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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「六部塚」

「六部塚」

 「六部塚」は、多摩市唐木田3丁目の丘陵上に所在したといわれる塚です。画像は、塚の所在地周辺を南から見たところです。

 六部塚は、東京都教育委員会より発刊された『東京都遺跡地図』には未登録で、インターネットで公開されている、最新の『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』にも掲載されていないようです。ただし、多くの伝承が現代まで伝えられており、塚の跡地周辺に設置された説明板のほか、この地域の郷土誌類にも記述を見ることができます。かなり知られた塚であるようです。
 というわけで、早速、六部塚へ向かって歩いてみます。『巡礼古道の代官坂と奥州古道の辻』の説明板から100メートルほど西に歩き、多摩よこやまの道と呼ばれる古道を北西に登った、道の途中のあたりが六部塚の跡地です。


「六部塚」

 画像が、六部塚の跡地といわれるあたりです。この道の先に案内板が設置されており、この解説には「案内板から南へ80m下った所で見つかり、小山田の田中谷戸集会場では石塔が発見され、民話が本当だったことがわかりました。」と書かれています。だいたいこのあたりが80m下かなと思われる場所がこの画像ですが、正確な所在地は不明です。
 実はこの道は町田市と多摩市の境界となっており、画像の右側が多摩市唐木田町、左側が町田市上小山田町です。『東京都遺跡地図』で確認しても、近隣にある「山王塚」や「勝負塚」がちゃんと登録されているのに対して、この六部塚はなぜか未登録となっており、正確な所在地がわかりません。(『東京都遺跡地図』に登録されていれば、おおよその住所が書かれているので、どちら側かくらいはわかるのですが)
 先の案内板には「二つの塚を築いた村人は農作業の合間に通っては手を合わせていた」と、塚が2基あったことが書かれています。空中写真をよーく眺めてみたのですが、画像のあたりが所在地であるとすれば多摩市側にあったようにも思えるし、この丘の最も高い、案内板のあたりにあったようにも思えるし。ひょっとして両側にあったのかな。笑。


「六部塚」

 よこやまの道を登り切った、道が左に折れた角に「奥州古道と六部塚~民話の塚と石塔」という案内板が立てられており、六部塚の伝承についてもふれられています。塚は、立地的にその一帯の一番高いところに造りそうな気もするのですが、この場所じゃないのですね。。。


「六部塚」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)

 さて、画像は、昭和31年(1956)4月6日に米軍により撮影された、六部塚周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央に、2基の塚らしき影が写されています。これが六部塚であればやはり画像が塚の所在地で、道の右側(多摩市側)に所在したということになるわけですが、真相やいかに、という感じです。。。


「六部塚」

 この日はこの後に山王塚を見学。その後、多摩よこやまの道を戻り、代官坂と呼ばれる古道を下って、移設された六部塚の石碑を見学するために小山田方面に向かう計画だったのですが、山王塚に向かう途中で視界に入った、ほとんどけもの道のごとき山道がなぜか気になって仕方がありません。
 立て札にも「小山田バス停→」と書いてあるし、こりゃ行けるんじゃないか!ということで、一人ザクザク、山道に突入してみました。
 以下、意味なく山道のようす。。。


「六部塚」

 人ひとり分ほどが踏み固められた細い道が、山の麓に向かって延々と続きます。
 時折、藪の中で、ガサガサっと何か生き物が動く音が聞こえてびっくりしますが、姿は見えず。
 狸とかイノシシなんかが出てきたらどうしよう。。。


「六部塚」

 私は少年時代は横浜で暮らしたんですけどね。
 あの頃はまだ、こんな感じの山道が結構残っていて、カブト虫とかクワガタを探して歩いたもんですが。
 ちょっと懐かしいな。


