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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

稲荷山古墳群 その1「白石稲荷山古墳」-国指定史跡-

「白石稲荷山古墳」

 さてさて、今回から麗しの群馬特集!ということで、群馬県藤岡市白石に所在する「白石稲荷山古墳」の探訪の記録です。

 国指定史跡であるこの白石稲荷山古墳は、藤岡市を一望できる台地の縁辺部に築造されており、後円部の墳頂部には大きな2本の桜の木が植えられています。地元ではお花見スポットとしても知られており、満開になる4月上旬頃には多くの人が観光に訪れています。
 私が訪れたのは4月6日の土曜日でしたが、なんと!八分咲きだった桜がちょうどこの日に満開になったということで、多くの人がスマホを片手に桜を楽しんでいました。

 画像は「白石稲荷山古墳」を、台地から一段下がった南東側から見上げたところです。
 左が前方部、右が後円部という状況です。
 やはり古墳の雄大さを感じるには、台地の下から見上げなければ!


「白石稲荷山古墳」

 なんと美しき、後円部とさくら。
 この角度から見ると、壮大な一本桜に見えるのです!

 実は、私が最初にこの古墳を訪れたのは8年前の9月、つまり桜とは全く無縁な時期だったのです。当時はこの古墳が桜のお花見スポットだとは露知らず、よく調べてから訪れるべきだったと激しく後悔しましたが、以来ずっと再訪できるチャンスを狙っていました。
 なんとかギリギリ、平成最後の年にようやく満開の桜を拝むことができました。

 今回の画像、実は周囲には、多くの桜の写真を撮影している人がいるのです。
 私だけ、人の波が途切れるまでじーっと待っているわけなのですが、変な人だと思われたでしょうね、きっと。笑。


「白石稲荷山古墳」

 墳頂部の様子です。
 もう少し遅い時期を狙ってきて、舞い散る桜吹雪を撮影できたら、それもキレイだったかもしれません。

 石碑とともに、藤岡市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

 国指定史跡
  白石稲荷山古墳
       所在地:藤岡市白石一三六五ほか
       所有者:飯玉神社ほか
 古墳は、鮎川左岸の上位段丘面東端に占地する前方後円墳である。大きさは
全長一七五m、後円部径九二m、くびれ部幅五〇m、前方部幅約一四八m、後
円部高一三・五m、前方部高六mである。昭和8年の調査で、墳頂部から東槨
(全長八・二m、幅九〇cm)、西槨(全長五・三m、幅四〇cm)の二つの竪穴式礫
槨が確認されている。出土遺物は鏡、直刀、装飾品類、石製模造品(石枕・刀
子・案・杵・坩・箕・釧・勾玉・屐など)などのほか家、短甲などの埴輪があ
る。
 本墳は十二天塚古墳や十二天塚北古墳を陪塚とし、五世紀前半に造られた東
日本を代表する古墳の一つで、豊富な副葬品から当時の生活文化を考える上で
極めて重要である。
                           藤岡市教育委員会




「白石稲荷山古墳」

 後円部から前方部を見たところです。
 後円部に比べて、前方部が低い形状が特徴的ですね。
 長年農地として利用されたからか、墳丘の表面がなめらかになっていて墳形がはっきりしません。


「白石稲荷山古墳]

 南西から見た白石稲荷山古墳です。
 左が後円部、右が前方部です。

 この古墳は、昨年の「七輿山古墳」同様に、早稲田大や県立歴史博物館と合同で今年2月26日~3月25日にかけて、デジタル三次元測量や地中レーダー探査による調査が行われています。昭和8年の調査は深さ数十センチまでしかできなかったものの、GPRはなんと地下6メートルまで測定できるそうです。
 この古墳は、昭和8年(1933年)に大規模な発掘調査が行われています。この際、後円部の墳頂部の東西二箇所に竪穴式の埋葬施設が確認されており、直刀や銅鏡、勾玉、家形埴輪や多数の石製模造品が出土しているそうです。
 この二箇所の埋葬施設は、墳頂部中心から外れていることから、さらに下層の中心部に、より古い年代の埋葬施設が存在するのではないかとも想定されているそうです。地中レーダー探査等の非破壊調査により、墳丘の詳細な規模や構造、未確認の埋葬施設などの解明が期待されているそうです。
 現在はまだ、詳細な調査結果は公表されていないようですが、古墳の形状や別の埋葬施設の存在により、古墳の築造時期がさかのぼる可能性もあるようです。
 昨年、「七輿山古墳」で行われた非破壊調査では、国内最大規模ともいわれる横穴式石室の存在が確認されているようですし、調査の結果が楽しみですね。。。

 この写真、実は撮影しているときは古墳の全貌をおさめているつもりだったのですが、帰宅してから空中写真で確認すると、私が撮影している場所も前方部の西角にあたっていました。。。

「白石稲荷山古墳」

 西から見た白石稲荷山古墳。
 墳丘上を歩く人影が、古墳の雄大さを物語ります。


「白石稲荷山古墳」

 北側から後円部を見たところ。
 デカイってのは良いことです!


