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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「渋谷区№4遺跡」

「渋谷区№4遺跡」

 画像は、渋谷区代々木5丁目にある「代々木八幡神社」を西から見たところです。
 健歴2年の創建と伝えられるこの神社は、江戸時代の寛文11年頃にこの地に移転されており、かつての代々木村の鎮守であったといわれています。境内には古墳に関係すると思われる伝承が残されており、『東京都遺跡地図』には渋谷区の遺跡番号4番の古墳(円墳)が登録されています。


「渋谷区№4遺跡」

 鳥居をくぐり、境内に入るとまず目に飛び込んでくるのはこの復元された古代住居跡です。昭和52年5月26日には渋谷区の史跡として指定されているこの「代々木八幡遺跡」は、昭和25年(1950)に発掘調査が行われており、多数の土器や石器類とともにロームを浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴を発見されています。縄文時代の住居跡とともにが検出されています。ここから出土した加曾利E式土器によって、この住居には約4500年前に人が住んでいたと推定されているそうです。
 この復元住居前には渋谷区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

代々木八幡遺跡と石器時代住居

 この遺跡は今から四千五百年程前の、石器時代中期を中心に栄えたも
ので、標高三十二、三メートルの幡ヶ谷丘陵の南方に突き出した半島
の端に位している。当時、この前の低地は海の退きはじめた沼のような
ところで丘のうしろは一面、カシやナラの森で、そこにはシカやイノシ
シなどの動物が多く当時の人達はそれを取ったり木の果を拾って、見は
らしの良いこの丘の上で永く住みついていた。
 昭和二十五年渋谷区史を作るため発掘研究が行われたが、そのときに
は、地下三十センチメートル位のところから沢山の遺物が発見された。
土器は縄文式土器中期の加 曽利E式の鉢や壺が一番多く、その他わづか
ではあるが、前期の黒浜式や諸磯式、後期の堀ノ内式、加曽利B式など
も出たから、前期にはじまり、中期に栄え後期までつゞいたことがわか
る。石器としては石斧、石槌、石棒、石錐、石鏃、凹石、皮剝などが発
見されている。
 この発掘のとき、地下八十センチメートル位の下のローム層の上に当
時の住居(竪穴家屋)の跡が一個分発見されたので、その上に当時のまゝ
の家を組み立てゝ作ったのが、この復元住居である。この家は直径約六
メートルの円形にローム層を約二十センチメートル掘りくぼめ、その内
がわの周に高さ一メートル六十センチメートルの柱を十本程立て、その
柱の頭に 桁を横に結びつけ、その桁に椽を二十一本周から葺き寄せて、
屋上で円錐形に結び合せ、この上に萱を葺いて作ってある。屋上の南北
には煙出しを作り東側には入り口をその北側の貯蔵室の跡にはこゝだけ
椽を葺き出し中央部には爐の跡がそのまゝ残してある。貯蔵室に掘り埋
めてあった大型土器と爐の中に置いてあった底なしの二個の土器は別に
保存してある。この家の内は冬は野外より十度温かく夏は十度程涼しい
し、内でたき火をすれば数時間で床面は乾いて案外住み心地が悪くない。
使った木材は当時の附近の森相から考えてカシ、クリ等濶葉樹にした。
(この復元家屋は東大建築工学教授藤島亥治郎博士の検閲を得て国学院大学教授樋口清之 博士が立案したも
のを当区で作成した詳細は『渋谷区史』九二-一〇五頁参照)

                   東京都渋谷区教育委員会


 
「渋谷区№4遺跡」

 本殿の向かい側には「代々木八幡遺跡出土品陳列館」があり、出土した遺物や発掘当時の写真などが展示されています。古代人の等身大の人形なども飾られていて、さながら境内に造られたプチ郷土資料館という感じで、充実していますね。


「渋谷区№4遺跡」

 代々木八幡遺跡は、昭和25年(1950)の夏に国学院大学考古学資料室と上原中学校の生徒たちにより、また同年秋には旧渋谷区史編纂委員会により発掘調査が行われています。その後、平成22年(2010)にも社務所増築工事に先立つ発掘調査が行われています。出土した遺物は縄文時代のものが多く、この陳列館にて公開されている遺物には古墳時代のものは存在しないようですが、果たして本当にこの場所に古墳が存在したのでしょうか。


