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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 JR青梅線は、立川駅を過ぎたあたりから多摩川に沿うように走っていて、特に青梅駅を過ぎたあたりからは、多摩川の北側を並走しています。今回紹介する「鎧塚」が所在する「軍畑(いくさばた)」駅も、駅舎の北側は山林となっており、南側は多摩川に向かって段丘を降りる急坂となっています。この軍畑駅から南へ段丘を下りた都道193号下畑軍畑線の道路沿い、青梅市沢井1丁目に現存する塚が「鎧塚(よろいづか)」です。

 余談になりますが、東京都内に無人駅があるんだということは、この鎧塚を訪れた時に初めて知りました。私の地元のさらに田舎では、無人駅など特に珍しくもなんともなかったんですが、東京にもあるんだ〜?と、ちょっと懐かしいような気持ちになりました。私の少年時代と違うなあと感じるのは、この軍畑駅は駅舎がちょっと近代的で格好良いんですよね。しかも、昔はSuicaなんかなかったから、乗客は、無人の駅舎の改札口に置かれた箱に勝手に切符を入れて降りていく、みたいな状況だったんですが、今は「ピッ」と電子音が鳴ったりしています。ほんの何十年かで世の中はどんどん変わってしまいますね。笑。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 「鎧塚」は、軍畑駅から直線距離にして100メートルほどに位置しており、駅前のスペースから南東側を見下ろすと、円形の大きな鎧塚の姿を見ることができます。画像は、北西から見た鎧塚です。

 『東京都遺跡地図』には、この鎧塚は青梅市の遺跡番号32番の”中世の塚”として登録されています。規模は、直径約30m、高さ約9mの円墳状の塚で、昭和35年(1960)には青梅市の史跡として指定されています。
 江戸時代の地誌類には、鎧塚に関する多くの記述が残されており、『新編武蔵風土記稿』には「街道の傍にて小名軍場にあり、塚高き一丈餘、周廻十五間許、塚上六尺四方程の所に一尺餘の小祠を安す、鎧明神と号す二俣屋の城永禄六年落城のとき討死の者の丘器を埋めし塚なりと云、鉄器の破れ、又は刀剣の折れたつものを土人穿出せしことありと云。」とあり、また『武蔵名勝図会』には「小名軍端にて、街道の傍にあり。塚の高さ一丈余、廻り凡そ十五間程、塚の上は六尺四方程にて、ここに一尺ばかりの小祠あり。鎧明神と号す。土人はこの塚を穿ちて矢の根または鎧の錣、或は槍の穂その外種々の兵具を堀りだせしことありと云。合戦の後に討ち死せしものの兵具を埋めたる塚なり。奥沢橋より 二町程を隔つ。」と書かれています。

 いわゆる「辛垣の合戦」と呼ばれる戦いで命を落とした、兵士や刀・鎧などの兵具を埋葬した塚ということのようですが、大きな塚を目の前で見ると、相当に多くの兵が戦死した、激しい戦いだったのであろうと想像してしまいます。ちなみにこの周辺の地名や、JR青梅線の駅名ともなっている「軍畑(いくさばた)」も、この辛垣の合戦に由来しているといわれています。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 画像は、段丘を下りて東から見上げた「鎧塚」です。墳丘の裾部が一部削られているものの、かなり良好な状態で残されているのがわかります。段丘の下に降りて見上げてみると、塚の大きさを感じることが出来ます。
 青梅市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。

   市指定史跡 鎧塚
 鎌倉時代末期から、この地方一帯の領主であった三
田氏は、永祿年間(一五六〇年代)北條氏照の軍勢に
攻められ、辛垣城において最期を遂げた。鎧塚は、こ
の戦いの際に戦死した武者の兵器を埋め、供養した塚
と伝えられている。
 『新編武蔵風土記稿』には、「街道の傍にて小名
軍場にあり、塚高さ一丈(三・〇三m)餘、周廻十
五間(二七・二七m)許、塚上六尺(一・八二m)
四方程の所に一尺(三〇・三m)餘の小祠を安す、鎧
明神と號す、二俣尾の城、永祿六年(一五六三)落
城のとき、討死の者の兵器を埋し塚なりと云、鐵器の
破れ又は刀剱の折れたるものを土人穿出せしことあ
りと云」とある。
   昭和三十五年十一月三日 指定
              青梅市教育委員会



