
画像は、足立区西新井6丁目にある「浅間神社」を東から見たところです。この神社の祭神は木花開耶姫命で、社殿の中には富士山をかたどった石の彫刻を神体として祀っているそうです。寛永15年(1638)に富士講中が土地を寄付してそこに富士山本宮浅間大権現を勧誘したのが始まりとされています。
昭和57年度から59年度にかけて東京都教育委員会が実施した東京都心部遺跡分布調査では、古地図を検討することにより当時すでに消滅していた古墳の位置の復元が行われており、この調査結果が掲載されている『都心部の遺跡』にはこの塚について、墳形の項で「円墳?」としながらも、所見、備考の項では「1万分の1地形図(昭和12年)に墳丘が認められる。墳丘は削平がいちじるしい。頂部に祠を置く。古墳とするよりも塚である可能性が高い。」と書かれています。どうやらこの調査の時点では、学術的な調査は行われていないという状況の中、塚の可能性が高いと考えられているようです。

角度を変えてみて見ると、現在もわずかな塚状の盛り上がりが見られるようですが、かなり削平されて小さくなっているようです。ネット上で公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』ではこの塚は、「浅間神社塚遺跡」の名称で足立区の遺跡番号26番の遺跡として登録されおり、古墳ではなく「中世から近世の塚?」として登録されているようです。やはり古墳とは考え難い塚かもしれませんね。。。

さて、画像は、浅間神社塚の見学後に足立区西新井栄町2丁目の環七沿いを歩いていて偶然見かけた、塚状のマウンド上に祀られた祠です。この塚について書かれている文献はまったく見つけることは出来なかったのですが、地元の人にお聞きしたところでは、この一帯は、元々は環七を挟んで向かい側のこの地域の地主さんの屋敷神だったという祠で、祀られているのは弁天さまであるようです。
ぶらぶらと街を散策していると、こうした正体不明の塚に遭遇することも少なくないのですが、なかなか塚の性格までは判らないことも多く、気になる存在です。『東京都遺跡地図』ではこの地域は遺跡として登録されていないようなので、学術的な調査は行われていないのかもしれません。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記② 西新井地区』
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- 2017/11/14(火) 01:30:37|
- 足立区/その他の古墳・塚
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画像は、足立区綾瀬4丁目にある「綾瀬稲荷神社」を西から見たところです。
創建は慶長19年(1614)といわれるこの綾瀬稲荷神社の祭神は宇迦之御魂命です。江戸時代から五兵衛新田の鎮守で、当時は稲荷社と呼ばれていました。明治7年(1874)に五兵衛神社と改称、その後、終戦後に周囲の住居表示が「綾瀬」となったことから、昭和42年(1967)に現在の名称に改称されたそうです。
この神社の境内には「綾瀬富士」と呼ばれる富士塚が所在します。

画像は、「綾瀬富士」を南東から見たところです。
敷地内に設置されている説明板には次のように書かれています。
綾瀬 稲荷神社富士塚
綾瀬四ー九ー九
この富士塚は、神社境内右手南側にあったが、
昭和二年に現在地に移築された。
塚は、溶岩で固めた岩山であり、高さが約二
メートルある。
富士塚の頂上には、浅間社を祀つる祠が安置
され、裏面に昭和二年七月一日の銘がある。
塔碑のうち、明治四十二年七月、山包丸渕講
中の碑は、先達金子五兵衛外世話人によって献
碑されたものである。最も新しい碑は山包綾瀬
講富士登山記念碑で、昭和三十六年七月に建立
している。
講社は、はじめ山包丸渕講といい、この地の
旧名称渕江領の頭文字を丸で囲み、丸渕といっ
た。農民を中心に綾瀬村で結成された。江戸時
代より農民に広まった富士山信仰を伝えるもの
としてこの富士塚を昭和五十八年十二月に、ま
た、山包丸渕富士講関係資料一式を昭和六十二
年十一月に、それぞれ区登録有形民俗文化財と
した。
平成五年三月
東京都教育委員会
南から見た綾瀬富士です。
この富士塚も古墳とは無関係かもしれませんね。。。
<参考文献>
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記⑥ 綾瀬地区』
現地説明版
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- 2017/11/12(日) 23:35:09|
- 足立区/その他の古墳・塚
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画像は、足立区足立3丁目にある「西之宮稲荷神社」を南西から見たところです。
この神社の祭神は、宇迦之御魂命・須佐之男命です。江戸時代後期までは、弥五郎新田に東之宮、本田之宮、西之宮の3つの稲荷神社と氷川神社があったといわれ、明治3年(1872)に東之宮を合祀、また、荒川放水路開削により弥五郎新田中央に位置した鎮守稲荷神社を大正元年に合祀、これ以降、西之宮は弥五郎新田の総鎮守となりました。
社殿は昭和20年(1945)5月の空襲で焼失しましたが昭和30年(1955)9月氏子中により再建。境内に所在する浅間神社の富士塚は富士山岳信仰を伝えるものとして昭和57年(1982)11月に足立区の登録有形民俗文化財となっています。
訪れたのは、良くはれた秋のお休みの日でしたが、自転車で遊びにきた子供達が境内を走り回っていて、なんだか懐かしい感じのする、とても感じの良い神社でした。