「渋谷区№4遺跡」

 代々木八幡神社境内のようすです。
 渋谷区というと、何かと人の多いイメージがありますよね。先日のW杯コロンビア戦勝利の際には、渋谷駅前のスクランブル交差点は大盛り上がりだったようですが、この代々木八幡神社は神聖なる森の中、という感じで、いつもとても静かです。


「渋谷区№4遺跡」

 画像の奥が、古墳の跡地であると思われる「出世稲荷社」で、南西から見たところです。この稲荷社は、ある芸能人がこの出世稲荷社にお参りしたところ仕事が増えたという話がテレビ番組で紹介され、注目が集まっているそうですが、この場所が古墳跡であると考えられていることはほとんど知られていないようです。
 この稲荷社について、説明板が立てられていますが、やはり古墳についてはふれられていませんでした。

出世稲荷社
祭礼日:旧暦初午の日
 第二次世界大戦末期の昭和二十年(一九四五)五月二十五日夜、この
あたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残
ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた
稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放
置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集め、合祀し
たのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすが
ともなっている。
 なお、祭礼日の旧暦初午の日には、さまざまな祈願をこめた紅白
の幟の奉納が行われる。



「渋谷区№4遺跡」

 出世稲荷社を間近で見たところです。
 明らかにこの周囲が一段高くなっているようですが、古墳とするには周囲の改変が著しく、墳形を推測するのは難しそうです。


「渋谷区№4遺跡」

 古墳ではないかと考えられる、マウンド上のようすです。
 左側が出世稲荷社の祠で、右側に見えるのは榛名山登山碑です。
 昭和41年(1966)に東京都渋谷区より発行された『新修 渋谷区史 上巻』には、「代々木八幡神社境内より集塊岩ようの石棺蓋が出土したという話であるが、早く井戸の中に埋められたと伝えられる。しかし、ほかに傍証となるべきものがない限り、古墳が存在したという断定を下し得ない。」と記されています。この場所を古墳であるとする背景には、この伝承の存在があってのことかと思われますが、少なくともこの塚状地形の周辺に、古墳であるという確証を得られるような材料はなく、出土したとされる石棺蓋が発見されない限りはなんとも言えないところです。


「渋谷区№4遺跡」

 角度を変えて、南東から見た塚状地形のようすです。
 実は訪れた当日に、代々木八幡神社の別当寺である福泉寺のご住職にお話を聞くことができたのですが、石棺蓋出土についての詳細は分からず、出土した石棺蓋が埋められたという井戸の場所も知ることはできませんでした。
 現在の代々木公園や明治神宮内には、とても多くの古墳の伝承が伝わっているようですし、この代々木八幡神社における古墳の存在も想定内!という気がするのですが、真相が明かされるには発掘調査を待つしかなさそうですね。。。

<参考文献>
佐藤昇『渋谷区史跡散歩』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明板


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  1. 2018/06/21(木) 22:59:58|
  2. 渋谷区の古墳・塚
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「法界塚」

「法界塚」

 画像は、目黒区目黒本町6丁目に所在する「法界塚」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録となっているものの、古くから古墳ではないかとも考えられている塚で、昭和36年(1961)に発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とされる12基のうちの1基として取り上げられています。

 昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの法界塚についての詳しい記述があり
 向原町二六〇番地にある。此塚に就て角田長廣氏編『碑文谷村々誌』には左の如く載せている。
 所在 字向原?字法界塚 第二百六十四番地 坪數 四十二坪 形状 高さ七尺位にして三角也 雜項 往古より除地の古塚にして何人の塚なるか不詳、乾元元年・明應四年六月二十六日付の碑存 但し天正十三年十一月十七日付の古文書に法界塚を中とすとあり
とある。後述する鬼子母神堂は相隣りして建つて居るが、これは後に此處へ移されたもので、此の塚とは関係がない。往古の古墳とも考へられるが、或は法華寺関係の經塚(碑文谷誌の著者は後者の説)であるとも見られ、確然とした斷案を下すことは至難である。尚ほ『天正十三年の古文書には中とす』とあるのは、新編武蔵風土記稿の編者が法問塚と此の塚を混同して書いたものを、一寸引例したのであらうが、これは勿論誤りであると思考される。従つて此の塚がほつけ塚と云はれ或は法解塚と書かれたものであらう。

