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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「子の神社古墳群」

「子の神社古墳群」

 画像は、川崎市麻生区早野に所在する「子之神社(ねのじんじゃ)」です。
 この神社の御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、本宮である出雲大社の分霊を勧請して大国主命(大己貴命は大国主命の別名)が祀られています。この大己貴命は農民の守護神、台所の神、縁結びの神と言われています。
 ネットで公開されている『川崎市地図情報システム』によると、この神社の境内には麻生区の№64遺跡として、2基の古墳が登録されています。


「子の神社古墳群」

 子之神社境内のようすです。この神社の本殿は、平成8年(1996)に川崎市重要歴史記念物に指定されています。
 この神社の起源は定かではないようですが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、鎌倉時代には小沢郷7か村の総鎮守であったと伝えられ、江戸時代には菅村の鎮守として、根ノ上社、根上明神、根之神社などと呼ばれていました。明治10年(1877)に、社名が現在の「子之神社」と改められました。
 『新編武蔵風土記稿』には、「子の神社」についてのかなり詳細な記述はみられるものの、古墳(塚)についての記述はみられないようです。


「子の神社古墳群」

 『川崎市文化財集録』によると、2基の古墳のうちの1基はかつて鳥居の西側あたりに存在しており、径約12m、高さ約2.7mほどの円墳であったようです。
 おそらくは、画像の「子之神社改築記念碑」の背後、現在の社務所のあたりに存在したようですが、残念ながら完全に削平されて消滅しており、古墳の痕跡は全くみられないようです。『子之神社由緒書』によると、社務所は昭和58年9月に新築されたようですので、古墳もこの頃に破壊されてしまったのでしょうか。。。

 ちなみにこの日は、社務所でお祭りの太鼓の練習か何かが行われていたそうで、地元の子供達が集まっていたのですが、そりゃもう絶対的なパワーで駆け回っていてどこからどう写真を撮っても子供らが写っちまうですよ。笑。
 昔はこんな光景は日常的に見た気がするのですが、最近は通勤途中の疲れきった大人たちの顔しか見ていないし、元気をもらおうということでこの画像は子供入り。青いシャツの少年なんて宙に浮いちゃっているもんねえ。。。


「子の神社古墳群」

 消滅した古墳の墳頂部には日露戦役の記念碑が建てられいたようですが、この碑は社殿東側の空き地に移されています。


「子の神社古墳群」

 「子ノ神社古墳」のもう1基は社殿の土台となっているようです。
 画像は、社殿の背後のマウンドを南西から見たところ。まだはっきりと高まりが確認できるようです。


「子の神社古墳群」

 同じく、社殿の背後の高まりを、角度を変えて南東から見たところ。


「子の神社古墳群」

 北から見た子之神社社殿です。
 確かに、削平された古墳の墳丘上に社殿が建てられているようにも見えますが、果たしてこれが本当に古墳かどうかは、今後の調査の進展を待ちたいところですね。。。
 
<参考文献>
伊藤秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財調査集録 第4集』
佐藤善一・伊藤秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
株式会社タイムアートデザイン『麻生区の神社と寺院』
子之神社『子之神社由緒書』


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  1. 2018/12/25(火) 23:53:51|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「下麻生亀井古墳群」

「下麻生亀井古墳群」

 画像は、川崎市麻生区上麻生7丁目に所在する「麻生月讀神社」です。
 主祭神は、月読尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊で、天文3年(1534)9月29日皇太神宮の別宮月讀宮を亀井城の卯の方に勧請したと伝えられています。大正5年7月11日、上麻生の熊野神社、白山社、下麻生の日枝神社等を合祀、村社麻生神社となり、小話8年に再び月讀神社と称えられています。
 鳥居をくぐり、100メートルほど進むと長い急な石段が見えてきますが、この石段を登った標高55mの丘陵平坦部が月讀神社で、この神社の境内に所在する3基の円墳からなる古墳群が「亀井古墳群」です。


