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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「古明神塚(?)」

「古明神塚(?)」

 画像は、八王子市山田の広園寺(兜率山伝法院廣園寺)を南から見たところです。この広園寺は、康応2年(1390)に創建されたとされる臨済宗南禅寺派の寺院で、「広園寺境域」が東京都の史跡に、また「広園寺総門・山門・仏殿・鐘楼」が東京都の有形文化財(建造物)に指定されています。

 このお寺の境内には、古墳ではないかとも考えられる塚が現存します。『東京都遺跡地図』には、この一帯が「平塚遺跡」として登録されているようですが、この塚の記載はなく、無名の塚であるようです。この塚から北東に数十メートルと近接する地点には、前回紹介した「平塚遺跡」の、弥生時代から古墳時代初頭のものと考えられる円形の周溝が5基、検出されています。この塚は果たして古墳ではないのでしょうか。


「古明神塚(?)」

 画像が、広園寺境内に所在する塚を北から見たところです。広園寺境内の一般の立ち入りが禁止とされている区域に存在するため、間近で見学することはできないようですが、敷地の外から塀越しに塚を見学することができます。
 古くは江戸時代の地誌類に記述が見られ、『武蔵名勝図会』には「高宰明神」の項に「散田村にあり。館村の隣邑にて、北に続けり。神体、衣冠の坐像。別当、村内真覚寺。例祭九月廿九日。散田村産土神とす。祭人不詳。土人伝云。往者ここへ殿上人の流落し来たりて浙去せしを、始めは杉山峠へ埋葬せしを如何なるゆえにや、山田広園寺開山、寺境内の鎮守八幡社地へ移し祀りて小蔵主の祠と号しける。その後年経て当所へ移し祀れるところをいま土人称して古明神塚と云。」と書かれています。
 この武蔵名勝図会の記述からすると、古明神塚とは現在の八王子市散田町5丁目に所在する「高宰神社」を指すのではないかとも考えられるのですが、八王子市の郷土史研究家である村下要助氏は著作『生きている八王子地方の歴史』の中で、「この古明神塚と想える塚は、広園寺鬼門裏手杉山の中に径十六メートルくらい、高さ二・七メートルくらいの陵墓形態に取った円墳がある。この塚がもとで、いつの頃からか小字平塚原とついたのではないだろうか。また、この塚は雲津院の廃寺跡西側に一段と盛上がっているところから、広園寺開基毛利師親室、雲津院殿の葬地とみて考えたのであるが、鎌倉時代はもとより、後世、寺など開基した者に陵墓形作った墓はない。雲津院墓は敷地西北端の立派な宝篋印塔にみるべきであろう。また 、この塚とするならば石塔なり立っていても不思議ではないのではないか。そこらを考えて、この円墳は雲津院の物ではないと決めたい。」と、広園寺所在のこの塚が古明神塚であり、さらにこの塚は長慶天皇の墓で天皇陵であるというかなり大胆な仮説を立てているようです。

 そしてその後、平成10年(1998)には、塚の築造時期や性格等の解明のための発掘調査が行われています。この調査によると、塚は旧地表面上に掘り上げた土をブロック状に突き固めながら構築されており、塚の中腹に平坦部が認められることから二段構造の塚であったことが推定されています。少なくとも人工的に造られた塚であることは間違いないようですが、調査範囲が限られていたことから塚の性格や築造時期は不明であるようです。


「古明神塚(?)」

 画像は、八王子市散田町5丁目の「高宰神社」です。
 私は、なんとなくお参りした後に、境内を見渡して古墳や塚らしき遺構が存在しないのを確認して、ぼんやりと帰って来てしまったのですが、撮影した写真を帰宅後に確認してみると、お隣の真覚寺に設置されている八王子市教育委員会による説明板にこの高宰神社について「元は広園寺境内にあって、室町時代南北朝に大納言信房卿が京都より亡命してきて亡くなり、神にまつられたといわれている。江戸時代のはじめに真覚寺境内の丘の上に移して高宰神社と改称し、寛政年間に現在地に移したとある。(後略)」と書かれていることに気がつきました。つまり、「古明神塚」が残存するならば真覚寺境内の丘の上!ということになるのかもしれないのですが、これはまったく見落としてしまいました。