 と書かれています。
 どうやら、古くからこの塚が古墳ではないかとは考えられていたようですが、現在まで学術的な調査が行われた記録はなく、塚の性格は不明のままであるようです。


「法界塚」

 画像は、法界塚が所在する「碑文谷鬼子母神堂」の境内から見た塚のようすです。かなり多くの碑石が残されています。『碑文谷村々誌』に書かれているように、乾元元年の碑が存在したということになると、乾元元年とは西暦で1302年になりますから、かなり古くから存在する塚であることは間違いないようです。平成3年に現地に設置された説明板には、円融寺文書の吉良氏印判状に
 天正十三年の古書にも法界塚と書たれば別に故ありと見えたり
 と記されていることから法華寺関係の経塚か、あるいは5~6世紀の古墳ではないか、と推測しています。

 目黒区郷土研究会より昭和44年に発行されている『郷土目黒 第30輯』に掲載されている「法界塚を見て碑文谷文化の基底を探る」の中で、佐々木逸巳氏はこの塚の性格について
 落武者が戦死して、鎧甲のままこの一角に葬られた
 というこの塚にまつわる言い伝えを紹介したうえで、大永4年(1524)1月13日の小田原城の北条氏綱が江戸城主朝興を攻めたときの戦いではないかと推測しています。また、天台宗の僧円仁(慈覚)がお経をうめて供養塔をたてた経塚の初期のものであろうと推測しています。
 目黒区内の古代の遺跡の分布状況から考えると、この周辺地域の古墳の存在はちょっと考え難いようにも思うのですが、いつの日か発掘調査が行われて真相が解明される日が来るのでしょうか。。。


「法界塚」

 鬼子母神堂のようす。
 西小山の日蓮宗摩耶寺に属し、祭神は鬼子母神・18番神です。開基はこの地の安藤氏で、元和2年(1616)に十羅刹女・鬼子母神を勧誘して堂宇を創建したとされ、堂内には同年の板碑1基が保存されているそうです。


「法界塚」

 神輿と法界塚(特に深い意味なし)。

<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
佐々木逸巳「法界塚を見て碑文谷文化の基底を探る」『郷土目黒 第30輯』
現地説明版


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  1. 2018/06/14(木) 01:58:48|
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「狐塚古墳」

「狐塚古墳」

 画像は、目黒区碑文谷2丁目に所在する「狐塚古墳」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、目黒区の遺跡番号25番に登録されている古墳です。

 この古墳については、地元の郷土誌から多くの情報を得ることが出来ました。昭和33年(1958)に目黒区郷土研究会より発行された『郷土目黒』には
 (前略)当初は五間四方の方墳で、深さ一間幅二間の空濠を繞らしていたそうであるが、現在は角がくずれて円墳に近くなつて居り、濠も次第に埋め立てられて、深さ幅とも一尺程度の溝になり、素通りする人々には、樹や雑草が生い茂つている高さ一間位の小丘としか見られないが、すくなくとも古墳なら千参百年、単なる墳墓としても、七百年を経た土豪の塚であることは間違いないから、目黒に残る数すくない此の種の遺跡として、現状の保存を切望する。
 と書かれています。学術的な調査が行われていないこの狐塚が『東京都遺跡地図』に登録されており、「方墳?」とされている背景には、このあたりの郷土誌の記述が背景にあるのかもしれません。

 その後、昭和46年に発行された『目黒百景』には
 碑文谷2丁目にあります。古墳時代の末期(5~6世紀)の円墳と推定されています。もとは直径10メートル高さ3メートル以上、周囲に堀をめぐらしたあとがあり、形の整ったものでありましたが、現在は一部がけずりとられて、その形はくずれています。明治のころまではキツネがすんでいたので、狐塚とよばれていますが、古墳を狐塚と呼ぶことは各地にみられるものです。
 と書かれています。戦後の空中写真で確認したところでは、昭和30年代から40年代にかけて周辺の開発が進行する中、この狐塚の周囲は最後まで畑地として残されていたようですが、昭和50年代に、現在のように集合住宅に取り囲まれてしまったようです。
 昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』では、「一部遺存」、「墳丘下部が高さ50cm程残るのみ」と書かれています。