「十二天塚古墳」と「十二天塚北古墳」

 白石稲荷山古墳の北側には、隣接して「十二天塚古墳」、「十二天塚北古墳」という2基の古墳が存在します。かつては1基の前方後円墳ではないかとも考えられていたようですが、昭和62年(1987)からの3度にわたる範囲確認調査で、別々の2基の古墳であることが判明しています。
 藤岡市のHPによると、「十二天塚古墳」は長軸36.8m、短軸26.8m、高さ2.6mの長方形墳で葺石や埴輪列が巡っています。「十二天塚北古墳」は、長軸23m、短軸22m、高さ2.2mの方墳で、竪穴式の礫槨が確認されています。十二天塚北古墳からは白石稲荷山古墳と同じ竪穴式礫槨が確認され、紡錘車、勾玉、坩などが棺外埋葬で出土しています。
 画像の右手前が十二天塚古墳、中央奥が十二天塚北古墳の所在地となるようですが、墳丘が明瞭な形で残されていないため、よくわかりません。


「白石稲荷山古墳」、「十二天塚古墳」と「十二天塚北古墳」
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=738742&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和35年(1960)に国土地理院により撮影された、白石稲荷山古墳、十二天塚古墳、十二天塚北古墳の所在地周辺の空中写真です。この時代にはまだ方形の十二天塚古墳と、うっすらと円形にも見える十二天塚北古墳の形状を捉えることができます。さらには、白石稲荷山古墳の前方部の形状も確認することができます。
 やはり、かなり広い前方部だったようですね。


「白石稲荷山古墳の埴輪」

 この白石稲荷山古墳と、皇子塚古墳、平井地区1号古墳が所在する毛野国白石丘陵公園のちょうど中間地点に「藤岡歴史館」があり、常設展示にて白石稲荷山の出土品が公開されています。
 画像が円筒埴輪と朝顔型円筒埴輪です。

次回、「稲荷山古墳群 その2」に続く。。。

<参考文献>
群馬県『ぐんま古墳探訪』
東京新聞『TOKYO Web』
現地説明板


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  1. 2019/04/23(火) 02:06:02|
  2. 群馬県の古墳
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  1. 2019/04/22(月) 22:17:38|
  2. 日野市/その他の古墳・塚
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「法界塚古墳」と「梶ヶ谷古墳群」

「法界塚古墳」
「法界塚古墳」

 東急田園都市線梶が谷駅南方の台地上には、かつては多くの古墳が存在したと言われており、「梶ヶ谷古墳群」と呼称されています。今回は、この梶ヶ谷古墳群の探訪の記録です。

 川崎市高津区梶ケ谷2丁目に所在したといわれる古墳が「法界塚古墳」です。『川崎の遺跡』には、「高津区No.63遺跡」として登録されています。

 この法界塚は、田園都市線梶が谷駅の南西400mほどの台地上に所在した古墳で、50mほどの範囲内に3基の古墳が集中していたことから「三ツ塚」とも呼ばれていました。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿」には「方貝塚 村の北の方にあり、五間四方許の地なり」と記載があり、古くから知られた存在であったことがわかります。『橘樹郡案内記』には「法界塚字清水谷と称する北方高台の畑中にあり。高さ十三尺」と書かれていることから、築造当時はかなり大きな古墳だったのかもしれません。
 昭和5年(1930)に発掘調査が行われましたが、この頃にはすでに墳丘を覆っていた封土ははがされ、天井石も取り除かれた状態で横穴式石室が露出していたようです。三浦・房総半島産の房州石で造られたとされる横穴式石室は、全長5.9mの、三室からなる複式構造の石室で、大田区田園調布に所在の「浅間様古墳」rとほぼ同形、同寸であることから、同じ設計者によるものと推定されているようです。
 石室内からは金環2、碧玉小玉3、鞘尻1、腐蝕した人骨や歯十数本の他に、埴輪片などの出土が記録されており、これらの遺物から、古墳の築造は7世紀第3四半期頃で、多摩川下流域でも最終末の石室墳であると考えられています。


「法界塚古墳」

 古墳の跡地周辺は駐車場となってるようですが、地主の尽力により石室はそのまま残され、その上に封土が復元されているそうです。ブロック積みで囲まれた塚上には松の木などが植えられ「法界塚」の石碑が建てられています。
 もっとも、法界塚古墳の所在地は、文献によっては少しずれた地点に記しているものもあり、現在の市民プラザ通り沿いではないかとも言われています。このあたりは今後、発掘調査の進展により解明されるのかもしれません。。。