画像が、「五反野富士」を南西から見たところです。
前回紹介した、大正2年の荒川放水路工事のために破却された「川田富士(現在の大川富士)」の分霊を、ここの講がお迎えして塚を築いたという、大川富士の弟分ともいえる富士塚です。甲州からボク石を貨車で五台取り寄せ、総経費は当時の六百五十二円で、講員約500人の協力により2ヶ月がかりで築造されたとされています。
塚の前には池があり、大蛇が棲むといわれていたそうですが、池は昭和40年頃に埋められてしまったようです。

富士塚のようすです。
塚への入り口の扉は閉められているので、登拝することは出来ないようです。
<参考文献>
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記⑥ 綾瀬地区』
現地説明版
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- 2017/11/11(土) 22:19:01|
- 足立区/その他の古墳・塚
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画像は、足立区千住大川町にある「氷川神社」を東から見たところです。永仁年間の創建といわれるこの大川町氷川神社は千住七福神の布袋尊で、境内には「大川富士」と呼ばれる富士塚が所在します。

画像は、神社境内に所在する「大川富士」を東から見たところです。
この塚は旧名「川田富士」で、築造当時は二階屋ほどの高さがあったといわれていますが荒川放水路工事により破却されて移築、その後水道幹線工事のために一時撤去された後、現在地に築かれています。現在の富士塚は高さ約3メートルほどです。

敷地内には足立区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
千住川田浅間神社富士塚
富士塚は文政七年(1824)築造。祭神木花開耶姫命
(このはなさくやひめのみこと)。現在地に移築される
以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、
浅間社が同じ境内に鎮座していた。
明治四十四年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正
五年五月、現在地よりやや西側に移築された。その後、
東京都の水道幹線工事のため、昭和四十三年六月現在
地に移築復元され、今日に至っている。
塚は、富士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、
高さ約三メートルである。
山頂に、天保二年(1831)銘の石祠が安置されている。
塔碑が多く、最古の碑は、文政七年(1824)のもので丸
藤惣同行富士三十三度大願成就とある。
この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講
名を、丸藤千住十三夜同行と呼ぶ。講中は、千住五丁
目と、千住大川町全域に及び、かっては、対岸の埼玉
県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。
毎年七月一日祭礼が行われる。
平成六年三月
東京都足立区教育委員会
<参考文献>
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
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- 2017/11/10(金) 23:52:01|
- 足立区/その他の古墳・塚
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画像は、足立区柳原2丁目にある「柳原稲荷神社」を北東から見たところです。
この神社の創建は詳らかではないものの、『葛西誌』によると慶長4年(1599)の創祀といわれています。祭神は宇迦之御魂神で、明治12年の『東京府神社明細簿』には、境内社として高木神社(産霊神)と日枝神社(大山咋神・東照宮)の2社があり、氏子は35戸と記されています。
この境内には「千住柳原富士」と呼ばれる富士塚が現存します。

画像は、富士塚「千住柳原富士」を北東から見たところです。昭和59年(1984)には、足立区の有形民俗文化財に登録されている富士塚です。鳥居の奥の扉の向う側が富士塚ですが、残念ながら入り口は閉じられており、立ち入ることは出来ません。
扉の上から覗いてみると。。。