「古明神塚(?)」

 真覚寺は、「蛙合戦の旧地」として八王子市の旧跡として指定されています。
 境内には、八王子市教育委員会による説明板が設置されていました。。。

<参考文献>
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
兜率山 廣園寺『東京都指定史跡 広園寺境域保存管理計画書』


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  1. 2017/11/27(月) 23:30:37|
  2. 八王子市の古墳・塚
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「平塚遺跡」

「平塚遺跡」

 京王線高尾駅から北に400mほど離れた、八王子市の山田町から散田町にかけて所在するのが「平塚遺跡」です。『東京都遺跡地図』には、八王子市の遺跡番号129番の遺跡として登録されています。山田川左岸の小比企丘陵上に位置するこの遺跡内からは、発掘調査により弥生時代末から古墳時代前期の円形周溝が5基、発見されています。
 画像は、この平塚遺跡所在地を南から見たところです。

 この場所には、現在は高齢者向けの集合住宅が建設されています。発掘当時すでに墳丘は消滅しており、その存在は想定されていなかった古墳ですが、調査により周溝が検出されています。
 最初の発掘調査は平成3年1991、1.500㎡を対象に行われ、1号から4号までの4基の円形周溝が検出されています。1号円形周溝は、周溝の北側中心部から南側中心部までの直径が約14メートルで、南西方向に陸橋部が存在するようです。2号円形周溝は1号円形周溝の南約3メートルほどに位置しており、周溝の北側中心部から南側中心部までの直径は約18メートルと、本遺構中最大規模であるようです。この2号円形周溝の南側に溝が切り合って位置しているのが3号円形周溝で、推定直径約14メートルの周溝の南西側に陸橋部が存在します。この3号円形周溝の南西約7メートルに位置しているのが4号円形周溝で、南側の約半分が調査区外に入るため全容は不明ですが、推定直径18メートルとされています 。


「平塚遺跡」

 その後、第1次調査の南に位置する崖際で行われた第3次調査からは、古墳時代と推定される第5号円形周溝が検出されています。推定される周溝の規模は10~13メートルで、この南側は急峻な斜面となることから、この5号円形周溝が、平塚遺跡における墓域の南端となるようです。

 この場所から5基もの古墳の周溝が検出されたということになると、がぜん気になるのはこの平塚遺跡の南西数十メートルほどの地点に円墳状に残存する「古明神塚」の存在ですが、これは次回にじっくりと紹介しようと思います。。。

<参考文献>
八王子市平塚遺跡発掘調査団『平塚遺跡』
八王子市平塚遺跡発掘調査団『平塚遺跡III』
八王子市市史編集委員会『八王子市史 資料編1 原始・古代』


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  1. 2017/11/26(日) 20:46:03|
  2. 八王子市の古墳・塚
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「八王子市№1013遺跡」

「八王子市№1013遺跡」

 画像は、八王子市小比企町に所在する「八王子市№1013遺跡」の所在地周辺を南から見たところです。
 画像の丘陵の頂部に、古墳ではないかとされる「八王子市№1013遺跡」のマウンドが存在します。『東京都遺跡地図』には八王子市の遺跡番号1013番に登録されている古墳で、時代は「古墳時代」の「円墳?」とされている遺跡です。


「八王子市№1013遺跡」

 画像は、北西から見た八王子市№1013遺跡です。
 この古墳についての情報はあまり多くはなく、また学術的な調査も行われていないようなので詳細はわからないのですが、『東京都遺跡地図』ではこの塚を「円墳?」としており、古墳ではないかと考えられているようです。八王子市の郷土史研究家である村下要助氏の著作『生きている八王子地方の歴史』の中で、「上小比企追の沢上のは、いま都道八王子相原線脇にあり、古墳のわきを道路が割っているので、朝な夕な見ることができる。」、「明治初年に直刀一振が出たそうだが、祟があってまた元に埋め戻したという。」と記述しており、おそらく東京都遺跡地図の古墳説は、この直刀が出土したという伝承によるものではないかと思われます。


「八王子市№1013遺跡」

 角度を変えて、南から見た古墳のようすです。墳丘はざっくりとえぐられたような形状となっており、以前に発掘が行われた形跡が伺えます。埋め戻したという直刀一振はまだこの場所に存在するのでしょうか。。。


