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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「小野路の一里塚」

「小野路の一里塚」

 画像は、町田市野津田町所在の「小野路の一里塚」です。
 現在の町田市立野津田公園の西入口に現存する一里塚です。

 小野路から図師に通ずるこの大山道は、東海道を小田原から分かれた重要な裏街道だったことでも知られており、この一里塚は、駿河の久能山に埋葬した徳川家康の遺骨を江戸時代の初期元和3年(1617)3月21日に日光東照宮に移したときの、街道の整備とともに造られたものであるといわれています。
 画像は、この大山道にて現在の一里塚を北東から見たところで、塚は道の両側に存在するようですが、これは道の片側にのみ残されていたものを、公園整備の一環として両側ともに復元されたものであるそうです。


「小野路の一里塚」

 南東側の塚のようすです。塚の前には木製の説明板が設置されています。
 この説明板によると、御尊櫃を乗せた輿が向坂を下ったときに壊れ、一行が難渋して鍛冶屋を呼んで修理したという伝承が残されているそうです。このときの小野路村の労苦に対して、幕府は以後助郷を免除したといわれています。   


「小野路の一里塚」

 北西側の塚のようすです。
 昭和のはじめ頃まで、塚上には榎の老木があったそうですが、残念ながら現在は見られません。
 一里塚の榎については、次のような伝承が残されています。
 或る日、徳川二代目将軍秀忠の前に、幕府の老中で倒壊、東山、北陸三道の一里塚築造の監督をしたとされる、大久保石見守長安(1545~1613)が進みでて、「一里塚には何の樹を植えて宜式や」と言上したところ、秀忠は「三道には松を植えたれば、一里塚には余の木(松以外の木)を植えよ」と命じたといわれています。歳も60を超え、耳も遠かったという長安は「余の木」を「榎」を聞き誤り、一里塚上に榎を植えたと伝えられています。
 これは、各地の一里塚を訪れるたびによく聞く伝承なのですが、そんなんで多額の税金を投入して問題が起こらなかったのかよと心配になってしまいますが、案外現代でも起こりそうなお話かもしれません。。。


「小野路の一里塚」

 北西の塚に立てられている「おおやまみち小野路」の石碑です。
 町田市内の一里塚としては他に、木曽の一里塚が片側の1基のみが残されていますが、多摩市貝取にあった塚は現在は消滅してしまっているようです。

<参考文献> 
多摩市『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板


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  1. 2019/01/30(水) 01:09:13|
  2. 町田市/その他の古墳・塚
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「日向古墳」&「日向横穴墓群」

「日向古墳」&「日向横穴墓群」

 画像は、川崎市高津区下作延7丁目、「日向古墳」と「日向横穴墓群」の跡地周辺の様子です。日向古墳は高津区No.17遺跡、日向横穴墓群は高津区No.19遺跡として登録されています。

 画像中央の、台地上のマンションのあたりに存在したのが、日向古墳です。昭和61年に行われた古墳の現状確認調査では、径30m、高さ4.5mの規模とされた古墳で、墳丘には6世紀後半代の埴輪列が一列にめぐっていたといわれています。そして、斜面の裾部には7基で構成された日向横穴墓群が、日向古墳を取り囲むように存在していました。
 日向古墳は、発掘調査により墳丘中心部に11本ものトレンチが入れられたものの、横穴式石室等の内部主体は確認されませんでした。この調査結果により、日向古墳の内部主体は日向横穴墓、つまり裾部に築造された日向横穴墓群と高塚・日向古墳は合わせて一体をなすものではなかったかと考えられているようです。
 こうした事例は北九州や中国地方に多く見られるもので、「墳丘横穴墓」と称されるそうです。この「墳丘横穴墓」は近年類例が増加しているようですが、日向古墳と日向横穴墓群の組み合わせは、数少ない東国の「墳丘横穴墓」としての確実例として重要視されているそうです。


「日向古墳」&「日向横穴墓群」

「日向古墳」&「日向横穴墓群」

 画像は、川崎市市民ミュージアムで公開されている、日向横穴墓群出土とされる遺物です。
 最初の画像が大刀で、2枚目の画像は「玉類」です。
 川崎市市民ミュージアムでは、2月17日まで、企画展として「発掘された日本列島2018」を開催中で、どちらもこの企画展で見ることができます。


