
「有馬古墳」は、川崎市宮前区東有馬5丁目に所在する古墳です。
宮前区の№16遺跡として登録されている古墳で、県営有馬団地の南西側、たぬき公園内に保存されています。
画像は、この有馬古墳を南東からみたところです。
『新編武蔵風土記稿』にはこの古墳について「大塚村の東にあり、よほど高き塚なり、土人も何人の塚なることを伝へず、又古の一里塚なりともいへり、それをいかにと云び此所より馬絹村の方へ古道ありて、此塚其路傍にあたりと云、されど其慥なることを知らず」とあり、古くから知られた存在ではあったものの、塚の由来等は伝えられていなかったようです。

埋葬施設や周溝等の詳細は不明ですが、平成元年度の実測調査により、南北径26.5m、東西径25.5m、高さ4.2mを測り、川崎市内に残存する古墳の中ではかなり良好な状態で残されているようです。

かつてのこの古墳の周辺は畑地として利用されていたようですが、古墳に触れるとたびたび祟りがあったことから、近寄らなかったという伝承が伝えられているようです。

墳頂部の様子です。稲荷の祠が祀られています。
祟りの伝承があったからか、墳丘を覆う大木と背丈ほどもある藪で荒れ果てていたようですが、現在はキレイに整備されて、地元の人により祀られているようです。
<参考文献>
伊藤秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財調査集録 第4集』
川崎市教育委員会社会教育部文化課『川崎市文化財調査集録 第27集』
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- 2019/05/29(水) 23:48:13|
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さて、今回は川崎市宮前区に所在する「野川古墳群」の探訪の記録です。
この古墳群は、影向寺台西側の台地上、南に伸びる舌状台地上に存在したという古墳群で、江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「古は古塚十三ありしと云、今は其状のみ残れり、中古此所より甲冑の朽しものを掘出せしと云、」と記載されています。その全てが古墳であったかどうかは、ほとんどの塚が消滅してしまった現在では知る由もありませんが、少なくとも江戸時代には13箇所の塚の痕跡が残されていたということで、この地域にかなり多くの古墳が存在したことは間違い無いようです。
画像は、唯一残存する1基、「野川1号墳」を南からみたところです。

画像は、東から見た野川1号墳です。
平成元年(1988)に発行された『川崎市文化財調査集録』には、当時行われた、古墳の調査記録が掲載されており、「高さ2.4m、径15m余りの小円墳で、裾の部分が耕作によって若干削られている他は、遺存状態は比較的良好である。古墳のすぐ脇まで、人家が押し寄せてきている。」と書かれています。この古墳の状況と規模は、現在もあまり変わらないように見受けられますが、周辺の宅地開発はさらに進んでいます。
そして、その後の平成22年(2010)、古墳の西側にあたる、野川北耕地遺跡第2地点にて行われた発掘調査では、古墳の周溝と考えられる溝状遺構が検出されており、土師器や須恵器などの遺物が出土しています。どうやら古墳であることは間違いないようですね。

画像の周辺に「野川2号墳」が存在したようですが、宅地開発により残念ながら古墳は消滅しています。昭和42年(1967)に発行された『川崎市文化財調査集録』には、まだ残存した当時の2号墳の様子が記されており、「高さ3.7メートル、墳径16メートルの円墳で、西側の約四分の一は、既に私道によって切断されてしまった。」と書かれています。
1号墳、2号墳ともに葺石や埴輪は認められなかったようです。
この古墳は、地元の人のお話によるとなんらかの調査は行われているようなのですが、調査記録が載せられている報告書は見つけることができませんでした。

「野川3号墳」は、画像の舌状台地上に所在したといわれています。
昭和42年(1967)発行の『川崎市文化財調査集録』には、「野川ゴルフ練習所前古墳」の名称で、残存当時の古墳の様子が記されています。調査当時、かなり古墳の破壊は進んでおり、高さ2.6m、南北径16.7mの規模が残されていたようですが、元はかなり大きな古墳であったと推測されています。塚上は、南北4メートル、東西3メートルの方形の平坦地があり、20余の石塔がコの字型に配列されていたようです。
古墳はその後、ゴルフ場の拡張により削平されてしまったようです。