 塚の前には、「法界塚古墳」なる木製の説明板が設置されています。

 法 界 塚 古 墳
          所在 川崎市高津区梶ヶ谷二丁目七番
 この古墳は、梶ヶ谷古墳群を形成する主要古墳の一つで
七世紀中葉から後半頃の築造とされる。「新編武蔵風土記稿」
によると、村の北の方にあり五間四方ばかりの地なりとある。
また、大正三年発刊の「神奈川県橘樹郡案内記」には、字
清水谷と称する北方高台の畑中にあり、高さ十二尺と記され
ている。これにより同墳は直径九メートル、高さ四メートル
程度の円墳だったと推定される。
 内部主体は、昭和五年に発掘調査されたが、その時には既
に封土は剥がされ、天井石は、取り除かれ、六メートル弱の
横穴式石室が見えていた。そこから人骨(海綿のごとく腐食
していた)や、金環、鞘尻、小玉、歯数十本が出土した。
 なお、同墳の周辺に近年までもう二基の古墳があり、別名
三ツ塚と呼ばれていたとされるが、削平され跡形もない。同
墳のみ、地主中山氏の尽力で、封土を復元しその姿を止めて
いるのみである。
 ここに祖霊を敬い、中山家ご家門の繁栄とJAセレサ川崎
の発展を祈念して、本札を建立するものである。
 平成11年7月吉日
       JAセレサ川崎 代表理事組合長 小泉一郎



「清水谷1号墳(梶ヶ谷1号墳)」
「清水谷1号墳(梶ヶ谷1号墳)」

 画像は、川崎市高津区梶ケ谷2丁目の「清水谷古墳(梶ヶ谷1号墳)」の跡地周辺の様子です。「法界塚古墳」から北に40mほどの距離を置いて存在したという2基の古墳のうちの1基です。
 昭和42年(1967)に発行された『川崎市文化財調査集録 第3集』には、「西側の古墳(第一号墳)は、高さ二・八メートル、直径一五・五メートルの円墳であるが、東西両裾を大きく削りとられて、今では楕円形に近い形状を呈している。墳頂部も若干削平された痕跡がある。」と、当時すでに耕作などにより大きく削平されていた状況が記されています。
 古墳は昭和40年代の前半には区画整理事業により削平され、この際に遺構や遺物の出土は無かったといわれているようですが、その後に畑地となった地表には粘土塊等が散見されたそうです。
 
 画像は、「清水谷古墳(梶ヶ谷1号墳)」の跡地周辺の様子です。
 開発の進んだこの場所に古墳の痕跡は見られないようです。。。。
 

「清水谷2号墳(梶ヶ谷2号墳)」
「清水谷2号墳(梶ヶ谷2号墳)」

 画像は、川崎市高津区梶ケ谷2丁目の「清水谷古墳 2号墳(梶ヶ谷2号墳)」の跡地周辺の様子です。「法界塚古墳」から北東に40mほどの距離を置いて存在したという古墳です。
 昭和42年(1967)に発行された『川崎市文化財調査集録 第3集』には、「東側の古墳(第二号墳)も今ではすっかり破壊されてしまい築営当初の面影はない。現在の規模は、高さ二・一メートル、墳径七・五メートルあまりある。」とのみ書かれており、当時すでに耕作などにより破壊が進んでいた状況が記されています。
 この古墳も、清水谷1号墳と同様に昭和40年代の前半に行われた区画整理事業により消滅したようですが、この際に石棺に使用されたと考えられる切石の一部が出土していたといわれています。遺構や遺物の出土は無かったといわれているようですが、その後に畑地となった地表には粘土塊等が散見されたそうです。
 
 画像は、「清水谷古墳 2号墳(梶ヶ谷2号墳)」の跡地周辺の様子です。
 現在は駐車場となっているこの場所に、古墳の痕跡は見られないようです。。。。


「未確認古墳」
「梶ヶ谷古墳群 未確認古墳」

 画像の周辺にも、未確認の古墳が1基存在したと言われています。
 墳丘の規模はさほど大きくなかったようですが、昭和35年頃までは残されていたようです。
 埋葬施設や遺物等についても不明で、詳細のわからない古墳です。

<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(一)」『川崎市文化財調査集録 第3集』
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』
村田文夫『古代の南武蔵』
村田文夫『川崎・たちばなの古代史』


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  1. 2019/04/21(日) 23:48:36|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「宮崎大塚古墳」と「宮前区№120 無名古墳」