「狐塚古墳」

 古墳の周囲では、集合住宅が建て替えられたりと変化が見られるのですが、発掘調査の報告書等を見つけることはできませんでしたので、学術的な調査は行われなかったのかもしれません。もしこの狐塚が古墳であれば、目黒区内で唯一墳丘の残る古墳ということになるのですが、塚の性格や出土品等の詳細が不明である現状は残念です。
 かつては周溝らしき堀が存在したというあたりから推測すると、狐塚は古墳だったのではないかと思われますし、この地域の歴史や立地から考えると古墳ではなく塚だったのではないかとも思えます。
 まだまだ謎の多い狐塚古墳です。。。

<参考文献>
目黒区郷土研究会『郷土目黒 第二輯』
目黒区教育委員会『目黒百景』
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2018/06/12(火) 23:52:34|
  2. 目黒区の古墳・塚
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梅若伝説 その3「班女塚」

「班女塚」

 画像は、台東区池之端1丁目にある「旧岩崎邸庭園」です。
 三菱財閥を興した岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の久彌の本邸として建てられたというこの旧岩崎邸庭園は、往時は1万5,000坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたそうですが、現在は3分の1の敷地に洋館、撞球室、和館大広間の3棟が残されています。重要文化財として指定されている、貴重な庭園です。
 この旧岩崎邸庭園の敷地内には、「班女塚」と呼ばれる塚が現存します。


「班女塚」

 画像が、現在の班女塚のようすです。円形の塚状の地形が見られるようですので、かつては高さのあるマウンドが存在したのかもしれませんが、塚の学術的な調査は行われていないとみられ、詳細はわかりません。
 人類学・民俗学の先駆者である鳥居龍蔵氏は、江戸時代の地誌である『江戸砂子』の中に、原始時代及びそれ以後の古墳と考えられる遺構が掲載されているとして、昭和3年(1927)に発刊した著書『上代の東京と其周囲』において、「江戸砂子に見えたる古墳」という論文を発表しています。この中でこの班女塚も取り上げられており、
 今の斎藤實盛の墳と稱するあたりに班女の衣掛松といふのがあつて、而して其の傍に班女塚といふのがある。これには
 榊原殿やしきの内にありと伝ふ。
 と書いて居る。此等も矢張り本郷の崖縁の古墳の例として見るべきものである。
 と書かれています。
 果たしてこの班女塚が古墳であるのか否か、現在のところは不明ですが、重要文化財であるこの旧岩崎邸庭園内にあって班女塚は忘れ去られたような存在で、ほとんど何もピックアップされていない状況ですので、まずは調査が行われることを期待したいところですね。


「班女塚」

 さて、『江戸砂子』からは特にこの塚の伝承や由来は知ることが出来ませんでしたが、「班女塚」という名称がつけられているあたりからしても、何らかの由来や言い伝えが存在するのではないかとは考えていましたが、意外なところから真相を知ることが出来ました。
 この場所は戦後にGHQに接収された後、最高裁判所の研修所等に使用されており、法曹会より刊行されている『法曹』の第466号に、この班女塚に関する記述を見つけることが出来ました。今回はその全文を紹介してみようと思います。

