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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「どうよう塚」

「どうよう塚」

 「どうよう塚」は、多摩市和田に所在したといわれる塚です。
 やはり、関戸合戦にまつわる言い伝えが残されていた塚で、この地域には、合戦の際に戦死した多数の雑兵を地域の人々が数カ所に分散して埋めたという伝承が残されており、このうちの1基であると考えられていたようです。初めは「雑兵塚」と呼ばれていたようですが、いつの間にか「どうよう塚」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 昭和初期頃までは、結婚式の行列はこの場所を通るのを避けたともいわれていますが、塚はその後、区画整理により削平されて消滅しています。

 塚は、現在の野猿街道宝蔵橋の南側あたりに存在したようですが、残念ながら塚の痕跡は何も残されていないようです。『東京都遺跡地図』にも掲載されていない、伝承にのみ残る塚と言えそうです。。。


「どうよう塚」

 どうよう塚の跡地と思われる周辺を北西側から見たところです。
 この一帯は、大栗川の流路も含めてかなり地形が変わってしまっていて、塚の正確な所在地を特定することは難しそうなのですが、塚の跡地と思われる区画は、大栗川流域の低地よりも一段高くなっているようです。この南西方面の多摩市内には「塚原古墳群」が、日野市側には「万蔵院台古墳群」の存在が確認されており、関戸合戦に関係する塚の中では、唯一、古墳であった可能性を妄想してしまうのですが、つかが消滅してしまった今となっては、真相を知ることはできないようです。。。

<参考文献>
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』


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  1. 2018/08/30(木) 00:19:23|
  2. 多摩市/その他の古墳・塚
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「旗巻塚」

「旗巻塚」

 画像は、「旗巻塚」が所在したとされる、現在の多摩市一ノ宮3丁目周辺のようすです。
 この塚は残念ながらすでに開発により消滅しており、『東京都遺跡地図』にも未登録となっているようですが、戦後までは田んぼの中に残されており、塚の周囲は「旗巻」という地名で呼ばれるなど、かなり知られた存在であったようです。
 やはりこの塚も、「関戸合戦」において布陣していた北条泰家率いる鎌倉幕府軍が旗を巻いて後方に退却したところという伝承が残されています。


「旗巻塚」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=219133&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年11月14日に米軍により撮影された、旗巻塚の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に、農地にぽっかりと浮かぶ旗巻塚らしき影を見ることが出来ます。
 この塚は、かなりピンポイントに所在地を特定してから訪れました。現在の多摩信用金庫桜ヶ丘支店の裏側あたりで、駅近の住宅街ですので塚が残されるにはなかなか厳しい状況ですが、思えばこの日は疲れ果てていて、また塚らしきマウンドも見られなかったことから「ピンポン」せずに帰ってきてしまいました。が、後から思い返すとひょっとしたら何か痕跡が残されていたかもしれないと悔いが残る塚です。機会があったらもう一度見に行ってみようと思っています。。。

<参考文献>
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』


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  1. 2018/08/27(月) 02:30:24|
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「入道塚(安保入道の墓)」

「入道塚(安保入道の墓)」

 多摩市関戸5丁目の個人宅の庭先に径5~6メートルほどの墳丘が残されており、墳頂部に石造の祠が祀られています。この塚は、関戸合戦で討死した鎌倉武者の安保入道の墓であると伝えられています。画像はこの「安保入道の墓」を北から見たところです。

 この塚については、平成9年に多摩市史編集委員会より発行された『多摩市史 通史編一』に詳しい記述を見ることができます。

 伝承についての詳細は拙論(釈迦堂1992)を参照されたいが、『関戸之記艸稿』に「我等屋敷南の方に古墳あり、柏樹を植たり、是古の安保入道道堪父子三人の埋し塚ならん、」とあり、『関戸旧記』には「亦、予ガ屋敷内ニ一ノ古墳アリ、墳上に榧ノ一樹アリ、古木ニシテ半朽半活テ枝葉繁茂シアリシガ文政ノ初ノ頃枯タリ、是亦何ノ墳ト伝フ事ヲ不知、按ズルニ、当所ハ古戦場ニシテ討死数多アレバ、其古墳ナルベシ、既ニ横溝八郎討死ノ時、安保入道討死スレバ、恐クハ是等ノ墳ニテモアルベクヤ」と記し、相沢氏は邸内の塚の主を推定しているのである。斉藤幸孝は関戸村調査の際に相沢伴主から聞取りを行なったらしく、『郊遊漫録(郊外見聞録)』に「安保入道父子ノ墓 在所不知、関戸入口に一 ツノ名主相沢源左衛門なる者、坪ノ内にも青石の碑建てる古墳アリ、榧ノ木茂り立、姓氏不知、もしくハ安保入道の墳墓たる、是ならんとハ、相沢氏の証作せられし、」と記して、塚の比定が相沢伴主によるものであることを明記している。


