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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「稲城市№155遺跡(どうしょう塚)」

「稲城市№155遺跡(どうしょう塚)」

 画像は、稲城市坂浜に所在する「稲城市№155遺跡」を北から見たところです。

 平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には記述が見られないことから、江戸時代の地誌である『武藏名称図会』と『新編武蔵風土記稿』には少なくともこの塚は記載されていないようです。また、私の所有している、昭和63年(1988)に発行された『東京都遺跡地図』には、稲城市の遺跡が129番までしか記載されていないことから詳細はわからなかったのですが、現在、東京都教育委員会により公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』には、「稲城市№155遺跡」の名称で「時代不明」の「塚」として登録されているようです。
 地元では「どうしょう塚」と呼ばれていることまでは判明しました。塚の東側はかなり急な崖になっていて、丘陵の尾根沿いの道の一番高い位置に塚は所在します。おそらくは、道しるべのような役割を果たしていたのではないかと考えられますが、周囲には塚の性格を推定できるような石造物はなく、説明板等も存在しないようです。その由来や伝承、出土遺物等についての詳細はまったくわかりませんでした。

 実際に現地を訪れて見て、少なくともこの塚は古墳ではなかったかなという印象で、高塚古墳の可能性のある塚は今のところは稲城市内には存在しないようです。
 せっかく見学することのできた塚の画像を何年も寝かせてしまうことなく、どんどん掲載しようということで取り上げてみましたが、新たな情報を入手した際にはあらためて更新し直そうと思っています。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
稲城市教育委員『稲城市の地名と旧道』


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  1. 2018/02/26(月) 23:58:08|
  2. 稲城市の古墳・塚
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「大塚」

「大塚」

 「大塚」は、稲城市百村に所在したといわれる塚です。すでに消滅して正確な所在地がわからなくなっており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、江戸時代の地誌『新編武蔵国風土記稿』にはこの大塚について、「東の方なり」と記載されており、古くからその存在は知られていたようです。
 名称からしてかなり大きな塚だったのではないかと考えられる大塚は、現在の稲城第一中学校あたりに所在したといわれているようですが、残念ながらその痕跡を見ることはできません。出土遺物や、由来等の言い伝えも見つけることはできませんでした。。。

<参考文献>
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2018/02/23(金) 22:50:55|
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「稲城市№89遺跡」

「稲城市№89遺跡」

 「稲城市№89遺跡」は、稲城市坂浜で発見された奈良時代の横穴墓です。『東京都遺跡地図』には、稲城市の遺跡番号89番の横穴墓として登録されています。

 この横穴墓は昭和50年、旅荘内の下水排水溝工事中に前室の一部が掘り抜かれたことにより発見され、緊急調査が実施されています。遺構は、後室部天井の一部の剥落を除いてほぼ完全な形で残されており、玄室、羨道部、閉塞施設等がほぼ原型を保った状態で確認されています。玄室からは、被葬された3体の人骨が発見されています。横穴墓は7世紀後半頃の築造と推定され、周辺地域に存在した小集落の長的な人物の墓ではないかと考えられているようです。
 画像の、坂道を登った奥のあたりが横穴墓の所在地であると思われます。


「稲城市№89遺跡」

 坂道を登ると、一見行き止まりのようにも見えるのですが、尾根沿いに極端に狭い道が続いています。この日は折りたたみ式の小さな自転車で散策していましたので、この人ひとりがやっと通れるような道を、草に体をこすりながらよたよたと進んでみました。


「稲城市№89遺跡」

 発見された横穴墓は1基のみであるようですが、横穴墓の性格や周囲の地形から考えてさらに数基の存在が想定されているようです。横穴墓は、調査後に埋め戻されているようですので、何か痕跡だけでも見学することができないものでしょうか。さらに道を進んでみました。


「稲城市№89遺跡」

 実は右側は急勾配の崖になっていてフェンスがなかったらとても自転車で進めるような状況ではなく、どうなってしまうのかと多少不安になりましたが、150メートルほど進むと舗装された車道が見えてきます。


