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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「蔵敷庚申塚」

「蔵敷庚申塚」

 東大和市内の古墳の記録として、『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』には奈良橋村に古墳が存在したという記載があるのですが、残念ながらこの古墳は消滅しており、また『狭山之栞』には山口領野口村の「大塚」や、山口村之内野谷の「割塚」といった古墳の記載を見ることが出来るのですが、これらは後世の塚なで、古墳ではなかったといわれています。東大和市を含む狭山丘陵周辺の市域では、確実に古墳であるといえるものは、残念ながら皆無といえそうな状況です。

 画像は、東大和市蔵敷2丁目に所在する「蔵敷庚申塚」を北西から見たところです。
 昭和49年(1974)には東大和市の史跡として指定されており、古墳とは無関係な塚はあるものの、マウンドの残る数少ない庚申塚です。


「蔵敷庚申塚」

 東大和市により設置された説明板には次のように書かれています。

東大和市史跡
蔵敷庚申塚
  所在 東大和市蔵敷二丁目五〇八番地付近
  指定 昭和四十九年九月二十日

 この庚申塚は、高さ約二メートルの塚状をなしてい
る。中央右側にある明和元(一七六四)年造立の庚申塔
供養塔をはじめ、右端に湯殿山大権現の祈願塔、中央
左側に西国・坂東・秩父を合わせて百番の霊場巡拝供
養塔が並び、手前に道しるべがある。
 庚申待供養塔は笠付方型石碑で、左上手に法輪、中
手にしょけら、下手に弓、右上手に槍、中手に剣、下
手に矢を持つ六 青面金剛像が刻まれている。
                東大和教育委員会


「蔵敷庚申塚」

 塚上のようすです。左が天明2年(1782)の湯殿山大権現祈願塔、続いて文政8年(1825)の馬頭観音、明和元年(1764)の庚申塔、明治28年(1895)の西国・坂東・秩父百番霊場巡拝供養塔です。敷地内には他に、道しるべなども残されていました。
 周囲は道路や宅地に削られているものの、こうして塚が残るのは都内では貴重ですね。


「Y字路」

 『東大和市のよもやまばなし』によると、Y字形の三角辻には悪い神様がたくさん集まっていて、通る人やそこに住む人に悪さをするもので、昔から「辻しようげ」といわれていました。従って三角辻は利用価値が低く、石仏や石塔などが建てられたり捨て場になったりしたそうです。
 東大和市内には、道路が交差する場所に石仏や石塔、祠が祀られている光景をたくさん見ました。その度に立ち止まってしまうので、なかなか探索が進まなくなってしまうのですが(あくまでお目当は古墳なのですが)、まだ古道が残されていて、元あった場所に文化財が残されている光景は楽しいものです。。。

<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
郷土史みちの会『東大和のよもやまばなし』
現地説明版


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  1. 2018/04/26(木) 00:17:03|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「東覚院塚」

「東覚院塚」

 現在のところ、東大和市内で発見された高塚古墳は存在しないようですが、かつてなんらかの塚が存在したことから、「××塚」といった具合に小字名に塚の名前が使われていたという場所は、かなり多く存在するようです。(芋窪村には「法界塚」、「狐塚」。蔵敷村には「山王塚」、「庚申塚」、「塚前」。高木村には「蛇塚」、「塚下」。清水村には「金剛塚」、「庚申塚」。宅部・内堀地区には「行人塚」、「東光院塚」、「大塚」、「庚申塚」、「御判塚」、「送神塚」、「霊光塚」、「塚の腰」等々。)これらの塚は、残念ながら現在ではほとんどが失われ、地名からも消え去ってしまったものが多いようです。

 「東覚院塚」は、現在の東大和市奈良橋5丁目に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』にも未登録で、やはり塚は失われてしまっているようですが、塚の痕跡は残されているようです。
 東大和市より発行された『道と地名と人のくらし』によると、雲性寺の東に愛宕山を祀る大徳院という修験者がいて、その初代である東覚院の塚があるところの名称であり、奈良橋庚申塚交差点から北に200メートルほどの青梅街道に沿った東側、画像の墓地の場所が東覚院塚の跡地ではないかとされているようです。

 古墳とは無関係の中世の塚跡ですが、跡地が判明したことから取り上げてみました。。。

<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』


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  1. 2018/04/24(火) 23:35:25|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「織部塚」

