
画像は、世田谷区大蔵3丁目の大蔵団地内に所在する「石井土塚」を北西から見たところです。
この塚は、『東京都遺跡地図』では世田谷区の遺跡番号245番の「時代不明の塚」としながらも「方墳』とも書かれています。また、昭和63年(1988)に東京都教育委員会より発行された『東京都遺跡地図』には「石井戸塚」の名称で掲載されているようですが、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』では「石井土塚」という名称で掲載されています。ちなみにこの地域は、町名にはなっていないものの「石井戸」(石井と井戸をかけて石井戸)という地名で呼ばれており、また石井戸は「石井土」とも書かれているようなので、どちらが正しい塚の名称なのかは何ともいえません。学術的な調査の記録は見当らず、発掘調査は行われていないようですので、塚の性格や出土品の存在などの詳細もわかりませんでした。

塚は石垣により方形に改変されており、この形状からは方墳であるようにも見うけられますが、南側に残されている塚の残土のようすからは、円形の塚であった可能性も考えられるのかもしれません。
『大蔵 世田谷区民俗調査第7次報告』にはこの塚について「塚の祭り 大蔵団地の中の妙法寺領のところに塚があり、そこに妙法寺住職の玉田顯壽氏が大正7年2月9日に「石井神社舊地」と刻んだ石碑を建立した。一昨年よりその祭りを行うようになり、その際には経を唱え、子供達に甘酒を配り、石井戸囃子を奏じた。以後、何年か間隔をあけて行う予定だという。」とのみ書かれており、塚の性格についてはふれられていません。
この塚の周辺には「砧中学校古墳群」や「殿山古墳群」、「大蔵古墳群」などが所在しており、またこの塚の築造された立地的に考えても、この塚は古墳ではないのかなと考えてしまいますが、古墳であるある可能性はないのでしょうか。。。

墳丘上のようすです。『東京都遺跡地図』には塚の規模について「径5m、高さ1.5m」と書かれています。
画像は4~5年前のものですが、塚は今も健在であるようです。。。
<参考文献>
世田谷区教育委員会・世田谷区民俗調査団『大蔵 世田谷区民俗調査第7次報告』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/20(水) 22:56:43|
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「星野塚」は、世田谷区桜上水2丁目に所在したとされる塚です。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号243番の"中世の塚”として登録されています。
この塚に関しては、記述のある文献が見つからず、詳細はわかりませんでした。『東京都遺跡地図』には赤い色の残存マークが記されており、径1.3m、高さ0.9mと規模についても記されているのですが、現地は周辺地域の宅地化が進み、塚が残されているようすはありません。
塚のご近所に長く暮らす古老の男性にお話を聞くことが出来たのですが、かつては、画像の城南信用金庫の裏側あたりに塚があり、頂部には祠が祀られていたそうですが、今から50年ぐらい前には塚は崩されて消滅してしまった、ということでした。
個人の邸宅内に、なんらかの塚の痕跡が残されているということは考えられれると思うのですが、路上から見渡した限りでは何も発見できず、残念ながら詳細のわからなかった塚です。もしまた訪れる機会があって何か発見できたら、あらためて更新しようと思います。。。
<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/19(火) 21:42:49|
- 世田谷区/その他の古墳・塚
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画像は、世田谷区船橋1丁目に所在する「船橋観音堂塚」を北から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号185番として登録されている、中世から近世に築造されたとされている塚です。
この「船橋観音堂塚」と、塚の所在する「船橋観音堂」について、世田谷区教育委員会より発行された『せたがや社寺と史跡』には次のように書かれています。
船橋観音堂は、宮坂の常徳院旧跡と伝えられる船橋の通称「穴山」または「御林」とも呼ばれている地点の南、百米余りの所にある。
創建年代は不明であるが、常徳院が宮坂へ移された以後の建立と考えられる。慶安4年(1651)・寛文5年(1665)の頃、鈴木半右衛門家の先祖が所有地116坪余りを寄進し、一族及び同志代々の霊塋守護、供養のため建立したものである。隣地境内に200坪余りの共同墓地がある。
此の鈴木家は、延宝年代(1673~1680)頃より享保14年(1729)まで3代にわたり、船橋村知行の徳川家旗本山本氏領5ケ村の宰領名主となっていた記録がある。鈴木家には正徳6年(1716)、宝暦8年(1758)などの堂宇に関する古文書及び現在に至るまでの書類が保存されている。現在のお堂は昭和11年に改築したもので建坪9坪、木造瓦葺入母屋造りである。
本尊は聖観世音菩薩座像で檜皮葺屋根の高雅な御堂造りの厨子の中に安置されている。厨子は間口奥行とも3尺、高さ約6尺。両扉には木造くりぬきの16の菊、五七の桐の吉良家の紋章が一対ずつ刻してある。
『世田谷城名残常盤記』によれば、足利氏時代の世田谷城主吉良氏寄進の仏像ではないか、また天文4年(1535)吉良頼康の時、その家臣内海掃部・鈴木藤三郎などは吉良氏側近の婦女子のため無実の罪を蒙り、横死したが後に無実とわかり尉霊の措置が取られたと伝えられているので、この観音堂もこの事件に起因するのではないかとも云われている。
堂の前、南側に老樹に固まれた古塚がある。高さ2m余り、頂に観世音石仏像を安置しているが、何か古事蹟を秘めているもののようである。塚の麓には鈴木・内海家及び一族の墓地がある。寛永・承応年代のものそれぞれ一基、その他慶安・延宝・元禄など古いものがある。
お堂は境内共同墓地使用者の保有するもので、宗派は限定できないが、古くからの使用維持者は曹洞宗常徳院の檀下である。
秋10月頃には、お十夜講が毎年おこなわれていたが、昭和17年頃から中絶されている。(『せたがや社寺と史跡』30~31ページ) 世田谷の住宅街にこんなに大きな塚が残されているとはちょっとびっくりですが、塚自体は墓地化が進んでいて全体の形状は少しわかり難くなっています。『東京都遺跡地図』によると、塚の規模は直径8m、高さ2mで、中世から近世の塚であると記載されていますので、どうやら古墳とは無関係であるようですね。。。