台地上の、3号墳の跡地の様子です。
既に平坦に整地されており、古墳の痕跡は見られませんでした。。。

「野川3号墳」は、1号墳や2号墳の所在地とは若干の距離があり、同じ古墳群に属していて良いものか疑問に思われるのですが、もう1基、野川古墳群に属していても良いのでは?とも思われるのが「北根古墳」です。
この古墳は、川崎市宮前区野川に所在したとされる古墳で、昭和39年(1964)に行われた整地工事により消滅してしまったようですが、存在が確実視されており、『川崎の遺跡』には宮前区のNo.8遺跡として登録されています。
この古墳の発掘調査は行われなかったようですが、当時の様子や遺物を実見したという新井清氏により詳細が報告されています。この記録が記載されている、昭和41年(1966)に発行された『考古たちばな』によると、古墳は鶴見川の支流である矢上川の形成谷の北側、細く南西に突き出た丘陵の突端に地形を利用して築造されており、規模は径20mほどの円墳であったとされています。墳丘の中心より北東にやや外れた場所からは直刀1振が、また墳丘の南西裾付近から土器が2点出土しています。
この直刀は残念ながら散逸して残されていないようですが、土師器が現存しており、古墳時代初期に造られたものであると考えられているようです。
画像は、北根古墳の跡地周辺の様子です。宅地化が進み、古墳の痕跡は全く残されていないようです。。。
<参考文献>
新井清「川崎市野川 北根古墳」『考古たちばな』
川崎市教育委員会「川崎市の古墳(一)」『川崎市文化財調査集録 3』
川崎市教育委員会「川崎市内の高塚古墳について」『川崎市文化財調査集録 24』
川崎市教育委員会生涯学習部文化財課『平成27年度 川崎市埋蔵文化財年報』
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- 2019/05/25(土) 02:27:07|
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今回は、川崎市高津区新作に所在したとされる「新作古墳」の探訪の記録です。
この古墳について書かれた文献はあまり多くはないのですが、平成元年に発行された『川崎市文化財調査集録 第24集』には、「現在高さ50cm余りの盛土があって、わずかに古墳の痕跡をとどめている。(中略)もとは2基あったが、戦時中の食糧難時代に、2基とも掘り崩して畑にしてしまったとのこと。その際出土した遺物も今は無く、当時の状況を知る手がかりは何も得られなかった。」と書かれています。
同書には、古墳の所在地を記した分布図が掲載されており、これを参考にすると、画像の左奥の林になっているあたりか、その右手の宅地となったあたりが古墳の所在地ではないかと思われるのですが、正確な場所は突き止めることができず、果たして「高さ50cm余りの盛土」が現在も残されているのか、確認することはできませんでした。
この古墳を含む、かつての「新作村」にはかなり多くの古墳が存在したと伝えられており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にはとても興味深い記述を見ることができます。
「古塚 四か所あり、一は村の南字田畑の上にあり、此塚六七年前農人誤て鋤を入しに、土崩れて坑開け、中より古陶器二つ徳利の如き形のものを出せり、其の穴をのぞむに、土の方左右へ青石を建てるさま櫃の形なり、土人その石の内三枚を出して、今四間の橋とせり、一は村の南野川村境にあり、弁天塚と呼ぶ、上に弁天の社ある故なり、塚の廻り二十八九間もあるべし、近きころ土人掘穿ちしに子蛇出て足に噛付しゆへ、恐れて闇にしなど奇怪の語あり、是も内より徳利の状にて硝子の如くすき透り、其色いとうるはしきもの出しとぞ、一は同塚の東の方にあり、今は七八坪許にてわづかにその状を遺せり、これも農耕の妨げなりとて先年堀崩せしに、崇寧通宝の古銭あまた及び矢の根三寸ばかりなるもの出たり、その数をひたたしきことなりと云、又大刀四振長刀二柄、鎧のさねをよひ金具まはりの朽たるもの、冑の天空の金物の如きもの出たり、これらをあつめ俵にして埋みしと云、一は字田畑の上にあり、これも甲冑の朽しものなどありしと云、この外仏手台と云所に二つほどありしが、これは皆掘崩して今は平地となれり、何れも故ある人を葬りし所とみえたり」
「土の方左右へ青石を建てるさま櫃の形なり」とはおそらく埋葬施設について書かれたものであり、その内の三枚、おそらくは天井石が石橋の材料として流用したことが書かれています。また、ほかの古墳から、「大刀四振長刀二柄」や「甲冑の朽しもの」等の遺物が出土したことも書かれています。
かつてのこの一帯には、かなり多くの古墳が築造され、古墳群が形成されていたものと考えられますが、果たして痕跡は何も残されていないのでしょうか。
また、「仏手台と云所に二つほどありし」と、ほかに2基の古墳の伝承も記されているようですが、これは新作八幡台遺跡の所在する台地上のことではないかと思われますが、これは江戸時代にはすでに消滅していたようです。