「織部塚跡地」

 「織部塚」は、現在の東大和市桜が丘1丁目あたりに所在したといわれる塚です。
 開発によりすでに消滅して正確な所在地のわからなくなってしまった塚で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、『里正日誌』や『狹山之栞』といった、この地域について書かれている地誌類にはこの織部塚についての記述があり、『里正日誌』には「砂之台通り青梅道覚養通り弐間道但し織部塚之所五間余之馬立場也是より南小川橋迄弐間云々」と記されています。

 画像は、西武拝島線東大和市駅北側の、現在駐車場になっている周辺のようすです。この一帯は、かつては地主の鎌田家の敷地で、かつては青梅橋(現在の東大和市駅東側あたり。交差点名に「青梅橋」の名称が残されている。)まで他所の土地を踏まずに行くことができたそうです。この現在の駐車場の地点には、かつて「瘡守稲荷」と呼ばれるお稲荷さんが祀られていました。内野家文書にある『奈良橋村青梅橋堀端実測図』に、橋の南西の鎌田喜三郎と書かれた土地に稲荷社らしき建物が描かれており、続いて五間の青梅道が西へ延びています。
 昔は自家の土地のはずれに墓所を営むことが多く、また鎌田家には、この瘡守稲荷と由緒があるという話も伝わっているようです。これらのことから、東大和市より発行された『道と地名と人のくらし』では、奈良橋村および蔵敷分の草分け五軒の中に鎌田織部という人物がおり、織部塚とはこの人の墓所だったのではないかと推測しているようです。また、『里正日誌』の「五間余之馬立場」という記述からして、五間もの広さのある馬立場が存在した場所というと御嶽道が最有力であることからも考えると、織部塚はこの「瘡守稲荷」のあたりが旧地だったのではないかと考えられているようです。


「瘡守稲荷」

 画像は、現在の瘡守稲荷のようすです。小平市小川町1丁目の住宅地の一角に移設されて祀られています。

「青梅橋交差点」

 かつての瘡守稲荷は、江戸時代には青梅橋のたもとにあったといわれています。(ちなみに東大和市駅も、昭和52年(1979)までは青梅橋駅という駅名だったそうです。)青梅橋は、野火止用水が暗渠となったことにより取り壊され、現在は「青梅橋」という交差点名にのみ残されています。
 
 この場所には、小平市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。(先ほどの、織部塚の跡地は東大和市ですが、この青梅橋交差点は小平市にあたります。)

青 梅 橋
Ome-bashi Bridge
 承応4年(1655)、玉川上水から分水
された野火止用水を、青梅街道が横断す
るために架けられました。両岸を石組で
固めた幅約2.5メートル、長さ約4メー
トルの木造の橋でしたが、昭和になって
コンクリート製に架け替えられました。
 架橋から300年余り後の昭和38年
(1963)5月の東村山浄水場の開設にと
もない、玉川上水からの水の取入れが、
この橋のすぐ下流まで野火止用水路を
利用した暗渠となったため、橋は取壊さ
れ、青梅橋の名のみが残りました。

 往時、この橋から丸山台まで、4キロ
メートルにわたって幅約20メートルの
道の中央に一列に植えられた千本桜と
呼ばれる桜並木があり、季節には、近郊
の人々の花見でにぎわったといわれます。

小平市教育委員会 小平郷土研究会



「青梅橋」

 画像は、説明板に掲載されている、昭和27年(1957)の青梅橋のようすです。
 左側に見えるのが庚申塔で、右側の祠が祀られている場所が瘡守稲荷であると思われます。
 塚状に小高くなっているような気もしますし、平らな気もしますし。。。
 よくわかりませんね。笑。。。


「青梅橋の庚申塔」

 現在の青梅橋交差点の小祠のに祀られている庚申塔です。
 その左横には、かつての青梅橋の欄干が残されています。

<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
現地説明板


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  1. 2018/04/20(金) 00:10:00|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 今回紹介するのは、東村山市本町1丁目に所在する「浅間塚」です。
 浅間塚は、西武線東村山駅の南方300メートルほどの地点に位置しており、『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号46番の「近世の塚」として登録されています。昭和44年には東村山市の史跡として指定されています。
 昭和46年(1971)に発行された『東村山市史』によると、この塚は昭和40年(1965)、塚の一部の土採り工事が行われたことから将来の破壊の可能性があるとし、測量調査が行われて実測図が作成されています。これによると、塚は一見円墳状を呈しているものの実測の結果は長方形であり、規模は東西27.5メートル、南北24メートル、高さ5.2メートルを計ります。覆土は黒色を呈する有機質の腐植土のみで、古墳としての遺物はまったく見られなかったようです。