「下麻生亀井古墳群」

 月讀神社社殿の東方約50mほどの、丘陵の最も東端に所在するのが1号墳です。
 発掘調査は行われていないことから詳細は不明ですが、現状の規模は径約12m、高さ1.7mの小円墳です。神社に向かう参道により古墳の南側裾部は若干削られているようですが、古墳は比較的良好に遺存しているようです。


「下麻生亀井古墳群」

 画像が「亀井古墳群2号墳」です。1号墳の西方30mほどに位置しており、現状の規模は東西径約15m、南北径約14m、高さ2.1mの円墳です。ほぼ完存に近い良好な遺存状態であるようですが、この2号墳の敷地は現在幼稚園の所有地となっており、古墳の周囲は造成工事が行われているようです。消滅してしまわないことを祈るのみですね。。。


「下麻生亀井古墳群」

 画像が「亀井古墳群3号墳」です。2号墳の西方15m、社殿の南25mほどに位置しており、現状の規模は径約13m、高さ1.3mの小円墳です。墳丘の西側が神社の参道により、また北側が神社の境内により削平されているという状況の中、残存する墳丘の約半分はは現在幼稚園の所有地となっているそうで、墳丘を切断するような形でフェンスが設置されています。3基の古墳の中で、もっとも消滅の危機に瀕している古墳かもしれません。

 発掘調査は行われないのでしょうか。。。
 
<参考文献>
伊藤秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財調査集録 第4集』
佐藤善一・伊藤秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
伊藤秀吉・佐藤善一「宗隆寺古墳群・亀井古墳群・有馬古墳 測量調査報告書」『川崎市文化財調査集録 第27集』
株式会社タイムアートデザイン『麻生区の神社と寺院』


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  1. 2018/12/22(土) 00:39:44|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「無名塚跡」

「無名塚跡」

 画像は、麻生区王禅寺東5丁目の、塚の跡地とされる地点です。
 かつて塚が存在したという以外に何も詳細がわからないのですが、最近この場所を通り過ぎたときにちょうど造成工事が行われており、周囲よりもこの場所が若干高くなった状況や、露出していたその断面に見入ってしまいました。


「無名塚跡」

 この区画前の路上には『川崎歴史ガイド王禅寺ルート 下麻生学校と青戸四郎右衛門』という説明板が設置されており、「青戸四郎右衛門は、下麻生学校(前身は下麻生学舎)で、二十年以上の長きにわたり教鞭をとった。四郎右衛門の報恩碑は、大正十三(1924)年に、教子百四十余名によって建てられた。なお、報恩碑は、平成十八(2006)年八月に川崎市東柿生小学校に移築された。」と書かれています。
 この場所に存在したという塚(古墳?)については特に何もふれられていないようですが、ここから北東80mほどの地点からは「王禅寺東古墳」の周溝が検出されており、古墳であった可能性も感じる、とても興味深い場所です。。。
 
<参考文献>
柿生郷土史料館『柿生文化 第60号』
現地説明板


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  1. 2018/12/19(水) 22:40:35|
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「経塚跡」

「経塚跡」

 画像は、川崎市麻生区王禅寺東六丁目の、「経塚」と呼ばれる塚の跡地であるとされる地点です。

 東柿生小学校の南西角にあたる場所で、江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』の王禅寺村の項に「経塚 南にあり」と記載があり、少なくとも江戸時代後期に経塚と呼ばれる塚が存在したことは間違いないようです。
 この地域には、東柿生小学校を中心に周囲を取り巻くように4つの塚があり、『新編武蔵風土記稿』にも「経塚」、「牛塚」、「狐塚」、「塚」と4基の塚が記載されています。「狐塚」と「牛塚」はまだ痕跡が残されており、ネットで公開されている『ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム』には古墳として登録されているのですが、この経塚については遺跡としての登録はされていません。