「稲城市№89遺跡」

 これまで見学してきた横穴墓と比べると、ずいぶん山の高いところに位置する横穴墓だなという印象なのですが、果たしてまだ未発見の横穴が残されているのでしょうか。
 この道路の左側あたりに横穴墓が存在したのではないかと思われますが、すでに痕跡はなく、正確な所在地まではわかりませんでした。。。
 
<参考文献>
稲城市教育委員会『稲城市 文化財研究紀要 第10号』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2018/02/23(金) 00:52:06|
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「大丸城跡(多摩ニュータウンNo.513遺跡)」

「大丸城跡(多摩ニュータウンNo.513遺跡)」

 「大丸城跡」は、南武線南多摩駅の南方約300mほどの丘陵上に所在したとされる城跡です。多摩川を望む丘陵の突端に位置するこの一帯は、「城山」と呼ばれるなど、古くから中世の城跡ではないかと考えられており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「土人これを城山と呼ぶ。登り一町余の山にて、上に堀の跡とおぼしき所あり、物見などせし所なるべし」と書かれています。
 この遺跡は、多摩ニュータウン造成工事に先立つ、昭和55年(1980)から61年(1986)にかけて3次にわたる発掘調査が行われており、縄文時代から江戸時代にかけての大規模な複合遺跡であることが判明しています。『古墳なう』としては、古墳時代の横穴墓が2基が検出されているほか、経塚・墓跡が3基されていることから、取り上げてみました!

 画像の周辺が大丸城の跡地であると思われますが、遺跡は山ごと削り取られて完全に消滅しており、現在は閑静な住宅地となっています。(実は、この写真を撮影するために登った高台が、稲城市の中央図書館もある「城山公園」なのですが、ここは実は城山とは全く関係がなく、あくまで「大丸城」のあったところが「城山」なのだそうです。紛らわしいですが。)


「大丸城跡(多摩ニュータウンNo.513遺跡)」

 遺跡は消滅してしまったようですが、稲城市向陽台6丁目の小公園となっている一角に、稲城市教育委員会による説明板が設置されており、発掘当時の大丸城跡のようすを見ることが出来ます。(説明板にある、調査が終わってむき出しになった城跡の写真はなかなかに強烈です。これを山ごとずべて削り取って住宅地にしてしまったのかと思うと、もはや驚きしかありません。。。!)


「大丸城跡(多摩ニュータウンNo.513遺跡)」
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=195547&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、大丸城の跡地周辺の空中写真です。昭和23年(1948)3月8日に米軍により撮影されたもので、わかりやすいように大丸城跡が写真の中央となるように切り取っています。この当時すでに遺構がはっきりと見て取れるような状況で、見方によってはこの山自体が古墳跡に見えなくもないですよね。笑。


「大丸城跡(多摩ニュータウンNo.513遺跡)」

 大丸城跡は、中世に築かれたとされる、山頂部に主郭を置く山城です。城自体は見張り台程度の規模の山城で、南北朝時代から戦国時代頃に使われたことが明らかとなっています。
 また、大丸城跡とともに特に重要とされるのが、奈良時代の瓦窯跡です。城跡の斜面から、奈良時代の瓦や須恵器を焼いた登窯が15基発見されており、武蔵国分寺や国府に使われた瓦の一大生産地であったことが明らかになっているようです。


「大丸城跡(多摩ニュータウンNo.513遺跡)」

 城跡の周辺を散策していて偶然目に留まった、鳥居の奥に祠が祀られているという塚状のマウンドです。
 視界に入って立ち止まった瞬間に、土地の所有者か関係者と思われる方が、家から出てきたところですれ違ったので、すぐにお願いして写真を撮らせていただきました。(私はこういうところは意外といつも運が良いのです。。。)
 遺跡は、宅地造成により台地ごと削られていると思われ、古くから存在する塚であるとは考え難いところで、もちろん古墳である可能性は考えられませんが、かつて所在したとされる横穴墓や経塚と何か関係があるのか、詳細はわかりませんでした。
 経塚・墓跡は3基が発見され、蔵骨器や経筒が出土しています。また、室町時代以降に他所から運ばれて再配置されたという板碑が、3群から計83枚、発見されています。