 敷地内には東村山市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。

東村山市指定史跡
  浅 間 塚
                 所在 東村山市本町一丁目十五番地十一
                 指定 昭和四十四年三月一日 指定第二号
 江戸時代の末、文化文政の頃(十九世紀前半)から富士信仰が盛んになり、各地に
富士講がつくられ、また富士山を模した富士塚も築かれました。
 この塚は富士塚ではありませんが、頂上に富士信仰の浅間神社が祀られており、
浅間塚と呼ばれています。浅間神社の小祠は西宿(現在の諏訪町一、二丁目あたり)
の人々が天保十三年(一八四二)に建てたものです。
 塚の形は円形でなく、長辺二七m短辺二四mの長方形をしており高さは五m程です。
 このような方形の塚は武蔵野地域には数多く残されており、多くは江戸時代の塚
と考えられますが、何のために築かれたものかははっきりしていません。
 この塚も後に浅間神社を祀ったもので、富士信仰のために築かれたものではない
ようです。
 かつては府中街道から参道が続いており、頂上からは富士山も良く眺められたこ
とと思います。
                平成四年三月      東村山市教育委員会



「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 塚の東側には階段が設けられています。早速、登ってみましょう。
 説明板にもあるように、浅間神社の祠が祀られる以前から塚は存在していたと考えられているようですが、築造された当初の塚の性格まではわからないようです。この浅間塚の南東側にある「大塚」と「小塚(現在は消滅)」は、境塚ではないかともいわれているようですので、この浅間塚も含めて境塚であった可能性も考えられるかもしれません。


「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

階段を登って行くと円形の場所に突き当たります。この奥に祀られているのが、「浅間塚」の名称の由来となった、浅間神社の祠です。


「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 「村支小社浅間神社」の石祠です。
 この石祠は、かつて神社としての取扱いを受けていて、徳川入府以後、明治9年(1876)までは徳蔵寺が管理していたそうです。


「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 西武国分寺線を挟んだ、西側から見た浅間塚です。
 塚は、西武国分寺線の線路により削られ、その後道路によりさらに削られており、塚の西側はかなり急勾配になっています。西武国分寺線を東村山駅へを向かって走ると、到着する直前に車窓の右側(東側)にこの浅間塚を見ることができます。
 開発が進む以前の、この周辺が農地だった頃にこの地を訪れていれば、浅間塚、大塚、小塚の3基の塚が並んで存在しており、あるいは古墳群のようにも見えたかもしれませんね。。。


「浅間塚」ー東村山市指定史跡ー

 南西から見た浅間塚です。削られた現在の形状がわかります。

<参考文献>
東村山市『東村山市史』
東村山郷土研究会『地域に残る地名にまつわる話』


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  1. 2018/04/18(水) 00:23:39|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「大塚・小塚(境塚、こっぺ塚)」 ー東村山市指定史跡ー

「大塚・小塚(境塚、こっぺ塚)」 ー東村山市指定史跡ー

 さて、前回に引き続き、今回紹介するのは東京都東村山市本町1丁目に所在する塚で、「大塚(境塚)」と「小塚(境塚)」です。
 大塚は、西武線東村山駅の南方数百メートルほどの地点に位置する塚で、昭和44年にはその遺跡範囲のすべてが東村山市の史跡として指定されています。『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号47-1番に「近世の塚」として登録されています。大塚の場所は、東村山市により「平和塔公園」として整備されており、昭和36年(1961)には塚の頂部に平和の女神像が建立されています。
 画像は、大塚の所在する「平和塔公園」を東から見たところです。