「六部塚」

 自然のままの小川に木製の小さな橋が架けられています。
 なんかイイ感じ。


「六部塚」

 まだまだ、ユルユルと下ります。
 それにしても、誰ともすれ違わないんですよね、この道は。
 いや、でも追い剥ぎとか出てきたら怖いしな。(そんなの出ないって。笑)


「六部塚」

 Googleマップをみてもこの道は載っていないようです。
 合っていると信じてこのまま進みます。


「六部塚」

 またしても小川に小さな木製の橋が。
 踏み抜かないように、跨いで進みます。


「六部塚」


 ようやく視界が開けてきました。
 それにしても、人家はおろか、電線や鉄塔といった人工物が全く見えません。
 きっと、江戸時代とほとんど変わらない光景ですよね。
 携帯の電波は果たして届いていたのか、見ておけば良かったな。。。


「六部塚」

 この辺りからようやく舗装された道路になりました。
 歩き慣れたアスファルト。笑。


「六部塚」

 お地蔵様が祀られた塚、発見。
 もはや、ここが東京であることを忘れてしまうぜ、と。


「六部塚」

 町田市内の丘陵上を歩いていて、こういう正体不明の穴を何度か見かけました。この場所はトタンで蓋がしてあって中を見ることはできないようだったのですが、まさか横穴墓の残骸ということはないですよね。。。


「六部塚」

 農地の片隅に正体不明のマウンドが。気になる。。。


「六部塚」

 ようやく到着。町田市上小山田町の田中谷戸倶楽部です。
 この敷地内に、六部塚から移された石碑が保存されています。


「六部塚」

 画像が「六部塚」の石碑で、町田市教育委員会により説明板が設置されています。
 説明板には、次のように書かれています。

町田の民話と伝承
比丘尼の墓・「六部塚」
 小山田川(鶴見川)の源流に近い谷戸の農家の庭に、旅の比丘尼が入ってきました。「お乳をめぐんでいただけませんか」農家の若妻はびっくりしました。尼さんの姿で、赤ちゃんをおんぶしていたからです。
 若妻は、土器にお乳を満たしてあげました。
 その夜、若妻の夢枕にあらわれたのが、昼間の比丘尼です。夜明けを待って、立ち去った道をたどっていくと、比丘尼は土手の上にゆきだおれていました。胸にしっかりと抱き締められていたのは、赤ちゃんではなくて、阿弥陀如来の像です。比丘尼は手厚く葬られ、小さな墓がつくられました。
 それから二年が過ぎた、ある日、行脚姿の老僧が若妻の家を訪ね、しばらく逗留して比丘尼を供養したいと言いました。若妻が心よく応じると、老僧は土を運んで立派な土墳をつくります。そして、まわりに美しい草花を植えると、ふたたび旅立っていきました。そのあと若妻の家は、ことのほか繁栄をつづけます。若妻も老いて亡くなり、長い歳月が流れました。
 丹沢の山々が雪におおわれた、ある日、比丘尼の墓の前にたたずむ六部の姿がありました。「わたしは信州伊那郡・阿武隅村の片桐勘四郎と申すもの。ここに眠る比丘尼は西順尼と申し、先祖の一人に間違ございません。このとおり六部の姿に身をやつし、諸国をたずね歩いてまいりましたが、ようやく念願がかないました」六部の物語を聞いた村人たちは、人の世のめぐり合わせの不思議さに心をうたれ、立ち去る六部に、たいせつに安置してきた
阿弥陀如来の像を手渡しました。
 ところが、その夜、村人たちの夢枕に立ったのは、旅立ったはずの六部です。翌朝、比丘尼の墓に駆けつけますと、息絶えた六部の姿があり、阿弥陀如来の像が、両手でしっかりと握られていました。めぐる因縁の深さにおどろいた村人たちが、六部のなきがらも手厚く葬りましたので、比丘尼の土墳はより大きな塚になり、「六部塚」と名付けられました。
(町田の民話と伝承第一集・町田市文化財保護審議会編から)
一九九九年三月  町田市教育委員会



