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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「二子塚古墳」

「二子塚古墳」

 今回は、川崎市高津区二子6丁目に所在したとされる「二子塚古墳」の探訪記録です。

 この古墳の跡地一帯は多摩川の氾濫原に位置しており、残存する「諏訪天神塚古墳」や「諏訪浅間塚古墳」と合わせて「二子・諏訪古墳群」と呼ばれています。早くから開発の進んだ地域であり、この二子塚はすでに消滅してしまった古墳ですが、多くの文献や古地図等を参考に、その存在が想定される古墳です。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、
 「二子塚 村の南の方に塚二つ並びてあり、其一は塚の敷一段二十歩の除地にて高さ五丈許、形丸く芝山にて樹木なし、故に土人坊主塚などといへり、この塚の土性至てよきゆへに、籠など作るもの多く掘用ゆるに、塚の中より茶碗のかけなどまま出ることあり、此ほとりを字して西屋敷と云、古へ村民住せしよし、ゆへに古き磁器など出るにやあらんといへり、一は少しく東の方へ寄てあり、除地六畝廿九歩、高さは二丈五尺あり、南の方少しかけて、上にわかぎの雑木生立てり」
 と書かれています。
 同書にある、二つの塚が接近していたらしき描写(前方部と後円部)や、全国的に「二子塚(双子塚)」の名称を持つ塚に前方後円墳が多いという状況、また明治時代の測量図の地籍の確認等により、この二子塚は、長軸60メートルほどの前方後円墳だったのではないかと想定されているようです。

 画像は、二子塚古墳の跡地とされる周辺の現在の様子です。
 画像右奥から左に向かって弧を描く道路の形状が、二子塚の後円部の痕跡、ということになるようです。


「二子塚古墳」

 二子塚古墳の跡地周辺を北西から見たところ。
 画像の奥が後円部、右手前が前方部、という状況でしょうか。
 古墳は残念ながら完全に消滅してしまっているようです。


「二子塚古墳」

 大正4年(1915)10月に建立されたという「二子塚舊磧」の石碑です。塚が前方後円墳であるならばちょうどくびれ部のあたりでしょうか。閑静な住宅街の一角に、石碑が今も残されています。
 この塚の土質は、カマドや瓦の原材料として適していたことから、次第に掘り崩されて小さくなり、大正時代には小高い草地となっていたといわれています。おそらく、この碑が建てられた頃には、わずかな高まりしか残されていなかったのかもしれません。


「二子塚古墳」

 「二子塚舊磧」の碑。
 お堂の中に建てられているため、背面は見ることができませんでした。。。


「二子塚古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=720247&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和11年(1936)8月14日に陸軍により撮影された二子塚古墳の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
 画像の中央には、うっすらと前方後円墳らしき形状を見ることが出来ます。
 大正時代にはすでに小高い草地となっていたという二子塚古墳ですが、戦前の時点でまだ前方後円の形状は保たれていたようです。。。


「二子塚古墳」

 画像は、二子塚古墳跡地の北西側、二子6丁目1番地に昭和43年(1968)5月に開設されたという「二子塚児童公園」です。この公園内には、二子第5町内会により建立された「史蹟二子塚之碑」を見ることができます。この石碑の背面に刻まれた由来には、二子塚古墳についての記述を見ることができます。

二子塚の由来 大正の中ごろこの二子塚より勾玉耳環などが発掘され溝口の喜楽翁の手を経て県庁に納められたが大正十二年関東大震災に亡失したという伝えられるところによれば旧八王子街道には一王子村より八王子村までがあって其の内二王子村が現在の二子(村)になったという桓武天皇の直裔高望王の八王子口碑と合わせ伝えられているその後今を去る四百年前の天正十年田斐の国武田の伊奈四郎勝賴公の家士小山田備中の守嫡子小山田小治郎宗光は勝賴公が天目山に自刄した後当地に来て二子元家敷に居を構えたという
昭和四十三年五月五日 二子第五町内会長 吉崎キン