 研修所の庭の片隅に家の形をした小さな石の碑がある。傍らの大きな椎の木とアオキの葉の陰に隠れて人目につかない。去年の春、庭を散歩している内、ふとこの碑を見つけた。相当時代を経て、風化が著しいが、よく見ると碑面には一首の歌が刻まれている。
  としふれどその名は
   朽ちぬ古塚を
    猶末の世に
     のこすしるしぞ
「古塚」の文字が気になって、この碑のことを心に留めていた。間もなく、この碑が「班女の碑」と呼ばれていることを知った。
 能に「班女」という狂乱物の一番がある。
 げにやもとよりも定めなき世と言いながら、憂き節しげき川竹の流れの身こそ悲しけれ」と始まる能「班女」のシテ、美濃の国野上の宿の遊女、花子を中国の班婕妤の故事に因んで「班女」と呼んでいる。漢の成帝の寵姫班女は寵を失って、我が身を秋の扇にたとえ、歎きの詩を詠んだ。花子は吉田の少将と契りを結んで別れる際形見に互いに取り交わした扇の縁で再会を果たした。この塚は能の「班女」と関係があるのであろうか。
 「班女の塚」は江戸時代から早くから人に知られていた。既に、享保十七年刊行の「江戸砂子」が「班女の塚 榊原殿の御屋敷の内にありという「と誌している。榊原殿御屋敷とは、現在の司法研究所の敷地一帯のことである。しかし、「江戸砂子」は「班女」がいかなる人かについては何も誌していない。「再校江戸砂子」も又「いかなる人にや知らず」としか誌していない。
 少し時代の下がる「遊歴雑記」(文化一一~一二年成)がこの碑を絵入りで紹介し、面白い記述をしている。「(椎の気)の本に梅若の母、班女御前の杖と傘とを埋めし古跡あり、(中略)その上に碑を建て、平仮名の一首の和歌を刻せり」。班女は、すなわち梅若の慕ひ浅芽が原なるかがみが池に入水せし班女の今此処に杖と傘とを埋めたるもいぶかし、同名異人なるや、後の穿さく家の考勘を待のみ」。この塚が班女すなわち梅若丸の母のものであるとする伝承があることを伝えるとともに、梅若の母は入水して果てたのであるから、その母の杖と傘が埋めてあるというこの伝承をいぶかしとしている。そして、班女がいかなる人かについては後考を待つとしたのであった。
 当時、「班女」(の花子)と梅若丸の母とは同一人物であったとの伝承があった(江戸時代の謡曲の研究所である謡曲拾葉抄は、それぞれ、その夫が同姓の吉田少将と吉田の某(なにがし)であることから、同一人物であるとしている)。
 ここでいう梅若丸の母とは能「隅田川」のシテのことをいっている。梅若丸は、人商人に都から連れ出されその旅中に旅の疲れから病を得、そのまま隅田川土手に行き倒れ、非業の死を遂げたのであった。梅若丸の母は、その後を追ってはるばる都北白川から江戸にまで下ったものの、隅田川の渡船の船頭からその死を知らされ、愛児の供養をした後、悲嘆のあまりその後を追って、鏡が池に入水したのであった。今隅田川畔にある妙亀塚はこの母の墓であると伝えている。
 ところが、「遊歴雑記」の期待した穿さく家は、後世に出なかったようである。この後、この点に関し、更に検討を加えた書は、残念ながら見当らない。
 明治四〇年刊の「新撰東京名所図会」もまた、班女塚が岩崎邸内にあるとしたのに続けて「知らず、この塚は何人の塚なるか、精査せば獲るところあるべし」とするのみである。
 結局、今となっては知るすべもないであろう。
 塚は「班女の塚」というゆかしい名前を残している。塚の朽ちるのを惜しんで建られた碑がわずかにこのことを伝えている。「新編江戸誌」は、毎年この塚の前で供養読経のことありとしている。しかし、時代と人は変わり、今は供養することも絶えてしまい、その存在すら忘れられてしまっている。
 時折、この碑の前に佇むことがある。そんな折、この古跡はやはり「一人子を人商人に誘われて、行方を聞けば逢坂の関の東の国遠き東(あずま)とかやに下りぬと聞きしより、心乱れつつ其方とばかり思ひ子の跡をたずねて迷い」ながら、都北白川からはるばる隅田川まで下って来た梅若丸の母その人の杖と傘とを埋めたものではないだろうかとあはれに思うのである。(『法曹No.466』36~37ページ)

 前回の『古墳なう』で取り上げた、墨田区の「梅若塚」の中でも梅若丸にまつわる伝説を紹介しましたが、なんとこの班女塚には、わが子の死を悲嘆して鏡ヶ池に身を投げたという梅若丸の母親の杖と傘を埋めた塚であるという伝承が残されているようです。
 謡曲「隅田川」で知られる梅若丸の墓であるとされる墨田区の「梅若塚」や、梅若丸の母親の墓であるとされる台東区の「妙亀塚」と比べると、何とも地味な存在となってしまった班女塚ですが、しっかりと言い伝えが残されていたのですね。。。