「六部塚」

 この石碑の碑面には

 寛保二年
 六十六部訳西順比丘尼
     五月十四日


 側面には

 嘉永三年十二月再建
  信州伊那郡阿武隅村
      俗名片桐勘四郎


 と刻まれているそうです。

<参考文献> 
町田市教育委員会『町田の民話と伝承第一集』
現地説明板


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  1. 2018/10/31(水) 23:20:11|
  2. 多摩市/その他の古墳・塚
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「こんこん塚(八丁大塚)」

「こんこん塚(八丁大塚)」

 「こんこん塚」は、武蔵野市吉祥寺本町3丁目に所在したとされる塚です。画像はこの、こんこん塚の跡地とされる、現在の武蔵野市立井之頭小学校現在のを南西からみたところです。『東京都遺跡地図』には、武蔵野市の遺跡番号1番の「塚」として登録されています。

 こんこん塚はすでに消滅して現存しない塚ですが、かつては古墳ではないかとも考えられており、「八丁大塚」、「大塚古墳」などと呼ばれていたようです。昭和23年に武蔵野市役所より発行された『武蔵野史』には、当時まだ残存していたこの塚に関する記述を見ることができます。

 「平地に聳え四方とも広潤な視界を有する所である。風林であるが北の一部は封土が削り取られて屋敷に接し崖をなしている。その部分は竹林になっている。
 墳の外形は、前面の道に接した部分は封土が崩れてかなり丸味を失っているが、左右背の三方は円形築成の形迹を存していて、本来の形の円であることを知る。前面は頂上の稲荷小祠に参詣道を造るために、漸次封土を削り取ったため生じた変形と思われる。円形で径は約二十五米、高さ四米八十糎で、相当大きなものである。なお江戸初期にはこのあたり萱野で人夫頭がこの塚上から萱を刈り取る人夫に貝を吹いて時を知らしめたといわれる。
 封土の外部の設備としては葺石などはなく、この大塚古墳の内部の主体をなす石室は粘土槨と考えられる。それは西側の削り取られた部分に、粘土が頂点下一米位のところで〇・五米の厚さに南北の軸線に沿うて露出しておるのが認められたからである。
 大塚古墳を以て古墳と考察するについては少し疑問がある。武蔵野には富士見塚が多いのでこの古墳もそれではないかと一応は疑問を持ったのであるが、元来八丁は後に述べるように江戸中期に開墾した新田村で、したがって大塚古墳は開墾以前から所在していたものである。右古墳西側の田辺勘次郎氏宅は、開墾後ここに屋敷を定めるに当って古墳の一部を削り取ったものと断ぜられるのである。(後略)」(『武蔵野史』74ページ)


 粘土槨らしき遺構が露出していたというこの『武蔵野史』の記述からすると、やはりこの塚は古墳だったのではないかとも考えられるところですが、その後、昭和45年に武蔵野市史編纂委員会より発行された『武蔵野市史』には、その後の大塚について次のように書かれています。

 「昭和三六年(一九六一)夏、付近の小学校々庭拡張のために本塚が崩されることになった。その頃は藤原氏も御元気で、筆者も御一緒に見学したことがあった。工事が進むにつれて封土中からは何も検出されず、また藤原氏の推定した粘土槨らしいものもなく、封土全部が真黒な有機質土壌であったことが判明した。その折筆者は付近の農家を訪ねて塚の由来をきいたところ、詳細は明らかではないが、頂上に稲荷社があるので、俗称コンコン塚といわれ、毎年行者が来てお祀りをしていたということがわかった。また口絵第7図に示す実測図(藤原氏提供)によると、元の形は方形であったことがわかり、南方は稲荷社の参道造成のために崩れたことがうかがわれる。(後略)」(『武蔵野市史』74ページ)