「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 画像は鎧塚の頂部のようすです。祠が祀られていますが、これはかつて鎧塚大明神と呼ばれた神社で、享保16年(1731)に再建されたという記録が残されているそうです。塚に埋葬された戦死者の霊を祀ったものであるといわれています。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 塚の前には地蔵尊がが祀られています。宝暦10年(1760)3月の伊奈石製の地蔵尊です。

 実は、今回のこの鎧塚の画像は3年ほど前のものなのですが、最新のGoogleマップのストリートビューで確認すると、塚の前の道路の工事が行われていて、パワーシャベルが塚に向かっているようなようすが見られます。ほんの一部であっても、塚自体が削られてしまわなければいいなあと、ちょっと心配になります。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー
 
 画像は、鎧塚から、南西の「軍畑大橋」を見たところです。この日はこの後、軍畑大橋を渡ってお隣の沢井駅までぶらぶらと30分ほど歩きました。沢井駅近くの、中世の墳墓であるとされる「№175遺跡」を見学してから、午後はなんと仕事に向かうわけですが、思えばこのころはかなりチャレンジャーでしたね。笑。


「鎧塚」ー青梅市指定史跡ー

 この辺りまで来ると、多摩川の水はまだ綺麗に透き通っていて、本当にここが東京都なのかと目を疑いたくなるような、美しい景観が広がっています。(仕事に行くの、イヤになっちゃうんですよね。笑)

 次回の「№175遺跡」に続く。。。

<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明版


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  1. 2018/05/30(水) 08:13:34|
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「三田綱秀首塚」

 青梅市二俣尾に所在する「海禅寺」は瑞龍山と号し、本尊は釈迦如来です。室町時代に群馬県白井の雙林寺2世、一州正伊を開祖として開かれたといわれています。この地方を支配していた三田氏の菩提寺であったといわれており、厚い保護を受けていたそうです。
 この海禅寺の本堂西側の坂道を100メートルほど登った墓地の一角に、五輪塔が建てられている場所があり、「首塚」と呼ばれています。

「三田綱秀首塚」

 画像が「首塚」の現在のようすです。
 説明板が建てられているようなのですが、これは残念ながら日に焼けてしまっていて、まったく文字を読むことができませんでした。
 画像の右側に見えるのが五輪塔で、永禄年間(1558~1570)に五世の僧禅染が建てたといわれています。また左側の石の祠は「三田稲荷社」で、寛政年間に23世和尚が綱秀の霊を祀ったと海禅寺の記録に残されているそうです。『定本市史 青梅』では、この五輪塔は北條氏の治世に世を忍んでひそかに建てられた綱秀の墓ではないかとしていますが、『青梅を歩く本』では、形式からして、三田氏の墓と同じく江戸時代初期のものではないかとも書かれています。


「三田綱秀首塚」

 首塚は、塚と呼ばれて入るもののマウンドは存在せず、周囲は墓域として整地されています。以前は山中の竹林に存在したようなので、かつては盛土が存在したのかもしれませんが、真相はわかりませんでした。。。

<参考文献>
青梅市史編さん実行委員会『定本市史 青梅』
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』


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  1. 2018/05/26(土) 12:27:29|
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「塚(三基)」

「塚(三基)」

 『東京都遺跡地図』には、青梅市の遺跡番号107番に「塚(三基)」という名称の中世の塚が登録されています。そのままじゃないか!というネーミングもさることながら、まだ開発の手の及んでいない青梅市内の山林に存在する塚ということで、かなり良い状態で残されているのではないかという期待感もあり、見学に訪れてみたのですが。。。