よくわからなかったのが、川崎市教育委員会より発行されている、最新の『川崎の遺跡 2012』や、ネットで公開されている『ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム』には、この場所に古墳の登録が見られないのですが、南東200mほどの地点に「高津区No.78遺跡」として2基の古墳が登録されており、近年発行されている発掘調査報告書等に記載されている分布図では、この2基を新作古墳としているようです。
この場所も訪れてみました。
画像は、民家の庭先で築山となっているマウンドです。ガイドマップかわさきの位置情報とは多少のズレはみられるのですが、これが古墳ではないかと思われます。
実は、このお宅の御主人にお話を聞くことができたのですが、これはあくまで庭の築山で古墳ではないとのこと。かつて所有していて、現在は手放したという土地に古墳があったが、調査が行われたのちに削平され、いまは一軒家の下敷きになっているョ、とのことでした。この削平された古墳とは、おそらくは野川2号墳のことではないかと思われるのですが、新作古墳についての真相は残念ながらわかりませんでした。。。

ちょっと画像では見難いのですが、敷地のさらに奥にも、わずかながらの高まりが垣間見られました。
実際に古墳が残存するのかどうか不明ではありますが、『川崎の遺跡』や『ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム』に掲載されているもう1基も、なんらかの痕跡が残されているのかもしれませんが、こちらも詳細はわかりませんでした。
うーん。今回は、痒いところに手が届かない感じになってしまいましたね。。。
<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(一)」『川崎市文化財調査集録 第3集』
佐藤善一・伊東秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
村田文夫『川崎・たちばなの古代史』
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- 2019/05/23(木) 23:45:05|
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画像は、川崎市宮前区馬絹にある「馬絹神社」です。
この神社の祭神は伊邪那美命で、応神天皇、大山祇命、菊理姫命が合祀されています。創建年は江戸元禄以前で詳細は不明で、元は女体権現社と称し、明治43年3月に近隣の八幡、三島、熊野、白山神社の4社を併合して神明神社に改称し、馬絹村の村社となりました。昭和61年に総檜造り本殿を新築、社名を神明神社から馬絹神社へと改称されています。

神社本殿と境内の様子です。
前回取り上げた「馬絹古墳」は、この馬絹神社の東側に隣接しています。
この神社の敷地内には、富士塚が一基、存在します。
これまで多くの富士塚を見学してきた中で、元々存在した古墳に新たに土を盛って築造した富士塚が数多く存在することを知り、馬絹古墳に隣接して、同じ台地の縁辺部に所在するこの富士塚がずっと気になっていました。(実は、最初に馬絹古墳を訪れたときにはこの富士塚を見落としてしまって、6年ぶりにこの場所を訪れました。)