「虎塚古墳群 第2号墳」

 以前、同じような事例として、茨城県の「虎塚2号墳」と「十五郎穴横穴墓群」を紹介したことがありましたが、川崎市内にも存在したというのは驚きですね。
 画像は、茨城県ひたちなか市所在の「虎塚古墳群 第2号墳」です。規模は南北約15.5m、東西約14m、高さ1.6mとやや楕円形状を呈しており、「十五郎穴横穴墓群」の館出支群の直上に位置しています。調査による出土遺物が極めて少なく、埋葬施設も調査により確認されなかったことから、この古墳は「館出支群」の象徴としての墳丘」である可能性が指摘されています。


「十五郎穴横穴墓群 館出支群」

 画像は、「十五郎穴横穴墓群」の館出支群の様子です。
 日向古墳、日向横穴墓群ともに、開発により消滅してしまった状況は残念ですが、関東各地でもこうした古墳が存在しているのですよね。
 虎塚古墳群は、壁画で有名な「虎塚古墳」も整備、保存されており、春と秋に石室壁画が一般公開されていますし、古墳に興味がある方にはお勧めです!

【このブログの過去の関連記事】
「虎塚古墳と虎塚古墳群 その1」
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-443.html
「虎塚古墳と虎塚古墳群 その2」
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-444.html
「十五郎穴横穴墓群」
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-445.html

<参考文献>
佐藤善一・伊東秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
持田春吉・村田文夫「平瀬川下流域から発掘される古墳群から想うこと」『川崎市文化財調査収録 第46集』
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター『ひたちなか埋文だより 42』


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  1. 2019/01/25(金) 01:32:07|
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「モッコ塚古墳」と「津田山碑際古墳」

「モッコ塚古墳」

 「モッコ塚」は、川崎市高津区下作延7丁目に所在したとされる塚で、『川崎の遺跡』にも登録されていない、消滅してしまった塚です。第二次大戦の末期である昭和19年(1944)頃に軍の陣地構築の際に削平されてしまったといわれており、出土品の伝承等も残されていないことから塚の性格は不明ですが、かつては高塚古墳ではないかと考えられていたようです。
 画像は、モッコ塚の跡地であるとされる周辺を南東から見たところです。通称「246」と呼ばれる厚木街道により、切り通しとなった津田山丘陵の一番高くなったあたりにモッコ塚は存在したようです。


「モッコ塚古墳」

 塚の所在地と考えられる、津田山丘陵頂部に登ってみました。
 台地の一番高くなったあたりは現在は駐車場となっており、またこの北側一帯は企業の研修センター建設のために台地ごと削られていて、古墳の痕跡のようなものは全くみられません。
 やはりモッコ塚は消滅してしまっているようです。。。


「モッコ塚古墳」

 川崎市から横浜市にかけては丘陵地隊で坂道ばっかりですから、台地の上でいい眺めだな〜と思う場所はたくさんあったのですけどね。いつもハアハア息が切れていて、全く余裕なしです。。。


「津田山碑際古墳」

 モッコ塚の北西300mほどの、やはり津田山丘陵上に所在したと言われるのが「津田山碑際古墳」です。これも古墳ではないかとされていた塚ですが、モッコ塚と同様に、軍の陣地構築により昭和19年(1944)頃に削平されています。
 すでに開発が進み、住宅地となったこの地に古墳の痕跡は見られません。。。


「津田山碑」

 気がつくのが遅かったんですけどね。「津田山碑際古墳」というからには、古墳の周辺に「津田山碑」なる石碑が存在したのではないかと、この近辺を自転車で疾走中に初めて気がついたわけです。津田山丘陵を降りてしまってからもう一度坂道を上るのは嫌だし(笑)、探すなら今でしょ、ということで早速検索してみたところ、下作延7丁目にある「津田山公園」の敷地内に「津田山碑」と呼ばれる石碑が置かれているということがわかりまして、早速立ち寄ってみました。
 というわけで、画像が津田山公園内に建てられている津田山碑です。

 この地の開発を、当時の玉川電気鉄道の津田興二氏が手がけたことから「津田山」と呼ばれるようになり、この津田山碑が犬養穀揮毫の碑である、というところまではわかったのですが、果たしてこの石碑が実際に古墳の際にあったものなのか、またその正確な所在地や、移設の時期や経緯等は今のところ不明です。
 のちに詳細が判明した際には、ひっそりと書き直そうと思います。。。
 