 というわけで、画像は、青梅市塩船にある「塩船神明社」です。『東京都遺跡地図』の分布図を参考にすると、鳥居をくぐって参道を登った山の中腹に社殿があり、更にその奥の裏山の頂部か尾根のあたりに塚が存在するはずです。


「塚(三基)」

 この場所を訪れるにあたって、『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』からプリントアウトした地図を参考にしました。ネット上の遺跡分布地図に記された塚の位置が、必ずしも正確なのもではないことは理解していましたが、3基の塚が山林に存在しているなら、すぐに見つかるだろうと思っていました。
 画像は、塩船神明社の社殿のようすです。背後に見える裏山を100メートルほど登れば、3基の塚が存在するはずです。


「塚(三基)」

 画像は、塩船神明社裏山の山頂に行き着く直前の丘陵斜面のようすです。
 神明社の境内社の裏から塚の所在地と思われる山の頂部を目指して登って行ったのですが、なんと!山頂に辿り着く直前にカメラの電池の残量を使い切ってしまって、塚を発見できたとしても写真に収めることが不可能な状況になってしまいました。掲載した画像は、山頂にたどり着く直前の、この日の最後の一枚です。しかもこの日は、転倒して肩を痛めてしまっていたので、心も折れてしまっていたかもしれません。。。
 その後、丘陵頂部の平坦な場所までは登って行ったのですが、塚を見つけることはできずに、深追いせずに諦めて山を降りてしまいました。

 その後に調べてみたところでは、青梅市郷土資料館より発行された『青梅市の埋蔵遺跡』には「塩船観音寺南方、吹上との境をなす尾根上」とあり、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には「山地斜面 3基、部分消滅、径5m」とも書かれています。ひょっとしたら山頂の平らな地点ではなく、周辺のどこかに塚が残されていたかもしれないのですが、今となっては後の祭りですね。。。
 いつかリベンジのチャンスがあればもう一度チャレンジしようかとも思っていますが、今のところその機会はありません。
 うーん。見逃していたかもしれないなあ。。。

<参考文献>
青梅市郷土資料館『青梅市の埋蔵遺跡』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』


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  1. 2018/05/25(金) 01:39:39|
  2. 青梅市の古墳・塚
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「白井塚古墳」

「白井塚古墳」

 画像は、狛江市中和泉3丁目に所在する「白井塚古墳」を東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号58番に登録されている古墳です。

 この周辺は〈狛江百塚〉と呼ばれ、江戸期にはすでに人々の関心を集めていました。江戸時代の地誌類にも多くの記述が見られ、『武蔵名勝図会』の和泉村の項には「この地并に近村に古き塚多し。謂われあることならんに、絶えて土人の言伝えも聞かず。」とあり、また古塚の項には「大なるは六ケ所、小なるは三ケ所」とも記されています。おそらくは「大なるは六ケ所」という古墳の中にこの白井塚古墳が含まれているのかもしれません。「江戸時代後期の『世田谷領二十ヶ村絵図(嘉永年間頃)』や『和泉村彩色絵図(年代不詳)』にもにもこの白井塚が描かれているようです。
 
 昭和51年(1976)2月には、述べ10日間にわたる調査が行われており、古墳全景の測量や周溝の位置が記録されています。墳丘の規模は、円墳であるとするなら直径36m内外、高さ3.5mで、墳丘の周囲を幅2mのテラスと幅約10mの周溝が取り巻いていることが判明しています。
 白井塚古墳の形状は、1961年に西側が2/5ほど、またそれ以前に南側が1/4ほど削平されているようですが、北東部は良好に残されていて埋葬施設の破壊は免れているのではないかと考えられています。造り出し付きの円墳や前方後円墳など、円墳ではない可能性も残されているようです。


「白井塚古墳」

 墳頂部には、鳥居が建てられており、その奥には稲荷大明神の祠が祀られています。
 白井塚古墳は、狛江古墳群の中では比較的大型の古墳です。兜塚古墳や絹山塚古墳と類似する規模で、帆立貝式古墳である亀塚古墳の後円部ともほぼ等しいとこから、古墳群の造営にあたって何らかの統一的企画が存在していた可能性も考えられているようです。
 白井塚古墳の埋葬施設は竪穴系であると推定されており、これも亀塚古墳や絹山塚古墳、亀塚古墳などと年代的に近似していると考えられています。白井塚古墳の築造は5世紀後半から6世紀前半と推定されています。