あまり目立ちませんが、本殿東側の石段の前に「参明藤開山 富士浅間大神」と刻まれた石柱がたてられています。この石段を登った台地上に富士塚が所在します。

富士塚に向かう参道の入り口に祀られている祠は、源頼朝が馬の袖衣を掛けたといわれる「御神木千年松の祠」です。この御神木は残念ながら昭和16年に枯死してしまったそうですが、枯れた根の一部が祀られています。
馬絹の地名は、この頼朝公伝説により呼ばれるようになったともいわれているそうです。

石段を登ると、やがて富士塚が見えてきます。
塚の裾部には富士講碑、二十三夜塔、地神塔などが建てられています。

ようやく頂上まで来ました。
塚には石段が造られています。

この日はまず馬絹古墳を見学して、坂道を降りて鳥居をくぐり、神社を参拝してから石段を上がって富士塚までたどり着いたわけですが、実は馬絹古墳のすぐ隣に富士塚が並んで存在するという衝撃の事実が(笑)。
富士塚の石段で振り返ると、先ほどまで眺めていた馬絹古墳をもう一度見る、という状況になりました。
落ち葉が夕陽に染まってとても綺麗です。
塚上の様子です。
見学してみてあらためて感じたのですが、台地の縁辺部に馬絹古墳と並んで存在するこの富士塚が、元々は古墳であるという可能性はないのでしょうか。もしこれが古墳だとすると、多少の削平は受けているものの、塚上は綺麗な円形が保たれているようです。
訪れたのが12月の終わりごろということもあり、地面にはかなりの落ち葉が積もっていたのですが、なんとなく直感的に、そこが地面じゃなくて石室の天井石の上にいるのでは?という気がして、この落ち葉を払ってみて、つま先で軽く地面をトントンと叩いてみました。すると、中央のあたりでは、まるで下に空洞があるかのような振動があるのですが、同じことを隅の方で試してみると、地面の下は詰まっているように振動がない。
ひょっとしたら、この塚の内部には未盗掘の古墳の横穴式石室が残されており、つまり本当に空間があるのではないか?という妄想が広がってしまいます。
神様が祀られている場所ですので、発掘調査はなかなか難しいかもしれませんが、とても気になる富士塚でした。
<参考文献>
馬絹神社奉賛会『馬絹神社のしおり』
宮前区歴史文化調査委員会『宮前区歴史ガイドまち歩き』
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- 2019/05/19(日) 23:39:20|
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「馬絹古墳」は、川崎市宮前区馬絹に所在する古墳です。田園都市線梶ケ谷駅の南方約1.2kmほどの、矢上川に沿った沖積地を望む台地の南縁辺部に位置しています。昭和46年(1971)には神奈川県の史跡として指定されており、現在は「馬絹古墳公園」として整備、保存されています。
画像は、この馬絹古墳公園を北東から見たところです。中央に見える小山が馬絹古墳です。

公園側から見た、馬絹古墳です。
この古墳は、昭和46年(1971)に、宅地造成工事に先行した最初の発掘調査が行われており、直径約33m、高さは北側で約3m、南側で4.5mを測る円墳であることがわかっています。墳丘の周囲には、幅約3.5m前後、深さ1.5m前後の周溝がめぐらされており、南東側の台地斜面部で途切れています。
墳丘の表面には、河原石で葺石が敷かれており、主体部は3室からなる複室構造の、全長9.6mにも及ぶ長大な横穴式石室が確認されています。

公園内の様子。
多くの説明板が設置されており、馬絹古墳についての詳細を知ることができます。

石室は現在は埋め戻されており、内部を見学することはできませんが、公園内に設置された説明板で、発掘当時の石室内の様子を見ることができます。残念ながら、石室内は盗掘が行われており、副葬品は何も残されていなかったようですが、木棺に打ち込んだと考えられる79本の鉄釘が発見されています。