「大丸城跡(多摩ニュータウンNo.513遺跡)」

 この遺跡内には少なくとも古墳は存在しなかったようですが、多摩川流域に位置する稲城市内に本当に高塚古墳が存在しなかったのか、とても気になるところです。

 画像は、帰り道に見かけた庚申塔です。神社や、郷土資料館等に移設されることなく、こうして路傍に残されているあたりは、さすが稲城市!という感じですね。東京もまだ、捨てたもんじゃないんです!

<参考文献>
稲城市教育委員会『稲城市の歴史と文化財』
現地説明板


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  1. 2018/02/22(木) 01:10:59|
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「明楽院塚」

「明楽院塚」

 「明楽院塚」は、稲城市矢野口に所在する塚です。『東京都遺跡地図』には、稲城市の遺跡番号63番の塚として登録されており、1号・2号と2基の塚が存在するようです。
 画像は、東京都道・神奈川県道124号稲城読売ランド前停車場線から、明楽院塚の所在地となる丘陵を見上げたところです。画像中央の小高くなった頂部が塚の所在地となるようですが、現在この一帯で行われている宅地造成工事により道路は封鎖されており、塚の東側からは立ち入ることは出来ないようです。
 ちょっとわかり難いですが、画像左に、塚の所在地付近に向かう細い道が存在します。この道を進んでみましょう。


「明楽院塚」

 画像は、先ほどの細い道を入ったところです。左側は「よみうりゴルフ倶楽部」というゴルフ場となっています。右側の丘陵頂部に塚が存在する筈なのですが、切り通しとなっている道路の右側は切り立った崖となっており、侵入できる場所は見当たらないようです。
 さらに道を進んでみましょう。


「明楽院塚」

 この2基の塚は、江戸時代にはすでにかなり知られた存在だったと考えられ、『新編武蔵風土記稿』には「小名中峯ニアリ、其間十間ホドヲへタテゝ二ツアリ、ソノ来由ヲ詳ニセズ、又小松葉ノ内ノ田間ニモ無名ノ塚アリコレモイカナル故ト云ウコトヲシラズ」とあり、また『武蔵名勝図会』には「字中峯の南に二つあり。十間程の間を置きて高さ四尺程。修験明楽坊が塚なりと云。」と書かれています。

 相変わらず、道路の右側は崖になっていて突入するにはなかなか厳しい状況です。
 丘陵上に登ることの出来る場所はないのでしょうか。。。


「明楽院塚」

 先ほどの道路の突き当たりを右に折れたところです。道路の一番高くなった場所です。
 唯一、山の中に入っていけそうな場所なで、塚への距離も比較的近いのではないかと考えられるのですが、残念ながらこの場所も杭が立てられてロープが張られており、「立ち入り禁止」の看板が立てられています。
残念ながら、塚を見学するにはなかなか厳しい状況であるようです。。。


「明楽院塚」

 明楽院塚の所在地を、西側の遠方から見たところです。
 塚は、昭和27年(1952)9月に内藤政恒・竹内秀雄両氏により発掘が行われており、規模は2基ともに径3m、高さ1.2mほどで、1基からは錫杖の頭部、古銭、人骨が、またもう1基からは鉄刀が出土したとされています。
 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、現在の残存状況はわからなくなっているようですが、少なくともなんらかの痕跡は残されているのではないかとも考えられます。現状は残念ながら塚を確認することは出来ないようですが、チャンスを待ってもう一度訪れて見たい塚です。。。