「白井塚古墳」

 墳頂部から見下ろして見たところ。
 周囲はかなり削平されてしまっているようですが、高さはまだ残されているようすがわかります。


「白井塚古墳」

 画像は、墳頂部に建てられている「稲荷大明神」と刻まれた石碑です。
 稲荷祠に祭られている棟札の1枚に「文化十年寅年二月初牛」と記されていることから、この祠が少なくとも江戸時代後期には建てられていることが判っており、またその以前から稲荷大明神が祀られていると推定されているそうです。。。


「白井塚古墳」

 墳丘には、散在する河原石が見られることから、葺石の存在が考えられているようです。


「白井塚古墳」

 西側の路上から見た白井塚古墳のようすです。建物の間から、墳頂部の祠を見ることが出来ます。
 古墳を削平した際の断面には、ロームの赤土がいくつもの層にわかれた古墳の築造当時のもようがはっきりと残っていたそうですが、古墳の周囲は宅地化が進んでいて見学は困難な状況でした。

 当日は、土地の所有者の方に許可を頂いて古墳を見学させていただきました。ありがとうございました。
 白井塚古墳は、狛江古墳群の解明にあたって重要な位置を占める、貴重な文化遺産であると思います。
 今後も良い形で保存が行われるとよいですね。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書Ⅰ』


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  1. 2018/05/15(火) 23:25:28|
  2. 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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「東塚古墳」

「東塚古墳」

 「東塚古墳」は、狛江市中和泉1丁目に所在する古墳で、『東京都遺跡地図』には狛江市の遺跡番号46番の古墳として登録されています。画像は、この東塚古墳を東から見たところです。

 この古墳は、昭和62年(1987)に墳丘の測量と発掘調査が行われており、古墳周溝の北東部分が検出されています。現存する墳丘は、南東側の墳端から墳丘中腹にかけてと、西側墳裾部が削平されており、また南側中腹も局地的に大きく削られています。発掘調査と並行して行われた墳丘測量の結果、本来の墳丘径は径35m、高さ5m、墳頂平坦部径8mの円墳で、従来考えられていたよりも若干大きいことがわかっています。また、墳頂部近くにテラス状の部分が認められることから、墳丘が二段築成である可能性も考えられるようです。


「東塚古墳」

 画像は、南から見た東塚古墳のようすです。
 大きな石が何段にも積まれており、見た目は庭園の築山という印象です。
 この古墳の埋葬施設については、墳丘の発掘が行われていないことから未確認であるようです。また、以前より葺石の可能性が考えられていましたが、これも調査の結果、確認されなかったようです。周溝内からは、土師器片のほかに、2種類の円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪が検出されています。


「東塚古墳」

 古墳の南側から、墳丘に登れる石段が造られています。早速、登らせていただきました。


「東塚古墳」

 石段の途中のようすです。さらに登っていきます。


「東塚古墳」

 墳頂部が見えてきました。
 石段は登っていくに従って段々小さくなっていくのですが、ひょっとして古墳が大きく見えるように計算して造ったのでしょうか?


「東塚古墳」

 墳頂部のようすです。竹林となっている中に鳥居が立てられており、その奥には祠が祀られています。


「東塚古墳」

 かつては「百塚」とも称せられた狛江の大古墳群も、その後の開発による削平が続き、残存する古墳はわずか十数基です。今、残された古墳だけでもなんとか保存されないものかと願うところですが、狛江の街も少しずつ開発が進んでいるようです。
 いっそのこと「古墳の街」とか言って大々的に町おこししちゃえばいいのに、と思うんですが、なかなか難しいでしょうかね。徒歩数分の場所にこれだけ多くの古墳が残されているのは東京都内でも狛江だけですし、良き開発が行われることを願いたいものです。。。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅱ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』