「入道塚(安保入道の墓)」

 画像はちょっと角度を変えて、北東から見た入道塚です。
 この塚の敷地は通称「相沢屋敷」と呼ばれる関戸村名主の相沢氏の宅地だったところで、この相沢伴主は、文政2年(1819)から天保7年(1836)にかけて『関戸旧記』を書き上げました。『関戸旧記』は、この地域の歴史的事件、史跡や伝承について書かれており、この中で、自邸内にある塚が関戸合戦で戦士した人たちの墳墓であるという可能性を指摘したそうです。この説は、当時の江戸の文人からは疑問視されたようですが、関戸では次第に定着して、『皇国地誌』等の明治時代の郷土誌にも取り入れられているようです。
 学術的な調査は行われていないことから、塚の性格は解き明かされてはいないようですが、塚の存在により、関戸の伝承が語り継がれていることが尊いことなのかもしれません。。。


「入道塚(安保入道の墓)」

 安保入道の墓は、現在でも現在の当主により大切に供養されているようです。
 当日は土地の所有者に許可を得て見学させていただきました。ありがとうございました。


「無名戦士の墓」

 画像は、入道塚の北方数十メートルの地点にある「無名戦士の墓」と呼ばれる無縁仏の石塔です。この場所も、関戸合戦の戦死者の墓であると言われています。昭和30年頃の道路拡張工事により現在地に移動されていますが、かつては旧鎌倉街道の脇にあったようです。
 冬でも草ぼうぼうで、うまく写真を撮ることができなかったのが残念です。。。
 ひょっとしたらこの場所にも塚が存在したのかもしれません。。。


「霞ノ関南木戸柵跡」

 画像は「霞ノ関南木戸柵跡」です。
 この周辺は、鎌倉時代の建歴3年(1213)に鎌倉街道に置かれた関所跡といわれています。建歴3年(1213)に鎌倉街道に造られた木柵の関で、街道沿いに設置された監視所の跡と考えられており、中世の関所跡としてすでに地名にも「関戸」と称されていたそうです。
 柵跡地は、熊野神社境内参道に並行して地表下30〜45cmのところに約45cmの間隔に丸柱(直径25cm)の痕跡16があり、道路の東側人も6、7ヶ所、丸柱の跡が見られるようです。
 歴史上貴重な史跡として、昭和36年には東京都の史跡に指定されています。


「関戸の庚申塔」

 とにかくこの周辺は多くの史跡が残されていて、街道沿いを歩くだけでも数多くの石像物を見ることができます。その度、立ち止まってしまうので、ちっとも進まないんですよね。笑。この日は、関戸を一日中見学して終わってしまいました。。。
 画像は、道すがら見かけた庚申塔です。


関戸の馬頭観音

 画像は馬頭観音です。ガードレールもない道路沿いに普通に残されていて、ちょっとびっくりします。

<参考文献>
多摩市史編集委員会『多摩市史 通史編一』
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』
現地説明板


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  1. 2018/08/21(火) 01:31:21|
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「八郎塚(武将塚・横溝八郎の墓)」

「八郎塚(武将塚・横溝八郎の墓)」

 多摩市の関戸周辺は、元弘3年(1333)に新田義貞軍が北条泰家率いる鎌倉幕府軍を打ち破ったとされる合戦が行われた場所として知られています。分倍河原の合戦において敗走する鎌倉軍を関戸の地で追走した激しい戦いは「関戸合戦」とも呼ばれ、このようすは『太平記』という軍記物語に詳しく記されています。
 同書によると、分倍河原の合戦で新田軍に打ち破られた幕府軍は鎌倉を目指して退却しますが、多くの人々が討死しました。大将である北条泰家も関戸付近で討たれそうになりますが、横溝八郎が奮闘して敵を次々と射落とし、討死します。安保入道父子ら多くの家臣が討死を遂げる中、北条泰家は無事に鎌倉に逃れることができたと言われています。
 『太平記』は物語であることから脚色もあり、全てが史実とは言えないようですが、関戸合戦で討死したという横溝八郎は『御的日記』という現実の幕府の記録に登場しており、実在した人物であるようです。