「大塚・小塚(境塚、こっぺ塚)」 ー東村山市指定史跡ー

 画像が、南から見た大塚のようすです。
 塚の周囲は若干の加工が施されており、塚の裾部は石垣が積まれて土留めが行われています。塚には階段が設けられており、平和の女神像のある塚上に登ることができます。この大塚の形状は陽丸方形を呈しており、径は東西19メートル、南北21メートル、高さ4.5メートルを計り、発掘が行われていないことから塚の内部構造は不明とされています。

 塚の前には、東村山市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

   境 塚 (平和塔公園)
 武蔵狭山丘陵の村々は近世中ごろにかけて広い
秣(馬のエサ)場であったが、幕府は武蔵野原の新
田開発をすすめた。
 延宝、元禄年間には入会地の開こんをめぐって幕
藩領主層と自立農民との対立も起り、延宝八年(一
六八〇)には「境目絵図」がつくられたり、その後
村々にはこのような境塚が築かれ、そのひとつとい
われる。
 もと「大塚」「小塚(今はなし)」と呼ばれた。頂上
にはご覧のように平和の女神像が建立(昭和三六年)
されている。

   浅間塚
 あちら側にある円墳状の塚で、頂上にはかつて浅
間神社の石祠が祀ってあって、富士信仰による浅間
塚と呼ばれている。
 西宿(現、諏訪町の一、二丁目)の講中の方々の
信仰のものであったもので、この祠は、いま諏訪神
社(諏訪町)境内にうつされている。
              東村山市教育委員会
 境塚・浅間塚とも市史跡として昭和四四年三月指定



「大塚・小塚(境塚、こっぺ塚)」 ー東村山市指定史跡ー

 大塚の頂部のようすです。平和の女神像が建てられています。
 武蔵野狭山丘陵の村々は、近世初頭から中頃にかけて広い秣場だったそうですが、江戸幕府により武蔵野原の新田開発が進められました。延宝・元禄年間に、入会地の開こんをめぐって幕藩領主層と自立農民との間に対立が起こり、延宝8年(1680)には「境目絵図」が作られ、その後村々には境塚が築かれたといわれています。この大塚もそのうちの1基であるといわれているようです。


「大塚・小塚(境塚、こっぺ塚)」 ー東村山市指定史跡ー

 大塚の南東に数十メートルほどの地点にはもう1基、「小塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。隣接する「大塚」とともに境塚だったといわれる塚で、『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号47-2番に「近世の塚」として登録されています。
 この「小塚」は、高さは約3メートル、底面積は十坪ほどの塚で、「こっぺ塚」という愛称がつけられていました。府中街道の東側で、現在の東村山市本町1丁目4番地に所在したようです。画像の地点が跡地であると思われますが、残念ながら塚の痕跡は残念ながら見ることができません。昭和38年頃に開墾により崩されて消滅したようですが、削平の際には、遺物は何も出土しなかったと伝えられています。
 古地図などで確認すると、この地域には「四っ塚」という小字が存在しており、またこの地域の地誌、『 狭山の栞』にも「四っ塚」という塚があったことが記されています。おそらくは、この地域にはかつてもう1基、未知なる塚が存在したのではないかと考えられますが、このあたりの真相はすでにわからなくなっているようです。


「大塚・小塚(境塚、こっぺ塚)」 ー東村山市指定史跡ー
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=421186&isDetail=true)

  画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年9月5日に国土地理院により撮影された、大塚と小塚の所在地周辺の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の左上が大塚、右下が小塚です。削平されてしまう直前の小塚をはっきりと確認することができます。

<参考文献>
東村山市史編纂委員会『東村山市史』
現地説明板


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  1. 2018/04/16(月) 00:37:40|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「久米川富士」ー東村山市指定史跡ー

「久米川富士」ー東村山市指定史跡ー

 画像は、東村山市久米川町5丁目にある「熊野神社」を南から見たところです。
 久米川村の鎮守であるこの熊野神社の御祭神は伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大神で、創建年代は定かではありませんが、久米川の合戦の際に新田義貞が後詰を置いた所であるとされています。この神社の境内からは、応永32年(1425)銘の青銅製鰐口と水鳥形香炉が発見されており、鎌倉時代から室町時代には社殿が存在していたと考えられています。この神社の敷地内に、東村山市の史跡として指定されている「久米川富士」が所在します。