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  1. 2018/05/13(日) 22:07:46|
  2. 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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「松原東稲荷塚古墳 その2」

「松原東稲荷塚古墳」

 画像は、狛江市中和泉1丁目にある「松原東稲荷塚古墳」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、狛江市の遺跡番号48番に登録されている古墳です。

 狛江古墳群は和泉、猪方、岩戸と、大きく3つの支群に分けられており、この「松原東稲荷塚古墳」は和泉の支群に属しています。東方100mには「東塚古墳」が現存しており、北方100m程の地点にはかつて「絹山塚古墳」があったとされています。
 松原東稲荷塚古墳は、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査により把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、10番に「稲荷塚」という名称で取り上げられています。
 同書に掲載されている当時の記録によると、墳丘は西側の約3分の1が大きく削り取られており、また東と北の墳丘裾部も削平されて民家が位置していました。墳頂部には稲荷祠が祀られて、樫などの繁る屋敷森となっていたようです。これは、近年まであまり変わらない状況であったように思いますが、最近になって墳丘西側の2階建ての集合住宅が取り壊されており、また墳丘上に繁っていた竹などが伐採されて、古墳の全体が見やすくなっているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 昭和35年当時の規模は、東西径約30m、南北径約28mで、高さは、東側裾部で3.35m、南側で3.8mで、本来の規模は、径約33m、高さ約4mの円墳と推定されています。墳形は円墳とされていますが、帆立貝形の可能性も想定されているようです。
 画像は、西側から見た松原東稲荷塚古墳です。墳丘が大きく削られているようすを見ることが出来ます。
 墳丘には葺石が存在しており、10~20cm大の河原石が使用されています。また円筒埴輪の破片も確認されているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 この大きく削平された墳丘断面には、巾3m、厚さ0.8mの主体部の礫部がのぞいています。上段墳丘の頂部から掘った舟底形土墳に5cm~15cmの河原石を充塡するように構築するとされています。画像が、内部主体ではないかと思われる現在の礫部のようすですが、調査から50年以上が経過していますので、墳丘の崩壊が若干進んでいるように見えます。
 その後の、昭和51年(1976)に行われた調査の際には、この礫部の断面から鉄鏃と刀子片が採集されており、礫部内からは直刀片が確認されているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳丘の東側のようすです。こちらも、西側ほどではありませんが、若干削られています。
 民家の存在により土留めが行われているようです。


「松原東稲荷塚古墳」

 古墳の南側から墳頂部に登るための石段が造られています。
 土地の所有者の方にお断りしてお参りさせていただきました。早速登ってみます。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳丘上には、稲荷祠が祀られています。
 数年前までは鬱蒼とした屋敷森となっていたので、路上からこの稲荷祠を確認することは出来ませんでした。。。


「松原東稲荷塚古墳」

 墳頂部から、削られている西側を見下ろしてみました。かなり高さが残されていることがわかります。
 「百塚」と呼ばれる程多くの古墳が存在した狛江市内も、そのほとんどの古墳が破壊されて消滅しています。それでも十数基の古墳が残存するという中、残された古墳だけでもしっかりと保存されると良いですよね。また、風化や崩壊が進まないうちにしっかりと調査が行われると良いと思います。

<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』


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  1. 2018/05/11(金) 00:08:36|
  2. 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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「将軍塚」

 前回は、所沢市に所在する「白旗塚」を紹介しました。この塚の周辺は古来よりよりしばしば合戦が展開されたといわれる地域で、新田義貞が鎌倉攻めの際にこの小手指ヶ原に陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てた場所であるという伝承が残されています。
 開発によりほとんどが消滅してしまった首都圏の古墳や塚において、「塚に触れると祟られる」等の伝承が言い伝えられたことにより塚も崩されずに残された、という事例はかなり多く見られるところですが、白旗塚については、この新田義貞が白旗を立てたという伝承の存在と、後世に浅間神社として墳丘上に祠が祀られたことが、塚が崩されずに残された大きな要因であったと思われます。
 そして、所沢市内にはもう1基、古墳の可能性が考えられている塚が残存します。