「班女塚」

 少し離れた位置から見た「班女塚」です。
 地膨れ程度のわずかな高まりが残されているようです。


「班女塚」

 旧岩崎邸庭園の入り口付近から見た班女塚の場所です。左上の崖の上が班女塚です。
 立地的には、古墳の可能性も考えられそうなところですが、真相はわかりません。。。


「班女塚」

 庭園内にはもう1箇所、塚状の築山が存在するようです。
 古墳を流用した築山である可能性はないのだろうかとすぐに妄想してしまうのですが、真相はわかりません。周辺は貝塚として知られた場所で、『東京都遺跡地図』には台東区の遺跡番号10番の「湯島(切通し北)貝塚」として登録されています。


「班女塚」

 現在でも、攪乱された貝の散布を見ることが出来るようです。


「班女塚」

 敷地内の一番の見どころは、やはりこの洋館ですよね。
 三菱を創設した岩崎家の第三代当主、久彌の本邸として明治29年に竣工。
日本の近代建築史に名を残すイギリスの建築家、ジョサイア・コンドルにより設計されたもので、洋館と撞球室が昭和36年に重要文化財に指定、昭和44年に和館内の大広間と洋館の袖塀1棟が追加指定を受けています。

<参考文献>
鳥居龍蔵「江戸砂子に見えたる古墳」『上代の東京と其周圍』
北島佐市郎「司法研修所の庭から(2)班女の塚」『法曹No.466』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』


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  1. 2018/06/10(日) 00:11:20|
  2. 台東区/その他の古墳・塚
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梅若伝説 その2 「梅若塚」

「梅若塚」

 今回紹介するのは、墨田区堤通2丁目に所在したといわれる伝説の塚、「梅若塚」です。

 この梅若塚は、『東京都遺跡地図』には墨田区の遺跡番号1番の「近世の塚」として登録されており、昭和30年(1955)には東京都の旧跡に指定されています。この一帯は、昭和47年の都市計画決定から同57年3月にかけて都市再開発事業による防災拠点都市建設が行われており、残念ながら梅若塚は木母寺とともに移転を余儀なくされており、かつての梅若塚は消滅。塚の跡地は「墨田区立梅若公園」として整備されて説明板や石碑が建てられており、わずかながらも往時の面影を偲ぶことができます。
 画像は、この梅若公園を南東から見たところです。

 この梅若塚には、ある有名な伝説が残されています。
 時に平安期の貞元元年。京都北白川に住む吉田少将帷房(これふさ)・美濃国野上長者の一人娘花御せんの夫妻の子、梅若丸は、五歳にして父親と死別、七歳の時に比叡山月林寺へ入り、彼ほどの稚児はいないと賞賛を受けます。これをねたんだ松若殿に襲われた梅若丸は、山中をさまよった後に、大津の浜で信夫の藤太という人買いにさらわれてしまいます。しかし、奥州へと向かう途中、隅田川のほとりで幼い梅若丸は病に倒れ、里人たちの看病の甲斐なく帰らぬ人となってしまいます。貞元元年(976)三月十五日のことで梅若丸はわずか12歳でした。その折、その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が里人と墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ ています。
 そしてその後、わが子恋しと梅若丸の行方を探し求めた母親が隅田川のほとりにたどり着き、渡し守から梅若丸の死を知らされたのは翌年、ちょうど一周忌の日のことでした。その晩、悲嘆の涙にくれる母とともに大念仏が催されているその時、一目でも会いたいという母親の願いが通じたのか墓から梅若丸の亡霊が現れます。しかしそれも束の間、再びその姿は消え去ってしまいます。
 その後、塚のかたわらには庵室が営まれて母親はそこで暮らしていましたが、わが子が忘れられない母は、遂に浅茅池に身を投げてしまいます。

 この悲しい物語は、謡曲「隅田川」や、歌舞伎の隅田川物・浄瑠璃「雙生隅田川」等の芸能・絵画に取り上げられ、広く知られることとなりました。梅若塚は、この謡曲「隅田川」で知られる梅若伝説の伝説の人物、梅若丸の墓であるとされています。


「梅若塚」

 画像は、梅若公園に建てられている、東京都教育委員会による説明板と「梅若塚旧蹟」の石碑です。説明板には次のように書かれています。

東京都指定旧跡
梅若塚
     所在地 墨田区堤通二の六
     区立梅若公園
     標 識 大正九年三月
     指 定 昭和三〇年三月二八日
 梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲
「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白
川の吉田少将帷房の遺児で、比叡山で修行中
に信夫藤太と言う人買いによりさらわれ、奥
州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。
その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた
墓が梅若塚であると伝えられます。
 木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てら
れた隅田院梅若寺が始まりとされます。塚は
梅若山王権現として信仰を集めました。木母
寺は当該地周辺にありましたが、白髭防災団
地建設に伴い現在地に移転しています。
平成二四年三月 建設  東京都教育委員会