<参考文献>
稲城町誌編纂委員会『稲城町誌』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2018/02/21(水) 00:28:42|
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「弁天洞窟」

 さて、これまで東京都内の多くの古墳や塚を廻ってきましたが、存在する筈の古墳や塚を見つけることができなかった、所在区域が立ち入り禁止で近寄ることが出来なかった、等々、実際に現地を訪れてはみたものの、色々な事情により目にすることが出来なかったものも少なからず存在します。
 今回紹介するのは、気になったときにすぐ見に行けば見ることが出来たのに、まごまごしていたばっかりに閉鎖されて見ることが出来なくなってしまったという、「弁天洞窟」を紹介します。。。

「弁天洞窟」

 画像は、京王線相模線のよみうりランド駅の南約300mほどの、稲城市矢野口にある、真言宗豊山派の古刹威光寺を西から見たところです。草厚山小澤院と号し、坂浜の高勝寺の末寺です。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、延宝3年(1675)より穴澤天神社の別当寺として存在したことが記されており、『江戸名所図会』には、天明年間(1781~1789)に火災のために堂舎や記録類を消失したことが記されています。
 このお寺の境内には、新東京百景にも選ばれていたという「弁天洞窟」が所在します。この弁天洞窟は、元々この場所に存在した横穴墓を改造して造られたといわれています。


「弁天洞窟」

 画像は、威光寺境内のようすです。まっすぐ進んだ奥に弁天洞窟は存在します。
 稲城市内には、高塚古墳は存在しないとされており、『東京都遺跡地図』にも古墳は登録されていません。これに対して、横穴墓は、坂浜、平尾、大丸の3箇所で発見されており、発掘調査も行われているようなのですが、残念ながらこれらの横穴墓は調査後にすべて消滅しており、見学できる横穴墓は残されていません。
 そんな中、横穴墓を改変して造られたといわれるこの弁天洞窟はとても興味深く、いつか訪れて見学したいと考えていたのですが、古墳が存在しないという稲城市内にあって何となく後回しになってしまっていました。昨年訪れた際には時すでに遅し、崩落の危険があるということで弁天洞窟は閉鎖されており、見学は出来なくなっていました。残念!


「弁天洞窟」

 画像の、桟橋を渡った奥に見えるのが「弁天洞窟」です。
 残念ながら洞窟は扉が閉じられており、手前の桟橋のところから立ち入り禁止となっているので洞窟に近寄ることもできないのですが、何年か前までは、入場料300円を払って受付でロウソクとマッチをもらうと、内部を見学することができたようです。
 弁天洞窟は、元々は古墳時代である7世紀頃に造られた横穴墓であったといわれており、明治17年(1884)に和算の指導者小俣勇造が設計して、洞窟内部を掘り拡げて現在の形となったようです。
 洞窟内には、江戸・明治期に造られた23体の石仏、石碑が安置されており、洞窟内の池の回りには、彩色された大蛇の彫刻が彫られています。石仏は、童子立像、大日如来像、大黒天立像、弘法大師立像、龍神像、弁財天像などで、元々は穴澤天神社北側の洞窟内にあったものをこの場所に移したといわれています。


「弁天洞窟」

 現在の、弁天洞窟入り口のようすです。閉ざされた鉄の扉は錆び初めているようです。
 整備されて再度公開される可能性はないのでしょうか。。。


「弁天洞窟」

 威光寺境内には、矢野口南部の庚申塚に建てられていたという庚申塔が祀られています。昭和13年(1938)にこの地に移されたというもので、六角柱に笠をつけた石幢形の塔形が大変珍しく、稲城市の文化財として指定されています。稲城市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれています。