東村山市「久米川古戦場」

 というわけで、画像は東京都東村山市諏訪町2丁目の西宿公園内に立てられている「久米川古戦場跡記念碑」です。
 この一帯も、小手指ヶ原と同様に新田義貞と鎌倉幕府軍との激しい戦闘が行われたとされる伝承地で、「久米川古戦場」の名称で東京都の旧跡に指定されています。
 記念碑の横に立てられている東京都教育委員会による説明板には、次のような解説が書かれています。

東京都指定旧跡
久米川古戦場
所在地 東村山市諏訪町二丁目付近
指 定 大正八年十月

 北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓
一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永八年(一二七一年)
の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き……」とあって、上野国(群馬
県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街
道上の道の主要な宿駅であった。
 『太平記』によれば、元弘三年(一三三三)五月八日、群馬県新田
町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵し
た新田義貞の軍勢は、十一日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉
軍を破り、翌十二日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との第二戦が行
われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』
によると、久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわ
れる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約一九〇メートルの八国
山は、駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根•大山)、甲斐(多波
山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国
の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。
 久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武二年(一三三五)
の中先代の乱や応永二十三年(一四一六)と同二十四年(一四一七)
の上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が
進み当時の景観は偲ぶべきもない。
 国の重要文化財『元弘の板碑』は、八国山山麓にあったものを文化
年間(一八〇四~一八)に、臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏訪町一
の二六)に移したものである。
 平成十年三月 建設
                       東京都教育委員会


 なんと、この説明板によると、八国山の所沢市側には「将軍塚」と呼ばれる塚があり、「白旗塚」と全く同じ、合戦に勝った新田義貞が旗を立てたという伝承が残されていることが書かれています。
 これは見逃せない!ということで、早速この「将軍塚」の見学に訪れて見ました。


所沢市「将軍塚」

 画像は、所沢市松が丘1丁目に所在する「将軍塚」を南から見たところです。白旗塚と比べるとかなり小さな塚ですが、しっかりとマウンドが残されています。(真冬に訪れれば塚の形状がはっきり見えたかもしれないのですが、画像は2年前の5月のもので、残念ながらすでに草がぼうぼうに生い茂っていました。。。)
 塚の前には説明板歯が立てられており、次のように書かれています。

 将軍塚

 狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて
駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・
信濃の八か国の山々が望めたとこから八国山と
呼び伝えられ、鎌倉時代には、この付近を鎌倉
街道上道が南北に通っていた。
 元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒そうと上
州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指
ヶ原で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分
倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝
利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、
塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるよう
になったと伝えられる。江戸時代に編纂された
「新編武蔵国風土記稿」には「此ニ一ツノ塚ア
リ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書には、こ
の塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚では
ないかとも記されている。


 所沢市内で古墳の可能性が想定されるという2基の塚が、ともに、合戦に勝った新田義貞が旗を立てたという伝承の存在により崩されずに残されているというのは、なんという偶然かとびっくりします。
 ちなみに、小手指ヶ原や久米川で戦闘を繰り広げた新田軍はその後、分倍河原でようやく勝利となるわけですが、府中市内の「高倉古墳群」には、分倍河原の合戦で亡くなった戦死者を葬った塚であるとされる「首塚」や「胴塚」などの伝承が残されており、「首塚」や「耳塚」は現存します。また、府中市矢崎町2丁目には、東京都指定史跡である「三千人塚」も現存しています。


所沢市「将軍塚」

 画像のように、墳頂部には「将軍塚」の石碑が建てられています。


所沢市「将軍塚」

 将軍塚には、戦死した新田義貞方の武将たちを供養するための「元弘の板碑」と呼ばれる板碑が立てられていたそうです。現在この板碑は、東村山市の徳蔵寺の板碑記念館に移されて保管されています。
 将軍塚の場所には現在は「元弘青石塔婆所在趾」の石碑が建てられています。石碑の左奥に見えるのが将軍塚です。
 果たしてこの将軍塚が史実の通りに中世に築造された塚なのか、それとも古代に築造された古墳なのか、とても興味深いところです。。。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2018/05/08(火) 00:04:01|
  2. 埼玉県の古墳・塚
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「白旗塚」