扉越しに覗いてみた千住柳原富士のようすです。昭和8年(1933)に浅間神社が勧誘され、柳原町の講社が四百六十五円五十銭の寄付を集めて築いたとされる富士塚です。塚の正面に造られている、直線的に頂上に登る石段は珍しい形状ではないでしょうか。現在も講中により七富士巡りなどが行われているようです。
この富士塚も、古墳とは無関係かもしれないなぁ。。。
<参考文献>
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
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- 2017/11/09(木) 23:44:43|
- 足立区/その他の古墳・塚
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画像は、足立区千住宮元町にある「千住神社」を東から見たところです。
かつてのこの地は千崎と呼ばれる丘陵で、原始的森林地帯であったといわれています。その後開拓民がここに住みつき、千住に集落が形成された延長4年(926)に、土地鎮護と五穀豊穣を祈願して伏見稲荷より御分霊を勧請し、稲荷神社を創立しました。永承6年(1051)、源義家は奥州征伐の際に荒川(現在の千住大橋付近)を渡り、二ツ森(千住神社)に陣営して神前に戦勝を祈願したことが、古記録に記載されています。弘安2年(1279)には氷川神社を勧請したことから2つの神社が原始林の中に並び、このためにここは「二ツ森」とも呼ばれて、住民の信仰を集めました。
江戸時代の初期に日光街道が開通すると、千住は日光街道の第一宿となり、千住神社は宿場の西方にあるゆえ、西の森と唱えられています。明治6年(1873)に千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正4年(1915)には千住神社と改称されました。
この神社の祭神は、須佐之男命と宇迦之御魂命の二神を祀っています。
社殿は昭和20年(1945)4月13日の空襲で焼失しましたが、氏子の厚い信仰と熱誠により、昭和33年(1958)以降に現在の社殿、社務所、会館、等が再建されています。
この千住神社の境内には、「千住宮元富士」と呼ばれる富士塚が現存します。

画像が、千住神社境内の社殿右側に所在する「千住宮元富士」です。
この富士塚は、大正12年(1923)6月に丸参講社により築造されますが、直後の9月に発生した関東大地震により崩壊。昭和11年(1936)に、前位置より境内奥へ十数間移動して再築したものの、戦時中の爆風を受けて石がゆるみ、登山禁止となっていました。現在も、足元が悪く滑りやすいことから、登拝は7月1日の山開きの日のみとなっているようです。
登山道は、北口、須走口、御殿場口、大宮口の4本がつけられているようです。

画像は、西から見た「千住宮元富士」です。
富士塚には、元々存在した古墳を転用して築かれたという富士塚が数多く存在しており、足立区内では、花畑5丁目の浅間神社に所在する「野良浅間」と呼ばれる富士塚が古墳であるといわれているようです。足立区は、東京都内でもかなり多くの富士塚が残されている地域ですので、野良浅間以外にも古墳である富士塚が存在するのかどうか、とても気になるところでしたが、この千住宮元富士は古墳とは無関係なのかもしれませんね。。。
<参考文献>
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
足立区教育委員会『ブックレット足立風土記① 千住地区 足立の交通誌』
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- 2017/11/08(水) 23:25:22|
- 足立区/その他の古墳・塚
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「大谷田古墳」は、足立区大谷田1丁目に所在したといわれる古墳で、『東京都遺跡地図』には足立区の遺跡番号24番に登録されている古墳です。
昭和30年(1955)に発行された『足立区史』によると、この古墳は中川堤の下あたりにあったといわれ、戦前の頃までは円墳の形状をとどめていたようですが、日立工場の建設や、數度の水害防止の作業により掘り取られて戦後には消滅してしまったようです。
その後、昭和57~59年度にかけて実施された東京都心部遺跡分布調査において、古地図を検討することにより当時すでに消滅していた古墳の位置の復元が行われており、昭和12年の1万分の1地形図に墳丘が確認されています。
画像が、「大谷田古墳」の跡地周辺のようすです。現在のこの一帯はUR都市機構大谷田一丁目団地として開発が進んでおり、古墳の痕跡はまったく残されていません。
『東京都遺跡地図』に登録されている大谷田古墳の位置と、東京都心部遺跡分布調査で確認された場所とが大きく離れているのが気になるところです。『都心部の遺跡』ではこの古墳の所在地について「日立製作所内」となっているので、おそらくこの周辺で間違いないと思われるのですが、古墳が消滅してしまった今、真相は不明です。。。
<参考文献>
東京都足立区役所『足立区史』
東京都足立区役所『新修 足立区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/11/07(火) 22:44:45|
- 足立区/その他の古墳・塚
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「南水元富士神社」は、葛飾区南水元にある神社です。創建は正慶元年(1332)と伝えられるこの神社の祭神は木花咲耶姫命で、江戸時代には旧飯塚村の鎮守だったといわれています。この神社の拝殿の背後には、葛飾区内では最も大きいといわれる「飯塚の富士塚」が所在します。
富士神社は、この数年をかけての整備事業が行われていました。私が前回訪れたのは2014年の1月頃ですが、このときすでに工事が始まっており、変な形に崩されたとおぼしき富士塚はブルーシートが掛けられて見学は不可能。境内でも工事が進められ、社殿のかわりにプレハブが建てられていました。
その後、最近になって急に富士塚のことが気になってしまって、出来たてほやほやか、もしくは完成直前の富士塚の姿が拝めるのではないかということで、良く晴れた秋の日にぶらりと出かけてみました。