「宮崎大塚古墳」

 画像は、川崎市宮前区宮崎に所在する「宮崎大塚古墳」を東から見たところです。宮前区の№28遺跡として登録されています。

 この古墳は、かつては径25m、高さ5.5mの円墳であるととされていたようですが、平成2年(1990)2月に行われた測量調査により、の墳丘測量調査により、南北辺約27.2m、東西辺約24.8mm、高さ約4.7mの方墳であることがわかっています。
 埋葬施設や周溝については未調査であることから不明ですが、古墳に見られる版築状の封土は確認されず、3本のトレンチの最下部はいずれも黒褐色土が厚く堆積していたようです。この調査結果からすると、宮崎大塚は古墳ではなく塚なのではないかとも考えられますが、真相はまだわからないようです。
 

「宮崎大塚古墳」 

 南西から見た宮崎大塚古墳です。
 遺存状態は良好であるようですが、南西側がアパートの建設により削平されており、また南側も道路により若干削られているようです。


「宮崎大塚古墳」

 墳丘頂部の様子です。
 地元の古老によると、第二次世界大戦中は、この場所に高射砲の陣地が敷かれていたといわれています。現在は、宗教法人による石碑が建立されています。


「宮崎大塚古墳」

 墳頂部の石碑です。
 塚の場所は私有地であるようですが、市民の参詣の場として公開されており、親しまれているようです。。。


「宮前区№120 無名古墳」

 宮前区の宮崎地区にはもう一箇所、古墳が存在したとされる場所があるようです。画像は、宮前区宮崎5丁目の、かつて高塚古墳が存在したとされる周辺です。
 『川崎の遺跡』や、ネットで公開されている『ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム』には、「宮前区№120遺跡」として登録されている、名称のない古墳です。
 東に延びた台地の先端部に存在していたというこの古墳は、昭和の初期までは墳径約10m、高さ約2mほどの墳丘が残されていたそうですが、その後の区画整理事業により発掘調査が行われないまま消滅。詳細が全くわからない古墳です。
 南北に走る道路がわずかに「く」の字に折れ曲がっているあたりは、ひょっとしたらかつて古墳が存在した名残なのかもしれませんが、これも真相はわかりません。。。
 
<参考文献>
野中和夫「川崎市宮前区宮崎大塚古墳測量調査報告書」『川崎市文化財調査集録 第28集』
高津図書館友の会郷土史研究部『鎗ヶ崎遺跡発掘調査報告書』


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  1. 2019/04/19(金) 00:14:08|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「片平富士塚」

「片平富士塚」

 「片平富士塚」は、川崎市麻生区片平748番地に所在する古墳です。

 この片平の富士塚は、江戸後期に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』の片平村の項に記述が見られ、「村の西にあり、その由来を伝えず、二間四方ばかりの塚なり』と書かれているようです。その存在はかなり知られていたようですが、当時からそれほど大きな塚ではなかったようです。

 この片平富士塚は、測量調査が行われています。現状の墳丘は、東側から北側にかけては比較的きれいな弧を描くのに対して西側では楕円形状となっており、規模は、長軸で23m、短軸で約18mを計ります。築造当初は、直径約18m、高さ約2.2mの円墳だったと推定されているようです。
 この古墳は、後世の塚である可能性も指摘されており、発掘調査が行われていないことから詳細のわからない古墳です。

 実はこの古墳は7年くらい前に一度訪れてみたのですが、当時のこの敷地は銀行の更生施設で、施設自体がお休みの日だったのか古墳を間近で見学することはできませんでした。すぐに再訪すればよかったのですが、6年以上経って昨年終わりころに訪れたところ、敷地はJR東海の事業用地として売却されており、グラウンドは閉鎖。結局、以前と同じ場所で同じ角度から写真を撮るという体たらくとなりました。(涙)
 丘陵頂部が古墳の所在地です。。。


「片平富士塚」

 画像中央の木立のあたりが古墳の所在地と思われます。

 この近辺に、以前から気になっていたお蕎麦屋さんがあって、富士塚の見学後に食べに行こうと思っていたのですが、営業はお昼までということで閉まっていました。
 よく調べていかないからこういうことになるのですが、お店の人に「ありがとうございます、またいらしてくださいね」と優しく声をかけていただいて、泣けました。
 お蕎麦、必ずいつか食べに行きます。

<参考文献>
佐藤善一・伊東秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
野中和夫・赤堀岳人「川崎北西部に分布する古墳の概況」『川崎市文化財集録 第41集』
柿生郷土史料館『柿生文化 第61号』


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  1. 2019/04/17(水) 23:06:59|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「高石経塚遺跡(旧高石古墳)」

「高石経塚遺跡(旧高石古墳)」

 今回は、川崎市麻生区高石1丁目にかつて所在した、「高石古墳」の跡地見学の記録です。この遺跡は、小田急線百合ヶ丘駅の北東約400mに位置しており、高石神社を最高点とする標高108mほどの西に延びる尾根上に存在していました。
 画像は、百合ヶ丘駅北口から高石古墳の所在地である丘陵上を見上げたところです。丘陵頂部の森が高石神社で、この左側あたりが高石古墳の所在地です。