「二子塚古墳」

 古墳からは、石碑に書かれている勾玉耳環のほかに、五鈴釧の出土も伝えられているようですが、残念ながらこれらの遺物は散逸しており、所在は不明となっているようです。
 最新の調査事例としては、平成26年3月に行われた戸建住宅建設に伴う発掘調査により、二子塚古墳のものと考えられる埴輪片が1点、出土しているようです。やはり二子塚は間違いなく古墳であり、埴輪が樹立された古墳であったようです。
 今後、周辺の調査の進行により周溝の痕跡が検出されれば、古墳の規模も判明してくるかもしれません。低地に存在した前方後円墳の詳細が明らかにされるのが楽しみです。


「二子塚古墳」

 二子塚児童公園内には、昭和26年から同42年まで実際に川崎市内を走っていたという、トロリーバスの最後の1両が保存されています。
 トロリーバスとは、ガソリンではなく電気で走るバスのことで、ちなみに私は少年時代、黒部ダムに遊びに行った際に乗った記憶があります。環境汚染が叫ばれる中、むしろこのトロリーバスは新しいのでは?などと考えてしまいますが、現役で走るトロリーバスは黒部にしか残されていないようですね。
 画像のトロリーバスは2012年に撮影したものですが、最近立ち寄ったときにはバスの周囲はフェンスで覆われており、近寄ることはできなくなっていました。再整備が望まれますね。

<参考文献>
上田恒三『高津村風土記稿』
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
川崎市教育委員会生涯学習部文化財課『平成25年度 川崎市埋蔵文化財年報』


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  1. 2019/02/26(火) 23:13:53|
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「津田山坂下横穴墓群(津田山弁財天)」

 津田山周辺の横穴墓の探訪記録、シリーズ3。
 今回は、高津区No.14遺跡として登録されている「津田山坂下横穴墓群」です。


「津田山坂下横穴墓群(津田山弁財天)」

 画像は、川崎市高津区下作延7丁目所在の「津田山弁財天」です。
 津田山坂下横穴墓群はこの弁財天の周辺に所在します。
 津田山団地の工事が行われていた昭和37年(1962)、道路拡張中に横穴が発見され、周囲が切り崩されている中、1月26日から28日にかけて緊急調査が行われたそうです。
 当時、5基の横穴が確認されています。


「津田山坂下横穴墓群(津田山弁財天)」

 津田山弁財天の祠です。
 私が参拝した際にも、娘さんを連れた一家三人がお参りに来ていました。
 今も地元の人に大切に祀られているようです。

 この祠の背後に、横穴墓らしき穴が開口していてびっくりしました。
 祠の右奥に、穴がチロっと見えています。


「津田山坂下横穴墓群(津田山弁財天)」

 祠の背後の様子です。
 横穴墓が発見された当時の記録には「本群の存在する谷の最奥部にも二穴開口しているが、横穴を物置に利用しているので、その内部構造は実測できない。またその横穴の上方の中腹にも横穴の天井が落盤し、埋没したと思われるもの二ヶ所があるが、確証はない。」と書かれています。
 古墳の分布図が見つからなかったので、この横穴が何号墓にあたるのかは不明ですが、所在地が谷の最奥部にあたますので、物置に利用されていたというのがこの横穴ではないかとも考えられます。
 一説には、この穴は近世の宗教施設で、横穴墓ではないとも考えられているようですが、横穴墓を流用して使われたという可能性はないのでしょうか。。。
 この横穴は古くは「女郎洞」または「鉄漿(おはぐろ)洞」と呼ばれたようですが由来は不明で、現在は「弁財天窟」とも呼ばれているそうです。


「津田山坂下横穴墓群(津田山弁財天)」

 内部の様子です。よくわかりませんね。。。
 入り口が狭いしカメラを落としたら入れないぞ、と腰が引けながら1枚目を撮ったのですが、「げ、内部にネズミがウヨウヨいる!」とゾッとして、そそくさとこの場所を後にしました。
 帰宅してから拡大して見てみたのですが、正体はよくわからず。ネズミじゃなかったのかな???