 残念ながら経塚はすでに破壊されて消滅しています。塚自体から経典や経筒などの遺物が出土したなどの伝承は残されていないようですし、塚の性格は不明であるようですが、小学校の敷地からは古墳時代の高坏等が多く発見されており、古代の祭祀遺跡ではないかとも考えられているようですので、この経塚が古墳であったという可能性も考えられるのではないでしょうか。

 今後の調査、研究が待たれるところですね。。。
 
<参考文献>
柿生郷土史料館『柿生文化 第60号』


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  1. 2018/12/16(日) 00:18:30|
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「王禅寺狐塚古墳」

「王禅寺狐塚古墳」

 川崎市麻生区王禅寺東6丁目の、「王禅寺牛塚」南東約150mほどの住宅地内に所在するのが「王禅寺狐塚」です。
 現在の狐塚は公道と住宅に周囲を削平されてブロックで固められ、高さは約1m、5.5m×3mの長方形の塚上に稲荷の小祠が祀られています。ネットで公開されている『川崎市地図情報システム』には古墳として記載されており、谷本川の沖積地に築造された古墳時代末期の円墳ではないかと考えられているようです。


「王禅寺狐塚古墳」

 前回紹介した「牛塚」とは対照的に、この狐塚の名称は全国的に広く分布しています。これまで東京都内の古墳や塚を中心に取り上げてきましたが、都内だけでもかなり多くの「狐塚」が存在します。
 最も著名なのは、調布市布田6丁目所在の「下布田6号墳(狐塚古墳)」でしょうか。この調布の狐塚は、古代に築造された古墳であることが発掘調査により判明していますが、周辺地域には数多くの狐に関わる言い伝えが残されており、これが「狐塚」の名称の由来となっているようです。
 この王禅寺東の狐塚も元々は田の神の祭場であり、塚の上に田の神を祀っていたことから「狐塚」と呼ばれるようになりました。狐は稲の収穫期から冬にかけて人里に下りて子狐を育てたことから、田の神・稲作の神の使いとして信仰するようになり、稲荷(「いなり」は“稲成り”の意味なんだそうです)の神様として日本全国にかけて信仰の対象になりました。つまりは狐の遺体を埋葬した塚ではなく、神様を祀る対象として存在したと考えられているようです。


「王禅寺狐塚古墳」

 わずかに残された墳丘上に祀られている、稲荷の祠です。
 この場所にたどり着いたときに、塚のお向かいのお宅の奥様に「狐塚はこれですか?」と訪ねてみたのですが、まったくご存知ないようでした。(これには驚きましたが、新しい住宅街は案外こんなもので、古くからこの地に暮らす一部の人にしか伝承は伝えられていないのかもしれません)その後訪れた、亀井古墳群のある月讀神社でも、地元の方々はおろか神社の宮司さんですら、境内に3基の古墳が残されている事実を把握していませんでした。
 川崎市内の古墳や史跡、神社等を散策していて感じたのですが、まだ説明板が設置されていない場所も少なくないようです。史跡や文化財の存在をまず地元の人に知ってもらうことはとても大切だと思いますし、説明板による解説が充実されると良いなあと思います。。。

<参考文献>
伊藤秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財調査集録 第4集』
佐藤善一・伊藤秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
柿生郷土史料館『柿生文化 第56号』


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  1. 2018/12/14(金) 00:13:53|
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「王禅寺牛塚古墳」

「王禅寺牛塚」

 「王禅寺牛塚」は、川崎市立東柿生小学校の東方約200mほどの、川崎市麻生区王禅寺東6丁目に所在する古墳です。
 古くは江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』に「牛塚南の方にあり、2間四方」とあり、かつてはかなり大きな古墳だったのではないかと考えられますが、現在は径2.2m、高さ約1mほどの僅かなマウンドが、民家の敷地内に残るのみです。
 平成27年には、塚の道路を挟んで西側の敷地で発掘調査が行われており、古墳の周溝と考えられる溝状遺構が検出されています。また、覆土内からは土師器や須恵器の破片が約20点出土しており、この牛塚が古墳であることは間違いないようですが、現在残されているマウンドに関しては近代の築山であることがわかっているそうなので、残存する墳丘、というわけではないようです。