「白旗塚」

 さて、これまで東京都内の多くの古墳や塚を取り上げてきましたが、狭山丘陵周辺地域である瑞穂町、武蔵村山市、東大和市、東村山市、小平市、東久留米市あたりは、どうやら古墳がまったく存在しない古墳空白地域となっているようです。これらの市域に本当に古墳が存在しないのか、実際に、足を運んで調べてみましたが、これまでに発掘調査により確認された古墳はおろか、古墳ではないかと推定されるような塚の存在もほとんど見当たらないようです。これらの地域には、古墳を築造するような豪族の存在はなかったのかもしれません。
 そんな中、狭山丘陵北側では、入間市域では古墳の存在は見当たらないものの、埼玉県側の所沢市は(かつては古墳の存在しない地域であると考えられていたようですが)、近年の開発に伴う発掘調査により「岩崎古墳群」や「海谷古墳群」等の複数の古墳の周溝が検出され、定説は覆されています。また、北秋津や滝の城といった地域では、横穴墓も発見されているようです。そして、所沢市内には、古墳である可能性が想定されている塚が何基か現存することを知り、これらの塚を見学するために所沢市まで足を伸ばしてみました。

 というわけで、画像は所沢市北野2丁目に所在する「白旗塚」を南から見たところです。こんもりとした森の中に塚が現存しており、一説には前方後円墳ではないかとする説もあるようです。


「白旗塚」

 現在の白旗塚を南東から見たところです。墳丘はかなり良好な状態で残されているようです。
 塚の所在地は、あまりわかりやすい場所ではないかもしれませんが、所沢市の埋蔵文化財調査センターの裏側、南側に隣接するように存在します。よりによって、埋蔵文化財調査センターの隣にありながら南発掘調査が行われず、塚の性格もわからないという状況はなんとも言えないもどかしさを感じますが(笑)、これは今後の調査の進展を待つしかなさそうです。


「白旗塚」

 北西から見た白旗塚です。 
 この白旗塚から埋蔵文化財センターにかけての一帯は、小手指ヶ原と呼ばれています。この地域の背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたことから古来戦場となることが多く、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてはしばしば合戦が展開されたといわれています。当時は一面の原野で、現在の狭山市から入間市あたりまでがその範囲に含まれていたようです。
 元弘3年(1333)年の、上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めは、特に歴史的な合戦のひとつとして知られています。同年5月8日に義貞は北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すために新田庄で兵を挙げ、利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下して、11日には新田軍は小手指の地に至ります。最初に150騎ほどだった新田軍は、進むにつれて沿道の武士を加えて行き、その数は最終的に20万騎にも及んだといわれています。この新田軍とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で30余回も討ち合いますが勝敗はつかず、新田軍は入間川(現在の狭山市)に、幕府軍は久米川(現東村山市)にそれぞれ引きます。そして翌12日に新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(現在の府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
 そして、この「白旗塚」は、源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てた場所であるという伝承地です。


「白旗塚」

 塚の西側から北側あたりにかけて、古墳の周溝ではないかとも考えられる溝を見ることができます。素人目にもここは古墳なのではないかという印象を受けますが、真相やいかに!という感じですね。


「白旗塚」

 残存する墳丘からすると、前方後円墳というよりは帆立貝型という印象で、前方部か造り出しかと思しき形状を見ることができます。(もちろん古墳ではなく塚である可能性も考えられるわけですが。。。)