「津田山坂下横穴墓群(津田山弁財天)」

 大正2年(1913)、日照り続きで農作物は枯れるばかりとなり、農民は一日千秋の思いで雨を待っていました。そこで、下作延の三田末義はこの洞窟に入り、断食三中夜、千巻の経文を誦経し一心に雨乞いを祈願しました。不思議なことに満願の日一天俄にかき曇り雷鳴り響き、忽然と降る雨が大地を潤したそうです。草木は蘇生し、人々は弁天の加護に狂喜感謝したといわれています。
 このことを後世に伝えるために建てられたという石碑が、画像です。
 「古社辨財天」と刻まれた下に、由来が刻まれています。。。
 
<参考文献>
宮島操「津田山坂下横穴群発掘調査報告」『高津郷土史料集 第二編』
高津図書館友の会 郷土史研究部古代班『考古たちばな 第5・6合併号』
上田恒三『高津村風土記稿』


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  1. 2019/02/24(日) 23:35:40|
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「浄元寺裏の横穴墓群」

「久地浄元寺」

 前回に続き、今回も津田山周辺の横穴墓の探訪記録、シリーズ2です。
 画像は、川崎市高津区久地1丁目の淨元寺です。このお寺の背後にある谷には、三群からなる横穴墓の存在が知られています。第1群は谷奥のもので「津田山久地横穴墓群」、同東のものが第2群で「久地浄元寺裏横穴墓群」、第1群より谷口にあるものが第3群で「浄元寺裏横穴墓群」とされています。


「久地浄元寺裏横穴墓群」

 「久地浄元寺裏横穴墓群」は、高津区No.10遺跡として登録されている横穴墓群です。
 昭和48年8月から9月にかけて発掘調査が行われており、5基の横穴墓が確認されています。一号墓からは鉄鏃が、二号墓からは土師器坏が、三号墓からは鉄鏃・直刀片・直刀鍔が、四号墓からはガラス製小玉・鉄鏃が、そして五号墓からはガラス製小玉・鉄鏃・鉄釘・金銅製耳飾・土師器坏・土師器片・寛永通宝などは出土しています。
 画像が、現在残された久地浄元寺裏横穴墓群の痕跡であると思われます。一号墓〜三号墓はかなり近接して存在したようなので、このうちの2基の残骸であると思われます。


「久地浄元寺裏横穴墓群」

 この久地浄元寺裏横穴墓群からの出土品は、川崎市市民ミュージアムの企画展として2月17日まで開催されていた「発掘された日本列島2018」にて公開されていました。
 右上が「須恵器」、右下が「土師器」、左上が「銅鋺」です。


「津田山久地横穴墓群」

「津田山久地横穴墓群」

 「津田山久地横穴墓群」は、高津区No.128遺跡として登録されている横穴墓群です。斜面の山麓に4基、やや上部斜面に2基の計6基があり、昭和32年に上部斜面の4号墓と、山麓にある5号墓の調査が行われています。
 この横穴墓は開口する形で残存するのではないかと期待して訪れたのですが、残念ながら見ることはできませんでした。現地の草むらの複数箇所がブルーシートで覆われており、この下がどうなっているかはわかりません。
 ブルーシートを捲ってみたいという欲求にかられましたが、思いとどまり、無茶はやめました。笑。


「浄元寺裏横穴墓群」

 「浄元寺裏横穴墓群」は、高津区No.11遺跡として登録されている横穴墓群です。
 この場所も、横穴が開口すると期待しましたが、見ることができませんでした。所在地の周囲は冬でもすごい藪で、果たして古墳が残存するものかどうか判然としませんでした。
 
<参考文献>
高津図書館友の会 郷土史研究部古代班『考古たちばな 第5・6合併号』
川崎市『川崎市史 資料編Ⅰ』
現地説明版


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  1. 2019/02/21(木) 00:10:28|
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「久地神社裏横穴墓群」

 さて、再び川崎市内の古墳に戻ろうと思います。
 津田山周辺は、かつて東急不動産KKにより開発が行われた地域で、当時の造成工事により多数の横穴墓が発見されており、大部分の横穴墓については調査が行われているようです。
 以前、久地から津田山、溝ノ口、梶が谷周辺の高塚古墳を見学した際に、密かに残されている横穴墓が存在しないものかと注意していたのですが、痕跡が残されている横穴もいくつか存在するようなので、今回取り上げてみようと思います。


 「久地神社裏横穴墓群」

 最初の画像は、川崎市高津区久地1丁目の「久地神社」です。
 この神社の創立年代は不詳であるようですが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「赤城社 村の南の丘にあり、此所の鎮守なり、社二間に一間半、東南向、前に石段あり木の鳥居たてり、村内浄元寺持」と記載されており、この赤城社がその後、明治初年の神仏分離により神体が近隣寺院に合祀され、祭神を天照大神と改めて社名が久地神社と改称されました。
 この神社の境内に、「久地神社裏横穴墓群」の痕跡が残されているようです。