<参考文献>
高津図書館友の会『考古たちばな 第5・6合併号』
上作延緑ヶ丘霊園南横穴墓群発掘調査団『川崎市高津区上作延 緑ヶ丘霊園南横穴墓群発掘調査報告書』


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  1. 2019/01/23(水) 01:33:06|
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「ビシャモン塚古墳」

「ビシャモン塚」

 『川崎の遺跡』によると、緑ヶ丘霊園内には、現存する「下作延稲荷塚古墳」や、現存はしないものの発掘調査が行われた「津田山1号墳」、「津田山2号墳」のほかにもう1基、「高津区№25遺跡」として古墳が登録されています。
 この古墳は、行政上は川崎市高津区上作延にあたる地点に所在したとされる、「ビシャモン塚」と呼ばれた塚です。津田山1号墳の発掘調査とほぼ同時期の昭和38年(1963)、川崎市教育委員会の立ち合いのもとで調査が行われたようなのですが、この調査の内容は報告書が未刊行であるため詳細がわかりません。遺物は何も出土しなかったといわれているようです。

 画像は、ビシャモン塚の跡地周辺の現在の様子です。
 古い地形図を見ると、この場所はかつては東に突き出るような形状の舌状台地となっており、この台地上にビシャモン塚が存在したようなのですが、霊園造成工事により地形自体が変わってしまっており、正確な所在地はわかりません。また、跡地周辺には現在、合葬型遺骨埋葬施設の建築工事が行われており、もはや古墳や塚の痕跡は何も見ることができないようです。。。

<参考文献>
高津図書館友の会『考古たちばな 第5・6合併号』


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  1. 2019/01/21(月) 23:53:35|
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「下作延稲荷塚古墳(赤松稲荷大明神)」

「下作延稲荷塚古墳(赤松稲荷大明神)」

 「下作延稲荷塚古墳」は、川崎市高津区下作延に所在する古墳です。
 墳丘上に「赤松稲荷大明神」という稲荷社が建立されていることから「稲荷塚」と呼ばれている古墳で、JR南武線久地駅の南東450mほどの、多摩丘陵の先端に東に延びる、舌状台地のつけ根のあたりに築造されています。
 画像は、この下作延稲荷塚古墳を西からみたところです。


「下作延稲荷塚古墳(赤松稲荷大明神)」

 画像は、南からみた稲荷塚古墳、というよりは南から見た赤松稲荷大明神といったところでしょうか。
 鳥居の左奥に見えるマウンドが稲荷塚古墳です。
 周辺は、緑ヶ丘霊園という川崎市営の都市公園として整備されており、古墳はこの霊園の一角に残されています。昭和20年代に霊園の造成工事が行われた際に、馬形埴輪が出土しており、この塚が古墳であることは間違いないようです。


「下作延稲荷塚古墳(赤松稲荷大明神)」

 南西から見た、下作延稲荷塚古墳の墳丘のようすです。
 平成2年12月にはこの古墳の実測調査が行われており、規模は東西約20.5m、南北約20.5m、高さは約3.8mの、円墳であるとされています。ただし、墳丘の北から西、南にかけては、隣接する墓地建設のための造成工事の際に、余分な土を寄せて造った後世の人為的な形状であり、元々はひとまわり小さい方形に近い形状であったといわれています。このため、方墳であった可能性も考えられているようです。


「下作延稲荷塚古墳(赤松稲荷大明神)」

 墳丘上には稲荷社の祠が祀られており、「赤松稲荷大明神」と刻まれた石碑が建てられています。


「下作延稲荷塚古墳(赤松稲荷大明神)」

 下作延稲荷塚古墳の墳丘上のようすです。若干、平坦に削平されているようですが、古墳は比較的良好に残されているようです。


「下作延稲荷塚古墳(赤松稲荷大明神)」

 画像は、川崎市市民ミュージアムで公開されている、稲荷塚出土とされる埴輪です。顔や足の部分は失われており、残存していたのは胴部左側面だったようです。ほかに、円筒埴輪や須恵器、土師器が出土しています。
 古墳は、出土した埴輪より、6世紀後半の築造と推定されているようです。

<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財調査集録 第4集』
浜田普介「川崎の埴輪」『川崎市市民ミュージアム紀要 第4集』


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  1. 2019/01/18(金) 02:17:52|
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「津田山1号墳」+「津田山2号墳」