「八王子市№1013遺跡」

 墳丘頂部のようすです。祠が祀られています。


「八王子市№1013遺跡」

 村下要助氏は、著書『生きている八王子地方の歴史』の中で「その西方五十メートルくらいにもあったが、十年程前に病院建設のため消えてしまった。」と、周辺のもう1基の塚の存在を記しています。同書は昭和59年(1984)5月に発刊されていますので、この古墳かもしれない塚が消滅したのは昭和49年前後と想定できるわけですが、昭和初期の空中写真で確認すると確かに塚かもしれないとも思える影が確認できるのですが、昭和49年の写真には病院らしき建物が建てられて塚の影は消滅しています。
 画像は、現在の病院の敷地のようすです。すでに古墳らしき痕跡は全く残されていないようです。。。


「八王子市№1013遺跡」
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1009008&isDetail=true)


  画像は、国土地理院ウェブサイトの『地図・空中写真閲覧サービス』で公開されている、昭和49年(1974)に国土地理院により撮影された八王子市№1013遺跡周辺の空中写真です。画像の左下角あたりに見える木立が八王子市№1013遺跡と思われます。そしてその道路を挟んだ北東側に巨大な前方後円墳を思わせる形状の地形が存在します。
 この地域の前方後円墳の存在を記す文献は全く存在しませんし、この地域に巨大古墳を築造する豪族の存在は考えにくいところですので、おそらくは自然地形が偶然に前方後円墳のような形状に見えているだけなのだと思いますが、もしこの地形が古墳であれば、群馬県太田市の「天神山古墳」や茨城県石岡市の「舟塚山古墳」(いずれも国指定史跡)」に匹敵する、200メートルを超える巨大な前方後円墳ということで、希望的観測に過ぎませんがちょっと心が躍りました。笑。
 いや、前方後円墳ではないですけどね。きっと。多分。。。

<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/11/25(土) 22:49:37|
  2. 八王子市の古墳・塚
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「龍見寺経塚(館町龍見寺裏山地区遺跡)」

「龍見寺経塚(館町龍見寺裏山地区遺跡)」

 画像は、八王子市館町の「龍見寺」を南東から見たところです。曹洞宗に属するこのお寺の裏山は、八王子市の遺跡番号997番の「館町龍見寺裏山地区遺跡」として登録されています。
 この裏山の尾根上からは、平成5年1993に行われた学術調査により、経塚の埋経施設が確認されています。遺構は、1.6×1.2mの不正楕円形の土坑の中に礫で組んだ小石室があり、この空間に銅製経筒が納められて、更に礫が円錐状に積み上げられていたようです。石室内に納められていたのは銅板打物製の経筒で、高さ17.5cm前後、直径10cm内外の円筒で、経筒内には10巻の経典が納められていたと推測されています。この経塚は、経筒の製作技法から12世紀代のものと考えられています。


「龍見寺経塚(館町龍見寺裏山地区遺跡)」

 画像が、この龍見寺経塚の所在地周辺のようすです。塚の所在地は、今も農地が広がる台地の縁辺部の林の中にあたり、これをグーグルマップで確認していたので塚は間違いなく残存すると信じ込んで訪れてしまったのですが、後に調べてみたところでは、発掘調査により経塚の埋納施設が偶然に発見されたという状況で、どうやらすでにマウンドは消滅してしまっているようです。
 農作業をしていた地元の方にお聞きしたところでは、農道が二股に分かれた間の材木が積み上がっているあたりで10年以上前に石の遺構を調査していたということなので、経塚の所在地は画像の周辺で間違いないと思われます。


「龍見寺経塚(館町龍見寺裏山地区遺跡)」

 龍見寺の境内には、やはり銅製経筒が出土したとされる伝承地がもう1箇所存在します。この塚は現在は湧水池の中島として残されており、塚上には祠が祀られています。出土品とされる遺物は、蓋や底板が失われた銅製の経筒が3点と収納されていた光明真言の版本で、いずれも龍見寺に所蔵されており、やはり12世紀代のものと考えられているようです。