「久米川富士」ー東村山市指定史跡ー

 画像が、熊野神社境内に所在する「久米川富士」です。この富士塚は熊野神社境内の北東隅に築造されており、周囲のどこから見ても同じ形に見える円墳状に造られています。ボク石や丸石などは使われていない簡素な塚で、規模は東西24m、南北24m、高さ6.1mとかなり大型の富士塚で、周囲に建てられている石碑の碑文から、明治21年頃に築造されたと推定されています。


「久米川富士」ー東村山市指定史跡ー

 敷地内に東村山市教育委員会により設置されている説明板には次のように書かれています。

 東村山市指定史跡
    久米川の富士塚
      所在地 東村山市久米川五丁目六番地四
      指 定 平成八年」(一九九六)七月三日指定第二七号
 富士山、その美しい山は古代から信仰の対象とされてき
ました。特に江戸時代には富士講が大流行し、江戸を中心
として数多くの富士塚が築かれました。富士塚とは、富士
山を模した小さな山で、富士山の溶岩を配したり、富士五
湖に見立てた池をつくるなど凝ったものでした。
 この久米川の富士塚にも、裾野に風穴がつくられたり、
一合目、二合目の標識が置かれていたようです。山頂にあ
るのは富士浅間社の石祠で「日立講明治二十一年四月入間
川先達富士常行」の銘が刻まれています。また、講の人々
が毎年山開きの日に「六根清浄」を唱えながら塚に登り、
遥かに富士を拝みました。
 戦後、各地の富士塚が破壊される中で、この久米川の富
士塚は、現在にその姿を残すことができました。富士信仰
を物語る上でも貴重な遺産と言えるでしょう。
 平成九年(一九九七)八月
              東村山教育委員会


「久米川富士」ー東村山市指定史跡ー

 登山道を中腹まで登ってみたあたりのようす。説明板によると、「裾野の風穴」や、「一合目、二合目の標識」が置かれていたことが書かれているのですが、これらは残念ながら失われてしまっているようです。富士塚自体の保存が行われても、やはり講なくなってしまうと、管理するのが難しいのかもしれませんね。。。


「久米川富士」ー東村山市指定史跡ー

 富士塚の頂部から見下ろしてみたところ。
 台地の縁辺部に段差を利用して造られているので、かなり高さがあるように感じられます。


東村山市 未登録 久米川の富士塚

 山頂のようすです。説明板に書かれている「山頂にあ
るのは富士浅間社の石祠」も見当たらないようです。


「久米川富士」ー東村山市指定史跡ー

 段丘上で南からみた久米川富士です。段丘の下から見上げるとかなり大きな富士塚に見えるのですが、こうして見ると小さな小山ですね。
 訪れたのは5月頃だったと思うのですが、すでに草ぼうぼうで、全体の形状が見えにくかったのが残念です。
 古墳とは無関係の塚ですが、都内各地の富士塚が破壊されてしまった中で保存された貴重な富士塚ということで、見学に訪れてみました。。。

<参考文献>
(財) 日本常民文化研究所『富士講と富士塚 -東京・神奈川-』
東村山ふるさと歴史館『ひがしむらやまぶんかざいめぐるっく』
現地説明版


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  1. 2018/04/14(土) 00:51:24|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「日向塚(人見塚)」

「日向塚(人見塚)」

 画像は、東村山市多摩湖町1丁目に所在する「日向塚」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号10番の”時代不明の塚”として登録されています。

 多摩湖町周辺は宅地化が進んでいるもののまだ多くの畑地も残されており、この日向塚も日向遺跡と連続する丘陵上の山林に、1基のみが単独で存在しています。古墳である可能性も想定されたことから、昭和41年には11月3日から一週間をかけて、発掘調査が行われています。
 盛土は、一見円墳形を呈しているものの中腹から頂部は方形となり、明らかに人為的に築造された塚であることがわかっています。塚の規模は東西13.7m、南北11.5m、高さは2mで、塚の頂部にトレンチを入れて調査が行われましたが、古墳の築造に用いられる版築は見られず、表土から地山までのほとんどが黒褐色土層で築成されており、また内部主体の棺または槨および埋葬施設らしき痕跡はまったく認められなかったようです。盛土の下底中央部では焼けた礫の一群が発見されたものの、その下部から打製石斧が発見されたことから、縄文時代の遺跡の一部に当たったものと考えられており、塚に関連する遺構ではないと判断されたようです。遺物も、土師器片が採集されまたものの、これも周辺の遺跡にあったものが盛り土に混入されたものであるとされ、 日向塚は古墳ではなく、別種の塚であることが判明しています。