画像は墳頂部のようすです。「観世音石仏像」が祀られています。
<参考文献>
世田谷区教育委員会『せたがや社寺と史跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/18(月) 22:54:13|
- 世田谷区/その他の古墳・塚
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「西岡3号墳」は、世田谷区等々力3丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号132番の古墳(円墳)として登録されています。
1930年代には、後に大田区立郷土博物館の館長を努めることになる西岡秀雄氏による荏原台古墳群の分布調査が行われており、この調査により「西岡4号墳」と命名されています。『考古学雑誌 第26巻 第5号』には当時の調査結果が記されており、次のように書かれていました。
第四號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字等々力字上原
新地名 東京市世田谷區玉川等々力町三丁目杉田吉之助氏所有地
(型式) 圓型墳
(現況其の他) 畑中にあるが、生垣を以つて圍ひ、封土上部には稲荷祠があり、未發掘と聞くも詳細不明である。高さ約二•五米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』309ページ) 昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には、この塚の高さは1.5mと記載されていることから、昭和に入って塚はさらに小さくなっていたものの、何らかの痕跡(または伝承)が残されていたのかもしれません。同書には「塚の可能性も推定される」と書かれていましたが、『東京都遺跡地図情報』ではこの塚は「古墳(円墳)」とされています。
実は、私が初めて「古墳群」を詳細に巡ってみたのが大田区田園調布から世田谷区野毛にかけて存在する荏原台古墳群で、この4号墳周辺も散策しました。最初に歩いてみた8~9年程前(?)には、古墳の跡地とされる画像の道路の右側あたりに祠が祀られているのを見た記憶があるのですが、再度訪れた時(といっても3年程前)にはすでに見当らなくなっていました。『考古学雑誌』には、墳丘上部に稲荷祠が祀られていたことが記載されていることから、この祠の所在が気になるところなのですが、当時の記憶が朧げなうえに当時の写真も消失してしまっており、今となっては確認することは出来ません。
見学して廻ったときにすぐに記事を書いて更新しておけばよかったのですが、探検して歩くことのほうが楽しくなってしまっていたので仕方がないですね。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2017/12/17(日) 23:58:16|
- 世田谷区/その他の古墳・塚
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「西岡3号墳」は、世田谷区等々力3丁目に所在したとされる塚です。
古くは1930年代に、後に大田区立郷土博物館の館長を努めることになる西岡秀雄氏による荏原台古墳群の分布調査が行われており、当時古墳ではないかと考えられていたこの塚は「西岡3号墳」と命名されています。『考古学雑誌 第26巻 第5号』には当時の調査結果が記されており、次のように書かれていました。
第三號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字等々力字上原
新地名 東京市世田谷區玉川等々力町三丁目杉田吉之助氏所有地
(型式) 圓型墳
(現況其の他) 畑中にあり、現在殆ど消失せんとしつつあるが、封土上部に石祠及び植込みあり。以前直刀其の他を出したと聞いたが詳細不明である。高さ約一米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』309ページ)
同書の記録では、直刀その他を出土したという伝承があるようなのですが、『東京都遺跡地図』ではこの西岡3号墳は、世田谷区の遺跡番号131番の「中世の塚」として登録されているようです。