「高石経塚遺跡(旧高石古墳)」

 周辺一帯は宅地化が進み、閑静な住宅街となっていました。
 古墳探訪はとにかく坂道との闘いで、川崎市内も噂に違わぬ丘陵地帯ですので、ひたすら坂道を上ったり下がったりすることになるわけですが、思えば古墳探訪を始めた頃はダイエットも兼ねていたはずなのですが、全く痩せていないなあ。。。


「高石経塚遺跡(旧高石古墳)」

 遺跡の所在地の現在の様子です。
 この遺跡は、昭和63年(1988)に行われた、川崎市内の古墳の現状確認調査により把握されており、この時点では古墳であると認識されていたようです。『川崎市文化財調査集録』によると、高さ25m、径10mほどの塚状の地形が確認されており、調査当時にすでに開発が進んでいたもののこの場所だけが取り残されたような状態で残されており、墳丘には数本の古木と篠竹が生い茂っていて立ち入り難い状況であったようです。
 その後、この地点の開発計画が進み、平成3年(1991)7月から8月にかけて発掘調査が行われます。調査の開始にあたり、大小2基の高塚が確認されたことから、大きい高塚を1号墳、小さい高塚を2号墳とするも、調査の進展により2基の塚であることが判明したことから、遺跡の名称は「高石古墳」から「高石経塚遺跡」へ、「1・2号墳」を「1号塚・2号塚」と変更されています。
 1号塚からは、墨書された2,223点もの礫が出土しており、経塚は「法華経」の全巻を埋納するこのを念頭において築造された一石経塚で、築造時期は江戸時代にあたる17世紀の中頃前後と推定されているようです。


高石神社

 帰りがけに、高石神社を参拝してきました。
 この神社は古くは伊勢宮と称し、この付近一帯は「お伊勢の森」と呼ばれていたようです。明治6年(1873)に村社と定められ、大正10年(1921)10月に熊野神社が、同年11月に御嶽社、春日社、富士浅間社、八幡社が合祀されていますが、この際に、民家が社殿の後ろにならないように配慮して、東向きだった社殿を南向きに改められているそうです。
 ちなみに、この神社の北西約800mほどの「御嶽神社細山分社」周辺に存在した2基の経塚について、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に記述が見られ、「西南の方にあり、この塚あるを以て小名をも経塚とよぶ、古塚相對して二つあり、いづれも周廻十三間餘高さ六尺ほど、上に古松一株をうえたり、思に古き世の人の墳墓と見へたれど別に傳ふることなし、塚上より望めば都筑郡の山々及び秩父の武甲多磨の御嶽、小佛高尾相州の丹澤箱根等の諸峯宛然として眼中にあり、ことに快晴の時は南方の海上をも見わたして眺望いとよし。」と書かれています。この塚は地名の由来ともなっていたようですが,昭和43年(1968)に行われた調査では、経塚と断定される資料は発見されなかったようです。
 高石の経塚に関しては、『新編武蔵風土記稿』には記述は見られないようですが、とても興味深いところです。。。
 

高石神社
 
<参考文献>
佐藤善一・伊東秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
高石古墳発掘調査団『高石経塚遺跡発掘調査報告書』
株式会社タイムアートデザイン『麻生区の神社と寺院』


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  1. 2019/04/11(木) 00:50:41|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「登戸富士塚」

「登戸富士塚」

 今回は再び、川崎市内の低地の古墳ということで、川崎市多摩区登戸に所在する「登戸富士塚」の探訪の記録です。
 画像は「登戸浅間社」を北西から見たところで、この神社の境内に、古墳であるとされている「登戸富士塚」が存在します。


「登戸富士塚」

 画像が、登戸浅間社境内に所在する「登戸富士塚」です。
 小田急線向ヶ丘遊園駅の東400mほどに位置する、沖積地に築造された古墳であると云われている塚で、多摩区の№14遺跡として登録されています。この付近の小字名も「富士塚」と称されるなど地名の由来ともなっている古墳で、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の登戸村の項にも「村の巽の方にあり、わつかなる祠にて社地塚の如く一の丘をなせり」と記されています。
 昭和61年に行われた改修工事により古墳の周囲が3段に渡って石積みが行われており、古墳の規模は径17m、高さ2.2mで、円墳であるとされています。


「登戸富士塚」

 墳丘上の様子です。墳丘頂部は平らに削平されており、浅間社が祀られています。
 安産の神として地元では深く信仰する人も多く、日清日露の戦役の際、この神社に参拝した出征兵士には戦死した者がいないとも云われ、第二次世界大戦の際には、登戸村の中で富士塚の戦殉者が最も少なかったとも云われているそうです。