「久地神社裏横穴墓群」

 画像の、境内社の鳥居の奥に、横穴墓らしき痕跡が見えています。
 さっそく近付いて見てみましょう。


「久地神社裏横穴墓群」

 画像が、現在の「久地神社裏横穴墓」の残存部分です。
 久地神社裏横穴墓群は津田山北面の最西端にあり、かなり古くから開口していたといわれています。少なくとも5基が確認されており、画像の痕跡は、そのうちの2基ということになるようです。


「久地神社裏横穴墓群」

 奥行きがわずか10〜20cmほどのわずかな痕跡ですが、はっきりとアーチ型の形状を見ることができます。


「久地神社裏横穴墓群」

 久地神社社殿の背後にも怪しい凹みが見られるのですが、これも横穴墓の痕跡なのでしょうか?


「久地神社裏横穴墓群」

 一番北側の、横穴墓らしき痕跡。
 これが横穴墓であれば、一番よく残されているのではないかと思われますが、土砂で埋没しているので内部の状況はわかりません。


「久地円筒分水」

 久地といえばやはり「円筒分水」ですよね。(本当か?)
 知人から存在を教えられていて、この場所で初めてゆっくりと見学しました。
 久地円筒分水は、平賀栄治が設計して手掛けたもので、昭和16年(1941)に完成しました。送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらないという定比分水装置の一種で、世界に冠たる独創的な装置なのだそうです。多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、性格で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を噴きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決したそうです。
 平成10年(1988)には、国登録有形文化財に指定されています。
 私は、説明板の解説を読んでもすぐにはピンとこなかったんですけどね。しばらくずーっと眺めていたら、なんとなく仕組みがわかってきたような気がして、ちょっと感動しました。

 いろんな国で争い事が絶えない世の中ですが、この円筒分水のように、関わる人が平等に納得できるような良い知恵はないものですかねえ。。。
 
<参考文献>
高津図書館友の会 郷土史研究部古代班『考古たちばな 第5・6合併号』
現地説明版


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  1. 2019/02/19(火) 02:49:11|
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「小野路の富士塚 (富士塚山古墳)」

「小野路の富士塚」

 画像は、町田市小野路町の「小野路の富士塚」を南から見たところです。
 『東京都遺跡地図』には町田市の遺跡番号234番の遺跡として登録されている塚です。


「小野路の富士塚」

 ちょっと角度を変えて、東から見た小野路の富士塚です。
 昭和63年(1988)発行の『東京都遺跡地図』、平成8年(1996)発行の『東京都遺跡地図』ともに、丘陵に築かれた古墳であると書かれていたのですが、現在ネットで公開されている『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』では、「時代不明」の「塚」であるとされています。
 出土品もなく、どんな性格の塚かなのかよくわからなかったのですが、実際に現地で見学したところでは、素人目に古墳のようようにも感じられます。


「小野路の富士塚」

 墳丘上には、何らかの祠が祀られていたような痕跡が残されています。
 「富士塚」の名称の由来に関係するのではないかと思われるのですが、詳細は不明です。。。


「小野路の富士塚」

 塚の北側には、土塁?のような正体不明の盛土も見られるのですが、何なんだろう?
 このさらに北側は野球のグランドとして整地されているようですので、工事の際のただの残土の山なのかもしれませんが、これも詳細は不明です。

 要するに、この塚(古墳?)については今のところ何もわかっていないのですが、見学したまま写真が古くなってしまうし、とりあえず掲載してみようと思いました。何かわかったら、後でこっそり書き足します。。。

<参考文献> 
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』


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  1. 2019/02/16(土) 21:21:57|
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「馬駈古墳」

「馬駈古墳」

 「馬駈古墳」は、町田市図師町に所在したといわれる古墳です。『東京都遺跡地図』には、町田市の遺跡番号214番の遺跡として登録されている古墳です。

 昭和36年(1961)に東京都教育委員会より発刊された『南多摩文化財総合調査報告』には、残存した当時の馬駈古墳について、
 西方から延びる丘陵の突端部の頂部、府中~淵野辺間都道の西備に近く位置する径約10mの円墳である。かなり変形していて、諸施設とも不明であるが、1と同様、後期終末期の築造になるものであろう。
 と書かれています。
 その後、平成6年度に多摩地区所在古墳確認調査団による古墳の分布調査が行われており、翌平成7年(1995)に発刊された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では、この馬駈古墳については、墳丘、主体部ともに「消滅」としており、
 古墳として遺跡登録されているが、現在では現地調査、聞き取り調査、文献確認を行っても明確な地点はわからなくなっている。
 と書かれています。