 ちなみに私の地元である栃木県には、宇都宮市や壬生町に「牛塚」という名称の古墳が存在するのですが、どちらも墳形は前方後円墳で、「牛塚」の名称の由来に関して、横からみると牛が体を横にして寝ている姿に似ているからであるという説があるようです。この王禅寺東の「牛塚」が前方後円墳だったかどうかは知る由もありませんが、とても興味深い名称だと思います。
 柿生郷土史料館より発行された『柿生文化』によると、牛は農事と深い関係があることから、この牛塚は「牛神」を祀るために造られた塚であったか、元々古墳として造られた塚を牛神の祭祀用に再利用したものではないかと推測しているようです。

<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財集録』
柿生郷土史料館『柿生文化 第57号』
柿生郷土史料館『柿生文化 第58号』
川崎市教育委員会事務局生涯学習部文化財課『平成27年度 川崎市埋蔵文化財年報』


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  1. 2018/12/10(月) 23:46:47|
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「下麻生古墳群」

「下麻生古墳群」

 「下麻生古墳群」は、小田急線柿生駅の南東方約1.3kmほどの、北西から南東方向に流れる谷本川左岸(鶴見川の上流)の丘陵上に築造された古墳群です。
 昭和61年に行われた現状確認調査では3基の古墳で形成される古墳群であるとされ、東西に並ぶ3基のマウンドは、東から西へ1、2、3号墳と呼称されていました。しかしその後、平成4年8月から12月にかけて行われた民間の宅地造成事業に伴う事前調査により、中央の2号墳は自然地形であることが判明、西側の旧3号墳が2号墳と名称が変更されています。


「下麻生古墳群」

 発掘当時、高さは約2.8m、平面形が、東西約18m、南北約13mの楕円形を呈していたという1号墳の墳丘は、現在は宅地化により消滅しています。画像の道路の左側あたりが古墳の跡地となるようです。
 南西方に向かって開口する、泥岩の切り石を使った両袖型の横穴式石室が確認されており、玄室内からは大刀や鉄雛、盗掘坑から耳環、入口部の手前から土師器坏などが出土しており、この入口付近から出土した土師器坏形土器の特徴や出土状態などから、古墳は7世紀前半代の築造と推定されています。


「下麻生古墳群」

 2号墳の跡地周辺の様子です。画像の道路の右側あたりが2号墳の所在地となるようですが、やはり宅地化により古墳は消滅しています。
 1号墳同様に山寄せ式によって築造されていたという2号墳の墳丘は、周溝が確認されなかったことから築造当時の規模は不明とされているようですが、調査当時は東西10m前後、南北7~8mの楕円形を呈しており、高さは1.5~2.0m程の規模だったようです。
 南西方向に向かって開口する泥岩の切り石による両袖型の横穴式石室が確認されており、玄室の中央部床面付近から鉄片が1点のみ出土したものの、細片であるためその種類等については不明で、築造年代も推定するには至っていないようです。


「下麻生古墳群」

 1号墳と2号墳のちょうど跡地のちょうど中間あたりにある、「下麻生なかよし公園」にてひと休み。自然地形であることが判明した旧2号墳はこのあたりかもしれません。


「下麻生古墳群」

 下麻生古墳群の東側に「籠口ノ池公園」という公園があるのですが、ちょっと地形が気になって立ち寄ってみました。
 半島状に突き出た舌状台地を利用した公園なのですが、この先端あたりに怪しげなマウンドが存在します。
 何かの塚なのか、公園を造成した際に残された自然地形なのかもかもしれませんが、とっても気になる形状です。。。