「津田山1号墳」

 「津田山古墳」は、行政上は川崎市高津区下作延に属している、JR南武線津田山駅から西方に300mほどの多摩丘陵の北端に存在したという2基の古墳です。現在は、緑ヶ丘霊園という川崎市営の都市公園として整備されており、古墳は2基ともに消滅しています。

 画像は、「津田山1号墳」の跡地周辺の様子です。霊園の造成により整地されていて、古墳が存在した当時の地形が失われていることから、正確な所在地はよくわかりません。
 この古墳は、昭和38年(1963)に発掘調査が行われており、復元径は26m、高さは2.7mの円墳であることがわかっています。埴輪や葺石といった外部施設は発見されず、また主体部も未発見で出土遺物も皆無であることから、古墳の築造時期については不明とされています。


「津田山2号墳」

 画像は、「津田山2号墳」の跡地周辺の様子です。正確な所在地はわかりませんが、『川崎の遺跡』やネットで公開されている『川崎市地図情報システム』を参考に、だいたいこの辺りかな?という場所です。
 この2号墳は、1号墳の東方60mほどの台地の北東隅に造られた古墳で、昭和39年(1964)に発掘調査が行われています。復元径は29m、高さは3.3mと、1号墳より若干大きな円墳であることがわかっています。1号墳と同様に主体部は検出されず、木棺直葬だったのではないかと考えられているようです。封土中からは和泉式の高坏の完形土器が1点、押し潰された状態で出土しており、この土器を古墳築造時のものととらえると、2号墳は5世紀中葉に造られたのではないかと推定されているようです。

 古墳の跡地に霊園を造成しているんだから、この場所は古墳時代から現代までずっと墓地なんですよね。
 周辺を自転車で走りながら、そんなどうでも良いことを考えていました。。。

<参考文献>
伊東秀吉「川崎市津田山古墳」『川崎市文化財調査収録 第1集』


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  1. 2019/01/16(水) 23:55:19|
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「久地伊屋ノ免古墳」

「久地伊屋ノ免古墳」

 「久地伊屋ノ免古墳」は、川崎市高津区久地4丁目に所在した古墳です。
 『川崎の遺跡』によると、高津区の№24遺跡として登録されている古墳で、現在はマンション建設によりすでに消滅しているようですが、この工事に先立って発掘調査が行われているようです。

 昭和58年()10月2日、調査団のキャップであった持田春吉氏は、発掘調査に先駆けてきれいに伐採された雑木林の中にこんもりとした盛り上がりを見付けました。当時の遺跡地図には子にお場所に古墳が存在するとは記載されていなかったようですが、持田氏は長年の経験からこれが古墳であると直感したそうです。そこで、調査団はマウンドの西側にトレンチを掘り、これが古墳かどうか確認してみることにしました。その結果、溝が検出されたことから、やはり古墳であろうということになったそうです。一歩間違えば調査も行われずに破壊される寸前だった久地伊屋ノ免古墳は、陽の目を浴びることとなったようです。(検出された溝は、最終的には古墳に関わるものではないとされたようですが。)
 古墳の規模は南北17m・東西径16m、高さは約2mで、小形の円墳です。埴輪や周溝といった外装施設は発見されていないようですが、第一主体部の割竹形木棺はながさ7.8mと長大で、これは野毛大塚古墳の8.2mと比べても見劣りしないものだそうです。木棺内部からは小玉、棗玉・勾玉・管玉、鉄鏃片などが出土しており、古墳は4世紀末から5世紀初頭の築造と推定されています。また、もう1基の主体部である第2主体部は組み合わせ式の木棺が検出され、こちらはサイズも小形で、異物も検出されていないようです。

 興味深いのは、木棺外から検出された縦横に鍔状突帯がついた壺形土器は、東海地方以西の土器に通じるものなのだそうで、日吉や加瀬などの大豪族とは異なるルートで、西方の権力と連合していた可能性も推測されているそうです。。。

<参考文献>
持田春吉『古代の南武蔵―多摩川流域の考古学』


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  1. 2019/01/14(月) 23:16:33|
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「長尾古墳」

「長尾古墳」

 「長尾古墳」は、川崎市宮前区神木5丁目に所在する古墳です。この古墳は、平瀬川を見下ろす、北側に張り出す舌状台地の先端部に位置しており、標高は約37.5mにあたります。
 画像は長尾古墳を南西から見たところで、画像の中央の竹藪が長尾古墳です。