 画像は、馬駈古墳の跡地周辺の現在の様子です。
 『東京都遺跡地図』の分布図に記された位置と、残存当時の空中写真等を見比べて、だいたいこのあたりではないかと想定した場所です。手前の原っぱから、奥に見える民家にかけてのどこかに古墳が存在したと思われますが、残念ながら痕跡は何も見られません。


「馬駈古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=230033&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和31年(1956)4月13日に米軍により撮影された馬駈古墳跡地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
 画像の中央下に見える円形の塚が、前々回に取り上げた「かぶと塚」と思われ、中央上にぼんやりと見える高まりらしき影が「馬駈古墳」ではないかと思われます。少なくとも昭和30年代に入る頃までは、古墳は残されていたようですが、その後、平成に入るまでには消滅してしまったようです。


「馬駈古墳」

 画像の周辺が古墳の跡地と思われます。
 道路がS字にクランクしているあたりが、ひょっとしたら古墳の痕跡なのかもしれませんが、詳細は不明です。


 「馬駈古墳」

 私が最初にこの馬駈古墳の所在地を訪れたのは実は8〜9年ほど前なのですが、その頃は今よりもずっと民家が少なくて、畑というか空き地みたいな場所でした。当時、古墳はすでに消滅しているであろうと想定していたので、周囲をぶらりと一周したのみであまり深追いもせず、やはり古墳はなかったなと自分を納得させて、早々に次の場所に移動したのです。
 そして後日、さらに古墳について書かれている文献を調べていたところ、古墳の所在地について『南多摩文化財総合調査報告』に、「西方から延びる丘陵の突端部の頂部」と書かれているのを発見しました。以前に古墳の跡地と想定して見学した場所は、決して「丘陵の頂部」ではなく、少々下った斜面だったという記憶があり、これがずっと気になっていました。
 というわけで前置きが長くなりましたが、昨年再訪して「丘陵の頂部」らしき場所で撮影した、塚状の高まりです。
 空中写真で見られる古墳らしき高まりとは少しズレた場所にあたるので、この高まりが古墳であるならば、複数の古墳が存在するということになるのかもしれませんが、真相は謎です。周辺に「かぶと塚」や「よろい塚」といった塚の伝承地があるあたりからしても、とても気になる場所です。
 (草ぼうぼうで形状がわかりにくいのが残念な写真なのですが、真冬に行けばよかったなあと後悔。もう一回、冬のうちに行ってみようかな。。。)

<参考文献>
東京都教育委員会『南多摩文化財総合調査報告』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』


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  1. 2019/02/12(火) 23:14:18|
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「よろい塚」

「よろい塚」

 「よろい塚」は、町田市忠生3丁目に所在したといわれる塚です。
 このよろい塚は、前回取り上げた「かぶと塚」と同様に、すでに開発により削平されて存在しない塚です。旧忠生小学校校庭の東の隅にあったといわれる塚で、小学校の開校間もない大正3年(1914)頃に学校側の都合で取り除かれており、その後、昭和9年(1934)に塚の跡地に奉安殿(戦時中に天皇、皇后両陛下の写真や教育勅語等を納めた、軍国主義の象徴的建造物)が建てられたといわれています。やはり『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。

 小山田の歴史を知る会より発刊された『小山田のむかし』には、この塚の往時を知る地元の古老のとても興味深いお話が記載されています。

わし、よくいうんだけど、忠一の体育館のちょっとはずれに、よろい塚というのがあったんだよ。
六年の時に、あの塚ぶっこわせというんで壊したんだ。そうすると刀が出てきた。
その時、淵野辺の亀ちゃんが最初にさわったんだ。そうしたら、学校の帰りに亀ちゃんが現在の根岸の火の見やぐらの下で急に死んじまったんだ。走っておっかぁさんを呼びに行ったけど間に合わなかったよ。
それで大騒ぎになって、それじゃあって、内山校長が、その刀をうちにもってかえったんだ。三日目に、おくさんが死んじゃったんだよ。だから、塚なんてものには、さわるんじゃないって、おりゃあよくいうんだ。(『小山田のむかし』103ページ)