画像は、塚の跡地ではないかと想定した地点に、石碑が建てられているそれらしき植込みが存在したことから取り上げてみました。わずかな地膨れ程度の高まりが見られることから、怪しい!と思える場所ですが、実は真相はわかりません。昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』には、この塚の「副葬品」の項に「鉄鏃、仏像」と書かれており、この仏像の存在が、3号墳が塚ではないかという根拠となっているのではないかと思われますが、学術的な調査の記録は見つけることは出来ませんでした。『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』で以前公開されていた「遺跡一覧」の「遺跡の概要」の項には、この塚の高さは1mと記載されています。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
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- 2017/12/16(土) 23:53:33|
- 世田谷区/その他の古墳・塚
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「稚児塚」は、八王子市緑町の、現在の多摩少年院付近に所在したといわれる塚です。すでに塚は消滅しており、『東京都遺跡地図』にも登録されていない言い伝えにのみ残る塚ですが、塚に建立されていたという五輪塔が「萬福寺」に移されて残されており、かつての面影を偲ぶことが出来ます。
画像は、萬福寺を南から見たところです。中央の石段を登った本堂手前の右側あたりに、稚児塚の五輪塔が所在します。

画像左が「稚児塚」の五輪塔です。右に並んで建っているのは如意輪観音と庚申塔です。
八王子市の郷土史研究家である村下要助氏の著作『生きている八王子地方の歴史』にはこの塚について、「戦争中まで昔の月見橋を渡った先の、多摩少年院の敷地の中に稚子塚というのがあって、古道わきの小高くなったところに、小さいが立派な中世作りの五輪石の墓石が立っていた。戦中であるし食糧増産ということで取り払われるときに、目の前の万福寺さんが、元寺領の中の塚ということで寺へ引き取ってくれた。今本堂の前の菩提樹の根元にひっそりと置かれている。口伝えによると、尊氏はこの街道をよく通ったらしい。ある寒い夕暮れ、尊氏の小さな娘は、腹を煩って亡くなったそうである。またこの稚子塚を、万福寺さんは、この辺に伝わっている幾つかある護永親王の落し子の塚だときいているという。」と書かれています。
実際に稚児塚がどんな性格の塚であったかは、学術的な調査が行われないまま消滅してしまった今となっては知る術もありませんが、中世のスーパースターである足利尊氏がこのあたりをよく通っていたとは、意味なくドキドキしてしまいますね。
現在の多摩少年院付近に存在したという稚児塚は、ひょっとして敷地内に痕跡が残されているのではないかとも考えたのですが、当然ながら敷地内に立ち入ることは出来ず、真相はわかりません。。。
<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
現地説明版
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- 2017/12/14(木) 23:38:21|
- 八王子市の古墳・塚
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八王子市並木町の横山事務所内には、オオツクバネガシの巨木が植えられた塚が1基、保存されています。実はこの塚は、以前に武蔵陵墓地を参拝した帰り道、自転車で甲州街道をぶらぶらと走っていた時に初めて出会いました。素人目にも、自然地形などではなく人工的に盛られたマウンドであるように見えるのですが、『東京都遺跡地図』にも登録されていないこの塚は、私に取っては正体不明の塚でした。
