿区の文化財に指定されています。慶安二年(1649)の銘があり、元江戸城吹上御苑にあったもので、第四代将軍家綱が拝殿落成時に奉納したものといわれています。手洗鉢としては新宿区最古とされ、特殊な形状も貴重なものであるようです。


「穴八幡宮(横穴墓跡)」

 穴八幡宮横の「放生寺」です。
 横穴から出土したという金銅製の阿弥陀如来像はこの放生寺に奉納されたと言われていますが、残念ながらその所在はわからなくなっているようです。

<参考文献>
羽賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
新宿区教育委員会『新宿区町名誌 ―地名の由来と変還ー』
新宿歴史博物館『ガイドブック新宿区の文化財 史跡(東部編)』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/10/20(金) 00:05:59|
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「箱根山」

「箱根山」

 画像は、新宿区戸山町2丁目の戸山公園内に所在する「箱根山」を北から見たところです。標高44.6mと、山手線内で最も標高が高いとされる人造の築山です。

 この一帯は、江戸時代は、徳川家御三家の一つである尾張家の下屋敷でした。このお屋敷は、寛文7年(1667)から元禄7年(1694)までの27年の歳月を費やして完成しており、回遊式庭園には二十五景をしつらえる、水戸家の後楽園と並ぶ名園であったといわれています。そしてその後、相次ぐ火災や風被害により次第に荒廃したままとなり、安政六年の青山大火で類焼した後は復興されずに、明治維新後には陸軍戸山学校となっています。
 そして終戦後の昭和24年3月、日本で初めての水洗式トイレ完備の集合住宅一千戸近くが完成して戦災者や引揚者が入居、現在の戸山ハイツが完成します。これは、戦後の団地のはしりであるそうです。
 箱根山は、江戸時代の庭園内に造られた「玉円峰」と呼ばれる築山です。その後、明治天皇が戸山学校へ御臨幸の際には必ずこの山に登られてあたりを眺められたということで、これを記念して「明治天皇御野立所」として残されています。


「箱根山」

 別角度から見た箱根山です。かなり大きな築山であることがわかると思います。箱根山の麓に東京都により立てられている説明板には、この地域の歴史について次のように書かれていました。

 箱 根 山 地 区 の 歴 史
 この地区は、その昔 源賴朝の武將 和田左衛門尉義盛の領地で、
和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれ
ていた。
 寛文八年(一六六八)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷とな
り、その総面積は約十三万六千余坪(約四十四万八千八百余㎡)に
及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。
この「戸山荘」は、寛文九年(一六六九)に工事を始め、天和(一
六八一~一六八三)・貞享(一六八四~一六八七)の時代を経て元禄
年間(一六八八~一七〇三)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
 庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央
に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・
渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝
地が造られていた。
 なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道
五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられて
いる。
 その後、一時荒廃したが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)の初
め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍
をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」
と折り紙を付けしめたほどであった。
 安政年間(一八五四~一八五九)に入り再び災害にあい、その姿
を失い復旧されることなく明治維新(一八六八)を迎えた。
 明治七年(一八七四)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大
戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となっ
た。
 陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を
「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲
ぶ唯一のものとなっている。
             平成2年3月公園整備を記念して
                           東京都



「箱根山」

 画像は戸山公園内に立てられている「陸軍戸山学校址碑」です。明治6年には陸軍戸山学校が設置され、教育や研究が行われていたそうです。

 この地は和田戸という武士の
館の跡で源賴朝が源氏の勢ぞろ
いをした所と伝えられ後代和田
戸山と呼ばれた寛文年間尾張徳
川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等
かずかずの建物と箱根山を中心
とし東海道五十三次に擬した風
雅な庭園が造成された明治六年
その地に兵学寮戸山出張所が設
けられ翌七年陸軍戸山学校と改
称されて以来約七十年にわたっ
て軍事の研究教育が行なわれ国
軍精強の基を培ったばかりでな
く国民の体育武道射撃音楽の向
上に幾多の寄与をした記念すべ
き地であるこの度東京都がこの
地に緑の公園を整備されるにあ
たってこの記念碑を建てて東京
都に贈る
 昭和42年11月
 元陸軍戸山学校縁故有志一同


「箱根山」

 富士信仰に基づき、都内各所に富士山を模して築造された「富士塚」は、元々存在する古墳を流用したものも少なくないようです。新宿区内では、高田富士や上落合富士が、元々存在した古墳を利用して築かれたといわれています。さらには、同じように古墳を流用して造られた「経塚」や「庚申塚」なども存在します。
 また、江戸時代の下屋敷の庭園の築山などに利用されたことにより、運良く崩されずに残されたという古墳も存在するようです。
 この箱根山もかつては尾張家の下屋敷の敷地内に造られた築山で、台地の縁辺部に所在しています。ひょっとしたらこの場所にも元々存在した古墳があり、これを流用して箱根山が築かれた可能性はないものだろうかと考え、その答えを求めてこの地域の郷土資料を色々と調べていたのですが、そのような文献を見つけることはできませんでした。

 この箱根山の東側、現在の喜久井町周辺は地名の由来となった「供養塚」と呼ばれる塚のあった場所といわれており、さらにその周辺には古来古塚が多くあり、これを「十塚」と呼んだのが「戸塚」になったとする説が江戸時代の地誌類に記されており、この古塚の多くは古墳だったのではないかといわれている地域です。
 ちなみに昭和57年度から59年度にかけて東京都教育委員会が実施した東京都心部遺跡分布調査では、古地図を検討することにより当時すでに消滅していた古墳の位置の復元が行われており、この調査結果が掲載されている『都心部の遺跡』には新宿区戸山、若松町周辺の地形図が掲載されています。この古地図には、「十塚」の伝説を裏づけるかのようにかなりの数の塚状の地形(すべてが古墳かどうかは別として)を確認することが出来ます。
 また、北東に700~800メートル程の地点には、「富塚」と呼ばれる古墳が存在したといわれており、この古墳は「高田富士」と呼ばれる富士塚に改変された後に、早大9号館建設のため削平されて消滅しています。富塚は前方後円墳だったともいわれていますが、そこからさらに300メートル程の地点からは、近年の発掘調査により2基の円墳が検出されています。
 そしてさらに、南に隣接する「穴八幡宮」は、丘陵斜面に築造された横穴墓だったともいわれています。

 周囲の状況としては、ここに古墳が存在したとしてもおかしくない場所ではないかと思うのですが、こればかりは箱根山を掘り崩してみないと真相はわかりませんね。。。


「箱根山」

 敷地内には教会があって幼稚園が併設されているのですが、この建物の土台の部分には、陸軍戸山学校の時代から存在したという将校の集会所の建物がそのまま使われているようです。
 

「箱根山」
 
 この箱根山を登頂して戸山公園サービスセンター(大久保地区)を訪れると、自己申告することで「登頂証明書」を発行してもらえます。
 私は、この箱根山を最初に訪れた時はこのシステムを知らずに帰宅してしまったのですが、(そもそも時間が遅くてサービスセンターに行くのが無理だったし。笑。)今年に入ってから再登頂してめでたく証明書を発行していただきました。

<参考文献>
羽賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都建設局・財団法人新宿生涯学習財団『下戸塚遺跡Ⅳ』
新宿歴史博物館『ガイドブック新宿区の文化財 史跡(西部編)』



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  1. 2017/10/19(木) 01:16:27|
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