 この本の記述からすると、やはりこんこん塚は古墳ではなかったのかな?という印象ですが、同書の中ではさらに、同様になんの遺物もなく封土が方形で黒色土壌からなる、世田谷区砧の「砧大塚(西岡第1号古墳)」や、千葉県市原市の「サンヤ塚」等の塚との比較、検討により、このこんこん塚も、中世から近世にかけて民間信仰の対象として造られた塚ではないかと推定しているようです。


「こんこん塚(八丁大塚)」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1173401&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和32年(1957)10月10日に米軍により撮影された、こんこん塚推定地の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。塚は、昭和36年(1969)夏に崩されたとされていますので、まだ塚が残存していたことの空中写真ということになります。恐らくは、画像の中央に見える円形の木立のあたりがこんこん塚ではないかと思われます。


「こんこん塚(八丁大塚)」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1611563&isDetail=true)

 画像は、同じく国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和54年(1979)11月14日に国土地理院により撮影された塚の推定地の空中写真です、削平されてから18年後の写真ということになります。
 塚は、体育館が建てられる際に崩されたといわれているようですが、昭和32年の写真に見られる円形の木立は、体育館らしき建物が建てられたことにより消滅しています。つまりは、1枚目の画像の校舎の奥、北西隅あたりが塚の跡地ということになるのではないかと思われます。


「こんこん塚(八丁大塚)」

 この地域には、日本の各地に伝承される巨人伝説が残されています。
 「だいだらぼっち」と呼ばれるに巨人がこの武蔵野を通り、歩くたびに土地がへこみました。1歩目が現在の善福寺で水が湧き出て池となり、2歩目の八丁はへこんでくぼ地となりました。そして、足からこぼれ落ちた土のひとかたまりが、このこんこん塚となったといわれています。そして、3歩目は現在の現在の井の頭公園で、ここも水が湧き出て池となりました。
 画像は、2歩目のへこんだくぼ地といわれる、現在の横河武蔵野グラウンドのようすです。
 サッカー場として綺麗に整備されている場所ですが、やはりこのグラウンドだけ周囲よりも一段低くなっていますよね。

 足跡だったんだー。。。

<参考文献>
武蔵野市役所『武蔵野史』
武蔵野市史編纂委員会『武蔵野市史』


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  1. 2018/10/24(水) 00:04:22|
  2. 武蔵野市の古墳・塚
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「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 画像は、武蔵野市境南町2丁目の「杵築大社」を東から見たところです。
 この神社は、今から三百五十年程前の後光明天皇の慶安年中(1648〜1651)に、徳川三代将軍家光の従兄弟で家康の次男、松平秀康(越前国北ノ庄六十七万石領主、北ノ庄城々主)の三男、松平出羽守直政公(出雲国松江藩十八万六千石、同藩初代藩主、松江城々主)が、当所十二町四方を将軍家より賜り御用屋敷を設け、鷹狩りをして遊ばれていたところと伝えられています。
 松平直政公は大変信仰心厚く、当御用屋敷内に徳川幕府の繁栄と天下泰平を祈願され、出雲の杵築大社(現在の出雲大社のことで、明治以降現社名に改名された)と稲荷社の両者を御創建されたのが、この神社の起こりであるとされています。

 祭神は大国主大神、事代主大神で、境内社は稲荷神社、八坂神社、金刀比羅宮、冨士浅間神社、弁天宮、松平稲荷社で、境内には「境富士」と呼ばれる富士塚があり、この富士塚は武蔵野市の史跡として指定されています。


「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 画像が、「境富士(杵築大社の富士山)」を北東から見たところです。
 富士塚には武蔵野市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