稲城市指定文化財
 庚 申 塔
所在 稲城市矢野口二四一一
威光寺
指定 昭和五十一年二月十九日
 六十日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる)の
日になると講の人たちが集まって飲食を共にし、
眠らずに夜を明かして健康、長寿を願う庚申信仰
が江戸時代には広く農村で行われるようになった。
こうした講の継続を記念して多くの人たちの協力
によって造立されたのが庚申塔である。
 この庚申塔は、貞享元年(一六八四)に現在地の
近くの山頂に造立されたもので、造立者の藤原能
成は、当時この地を支配していた旗本加藤太郎左
衛門能成と思われる。こうした領主による造塔は、
六角柱に笠をつけた石幢形の塔形とともに、ごく
一般的な庚申塔とは異なる珍しい貴重な作例であ
る。
 平成3年十二月十日
              稲城市教育委員会



「弁天洞窟」

 墓地の入り口には、手書きですが「弁天洞窟閉鎖」と書いてあるんですよね。
 もっと早く来ればよかったですね。。。


「弁天洞窟」

 お寺の入り口付近にも庚申塔が祀られています。
 こちらは元々あった場所に今も祀られているのでしょうか。


「弁天洞窟」

 弁天洞窟からの帰り道、妙覚寺南側の丘陵斜面にある「ありがた山」と呼ばれる石造物群を見学しました。この場所には、墓石のほかに地蔵菩薩塔、観世音菩薩塔、五輪塔、宝篋印塔といったさまざまな石塔、石仏が整然と並べられており、総数は4000体を越すといわれています。
 元々は駒込(豊島区)あたりの寺院にあったもので、関東大震災(大正12年)の時に無縁仏となったものを供養するために、昭和15年(1940)から昭和18年(1943)頃にかけてこの地に運ばれたものといわれています。
 それにしても、私は山頂付近の場所に登っただけで息が切れてしまいましたが、これだけの石物群を山頂まで運ぶには相当な労力が必要だったと思います。当時の慈善団体の人びとがこれを行ったそうですが、どういう経緯があったのか、とても興味深いですね。。。


「弁天洞窟」

 ありがた山は、南山東部土地区画整理事業による宅地開発のために一部が消滅の危機にあるそうです。ちなみに、ありがた山の西隣に位置する南山は、平成6年(1994)に公開されたスタジオジブリの映画「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台となった場所です。
 古墳や塚が見たくて、これまで都内のほとんどの区市町村を巡りましたが、どこに行っても未だに開発、開発、開発ですね。。。


「弁天洞窟」

 矢野口の路傍で見かけた張り紙。かつて同じものを何処かで見かけた記憶があるのですが、どこで見たのかどうしても思い出せません。(八王子方面だったか、横浜方面だったか…)
 ツチノコ、私も見たいです。。。

<参考文献>
稲城市教育委員会社会教育課『文化財ノート No.45 弁天洞窟』
稲城市教育委員会『稲城市の歴史と文化財』


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  1. 2018/02/19(月) 01:27:54|
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倉賀野古墳群 その6「安楽寺古墳」―群馬県指定史跡―

「安楽寺古墳」―群馬県指定史跡―

 「倉賀野古墳群」の最終回は「安楽寺古墳」です。
 実は、倉賀野の古墳を散策している当日、偶然にも倉賀野地区の観光?関係の方と出会いました。この日に初めて出会ったという状況にも関わらず、倉賀野の街を案内したいから車に乗れ!ということになったのですね。今あったばかりの知らない人なのに、ウソ?と思いましたが、悪い人じゃあなさそうだし騙されているというわけでもなさそうなので、(すみません。笑)それじゃあとお世話になってしまいまして、倉賀野各地を案内していただき、解説までしていただきました。私にとってのクライマックスは、故山田かまちさんの生家を訪れたあたりなのですが、それはいずれ機会があったら紹介することにして、その最後に立ち寄ったのがこの安楽寺であり、安楽寺古墳です。


「安楽寺古墳」―群馬県指定史跡―

 画像が、群馬県の史跡として指定されている「安楽寺古墳」です。
 墳丘に食い込むように本殿が建てられていてかなり削られているようですが、古墳はそれでも良好に残されているようです。境内に立てられている高崎市教育委員会による説明板には次のように書かれていました。