 画像は、現在の忠生小学校の様子です。
 すでに塚の痕跡は残されていないようです。
 果たしてよろい塚はどんな性格の塚だったのでしょうか。。。

<参考文献> 
小山田の歴史を知る会『小山田のむかし』
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第一集』


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  1. 2019/02/08(金) 22:12:20|
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「かぶと塚」

「かぶと塚」

 「かぶと塚」は、町田市忠生3丁目に所在したといわれる塚です。
 このかぶと塚は、すでに開発により削平されて存在しない塚で、『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。しかし、塚にまつわる多くの伝承が現代まで伝えられており、塚の跡地は「かぶと塚公園」として整備され、公園名に塚の名称が残されています。
 画像は、現在のかぶと塚公園の様子です。


「かぶと塚」

 平安時代末期、壮絶な持久戦となった源義賢と義平の戦いは両軍和睦となり、箭幹八幡宮前でお互いに和睦の誓いをしたとされています。この際、戦場となった柄沢北の台地に塚を築き、周辺に散乱していた武具や弓矢を集めて塚の下に納めたといわれ、これがかぶと塚であるとの言い伝えが残されているようです。また、形が兜に似ているから兜塚とも言うともいわれており、一説には古代に築造された古墳だったのではないかとする説もあるようです。
 この付近には、他に「よろい塚」と呼ばれる塚の伝承が残されており、またわずか200mほど北方は、町田市の遺跡番号214番の「馬駈古墳」の所在地です。そして周辺にはさらに複数の塚の存在も伝えられており、古墳の存在も考えられるとても興味深い地域です。

 画像は、かぶと塚公園内の一角にある、正体不明の塚状のマウンドです。町田市により発行された『町田市史』によると「慰霊塔約10メートル西南にある塚は新設されたもので、古くからの「かぶと塚」ではない」と書かれていますので、あるいは破壊してしまったかぶと塚を偲んで造られたものなのかもしれません。
 往時のかぶと塚は、広さ約20平方メートル、高さ3メートルほどの饅頭型の塚だったそうなので、現在ある塚よりもかなり大きな塚だったようです。。。


「かぶと塚」

 『忠生村史』によると、大正3年(1914)にはこの塚上には「忠魂碑」が建立されたようですが、その後昭和30年(1955)頃まで塚は残されていたものの、発掘調査が行われないまま開発が進み、塚は消滅。残念ながら塚の性格は不明なままです。
 かぶと塚公園と道を隔てた北側には、市域旧五ケ町村の碑が集められて慰霊公園として整備されています。塚上に建てられていたという忠魂碑も、この慰霊公園に移されて保存されています。慰霊公園には、昭和46年(1971)に慰霊塔が建立されましたが、その後の老朽化に伴い、塔の高さと外装を変更する改修が行われて現在に至っています。
 画像は、現在の慰霊塔です。


「かぶと塚」

 画像の中央に見えるのが、かぶと塚に建てられていたという忠魂碑と石碑です。


「かぶと塚」

 反対側にも、数多くの石碑がずらりと並んでいます。

 以下、次回の「よろい塚」に続く。。。

<参考文献>
忠生村村誌編さん委員会『忠生村誌』
町田市『町田市史』
小山田の歴史を知る会『小山田のむかし』
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第一集』


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  1. 2019/02/06(水) 02:31:24|
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「こうせん塚」

「こうせん塚」

 画像は、町田市図師町に所在する「こうせん塚」を南から見たところです。
 前回紹介した「乗越八幡跡」と呼ばれる塚から南に200メートルほど、徒歩1分ほどの近距離にあり、同じ丘陵上の尾根沿いに連なるように存在します。どちらの塚にも東京都による木製の案内板が設置されており、乗越八幡跡には「墳丘上の地形や北側の切通し面に見られる土壌の様子から、あるいは古墳ではないかとの説もあります。」と古墳説を唱えているのに対して、こうせん塚の案内板には古墳に関する記述は見られないようです。
 『東京都遺跡地図』には、どちらも塚(または古墳)としての登録はされていないようですが、果たしてこのこうせん塚が、古墳である可能性はないのでしょうか。