現地に設置されている説明板には、塚の性格や由来等については全くふれることはなく、なぜか塚上に植えられている大衝羽根樫(オオツクバネガシ)についてのみ書かれています。
市指定天然記念物
横山出張所のオオツクバネガシ
所 在 地 八王子市並木町四二〇番地
指定年月日 昭和五十年二月二十七日
オオツクバネガシは、アカガシとツクバネガシとの間種で高尾山中のものが標識樹(原産地)として発表されたものです。
この木は、どちらかといえばアカガシの方に近い性質をもっているオオツクバネガシの一型であり種類の研究上から標本的に保存すべきだとして研究者等から指摘を受けている巨木です。
目通りは三・一〇m、樹高は十八m以上です。
○カシ
カシは、カタギのことで堅木を合わせて和字の「樫」を作りカシと読ませています。ブナ科の双子葉植物で、アカガシ、シロカシ、アラカシ等数種があります。果実は卵形で「カシの実」とか「どんぐり」と呼ばれます。
○アカガシ
「赤樫」は材の色に基ずいた名で、別名にオオガシ、オオバガシがあります。樹形が粗大なこと、葉が大形であることから名ずけられたと思われます。
○ツクバネガシ
「衝羽根樫」は、正月遊戯の「追羽根」に使用する羽根(つくばね)に似て、葉が小枝の先に四枚出ていることから名ずけられたといわれます。
昭和五十六年三月三十一日 八王子市教育委員会 ちなみに、この一帯は第二次世界大戦の空襲の際に全焼したとされる区域で、樹齢は200年以上とされるこのオオツクバネガシは奇跡的にも戦災をも生き抜いた御神木であるといわれています。
そして、この説明板の下に取り付けられた周辺地域の地図の中では、「浅間様と呼ばれた小さなお宮の御神木であったが、お宮は甲州街道の拡張、横山事務所(当時)改築のため、南浅川ぞいの稲荷神社(稲荷森神社)に移され、この木だけが残された。」とのみ、小さく書かれています。まさか、この塚は富士塚なのでしょうか?

この地域には、かつて一里塚が存在したという記録もあるようです。『八王子市郷土資料館だより』に掲載されている中村明美著「八王子の一里塚」には次のように書かれています。
八王子を通る甲州道中は江戸から下諏訪まで道程53里(208.5km)で、市内に4箇所の一里塚が築かれました。日野宿から多摩川を渡り西に進むと横山(八王子)宿の東側の入り口に江戸から12里にあたる新町の一里塚がありました。『甲州道中分間延絵図』(文化3年完成の街道図)には「稲荷」として描かれており一里塚の記載はありませんが、以前は塚の上に稲荷祠を祀っていました。一里塚の榎があった場所を市指定文化財(史跡)としており、現在は新町の竹の鼻児童公園内に石碑(写真)が建てられています。
残り3つの一里塚については、『甲州道中分間延絵図』に場所が描かれています。2つ目は散田村に入り長安寺(現・並木町)を通過し、地蔵堂と閻魔堂が並ぶ手前に散田村新地の一里塚が道の両側に2つ向かい合っており、現在の横山事務所のあたりになると思われます。3つ目は駒木野の関所を越え、念珠坂を下った荒井(現・裏高尾町)のものです。昭和 59 年に区画整理が行なわれるまでは小仏川と 街道の間の竹やぶの脇に小さな塚があったそうですが、現在は住宅となっています。最後の一つは保蔦土橋の一里塚で、宝珠寺を越えて小仏峠に登る手前、小仏川とヤゴ沢(北側から小仏川に合流する沢)の合流付近(裏高尾町小仏)がこの場所と思われ、これが市内最後の一里塚となり小仏峠を越え小原宿(神奈川県相模原市)へと続きます。(『八王子市郷土資料館だより vol.92』8ページ) この記事からすると、一里塚が存在したのはあくまで「現在の横山事務所のあたり」であり、横山事務所内に残存するマウンドが一里塚であるとは断定せず、やはり塚の存在については何も記述が見当りません。