群馬県指定史跡
安楽寺古墳
 安楽寺古墳は七世紀末頃に築造されたと推定され、径二
〇メートル、高さ四メートルの規模を有する円墳である。
 主体部は横口式石槨と呼ばれる形式で、羨道の奥に石棺
が取り付いたような構造をしている。
 石室内部の壁面には、鎌倉時代の製作と推定される仏像
が奥壁に三体、左右の壁に二体ずつの計七体彫られてい
る。この仏像は、七仏薬師と呼ばれ安楽寺の本尊となって
おり、通常は秘仏とされているが、十二年に一度巳年に開
帳している。

所 在 地 高崎市倉賀野八六七(安楽寺)
指定年月日 昭和五六年五月六日
設置年月日 平成二五年三月二十二日
                  高崎市教育委員会



「安楽寺古墳」―群馬県指定史跡―

 北東から見た、安楽寺古墳の墳丘のようすです。石室は12年に1度だけ開帳されるとのことですが、前回の開帳は平成25年(2013)ということなので、残念ながらしばらくの間は石室を見学できるチャンスはなさそうです。。。


「安楽寺古墳」―群馬県指定史跡―

 墳頂部のようすです。
 右側の石造物の土台の石は石室の石材かな?とも思えますが真相はわかりません。
 この日は、午後には実家に帰省しなければならなかったので、見学したのは倉賀野古墳群の6基の古墳のみでしたが、色々と思い出に残る楽しい古墳探訪でした。(ブログで絶対に書くからと言いつつ時間が経過してしまいました。倉賀野遊歩学担当のW様、大変お世話になり感謝しております。楽しい思い出をありがとうございました。)


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  1. 2018/02/14(水) 21:46:46|
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倉賀野古墳群 その5「小鶴巻古墳(倉賀野町第3号古墳)」

「小鶴巻古墳(倉賀野町第3号古墳)」

 「倉賀野古墳群」の第5弾は「小鶴巻古墳」です。「大鶴巻古墳」に隣接して存在する古墳で、全長約87.5メートルと、大鶴巻古墳よりやや小型の前方後円墳です。画像は、大鶴巻古墳の後円部上から撮影したもので、左側が前方部、建物の背後に隠れていますが右側が後円部です。

 敷地内には小さな説明板がひっそりと建てられています。
 最初に訪れた7~8年前には気がつかなかったのですが、最近建てられ矢野かもしれません。
 この説明板には次のように書かれていました。

小鶴巻古墳
 この古墳は大鶴巻古墳と共に、五世紀後半のものと推定される前方後円墳で、倉賀野古墳群を代表する首長墓の一つでもあります。墳丘全長約87m、後円部径約50m、同高約6m、前方部は前幅約40m、同高約2,5mで、幅20mの周掘を有しています。
 後円部蓋の頂上中心部に、舟形石棺と考えられる凝灰岩製の刳抜式石棺が安置されております。その石棺の蓋の部分の既掘穴(盗掘の穴)から見ると、内部には赤色塗彩がなされているとの報告もありますが、詳細は不明です。
 前方部は現在、共同墓地、畑地となっていますが後円部高と比較して低平です。周掘は宅地化で原型の把握が困難ですが、掘が墳丘を一周していることは確認できます。出土する埴輪片は窟窯焼成で、外面に縦ハケの調整が施されています。


「小鶴巻古墳(倉賀野町第3号古墳)」

 墳丘上のようすです。くびれ部のあたりが墓地として改変されているようです。


「小鶴巻古墳(倉賀野町第3号古墳)」

 北東から、小鶴巻古墳の後円部を見たところです。


「小鶴巻古墳(倉賀野町第3号古墳)」

 後円部からくびれ部、前方部という古墳の形状に合わせて道路がカーブしているようすを確認することができます。
 古墳を追い求めていると、古墳の周囲の道路の形状が気になってしまうのですが、つまりは、古墳の形状に沿って存在した道路だからカーブしているのではないかとか、古墳を道標にしたからこそ折れ曲がっているのではないか、Yの字に分かれているのではないか、とか考えてしまうのですが、そんなのは私だけでしょうかね。笑。