 早野横穴墓を見学するためにこの地域を訪れましたが、天気がよかったことと、現在所有のカメラで写真を撮り直したかったこともあって、結局全ての古墳をひと回り。何年か前に王禅寺古墳群を散策した時は、隠滅しているというこの古墳群は巡らなかったのですが、今回は跡地も含めてひと通り散策してみました。川崎市内は丘陵地帯が多く、急な坂道を上がったり下がったりしなければならないので、もう大変です。(でもちっとも痩せない)。。。
 
<参考文献>
佐藤善一・伊藤秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
神奈川県考古学会『第18回 神奈川県遺跡調査・研究発表会 発表要旨』


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  1. 2018/12/07(金) 00:46:42|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「早野横穴墓群」

「早野横穴墓群」

 「早野横穴墓群」は、鶴見川の支流である谷本川の中流域左岸に位置する、川崎市麻生区早野に所在する横穴墓です。早野聖地公園内の山林にあり、昭和47年(1972)に地元の人が発見したのをきっかけに発掘調査が行われ、横穴の奥壁等から線で刻んだ線刻画が発見されています。副葬されていた土器の年代から、7世紀中葉に築造されたと推定されているようです。

 この横穴群は、林ヶ池の西側の一区と東側の二区の二群で形成されており、画像は二区の支群が所在する舌状台地南端を南西から見たところです。線刻画が発見された横穴は、二区の西端に位置する1号横穴墓で、唯一開口している古墳です。


「早野横穴墓群」

 現在の1号横穴墓のようすです。公園内の事務所でお聞きして見学させていただきましたが、古墳の周囲にはロープが巡られていてこの内側は立ち入り禁止となっており、これ以上近寄ることはできません。残念ながら横穴内部の線刻画を見学することはできませんでした。
 それにしても、古墳の周囲は草ボウボウで、ロープが張られていなかったとしても近寄るのに困難な状況、古墳を塞いでいたらしき柵やトタンも朽ち果てていて、おそらくは横穴内部も崩落しているであろうという荒れ放題な状況は、なんとかならないものでしょうか。いくらなんでも市営の墓地公園でしょ?とちょっと悲しくなります。。。


「早野横穴古墳群」

 早野横穴墓群一区が所在する、西側の舌状台地先端の周辺のようすです。
 西端に位置する1号横穴から東に向かって並ぶ、4基の横穴が調査されています。
 この場所はまだ古墳が残されている可能性を感じますが、かなり深い竹藪で肉眼では開口する横穴墓は確認できません。。。


「早野横穴墓群」

 画像は、川崎市民ミュージアムで公開されている、線刻画のレプリカです。
 奥壁中央に太い眉毛とあご髭をたくわえた顔が、そしてその下には人物顔面と疾走する馬5頭が描かれており、うち1頭は人物が騎乗した状況が描かれています。


「早野横穴墓群」

 レプリカを見ただけでは少々分かりにくいのですが、線刻画はこんな感じで描かれているようです。
 中央の人物顔面の表情が男子埴輪や墨書人面土器に酷似していることから、この線刻画が後世の戯画ではないとされています。また、馬には4本のたてがみと尻尾がしっかりと描かれていることから、この横穴古墳の被葬者は、近くの石川の牧の管理者であった可能性が考えられています。


「早野横穴墓群」

 早野横穴墓より出土した、墓前に供えられたと考えられる須恵器と鉄製小刀です。古墳の入口前から出土していることから、墓前で祭りが行われていたと推測されています。
 これらの出土品は、川崎市市民ミュージアムで見ることができます。


「王禅寺横穴墓群」

 他にも、横穴が残されていそうな何ヶ所かを巡ってみました。
 画像は、麻生区王禅寺西7丁目に所在する「神明社」です。この神社は、王禅寺村の鎮守五社のひとつで、祭神は天照大神・大国主命で、入口谷戸の鎮守となっています。
 ネットで公開されている『川崎市地図情報システム』を参考にすると、神明社が祀られている背後に2基ほどの横穴墓が存在するはずです。