北側の道路上から見た馬絹古墳です。
横穴式石室は、泥岩の切石を組み合わせて造られているわけですが、この切石の接合面には約1cm幅で白色粘土が塗り込まれているそうです。古墳時代後期から終末期にかけての古墳の横穴式石室には、漆喰が塗抹されている事例が多いそうですが、この馬絹古墳は、なんらかの事情で漆喰の材料となる石灰岩や貝殻の入手が困難で、やむなく白色粘土で塗抹したと考えられています。また、玄室左側壁には円文、鏡石に図柄不明の文様が描かれているそうですが、生で見学できないのが残念ですね。

北西から見た馬絹古墳です。
この古墳の発掘調査が行われたときにはすでに盗掘にあっており、古墳の築造時期を特定する異物は残されていなかったようです。ただし、この古墳の主体部は唐尺で設計されており、最奥部の玄室は奥行、幅、高さともに約3mで統一されているそうです。(唐尺の1尺が29.6cmであることから)10尺で完尺となる点は、古墳の築造時期を推測する拠り所となっており、また切組積で石室を構築していることから考えて、7世紀後半に造られたと推定されているようです。
いったいどんな人物がこの古墳の被葬者であるのか、とても興味深いですね。。。
<参考文献>
村田文夫『古代の南武蔵』
村田文夫『川崎・たちばなの古代史』
現地説明版
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- 2019/05/15(水) 23:42:06|
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最初にこの七輿山古墳を訪れたのは7~8年ほど前の真夏で、汗みどろでバテバテになりながら散策しました。
その際に、この七輿山古墳と白石稲荷塚古墳が桜の名所であることを知り、以来ずっと、3月下旬から4月初旬の桜の咲くあたりに訪れたい!と機会をうかがっていました。笑。
今年ついに念願叶い、7~8年越しで、満開の桜が咲き乱れる壮大な七輿山古墳の姿を見ることができました!
画像は、群馬県藤岡市上落合に所在する「七輿山古墳」を南東から見たところです。
前日までは八分咲きという状況だったらしいのですが、ちょうど私が訪れた4月6日の土曜日に満開となったそうです。(バッチリ読み通りだったけど、でも運が良かったー。)

画像は南から、つまり真横から見た七輿山古墳です。
墳丘が大きすぎて真横からでは全体像を捉えることができないのですが、左側が前方部、右側が後円部です。それにしても、巨大な墳丘一面を覆う桜のなんと美しいことか。。。
この古墳は、昨年の2月下旬~3月下旬にかけて、最先端のデジタル三次元測量や地中レーダー探査(GPR)を活用した調査が、非破壊で行われています。実は私、ひょんなことから1年ほど前にもこの七輿山を訪れたのですが、ちょうど測量調査を行っている真っ最中で、墳丘上にはテープが張り巡らされて、学生さん達が忙しなく動き回っていました。
この調査により、墳丘の構造は三段築成で、地面の下には墳丘を覆っていたとみられる葺石が残っていることが分かり、規模は従来考えられていたより5m大きい全長約150m超だったことも判明。全長も幅も広がったようです。
また、横穴式石室は、後円部南側の入り口から中心部に向かっており、レーダーが深さ6メートル以上は届かないことから正確な大きさは判明しないものの、少なくとも入り口から長さ十メートルの石室の一部を確認。仮に石室が中心部まであった場合、かなり大規模な石室である可能性もあるそうです。

画像は、南西から見た七輿山古墳です。
七輿山古墳の築造年代は、その形状から推定6世紀の第2四半期(525~550)と絞り込まれており、この古墳が天皇に近い人物の墓に匹敵することから、被葬者はヤマト王権の直轄地である緑野屯倉を治める使命を帯びた有力者、または大きな力を持った豪族、上毛野氏の誰かだったのではないかと推測されているようです。