市 史 跡
 杵築大社の富士山
昭和四十七年三月十六日指定
 この富士山は、明治十四年五月境本村をは
じめ近隣二十二町村の丸嘉講の協力により作
られ、富士講の講中が富士登山や七富士参り
をするさい、先達や講員がこの御山に道中の
安全を祈願しました。
 清瀬の富士山神社に次いで三多摩では最大
のもので、境本村を中心とした富士信仰の規
模の大きさをあらわしています。
 丸嘉講は富士信仰の一つで、今から約二百
年前赤坂伝馬町の近江屋嘉右エ門がおこし、
本市では旧西窪以西の二百人前後の講員を擁
し、○を講じるしとする講社です。
(○内には嘉)
      昭和四十七年三月三十一日建設
      武蔵野市教育委員会



「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 塚の手前には、富士五湖を象った池が掘られており、これは塚築造用の土採取もひとつの目的となっていたそうです。池の正面には「富士橋」なる橋が架けられており、橋を渡り、石造の明神鳥居をくぐって登山道に入ります。


「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 さてさて、早速、富士塚に登って見ましょう。


「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 境富士は、武蔵野特有の円墳状に土を盛り上げて築いた土盛り型の富士塚です。登山道の入り口に建てられている築造の際の記念碑には、井口村や上連雀、下連雀村、新川村等の近隣各村の丸嘉講社のほか、上石神井村、落合村、南沢村、前沢村、下保谷村、上保谷村、など十八か村の丸嘉講社が講社中として名を連ねていることから、塚の築造にあたって各村の講社が協力したものと推測されています。


「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 登山道は正面に造られており、電光形の登山道が左右に2本、設けられています。


「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 境富士は、築造時には土だけを使用して造られていますが、昭和48年(1973)に修繕が行われた際には、頂上にトラック3台分の熔岩が積み上げられており、また登山道の両側にも配置されています。


「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 山頂部が見えてきました。すでに若干ハァハァいっています。笑。。。


「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 山頂部の様子です。築造当時に安置されたとされる石祠が、現在は溶岩の上に安置されています。


「境富士(杵築大社の富士山)」ー武蔵野市指定史跡ー

 西から見た境富士です。こちら側からみると、塚の全貌を見ることができます。
 塚上には多くの樹木が植えられています。

 昭和45年に武蔵野市史編纂委員会より発行された『武蔵野市史』の「古代」の章でもこの富士塚についてふれられているようですが、「境南町鎮座の「杵築神社」内には富士塚があって、これは明らかに近世末期の築造であることがわかっている。」と、古墳である可能性はなさそうです。。。

<参考文献>
武蔵野市史編纂委員会『武蔵野市史』
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
現地説明板


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  1. 2018/10/21(日) 21:42:37|
  2. 武蔵野市の古墳・塚
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「庚申塚古墳」

「庚申塚古墳」

 今回は、多摩市和田に現存する「庚申塚古墳」です。以前取り上げたことのある古墳ですが、写真を新しいものに差し替えたかったので、あらためて紹介しようと思います。『東京都遺跡地図』には、多摩市の遺跡番号6番の遺跡として登録されている古墳で、画像はこの庚申塚古墳を西から見たところです。


「庚申塚古墳」

 わずかに残る高まりが古墳であると考えられており、周囲を道路や集合住宅などにより削られているものの、径約10mほどの墳丘が残されています。墳丘上には、多摩市教育委員会による標柱が建てられており、「和田の台地には6~7世紀頃の豪族の墓(古墳)が多数造られたが、現在その大部分が地上から姿を消している。この古墳は当時の姿を残す貴重な遺跡である。」とのみ記されています。


「庚申塚古墳」

 墳丘上のようすです。この場所は、地元の人には「庚申塚」と呼ばれている庚申さまで、庚申塔が地蔵尊とともに祀られています。氏子組織は山王社と重なっていて、山王社が男衆が中心の祭りであるのに対して、この庚申さまは女の人が主体の祭りです。10月の初申の日が祭日で、各戸順にヤドを定め、そこで念仏を唱和します。この祭りは今日でも行われているそうです。