「王禅寺横穴墓群」

 南から見た、社殿の背後の状況です。特に開口する横穴はみられません。。。


「王禅寺横穴墓群」

 神明社の北東側、早野川に向かって東に突き出すように伸びた舌状台地東端に、二区10基の横穴墓群が構成されています。まだほとんどの横穴が残存するのではないかと思われるのですが、多くは土砂に埋没しているとされ、路上から観察した限りでは開口する横穴はみられないようです。。。


「麻生区№154番横穴墓」

 画像は、麻生区下麻生2丁目の「花島横穴古墳群」の所在地周辺のようすです。
 昭和54年まで1基の横穴墓が開口していたようですが、三井グリーンタウン建設工事に伴い破壊されています。昭和初期までは4基が存在したようですが、残念ながら古墳の痕跡は見当たらないようです。。。


「下麻生横穴墓群」

 画像は、麻生区王禅寺西の「真福寺白山横穴古墳群」の所在地周辺のようすです。
 ここは、古墳自体は残存する可能性を感じますが、個人の所有地ということで遠方からの見学のみにとどまりました。路上から観察したところでは、開口する横穴は見当たらないようです。
 この横穴墓群も二群に分かれて築かれており、画像は3基の横穴が所在する一区の所在地で、この東側に一区3基の横穴が存在します。

 柿生地区周辺にはかなりの数の横穴墓が存在したはずなのですが、開発の進んだ現代に見学できる横穴墓はやはり限られていて、なかなか難しいですね。。。
 
<参考文献>
「川崎市最北西部谷本川流域の横穴古墳群」『川崎市文化財集録 20』
相原精次・藤城憲児『神奈川の古墳散歩』
川崎市市民ミュージアム内説明板


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  1. 2018/12/05(水) 00:54:48|
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「柿生郷土史料館」

「柿生郷土史料館」

 最近、小田急線柿生駅近くにある、柿生郷土史料館に見学に行ってみました。
 実は、川崎市の古墳や塚は6〜7年前頃にコツコツ巡ってみた時期があったのですが、見落としてしまっていた遺跡も多く、その後なんとなくそれっきりになってしまっていて、この『古墳なう』でもあまり取り上げていませんでした。
 この日は、当時見落としていた「早野横穴墓群」と、整備が行われたという町田市の「西谷戸横穴墓群」を見学しよう!ということで、その前にまず立ち寄ってみたのが、この「柿生郷土史料館」です。
 ろくに調べないで向かってしまったのですが、なんと柿生中学校という中学校の中にあるのですね。場所がわからずに多少ウロウロしてしまったのですが、学校の入り口に小さな看板が設置されています。(よく見ろよ、と)


「柿生郷土史料館」

 開館しているのが土曜日か日曜日のみというのは、史料館が校舎の中にあるが理由なのかもしれませんね。無駄に予算をかけて毎日開館するよりも、これでいいのかも?とも思います。入っていいんすか?とちょっと躊躇しましたが。笑。
 当日は、校庭で大会か練習試合が行われていて、かなり活気のある印象でした。史料館に向かって校舎内を歩いているときに、小さな女子生徒が背後からテテテッと走ってきて「こんにちはっ」と声をかけてくれて、あ、きっと明るい校風で、教育が行き届いているいい学校なんだろうなあと感じます。。。


「柿生郷土史料館」

 室内はきれいに整備されています。地元の郷土資料等の書籍も充実していました。
 今、中学生に戻れるならここに通いたいかも。笑。。。


「柿生郷土史料館」

 古墳時代の遺物は多くはありませんが、土師器や須恵器が展示されていました。

 以下、次号の「早野横穴墓群」へ続く。。。


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  1. 2018/12/02(日) 23:07:48|
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