その後、今年に入ってようやく見つけたのが、竹谷靱負著作『富士塚考』です。同書では
この古塚が富士浅間社を祀っていた富士塚と言われても俄かに信じがたく、古は散田の富士塚と呼ばれていたものの、今では一里塚と誤認されることが多い。この古塚は過去に全く知られていない富士塚であり、当然言及している書物も極めて少ない。 と、この塚が富士塚であることをはっきりと記しています。
確かに、日本常民文化研究所より発行された『富士講と富士塚』にもこの散田の富士塚については記されていなかったように思うし(多分。図書館で部分的にコピーしたものしか自宅にないので)、少なくともこれまで購入した富士塚の本には、散田の富士塚については何も書かれていませんでした。ボク石や石碑など、なにか富士塚の痕跡が残っていればともかく、現在の整備された塚の状況を考えると仕方がないかもしれませんね。
江戸時代後期の散田村は灌漑用水がなかったことから雨水に頼って耕作しており、田よりも畑が多かったようです。田所には桑が植えられ、機を織る家並みが多かったという散田村の一角にこの富士塚が所在したようです。
『八王子名勝志』によると、甲州街道筋の散田新地の左側に富士塚と浅間明神祠があり、祠の前の鳥居に掲げられた額には「富嶽廊」と刻されており、その頂上に富士浅間の宮が建てられていました。また、新義真言宗大幡宝性寺末の富士山正覚院という草庵があり、祭事を行っていたようです。江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』多摩郡之部巻八「由井領横山庄之下」の「小比企村」の項に「いまも(散田村の新地の)富士塚に浅間の社ありけり」とあり、文政3年頃には富士塚が存在していたと考えられます。

その後の昭和3年(1928)、浅間社は甲州街道の拡張工事の際に近くの稲荷神社(稲荷森神社、現在の八王子市並木町)に移転されています。画像が現在の稲荷森神社のようすです。
応永5年(1398)法印弘山により出羽三山の羽黒山の稲荷社を奉祀したという伝承があり、明治9年(1876)火災により焼失、翌年一月に社殿が再建され、昭和42年(1967)に富士浅間社が及び長安寺境内の稲荷社を合祀した後、昭和52年(1977)に鉄筋コンクリート造りの社殿となっています。周辺は、現在こそ住宅地となっているものの、かつては鬱蒼とした森林で「稲荷森」と呼ばれたといわれています。

この塚の北西を流れる南浅川左岸には「長房町中郷古墳」や「船田古墳」といった円墳が確認されているようです。南浅川右岸に古墳は存在しなかったのだろうかと考えていましたが、この塚は古墳ではなかったようです。。。
<参考文献>
中村明美「八王子の一里塚」『八王子市郷土資料館だより vol.92』
竹谷靱負『富士塚考 江戸高田富士築造の謎を解く』
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- 2017/12/12(火) 00:32:49|
- 八王子市の古墳・塚
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八王子市台町の富士森公園南にあるのが「浅間神社」です。駿河の本宮浅間神社を分社したもので、一の鳥居をくぐり、参道を進んだ拝殿の後方に富士塚が所在します。この拝殿は、昭和2年の大正天皇葬儀に使用された斎場殿を移築したもので、戦前は大正殿と呼ばれていたものの戦後の浅間神社が荒廃したことから拝殿として移築されたものであるそうです。そして、富士塚は八王子総代官大久保長安の代に築いたと伝わるもので、この頂上に神社を勧請したのが起源であると伝えられています。
元々この場所に存在した古墳を転用して築かれた富士塚であるとする説もあることから、見学に訪れてみました。