「日向塚(人見塚)」

 北西から見た日向塚です。
 この塚についての地元の人に伝わる由来や伝承などはまったく残されていないようなのですが、昭和46年に東村山市史編纂委員会より発行された『東村山市史』には「江戸時代の境塚の一つであるかもしれない」とあり、また東村山郷土研究会より発刊の『地域に残る地名にまつわる話』には「現在デーキャンプ場になっている所の中に、直径十メートル程、高さ二メートル程の塚があり、物見塚と呼ばれている。※古墳ではないかと市で調査したことがあるが、古墳ではないらしい。」と書かれています。
 果たしてこの日向塚がどんな目的で築造された塚であるのか、興味深いところです。。。


「日向塚(人見塚)」

 画像は日向塚の頂部のようすです。
 陥没したような窪みが見られますが、発掘された痕跡なのでしょうか。。。

<参考文献>
東村山市史編纂委員会『東村山市史』
東村山郷土研究会『地域に残る地名にまつわる話』


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  1. 2018/04/13(金) 00:27:10|
  2. 東村山市•東大和市の塚
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「鐙塚」

「鐙塚(あぶみづか)」

 画像は、稲城市坂浜に所在する「鐙塚」を北西から見たところです。
 『東京都遺跡地図』には登録されていない塚ですが、この塚から「鐙塚」の小字が起こったともいわれており、この地域ではかなり古くから知られた存在だったようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に、この塚につい手の記述が見られ、「中央ヨリ南ニヨレリ コノ所ノ畑中に鐙塚トテ 高サ總ニ七尺ハカリノ塚アリ イカサマ由アル塚ナルへケレトモ伝ヘヲ失ヘリ コノ塚ヨリ鐙塚ノ名モ起コリシナルヘケレ」と書かれています。
 今でも地元ではいくつかの伝説が残されており、武蔵鐙を作った高麗人の墓であるとか、鎌倉攻めに上野武士の新田義貞が戦死者を埋めた塚であるという俗説があるようです。私が地元の人にお聞きしたところでは、この場所は馬捨て場になっていたところだと伝わっているようですが、特にこのあたりの真相はわかりませんでした。


「鐙塚(あぶみづか)」

 東から見た鐙塚です。塚の南側は道路により削られているようですが、残存する部分からすると、元は方形の塚なのではないかと思われます。どんな性格の塚なのでしょうか。
 鐙塚の周辺地域は「鐙野原(あぶのっぱら)」と呼ばれているようですが、アブは低湿地、ノは野原、ハラは原野で、アブノとは低湿地の原野の意であるといわれています。『新編武蔵風土記稿』にも「鐙野」という地名があり、周辺にアブノの屋号を持つ旧家があることから、稲城市教委委員会発行『稲城市の地名と旧道』では「アブノの地名に鐙野の当て字をした為に鐙塚の俗説が生まれたものであろう」としているようです。

<参考文献>
わいわい探訪隊「すばる」『ひらお散策 ―足もとの小さな物まで―』
稲城市教育委員『稲城市の地名と旧道』


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  1. 2018/04/11(水) 21:42:00|
  2. 稲城市の古墳・塚
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「稲城市№84遺跡」

「稲城市№84遺跡」

 「稲城市№84遺跡」は、稲城市長峰に所在したとされる塚です。『東京都遺跡地図』には稲城市の遺跡番号84番の塚として登録されています。画像は、この塚の跡地周辺を南西から見たところです。

 この塚の所在地は現在は稲城市長峰の稲城市立長峰小学校の敷地内となっており、残念ながらすでに消滅して痕跡は見られないようです。まだ塚が存在した当時のようすが、稲城町誌編纂委員会より発行された『稲城町誌』に記されており、次のように書かれています。