 画像は、多摩市関戸5丁目に現存する、横溝八郎の墓であるとされる古塚、「八郎塚」です。


「八郎塚(武将塚・横溝八郎の墓)」

 塚は、個人の邸宅内に今も残されています。塚の裾には、「武将塚 横溝八郎之墓」と刻まれた石碑が建てられています。
 『関戸旧記』や『郊遊漫録』には、大小ある塚の1基が横溝八郎の墓であるとあり、関戸旧記では大きな塚を「山伏塚」と呼び、小さな塚を横溝八郎の墓であるとしているものの、郊遊漫録では逆であると記されています。この八郎塚が果たして大きなほうの塚なのか、それとも小さなほうの塚なのか、片方の塚が失われてしまった今となっては真相を知ることはできません。発掘調査も行われていないようです。


「八郎塚(武将塚・横溝八郎の墓)」

 塚の上にはお堂が建てられており、今も供養が行われているようです。


「八郎塚(武将塚・横溝八郎の墓)」

 通り沿いにある、「下の地蔵」と呼ばれる地蔵堂です。この地蔵堂の裏手が横溝八郎の墓です。地蔵は、寛文3年(1663)に建てられた盟約地蔵で、敷地の角に「関戸古戦場跡」の標柱が立てられています。
 当日は、土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。

<参考文献>
パルテノン多摩『関戸合戦 多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景』


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  1. 2018/08/18(土) 01:22:06|
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「小関庚申塚」

「小関庚申塚」

 『東京都遺跡地図』によると、練馬区内には古墳は1基も登録されていません。昭和32年に発行された『練馬区史』の「区内古墳地名表」にはかろうじて7ヶ所が挙げられているようですが、これも発掘調査を経たものは一基もなく、「確実に古墳であるとは断言できない」という状況です。ただし、色々調べてみると、庚申塚や入定塚といった「塚」の名のつく場所は少なくなく、中にはなかなか興味深い伝説が残されている塚も存在するようです。

 というわけで、今回紹介するのは、練馬区石神井台7丁目に所在する「小関庚申塚」です。

 塚は南側を道路に、その他の三方を宅地により削られており、石垣により方形を呈しています。開発の進んだ住宅地の中にあってこの場所だけ周囲よりも一段高くなっています。
 元々の塚の形状は不明ですが、これが塚の名残である可能性は高そうです。実際に練馬区内を散策していると、道路が交差した辻の角に残されている庚申塚を、かなり頻繁に見かけましたが、実際に塚が残されたものは少なくなっているようですので、この「小関の庚申塚」は希少な存在かもしれませんね。。。


「小関庚申塚」

 ちょっと角度を変えて、南東から見た小関庚申塚です。
 昭和57年(1982)に発刊された『練馬区史』によると、練馬区内には136基もの庚申塔が残されており、これは東京23区内ではかなり多く、かつては農村信仰の中心をなしていたようです。庚申塔が道端に多く存在するのは、講中など信仰上の結衆を誇示する意味もあったようですが、道祖神と混交した結果、路上にあることによって、ついでに道中の安全をも願うようになったのではないかと言われています。ちなみに練馬区内には道祖神が見当らないそうです。この結果、辻などに建立されたものは道しるべをも兼ねたものが多く、特に区内庚申塔で道しるべ兼用は17基ほど存在するようですが、この中には道標の方が主目的で、庚申は付け加えられた感じのものも少なくないようです。


「小関庚申塚」

 塚上にはお堂が建てられていて、庚申塔は元禄四辛未八月十五日(1691)の方形笠付の青面金剛像が祀られています。


「小関庚申塚」


 青梅街道の関町南交差点から北に向かい、西武新宿線の武蔵関駅東側の踏切を百メートルほど過ぎると、西から東に流れる石神井川を渡ります。この橋が「庚申橋」で、道路は「関町庚申通り」です。さらにこの橋を渡った10メートルほどの「庚申橋北」交差点を右折したすぐ左側が、小関庚申塚の所在地です。周辺には、庚申塚にちなむ名称が多く残されているようです。