「登戸富士塚」

 南西から見た、登戸富士塚のようすです。石積みの上の円形の塚が古墳なのではなく、敷地全体が古墳だったようにも見えますが、かなり大きな古墳だったのかもしれません。
 ちなみに、戦前のこの一帯は水田だったそうですが、現在は開発が進み、びっしりと住宅やマンションが立ち並んでいます。(10年くらい前に生田緑地に遊びに行った帰りに、この一帯でかなり盛大なお祭りが行われていて、あれは楽しかったな。。。)


「登戸富士塚」

 南東から見た登戸富士塚のようすです。
 世田谷通りから多摩川を渡るとそこは東京都狛江市で、かつて百塚と呼ばれたほどの大古墳群が造営された地域です。


「登戸富士塚」

 ちょっと気になったのが、登戸富士塚の東側に隣接する駐車場に稲荷の祠が祀られているのですが、周囲より一段高い塚の上にあり、ひょっとしてここも古墳跡なのでは?と勘ぐってしまいます。。。

 つい先日、人に時間を訪ねるのに「今何分?」と聞いたら「5分前です!」と返ってきたのですが、これがもう「古墳前です!」にしか聞こえないんですよね。そういえばちょっと前に、TVのニュース番組でキャスターが「本格的な花粉シーズンの到来です!」って言っているのを聞いて、「古墳シーズンの到来かあ…」と遠い目をして呟いてしまったのですが、もう引き返せないですかね?

<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財調査集録 第4集』
佐藤善一・伊藤秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』


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  1. 2019/04/09(火) 00:46:58|
  2. 川崎市の古墳・塚
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「菅古墳」

「菅古墳」

 今回は「菅古墳」の見学の記録です。
 多摩区№43の遺跡として記載されている古墳で、小田急線読売ランド前駅北北西約300mの、北西から南東方向に伸びる丘陵の先端部に位置しています。


「菅古墳」

 画像は、読売ランド前駅から、古墳が残存する丘陵を見上げたところです。この丘の奥に「菅古墳」が所在します。


「菅古墳」

 大きな茅葺き屋根の邸宅が駅の目の前に存在していてびっくりします。
 昔、鶴川街道を車で何度か通過していてその存在には気がついていたのですが、この日は徒歩で、初めて近くで見ることができました。向ヶ丘遊園の「生田緑地」内に茅葺き屋根の古民家が20棟以上展示されており、以前一度見学したことがありますが、ここは移築された古民家園などではなく、個人の民家として住まわれているようです。茅葺の職人はかなり少なくなっていると聞いたことがありますし、意地や管理も大変なのではないかと思いますが、最近はなかなか見られなくなった、貴重な風景です。。。


「菅古墳」

 実はこの日、読売ランド前駅で2年ぶりくらいで、知人とバッタリと再会しました。
 わずかな時間ではありましたが、笑顔で話すことができて、ちょっとテンションが上がっています。
 いよいよ菅古墳に向かって坂道を上りますが、軽快な感じ(うそかも)。
 坂道は古墳探訪には付き物ですね。笑。


「菅古墳」

 坂を登りきったあたりにも立派な邸宅を発見。
 突き当たりを道なりに右に曲がります。


「菅古墳」

 ここから、舗装されていない遊歩道に入ります。


「菅古墳」

 左にフェンスを見ながらまっすぐに進みます。


「菅古墳」

 そのまま尾根沿いを真っ直ぐに進みます。
 古墳の場所まで登り続けるのかなと思いきや、途中でいったん下ります。
 菅古墳の所在地までもう少しです。


「菅古墳」

 再び登ります。
 右側にフェンスが見えたら、その奥が菅古墳です。


「菅古墳」

 この丘の頂部に菅古墳が所在します。
 この山林の中では、古墳の周囲の下草が刈られており、整備されている様子がうかがえます。


「菅古墳」

 あった〜。
 これが菅古墳です。標高は106mに位置しており、丘陵の先端側にあたる東・南側で勾配が大きく、遠方から眺望した際に古墳がより壮大に見えるように造られているそうです。
 古墳にはカシやヒイラギの大木が樹立しており、墳形はかなり損なわれているようです。最新の測量調査では、東西約5.5m、南北約4,5~5,0m、高さは80cmで、円墳以外に方墳の可能性も考えられているようです。