「長尾古墳」

 古墳西側の路上から長尾古墳の所在地を見上げたところです。
 古墳の南側はマンションの建設に、西側は道路の拡張により大きく削平されていますが、この道路の拡張工事やマンションの建築の際には、発掘調査は行われなかったようです。
 竹藪の隙間から祠が見えます。。。


「長尾古墳」

 画像は、南東から見た、古墳の墳頂部と思われる場所です。
 江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』の長尾村の項には「道情塚 村の南にあり、道誓とも書せり(後略)」とあり、小田原北条氏に仕え、死後道情と称した人物の墓であるとされているようです。この長尾古墳の所在する神木町は当時の長尾村の南部にあたり、付近に他の塚が確認されていないことから、長尾古墳が道情塚である可能性も指摘されているようです。


「長尾古墳」

 北から見た長尾古墳です。鳥居が立てられており、その奥に稲荷祠が祀られています。
 『川崎市文化財調査集録 第24集』に記載されている昭和63年の現状確認調査では、古墳の規模は径約11m、高さ約2mで円墳とされています。最新の測量調査では、残存する墳丘の一部が人為的に整形されていることから、規模を特定することは困難であるとしています。


「長尾古墳」

 この日は、土地所有者の奥様に声をかけて見学させていただきました。
 私は少年時代、親の転勤により引越しが多かったせいか、代々同じ土地に暮らす方々に聞かせていただく昔話がとても楽しく感じます。この周辺地域は昭和の中頃までは田んぼや畑が一面に広がっており、古墳の場所にはかなり豊富な湧水が沸いていて、水量はかなり減ってしまったものの現在でもわずかな湧水が見られるそうです。敷地内の小さな池も見せていただきました。

 古墳を案内していただいた際、古墳の下部にぽっかりと開口する横穴が目に入って、横穴式石室かとびっくりしたのですが、これは第二次大戦中に掘られた防空壕なのだそうです。すでに土砂で埋没していて内部を見ることはできなかったのですが、どうやら埋葬施設とは関係なさそうでした。川崎や横浜の中心部からは距離があるように思うのですが、この周辺でもやはり空襲があったのでしょうか?戦争は恐ろしいです。。。
 
<参考文献>
佐藤善一・伊東秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
野中和夫・赤堀岳人「川崎北西部に分布する古墳の概況」『川崎市文化財集録 第41集』


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  1. 2019/01/12(土) 00:36:09|
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「上作延南原古墳」

「上作延南原古墳」

 画像は、川崎市高津区南原町に所在する「上作延南原古墳」を南から見たところです。
 宮前区のNo.99遺跡として登録されている古墳で、東西に延びる丘陵の北斜面の標高32mに位置しており、丘陵裾には平瀬川が東流しています。


「上作延南原古墳」

 昭和63年(1988)に行われた現状確認調査の記録が『川崎市文化財調査集録 第24集』に記載されており、当時の古墳の規模は径約16.3m、高さ約2.5mの円墳であるとされていたようですが、最新の測量調査による現状規模は、南北約15.0m、東西約16~18m、高さ約2.5mで、墳丘の東側は人為的な改変が著しいものの西側が比較的良好に残存しており、その西側の形状から方墳として築造された古墳ではないかと推定されているようです。


「上作延南原古墳」

 墳丘の東側に、鳥居や参道が稲荷の小祠に向かって築かれており、かなり改変されているようです。
 それにしても、以前訪れた時は墳丘上に木が茂って鬱蒼としていたのですが、最近訪れた時には枝が伐採されていて、遠目に見るとまるで盆栽みたいに見えました。いや、どうでもいい話ですが。


「上作延南原古墳」

 墳頂部に祀られた、稲荷の祠です。
 この古墳の封土内からは、須恵器の破片が出土したといわれており、古墳南側の畑には土師器片や須恵器片が散布しているようです。畑の表面には土器片は見られないようでしたが、掘ってみるといろいろ出てくるのかもしれませんね、きっと。。。

<参考文献>
佐藤善一・伊東秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
野中和夫・赤堀岳人「川崎北西部に分布する古墳の概況」『川崎市文化財集録 第41集』


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  1. 2019/01/10(木) 23:20:45|
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「五所塚」