画像が、新築された拝殿のようすです。拝殿の背後にわずかに、同じく新築された富士塚らしき姿が見えています。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に、「浅間社 村の鎮守なり、安福寺持」と書かれているのがこの富士神社ですが、『四方の道草』に「堤の上に松の木立ある所にいたる。ここに富士浅間の社、小高き所に鎮座まします。」とあるように、江戸時代には現在のような「富士塚」ではなく、駒込の富士神社のように塚の上に社殿が乗っていたといわれています。これを、明治12年(1879)に社殿を下ろし、平坦な山頂部に盛り土をして現在のような富士塚の形となったそうです。

出来たてほやほや、ピカピカの拝殿と富士塚のようすです。
富士塚に改変されたとされる、明治12年以前から存在したという塚がどんな性格の塚だったのかとても気になるところなのですが、この新しい富士塚は以前の富士塚の位置と多少ズレた場所に移されているように感じます。発掘調査等は行われたのでしょうか???
南東から見た富士塚のようすです。
訪れた当日はまだ富士塚は完成直前といった状況で、塚の周辺にはこれから立てられるのであろうたくさんの石碑が置かれています。完成した富士塚の姿がどうなるのかとても興味深いところです。
ちなみに以前は葛飾区教育委員会による説明板が存在したのですが、これは取り外されているようでした。いずれ新しい説明板が設置されるのかもしれません。ちなみに以前の説明板には次のように書かれていました。
区指定史跡
飯 塚 の 富 士 塚
所 在 地 葛飾区南水元二丁目1番1号
指定年月日 昭和56年(1981)2月28日
富士神社は木花咲耶姫命を祭神として正慶元年(1332)に創建されたと伝えられ、
その例祭は毎年7月1日に行われます。
富士塚は拝殿の裏にある浅間山の上に、さらに盛土をして築かれています。これ
は明治12年(1879)に地元富士講の人々によって造られたものですが、現在もそ
こに登るための石段や富士浅間の石祠・灯籠などが残され、当時の様子をしのぶ
ことができます。
例祭とともに行われる「飯塚の富士講」(区登録無形民俗文化財)とあわせ、葛飾
区における富士信仰を今に伝える貴重な資料です。
東京都葛飾区教育委員会
正面(南東)から見た飯塚富士です。
葛飾区内には、かつては村単位で講中が存在して富士塚への代参が行われていたようですが、現在はこの旧飯塚地区のみに残っていて、月例の講行事と7月1日の「七富士参り」が行われています。7月1日には、草加市瀬崎、八潮市大瀬、三郷市戸ケ崎、松戸市小山、江戸川区篠崎、葛飾区西水元浅間神社を巡拝するそうです。

富士塚の完成を見計らって、もう一度参拝に訪れようと考えている南水元富士神社でした。。。
<参考文献>
入本英太郎・橋本直子『葛飾区史跡散歩』
現地説明版
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- 2017/11/06(月) 23:52:19|
- 葛飾区/その他の古墳・塚
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画像は、葛飾区東金町4丁目にある「半田稲荷神社」を南東から見たところです。この神社は、『新編武蔵風土記稿』には和銅4年(711)の創建と記されており、当社の縁起には永久年間(1113~17)の創建ともいわれています。延享4年(1747)の火災で多くの什宝と記録の類いを失ったことから確かなことはわからないようです。
この神社周辺にはかつて塚があったといわれており、『東京都遺跡地図』には「葛飾区№18遺跡」の名称で、葛飾区の遺跡番号18番の塚として登録されているようです。