「白旗塚」

 白旗塚の墳頂部のようす。「白旗塚」と刻まれた石碑があり、浅間神社の石祠が祀られています。

 ちなみにネットでこの白旗塚について検索してみて知ったのですが、この場所は心霊スポットとしても知られているようです。鎧を身につけた武士の亡霊たちが白旗塚の周りを夜な夜な彷徨っているという目撃談や、武士が歩くような音が聞こえるなどの心霊現象、また心霊写真がよく撮れるという噂もあるようです。白旗塚の碑には「古武将の御魂祭れりこの塚を 護り通せと先祖より受 此の塚を壊せし者は忽ちに 霊魔を受けて死するやもあり 武蔵野の小手指ヶ原古戦場 月の光は変わらざりけり」と刻まれており、この碑文の内容も、この地の心霊スポット化に一役買っているのかもしれません。
 この地域は古くから知られる古戦場であり、祟りの言い伝えが存在することにより塚が崩されずに残された事例も少なからず存在するわけですが、霊感のまったくない私がよく晴れた日の午前中に訪れたという状況では、これらの噂の真偽を確かめることはできませんでした。。。


「白旗塚」

 墳頂部から下を見下ろして見るとこんな感じ。かなり高さが残されているようです。
 ただし、一時期はかなり塚は崩れていたようすで、修復が行われて現在の姿となっているようです。
 説明書きには次のように記されています。

 この白旗は太平記縁りの古戦場の一角にあり「説には古墳とも云い伝えられてきたが慶応四年村民の手により浅間神社(富士仙元)の石祠を建て浅間信仰の塚となった。以降百四十年余りに亘り風雨に晒され表土の流失が続きここにきて白旗塚碑石祠共土台が露出転倒する事態となった。
 さて白旗塚隣接地に農園を持つ北野中学校(校長都築政則)では強度の文化財を守ることは教育上の意義あることと考え体験活動の一環に取り入れ塚主の快諾を得平成十九年九月修復工事に着手した。
 盛土の土は地元の岩田清氏が提供教員生徒全員が一丸となってバケツに土を入れ山頂と周辺部に運び上げ五ヶ年の歳月をかけて修復し砂防に”著莪”を植え平成二十四年一月三十一日をもって本事業を完了した。
 盛土の総量約五十立方米生徒数(白旗塚の協力を含む)延三百五十名 この間文化財の奉仕活動に尽力された北野中学校生徒の功績を讃え茲に記し碑文とする。
平成二十四年三月吉日  建立  田中鳳仙書



「白旗塚」

 白旗塚の東方には、「小手指原古戦場」と刻まれた石碑が建てられており、所沢市教育委員会による説明板も設置されています。
 それにしても、この小高くなったマウンドが古墳跡であるなんてことは、ないですよね、多分。。。

<参考文献>
現地説明版


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  1. 2018/05/05(土) 00:06:18|
  2. 埼玉県の古墳・塚
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「しもつけ歴文カード(下野市歴史文化遺産カード)」

しもつけ歴文カード

 先日、ぶらりと立ち寄った栃木県の下野薬師寺歴史館で「しもつけ歴文カード(下野市歴史文化遺産カード)」をゲット!
 下野市内には「しもつけ風土記の丘資料館」があり、また栃木県の埋蔵文化財センターも下野市にあるという状況で、まさかの薬師寺歴史館での古墳カードのゲットは、思わぬプレゼントでした。
 せっかく配布しているのに全く告知していないようなので、ここで取り上げてみます。(著作権に触れるようでしたら削除しますのでおしらせください。)

 カードは下野市内の主要古墳全8枚で、表面は画像のように古墳のイラストが描かれていいます。
 裏面には古墳についてのデータと解説が書かれています。

1 甲塚古墳
2 愛宕塚古墳
3 山王塚古墳
4 丸塚古墳
5 横塚古墳
6 下石橋愛宕塚古墳
7 御鷲山古墳
8 三王山古墳

 もし続編があるなら、やっぱり古墳の写真を掲載してほしいなあと思うのですが、何かと問題があるのでしょうかね?写真、提供するのになあ。
 ていうか、栃木の古墳の写真、かなり撮りたまってきたし、「古墳なう 栃木編」とか立ち上げちゃおうかなあ。。。

  1. 2018/05/03(木) 23:25:06|
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