「梅若塚」

 実は、かつての梅若塚は、古代に築造された古墳だったのではないかとする説が存在しました。
 人類学・民族学者である鳥居龍蔵氏は、著書『上代の東京と其周囲』の中で「梅若塚の感想」という論文を発表していますが、博士はこの論文の中で、江戸期に書かれた梅若塚に関する文献を数多く取り上げて考察しており、梅若塚は一部の学者が言うような新しいものではなく、古墳であると推測しています。

 画像は、『上代の東京と其周囲』に掲載されている梅若塚の写真です。(同書は昭和2年の発行ですので、おそらく大正後期から昭和初年あたりのものであると思われます。)道行く人の背丈よりも若干の高さが残る、往時の梅若塚を見ることができます。
 鳥居博士は、同じ隅田川流域に存在した「業平塚」や「牛の御前の隣にある古墳」、「秋葉の社の内の古墳」は古墳であると考えており、同じ「古墳群」に存在するこの梅若塚も同様に古墳であると推測したようです。さらには、『江戸名所記』に描かれた挿絵を取り挙げており、17世紀の梅若塚が後世のものよりも遥かに大きかったことも指摘しています。


「梅若塚」

 画像は、『上代の東京と其周囲』に掲載されている、『江戸名所記』の挿絵です。塚上に祀られている祠の周囲に囲いが存在するあたりからして、かなり大きな塚であったようすを伺うことができます。
 江戸期の文献を紐解くと、梅若塚に関するかなり多くの記述を見ることができるようですが、塚の存在を伝える最古の文献は、もと京・五山の学僧・萬里集九(周九)の詩集『梅花無盡藏』の中の文章であるようです。萬里集九は誌名が高く、文明17年(1485)には、親交のあった太田道灌に招かれて江戸城に入り、翌18年(1486)の春、道灌の催した舟遊びに加わり、詩作をしたようです。文中には「路傍の小塚に柳あり」とあり、「けだし吉田の子梅若丸の墓処なり、某母は北白河の人」と記されています。
 この文献により、梅若塚は少なくとも15世紀の末頃には間違いなく存在していたようですが、塚は発掘調査が行われることなく消滅しており、今となってはその性格を知ることはできません。
 果たして梅若塚は古墳だったのでしょうか。。。


「梅若塚」

 画像は、移転された現在の木母寺です。この境内に、移転した梅若塚が所在します。


「梅若塚」

 現在の「梅若塚」のようすです。鳥居の形をした石の柵の中に「梅若塚」があります。


「梅若塚」

 画像が現在の「梅若塚」です。
 この形状にどんな意味が込められているのかはわからないのですが、「塚」というよりは、かつて存在した梅若塚のモニュメント的な存在なのかもしれません。


「梅若塚」

 日本が敗色濃厚だった昭和20年(1945)、木母寺は2度にわたる戦災に遭っています。4月13日と翌々15日のどちらも夜半の空襲で、木母寺境内のほとんどが一刻の間に灰と化した中、唯一焼け残ったのがこの梅若堂(梅若塚拝殿)だったようです。特に15日の空襲は、当時の軍部が「人馬殺傷」と称していたという小型爆弾数十発の集中投下であり、そのうちの1発が、13日の空襲で焼け残った梅若堂の前面から左側面2~30mという至近距離に爆撃され、お堂に損傷を与えたようです。(ちなみに、お堂の損傷が米軍の機銃掃射による弾痕であるという説が伝えられているようですが、これは間違いで、真相はこの爆撃による損傷であるようです。)
 この日の木母寺境内には多くの被災した人たちが仮泊していたようですが、この中からは一人の事故者も出なかったことから、唯一焼け残ったお堂が「身代わりのお堂」と称され始めたのは、この頃であるといわれています。