「菅古墳」

 ちょっと角度を変えて、西から見た菅古墳。


「菅古墳」

 古墳の南麓中央部には、「慶長16年(1611)、元和8年(1622)、施主原田平左衛門」と刻まれた石碑が建てられています。
 菅古墳は、発掘調査が行われていないため、埋葬施設や周溝などの詳細や築造年代については不明とされています。かつて古墳ではないかと考えられていた麻生区高石所在の「高石古墳」は、発掘調査の結果、一字一石経塚であることがわかっています。この菅古墳についても、同様に信仰塚の類である可能性も指摘されているようです。
 実際に見学して見た感じは、古墳ではなく塚なのではないかという印象も持ちましたが(あくまで素人考えですが)、真相を知るには今後の調査の進展を待つよりほかなさそうです。。。
 
<参考文献>
佐藤善一・伊東秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
野中和夫・赤堀岳人「川崎北西部に分布する古墳の概況」『川崎市文化財集録 第41集』


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  1. 2019/04/07(日) 23:58:51|
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「東生田緑地内新発見古墳」

「東生田緑地内新発見古墳」

 川崎市多摩区枡形4丁目、多摩区市民健康の森である東生田緑地内に所在する2基の古墳が「多摩区No.63遺跡」です。この古墳の存在が把握されて、調査が行われたのは平成20年5月とかなり最近のことであるようです。『川崎市埋蔵文化財年報』には「東生田緑地内新発見古墳」という名称で報告されており、東側の古墳が「1号墳(仮称)」、西側の古墳が「2号墳(仮称)」とされています。
 この2基の古墳の南側には、「東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線」という主要地方道が走っています。通称「世田谷通り」ですね。この道路と平行するように、古墳が所在する丘陵も西から東へと伸びており、丘陵の東側には「生田根岸古墳群」と呼ばれる5基の円墳が現存しています。

 画像は、「1号墳(仮称)」の様子です。
 この場所に古墳の石室、もしくは石棺の一部と想定される泥岩の切石が露出していることが確認されたようです。現状行われた調査によると、この泥岩の切石で組んだ施設は石室ではなく、石棺である可能性が高いと考えられているようです。
 現在は農道沿いに木製の塀が設置されて保護されており、古墳の場所には篠竹がびっしりと生い茂っていて藪となっていることから、この埋葬施設を確認することはできませんでした。


「東生田緑地内新発見古墳」

 画像は、「2号墳(仮称)」の様子です。
 1号墳、2号墳ともに、墳丘らしき高まりが残されているようにも見えるのですが、この体積土層が古墳のものであるのかどうかは明らかにされていないようです。
 周辺の地形から考えても、周辺に未発見の古墳が存在する可能性は高いのではないかと思われますが、「生田根岸古墳群」とともに今後の調査の進展が楽しみな地域ですね。
 
<参考文献>
川崎市教育委員会生涯学習部文化財課『平成20年度 川崎市埋蔵文化財年報』


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  1. 2019/04/05(金) 00:04:53|
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「生田根岸古墳群」

「生田根岸古墳群」

 今回は、川崎市多摩区枡形2丁目に所在する、「生田根岸古墳群」の見学の記録です。
 この古墳群は、小田急線向ケ丘遊園駅の西方約700m、多摩川の沖積低地に臨む東西に延びる細長い丘陵の先端部にあり、南麓近くには五反田川が東西の方向に流れています。標高約56mほどの丘陵上には、1号墳から5号墳まで5基の古墳が残存しています。
 画像は、この根岸古墳群が所在する丘陵を、古墳群から200mほど東方にあたる、府中街道の「多摩警察署前」の交差点から見たところです。


「生田根岸古墳群」

 早速、根岸古墳群を見学してみましょう。
 古墳の所在地である丘陵は現在も個人の所有地であるようですが、竹林の中には遊歩道が設けられており、古墳を見学することができます。ちょっとわかりにくいですが、開発の進んだ住宅街の一角に遊歩道の入口があり、ここから山を登ります。竹林は、生田根岸古墳の杜保全会により定期的に整備されており、私が訪れた日にも遊歩道柵の補修と竹林間伐が行われていました。


「生田根岸古墳群」

 この古墳群は、昭和26年(1951)に一度、発掘調査が行われています。
 県道の敷設工事により、古墳群の所在する舌状台地の東端部を切取作業中に、古墳の礫槨が露出。当時専修大学の助教授であった森幸一氏により発掘調査が行われたもので、当時この古墳は「根岸古墳」と呼称されています。当時の記録が書かれている『川崎史話』には
 「昭和26年8月、生田の県道を広げるため多摩丘陵の先端をけずり取っているうちに、思いがけず古墳の一つがほりくずされました。それにつづく円墳は地元の専修大学によって発掘されて、根岸古墳と称され祝部土器や直刀の断片がでました。もとはここのすぐ下を多摩川が流れていたので、きれいな玉石をつんで槨をこしらえているのが特徴です。」
 とあり、この文献からすると、古墳は2基存在したのではないかとも考えられます。