「五所塚」

 「五所塚」は、川崎市宮前区五所塚1丁目に所在する塚です。
 地元では古くから五所塚と呼ばれており、周辺地名の由来ともなっている塚で、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の長尾村の項には、「墳墓五ヶ塚 小名神木谷にあり、五つながら並べり、長尾景虎及従者の墳墓なりと云傳ふれども、景虎は天正六年越中春日山の城にて歿せしこと世にしる所、別にゆへある人の塚なるべし、相傳相ふ昔此邊より石の匣を掘出せしことあり、大さは大抵一尺四五寸四方にて、蓋に高印の二字を彫り、其中に真鍮の一丸あり、大さ銀杏の如し、是を振へば、盧中に物ありて音をなせり、何に用ひしものと云ことは考ふべからざれど、葬具などにやと村老いへり、何れにも古の明器の類なるべし、されどいつしか其ものをも失ひて今はなし」と記されています。同書ではこの塚は、長尾景虎とその従者の墳墓ではないかとしているようですが、現在では村境などに造られた「境」信仰の塚ではないかと考えられています。

 画像は、5基の塚のうち、もっとも南の1基です。現在のこの場所は「五所塚第一公園」として整備、公開されており、いつでも見学することができます。五つの塚がそのまま残されているのは、全国的に見ても珍しいそうです。


「五所塚」
 
 2基めの塚のようすです。
 五所塚のかたわらには、昭和40年(1965)まで巨木稚児の松があり、落馬して命を落とした射手の稚児の供養のために植えられたと伝えられていました。現在では1月7日(またはそれに近い日曜日)に、的を射て1年の無病息災農事無事を祈願するマトーと呼ばれる行事が行われているそうです。射手は7歳未満の男児2人が務め、烏帽子・直垂姿でアシをつぶしてむしろ状に編んだものに和紙を張ったマトに、モモの木で作った弓で篠竹の矢を射る。的の裏には「鬼」の字が書かれ、矢が鬼の文字を貫けば豊作といわれています。


「五所塚」

 中央の塚のようすです。


「五所塚」

 南から4基目の塚。
 この塚の前には、川崎市教育委員会による説明板が設置されています。

  五所塚と権現台遺跡
 五所塚は、直径四メートル・高さ二メートル前後の
五つの塚が南北に並んでいることから、地元では古く
から、こう呼ばれてきました。外観は古墳時代の円墳
に似ていますが、実際は、中・近世に村境や尾根筋に
築かれた十三塚などと同様の、民俗信仰に基づく塚で
あると考えられています。
 この五所塚から長尾神社境内につづく舌状台地上の
平坦部は、権現台遺跡と呼ばれる縄文時代中・後期の
集落跡です。昭和三十三年(一九五八)に実施された発
掘調査では、竪穴住居跡四軒、炉跡二基、配石遺構一
基が発見されました。なかでも、平面形が五角形とい
う特異な形状をした縄文中期の竪穴住居跡や、男根を
模した二本の石棒が据えられ、狩猟にまつわる祭りを
行ったと思われる縄文後期の配石遺構は重要な発見で
した。
 ここ五所塚第一公園には、地上に中・近世の信仰塚
が、地下には狩猟祭祀をした縄文時代のムラの跡が重
複しているのです。
 平成四年三月
                川崎市教育委員会



「五所塚」

 もっとも北側にある1基です。
 説明板の内容からして、この5基の塚が古墳ではないことは間違いないようですが、塚自体の発掘調査は行われていないようなので、実態はわからないというのが現状でしょうか。
 その土地に存在した塚にまつわる字名は、住居表示の変更により失われてしまった地名も少なくないのですが、この地域は「五所塚××丁目」と、五所塚の名称がそのまま残されているのですよね。そういう意味でも、五所塚がこのまま良い状態で保存されると良いなあと、切に願います。


「五所塚」

 整然と並ぶ、塚のようすです。

 この周辺には多くの絶景ポイントが存在するようです。
 私は、多摩川沿いの低地から、台地のもっとも高い場所にあるこの五所塚第一公園まで自転車で登りましたので、そりゃもう息が切れてしまって、呼吸が整うまでしばらくかかりました。少し冷静になって周りを見渡す余裕があれば、素晴らしい景観を楽しむ事ができたかもしれないのですが、失敗ですね。笑。
 例えば、夜景を楽しむために訪れてみるのも悪くないのかもしれません。
 
<参考文献>
相原精次・藤城憲児『神奈川の古墳散歩』
神奈川県高等学校教科研究会社会科歴史分科会『神奈川県の歴史散歩〈上〉』
現地説明版


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  1. 2019/01/08(火) 23:57:49|
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