 この小関庚申塚が、かつて石神井川流域に築造された古墳を流用して造られているなんてことは……… ないですよね、たぶん。。。

<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史 歴史編』
練馬区『練馬区公式ホームページ』


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  1. 2018/08/08(水) 09:13:14|
  2. 練馬区の古墳・塚
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「二ツ塚」

「二ツ塚」

 画像は、練馬区関町南4丁目の慈雲堂病院です。『東京都遺跡地図』によると、この病院の敷地内には、練馬区の遺跡番号34番の「二ツ塚」が登録されています。

 この塚について、昭和32年に発行された『練馬区史』の「区内古墳地名表」には円墳として記載されているようです。ただし、「地名表には7基をあげたが、発掘調査を経たものは一基もなく、そのすべてを確実に古墳であるとは断言できない状況である。」とも書かれており、同書が編纂された当時、学術的な調査が行われることもなく消滅してしまっていたこの塚の詳細はわからなくなっているようです。
 ちなみに『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』で確認すると、2基存在したはずの塚は慈雲堂病院内に一箇所のみ登録されており、「近世の塚」ではないかとしているようです。
 そこで、もう少しこの塚の詳細がわからないものかと、調べてみました。


「不動塚」

 「二ツ塚」は、「不動塚」と「物見塚」という2基の塚の総称であるようです。
 「不動塚」は、青梅街道の「慈雲堂入口」の信号(おそらく現在の「関町四丁目」の交差点と思われる?)の南西方面に存在したといわれているようです。これは慈雲堂病院の敷地内ではなく、現在の武蔵野グリーンタウンのあたりではないかとも思われます。塚には不動尊が祀られていたといわれているようですが、正確な所在地を特定するまでには至りませんでした。。


「物見塚」

 画像は、今も残されている関村の鎌倉道といわれた古道で、この道路沿いの西側のどこかに「物見塚」が所在したといわれています。この物見塚は関の番所か見張所だったのではないかとも考えられているようですが、やはり詳細はわかりません。江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には、関村の小名として「二ツ塚」が記されていますので、この2基の塚はかなり知られた存在だったようです。
 ここから西側にかけての関町南4丁目周辺が練馬区内で一番標高が高いところであるようなので、立地的に塚を築造しやすい場所だったのかもしれませんね。。。


「鉄砲塚」

 「二ツ塚」のさらに東側にはもう1基、「鉄砲塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。この鉄砲塚も、『新編武蔵風土記稿』に関村の小名として記されており、延宝2年(1674)の関村検地帳にも掲載されています。
 現在の関町交番前交差点の周辺の地名は、かつて角屋と呼ばれており、鉄砲塚はこの角屋の南側、現在の石神井西中学校のあたりに存在したようです。鉄砲塚の「てっぽう」とは真っすぐという意味であるそうですが、鉄砲塚は南北に細長い塚で、昭和初期までは塚は残されていたようです。


「三ツ塚けやき緑地」

 不動塚、物見塚、鉄砲塚は、合わせて「関の三ツ塚」と呼ばれていたそうです。
 地元には「三ツ塚」の名称が区立公園に残されています。。。


「千川上水」

 この辺りは、武蔵野市と練馬区の境界に沿って千川上水が流れています。青梅街道を越えたところで暗渠となるまではちゃんと地上を流れているのですが、特にこの二ツ塚のあたりは住宅街の緑道になっていて、牧歌的で良い感じです。
 実は私は、2年ほどこの近くで暮らしたことがあるのですが、私が暮らしたアパートは残念ながらなくなってしまったようでした。あの頃はまだかなり畑が残されている印象だったのですが、少しずつ宅地化も進んでいるようです。それにしても、まさか塚を探しにもう一度来るとは思わなかったなあ。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京都練馬区『練馬区史』
練馬区教育委員会社会教育課『ねりまの文化財 第23号』
練馬区公式ホームページ


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  1. 2018/08/04(土) 23:14:26|
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