 また、『川崎市文化財調査集録 第38集』に収録の「根岸古墳出土遺物について」によると、
 「調査を行なった古墳の数は露出礫槨墳と接続する小円墳を別々の古墳ととらえれば2基、露出礫槨を小円墳の羨道部ととらえれば1基となる。」
 としているようですが、『川崎市文化財調査集録 第24集』に収録の「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」には
 「地主の金子一雄氏によれば、昭和26年に県道拡張工事のための土取り作業中、丘陵斜面から副葬品こそ発見されなかったが、古墳の内部構造と思われる礫床が検出された。これがきっかけとなって、破壊の可能性があった現在の1号墳の発掘調査が、専修大学の森教授によって行われた。」
 と書かれています。
 おそらく、土取りにより消滅した1基が「根岸古墳」、さらに調査が行われた古墳は現在の1号墳ということになるのではないかと思われますが、ちょっとややこしいですね。。。
 この発掘により、大刀4振や鍔、須恵器程瓶が出土しており、この遺物から古墳は6世紀後半頃の築造と推定されているようです。


「生田根岸古墳群」

 画像が、「根岸古墳」の跡地と思われる周辺のようすです。おそらくは、この平坦になったあたりまで丘陵の東端部が伸びていて、その台地上に根岸古墳が存在したものと思われますが、すでに台地ごと削り取られており、古墳の痕跡は見られません。。。


「生田根岸古墳群」

 削り取られて急な崖となった様子です。
 崖の斜面にまで竹が茂っているあたりは、時間の流れを感じますね。


「生田根岸古墳群」

 さらに、竹林の中の道を進みます。
 丘の上に、5基の古墳が残存するはずです。


「生田根岸古墳群」

 画像は、残存する「1号墳」と思われる古墳です。
 残念ながら遊歩道の内側は立ち入り禁止なので確認することができないのですが、この墳丘のさらに東にもう1基存在するようであれば、画像の墳丘は2号墳ということになりますが、ここまで歩いてきた距離感と、この古墳の西側にもう1基、古墳らしき高まりが見られることから、画像の高まりが1号墳ではないかと思われます。径11.5m、高さ1.6mの小円墳です。


「生田根岸古墳群」

 伐採された竹が積まれていてわかりにくいのですが、画像が2号墳ではないかと思われるマウンドです(多分)。1号墳の西側に隣接して築造された古墳で、径11.3m、高さ1.6mの小円墳です。


「生田根岸古墳群」

 画像が3号墳です。この古墳も1号墳と同様に遊歩道から距離があるために見学し難いのですが、4号墳と5号墳の間にひょっこりと顔を出す、3号墳の墳丘の一部を垣間見ることができます。東西径14m、南北径14.8m、高さ1.8mの円墳で、丘陵南斜面に築造されています。墳丘の傾斜と地山の傾斜が一致していることから、南側から見上げると古墳はより壮大に見えるのではないかと思われます。


「生田根岸古墳群」

 画像が4号墳です。3号墳のすぐ北側に位置しており、東西径18.5m、南北径19m、高さ2.2mと残存する古墳群中最大の古墳です。遊歩道沿いに存在するため、間近で見学することができます。


「生田根岸古墳群」

 画像が5号墳です。4号墳の北に位置する古墳で、径10m、高さ1.1mの小円墳です。


「生田根岸古墳群」

 生田根岸古墳群で残存する古墳は、ここまで紹介した5基ということになりますが、5号墳からさらに西に少々歩いた遊歩道沿いにもう一箇所、古墳ではないかとも思われる高まりが存在するようです。画像は、その高まりを北西から見たところです。
 竹垣がマウンドを貫いているためにわかりにくいのですが、とても怪しい高まりです。


「生田根岸古墳群」

 古墳らしき高まりを東からみたところです。こちらからみると、右奥が後円部、左手前が前方部という前方後円墳ではないかとも思えるのですが、これはちょっと考え過ぎかもしれませんね。笑。
 未確認の古墳が発見される可能性も考えると、今後の調査の進展が楽しみな古墳群です。。。


「生田根岸古墳群」

 最後に「三峯神社」で参拝。
 この場所も、わずかに小高くなっているようにも見えて、ひょっとしたら古墳の後なのではないかとも妄想してしまいますが、可能性はないのかな?

 生田根岸古墳群の所在する丘陵は、「東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線」という主要地方道によって東西に分断されていますが、この道路の西側にも2基の古墳が発見されています。

 次回、その「東生田緑地内新発見古墳」に続く。。。
 
<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財調査集録 第4集』
佐藤善一・伊藤秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
土生田純之・浜田晋介・小林孝秀「根岸古墳出土遺物について」『川崎市文化財調査集録 第38集』


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  1. 2019/04/04(木) 03:53:37|
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