 次回は倉賀野古墳群の最終回、「安楽寺古墳」に続く。。。


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  1. 2018/02/12(月) 01:26:22|
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倉賀野古墳群 その4「大鶴巻古墳(倉賀野町第2号古墳)」―高崎市指定史跡―

「大鶴巻古墳(倉賀野町第2号古墳)」

 「倉賀野古墳群」の第4弾は「大鶴巻古墳」です。
 画像のように、古墳の南西側には「史跡 大鶴巻古墳」と刻まれた石碑と、高崎市教育委員会による説明版が設置されています。この奥に見えるのが大鶴巻古墳で、左側が後円部、右側が前方部です。
 説明板によると、この古墳は、鳥川左岸の段丘上に二段に盛り上げて築造された、全長123メートルの前方後円墳です。後円部の径が直径72m、高さ10.5mであるのに対して、前方部の長さは51m、前方部幅54m、高さ6.5mと、後円部と比較して前方部の幅が狭く、未発達という特徴を持っています。


「大鶴巻古墳(倉賀野町第2号古墳)」

 東から見た大鶴巻古墳のようすです。
 前回紹介した浅間山古墳と同様に、古墳の周囲が畑地として耕作されながらも、盾型に廻る周濠の形状がよく残されているところは見所のひとつかもしれません。この古墳は、後方部と比較して未発達とされている前方部の先端が、ぽこっと飛び出たような形状になっているのはなにか意図があるんでしょうか?(茨城県で、やはり前方部に大きな突起のある前方後円墳を見に行ったことがあるのですが、同じ種類のものなのでしょうか?)


「大鶴巻古墳(倉賀野町第2号古墳)」

 南から見た大鶴巻古墳のようすです。後世に農地として使用されているために多少の墳丘の崩れは感じられますが、なんと美しい大鶴巻古墳の姿でしょうか。。。あらためて感動してしまいます。


「大鶴巻古墳(倉賀野町第2号古墳)」

 墳丘表面には、現在も河原石の葺石を見ることができるようです。。。


「大鶴巻古墳(倉賀野町第2号古墳)」

 後円部上のようすです。主体部は、発掘調査が行われていないために明らかとはなっていませんが、竪穴系の埋葬施設があったと考えられており、墳丘や周掘りの形状や採集された埴輪の特徴から、4世紀末から5世紀初頭にかけて築造されたと推測されているようです。


「大鶴巻古墳(倉賀野町第2号古墳)」

 前方部から後円部を見たところです。耕作の行われている南西側が若干低くなっているようです。
 
 次回、「倉賀野古墳群 その5」に続く。。。


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  1. 2018/02/10(土) 23:23:11|
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倉賀野古墳群 その3「大山古墳(佐野村第52号古墳)」

「大山古墳(佐野村第52号古墳)」

 「倉賀野古墳群」の第3弾は「大山古墳」です。
 個人所有の敷地内にあると思われるこの古墳に市の案内板等は存在しないようなので、詳細はわからないのですが、円墳としては群馬県内最大級の古墳で、径56mほどの規模があるようです。同程度の大きな円墳が、すぐ東側に隣接して存在したようですが、これは削平されて完全に消滅してしまったようです。

 この大山古墳は、7~8年前の真夏に訪れたときは墳丘上がものすごい薮でした。次に来る機会があれば冬にして、古墳に登れたら良いなあと思っていたのですが、(実際に訪れたのは春先でしたが)結局、冬でもものすごい薮でした。笑。
 
 次回、「倉賀野古墳群 その4」に続く。。。


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  1. 2018/02/09(金) 23:39:36|
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