「こうせん塚」

 塚の前に設置されている案内板には次のように書かれています。

こうせん塚
 スダジイ(椎ノ木)の大木の根元にある塚は「こうせん婆さん」と呼ばれており小さな石祠には「文政十年(一八二七年)十月、施主天野勘左衛門」と刻まれています。昔、麦こがし(こうせん)にむせて死んだ老婆をまつったもので、咳の病が治まるよう茶椀や竹筒に茶を入れて奉納し祈願するようになったそうです。小野路城の関門があって「通せん場」と呼ばれたのが「関の神」「咳の神」と変したという説や落城のおり、ここで交戦があり、死者を祀った墳墓が「交戦場」と称せられ、その後「こうせん婆」と変じたとする説もあります。 東京都



「こうせん塚」

 ちょっと角度を変えて、東から見たこうせん塚です。スダジイ(椎の木)の大木の根っこが塚の表面を覆っていて、かなりおどろおどろしい雰囲気です。訪れるなら明るい時間をお勧めしたい場所ですね、ここは。


「こうせん塚」

 塚上に祀られた祠の様子。
 小野路町以外に、小山田町や金森にもこのこうせん婆さんの話が伝えられているそうです。

<参考文献> 
多摩市『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板


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  1. 2019/02/04(月) 23:12:38|
  2. 町田市/その他の古墳・塚
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「乗越八幡跡」

「乗越八幡跡」

 今回紹介するのは、町田市図師町に所在する「乗越八幡跡」と呼ばれる塚です。『東京都遺跡地図』によると、この一帯は「小野路ダイ遺跡」として登録されています。縄文時代早期から後期、古墳時代、奈良時代、平安時代の遺跡が存在する複合遺跡で、これまでに縄文土器、石器、土師器、須恵器、陶磁器などが出土しているようです。ちなみにこの乗越八幡跡の100mほど南には「こうせん塚」と呼ばれる塚も現存しているのですが、『東京都遺跡地図』には古墳や塚の登録は見られないようです。
 実は私、7〜8年くらい前に何日かかけて町田市内の遺跡を散策した時期があるのですが、その際にはこの乗越八幡跡とこうせん塚を見落としてしまっていて、ようやく最近になって見学に訪れました。塚は、急な坂を上がった山中にあることがわかっていたので、今回は鶴川駅からバスを利用して野津田高校入口で下車。そこから自転車を組み立てて、山道を塚の場所に向かいました。


「乗越八幡跡」

 道すがら、こうした正体不明の横穴を意外とよく見かけてドキッとします。横穴墓の残骸というわけでもなさそうなのですが、なんのために掘られた穴なんだろう。。。


「乗越八幡跡」

 内部の様子。
 少なくとも人工的に掘られた穴ではないかと思うのですが、謎です。。。


「乗越八幡跡」

 一本道をまっすぐ進むと、やがて切り通しとなっている場所に辿り着きます。この切り通しの南西側が、乗越八幡跡と呼ばれる塚の所在地です。



「乗越八幡跡」

 切り通しの、道が交差して辻になっている地点で振り返ってみたところ。
 画像の右側の、舗装されていない山道を上がった左側に、塚が所在します。


「乗越八幡跡」

 この、辻の角地に、道祖神や庚申塔といった石造物が祀られています。


「乗越八幡跡」

 画像のマウンドが「乗越八幡跡」と呼ばれる塚で、西側から見たところです。
 「乗越」の名称は、峠のように山道が尾根を越える地点につけられることが多く、「八幡」戦の神であることから、小野路城に関連する塚ではないかとも考えられているようですが、古文書類にはこの塚の記録は見られないようです。
 墳丘上の地形や、北側の切り通し面に見られる土壌の様子から、古墳ではないかとも考えられているようです。


「乗越八幡跡」

 東から見た塚の様子です。
 学術的な調査の記録は町田市内の図書館では見つからなかったので、おそらく発掘調査は行われていないのではないかと思われます。塚の性格はわかりませんでしたが、果たしてこの塚は古墳なのでしょうか。
 この塚から、尾根沿いに1〜2分ほど歩いたところに、「こうせん塚」と呼ばれる、同じような規模の塚が所在します。

 以下、次回の「こうせん塚」に続く。。。

<参考文献> 
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明板


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  1. 2019/02/02(土) 02:31:18|
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