「庚申塚古墳」

 古墳の北から東にかけての墳丘裾部が弧を描いており、円墳の面影が残っているようにも見受けられます。墳丘上には、画像に見られるように多くの河原石が見られます。かつて石室を構築した石材なのか、それとも葺石なのか真相は不明です。
 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、この古墳の埋葬施設は、北東250mほどにある「塚原(つかっぱら)古墳群」と同様の、河原石による横穴式石室を持つものと推定されているようですが、学術的な調査が行われていないことから詳細はわからないようです。

<参考文献> 
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩市史編集委員会『多摩市史 通史編 一』


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  1. 2018/10/14(日) 21:31:15|
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「山王塚(山王神社)」

「山王塚(山王神社)」

 画像は、多摩市和田の山王神社を南東から見たところです。
 この神社は、関戸並木の講中11軒によって祀られており、社地が売却されたために現在は30坪ほどであるものの、かつては200坪ほどあったそうです。祭神は山の神であろうと言われています。南方100メートルほどにある庚申様(庚申塚古墳)の祭が「オンナシュウの祭り」であるのに対して、この山王神社の祭は「オトコシュウの祭り」であり、7月15日が祭日です。


「山王塚(山王神社)」

 記録が残されている昭和26年時点での塚原古墳群の分布図には、この神社の場所は「山王塚」の名称で古墳として掲載されています。庚申塚古墳が「全存」とされているのに対してこの山王塚は「全壊」とされており、この当時すでに墳丘は大きく破壊されていたものと思われますが、戦後の空中写真でこの場所を確認すると、庚申塚古墳とともに、畑の中にぽっかりと浮かぶこの山王塚もはっきりと確認することができます。


「山王塚(山王神社)」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=219210&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和22年(1947)11月14日に米軍により撮影されたこの地域の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の中央上が山王塚、中央下が庚申塚古墳です。


「山王塚(山王神社)」

 周囲よりも一段高くなっている境内が古墳の残存部分であるのかどうかは不明ですが、『東京都遺跡地図』には、庚申塚古墳が多摩市の遺跡番号6番に登録されているのに対して、この山王塚は未登録となっています。なんとも言えないところですね。。。


「山王塚(山王神社)」

 神社の境内の様子。特に、埴輪片や河原石等は見られません。
 神社の周囲は近年急速に宅地化が進み、畑地は消滅してしまったようです。このマウンドも古墳の残存部分ではなく、整地されているのかもしれません。
 この一帯は「和田・百草遺跡」として登録されているようですので、ひょっとしたら周囲の宅地造成の際に発掘調査が行われているかもしれません。このあたりは今後の宿題ですね。。。


「山王塚(山王神社)」

<参考文献> 
多摩市『多摩市の民俗(信仰・年中行事)』
多摩市計画道路事業1・3・1号線関連遺跡調査会『和田・百草遺跡群』


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  1. 2018/10/11(木) 00:30:54|
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「塚原古墳群 古墳伝承地」

「塚原古墳群 古墳伝承地」

 さて、ここまで塚原古墳群を形成する10基の古墳を紹介してきました。
 かつては40~50基以上の古墳が存在したといわれている塚原古墳群ですが、記録が残されている昭和26年時点での分布図をみると、発掘調査により確認された古墳以外にも何基かの古墳が知られていたようです。画像は、現在の多摩市立多摩第二小学校ですが、この敷地内にも古墳が1基、存在したようです。

 この場所は、平成25年に行われた校舎建替替工事に伴う発掘調査が行われており、調査区南側から溝状の不整形を呈する性格不明遺構2基が検出されています。この溝からは金銅製耳管が1点出土しており、古墳の周溝など施設の一部であった可能性が推測されています。
 これまで行われた発掘調査では、塚原古墳群を形成する11基の古墳は全て野猿街道の南側に集中していたようですが、北側も含めて広く分布していたのかもしれません。。。