「龍見寺経塚(館町龍見寺裏山地区遺跡)」

 裏山発見の経塚や、経筒の湧水池中島出土の伝承から、この龍見寺の境域が、12世紀代には経塚を造営するにふさわしい聖地であったことは確実で、慶長3年1598とされる龍見寺の開山の寺伝が大きく遡る可能性や、前身寺院の存在も考えられているようです。

<参考文献>
八王子市市史編集委員会『新八王子市史 資料編1 原始・古代』
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』


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  1. 2017/11/21(火) 23:31:45|
  2. 八王子市の古墳・塚
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「お塚様」

「お塚様」

 画像は、清瀬市上清戸2丁目に所在する「お塚様遺跡」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、清瀬市の遺跡番号64番の「中世の塚」として登録されています。

 地元の人には「お塚さま」として知られているこの塚は、昭和50年発行の『多摩の歴史2』には「塚の周囲は数十メートルあって高さは約1メートルほど」とあり、昭和54年発行の『清瀬・田無・保谷・東久留米・東村山史跡散歩』には「直径5メートル、高さ0.7メートルの塚」と書かれており、昭和の時代に周囲を削られて小さくなっていったのかもしれません。現在は、開発が進んだ住宅地の中で更に小さくなっているようです。かつては塚上に樹木が茂っていたようですが、今では枝を切られたかつての大木が肩身を狭くしています。


「お塚様」

 画像は南西から見たお塚さまです。この角度から見ると、マンションの駐車場の一角にひっそりと残されているようすがわかります。貴重な塚ですから、しっかりとした説明板があれば良いと思うのですが、南北朝時代に新田義貞がここを通った時に、愛馬に死なれてしまったことからここに埋めて、供養したという言い伝えが残されているようです。

<参考文献>
武蔵野郷土史刊行会 有峰書店『多摩の歴史2』
江幡潤『清瀬・田無・保谷・東久留米・東村山史跡散歩』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2017/11/20(月) 00:10:06|
  2. 西東京市•東久留米市の塚
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「下里富士(三角山)」 

「下里富士(三角山)」 

 清瀬市竹丘2丁目に所在する「下里富士」は、清瀬市と東久留米市との境を流れる野火止用水の北側に築かれている富士塚です。武蔵野に多く見られる円錐状の富士塚で、その姿から地元では「三角山」と呼ばれています。


「下里富士(三角山)」 

 塚の正面の山裾に、石造の明神鳥居が建てられています。富士塚によくあるボク石はなく、赤土が露出した塚上には樹木が茂って塚そのものがこんもりとした森のようになっています。
 石碑の数は少なく、明治12年(1879)造立の「小御嶽神社」碑が最古のもので、この種の碑は一般に塚築造の際に塚に立てられるのが普通であることから、この富士塚は文化3年(1806)から明治12年(1879)の間に築造されたことが推定されています。


「下里富士(三角山)」 

 鳥居をくぐると、頂上に登る石段が直線的に造られています。これは、従前には電光状か「く」の字状に造られていた登山道を、後にこのように直線的になおして、登りやすくしたのではないかと推察されているようです。


「下里富士(三角山)」 

 山頂のようすです。富士浅間神社が祀られています。

<参考文献>
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
現地説明版


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  1. 2017/11/19(日) 00:17:07|
  2. 西東京市•東久留米市の塚
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「中里富士」―東京都指定有形民俗文化財・清瀬市指定有形文化財―

「中里富士」―東京都指定有形民俗文化財・清瀬市指定有形文化財―

 「中里富士」は、清瀬市中里3丁目に所在する富士塚です。
 富士山は古くから信仰対象の山とされており、特に江戸時代中期には富士登拝の風潮が盛んとなりました。しかし、実際の富士登山は経済的負担が大きく、危険が伴うことから、富士登山のできない人々のために各地に富士塚が築かれました。
 東京都の有形民俗文化財、また清瀬市の有形文化財として指定されているこの「中里富士」は、円錐状に赤土を盛り上げて築いた高さ12メートルと大型の富士塚で、ボク石は存在せず、頂上への登山道は正面に電光状に設けられています。築造は、中里講社に伝わる「清瀬村中里富士講社起源」と題する文書(大正10年代の記載と考えられている)には文政8年(1825)に再築とあり、さらに「明治7年(1874)春講員ト謀リ、村富士ヲ凡七尺五寸高ク再築シ」と記されています。