 画像は、移転された現在の梅若堂です。かつての梅若塚に隣接して建てられていたお堂で、現在もやはり梅若塚に隣接しています。この地域が防災拠点で木造建築物が不許可であることから、苦肉の策として、強化ガラス張りの建物の中にお堂が安置されています。


「梅若塚」

 さて、梅若丸の墓であるとされる「梅若塚」と呼ばれる塚は実はもう一箇所、埼玉県春日部市にも存在します。
 画像は、春日部市新方袋にある満蔵寺を南西からみたところです。このお寺の敷地内に梅若塚は所在します。


「梅若塚」

 画像が、満蔵寺の「梅若塚」です。
 綺麗に整地されていて塚らしき風情は失われているようですが、周囲よりは一段高くなっているようすを伺うことができます。
 塚上に設置された埼玉県春日部市による説明板には次のように書かれています。

 梅若伝説と梅若塚
所在地 春日部市新方袋二六六

 今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将帷房卿の一
子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、
宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現
在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。やがて、この
地まできた時、重病になり、藤太の足手まといとなったため隅田川に投
げ込まれてしまった。幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手
厚い介護を受けたが、我身の素性を語り

   尋ね来て 問わば答えよ 都鳥
       隅田川原の 露と消えぬと

 という歌を遺して生き絶えてしまった。時に天延二年(九七四)三月十五
日であった。里人は、梅若丸の身の哀れを思い、ここに塚を築き柳を植
えた。これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚である。
 一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた梅若丸の母「花子
の前」は、たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、
出家してしまった。名を妙亀と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさ
めていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投
げしてしまったという。これが、有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若
伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知っ
た満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えてい
た母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
 これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵
尊(満蔵寺内)である。

 昭和六十一年三月                    埼玉県春日部市


「梅若塚」

 塚上のようすです。
 梅若塚の春日部説は、十万庵敬順の『遊歴雑記』や斎藤鶴磯の『武蔵野話』等により紹介され、知られるようになったようです。その後に刊行された『新編武蔵風土記稿』では、春日部本家説は否定されているようです。


「梅若塚」

 祠の背後に存在する謎のマウンド。新しく盛られたようにも思える塚状地形いですが、これもある意味、モニュメント的な塚なのでしょうか。塚の上に塚があるようで、なんだか変な感じがします。笑。


「梅若塚」

 塚上に建てられている「梅若塚の由来」と刻まれた石碑。

【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-198.html(2014年2月12日号「妙亀塚」)

 次回、梅若伝説 その3「班女塚」に続く。。。

<参考文献>
鳥居龍蔵『上代の東京と其周圍』
豊島寛彰『隅田川とその両岸』
すみだ郷土文化資料館『隅田川の伝説と歴史』
真泉光隆『梅若塚物語』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


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  1. 2018/06/08(金) 08:36:47|
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「青梅市№175遺跡」

「青梅市№175遺跡」

 画像は、青梅市柚木町3丁目に所在する「青梅市№175遺跡」を東から見たところです。

 東京都教育委員会より公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』によると、この塚は青梅市の遺跡番号175番に登録されており、時代は「中世」の、種別は「その他の墓」とされています。中世の塚とするならば、現存する「鎧塚」と同様に、「辛垣の合戦」での戦死者を埋葬した、または供養した塚ではないかとも考えられるところですが、発掘調査等は行われた記録はなく、塚の性格については不明で、出土品等も存在しないようです。


「青梅市№175遺跡」

 南から見た「№175遺跡」のようすです。塚は、円形ではなく楕円形を呈しているようです。
 少なくとも、この塚に古墳の可能性はなさそうです。。。


「青梅市№175遺跡」

 塚の頂部は、ちょっと荒れた状態ではありますが、いくつかの石造物が祀られていたようです。


「青梅市№175遺跡」

 帰り道はなんと、吊り橋を渡って沢井駅に向かいます。
 周辺には見学のできる酒造があってきき酒を行っていたり、「澤乃井櫛かんざし美術館」や「福島家住宅」などなど気になる場所もたくさんあり、後ろ髪を引かれながら戻りました。やはり平日の強行軍はいかんですよね。あとであらためてお休みの日にゆっくり来たい場所です。。。


「青梅市№175遺跡」

 軍畑駅同様に無人駅である沢井駅。いい感じです。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2018/06/04(月) 02:06:11|
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