「塚原古墳群 古墳伝承地」

 野猿街道側から見ると、小学校の一角にもしや古墳では?と思える築山が見えてドキッとするのですが、これは古墳とは関係ないかもしれません。笑。記録が残されている昭和26年時点での分布図を参考にすると、この築山のちょうど正面の道路上あたりに1基存在したようですが、これは野猿街道の拡張工事が行われるはるか以前、街道が敷設されたころにすでに破壊されてしまったのかもしれません。



「塚原古墳群 古墳伝承地」

 塚原古墳群の野猿街道を挟んだ北側は街道の整備により切り通しとなり、まるで舌状台地かのように南西側に突き出たような形状となっていますが、この先端あたりにも古墳が1基、存在したようです。すでに宅地化が進んでいるようですが、何か痕跡は残されていないのでしょうか。。。


「塚原古墳群 古墳伝承地」

 この台地上のフェンスで覆われた一角が気になって覗いて見ましたが、やはり古墳の痕迹は全くなし。野猿街道北側の古墳は、昭和26年当時にすでに全壊していたようですので、痕跡を見つけるのは難しいかもしれません。。。
 このほか、現在の1号墳と6号墳の間にも、昭和26年当時に半壊の状態の古墳が2、3基残存していたようですが、これも痕跡は全く残されていないようです。

<参考文献> 
多摩市計画道路事業1・3・1号線関連遺跡調査会『和田・百草遺跡群』


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  1. 2018/10/08(月) 21:39:46|
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「塚原古墳群 10号墳」

「塚原古墳群 10号墳」

 「塚原古墳群10号墳」は、平成9年に行われた緊急調査により周溝の一部が検出され、存在が確認された古墳です。墳丘径約18mの円墳と推定されており、幅1.3~2.4m、深さ20~40cmの周溝には陸橋部の存在が、また主体部は横穴式石室が想定されているようです。築造年代は不明とされています。
 画像は、10号墳の跡地としてだいたいこの辺り、という場所ですが、発掘調査ののちに宅地として開発が進められており、地上に古墳の痕跡は見ることができません。

  塚原古墳群は、発掘調査により少なくとも11号墳までは確認されているようですが、私が実際に現地で場所を確認したのはこの10号墳までです。ちなみに現在公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』では9号墳までしか掲載されていないようです。


「塚原古墳群 遠景」

 かつては「塚原(つかっぱら)」と呼ばれたこの一帯も、西側の一部を除いてかなり宅地化が進んでおり、残存する墳丘が見られるのは個人の邸宅内に残された1号墳1基のみとなっているようです。
 画像は、宅地化を逃れた古墳群の西側一帯の、この画像のみはわりと最近の画像です。あえてバス移動をして、ぶらっと立ち寄ってみたのですが、特に大きな変化は見られないようです。4号墳、8号墳、9号墳は、残存部分が地中に残されているものと思われますが、やはり地上に痕跡を見ることはできません。
 今後、発掘調査が行われれば多くの古墳の周溝が確認されるのではないかと思われますので、調査の進展が楽しみな地域です。。。

<参考文献> 
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国府以前の様相ー』


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  1. 2018/10/05(金) 01:33:11|
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「塚原古墳群 9号墳」

「塚原古墳群 9号墳」

 画像は、多摩市和田の塚原古墳群9号墳の跡地周辺のようすです。
『東京都遺跡地図』には多摩市の遺跡番号208-9番として登録されている古墳です。

  この古墳は、『東京都遺跡地図』には多摩市の遺跡番号208-9番として登録されており、平成元年12月から平成2年2月にかけて多摩市遺跡調査会により発掘調査が行われています。主体部は、河原石による袖無型の横穴式石室が確認されており、石室内からは刀子1点、鉄鏃3点などが出土しています。
 この9号墳に関しては、畑地の地下にまだ主体部が残存しているようなのですが、残念ながら地上に古墳の痕跡は何も残されていないようです。

<参考文献> 
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳時代 ー国府以前の様相ー』


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  1. 2018/10/02(火) 02:14:23|
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