「中里富士」―東京都指定有形民俗文化財・清瀬市指定有形文化財―

 富士塚の北側に設けられた鳥居をくぐると登山道は九十九折りに続き、一合目から九合目までの小さな石柱が建てられています。中里富士の石碑は、塚の規模に比べて少なく、頂上の2基と山裾に5基を数えるのみで、名所石はありません。


「中里富士」―東京都指定有形民俗文化財・清瀬市指定有形文化財―

 登山道に向かって右側山麓には、富士山麓の風穴と呼ばれる洞窟をくぐることによって安産の利益があるという胎内巡りを模して掘られた横穴が存在するそうです。当日は気がつかず、写真を撮ることなく見過ごしてしまいました。現在は閉鎖されているようです。富士登山や火の花祭りなどの講行事は現在も継続されており、武州田無組丸嘉講中里講社関係資料は東京都の有形民俗文化財に指定されています。


「中里富士」―東京都指定有形民俗文化財・清瀬市指定有形文化財―

 山頂には石製小祠が2基と石碑2基があり、このうちの明治14年(1881)造立の碑は丸嘉講と武蔵野北部一帯に広がる丸吉講の講紋を彫ってあるもので、正面中央に大日如来と思われる仏像を彫っており、明治維新の際の神仏分離の影響もこの塚までは及ばなかったようです。


「中里富士」―東京都指定有形民俗文化財・清瀬市指定有形文化財―

 毎年9月1日には「富士吉田の火祭り」の再現ともいえる「火の花祭」と呼ばれる行事が現在も行われているそうです。この行事は、講中が富士塚で経文を唱えたあと、円錐形の麦わらの山に火がつけられ、その火にあたり、灰を家に持ち帰って門口にまくと火災除けや魔除けになり、畑にまくと豊作になると伝えられているものだそうです。

<参考文献>
有坂蓉子『ご近所富士山の「謎」』
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
現地説明版


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  1. 2017/11/18(土) 02:25:33|
  2. 西東京市•東久留米市の塚
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「笹塚」その2

笹塚その2

 さて、今回は、平成28年(2016)10月30日に取り上げた「笹塚」についての追記です。

 実はその後、幡ヶ谷の一里塚が存在したという当時の土地所有者の現在の当主の方のご好意により、幡ヶ谷の一里塚に建てられていたのではないかとされる石碑を見学することができました。
 最初に更新した記事の中ではこの石碑についてはふれなかったのですが、この地域の郷土誌には、一里塚に建てられていたとされる標識碑についての記述が見られます。
 明治6~7年頃に書かれたという『東京府志料』には
 日本橋区通一丁目二丁目の間に於て東海道より西折し、呉服橋を経て旧日比谷門に至り、麹町隼町一番地に至りて日本橋より一里、此に第一の標を建つ、夫より内藤新宿三丁目二十四番地に至り二里一町二十五間、此に第二の標を建つ、夫より幡ヶ谷村五十五番地に至り此にて三里第三の標を建つ、夫より和田村と代田村松原村の間を経て下高井戸村八十八番地に至りて四里、此に第四の標木を建つ。
 とあり、さらに『幡ヶ谷郷土誌』には、
 幡ヶ谷一丁目四番地先に在った小堆塚の上の礎石上に建った標識碑こそ、東京府志料に言ふ幡ヶ谷村五十五番地先の一里塚標である。と言ふのも此の書を編むに當って少年時代の記憶を慥ならしめるために、同地點の地先土地所有者であり、前記志村兵四郎邸の當主である志村兵吉氏(明治廿三年生)と面語したのであるが、その時同氏は曰ふ。この八寸角程の標識碑の上部二尺程の破碑が嘗ての道路改正工事の際に掘出され、同氏の所有地内に投棄されてあった故熟視したが、それの建立歳月は忘却したが碑の一面に品川縣云々と刻まれてあり、この品川縣といふのが面白かったので未だに忘れずと、そして更に語を継いでこれの礎石の三尺四方もあるかと思はれたものは、建立當時の儘に地中に埋没されて居るであらうし、前記上部破碑は今も同氏所有地内の何所かに在る筈であると。
 當村が品川縣下を称したのは明治二年二月から同四年十一月までである。としたならばこの標碑がけんりつされたのはこの期間内であったといふ事は明かであり、前記東京府志料編纂の歳次とも略ぼ一致して居る點から考察して、幡ヶ谷の一里塚の建立地點は此所であったと言ふ事も確然とする。