画像は、南から見た富士塚です。文政3年刊行の江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』には「富士塚 御所水村の民家より南の方にて、小山の上にあり。塚の四辺、広さ凡そ四段歩程、除地にて、その中に塚あり。高さ二丈程。廻り百八十歩余。塚上の広さ四間四方。石の小祠あり。この塚は往古大久保石見守が築建して、浅間の社を勧請したる由なり。小高き丘地の上に高さ二丈の塚を築きたれば、富嶽を望む勝地なるが、近来は塚の四辺の杉その他雑木成木せしゆえ、いまは土人富士森と唱う。小比企村万福寺持なり。万治年中万福寺住僧建立の本社四尺四方、上屋二間に二間半の社を造営せしが、人家離れのところゆえ悪党が社の内を住まいとして或は人を殺害しけることなどありしゆえ、取払いて延享元年いまの石祠を建てける。」と書かれています。

画像は、北東から見た富士塚です。敷地内に設置された『浅間神社縁起』には次のように書かれていました。
浅間神社縁起
浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、一つに富士浅間様とも言い、駿河国の本宮浅間神社を分社したものです。
慶長年間(1596~1613)、大久保石見守長安が高さ約二丈(約6m)周囲六十間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源です。
この場所は、往古より樹木生い茂れる森にて、藤森と言い、塚も藤塚と書かれていましたが、慶長年間、富士浅間神社創立後は富士森又は富士塚と書くようになりました。
宝永年間(1705頃)、社殿破壊に及び、延享二年(1755)改めて石造りの社を再建したのが本殿で、現在の奥の院石造りの社です。又、天明六年(1787)には石の階段が造られました。当社は元々拝殿がなく、祭典は毎年山上で行ってきました。例祭は八月一日で七月三十一日の宵宮より参拝者で雑踏し、境内には団子を売る商人が軒を並べ、この団子を食べる者は暑気にあたらぬとの言い伝えに、別名『団子祭り』とも呼ばれる様になりました。
この団子祭りの起こりは、明治の中頃社頭に住居して宮守をして居た者が、当社に献じた洗米で団子を作り、希望者へ分与したのが始まりです。
当社の例祭に行う、湯の花の神事は、心身の汚れを祓い清め、すがすがしい精神で氏子一同神へ奉仕する意味です。
当社は子授かり、安産の神として信仰されていますが、この由来は、天照大神の御孫瓊々杵命の皇后である当社の祭神木花咲耶姫命が、一夜にして身ごもったため夫の命より疑いを受けた際、身の潔白を立証するため、□屋に火を放ち、火中で皇子を安□されたと言う古事に起因するものです。
現在の拝殿は昭和二十八年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものです。
昔より古い歴史を持つこの浅間神社は今、台町一丁目、台町二丁目、台町三丁目、台町四丁目及び万町二丁目によりお護りされています。
訪れた当日は、富士塚山頂へは立ち入り禁止となっており、登拝する事は出来ませんでした。石段を登った頂上には浅間神社本殿があり、その中の石祠には浅間大菩薩(木花開耶姫命)が安置されているそうです。また、富士山形の天然石が祀られているそうですが、これも見学することは出来ず、残念でした。
<参考文献>
竹谷靱負『富士塚考 江戸高田富士築造の謎を解く』
中島善弥『八王子発見―路地散策案内』
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- 2017/12/06(水) 01:35:45|
- 八王子市の古墳・塚
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前回に続き、今回も八王子市山田の広園寺に関係する塚の話題です。
広園寺の周辺にはかつて虫塚やすくも塚、塵芥塚、蛇塚といった多くの塚が所在したといわれ、江戸時代の地誌類に記述を見ることが出来ます。そして、広園寺境内には今も「虫塚」の石碑が残されています。画像はその虫塚の石碑です。
虫塚とは供養塚の一つで、駆除された農作物の外注を供養して、これから発生しないように祈るためのものが典型的であるようです。現在、塚は既に存在せず、金属製の柵に囲まれた中に石碑のみが建てられています。碑は途中から細くなった円柱状の石棒で、高さ90cm、上部の直径は13cm、基部の直径は17cmほどで、碑文はまったく判読することが出来ないようです。以前は周辺に案内板があり、そこには「往古相模国に虫多く出、耕作の害をなせしゆへ、廣園寺開山に願ひ、虫を此所にあつめて塚とせしゆへ、この名ありと云は、由て来ることも旧きことなるべし」と新編武蔵風土記稿の文の一部を変えて記されていたようですが、現在は「虫塚」と書かれた木製の立て札のみで、案内板は存在しないようです。
ちなみに、この虫塚の碑は立ち入り禁止とされている区域にあり、立ち入りが許されている少々離れた位置からの撮影となってしまいましたが、4月6日の開山忌や、東京都文化財ウィーク期間中の公開日には境域を見学することができます。私は、今年の10月29日の東京都文化財ウィークの公開日に訪れて、この虫塚碑と古明神塚を近くで見学しようと考えていたのですが、当日はあいにく土砂降りの大雨のためあきらめてしまいました。。。
この虫塚は、かつては塚が存在したと考えられ、『新編武蔵風土記稿』には「往古相模の国中に虫多く出耕作の害をなせしゆへ広円寺開山に願ひ虫をここに集めて塚とせしゆへ。」とあり、また『武蔵名勝図会』には「ここは開山のとき相州にて田畑の穂茎出るを虫多く附きて生熟することを得ず、民庶これを患う。依って開山に願い祈念し給いければ、その虫悉く死すゆえ、これを集めて塚とせしなり。」と書かれています。また、虫塚のほかに、『新編武蔵風土記稿』には「すくも塚」について「元禄年中広円寺焼失の時灰を集めし故とせり」とあり、また『武蔵名勝図会』には「塵芥塚」について「広園寺大門先の傍にあり。先年当山焼亡せしとき、灰燼を埋めて塚となす。」とも書かれています。