この古墳の後円部の先端は一部削られていて、おびただしい数の首の無いお地蔵さまが立てられています。
私、初めて訪れたのは夕暮れ時で、しかも周囲に見学者がまったくなく独りだったこともあって、この光景には凍りつきました。。。
これは、明治時代の廃仏毀釈に関連するものといわれているようです。
廃仏毀釈は、神道と仏教を分離させて神道を国教とすることを目指す明治政府の方針ににより、「神仏分離令」が発せられます。これにより、全国各地で必要以上の、寺院の施設、仏像、仏具の破壊、焼却が行われたようです。
この七輿山古墳の首無し地蔵は、一説には、江戸時代の寺と農民の紛争が背景にあるのではないかともいわれているようですが、切断された石像の首は、古墳の堀の中に投げ捨てられていたそうです。
七輿山古墳には複数の説明板が設置されているのですが、この首無し地蔵に関する詳しい解説も付け加えて欲しいなと思いました。。。

後円部の墳頂にも首の切られた釈迦三尊像が。
ああ、恐ろしや。。。

釈迦三尊像の周辺に大きな石が露出しているのですが、埋葬施設が隠されているのでしょうか。。。
後円部から前方部を見たところです。
多少崩れてはいるものの、築造当時の形状をはっきりと見て取ることができます。
説明板は、古墳の東側と北側の2箇所に設置されているようです。
後円部東側の説明板には次のように書かれています。
国指定史跡
七 輿 山 古 墳
所在地 藤岡市上落合831-1ほか
所有者 国ほか
この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。大
きさは全長146m、後円部径87m、前方部幅106m、前方部と後円部の
高さは16mです。
四回にわたる範囲確認調査で墳丘の周りに内堀・中堤帯・外堀・外堤帯・埴
輪列が明らかになりました。また、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡
っています。出土遺物は円筒埴輪、朝顔型埴輪のほかに人物•馬•盾などの形象
埴輪があります。特に、円筒埴輪は七条凸帯を有し、径50cm、高さ1.1mの
大型品です。古墳の埋葬施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られ
たものと考えられます。
藤岡市教育委員会

前方部から後円部を見たところ。
古墳北側の説明板には次のように書かれています。
国 指 定 史 跡 七 輿 山 古 墳
所在地 藤岡市上落合831-1ほか
所有者 国・藤岡市
指定日 昭和2年6月14日
追加指定 平成8年9月26日
古墳は、鏑川と鮎川に形成された舌状の河岸段丘に造られた三段築成の前方
後円墳である。大きさは全長145m、後円部径87m、前方部幅106m、前方部と
後円部の高さは16mを計る。
4回にわたる確認調査の結果、中堤帯や外堤帯と呼ばれる土手状の堤を境に
内側と外側に周溝が巡り、三重目の溝、葺石、埴輪列が確認された。なお、
埴輪列は中堤の平坦面に2列、三重目の溝は前方部前面からコの字状に検出さ
れている。出土遺物は円筒埴輪•朝顔形埴輪•人物•馬•盾などがある。特に円筒
埴輪は径40cm、高さ1mを越す7条突帯の大型品で、貼付口縁と低位置突帯の
特徴がある。
古墳の埋葬施設は不明であるが、出土遺物から築造時期は6世紀前半に推定
され、6世紀代の古墳としては東日本最大の前方後円墳である。
藤岡市教育委員会

前方部の先端には、石組みがあります。
この日は、どこかのタレントさんが桜を背景に撮影を行っていました。
実は、3枚目の画像の真ん中あたりで光っているのは、スタッフが抱えたレフ板なのです。
良い映像が撮れているといいですね。。。

左が前方部、右奥が後円部です。
くびれ部の形状がよくわかりますね。

段丘がはっきりと残っています。
桜を見学に来た人たちのよき通路となっていました。笑。
<参考文献>
『TOKYO Web』
『朝日新聞DEGITAL』
『現地説明板』
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- 2019/05/08(水) 22:50:36|
- 群馬県の古墳・塚
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