 と書かれています。
 従って、当日はこの「品川縣云々」と刻まれているという標識碑が残されているものと、現地を訪れてみたところ…


「笹塚(その2)」

 というわけで、画像がその石碑です。
 『幡ヶ谷郷土誌』にある「八寸角程」よりはわずかに細い、六寸くらいかなという印象で、長さも『幡ヶ谷郷土誌』にある「上部二尺程」よりも若干小さい、一尺から一尺半くらいかなという印象で(正確に測ったわけではありませんが)、幡ヶ谷郷土誌が書かれてからかなりの時間が経過していますので、破損等があって小さくなってしまったのかもしれません。


「笹塚(その2)」

 と、そこで気がついたのが石碑に刻まれた文字なのですが、四面あるうちの三つの面には「内藤新宿」と刻まれており、さらにその下部にも何らかの文字が刻まれていると思われますがこれは不明。そして、残る一面は、1字目は「吹」に似たような漢字ですが正確にはよくわからず、2字目は「治」、3字目は漢数字の「三」で、4字目は健康の「康」の字に似ているように思いますがよくわからず。判読できるのは「○治三○」で、5文字目以降も何か刻まれているようなのですが、これも不明です。つまり、『幡ヶ谷郷土誌』にある「品川縣云々…」と刻まれた石碑ではなく、おそらくはまったく別の存在である「内藤新宿」と刻まれた標識碑だったのです。
 この石碑は、現在の土地所有者である当主が今から6年前、敷地内の集合住宅の建築の際に、その工事により掘り出された石碑を自宅内に保存しておいたものであるそうですが、どういう経緯でこの幡ヶ谷の地に存在することになったのでしょうか。


「笹塚(その2)」

 私はこの道のプロではありませんので真相はわかりませんが、内藤新宿とは、江戸時代に設けられたとされる、甲州街道に存在した宿場のうちの日本橋から数えて最初の宿場であり、現在の地番で新宿区新宿1丁目から3丁目の一帯にあたります。つまり、甲州街道最初の一里塚が存在したとされる「新宿追分」の周辺が内藤新宿です。「新宿追分」の一里塚にあった標識碑が、何らかの事情でこの幡ヶ谷の地に移されたのか、それとも一里塚とはまったく無関係の石碑が幡ヶ谷に移されたのか、謎はむしろ深まるばかりです。また、品川縣と刻まれているという幡ヶ谷の一里塚本来の標識碑も、所在は不明のままです。

 ここから先は、専門家の調査や研究の結果を待つしかないと思われますが、果たして真相が解明される日がくるのかどうか、とても楽しみです。
 当日は、所有者の方に貴重な時間をいただいて見学させていただきました。楽しい時間をありがとうございました!

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-633.html (2016年10月30日号「笹塚」その1)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-758.html (2017年09月11日号「新宿追分 一里塚跡」)

<参考文献>
東京府豊多摩郡『豊多摩郡誌』
堀切森之助『幡ヶ谷郷土誌』


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  1. 2017/11/17(金) 00:08:22|
  2. 渋谷区の古墳・塚
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「保木間富士」

「保木間富士」

 画像は、足立区西保木間にある「氷川神社」を南から見たところです。
 この神社の祭神は、須佐之男命、豊受姫命、菅原道真が祀られています。創建は明らかではないようですが、中世のこの地は、関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられており、妙見社が祀られ、のち天神を祀る菅原神社となったといわれています。
 この氷川神社前を東西に通るのは「流山道」で、この道が戦国時代以前に成立していたことや、当地に千葉氏の陣屋跡があったことから、慶長年間(1596年頃)以前ni
宝積院と時期を同じくして創建されたと考えられているようです。古くは天神社と称していましたが、明治5年に伊興氷川神社から分離して保木間氷川神社と称し、保木間村の鎮守となっています。
 この神社の境内には「保木間富士」と呼ばれる富士塚が現存しています。