虫塚、すくも塚、塵芥塚ともに、正確な塚の所在地はわからなくなっているようですが、村下要助氏により昭和59年(1984)に発行された『生きている八王子地方の歴史』にはなんと、虫塚、すくも塚の所在地についての記述が見られ、
二つの中の北の一つはだいぶ先に高圧線の鉄塔工事で消滅してしまい、かんならした所に先に書いたように幅四十五センチ位の細長い薄べったい石がごろごろしていまでも残っている。上小比企の大沢勇さんの畑であって、あまり入らないほうがいい。また経文石であるから持ち去らないこと。いま一つの南方の百十メートルくらいはなれた所にあったのは、これはだいぶ大きな塚であった。いまは都道新設工事で完全にアスファルトの下になって消滅して終った。同じく上小比企の石井実さんの畑であった。ここにはおびただしい経文石があった。この塚に盗掘の跡があり、ちょうど古代の小円墳をあばかれた格好でもあった。
と書かれています。
この記事からは、どちらが虫塚でどちらがすくも塚かはわからないのですが、1基は「高圧線の鉄塔工事で消滅した塚」であり、もう1基はその110m南側の「都道新設工事で消滅した大きな塚」ということになるようです。
塚を消滅させたという高圧線の鉄塔はここじゃないかなーという場所が画像です。

昭和の終わり頃には「かんならした所に幅四十五センチ位の細長い薄べったい石がごろごろして」いたようですが、この経文石らしき石は周囲の宅地化によるためか、すでに存在しないようです。(いや、塚の所在地がここではない可能性もありますし、何ともいえませんが)

さらに、「都道新設工事で完全にアスファルトの下になって消滅して終った」という、鉄塔から110m南方の塚の跡地はこのあたりではないか?というのがこの場所です。「広園寺大門先の傍にあり」と書かれている「塵芥塚」の跡地がこのあたりかなとも思いましたが、、真相はわかりません。また、「すくも塚」と「塵芥塚」が同一の塚なのか、それとも別々の塚なのかも真相不明ですね。。。
塚の痕跡はまったく見られませんでした。。。
<参考文献>
村下要助『生きている八王子地方の歴史』
八王子市史編さん委員会『八王子市史 下巻』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
柏田雄三『虫塚紀行』
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- 2017/12/03(日) 00:09:56|
- 八王子市の古墳・塚
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