昭和45年発行の『葛飾区史 上巻』にはこの遺跡について「半田稲荷神社の西隣につづく民有地にあったが、近年道路の拡張や住宅の建設などで消滅し(中略)その痕跡すらみとめられない。いずれも古墳時代のものと推定される土師器や須恵器の破片多数が表面採集され円墳であることが確認されたが、その原形・規模については精査されていない。また出土品もほとんど散逸し詳しいことはわからない。」と書かれています。
円墳であることが確認されたという古墳の所在地は「半田稲荷神社の西隣につづく民有地」としかわからないので、正確な所在地は判然としないのですが、神社の西側には現在墓地があり、その奥が塚状にわずかに高くなっている(ように見える)のですが、この場所が古墳の跡地なのでしょうか。

神社の南西側には、この地域の地主らしき広い土地を持つ民家があり、大木の下には祠が祀られていました。いかにも古墳跡らしき風情があるのですが、特に古墳の痕跡らしきマウンドは残されていないようです。

葛飾区郷土と天文の博物館より発行された『葛飾遺跡探訪』では、塚の所在地は半田稲荷神社の裏手の、現在の半田児童遊園のあたりを古墳の跡地であるとしているようです。
同書によると、塚は昭和10年(1935)頃に切り崩されており、この際に出土したとされる海獣葡萄鏡と菊花散双鳥鏡が残されており、塚は室町時代頃の供養塚か経塚の可能性が指摘されているようです。但し、塚の周辺や境内から埴輪や土器片が採集されたという記録があり、古墳であるという説もあるようです。
元々存在した古墳を、後世に塚として流用した事例ではないかとも考えられますが、真相はわかりません。。。

画像の神泉遺構は、かつては湧泉井戸だったそうです。現在は湧き水は渇水し、敷石も荒廃しているようですが、井戸枠には現在も注連縄(しめなわ)が掛けられ、旧来の形状が保存されています。平成7年(1995)2月には葛飾区の有形文化財に指定されています。
私が最初に訪れたのは真冬だったのですが、水面がカチカチに凍り付いていました。
都内でもこんなに凍り付いてしまうのかとビックリしました。
また寒い冬がやってきますね。。。
<参考文献>
東京都葛飾区役所『葛飾区史 上巻』
葛飾区郷土と天文の博物館『葛飾遺跡探訪』
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- 2017/11/05(日) 21:23:55|
- 葛飾区/その他の古墳・塚
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画像は、葛飾区高砂7丁目にある「理昌院」を南から見たところです。このお寺の裏手にかつて所在したといわれるのが「三ツ池古墳」で、『東京都遺跡地図』には葛飾区の遺跡番号10番として登録されています。
この古墳は、昭和24年(1949)11月に可児弘明氏らによって発掘が行われています。発掘当時の記録によると、古墳は高さ約1メートル程で、発掘当時すでに大半が切り崩されて原形を失っていました。埴輪や石室も設けられておらず、敷石と粘土質の垂直壁が認められ、この垂直壁との境には貝殻が認められたようです。
敷石は死骸埋葬の一装置と考えられており、古墳は奈良時代の火葬墳と報告されているようですが、火葬された痕跡がないことから火葬墳とするには検討の余地があるようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1187890&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)に米軍により撮影された三ツ池古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
古墳はすでに宅地造成により削平されて消滅しており、正確な跡地はわからなくなっているようですが、理昌院裏手の水田に一本松と水神が祀られていたという墳丘は、当時の空中写真にはっきりと残されています。これにより、古墳のおおよその位置は推測できるようです。

三ツ池古墳の跡地周辺のようすです。生産緑地として残されている畑のあたりか、その奥の集合住宅のあたりが古墳の跡地であると思われますが、すでに地上に古墳の痕跡は見当らないようです。。。
<参考文献>
東京都葛飾区役所『葛飾区史 上巻』
葛飾区郷土と天文の博物館『葛飾遺跡探訪(改訂版)』
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- 2017/11/04(土) 22:13:47|
- 葛飾区/その他の古墳・塚
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