「保木間富士」

 画像は、「保木間富士」を南から見たところです。
 富士塚のはずなのに鳥居の額に「榛名神社」とあることから不思議に思っていましたが、この富士塚は明治9年(1876)、土地の榛名講が築いた塚を、その後に富士塚として転用するという珍しい事例であるようです。
 昭和の頃までは、田圓の中に所在する塚だったようですが、現在は西側には小学校の校舎がせまり、氷川神社社殿との間で小さくなっています。田園に残されていた古墳を流用して榛名神社を祀った、というようなことはなかったのでしょうか。ちょっと気になる富士塚です。。。


「保木間富士」

 南西から見た保木間富士です。
 この神社は、あの足尾銅山鉱毒事件で知られる田中正造氏が被害住民と出会った場所としても知られているようです。敷地内には、足立区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

 田中正造と保木間の誓い

 一八九〇年代に発生した足尾銅山鉱毒事件は近代
史上で特筆される公害事件である。一八九八年(明
治三一)九月群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の被害
住民三〇〇〇人が鉱毒被害を訴えるため上京した。
被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)
は、同年九月二十八日、上京する被害住民とここ保
木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力する
という演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この
時被害住民たちは涙して演説を聞いたといい、これ
を保木間の誓いという。
 当時東京府南足立郡淵江村だったこの地では、村
長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官
による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを
行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた
(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は渕
江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって
支えられていたという。
   平成十年九月
            東京都足立区教育委員会


<参考文献>
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
現地説明版


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  1. 2017/11/16(木) 00:36:46|
  2. 足立区/その他の古墳・塚
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「島根富士」

「島根富士」

 画像は、足立区島根4丁目にある「鷲神社(わしじんじゃ)」です。
 この神社の祭神は日本武尊、誉田別命、国常立命で、末社に三峰社、客殿等があります。古代に、日本武尊が海岸線の近くにあったこの場所に着いたことから浮島明神として祭祀し、文保2年(1318)に武蔵国足立郡島根村の鎮守として中興され、大鷲神社と唱えたといわれています。昭和31年9月に氏子中の寄進により社殿が再建され、境内の整備も行われています。
 祭礼時に神楽殿で奉納される島根ばやしが昭和57年12月に、島根神代神楽が同63年11月に足立区の登録無形文化在西呈されています。また、千住四丁目の石工、保永助七の手による享和2年(1802)在銘の明神型石像鳥居は、昭和60年11月に足立区の登録有形文化財(建造物)に指定されています。
 そして、境内には「島根富士」と呼ばれる富士塚が現存します。


「島根富士」

 画像が鷲神社境内に所在する「島根富士」です。 
 この富士塚について、塚の前に建てられている富士塚碑には次のように書かれていました。

富士塚
富士は日本一の山 日本人の心の古里である。
今でこそ登山が日常化してはいるが昭和の初め白装に身を固め「六根清浄」を唱えた乍ら 信仰の山 最高の修行の道場としてあがめられていた富士山 当時の神國日本の尊い山であった。
島根の若者が「十三夜同行」として先達富岡小三郎氏に引率されて 何人もの人が島根富士講から出発している 村ではその帰着に合せて牛車に万燈を仕立て島根ばやしのおはやし入で村中の人が迎えに出た 千住大川町の氷川神社まで往きは子供達が大勢乗り込んで帰りは「六根から来る一切の迷いを断ち切って心身清らかに」なった島根の若者が行者姿も凛しく仕立の牛車に乗せて鷲神社迠帰った 富士塚に無事帰着の報告祭を行った 登山で日焼した若者達がまるで修行を積んだ聖人の様に私達子供の目にうつった。
先達の富岡氏が鷲神社に残してくれた神社の富士塚も幾星霜経て破損がひどく この際復元した方が良かろうと云ふ事になり 七月一日浅間祭までに工事を完了するべく地元有志の献身的な奉仕を頂き 此々に完成に至る。
昭和六十三年七月一日
氏子中



「島根富士」

 山頂に祀られている祠のようす。
 この富士塚もどうやら古墳とは関係ないようです。。。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2017/11/15(水) 00:55:54|
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