 坂浜の経塚は、宝蔵院西方の寺院所有地内にあリ、昭和三十八年、東京大学某氏が無断発掘し、出土品は住職の要請によって、宝蔵院に変換されている。その内容は、銅鏡(菊花散し双鳥鏡か)一面・鉄刀片一箇・古銭二十一枚・数珠玉五十余顆・籾米若干その他であり、古銭は唐の開元通宝がもっとも古く、ついで北栄の咸平元宝・景徳元宝・祥符元宝・元禧通宝・皇宋通宝・至和元宝・熙寧元宝・元豊通宝・元祐通宝・紹聖元宝・元符通宝・皇宋元宝・大観通宝・政和通宝・金の正隆元宝があり、元の至大通宝(武宗。一三〇八~一二鋳)がもっとも新しい。このうちの至大通宝と鎌倉時代の製作と思われる和鏡とが、この塚構築年代の最上限を示すものである。そして室町初期以来さかんに日本で流通し た明の永楽銭を含んでいないことからいえば、この塚はそれ以前の遺構と考えられる。発掘を見た方の話では、この他に経筒に類するものがあったというが、宝蔵院保管の遺品中には、この塚が仏教経典を埋蔵した経塚であったことを示すものはない。(『稲城町誌』41ページ)

 大学の先生が塚を無断で発掘してしまうとはちょっとびっくりですが、今よりはずっとのんびりした時代だったのかもしれませんね。
 同書の記述からするとやはりこの塚は「経塚」で、古墳とは無関係であるようです。ニュータウンとして開発の進んだこの場所に、残念ながら塚の痕跡は全く残されていないようです。。。

<参考文献>
稲城町誌編纂委員会『稲城町誌』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2018/04/09(月) 23:42:18|
  2. 稲城市の古墳・塚
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「八王子市№86遺跡・№87遺跡」

八王子市 №87遺跡(西中野古墳)

 『東京都遺跡地図』には、八王子市中野上町5丁目に「八王子市№86遺跡」と「八王子市№87遺跡」という2基の塚が登録されています。
 この2基の塚は、古くは古墳ではないかとも考えられていたようです。八王子市史編さん委員会により昭和42年(1967)に発行された『八王子市史 下巻』掲載の「八王子市内古墳分布一覧表」には「西中野古墳」という名称で記載されており、「現存2基」と書かれているこの西中野古墳が、現在の『東京都遺跡地図』に記載の「№86遺跡」と「№87遺跡」であると思われます。ただし、八王子市史には埋葬施設や出土遺物等についての記録はなく、「円墳」とのみ書かれているようです。
 その後、平成7年(1995)に発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』の「多摩地区所在の塚」の項には、多摩地区に所在する「古墳か塚かの区別が不明瞭な」塚について取り上げられており、この№86遺跡と№87遺跡の2基の塚が記載されています。同書によると、2基の塚の所在地は「中野上町5丁目3307番地」と、2基ともに同じ番地内に所在とされ、昭和36年に行われた調査により「富士塚かあるいは境塚」ではないかと推定されています。また、規模について、№86遺跡は径40m、高さ1.5m。また№87遺跡は径10m、高さ1.5mとされています。

 画像はこのうちの1基、「№87遺跡」の跡地と思われる地点を西から見たところです。この塚は、戦後の空中写真等でもはっきりとその姿を確認することが出来ますので、この場所が跡地である可能性は高そうです。塚は完全に削平されて消滅しているようですが、道路が二股にわかれているあたりは塚の痕跡といえるのかもしれません。


八王子市 №86遺跡(西中野古墳)

 画像は、「八王子市№86遺跡」の跡地周辺のようすです。『東京都遺跡地図』に記されている位置からすると、画像の周辺に№86遺跡が存在したのではないかと思われますが、こちらの塚は戦後の空中写真等でも塚の影がはっきりと確認できず、正確な所在地がわかりません。
 2基の塚の発掘の記録であるとされる、昭和40年(1965)発行の『武蔵野』や翌年発行の『日本考古学年報』を確認してみました。同書によると、塚は東京都教育委員会により浅川流域文化財総合調査の一環として、昭和40年8月10日から13日にかけて発掘調査が行われており、所在地は「3126番地」とされています。また、塚の規模についても、直径約15m×17m、高さは南側裾部より1.5mとされ、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』に記載されている地番や規模とは若干の違いが見られるようです。
 塚は截頭円錐形に近い墳形を示していたとされ、土質は黒褐色有機土を主としていたようです。墳丘中央部の墳頂下65cmの位置に、径1m範囲に不整形に河原石が敷き詰められていたようですが、配石の状態は埋葬施設とするには雑な小形の遺構であり、また副葬品に類するものも何も出土しなかったことから、このマウンドは古墳ではなく、近世に築造された塚であると考えられているようです。
 この記述からすると、発掘された塚が「№86遺跡」と「№87遺跡」のどちらかにあたるのか、または全く別の3基目の塚が存在したのかよくわからなかったのですが、少なくとも複数の塚がこの周辺に存在したことは間違いないようです。


八王子市 №86遺跡(西中野古墳)2

 戦後の空中写真を参考に、画像の道路の突き当たりあたりが「№86遺跡」の所在地ではないかとも推測しました。
 まっすぐに道路が延びて突き当たるという形状や、突き当たりの場所が一段高い台地の縁辺部にあたるあたりも塚の跡地を思わせるのですが、痕跡は何もなく、真相はわかりません。


八王子市 №87遺跡周辺0
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=412518&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年に国土地理院により撮影された空中写真で、中野上町5丁目周辺を見たところです。あくまで空中写真ですので、地上の立体的な地形まではわかりませんが、2基の塚の他にも、古墳か塚なのかな?とも思えるような円形の木立が見られます。画像の右側あたりに、南側からまっすぐに伸びた道が木立に突き当たって止まっているようすを複数箇所、見ることができます。
 これらの木立の存在が気になってしまって、2基の塚跡の見学のついでにぶらりと廻ってみました。


八王子市 №87遺跡周辺1

 1ヶ所目は、おそらくは個人の墓地であると思われます。この一角だけは宅地化されずに残されており、かなり古い石造物も見られるようですが、特に塚状に高くなっているような状況は見られないようです。


八王子市 №87遺跡周辺2

 墓地の敷地の内部のようすです。かなり古い石造物が残されているようですが特に塚状に盛り上がったようすは見られないようです。


八王子市 №87遺跡周辺4

 2ヶ所目も、同じように個人の墓地であるようです。特に塚状のマウンドは見られませんが、背後に鳥居が立てられており、祠が祀られているあたりは気になるところです。。。


八王子市 №87遺跡周辺5

 2ヶ所目の墓地の背後に祀られている祠です。このあたりは多少の段差があり、墓地と祠の地点が高くなっているのは気になります。。。


八王子市 №87遺跡周辺6

 3ヶ所目は画像の道路の突き当たりの場所です。やはり墓地となっているようですが。。。


八王子市 №87遺跡周辺7

 3ヶ所目の敷地内のようすです。
 墓石が並ぶ背後がマウンド状に小高くなっており、塚跡かな?とも考えられますが、詳細はわかりません。。。


八王子市 №87遺跡周辺8

 最後の場所は一番西側の木立ですが、開発により集合住宅の建設が行われ、すでに整地されてしまっていました。が、木立のあった場所が小公園となっており、敷地内に円形の塚状のマウンドが!どういう意味があるのか(ないのか)、この一帯は長らく発掘調査が行われていたようですが、現地には特に説明板等もなく、図書館で調べたところでも、調査報告書の類も見つけることができず、やはり詳細は不明です。


八王子市 №87遺跡周辺9

 探訪の最後に、喉を潤すために立ち寄った駄菓子屋さんです。懐かしのラムネをいただきました。
 私の少年時代には、こういった駄菓子屋さんがたくさんあったんですけどね。


八王子市 №87遺跡周辺10

 駄菓子屋さんの中には驚きの事実が!なんと、駄菓子屋さんなのに、あ店の中には、憧れの「ヘラクレス大カブト」や「アトラス大カブト」の実物が売られているではありませんか!(もちろん生きている)
 お店の奥様にお聞きしたところでは、周辺地域の少年少女や、その親御さんに売れていて、商売としてバッチリ成り立っているそうです。時代は大きく変わっているなぁと、ぶっ飛んでしまいました。笑。
 私の少年時代にこれを見たら、やっぱり買ってしまうんじゃないかなぁ。
 うん、いい時代かもしれないです。このお店、お薦め!!!

<参考文献>
梅沢重昭「八王子市中野町所在の円墳形態を示す遺構について」『武蔵野 第44巻 第1号』
日本考古学協会『日本考古学年報14』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2018/04/05(木) 00:12:20|
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